【赤ペン!赤坂英一】「長嶋さんは俺にとって憧れ以上の存在だった。あの方がいなかったら、今の俺はないだろうな」
DeNA・田代富雄野手コーチ(70)はそう言いながら、横浜スタジアムのスコアボード上に掲げられた半旗を見上げた。
「俺、子供の頃は巨人ファンでさ。横浜じゃなくてジャイアンツの帽子をかぶってたんだよ」
現役時代の田代コーチがDeNAの前身・大洋に入団して3年目、二軍で首位打者と打点王となった1975年オフのこと。同年、巨人監督1年目で最下位に沈んだ長嶋さんは、若手有望株の田代をトレードで獲得しようと動いた。
「その話なら、俺自身もチラッと聞いた。巨人には長嶋さんが引退された後、サードのレギュラーがいなかったからね」
長嶋さんからの要望を受け、当時の秋山登監督はいったん田代の放出に傾いた。が、クリート・ボイヤーヘッドコーチが「田代は将来クリーンアップを打てる選手だ」と主張して猛反対。田代は翌76年から一軍に昇格し、現実に主砲となった。
「あのトレード話が実現しなくて、長嶋さんは高田繁さんを外野からサードにコンバートしたんだよ。俺が巨人に行ってたらどうなってたのかな」
77年の球宴で、長嶋さんは全セの監督推薦で田代を選出する。理由は長嶋さんいわく「田代は顔が面白いから」。実際、球宴第1戦で田代が長嶋監督に推薦のお礼を言いに行くと、長嶋さんは「おお、その顔、面白いねえ」と笑っていたそうだ。
そんな田代と長嶋さんの距離が再び縮まったのは81年だった。当時大洋は長嶋さんに監督就任を要請しており、受諾までのつなぎ役として、長嶋さんと親しい関根潤三氏を監督に招聘した。
関根監督は就任直後の81年秋、長嶋監督の意を受けてか「地獄の伊東キャンプ」を実施する。長嶋監督が中畑、江川ら若手の精鋭を鍛えた伝説のキャンプを、関根監督は同じ場所で再現したのだ。ここで田代もまた「地獄の伊東」を経験した。
しかし、長嶋さんの大洋入りは結局実現せず。それから時は流れて35年後の2016年、田代コーチは二軍打撃担当として巨人に入団する。
「2年だけだったけど、子供の頃にかぶった巨人の帽子を、またかぶったんだ。今度は本物をね」
巨人の終身名誉監督となり、リハビリに励んでいた長嶋さんに、田代コーチは改めてあいさつした。
「その時も、昔も、緊張して直立不動。俺、長嶋さんとは一度もまともにしゃべれなかったな」













