現代文です!! われわれはなぜ、子どもに対して、純粋とか無垢とかいったイメージを思い浮かべる のだろうか。現実の子どもたちは、学校や塾での友達関係や家庭環境の中で、大人と同 じように悩み、そしてっ狡猾に立ち回ったり、ときには思わぬ世知を「ハッキしたりも する。自分の子ども時代をふりかえっても、ただ無垢な存在であったとは。トウテイ思 えない。多くの人がそう感じているはずなのに、われわれが子どもを見るとき、心のど こかで子どもは純粋無垢であるという観念が働いてしまい、それはなかなか拭いきれな い。子どもを大人とは違った特別な存在と見るこのような観念はいったい何に由来する のだろうか。 〈大人〉は一人前の社会人としてさまざまな権利や義務をもつが、〈子ども〉はそうで はない。〈子ども〉は未熟であり、大人によって社会の荒波から庇護され、発達に応じて それにふさわしい教育を受けるべきである。そうした子ども観は、われわれにとっては ほとんど自明のものである。しかし、『われわれの子ども観がどこでも通用するわけで はない。社会が異なれば、さまざまに異なった子ども観があり、それによって子どもた ち自身の経験も異なってくる。 (1)、ナバホ・インディアンは子どもを自立したものと考え、部族の行事のすべてに子どもたちを参加させる。子どもは、庇護されるべきものとも、重要な責任能力が たいものとも「看做されない。子どもの言葉は大人の意見と同様に尊重され、交渉ごと で大人が子どもの代弁をすることもない。子どもが歩きだすようになっても、親が危険 なものを先回りして取り除くようなことはせず、子ども自身が失敗から学ぶことを期待 する。こうした子どもへの信頼は、われわれの目には過度の放任とも見えるが、自分と 他者の自立を尊重するナバホの文化を教えるのにもっとも有効な方法であるという。 (2)、東ヨーロッパの伝統的なユダヤ人コミュニティーでは、知識が豊かである ことは道徳的に正しいことであると考えられており、男児の(男児に限られていたが) 教育にたいへん関心が払われた。赤ん坊のちょっとしたしぐさも、知的早熟の兆しでは ないかと見られたし、五歳ごろにはもう正式の教育が始められた。幼児であっても、ほ かの年齢の子どもに混じって週に五日間、午前八時から午後六時までの勉強が課せられ、 終生続けられるべき学問のための訓練が施された。 今日のわれわれの子ども観、( 3 ) 〈子ども〉期をある年齢幅で区切り、特別な愛 情の対象として子どもをとらえる見方は、フランスの歴史家、フィリップ・アリエスに よれば、主として近代の西欧社会で形成されたものであるという。アリエスは、ヨーロッ パでも中世においては子どもは大人と比べて身体は小さく能力は劣るものの、言わば「小 さな大人」と看做され、故に大人と違いがあるとは考えられていなかったという。子ど もは、子ども扱いされることなく奉公や見習い修業に出、日常のあらゆる場で大人に混 じって大人と同じように働き、遊び、暮らしていた。子どもがしだいに無知で無垢な存在と看做されて大人と明確に区別され、学校や家庭に隔離されるようになっていったの は、十七世紀から十八世紀のことである。アリエスはこのプロセスを、『〈子供〉の誕生 ―アンシャン・レジーム期の子供と家庭生活』のなかで、子どもを描いた絵画や子ども の服装、遊び、教会での祈りの言葉や学校のありさまなどをタンネンに記述すること によって浮き彫りにしている。アリエスらによる近年の社会史の研究は、われわれにな じみの深い子ども観も、そして、人が幼児期を過ぎ、自分で自分を世話ができるようになっ てからもすぐに大人にならずに〈子ども〉期を過ごすというライフコースのあり方自体も、 歴史的・社会的な産物であることを明らかにした。 長くて大変申し訳ございません。 子供を大人とは違った特別な存在と見るこのような観念 について、筆者はこれをどのようなものだと結論づけているか。40字以内で説明せよ。という問題で答えが「自明のものでなく、近代の西欧社会で形成された、歴史的・社会的な産物と考えている。」だったんですけど、そう考えたのはアリエス出会って筆者が考えているわけではなくないですか?