60歳からの自分いじり

恥の多い生涯を送って来ましたが、何か?

(講義関連)アメリカ(46)日本天然色映画の伊庭長之助

(ポピュラー・カルチャー論講義補遺)「アメリカ」を考える(46)日本天然色映画の伊庭長之助

 

 

 杉山登志(1936年生まれ、1973年没。享年37歳)。日本のテレビCMの黎明期に現れ、国内外の広告賞を総なめにして、自死をとげたCMディレクター。「伝説のCM作家」「30秒に燃え尽きた生涯」という惹句は掛け値なしのものだと言えます。

 が、今回とりあげたいのは、杉山が所属していた日本天然色映画(略称、ニッテン)というCM制作プロダクションの創業者、伊庭長之助についてです。以下、書影を上げた書籍(2012年刊)に従い、話を進めます。1941年に慶応大学を卒業した伊庭は、在学中はハワイアンバンドを組んだりしていましたが、中国に渡り就職し、現地召集に応じたりもしました。

 

98-9p「焦土と化した内地に復員した伊庭は、すぐさま慣れ親しんだハワイアンバンドを結成し、銀座伊東屋の階上にあったダンスホールのメリーゴールドやエーワン、シルクローズで演奏しながら、進駐軍に占領されて変わり果てた祖国での第二の人生の行く末を、その直感を働かせながらじっくりと眺めていた。それもこれも、伊庭が慶応大学時代に親しんだ軽音楽が、彼の新たな進路を産み出したといえる。ちなみに、日本のハワイアン界の第一人者と呼ばれる大橋節夫(スター・ダスターズ・ハワイアン)や宮崎英夫(コニー・アイランダース)もまた伊庭の大学の先輩に当たる」

 

 バンドマンから足を洗った伊庭は、次に天津時代に身につけた英語力を用いて、進駐軍関連の仕事に就くようになります。まずはCPO(Central Purchase Officeの略)にてPXに卸す商品の買い付けなどを担当します。

 

101p「CPOの廃止は一九五四(昭和二九)年二月で、その業務はJCE(Japan Central Exchange在日米軍中央交易局)が受け継いでいる、同五二(昭和二七)年四月に進駐軍による占領が終わり、業務が残留米軍に順次移管されたためである。ちなみに、伊庭長之助が家庭を持つのは同四九(昭和二四)年、彼が三三歳の時である。廃止当時の日本人スタッフは全員で一三名。その内の伊庭だけが大船PACEX(倉庫地区)に、在米軍バイヤーのアシスタントとして引き抜かれる。伊庭の新天地である米軍倉庫地区は大船と名づけられてはいるが、戦中の日本海軍燃料廠跡地で現在の横浜市栄区の厳密には大船の隣り町にあった。敗戦後に一部が払い下げられ住宅や工場となったが、同五二(昭和二七)年の進駐軍撤退と同時に在日米軍が物資倉庫として使用し始めた地である」

 

 こうした米軍関連の仕事から、広告業への転身の経緯は以下の通り。

 

103p「大船PACEX時代に知り合った知人が、横浜の映画館にスライド広告を上映する仕事をしていた。伊庭はその知人に、同じ仕事を東京の映画館でやるように勧められる。伊庭は先にふれたように、新聞や雑誌だけでなく映像のみの広告がこの世に存在していることを身を以て体験していた。その映像表現には、彼の大好きな音楽も使用できる。活字中心の広告には興味が湧かなかったが、音と映像なれば別である。聞けば競争相手もまだ少なく、時代の最先端を往く職業になるかもしれない。それに、CPO時代に知り合った多くのアメリカ人たちは、映画に対して特別の感情を抱いていて頻繁に映画館(ムービーシアター)に通っていた。彼らにとって映画は、一種の文化であり映画鑑賞は生活の一部でもあった。(略)一九五七(昭和三二)年一月二六日、伊庭は、京浜映画館でスライド広告をかけていた会社の出身者とカメラマンとの三人で、現在のJR新橋駅の西口の港区芝田村町(現在の港区西新橋二丁目付近か)に映画館専用のPRフィルム会社を創業した。正式な会社登記は翌年に当たるので、この時点ではまだ試運転の状態であったが、社名は日本天然色映画と決めていた。ちょうど杉山登志が、日芸に入学しアルバイトに精を出している頃である」

 

 戦前からハワイアンバンドをやっていた伊庭に対して、1936年生まれの杉山にとってのアメリカは以下の通りです。杉山の父は戦後立川で建設関係の会社に勤めていましたが、戦時中は陸軍経理部に所属し、戦後処理業務にも関わっていたため、陸軍所有の土地建物の接収にあたった進駐軍の将校が、父のもとに情報を得るためたずねてきた件です。文中にある弟の傳命は、のちにカメラマンとなります。

 

32-3p「この時、進駐軍の将校は土産にと、ベビールース(キャンディバー)とバターフィンガー(チョコレートでコーティングされたスナックバー)を大量に持参したという。傳命は今でもこの味が忘れられないと、子供の頃の顔に戻って当時を懐かしむ。この味こそ、登志を含めて、杉山家がはじめて出会うアメリカであった。それは富める国アメリカを象徴した味であった。また同市史には、〈立川市内では、米兵が、米軍の衣料、毛布、食料品を持ち歩き、一般家庭にあらわれ、日本貨幣との交換を行ったのもこの頃であった。食料品や衣料品は、すべて配給制度によって行われた。町会を通じて、食料品、トウモロコシ粉、衣料品(キップ制)、靴、なべ、かま、フライパンにいたるまで配給されており、戦災者には、優先的に配給される制度であった〉との記述を発見することができる」

 

 杉山登志中島哲也ら数々の人材を輩出した日本天然色映画も、今はもう存在しませんが、戦後アメリカCM(総天然色!)を追いかける急先鋒だったことはたしかです。

 

 

書評原稿を載せていただいてますが、見逃した文献や勘違い等あり、なかなか恥ずかしい拙稿ですが。

 

今日はZoom会議やら面談やら取材対応やら。