コートジボワールの独立半世紀は、この人抜きには語れない。初代大統領ウフエボワニ。1960年8月7日に高らかに独立宣言を行った後、33年間の長きにわたり、コートジボワールを率いることになる。ところで意外なことに、彼は、アフリカ諸国が次々に独立した1960年当時、実は独立反対論者であった。
フェリックス・ウフエボワニ(Félix Houphouët-Boigny)は、コートジボワールで最大部族であるバウレ族の出身で、1905年生(1900年頃生という異説もある)。カカオ生産農家として、コートジボワール人農場経営者の組合を設立(1944年)、コートジボワール人農場経営者2万人のうち、1万2千人を率いる指導者となっていた。
宗主国のフランスは、第二次大戦直後の1945年に、植民地の地位を「海外領土」に改め、そこからも国民議会議員を選出することにした。コートジボワール選挙区からは、2人の議員が選ばれ、そのうちの一人がウフエボワニであった。ウフエボワニは、フランスの国民議会で、現地のアフリカ人の権利保護のために活躍をした。また、フランス政府は、植民地を「海外領土」に編入したことで、アフリカ人にも本土フランス人と同じ国籍を与えることになった。こうして、旧仏領アフリカの全域において、アフリカ人の地位が大きく向上していった。
一方で1946年4月、ウフエボワニは、「コートジボワール民主党(PDCI)」を立ち上げた。しかし、彼の目標は、コートジボワールの独立では決してなかった。ウフエボワニは、仏領アフリカが、フランスの引いた線引きの行政区分ごとに、ばらばらとなってしまうのではなく、仏領アフリカ全体で政治的な一体性を追求していくべきだと考えていた
だから、「コートジボワール民主党」結成とほぼ同時に、同年10月、同じく仏領アフリカ各地域に出来た他の諸政党と連合し、「アフリカ民主連合(RDA)」を結成した。彼は、「コートジボワール民主党」をその一部組織と位置付けた。今でも、「コートジボワール民主党」の正式名称は、「PDCI-RDA」となっている。この「アフリカ民主連合」の目標は、「対等な義務と権利のもとでの、フランス本土との一体性」であった。決してフランスからの自治獲得ではなく、ましてや分離や独立ではなかった。
それでも、ウフエボワニの「民主党」は、仏領アフリカにおける現地アフリカ人の権利獲得・擁護のために、激しく闘った。フランス共産党と連合し、アフリカに対する「資本主義的な搾取」というような、共産主義的なイデオロギーを唱えた。そして「民主党」の活動家たちは、フランスの植民地行政当局に対して、デモや衝突を繰り返し、これと激しい対立関係を募らせていった。ウフエボワニは反仏の闘士である、と誰もが思っていた。
ところが、1950年に、この反仏の闘士は、とつぜん宗旨替えをする。まず、共産党と縁を切り、次いで当時のルネ・プレバン首相との接近を図ったのである。1951年2月、アビジャンの港を開く、ブリディ運河の開通式が華々しく行われた。政府側によって企画された開通式に、フランスに楯突くウフエボワニが招かれるわけはないと、誰もが思っていた。
いやいや、ウフエボワニはちゃんと招かれた。それも、パリから当時のプレバン内閣の海外領土大臣と、手に手を携えて登場したのである。その海外領土大臣とはフランソワ・ミッテラン、後のフランス大統領である。それからというもの、ウフエボワニは、アフリカにおけるフランス政府の最も有力な支援者となった。そして、1957年には保健相に任命され、次いでド・ゴールのクーデタにより第5共和制に移った後も、国務大臣として閣僚ポストを続けた。
その時期、つまり運命の1960年に近付くにつれ、アフリカ各地で独立運動が強まっていた。それに対して、当時のウフエボワニはこう語った。
「これだけははっきり言っておこう。フランスなくしては、われわれには一切の未来がない、ということを。」
そして、すぐ東隣の英領植民地ガーナが、1957年に独立を達成した時、独立運動の闘士クワメ・ンクルマに対しては、こう述べている。
「隣同士で大きな賭けをするというわけだ。君は独立を、私は宗主国の協力のもとで建設を、それぞれに追求していく。お互いにお互いの経験は尊重していこう。そして、10年後にどちらが良策だったか、比べることにしよう。」
だから、1960年になって、旧仏領アフリカが独立に向かっていったとき、ウフエボワニはあくまでも独立に反対だった。フランスの保護と支援の下でこそ、コートジボワールのみならず仏領アフリカの発展が、可能であると考えていたのである。しかし時代の潮流は、ギニアの独立以来、もはや止めることはできなかった。旧仏領アフリカ全体でフランスとの特別な関係を維持するというウフエボワニの考え方は、各地の独立により押し流された。
ド・ゴール大統領は、渋るウフエボワニを説得した。コートジボワールの独立は不可避だ。そうであれば君がちゃんと大統領となって、独立コートジボワールを率いてくれ。
コートジボワール独立のこうした経緯は、その後この国が辿って行く道筋の、かなりの部分を説明するものであると、私は考えている。
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