goo blog サービス終了のお知らせ 

コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

旧仏領アフリカの年

2010-08-05 | Weblog

1960年は、「アフリカの年」と呼ばれた。この年に、16ヶ国が独立を果たしたからである。現在、アフリカ諸国(北アフリカを含む)は54ヶ国を数えるうちの16ヶ国というわけだから、約3割の国が1960年に独立を果たしたということになる。

それで、その16ヶ国を、ここに並べてみる。
セネガル、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ(当時:オートボルタ)、ニジェール、ベナン(当時:ダホメー)、トーゴ、ナイジェリア、カメルーン、コンゴ(共)、ガボン、チャド、中央アフリカ、コンゴ(民)、ソマリア、マダガスカル。

こう並べると、もうお気づきであろう。ナイジェリアとソマリアとコンゴ(民)を除いて、すべてが旧フランス領植民地である。つまり、1960年というのは、「アフリカの年」というより、より正確には「旧仏領アフリカの年」だったということだろう。では、何故この年に、これだけの国が、フランスから独立することになったのか。その背景には、フランス側の事情がある。

フランスは、第二次大戦でかなり疲弊した。その国内の荒廃からの復興も間なく、海外領土の経営に苦しむことになる。最も頭が痛かったのは、アルジェリアである。地中海を挟んで対岸の北アフリカにあるアルジェリアは、フランスにとって植民地の中でも特別の重要性があった。数万人に及ぶフランス人植民が、もう何世代にもわたって住み、地中海沿いの肥沃な大地で生産される農作物は、本国の経済を潤していた。

そのアルジェリアで、激しい独立運動が起こった。1954年に始まるアルジェリア戦争は、フランス本土を消耗させ、政治に混迷をもたらしていった。そして、1958年、アルジェリア独立に徹底的に反対する勢力が、軍事蜂起を行った。こうしたアルジェリア独立反対派に推されて政権を取ったド・ゴールは、政権に就くや、ただちに大統領に強権を与える新憲法を国民投票で採択し、第五共和制を宣言した。

そのド・ゴール大統領は、アルジェリア独立運動を徹底弾圧したかと思いきや、何と独立を後押ししたのである。ド・ゴールを担ぎ出した、アルジェリアのフランス人植民などの独立反対派は、この裏切りに激しく憤激した。でも、ド・ゴール大統領は怖じることなく、アルジェリアの独立の是非を国民投票にかけ、75%の賛成を得る。その後、1962年のエビアン協定で、アルジェリアの独立が実現する。

このアルジェリアでの経験は、その他のアフリカ植民地に対するフランスの外交政策に、大きな影響を与えたに違いない。すでに、1954年にディエン・ビエン・フーで、フランス軍がベトナム人民共和国軍に手痛い敗北を喫して撤収したのを見て、アフリカ各地での独立運動が大いに勢いづいていた。ド・ゴールは、各地の独立運動を前に、このまま広大な仏領アフリカを維持しようとしても、ベトナムやアルジェリアの二の舞になると考えた。

ド・ゴールが選んだ選択肢は、アフリカに広範な自治を与える代わりに、フランスへの従属関係を維持させる、というものである。まず、それまで「仏領アフリカ」として一体だった植民地を、地方ごとの小さな領域に分割した。そして、それぞれの領域の住民に対して、内政には完全な自治を認める一方で、防衛・外交・通貨などの重要事項はフランスが掌握する、という制度を築こうとした。1958年に提案された第五共和制憲法への国民投票において、全ての植民地がこの提案を受け入れた。いや、全てではなかった。ギニアが反対したのだ。

ギニアでは、闘士セク・トゥーレが、この新制度への反対を展開した。
「われわれは、隷従の中の豊かさより、自由の中の貧困を選ぶ。」
セク・トゥーレはそう宣言し、ギニアの人々は国民投票で反対票を投じた。そしてそのまま、1958年にギニアの独立を宣言する。フランスは、ギニアから全ての援助を引き揚げ、フランスから派遣されていた行政官を撤収させて行政を麻痺させるという報復を行った。しかし、それでもギニア独立の影響は大きかった。独立への勢いを前にして、2年後の1960年には、フランスは、アフリカ全土にわたって、植民地の独立を積極的に容認していくという政策に転換した。

おそらく、アルジェリア戦争から得た教訓が、ド・ゴール大統領の頭に去来したことであろう。どうせ独立が不可避ならば、喧嘩別れで独立していくのではなく、友人として独立してもらいたい。そして、フランスとの紐帯をしっかり維持していくという、実のほうを取ろうではないか。おそらく、東西冷戦が熾烈になり始めていたことも、判断の背景にあったに違いない。独立運動を抑えつけようとすればするほど、抑圧者を共産主義に走らせるという結果を生む。

1960年に旧仏領アフリカの各地に起こった独立への動きに、もちろんコートジボワールも加わっていった。ただしこの国では、独立に至った力関係も、そして実現した独立国の運営構想においても、ギニアなどとはかなり異なった道筋をたどった。その道筋を引いたのが、独立の父、ウフエボワニ大統領だった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。