テレビに出ることになった。といって、そんなに構える話ではない。テレビには、私はかなり頻繁に出ているのである。要人を訪問したり、式典や各地訪問を行ったりしたら、テレビカメラが取材してくれる。マイクを向けられて、報道陣から何か一言、と言われるたびに、適宜思いついたことを話している。それが夜8時の報道番組などで放送されている。私は街で人々から声を掛けられる。テレビで私の顔を見知っているのだ。だから、テレビカメラには自信がある。そう思っていた。ところが、今回は、つくづくテレビというのは難しいと悟ったのである。
日本文学について語ってほしい、というのがお題である。大使というのは、日本についてならば、たいがい何について聞かれても、ある程度恥ずかしくないくらいに答えられなければならない。これが、いきなりマイクを突き付けられて、日本文学とはと聞かれるのなら、私はその場で適当な答えを返すことができるだろう。しかし、30分番組で日本文学について視聴者に説明してくれ、となると話が違う。大学で講義をするのと同じだ。十分準備をして、きちんとした内容を作っておかなければならない。
私は、文学は嫌いな方ではない。それでも、日本文学についてとなると、何をどう語れば良いのか見当がつかない。コートジボワールの一般の視聴者に、日本文学について分ってもらうとは、どうすればいい話なのだろう。番組製作者側からは、何か適当な日本の小説を推奨してほしい、とも言われた。といっても、浅田次郎は泣けますね、とか、池波正太郎の人情の機微がいい、などと話すわけにはいかない。フランス語に訳されていなければ、そんな推奨は視聴者に意味がない。村上春樹なら、たくさん訳本が出ていて、有名である。しかし運悪く、私はまだ読んだことがない。読まないものを推奨するわけにはいかない。
しかも、こうした内容を、恥ずかしくないフランス語で説明しなければならない。私は、2週間くらい日数をかけて、原稿を作った。やはり、日本文学には歴史があって、なかでも短歌や俳句の連綿とした伝統があることは、説明する必要がある。7世紀に「万葉集」を編み出し、それを国民全体の財産にしたこと。和歌で気持ちをやりとりする伝統があって、それは「万葉集」の頃から延々と今に至るまで続いていること。日本人ならば、学校で百人一首を勉強し、正月にはカルタ取りが恒例行事になっていること。江戸時代頃からは、俳句も生まれ、今では盛んになって、老若男女が句会を楽しんでいること。そうした話をしたらよかろう。
そうした伝統の文学だけでなく、近代小説にも豊かな世界があることも伝えなけれならないだろう。とくに、明治維新の変動を経て、激しい近代化と産業化の波を経験した日本である。社会の価値の転変が、人々の思考や問題意識を深め、鍛え上げてきた。鴎外、漱石、芥川、太宰、谷崎、三島、川端といった小説は、いまなお普遍性を失っていない。改めて振り返れば振り返るほど、日本文学について語ることは多い。これは30分では足りない。
だから、番組でだらだらと、和歌や俳句や、日本文学作品の紹介を並べるというのは駄目だ、と思った。何か、視聴者の人々に、ああそうか、日本文学とはこういう風に認識するべきなのだ、といった感想を持ってもらえるようにしなければならない。そこで、私は日ごろから考えている、日本文化論を展開することにした。
2つのことを説明しよう。それはまず、日本文化は「継続」だ、ということである。日本は、歴史において他民族に制圧・支配された経験を持たない。だから、歴代政権は前政権とその文化の抹殺を試みない。茶の湯、華道、能、歌舞伎など、文化は一度始まると連綿と続く。そして、それぞれの時代の文化が、後世に続く結果、今の時代にも、さまざまな時代の文化が重なり合いながら共存している。これは民族興亡が繰り返された欧州の文化には、あまり例の無い特徴である。
もう一つは、日本文化は「引き算」だ、ということである。私は欧州諸国を回って、いろいろな文化を見て、つくづく思う。西欧文明というのは「足し算」だ。人間の感性で感得したことを、舞台なり絵画なり建築なりに、これでもかと盛り込んでいく。壮大な大聖堂建築などに、そうした姿勢が伺える。そして、たくさんの要素が詰まっている作品ほど、名作といわれる。それに比べて、日本ではどうだろう。周辺の余計な要素を削っていって、最後にこれが本質だというものだけを残す。単純な筆法で、重いものを表現できれば、それだけ芸術の価値が高い、と日本人は考える。
だから、短歌や俳句といった、条件を極めて制約した中で、的確に何かを表現することに、芸術性を見出す。雑然煩瑣な日常事の間にかき消えてしまいがちな、ほんの少しの心の動きにこそ価値がある。それを取り出してみせることが、芸術家の手腕である。日本人は、大袈裟な悲喜劇性ではなく、侘びや寂びを良しとする民族なのだ。
そういうことを、日本文学を語る前提として、説明することにした。この抽象的な分析をうまく分ってもらうための、的確なフランス語を練りに練ったのである。そして、何か日本の小説をと言われた部分については、インターネットで調べて、フランス語に訳され出版されていることを確認しながら、漱石の「ぼっちゃん」と、芥川の「蜘蛛の糸」を取り上げることにした。作品の概要を、これも分りやすい文章で、フランス語にしておかなければ。国際問題とか政治関係ならば、すらすらと口に出ても、およそ小説の物語の叙述となると何と表現していいのか苦労する。ちゃんと準備しておかなければ。
そうして推敲を重ねた6頁あまりの原稿を手に、私は番組の収録に臨んだ。
(続く)
日本文学について語ってほしい、というのがお題である。大使というのは、日本についてならば、たいがい何について聞かれても、ある程度恥ずかしくないくらいに答えられなければならない。これが、いきなりマイクを突き付けられて、日本文学とはと聞かれるのなら、私はその場で適当な答えを返すことができるだろう。しかし、30分番組で日本文学について視聴者に説明してくれ、となると話が違う。大学で講義をするのと同じだ。十分準備をして、きちんとした内容を作っておかなければならない。
私は、文学は嫌いな方ではない。それでも、日本文学についてとなると、何をどう語れば良いのか見当がつかない。コートジボワールの一般の視聴者に、日本文学について分ってもらうとは、どうすればいい話なのだろう。番組製作者側からは、何か適当な日本の小説を推奨してほしい、とも言われた。といっても、浅田次郎は泣けますね、とか、池波正太郎の人情の機微がいい、などと話すわけにはいかない。フランス語に訳されていなければ、そんな推奨は視聴者に意味がない。村上春樹なら、たくさん訳本が出ていて、有名である。しかし運悪く、私はまだ読んだことがない。読まないものを推奨するわけにはいかない。
しかも、こうした内容を、恥ずかしくないフランス語で説明しなければならない。私は、2週間くらい日数をかけて、原稿を作った。やはり、日本文学には歴史があって、なかでも短歌や俳句の連綿とした伝統があることは、説明する必要がある。7世紀に「万葉集」を編み出し、それを国民全体の財産にしたこと。和歌で気持ちをやりとりする伝統があって、それは「万葉集」の頃から延々と今に至るまで続いていること。日本人ならば、学校で百人一首を勉強し、正月にはカルタ取りが恒例行事になっていること。江戸時代頃からは、俳句も生まれ、今では盛んになって、老若男女が句会を楽しんでいること。そうした話をしたらよかろう。
そうした伝統の文学だけでなく、近代小説にも豊かな世界があることも伝えなけれならないだろう。とくに、明治維新の変動を経て、激しい近代化と産業化の波を経験した日本である。社会の価値の転変が、人々の思考や問題意識を深め、鍛え上げてきた。鴎外、漱石、芥川、太宰、谷崎、三島、川端といった小説は、いまなお普遍性を失っていない。改めて振り返れば振り返るほど、日本文学について語ることは多い。これは30分では足りない。
だから、番組でだらだらと、和歌や俳句や、日本文学作品の紹介を並べるというのは駄目だ、と思った。何か、視聴者の人々に、ああそうか、日本文学とはこういう風に認識するべきなのだ、といった感想を持ってもらえるようにしなければならない。そこで、私は日ごろから考えている、日本文化論を展開することにした。
2つのことを説明しよう。それはまず、日本文化は「継続」だ、ということである。日本は、歴史において他民族に制圧・支配された経験を持たない。だから、歴代政権は前政権とその文化の抹殺を試みない。茶の湯、華道、能、歌舞伎など、文化は一度始まると連綿と続く。そして、それぞれの時代の文化が、後世に続く結果、今の時代にも、さまざまな時代の文化が重なり合いながら共存している。これは民族興亡が繰り返された欧州の文化には、あまり例の無い特徴である。
もう一つは、日本文化は「引き算」だ、ということである。私は欧州諸国を回って、いろいろな文化を見て、つくづく思う。西欧文明というのは「足し算」だ。人間の感性で感得したことを、舞台なり絵画なり建築なりに、これでもかと盛り込んでいく。壮大な大聖堂建築などに、そうした姿勢が伺える。そして、たくさんの要素が詰まっている作品ほど、名作といわれる。それに比べて、日本ではどうだろう。周辺の余計な要素を削っていって、最後にこれが本質だというものだけを残す。単純な筆法で、重いものを表現できれば、それだけ芸術の価値が高い、と日本人は考える。
だから、短歌や俳句といった、条件を極めて制約した中で、的確に何かを表現することに、芸術性を見出す。雑然煩瑣な日常事の間にかき消えてしまいがちな、ほんの少しの心の動きにこそ価値がある。それを取り出してみせることが、芸術家の手腕である。日本人は、大袈裟な悲喜劇性ではなく、侘びや寂びを良しとする民族なのだ。
そういうことを、日本文学を語る前提として、説明することにした。この抽象的な分析をうまく分ってもらうための、的確なフランス語を練りに練ったのである。そして、何か日本の小説をと言われた部分については、インターネットで調べて、フランス語に訳され出版されていることを確認しながら、漱石の「ぼっちゃん」と、芥川の「蜘蛛の糸」を取り上げることにした。作品の概要を、これも分りやすい文章で、フランス語にしておかなければ。国際問題とか政治関係ならば、すらすらと口に出ても、およそ小説の物語の叙述となると何と表現していいのか苦労する。ちゃんと準備しておかなければ。
そうして推敲を重ねた6頁あまりの原稿を手に、私は番組の収録に臨んだ。
(続く)
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