広島市の平和公園で午前8時から行われた平和記念式典には、被爆者や遺族の代表をはじめ、石破総理大臣のほか、過去最多となる120の国と地域の大使などを含むおよそ5万5000人が参列しました。
広島に原爆が投下されてから、6日で80年です。
被爆者が高齢化し、体験を直接聞くことが次第に難しくなる中、核兵器をめぐる国際情勢は厳しさを増しています。被爆地・広島では、犠牲者を追悼するとともに、被爆者たちが一貫して繰り返してきた核兵器廃絶の声を、改めて国内外に強く訴える1日が続いています。
平和記念式典に5万5000人が参列
【詳しく】広島で平和記念式典 参列者の思いは
式典では、広島で被爆し、この1年に亡くなった人や死亡が確認された人、あわせて4940人の名前が書き加えられた34万9246人の原爆死没者名簿が、原爆慰霊碑に納められました。
そして、原爆が投下された午前8時15分に、参列者全員が黙とうをささげました。
全国の被爆者の平均年齢はことし86歳を超え、初めて10万人を下回り、被爆体験を直接聞くことは次第に難しくなってきています。
こうした中でも、被爆者は6日も各地で証言を行ったほか、被爆者に代わって語り継ぐ「伝承者」が小学校で授業をしたり、被爆者の証言をもとに当時の惨状を絵に描いた高校生が作品に込めた思いを話したりするなど、それぞれのかたちで継承しようとする姿もみられました。
人類史上初めて核兵器の惨禍を経験した広島では、犠牲者を追悼するとともに、被爆者たちが一貫して繰り返してきた核兵器廃絶の声を、改めて国内外に強く訴える1日が続いています。
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《被爆者や遺族 祈りささげる》
広島に原爆が投下されて80年となる6日、広島市の平和公園には朝早くから被爆者や遺族が訪れ、祈りをささげていました。
被爆した90歳女性 “被爆当時の光景 言葉にできない”
姉2人と弟1人を亡くしたという広島市西区に住む90歳の被爆者の女性は「原爆のことはずっと考えたくありませんでしたが、もう、私も90歳でこれが最後だと思って供養塔に来ました。被爆当時の光景は言葉にできません。今、世界では戦争がたくさん起こっていますが、こうした現状はなんとかならないのか。そうした思いで祈りをささげました」と話していました。
入市被爆した94歳男性 “私のような思いする人 二度と出ないで”
原爆で両親と2人の姉、それに祖父母を亡くし、自身は入市被爆した94歳の男性は、広島市西区からひとりで原爆慰霊碑を訪れました。
男性は「学徒動員で広島市外にいて、翌日に市内に戻ると、川で亡くなっている人がたくさんいて、水を求めながら亡くなったんだと思いました。あの日のことを思い出すと、悲しくて悔しくて、子どもや孫にも話せない。私のような思いをする人が二度と出ないように、この地球から核兵器をなくしてほしい」と話していました。
両親と兄が被爆 75歳女性 “原爆に足引っ張られ 苦しんできた”
両親と兄が被爆したという京都府の75歳の女性は「兄は1歳半で被爆してすぐに亡くなりましたが、いまも生きていれば81歳で、ふつうに生きてほしかったとずっと思い続けています。自分は被爆2世で、原爆によって足を引っ張られ、苦しんで生活してきました。核兵器は絶対に使ってはいけないですし、解決は話し合いで行うべきだと思います」と話していました。
夫が被爆 79歳女性 “亡くなった夫の分まで生きる”
夫が被爆者で30年前に亡くなったという広島市中区の79歳の女性は「亡くなった夫の分まで生きようと思ってきて、きょうも手を合わせました。原爆の影響は先々まで尾を引いて亡くなる方もいます。夫がその後も生きていれば、一緒に旅行に行けたり食事ができたりしたと思います。世界の核兵器がなくなるよう祈るしかないです」と話していました。
親族が被爆 46歳男性 “積極的に平和への活動を”
原爆で祖母や親族が被爆したという広島市中区の司法書士の46歳の男性は「8月6日には休みが取れる限り毎年来るようにしている。核抑止力を訴える政治家が出てきていることに憂いを感じている。平和教育を受けてきたわれわれ世代が積極的に平和への活動をしていきたい」と話していました。
両親が被爆 69歳女性 “核兵器は使わないことが一番”
原爆で祖父を亡くし、両親が被爆した広島市の69歳の女性は「広島はずっと平和を訴えていますが、世界中で戦争が起きていて、訴えが伝わらないことが悲しいです。戦争は二度と起きてほしくない。核兵器は使わないことが一番だと思います」と話していました。
父親が被爆 61歳男性 “ウクライナとロシアの状況は残念”
亡くなった父親が被爆者だったという広島市南区の61歳の男性は「亡くなった方に静かに安らかに眠ってくださいという思いで手を合わせました。ウクライナとロシアの状況などを見ていると、生まれたばかりの子どもが亡くなったりしていて残念ですし、どこに怒りをぶつけていいのか分からないです」と話していました。
石破首相 被爆者団体と面会 原爆症の認定審査 迅速化の考え
石破総理大臣は、広島市で、被爆者団体の代表と面会し、被爆者の高齢化が進む現状を踏まえ、原爆症の認定審査の迅速化に取り組むとともに、原爆資料館の子ども向け展示を充実させるための支援を行う考えを示しました。
石破総理大臣は、平和記念式典に出席したあと、広島市内のホテルで、被爆者団体の代表7人と面会しました。
この中で、団体の代表は、核兵器禁止条約への早急な署名・批准や、原爆症の認定基準の緩和に加え、被爆者の高齢化を踏まえた介護支援の拡充などを要望しました。
これに対し石破総理大臣は「非核三原則をきちんと守る。どうすれば核の惨禍から国家・国民を守ることができるか、政府内だけで議論し、完結するのではなく、広く国民の理解を得られるよう努力したい」と述べました。
その上で、被爆者の高齢化が進む現状を踏まえ、原爆症の認定審査の迅速化や、被爆者との対話の機会を増やすことに取り組むとともに、原爆資料館の子ども向け展示を充実させるための支援を行う考えを示しました。
また、石破総理大臣は、被爆者が暮らす広島市の原爆養護ホーム「矢野おりづる園」を訪れおよそ30人の入所者を前にあいさつしました。
この中で、石破総理大臣は「原子爆弾の被害を二度と繰り返さないために原爆で被害を受けた方々や被爆2世に対して国として何ができるかを考えていかなければいけない」と述べました。
そして、入所者たちが子どもたちに被爆体験を伝える活動を行っていることを踏まえ「記憶が薄れていくことは、何としても止めていかなければならず、被爆の悲惨さを次の世代に伝えてもらうようお願いしたい」と要請しました。
《各地で追悼や慰霊》
「原爆孤児」として生きる女性 今も平和公園に近づけず
両親を亡くし「原爆孤児」として生きてきた被爆者は、両親を思い出すとつらいとして今も平和公園には近づくことができず、自宅で静かに祈りをささげました。
広島市東区の被爆者、山田寿美子さん(82)は2歳のときに爆心地から1キロに満たない場所にいた両親を亡くし、「原爆孤児」として生きてきました。
父親は平和公園のある場所の近くで亡くなったとみられ、山田さんは80年たった今も、両親を思い出すとつらいとして平和公園に近づくことができず、毎年、平和記念式典を自宅のテレビで見ています。
6日は原爆が投下された午前8時15分になると立ち上がって手を合わせ、涙を流しながら黙とうしました。
山田さんは「あの日、両親が家族のことを思いながら亡くなったと思うとすごくつらいです。生きている私たちがしなければいけないことは、核兵器をなくすことだと思います」と話していました。
また、イスラエルとイスラム組織ハマスの戦闘が続くパレスチナのガザ地区の深刻な食糧不足に触れて「食べるものがない孤児たちの写真をみたときに、自分の被爆の状況と重なって胸が痛みました。世界の人に被爆の実相やあの日の苦しみを伝えることが被爆者としての役割だと思っています」と話していました。
200人超の生徒が犠牲になった高校で慰霊式
200人を超える生徒が犠牲になった広島市の高校で慰霊式が開かれました。
式では、生き残った生徒で先月93歳で亡くなった被爆者の息子が、父から託された言葉を読み上げました。
いまの県立広島工業高校の前身、広島工業学校は80年前、爆心地から2キロの今の広島市中区にあり、原爆で生徒210人と教職員4人が犠牲になりました。
6日は広島市南区にある現在の学校で慰霊式が開かれ、遺族や在校生などおよそ150人が参加しました。
この中で、追悼のことばを述べた1人が、当時この学校の1年生で、先月15日に93歳で亡くなった西岡誠吾さんの息子の滋さん(66)です。
父親の誠吾さんは80年前、爆心地の近くで行われていた作業に体調不良で参加できなかったため多くの同級生が亡くなる中で生き残り、この10年ほどは毎年、学校での慰霊式に参加してきました。
ことしの慰霊式では追悼のことばを述べるはずでしたが、体調が悪化したため亡くなる前に息子の滋さんにことばを託したということです。
滋さんは父が最後に託したことばとして「『あの日』何が起こったかわからないまま苦しんで逝ったあなた方のことは忘れることができません。生き残った私はあなた方の犠牲を、使命感を持って後世に伝えて平和な世を築きます」と読み上げました。
式のあと滋さんは「この先、被爆者がいなくなることについては身につまされる思いがあり、忘れられることへの危機感を感じます。体の続く限り父の体験を伝えていって次の世代に残していきたいです」と話していました。
広島市の小学校で平和について考える授業
広島市東区の矢賀小学校では、毎年、「広島原爆の日」に平和学習を行っていて、6日は、児童が教室のテレビで平和記念式典の様子を見守り、原爆が投下された午前8時15分に黙とうをささげました。
このあと、高齢化する被爆者に代わって体験などを語り継ぐ「被爆体験伝承者」の中本実鈴さんが、11歳の時に被爆し5年前に亡くなった瀬越睦彦さんの体験を伝えました。
この中で、瀬越さんが朝食をとろうとしたところ原爆のせん光で周囲が真っ白になり、爆風で家が吹き飛ばされたことや、瀬越さんの弟に覆いかぶさった母親の背中に大きな傷が残り、瀬越さんも「黒い雨」を浴びたことを伝えました。
そして「世界で核兵器が使われる可能性が高まるなかで、被爆した広島の役割は大きい」と伝えると、児童は真剣な表情で聞き入っていました。
6年生の男子児童は「戦争がいい結果につながることはないので、絶対にしてはいけないと思う」と話していました。
また、小学6年生の女子児童は「『未来はあなたたちがつくる』と言われたことが印象に残った。私たちが平和について世界に発信していきたい」と話していました。
広島と長崎で相次いで被爆「二重被爆者」の女性は
同じ被爆地の長崎では広島と長崎で相次いで被爆した「二重被爆者」の88歳の女性が午前8時15分に黙とうをささげました。
長崎市の平島アヤノさん(88)は8歳のとき、家族で移り住んでいた広島で被爆し、さらに、原爆投下翌日の長崎に避難して入市被爆した「二重被爆者」の1人です。
6日、長崎市では、広島に原爆が投下された午前8時15分にあわせてサイレンが鳴らされ、平島さんは自宅で広島の方角に向かって手を合わせて黙とうをささげ、犠牲になった人たちを悼んでいました。
平島さんは広島の駅周辺で多くの遺体がリヤカーで運ばれる様子や、長崎の街なかで立ったまま黒焦げになっていた遺体など、当時目の当たりにした光景を今も忘れられないといいます。
平島さんは「ことしも、犠牲になった人たちに『成仏なさいますように、みんなに幸せをください、忘れていません』と祈りました。広島は私の最初の被爆地ですから、最後まで手を合わせないといけないと思っています」と話していました。
平島さんは8月9日の「長崎原爆の日」に平和祈念式典が開かれる平和公園を訪れる予定だということで「もしかしたら最後の機会になるのではないかなと思っています」と話していました。
東京都内で犠牲者を追悼する集い 強い危機感を示す声
東京都内でも犠牲者を追悼する集いが開かれ、被爆者からは緊迫化する国際情勢を念頭に核兵器の使用に対する強い危機感を示す声が聞かれました。
東京・目黒区の区の総合庁舎前にある公園には、被爆した広島市の旧庁舎の階段の石が、「平和の石」として置かれていて、区は、毎年、広島原爆の日に犠牲者を追悼する、平和を祈る集いを開いています。
ことしは区内に住む被爆者や区の職員などおよそ50人が集まり原爆が投下された午前8時15分にあわせて、黙とうをささげました。
このあと7歳の時に被爆し、原爆で父親も亡くした谷口正次さん(87)らが「平和の石」に花をたむけ、手を合わせました。
式典のあと谷口さんは、「『ピカー』と光って『ドーン』ときた瞬間に家が潰れて意識を失った。意識を失う直前に『これで死ぬ』と心の中で思ったのをはっきり覚えている。髪の毛は抜け、皮下出血があちらこちらに出て、激しいけん怠感などに苦しみ続けた」と振り返りました。
そのうえで谷口さんは、ロシアによるウクライナ侵攻やパレスチナのガザ地区をめぐる国際情勢を念頭に「核戦争の脅威が高まっていると感じている。ことし生まれる予定の私のひ孫が、20歳になった時、どうなっているのか非常に心配だ」と訴えていました。
埼玉 東松山 「原爆の図」展示の美術館で灯ろう流し
埼玉県東松山市にある「原爆の図 丸木美術館」は広島出身の画家・丸木位里と丸木俊の夫妻が原爆投下直後の広島の惨状などを30年あまりかけて描いた15部からなる連作「原爆の図」のうち、大半を常設展示しています。
この美術館では平和を祈る灯籠流しを1967年の開館以来、毎年行ってきましたが、新型コロナや猛暑の影響で、去年まで中止していて、6日、5年ぶりに行いました。
訪れた人たちは美術館の前で黙とうをささげたあと、近くの川に移動して火をともした灯籠を川に浮かべました。灯籠には「平和な日々が続きますように」などのメッセージや、青空やひまわりなどの絵がそれぞれ色鮮やかに描かれていて、訪れた人たちは明かりを見つめて平和への思いを新たにしていました。
小学4年生の女の子は「なめらかに流れてくれてよかった。平和な世界になってほしい」と話していました。
学芸員の岡村幸宣さんは「広島から遠く離れているが、80年経っても忘れないことが大切だ。一人ひとりが原爆のことを思い起こしてこれからの時代のために何をすべきか考えてほしい」と話していました。
埼玉 所沢で式典 平和への思いを新たに
埼玉県所沢市で犠牲者を追悼する式典が開かれ、参加した人たちは平和への思いを新たにしました。
所沢市役所の入り口前の広場には、平和への願いを込めて、広島に原爆が投下されたあとも残っていた、広島市の旧庁舎前の敷石が設置されています。
戦後80年となることし、所沢市はこの敷石の前で犠牲者を追悼する式典を初めて開きました。
式典には、市の職員や市民らおよそ150人が参加し、はじめに平和へのメッセージが読み上げられたあと、原爆が投下された午前8時15分、全員で黙とうをささげました。
広島に住んだ経験もあるという所沢市の89歳の男性は「平和への思いをつないでいくのは大事だと思って、式典に参加しました。戦争はいけないと思います」と話していました。
所沢市の林誠 副市長は「敷石や、きょうの式典が平和に思いをはせるきっかけの1つになればいいと思います」と話していました。
千葉 被爆者の証言を高校生たちが朗読
千葉市では被爆者の証言を高校生たちが朗読し、戦争の悲惨さと平和への願いを訴えました。
この催しは千葉県内の被爆者などでつくる団体が毎年、開いていて、6日は県庁で、市川市の不二女子高校の演劇部員や卒業生が、広島や長崎で被爆した人の当時の証言を交代で朗読しました。
この中で原爆で壊れた家の下敷きになった5歳の少女が「父さん、これからはよい子になります。悪いことは決してしません。ここから出してください」と、泣きながら火の中に消えていったという証言が、読み上げられました。
また、差別を恐れ、被爆したことを隠して生きてきたという人の証言も紹介されました。
最後は朗読した全員が平和への願いを込め、声を合わせて戦争への反対を訴えました。
朗読を聞いた70代の男性は「感情を抑えた声と最後の叫びに引き込まれた。証言をよく理解して読んでいると感じた」と話していました。
演劇部の部長、新井菜々美さん(18)は「被爆した人たちの気持ちにより近づくため、当時の資料を調べたり被爆者の話を聞いたりして勉強しました。原爆を知らないという友人も多いので、これからも朗読を通して戦争や原爆について伝えたい」と話していました。
《海外の反応や動き》
“死者少なくても10万人” 推計の文書を公表 アメリカ
広島に原爆が投下されてから6日で80年となるのにあわせて、アメリカ、ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は、アメリカ軍が初期の分析として死者が少なくても10万人に上ると推計していた文書を公表しました。
アメリカ、ワシントンにあるジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は、これまで広島と長崎への原爆投下に関するアメリカ政府の機密文書を公開していて、5日、アメリカ軍の関係者が広島への原爆の投下から2日後の8月8日づけで作成した文書を公表しました。
公開された文書には「ヒロシマ・ミッション」という題名が付けられていて、原爆の投下直後の分析が6ページにわたってまとめられています。
このなかで広島の状況については「広島はもう存在しない。市の中心部から半径5000メートルあまりの地域全体が、まるで存在しなかったかのように消し去られた」と記しています。
そして、「控えめに見積もっても、少なくても10万人の広島の住民が、日本軍の指導者たちにより不必要に犠牲になった」と報告しています。
広島市は、80年前(1945年)に投下された原爆によって、その年のうちにおよそ14万人が死亡したと推計しています。
爆撃機が飛び立ったテニアン島で犠牲者を追悼
北マリアナ諸島のテニアン島は、太平洋戦争末期の1945年8月、広島と長崎に原爆を投下したアメリカのB29爆撃機がそれぞれ飛び立った島です。
この島にある当時の軍用飛行場では、6日、原爆の投下から80年に合わせて式典が開かれ、サイパンにある日本の領事事務所の手島亜紀子所長など、日米の関係者、およそ100人が出席しました。
式典では、両国の国旗が掲げられ、全員で平和を願って祈りをささげたあと、原爆が爆撃機に積み込まれた「原爆ピット」と呼ばれる場所に花を手向け、戦争の犠牲になった人たちを悼みました。
主催したテニアン市のエドウィン・アルダン市長は、式典に先立ってNHKの取材に対し「爆撃機がここから飛び立って原爆を投下し、広島と長崎の人々の人生が変えられた。私たちがそのことを決して忘れないようにしたい。二度と同じことが起きてほしくない」と話していました。
米国務省報道官 “平和と希望のメッセージを敬う厳粛な日”
アメリカが広島に原爆を投下してから80年となることについて、アメリカ国務省のブルース報道官は5日の記者会見で「6日は広島の人たちと彼らの平和と希望のメッセージを敬い、過去を顧みて追悼する厳粛な日だ」と述べました。
また「広島の人たちの強じんさは80年にわたって世界に感銘を与え、その和解の精神はアメリカとの同盟を強くしてきた。80年間、アメリカと日本は肩を並べ、太平洋地域の平和と繁栄を守ってきた。今日、両国は緊密な同盟国としてともにあり未来と向きあっている」と話しました。
ブラジルで原爆被害テーマの企画展
広島と長崎への原爆投下からことしで80年となるのにあわせて、日系人が多く暮らす南米・ブラジルで原爆の被害をテーマとした企画展が5日から開かれ、当時、撮影された写真などで被爆の実態を伝えています。
この企画展は、ブラジルの日本大使館が企画したもので、首都ブラジリアで5日から15日まで開かれています。
会場の連邦議会のホールには、原爆投下直後の広島と長崎を撮影した写真や、広島で被爆したあと12歳で亡くなり「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんのエピソードをポルトガル語で紹介するパネルなどが展示され、被爆の実態や平和の尊さを伝えています。
初日の5日は式典が開かれ、4歳の時に広島市内で被爆し、現在はブラジリアに暮らす東海林俊恵さん(84)が「おばの体からガラスの破片を取ったことを覚えています。戦争の無残さは身にしみています」と当時の記憶を語りました。
出席したブラジルの下院議員は「戦争をなんとしても避けることが重要だと思います」と話していました。
東海林さんは「平和の大切さと、過去を正面から見ることが大事です。起きたことは起きたことなのでそれをどうするかを世界が考えてほしいです」と話していました。
「韓国のヒロシマ」で追悼式
韓国でも日本の植民地時代に広島や長崎で被爆した人の多くが暮らす南部の町で追悼式が開かれました。
大韓赤十字社によりますと被爆者健康手帳を交付され、韓国で暮らす被爆者は先月時点のまとめでおよそ1500人います。
その多くが暮らし「韓国のヒロシマ」とも呼ばれる南部のハプチョン(陜川)では6日、追悼式が開かれ、被爆者や遺族、それに日韓両国の政府関係者などおよそ400人が出席しました。
被爆者の位はいが納められたお堂の前で、伝統の儀式が行われ、参列者たちが献花をして、犠牲者を悼みました。
韓国では2017年に被爆者の医療支援などを目的とした法律が施行されましたが、被爆者の団体は実態調査や被爆2世などへの支援が不十分だと訴えています。
こうした中、イ・ジェミョン(李在明)大統領は5日SNSへの投稿で「支援が足りない部分が多い。原爆の傷を癒やすため、政府として引き続き努力していく」と強調しました。
2歳のときに広島で被爆した、韓国原爆被害者協会のシム・ジンテ(沈鎮泰)さんは北朝鮮の核開発にも触れ「北、そして世界の核兵器をなくすために被爆者である私たちが先頭に立っていかなければならない」と話していました。