長嶋りかこ『色と形のずっと手前で』
読了。
たまたま見つけた本屋にて、数ページ目を通して吸い込まれるように購入した本。
グラフィックデザイナーが母になったら、色と形に辿りつかない日々が始まった。妊娠してお腹が大きくなり、のそのそと歩まねばならぬ体に変化していく中で見えてきたのは、ままならない体と足並みの揃わない社会だった。育児が始まると目の前に立ちはだかる仕事と育児の両立という壁。人々の暮らしと地続きであるはずのデザインの仕事と、目の前の家事育児という暮らしの相性の悪さ。子どもの時間と、仕事の時間。子どもを通して見ている世界と、仕事を通して見えている世界。混沌とした曲線の世界と、秩序だった直線の世界。二つの間で立ち往生しながら見えてきたのは、資本主義のレースと止まらぬ環境破壊とジェンダー不平等が一つの輪をなしている景色。そして子どもが手をひいて連れて行ってくれる、土の匂いがする景色。かつて自分も知っていた、あの曲線の景色。
(村畑出版)
わたしがここで書きたいのは、この本になぞらえた感想ではなくて、この本で感じたほんの一部の感想のなかで、頬をパチンと叩かれたような、そんな気がしたわたしのある種の懺悔を書き残そうと思う。
「無知は罪」という言葉がある。
わたしがずっと、ずっとずっと念頭においている言葉。
その当事者である意識を忘れないように、自分の世界がすべてだと思わないように、どれだけ多様な世界に触れようとすべてを知ることなんて不可能で、驕り高ぶらないよう自制するように唱えている言葉。
でもどこかで自分には関係ないのだと思っていた。
念頭に置く意識があるだけマシだろう、と。
あくまで自分は"無知"の、そっち側の人間ではないのだろうと。
そんな驕りをみて見ぬふりしていた。
ぐるん
と、無理矢理首を向けさせられた気がした。
わたしは自分のことを面白がってくれる人が好き。
わたしに興味を持ってくれる人が好き。
たとえそれが外見だろうと、考え方や性格だろうと、その興味の詳細が性欲だろうと好奇だろうと、わたしの何かしらに魅力を感じてくれることに、ひどく興奮する。
そんなわたしのタチは、残酷だった。
恵まれているから「性欲をぶつけられることに興奮する」なんて言えるのだと。
性犯罪の被害に遭ったことはないし、暴力性を孕む性欲を目の当たりにしたことがないからそんな呑気なことを言えているのだと。
なんてグロいことを。
昼に食べたナポリタンが胃のなかでぐりゅりぐりゅりと動き出した。
たとえば同じことを言っても不快に思う人とそうでない人がいて、たとえ悪意がなくたって受け手が「毒」だと感じたらその時点でもうそれは毒で。
対人関係において加害者になることは避けられないと思っている。悲観なく、時に諦めて割り切らなければいけないことだとも。
とはいえ故意かどうかでは悪質具合が全く違う。
わたしの、何でも面白がる性質はどれだけ非人道的なのだと吐き気がした。
知らないからそんなこと思えていたんだ、そっち側じゃないなんて笑えてしまう。
わたしは「知ろうとする」段階にすら立っていなかった。
そっち側じゃないなんて、それこそがそっち側の人間であることを何より示しているのに。
加害者になる覚悟なんて、全然なかった。
わたしは、わたしの世界を疑ってしまった。
わたしがプライドを持って作り上げたと思っていた世界を。
すこし過去の話をする。
わたしのこの性質は、生き延びるために身に着けた正真正銘のライフハックでもあった。
幼い頃からわたしは、「家庭」を上手く認知できなかった。
住む家も、親やきょうだいといった家族もいた。
毎日ご飯が出てきて夜はベッドで寝て、暴力を振るわれたりネグレクトされたり、そういうものは一切なかった。
詳細は書かないけれど、生きていくのに不自由はなかった。
きっと愛されて、大切に想われていただろう。
だけどやっぱりわたしはちいさいあの子を可哀想だと思う。
母を亡くした同級生の苦しさや寂しさを想像しては自分のそれと比べて、自分のは大したことないから苦しいなんて思っちゃいけないなんて不健全な思考をしていた、家の、砂利がひかれた庭の、物置の前。
それが不健全だとわかったのは随分あとになってからだった。
わたしは自分を励ます方法はたくさん知っている。
なんでも面白がってエンタメにするのだってそのなかの一つだ。
身に付けざるを得なかったと言ったら同情されそうでめちゃくちゃ嫌だけど。
自らの愚を痛感したからって、ここでわたしのその意識や性質を変えようだなんてことは1ミリも思っていない。
そのときそのとき必死に、しかし自然に身につけた術で、生き残るための水で食糧だったのだ。
あとからその水は飲んじゃいけなかったんだよって言われても、そのときのわたしはそれを飲むしか生きていけなかったのだから。
開き直ってるって思われてもいい。たぶんそうだし。
いま、(人、もの、自然などを含んだ)他者を面白がることはやめない。
それがわたしの個性だし、わたしの面白味だし、プライドをかたちづくっているものだから。
でも、もっとカッケー奴になるための課題もできた。
自分のプライドと教訓はきっとなかよくできる。
たったの100年、わたしは満足して死にたい。
いま感じた罪悪感を、十字架を、ずっと背負って生きていく。
また一つオカズがふえた。
咀嚼して、反省して、後悔して、ぜんぶ「いただきます」しちゃうもんね〜