どうか、

「自分のことを愛す」

なんて曖昧なものの一つの解釈として、わたしは

「自分のことを"存在的に"愛されて良いのだと認知する」

があると思っている。

 

ここで書くのは励ましでも慰めでも説教でもありません。

 

あなたがそこにいて良いのだと認めること。

家族や恋人からの分かりやすいアイラブユーだけに関わらず、お店に入ると席に案内されること、レジ袋の有無を聞かれること、犬に吠えられること、横断歩道を青になってから渡ること、そんなこと。

 

当たり前にするにはありがたくて、ありがたがるには大袈裟なこと。

 

だけど、あまりにもおそろしい。

自分が愛されて良い存在だなんて、口にするだけで手が震え、脈が速くなる。

ああ、あのときはやはり愛されていなかったのだと認めることになってしまいそうで。

なんておそろしい。

 

ならば前提から崩してしまったほうが、あのときのわたしを全力で「可哀想」にできるのではないか。

わたしの世界で誰よりも可哀想なのはわたしなのだから。

わたしに可哀想と言っていいのはわたしだけだし、だからわたしが一番可哀想がらなきゃいけない。

 

 

だけど、本当は思うのです。

わたしたちは同じ人間で、皆に血が通っていて、それによって体温がある。これはとても生物的なお話。

わたしがあなたを愛しているということは、逆もあって然るということ。

あなたが誰かを嫌っているということは、逆も然りだということ。

 

あなたは、きちんと人に認知されているということ。

 

わたしがあなたにできることは手を繋ぐことか、指先を触れること、服をつまむこと、握手をすること、肌をくっつけるくらいのことで、あなたはあなたに救われなきゃいけない。

わたしの表情筋を動かせるのはわたしだけで。

 

笑いたいときに笑えばいいし泣きたい時に泣けばいい、好きだと言いたい時に言えばいいし、そうでないときは無表情でいていい。

あなたは笑っているから価値があるわけではなくて、綺麗だから好かれているわけでも不格好だから嫌われているわけでもない。

この世はあまりに残酷で、皆に平等に親切。

 

わたしはわたしのことで精一杯だから、あなたのことはあなたに任せるね。

イビツ

歪んだまま、真っ直ぐに生きてきた。

歪んでいるのだと気づいたのは10代の半ばだった。

 

わたしのこれが過度な自立なのだと知った。

 

歪みを見つけて真っ直ぐに伸ばそうとすれば、ワイヤーのような線は形状記憶でゆったりとまたいびつに曲がりだす。

それでもと伸ばし続け、その先その先でまた歪みに衝突する。

この真っ直ぐとこの真っ直ぐの辻褄が合わなくなって、さて途方もないなと思う。

 

ようやっと緩やかな曲がりにできた頃、自分はどこだと迷子になる。

伸ばさなければ人を傷付けるみたいだし、伸ばしてみれば自分を犠牲にしている。

このままをぜんぶ受け入れてくれ、が傲慢で幼稚なことだとはだいたい当てがつく。

 

それでも、幼少からこれまでたくさん犠牲になってきて、死体もそこらに放っておかれたのだから、もうありのままでもいいだろう許してくれよと思ってしまう。

しかしこの世は、他人のことを傷つけてはいけないみたいだ。

 

なんでだよ、わたしが痛いって言ったときいなかったくせに、わたしには痛いって言うの?

痛いとも言えなかったのに、チグハグに絆創膏を貼ってわらうしかできなかったのに、なんで、なんでなんでなんで。

 

そうやってしか生きられなかったのに、他人を傷付けるより、自分を犠牲にするほうが美徳なんですか。

 

信じられないくせに愛されたくて、水を注いでもらっているのに自らの手で栓を抜いている。

愛されるのが、怖い。

愛をもらっていなかったのではなく、上手く認知できていなかった、ということにしたい。

自責でなんとか身が保たれるのなら、それがいい。

だって、そうでなければあんまりじゃありませんか。

向けられる嫌悪は安心する。

 

さて、何が歪みで何が正なのでしょうね。

良いお年を

2024年、何があっただろうかと写真フォルダを見返した。

ろくに撮っていない写真でも、振り返れるくらいには生きていた。

 

生きて、もがいて、這って、生きて、生きて、生きていた。

 

わらうのが上手なわたしは、はじめましての人とすぐに仲良くなる。

そう考えると友人、知人が増えた一年だった。

無碍にされ切った縁、その繋がりに執着がなく自然と線が溶けた縁、逃げたいと泣きながら切ろうとして、引き戻された縁。

 

「生きていてよかった」とゆるやかに本気で思えたり、"過去のあの子"ではなく"いまのわたし"として泣いていいんだ、とか、セックスもたくさんしたし、つらくて泣くのに笑っちゃう自分に笑っちゃって。

わたしは案外、愉快な人間なんだと思いました。

 

たくましく、すこやかに。しなやかに。わらって、わらって。

 

祈りをこめるこの挨拶が好きです。

巡る年を一緒に祝い合う新年の挨拶も好きです。

 

わたしはわたしのことが好きだけど、プライドが痛むほど愉快だとおもう人のことほど好きではない。

未だそんな人は現れていないので、暫定で一番好きなのはわたしということになります。

自分を殿堂入りにしたい思いはやまやまだが、そうなると他者他物へのアンテナが鈍くなる気がするので、実力で暫定一位を死守し続けたい気概があります。

 

いつか痛い目を見るその日まで、愉快なものを全力で笑えますように。

 

けらけらと、からからと、ふんわりと、わらえますように。

 

今日、12/31、わたしの目が見る空は好きな冬の空の色をしています。

それだけで一年悪くなかったなと呑気にわらっちゃうのです。

悪くないな、も、いいな、も、全部わたしにとっては悪くないのです。

「悪くない」は「いい」よりいい気がします。

死に方を選べるなら、「悪くなかったと思いながら死ぬ」をお願いします。

でも神様?死神?そこらの何者かにお願いするより自分でそこにこじつけるのできっと大丈夫。わたしはなんだって面白がっちゃうので。

 

それでは、また。

あなたも、わたしも、安寧が続きますように。

愉快に巻き込まれますように。

ある日々

お元気でしたか?

わたしは元気でした。

 

ある恋をしていました。

いろいろなことを教えてくれた人で、日々でした。

 

わたしは思っているより格好良くないのだとか、強くないのだとか、未熟で、ことば足らずで、そんなことと向き合うたびに痛くて、その痛みが気持ちよくて、わらっちゃうのでした。

「成長」と言うほどには仰々しいものではなくて、なんだかやわらかく笑えるようになった気がするのです。

 

あたたかくいてほしくて、お腹を満たしていてほしくて、そんなことを祈る日々でした。

 

想いはあるけれど未練はなくて、後悔なんてもっとない。

きっと真摯で全力だったのだと思います。

 

あとから振り返って「まああんなこともいい思い出だよね」なんてことはよくあるのかもしれないけれど、わたしは荒波の渦中にいたときさえも愉快だった。

 

肩凝りを自覚しました。

いま肩に力が入っている、と気づけるようになりました。

気づけちゃったらもう、これからは肩をほぐして、姿勢をしゃんとしなやかに立つだけなので、楽勝です。

簡単ではないしこれからもきっと時間はかかるけれど、へっちゃらです。

 

泣けていました。

わたしはきっと、綺麗に泣きます。

泣き方は下手くそで無様だけど、わたしは泣いている自分のことが好きです。

 

人前で泣かないことが必ずしも唯一の格好良さではないと思うのです。

泣きたいときに泣けるひとも格好良い。

溢れる涙を留めようとしないひとだって格好良い。

 

泣きながらわらうような日々で、痛みが心地良い日々で、キスをして、またねをしました。

ふふ、愛も約束も使えるようになってしまいました。

泣き虫

あまり他人に怒ったことがない、という人をよくみる。

わたしもおそらくそっち側で、爆発的な感情を叱責の意味合いで伝えることはほとんどない。

 

わたしが誰かに怒るときは、だいたいが

「そんなこと言わないで」

とおもっている。

 

だから、愛するひとにしか怒りを感じたことがない。

わたしが「怒ってるよ」「怒るよ」と言うときは、ずっと泣きそうに眉を歪ませている。

 

そんなこと言わないで。本意で自虐なんかして、わたしの愛するひとのことをそんなひどく言わないで。わたしはあなたのことが大好きなのに、あなたはわたしの愛するひとのことが嫌いなの?

やめて、これ以上やめて。

わたしの好きを嫌いって言わないで。

あなたへ

生きて、どうしようもなく生きて、生きていたいとおもうよ。

 

死を選ぶしか生きられない状況にいた友人に、「死なないで」とは言えなかった。

 

「あなたがわたしにだけはこう言ってほしくないのはわかっていて、それでもわたしは、あなたに生きていてほしいとおもうよ」

「わたしはきっとあなたが死んだら泣くのだと思う」

「今日、生きていてくれてうれしいよ」

 

友人にとってこれらの言葉がどう刺さり、体温をどう変化させたのかはわからない。

だけどいまその友人はひょんな衝動で怪しいサイトに飛んでしまった際、住所入力の段階で踏みとどまり、住所バレたくない、バレて死にたくない、なんて焦っていて、「私っていま死にたくないんだ!」とハッとしていて、わたしはたのしくて笑ってしまった。

 

「私が死ぬまでピンピンしててほしい、私はマラリアとかで死ぬからそれまで待っていてほしい」

らしくって、さてどうしようかなと考えている。

 

涙が溢れそうになるたび、手が震えるたび、吐く息のひとつひとつが浅くなるたび、自身の呼吸音をひどく気色悪く思うたび、生きていたいのだなと実感する。

 

正直だからあなたのとまり木にはなれなくて、捻くれ者だから同情もされたくなくて、だから、笑っちゃうくらいうれしいたくましさとか、まばゆいくらいの美しさとか、とろとろした甘いものとか、きっと痛がるくらいのまっすぐな愛だけ立ってわらっていてあげるから、だから、ごめんね。

にんげんっていいな

山月記、わたしも読めなかったなあ。

 

語彙が難しいという「読めない」ももちろんあったけれど、いちいち自分のことを言われているかのようで、痛くて、焼き付けられている気がして。

それでも目を背けられなくて、わたしはこれを読まなければいけないのだ、とすら感じていた。

 

高校の授業で出会い、取り掛かった最初の授業で一度みんなで読むときに、まってくれ、まってくれ、と泣きそうになっていたのを思い出した。

 

どうしてみんな引っかからないの、物語としてスルスル受け入れているの。

周りが語彙を調べるなか、わたしはそんなものはどうでもよくて、分からなかったけどどうでもよくて、ただ李徴の発する一言一言が刺さってからだじゅうをねじねじぐるぐると掻き回していた。

 

ゆるしてくれ、もう勘弁してくれ。

 

ずっと李徴が言っていることが許せなくて、だけどわかってしまうから、李徴を通して自分を許せなくて。

でもそうじゃないだろ、だからお前は虎なんだ、虎で終わるんだ。

同時に、わたしの足先に伸びている無数の線のひとつが白く浮かび上がってきて、お前にもこの道があるんだぞ、と暗に脅されている気がした。

 

わたしは違う、こうはならない、こうではないと唱えながら、悪魔のささやきが頭の中で響いていた。

 

授業が進むにつれ先生やクラスのあいだで「正解」みたいな解釈が定められてきて、それを黒板に書かれながら、板書をしながら、わたしはずっと怯えやら悔しさやらからなる涙を必死に堪えていた。

 

違う、李徴は可哀想なんかじゃない、同情するな、コイツはどうせ人間に戻れない奴なんだよ。どうしようもねえ奴で、結局ハナから終わりまでずっと虎で、人間に戻れるのに、お前は人間なのに。

誰のために叫んでいたのか、境界線が滲んでいっていただろう。