薪のメレアグロス

アーカイブされた 2017年9月18日 10:09:30 UTC

薪のメレアグロス (ロンドベル)
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新約ギリシャ神話編 薪の王子

人理を守れ、エミヤさん!第三章終了したら書くと言ってたのを、気が乗ったので先行投稿。






 ――掠れ、磨耗した記憶の断片。

 友人ではなく、あくまで知人として、それなりに親しくしていた男がある日こんなことを言った。

「顔は普通、ルックスも普通、頭普通の体力普通。ついでに年齢イコール彼女いない歴更新中、と。趣味はソシャゲで特技は無し。就活上手くいかねぇし。あーあ、こりゃ俺の人生灰色決定だな。もう来世に希望を託すしかねぇわ」

 そう言っていた彼は、大学の同輩だった……気がする。彼は本気かどうか知らないが、仏教の輪廻転生の概念を信じている、あるいは有ると信じたがっている節があった。
 今生のあらゆる事象に諦念を抱き、努力することに疲れていたのかもしれない。就職活動が上手くいっていなかったから、それで弱気になっていただけなのかもしれない。それでも、その言葉は異様にオレの神経を逆撫でにした。
 以来オレは彼から意図して距離を置き、滅多に彼と連絡を取り合うこともなくなった。

 オレの祖父が言っていた。眠るように息を引き取る半年前。オレがまだ中学生だった頃。
 祖父は、思い返せば死期が近いことを悟っていたのかもしれない。親戚や旧友に挨拶をして回り、当時暇を持て余していたオレは祖父の挨拶回りに付き合わされることになった。
 面倒臭かったが、受験も終わってやることもなく、無趣味だった上に友達もいなかったオレは、祖父に付き合うのもそんなに嫌ではなかった。祖父は文句も言わずに付き合ってくれた孫が可愛かったのか、電車やバスの中で、生返事しかしなかったオレに飽きもせず頻りに話しかけてくれた。
 
 そして、祖父が昔からの友達だという老年の男性と思い出話に花を咲かせていた時。祖父の友人が、懐かしむように言ったのだ。

「――昔から色んなことで競ってきたものだが、結局勝敗がつくことはなかった。何をしても互角、お前さんはいい競争相手だったが、決着をつけられなかったことだけは無念だ」

 そうだな、と祖父は骨太な笑みを浮かべ頷いた。
 青春時代、好きな女を取り合っただの、学業や相撲で勝負しただの、楽しそうに笑い合う二人は、本当の友達だったのだろう。オレはぼんやりと、その二人の関係をいいものだと羨んだものだ。
 だがその後に続いた言葉に、普段は穏やかな祖父が明確な怒りを示した。

「まあ、勝負は来世に持ち越しだな。決着はその時にでもつけよう」

 来世などない。オレはここまでだ。今生でオレは終わりだよ、と祖父はハッキリと言い切った。

 そんなに怒る話でもなかったはずなのに、祖父は怒りを治めなかった。オレの知るのんびりとした祖父とは思えない表情に酷く驚いた覚えがある。
 後に祖父の葬儀で、あの時の人は「まるで若い頃のような激しさだったな」と語ってくれた。

 オレの頭に分厚い手の平を乗せ、在りし日の祖父は力強く言った。

 次があると思えば甘えが出る。来世なんてものがあると思えば、必死に生きようとする意思が鈍る。いいか、次なんてない。明日なんてない。今なんだ。次とは今だ、明日とは今だ、未来とは今なんだよ――

 祖父はオレの名を噛み締めるように口にし、何かを伝えようと、ひたすらに重い声でオレに言う。
 次があると思って手を抜くことだけはするな、と。言い訳をする人間になるな、と。その言葉は、オレの深い部分にまで届いた。そして、いつの間にかオレは祖父の言葉に従って生きるようになった。
 半年後、眠るように自室で亡くなっていた祖父を見つけた時。その死に顔が、とても晴れやかで、後悔も未練もない穏やかなものだったから――心の底から、祖父の生き方に憧れたのかもしれない。

 今や己の名すら思い出せずとも。父や母に対する想い、自身の来歴の悉くを失おうとも。

 その憧れだけは、決して色褪せることなく、この胸にいつまでも残り続けた。

 自分も、後悔なく生きたい、と。






















 ――アケロース川を挟み、西にアカルナニア。北にイピロスとテッサリア。東には西ロクリス、南にはコリンティアコス湾がある。そしてその中心にアイトリアのカリュドンと呼ばれる国があった。

 国土の沿岸部は平地で肥沃な土地だったが、山岳部は農業に適さず、野獣の類いが跋扈していた。
 都市国家カリュドンは、アルテミス・ラフレアとアポロン・ラフレアという神に捧げられた都市であり、ディオニュソス神から葡萄酒の作り方を学んだカリュドン王オイネウスが治める、狩人にとって楽園となる地方である。
 狩りの獲物に困ることなく、一日の終わりには神より授けられた葡萄酒を、王の名の下に呷ることが出来る。これは彼らにとって幸福なことであった。
 この充実した日々を送れるのは王の力と、そして女神アルテミスと男神アポロンの加護あればこそ。アルテミスへの生け贄を捧げる儀式は王の重大な使命であり、それを終えたオイネウスは都市民の歓声を背に宮殿に戻っていった。

 心なし早足だったのは、決して気のせいなどではなかったろう。その夏、カリュドン王オイネウスの妻、王妃アルタイアーが嫡男となる第一子を懐妊し、冬にその出産を無事終えたのだから。

 初となる我が子を腕に抱き、オイネウスは大いに喜んで、その珠のような我が子を心から慈しんだ。
 このオイネウスは抜けたところのある男だったが、妻に対する誠実さは本物であり、また我が子を愛すること真に理想的な夫だった。
 夫のオイネウスがメレアグロスと名付けられた子を慈しめば、自然と妻アルタイアーも、はじめて腹を痛めて生んだメレアグロスに対する愛を深めたものである。

 ――生まれたメレアグロスは、軍神アレスの子であるのではないか。

 そんな噂が流れたが、オイネウスは妻の不貞を否定し、メレアグロスは我が子であると固く信じた。
 だが、周囲は真しやかに囁きあったものである。オイネウスとアルタイアーは黒髪であったのに、メレアグロスは燃え盛る火炎のような金髪を生やし、歯が全て生え揃った姿で誕生したのだ。
 更にメレアグロスは、非常に愛らしい顔立ちで、人間離れした美貌を持って生まれていた。――軍神アレスはギリシャ全ての男神の中で、一、二を争うほどの美男だという。そしてその髪は、焔の如き黄金のそれだ、と。人々はメレアグロスを半神の王子だと噂しあい、それは公然の事実として見られた。
 ただオイネウスとアルタイアーだけは、メレアグロスは自分達の子であると主張し続けたが。

 メレアグロスが生まれ七日が経つと、アルタイアーは自らの寝室に抱いてきた我が子を見つめ、ぽつりと呟いた。どうして貴方は黒い髪で生まれてくれなかったの? わたしは、決して夫への不義を働いていないというのに。みんなはわたしを言葉では非難しないけど、その冷たい目は何よりもわたしを責めている。ああ、どうしたらいいの……。
 嘆く母をメレアグロスは慰めようとしたのか。母の手の指先を、その小さな手がぎゅっと握り締めた。驚いてアルタイアーがメレアグロスを見ると、赤子はすやすやと眠って、平和な顔を暖炉の火に照らされていた。
 母は力なく微笑んだ。何となく元気が湧いた気がして、生まれたばかりの我が子が病に掛かっては堪らぬと、暖炉に一本の薪を焚べた。
 燃え盛る薪は、暖かい熱気を生んで部屋を包む。これで一先ずは安心だと落ち着いたアルタイアーだったが、不意に室内に吹き込んだ一陣の風に体を竦ませ、慌てて窓の閉め忘れがあったのか確認しようと立ち上がった。
 だが窓は全て閉じられていて、首を傾げながら戻ったアルタイアーだったが、暖炉の火の前に三柱の神が燐光を纏って待ち構えていたのを見つけ、悲鳴をあげそうになってしまった。

 三柱の神は運命の女神(モイライ)だったのである。

 戦慄するアルタイアーに構わず、超然と唄うようにしてモイライは語った。それは愛する我が子メレアグロスの運命である。

 "運命を紡ぐ者"クロートーが唱えた。これなる者、高貴なる者となるであろう。
 "割り当てる者"ラケシスが謡った。輝ける者、武勇に優れた英雄となるだろう。
 "不可避の者"アトロポスが一本の薪を炉に投げ入れ嘲笑った。栄光を掴む者、この薪が燃え尽きない内は死ぬことがないだろう。

 それを聞いたアルタイアーは顔を青くし、炉に手を突き入れ、焼かれるのにも構わず必死に火を消して薪を守った。モイライは火傷の痛みに泣き叫ぶアルタイアーを置いて、そのまま去っていった。
 騒ぎを聞き付け、駆けつけた者によって医者が呼ばれ、オイネウスがアルタイアーに何があったのか問いかけるも、アルタイアーは青い顔をしたまま口をつぐんだ。

 アルタイアーは治療を受けると、すぐにメレアグロスの命そのものである薪を箱の中に隠し、誰にも薪の存在を伝えなかった。メレアグロスを死なせないために、アルタイアーは決して他言することはなかったのだ。

 この薪の存在を知る者は、アルタイアーとモイライ。そして後の伴侶だけ。アルタイアーは生涯に亘って薪の存在を秘し、後に薪を子の伴侶に託すまで、誰もその存在を知る者はどこにもいなかった。
 この一部始終を共にした、一人の赤子を除いて。




 後の世に"薪のメレアグロス"と呼ばれることとなる英雄の誕生秘話。

 運命は崩れず、されど伝説は捻れ。
 人理は乱れず、神話の形が僅かに変わる。
 薪の焼却を以てその生に終止符を打った、本来の英雄とは異なる道を歩んだ男の物語は、そうして幕を上げたのだ。

























※ネタバレ。人理を守れ、エミヤさん! の第三章ローマ編にアタランテを出してしまったので、四章のオケアノスのアタランテ枠の代理が必要になった。ので、本作の主人公に代理してもらうことに。








   *      *
  *     +  うそです
     n ∧_∧ n
 + (ヨ(* ´∀`)E)
      Y     Y    *


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狼の嫁取り




 ――メレアグロスは物心つく以前より、その表情を滅多に動かすことはなく。また自発的に言葉を話すこともなかった。

 人との触れ合いを拒んではいない。しかし積極的に語り合うこともない。無気力なまま漫然と日々を過ごし、一人になるとぼんやり虚空を眺めてばかりいた。
 一時は白痴なのではないかと疑われもした。だが、教育係りは「王子は言葉を理解し、私の与えた知識を過不足なく理解なされている」と語った。
 メレアグロスが笑わず、自ら語らぬのは生来の性質なのだろう、と子供らしさの欠片もない王子を気味悪がり、最低限の役目を果たした後に教育係りの男は師傅の座を辞して、カリュドンより去っていった。

 生気の欠けた美しい黄金の少年を指して、いつしか人に懐かない獣のようだと揶揄する者が現れた。
 それは、彼が軍神アレスの子であるという噂と合わさり、アレスの聖獣である狼と掛け、カリュドンの市民は美しい王子を『リコセンス・メレアグロス』と呼び習わすようになった。
 リコセンス――それは『黄金の狼』を意味する。人に懐かないアレスの子メレアグロスという皮肉だ。
 オイネウスとアルタイアーは、そんな揶揄を受ける我が子を、しかし決して心配することはなかった。
 メレアグロスは両親には……とりわけアルタイアーにだけは常の険しい表情を崩し、親子三人だけの空間になると穏やかな顔で母の手を――火傷の痕の残る手をいつも握っていたのだ。

 母と父は、メレアグロスの優しさを知っていた。
 この子はきちんと、人を愛する心を持つ子供なのだと理解していたのだ。
 将来メレアグロスが成人しても、アルタイアーは自身の手を握ることをやめないメレアグロスを疎むことはなく、寧ろ手を握り返して受け入れたという。
 やがてメレアグロスが八歳になると、アルタイアーとオイネウスの間に、新たな子がもうけられた。
 母の懐妊を知らされたメレアグロスは、高貴な細面に色を浮かべ、黄金瞳を爛々と輝かせて手槍を引っ提げ、ジュゴス山に打ち入るや見事大猪を狩って持ち帰り父王に捧げた。
 オイネウスはまず驚き、八歳という幼さで狩りを果たした王子を讃え、そして親として叱責した。
 子供がジュゴス山に単独で向かうなど、危険が過ぎるのだ。叱られたメレアグロスは悄然と肩を落として一言、しっかりとした語調で謝罪した。その上で母と父を、そして生まれてくる弟か妹を祝ってやりたかったのだ、とぽつりと溢した。
 オイネウスはその心遣いに感動した。父は子の勇と愛の心を尊び、しかし齢十を数えるまで一人で山に入ることを禁じた。代わりに狩猟の技と知恵を持つ優れた師をつけることを約し、立派なカリュドンの男になるように、と言い含めたのだった。

 王はカリュドン一の狩人を呼びつけ、メレアグロスに付けてその狩りを学ばせた。
 八歳にして大人も敵わぬ剛力を発揮したメレアグロスは、師と共に山野を駆け、潜み、罠を仕込み、そして多くの獲物を狩った。瞬く間に師とした狩人の業と知恵を吸収したメレアグロスは、二年も経つと一人前の狩人として認められ、ジュゴス山に入ることを許されるようになった。
 
 第二子誕生の後、アルタイアーは毎年懐妊しメレアグロスを含めると七人の子を生んだ。
 その子達はメレアグロスとは異なり、父と母と同じく黒髪の愛らしい子供達であった。
 それぞれメレアグロスの弟となる王子トクセウス、妹となる第一姫テュレウスから順にクリュメノス、メラニッペー、ゴルゲー、そして姉妹の中で最も美しい第五姫のディアネイラがカリュドンの地に産声を上げた。
 ディアネイラが生まれた年、十四歳となったメレアグロスは、幼い弟や妹達を茫洋とした眼差しで迎え、目に見えて可愛がることはなかったが、八歳年下の弟トクセウスが五歳になると、トクセウスを背負って山に入り、自身の狩りを体感させて喜ばせ、また妹姫の誕生した日には必ず山から取ってきた花や獣の牙や爪で作った首飾りなどを贈った。
 メレアグロスは佳き兄ではなかったかもしれない。しかし、弟や妹達は兄を慕い、兄も自らを慕う兄妹の面倒を見ることを嫌がることはなかった。

 ある日、オイネウスが自慢の王子メレアグロスに訊ねた。何か楽しみはないのか、と。

 来る日も来る日も山に入っては獲物を狩り、カリュドンにいる時は槍を突いたり投げたりしている。暇があれば弟達と戯れることもあったが、酒は飲まず、食を楽しまず、女に興味を示すこともなかった。さりとて高尚な同性同士の愛を語らうでもなかった。一日の終わりには、オリュンポスの神――とりわけゼウスやヘラ、アルテミスに祈りを必ず捧げてから眠りに就いている。そこに少年の楽しみは存在しない。
 息子は何を楽しいと思っているのか。父はそれが気になったのだ。そして出来れば、嫁でもとらせてやりたいという親心を持ち始めていた。

 メレアグロスは言った。何かを楽しいと思ったことはない、と。

 狩りも、槍も、酒も、肉も、女すらも欲しいとは思わない。この血肉は思いがけず手にしたものであり、この生への意義を見い出せない以上は孝の道に沿うべきだと考えた。――メレアグロスは孝の道に殉じ、母を貴んで、父の望む男になることを決めていたのだ。
 オイネウスは言葉を失った。なんと、と呻くように呟いたきり、何も言えずにいるのを見て、メレアグロスは言いにくそうに言葉を重ねた。

「……オレに嫁は不要。このような男の嫁となれば、その女が哀れである。そして父よ、オレを哀れむことはない。某かに愉悦を得たことはないが、弟や妹達を愛する心と、貴方と母を敬う気持ちは本当のものだ」

 いつになく饒舌にメレアグロスは語った。
 この時が、メレアグロスが生涯で最も言葉を費やした場面であったという。

「気遣いも不要。オレも、最近になって狩りの楽しみを理解できてきた。槍を振るっていると無心になれて充実している。……だから父よ、どうか涙を拭ってくれ。貴方に泣かれると……どうすればいいか、解らない」

 子を想い、はらはらと涙を流す父王に、メレアグロスは困りきって言葉を費やした。
 しかし、それでも涙の尽きない父に、メレアグロスはどうすることも出来ず、ただ立ち尽くして父の涙が枯れるのを待ち続けた。

 その日から、父はメレアグロスをあちらこちらに連れ回し、王の執務、神への生け贄の儀式などの仕事を覚えさせ、各地より立ち寄った吟遊詩人の詩を聞いては大いに歓喜し、激怒し、号泣した。
 カリュドン王は精力的に働き、その傍には常に困り顔の、しかしどこか晴れやかになってきた王子の姿があった。

 ある日、オイネウスは言った。

「メレアグロスよ、そなたはこれより五年、カリュドンより出て旅をせよ」

 十七歳となり、誰しもが目を瞠く美丈夫へと成長していたメレアグロスは、父に何故かと問いを投げた。オイネウスは言う。

「そなたは美しく、そして逞しい、まさに理想的なギリシャ男児である。カリュドンにてそなたに並ぶ狩人はおらず、その武に並ぶ者もまた同じだ。だがそれ故に、誰しもが疑問を持っておる。何故王子は妃を娶らぬのか、とな」

 沈黙する黄金の王子に、父は苦笑して続けた。

「なればこそ旅に出よ、王子メレアグロス。そなたはこれより一人で生き、世界と向き合って、共に生きるに値する伴侶を得るのだ。生まれも、素性も問わぬ。五年で伴侶を見つけられねば……その時は諦めよう。さあ、旅立ちの準備が終われば、すぐにでも出立するのだ。その旅が、そなたの生に彩りを与えるものと、父と母は固く信じるものとする」

 メレアグロスは思わずオイネウスの傍らの御座に座している母、アルタイアーを見た。
 アルタイアーは父と同じ気持ちなのだろう。弟や、妹姫達も、応援するように微笑みかけていた。

 父と母が望み、兄妹が背を押すのなら是非もない。メレアグロスは渋々旅立ちの用意をし、一本の槍と弓矢を持って、その日の内に密かにカリュドンを出た。

 後に、『狼の嫁取り』と吟遊詩人の歌う一幕、その始まりの光景がそれであった。



















「神性」と「天性の肉体」を共にBランクで所持している模様。

なお表情は普通に動き、普通に喋れて、勘違いされることも滅多にないので、勘違い系の主人公ではないと言わせていただく。


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聖熊殺し






 ――五年、旅をせよ。生まれ、素性は問わぬ。自らに相応しい伴侶を探し出し、叶うならばこのカリュドンの地へ連れ帰るのだ。

 ――願わくばその儀を以って生への彩りとし、幸多からん道程を歩めますように。

 父と母の願いを受け、旅の支度を終えると、メレアグロスはその日の内に一本の手槍と弓矢を背負い宛もない旅へと打って出た。
 王として、或いは父として明確に命じてきたのなら、メレアグロスは素直に従い自らの花嫁となる女を探したかもしれない。しかし、オイネウスとアルタイアーはあくまでメレアグロスの意思を尊重してくれた。故に、メレアグロスには伴侶を求める気など更々無かった。
 酒も、食も、祭りも、戯曲も、およそ人々が悦楽を得るものに、メレアグロスが楽しさを感じることはない。このような男の配偶者となるなど、その女が余りに哀れではないか。息苦しく、息の詰まった日々を送らせてしまうのが目に見えている。メレアグロスは本気でそう思っていた。

 であればこそ、この旅の意義は始めから破綻している。

 自ら伴侶を手に入れるために行動することを、メレアグロス自身が端から放棄していたのだ。これでどうして望むものを手に入れられる。求め、欲し、行動してこそ望みは果たされるのだから、希求する欲を持たぬメレアグロスに手に入れられるものなどあるはずもない。
 しかし、かといって父と母の願いを無下にすることも出来ない。愛深き彼らは、何もメレアグロスに本気で伴侶をと望んでいる訳ではなかった。この旅の本質は、メレアグロスが自らの胸の裡から某かの愉悦を得るためのもの。父母が子に望んでいるのは、自らのために喜べるものを見つけ出すことなのだ。
 ……親が子を愛する心は、いつの世も不変に、尊いものとされている。その願いに気づかぬフリをするわけにはいかない。メレアグロスは真摯に彼らの想いに応えたかった。
 メレアグロスは、槍を突き、擲つことが好きだった。いやより端的に言うなら体を動かし、自らの肉体と技を練磨するのが好きだったのだ。
 ひたすら槍を振るい、体力が底を突いて動けなくなるまで体を苛め抜いていると、己の裡にある不純物が千切れ、純化していくような気がするのだ。その感覚が、とても晴れやかに思えて、やめられないのである。
 今のメレアグロスが楽しいとほんの少しでも思えるのが、武を磨くこと、その延長線上の狩りである。ならば、それを取っ掛かりとして生の喜悦を得る足掛かりとしよう。メレアグロスはそう考え、五年もの間、山に籠って狩りと鍛練に明け暮れることにした。旅ではなく武者修行をすれば、カリュドンに戻ってもすぐに一端の戦士として有事の際に役立ち、狩人としても貢献できるはずだった。
 もし相変わらず物事への喜びを感じられずとも五年もの時を無為にすることだけは避けられる。やる理由はあっても、やらない理由はない。そうと決めたら行動は早かった。メレアグロスは早速カリュドンより少し離れた山に乗り込んだのだ。

 メレアグロスは狩りに当たり、一人前と認められてからは一度も罠の類いを仕掛けたことはなかった。

 どんなに気配に敏感な小動物も、息を殺して迫るメレアグロスに気づくことはできず、どんなに獰猛な野獣であってもメレアグロスの脅威となることはなかった。
 獣を怖いと思えない。本能が、まるで恐怖に震えない。故に命のやり取りは成立せず、メレアグロスの狩りとは、一方的な捕食行為でしかなかった。対等ではない。圧倒的に不平等な、フェアでない狩猟。必要もないのに獣狩りのために罠を張ることはなかった。
 それでも狩りを楽しいと僅かでも感じられるのは……メレアグロス自身にも判然としない、根源的な衝動に拠るものがあるからだろう。

 メレアグロスは山を彷徨い歩く。地面に落ちた獣……これは熊か。それの足跡を辿り、さして警戒することもなく山の奥の奥まで進んでいった。
 見つけたのは、開けた空間にある、澄みきった美しい湖だった。メレアグロスは暫しそれを眺めて、一つ頷くと身に付けていた塵避けの加護のある真紅の外套の留め具を外し、黒地の衣類(キトン)と脚絆を脱ぎ、荷物を詰めた革の鞄を地面に放る。手槍だけを側に置いて湖の畔で水浴びをして体を浄めた。
 塵避けの加護のある真紅の外套は、父王がメレアグロスのためにあらかじめ旅の行商人より入手し、与えてくれたものだ。これのためにメレアグロスは清潔な状態を保てる。故に本来ならは水浴びをする意味などないのだが、これはあくまで気分の問題だ。

 一通り垢を落とした気になって、リフレッシュしたつもりになると、メレアグロスは手槍を手に湖の深いところまで潜っていった。
 メレアグロスの槍は、柄はミストルティン――ヤドリギの樹で作られ、その鉄の穂先は釣り針のようなかえしが付いて銛のような形状となっていた。魚の類いを素潜りで仕留めるために、メレアグロスがカリュドンの鍛冶屋に作らせた槍だ。
 狩猟の達人でもある女神、アルテミスとアポロンを讃える文言も刻んだこの槍は、今のところ一度も狙った獲物を逃したことはなかった。無論、それは神の加護ではなく、純粋にメレアグロスの技量によるものだったが。

 メレアグロスは息が出来なくなっても、死ぬほど苦しいだけで、我慢すれば幾らでも水底に潜っていられた。湖の底にあった岩の陰に隠れ、そのまま三十分潜る。
 水の膜に包まれたような時が流れる。小魚が群れを成して泳ぎ、海草がゆらゆらと揺れる様を眺めた。
 息が苦しい。が、無視する。とっくに溺死しているはずの人間が、水底に潜み続けるなど尋常ではなかったが、メレアグロスは我慢さえすれば耐えられる存在だった。
 暫くすると、メレアグロスの潜む岩場の陰に巨大な魚が悠然と近づいてきた。ぎょろりとした目が二つ。刃のような鰭を使い、びっしりと全身を包む分厚い石のような鱗を輝かせながらゆったりと泳いでいた。

 眉をしかめる。これがこの湖の主なのだろう。しかし見たことがないほどの偉容だと、心臓を槍の一撃で貫きながら思った。
 びくん、と痙攣するように跳ね、即死した湖の主。少し固かったな、と石の鱗をこともなげに貫通させておきながら思う。槍の穂先も欠けているだろう、交換しなければならないかと芒洋とした眼差しで判断した。
 自身より二倍は大きい巨体を片手で掴み、水上に浮上する。肺一杯に空気を吸い、気持ちいいなと思う。水気を吸って、顔にべったりと張り付く髪を掻き上げ、巨魚を地面に放り投げた。
 革の鞄の中から手拭いを取り出し、髪と体を拭いて黒地のキトンと脚絆を穿く。塵避けの外套を身に付け、鞄の中から獲物を捌くための刃物を抜き取り、さて、と湖の主に向き直ろうとすると、不意に視線を感じて木々生い茂る緑の中に黄金の瞳を向けた。

 そこには、四メートルはありそうな巨躯の、小麦色の毛並みをした大熊がいた。
 こちらと目が合うと、牙を剥き、山に棲む獣の全てが怯えるほどの威圧感を以って咆哮した。びりびりと大気が震える。メレアグロスは目を細めた。
 熊は臆病な獣だ。そして好奇心は高いがそれよりも警戒心が強い。普通、メレアグロスのような得体の知れない存在に自ら近づいてきたりはしないものだが……それもこんなに怒り狂って……。
 ふと槍に目を落とすと、アルテミスを讃える文言が淡く光っていた。特に魔術的な細工はなされていないのだが……。もしかすると、

「……貴様はアルテミス様の聖熊か?」

 問う。カリュドンの父母の語調を真似て覚えた言葉故、王族特有の仰々しい物言いになっているが聖熊なら通じるはずだ。
 知性の光がその目にはある。メレアグロスを睨む目には敵意しかないが……。

 巨熊が、四肢を地につけ、のっそりと近づいてくる。突進の前兆。メレアグロスは素早く屈んで矢筒から矢玉を抜き取り、熊の眼前に擲った。

「警告する。敵意を納めよ。オレはこの山がアルテミス様の物とは知らなかった。早急に立ち去る故、見逃すがいい。それ以上の接近は敵対行動と断じる」

 聖熊は、メレアグロスの言葉を全て聞いた上で眼前に突き立った矢玉を踏みにじり、メレアグロスに向かって突進してきた。
 地面を揺らがせ、猛然と迫るそれはさながら城塞であった。凄まじい圧迫感を前に、しかしメレアグロスは嘆息して言う。

「了解した。貴様を獲物(てき)と認識する」

 メレアグロスは槍を捨てた。アルテミスを讃える槍で、アルテミスの聖獣を刺し殺すわけにはいかない。素手で、避けもせず正面から聖熊の突進を迎え撃つ。
 頭突きを仕掛けてくる聖熊。それは堅牢な城門をも突き破るだろう。攻城兵器に匹敵する質量と破壊力に――メレアグロスは拳を握り、体を捻って、背中が正面に向くほど更に捩り、怪物的なまでの膂力を以てして、聖熊の頭蓋に拳撃を撃ち込んだ。
 直撃の瞬間、大気が砕ける。拳を中心に衝撃波が起こり、地面を大きく凹ませ、背後の湖面を弾けさせて山が震撼した。巨熊の突進の勢いが死んだ。その場で静止し、巨熊はふらついて尻餅をつく。ん、とメレアグロスは意外そうに目を瞬かせた。

「今ので生きているのか……加減が過ぎたか?」

 生まれてこの方、渾身の力でモノを殴り付けたことがないのだ。槍を使えば思いのままだが、素手での加減の具合を把握などしていなかった。
 下手に本気で殴り付けようものなら、折角の獲物が原形を留めぬほどぐちゃぐちゃになるという確信があったのである。狩った命を無為にするのはいけないことだという想いもあったから、素手で何かを殴り付けるのはこれが初めてだった。

 聖熊がふらつきながらも立ち上がる。頭蓋は陥没し、片目は潰れ、耳や口、鼻から血を吹き出している。逃げてくれるか、と少し期待するが、聖熊は怯んだ様子もなく再びメレアグロスに挑みかかってきた。
 その姿に、メレアグロスは感銘を受けた。逃げず、戦う姿勢を崩さない聖熊の誇り高さを感じたのだ。

「……失礼した。次は、加減はしない。掛かってくるのなら、心して来るがいい」

 グォォオオ! 聖熊が吠えた。渾身の力でメレアグロスの首をへし折らんと腕を振るった。

 それを、片腕を上げてがっちりと防ぎ、丸太の如き腕を掴んで体幹を崩す。そして体勢を崩して頭を下ろさせ、がら空きとなった聖熊の顔面にメレアグロスは渾身の拳を叩き込んだ。
 血飛沫と、脳奬、眼球と頭蓋。頭部は全てが跡形もなく消し飛んだ。メレアグロスの怪力に、耐えることが出来なかったのだ。そのまま、拳の威力は虚空を伝い、拳撃の軌道上にある樹木が数本砕け、更に竜巻に吹かれたように彼方の木々まで大きく揺らいだ。
 首から上を失い、どすん、と倒れた胴体を見て何となく加減するべき範囲を掴めた気がして、メレアグロスは小さく礼をした。

 しかし、困った。湖の主と、山の主らしき女神の聖熊。獲物としては両方とも大きすぎ、二体は流石に手に余った。
 どうするべきかと思案に暮れていると、メレアグロスはなんとなく後頭部に手を回し、飛来してきた"矢玉(・・)"を掴み取る。

「……」

 振り返ると、そこには木の陰からこちらを狙う女狩人の姿があった。
 首を傾げ、もしや、この熊と間違えて矢を放った狩人か、と思った。普通に考えてそれは有り得ない敵意があったが、メレアグロスは狩人に狙われる意味が分からず、自分の勘違いではないかと思おうとしたのだ。

 緑髪の、自然の獣のような風体で、美しい女狩人にメレアグロスは言った。
 獲物が大きすぎて困っている故、なんならこの熊を譲ってもいい。そう思ったのである。

「狩人よ。今の一矢のみ、誤射として見逃そう。この熊を欲するならば譲ってもよい。どうか?」
「それは――」

 美しい野生の女狩人は、敵意を微塵も緩めず、メレアグロスに向けて更に弓を構えた。端整な眉をしかめる"黄金の狼"に、敵意も露に女が叫ぶ。

「私の兄だ(・・)! 我が兄の仇、取らせて貰う!」
「――」

 その殺意の宣言に、一瞬驚き、理解すると。メレアグロスは自身の父母、兄弟が殺められた所を想像し、和解は不可能と判断して頷いた。

「仇討ちに応じる。来い、せめて兄の許に送ってやろう」

 和解が出来ないならば、殺すしかない。メレアグロスは、冷徹に意を決した。

 槍を取り、矢を放つ女狩人を迎え撃つ。


 
 ――それがメレアグロスと、ギリシャ随一の狩人アタランテの出会いだった。


 
























 アタランテ「くっころ」
メレアグロス「了解した」


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君の名は。





 漫然と、漠然と水の中で蠢く感覚。息が出来ないのに苦しくなく、生きているのに生まれていない、筆舌に尽くせぬ酩酊の沼地。

 ――()の鼓動を覚えている。

 おかしな話だ。メレアグロスは、己がまだ生まれてもいない頃の――母の胎の中に治まっていた頃の記憶を持っていたのだ。
 絶望的なまでに希望に溢れた血流に、啓蒙の拓ける狂気の網で自我が絡め取られたようで。
 眠っているのに寝ていない、夢心地の明晰な意識は、自らに向けて懐疑する。
 己は何者か。此処は何処なのか。こうして懐疑する自我はなんなのか。
 答えはない。思考に費やす精神の形が何処から来たものなのか、思考を形にする言語は一体なんなのか。母の語る言語を胎の中で聴き、己の知る言語と異なるものと判じて学習を始めた己は何者なのか。
 問いは、決して答えを齎さなかった。

 生み落とされて、メレアグロスと名付けられた。当然のように、未知のものだった言葉を理解出来る己の物とは思えぬ知性に背筋が凍る。
 微かに焼き付いた奇妙な思想。酷く曖昧な既知感。己の生きる時間に途方もないズレと違和感ばかりが募る。
 なんだ、なんだこれは。己の生まれ落ちた世界の何かがおかしい。いや、おかしいのは己の方なのか? 具体性のない正気。正体の掴めない狂気。やがてメレアグロスはその原因を悟った。いや、そうであると思い込んだ。

 生まれ落ちてより七日。母と過ごす冬の夜。暖を取るために炉へ薪を焚べていた母の姿を覚えている。

 不意に吹き抜けた一陣の風。不思議そうに母は首を傾げ、窓の閉め忘れがあったのかを確かめようと席を立った。そして母と入れ替わりになって忽然と姿を表した三人の女を目撃し、メレアグロスは底抜けに驚愕する。
 三人の女達は赤子のメレアグロスなど気にも留めず、戻ってきた母に名乗った。我ら運命を司るモイライなり、と。
 モイライというのが女神を意味すると、何故己は知っている……? 混乱する赤子をよそに、人ならざる神格の存在は口々にメレアグロスの未来を予言した。
 メレアグロスの知性はそれを信じなかった。何が神だ、そんなまやかしを信じるものかと。
 だがそれとは別に、どこか納得している自分もいた。――嗚呼、本当に神がいるのなら、己という奇形の稚児の存在も有り得るのかもしれない、と。
 神の血が、神を知っていた。故に女神の祝福(のろい)を素直に受け入れられたのだ。

 一本の薪が燃え尽きるまでの寿命、大いに結構。そのまま燃えて灰となれ。このような存在はあってはならぬ、己はいてはならない存在なのだという確信があった。
 悟ったというより、縋った。思い込むことで己の存在を規定して、諸悪の根元は己ではないのだと証明したかったのだろう。
 メレアグロスという個我は、決して生まれてくるべきものではなかったのだ、と。身勝手にも決めつけて、己を生んだ親の存在を軽視したのである。

 いや、より正確には、親というものを侮っていたというべきかもしれない。母アルタイアーは、炉に焚べられたメレアグロスという名の薪を、火が点いているにも関わらず迷うことなく炉から抜き取って、火傷するのにも厭わず素手で火を掻き消した。
 水を用意する暇もないと母は判断したのだ。そしてその綺麗な手に、決して消えることのない火傷の痕を残した。
 メレアグロスはそれに衝撃を覚えた。母は、こんな醜悪な赤子のために我が身を省みず、救いの手を差し伸べたのだ。
 その時、気づいたのである。己の命は、決して己だけのものではなく、生み出した親のものでもあるのだと。
 メレアグロスは生まれてはならない子供だった。故に生きる価値はない。しかしそれは己の価値観でしかなくて、親にはまるで関係のない独善であった。――己に生きる価値がないのなら、親や、それに纏わる者のために生きるべきではないか。メレアグロスはそう思って、そう生きることを決めた。

 メレアグロスの知性は群を抜いていた。
 受けたこともない高等な教育が、この身の教育係りとなった者を知らずに追い詰め、仮にも師であった男の自信を喪失させ、カリュドンの地より去らせてしまった。

 メレアグロスの容姿は図抜けたものだった。
 言われずとも、生まれた頃から知っていた。己は母アルタイアーと、自らの欲望を果たそうとした軍神アレスが一時父と同化していた時に宿った子供なのだと。軍神アレスはオリュンポスの男神の中でも一、二を争う美男。その容色を濃く受け継いだメレアグロスは比類なき美貌を誇っていた。

 メレアグロスの腕力は桁外れだった。
 指先一つで、大の男を捩じ伏せられる幼児は化け物じみていた。神の子ではなく、王の子でもなく、出生の知れぬ子であれば、魔物として排斥されていたかもしれぬほどメレアグロスの怪力は人間離れしていた。

 己の数倍も、数十倍も長く生きているはずの人間の知恵を、技術を、生まれ持った力だけで容易に叩き潰せる異端の力。
 メレアグロスはいつも後ろめたかった。なんの努力もしていない己が、懸命に生きる人々を容易く凌駕する。これが堪らなく重い。彼らの生きた時間と経験が薄っぺらく、価値のないものに見えてしまう己の傲慢さに吐き気がした。
 嗚呼……やはり己は生きていてはならぬ怪物なのだ、と塵芥のような人間を見下して。父母のために生きることでしかメレアグロスは己を人足らしめることが出来なかった。

 黄金の狼(リコセンス)・メレアグロス。――黄金の狼(アレス)のメレアグロスとは上手いことを言ったものだと感心させられたものだ。カリュドンの人間は、良くものを見ている。流石に狩猟の国だった。観察力が高い。

 メレアグロスは己を知っている。化け物である己を知っている。
 人間は己には敵わない。庇護すべき存在でしかない。誰しもが取るに足りぬ赤子のようなもの。そう思っていた。そしてそれは間違いなどではないと確信しているし、今後一生その認識が変わることはないだろう。
 メレアグロスの生涯に、障害はない。この身に傷害を与えうるモノなど有り得ない。神ならざる者は、すべからく黄金の狼を前にすれば狩られるしかないのだ。



 ――ならばこれは如何なる現象なのか。



 飛来する矢の悉くを槍の穂先で叩き落とし、接近を試みるも、メレアグロスは女狩人の常軌を逸した脚に追い付くことが出来なかった。
 速い。山の中を、まるで無人の野を駆けるが如く疾走する深緑の影。間合いを詰めるどころか、一度も反撃に出られない。
 一方的に矢を射掛けられ続けること一刻にも及んだろう。こと、此処に至りメレアグロスは認めざるを得なかった。脚の速さと弓の腕前に於いて、己はこの狩人の後塵を拝するのだと。
 追い付けない。この事実に衝撃を覚えるも、それ以上の喜悦がメレアグロスを襲った。かつてないほどに思考が回転する。
 ――どうする? どうすればオレはあの女狩人に手が届く?
 追い付けぬなら、メレアグロスには彼女を攻撃する手段がない。あの弓の腕、目の良さ、勘の鋭さ、到底メレアグロスの弓が通用する手合いでもあるまい。
 全力で槍を擲てば、躱す余地もなく仕留められる自信がある。しかし、それではこの山ごと(・・・・・)大規模に破壊してしまうことになり、そうなればアルテミスの怒りを買ってしまいそうだ。
 神の怒りなど恐ろしくもないが、それで父母を巻き込むかもしれない以上、神格に目を付けられるわけにはいかない。
 打つ手の無くなったメレアグロスは考えた。単体の獲物にこうも手こずるとは想像の埒外の出来事だった。

 矢が尽きるのを待つか? どうやらあの女狩人も、焦りを覚えているようだ。巧妙に気配を周囲に散らし、正確な居場所をこちらに悟らせないが、矢を放つ間隔が徐々に短くなっている。そのために居場所が少しずつ割り出せるようになってきた。先程聞いた声の感じからまだ未熟な――メレアグロスよりも年下にも感じられる。これほどの矢を放てるのだから、狩りに手こずることもそうはなかっただろう。
 だが矢が尽きるのを待つのは得策ではない。矢が減っていく途中であれば焦りはする、しかし矢がなくなれば冷静になって撤退するかもしれないのだ。
 矢を叩き落とす度に伝わる衝撃から、まずまず力は強い。弓矢がなくなれば脆弱に墜ちるほど安い狩人でもあるまい。格闘の心得があっても不思議ではなかった。であれば……決着は速い方がいい。

 メレアグロスは己の心臓を狙った矢と、その矢に隠れて飛んできた足を狙う暗矢を槍を旋回させてほぼ同時に撃墜する。
 そして追走を諦め、元来た道を戻り始める。
 女狩人の矢が止まった。困惑しているのか。いやすぐに誘われていると見抜くだろう。
 それでいい。追ってくるのならよし、追わずにいても構わない。メレアグロスはどちらにせよ、狩人の兄だという聖熊を解体し、供養するだけのことだ。それが彼女にとって堪え難い行為なら必ず阻止に来るはずである。

 狙いを悟ったのだろう。猛る女狩人の怒気。メレアグロスの背中に矢が激しく襲いかかる。背中に回した槍で総て防ぐも、ん、と首を捻った。今、一矢だけやけに重い矢があったのだ。
 目だけを背後に向ける。相変わらず、姿は見えない。見事なものだった。
 もしや、と思う。全力の一矢であれば、更に矢の威力を高められるのか?

 その疑惑をよそにメレアグロスは聖熊を屠った湖の畔に到達した。

 矢は止んでいる。しかし敵意はなくなっていない。急激に強まる気配が、女狩人が勝負を仕掛けようとしていることを悟らせる。
 メレアグロスは槍を慎重に地面に置き、解体用の刃物を革の鞄から取り出して、聖熊の骸に突き立てる構えをとった――瞬間。これまでの音速を越える矢を更に上回る豪殺の一矢がメレアグロスを襲った。

「……!」

 槍を取り、瞬時に反応して穂先に合わせる。しかしその威力に槍の方が耐えられなかった。
 柄の半ばからへし折れる槍。しかし矢は逸れた。腕が微かに痺れるのに驚愕と歓喜を同時に感じながら、メレアグロスは解体のために持っていた短剣を矢の放たれてきた方角に腕の振りだけで投擲した。必殺のつもりの矢を放ったがために、気配を強く出してしまったところを狙ったのだ。

 命中の手応え。苦悶の声が聞こえた。

 即座に半ばから折れている槍の、穂先の付いている方を拾い上げて、メレアグロスは飛び上がるようにして走り出す。女狩人は動けなかった。短剣は脚に突き刺さっていたのだ。押し倒し、その眼前に穂先を突きつけ、メレアグロスは問う。それは敬意の現れだった。

「貴様、名は?」
「……」
「オレは、メレアグロス。貴様を殺す男の名だ。覚えて逝け。冥府で呪う相手の名を知らぬのは不便だろう」

 名乗る気がないのか、沈黙する女狩人。その鋭い眼光にメレアグロスは怯まず、トドメとして穂先を突き込んだ。

 ――刹那。槍の穂先に刻まれていたアルテミスを讃える文言が光を放ち、メレアグロスの目を焼いた。

 敵とはいえ女、顔を潰すのは哀れと思い、槍を使ってトドメを刺そうとしたのが運の尽きだったのだろう。思わず手が鈍り、その隙を女狩人は見逃さなかった。脚に刺さっていた短剣を抜き、その刃でメレアグロスの喉仏を突く。

「――こういうのを、天は我に味方せず、というのか」
「なっ……!?」

 女狩人が驚愕する。メレアグロスは生きていた。喉を狙った短剣は、その刃先すら皮膚を破れず、産毛すらも断てなかったのだ。
 苦笑し、メレアグロスは槍を引いた。どうやら女神はこの娘に肩入れしているらしい。下手に殺めるのは気が引けたし、何より――

「まさか先に()られるとはな。オレもまだまだ、ということか」

 言って、メレアグロスは女の上から退いた。その際、短剣を奪い返すことも忘れない。
 呆気に取られる女狩人を捨て置き、そのまま荷物の置いてある方に向けて歩き出す。

「な、何故……」
「……?」
「何故殺さない……!」

 質す女狩人に、振り向きもせず答える。

「先に殺された。なら、オレに貴様を殺す手はない」
「――何を。汝は生きている。私は汝に傷一つ付けられなかった」
「それはオレの力ではない。オレは勝手に死ぬことを赦されていないだけだ」

 革の鞄を拾い、短剣を納める。荷物を纏め、槍のもう半分を拾って、メレアグロスは女狩人に向けて頭を下げた。

「貴様の兄を、貴様を誘い出すための餌として用いた卑劣さを許せ。貴様を捕らえる手を他に見つけられなかった」
「それに釣られた私が愚かなだけだ。そして、兄も汝より弱かったから殺された。本来私の怨みは自然の摂理に反するもの。責められこそすれ、謝られるようなことではない」
「そうか。であれば、オレはこの山より立ち去ろう。知らなかったとはいえ、貴様とアルテミス様の領域に踏みいったことを詫びておく」

 頭を上げ、汚れ一つない黄金の狼は湖の主も置いて立ち去っていく。
 女狩人は更に困惑した。殺されなかった自分、置いていかれる獲物。あの男に組み敷かれた時に掴まれた腕が、酷い熱を放っていた。

「――待てメレアグロス!」
「……?」

 女狩人は衝動的に叫んでいた。
 名を呼ばれ、メレアグロスが振り返る。女狩人は相手に倣い、深く頭を下げていた。

「名乗り返さずにいた非礼を詫びる。私はアタランテ。アルテミス様を信仰する山の狩人」
「アタランテ。確かに覚えた」

 黄金の狼は浅く頷く。その謝罪を受け入れられると、深緑の狩人は問いを投げた。

「メレアグロス。汝は何故、自らの獲物を置いていく?」
「その聖熊は貴様の兄なのだろう。ならばオレに持ち去る意思はない」
「この湖の主は」
「オレは貴様に殺された。殺された者は、得たものを持ち去る資格はない。……この荷物はオレの物ではない故、置いて行くわけにはいかんが」
「……解らない。私には、汝の言うことが何も」
「それは、貴様が獣であるからだ」

 端的に、メレアグロスは言った。
 この女狩人――アタランテの気配は獣のそれ。価値観もまた人の物でなく、獣の論理であった。
 ふとメレアグロスは己が饒舌になっている事に気づく。いつか、父に向けてひたすら弁明していた頃ほどではないが、これほど語るのは久しいことだった。

「……私は、人の子だ。だが汝の言う通り人ではない。だから解らないのか?」
「そうだ。そして、それは恥じるべき物ではない。汝の在り方は誇り高く、美しいからだ」
「――私が、美しい……?」
「ああ。自然のままで在れ、獣のアタランテ。貴様の矢に、オレは痺れた。貴様はオレを殺したことを誇ってくれるだけでいい。兄も、湖の主も、貴様の好きにするといい」

 にこりともせず、メレアグロスは今度こそ去っていった。
 呆然と、アタランテは立ち竦む。頭が、熱い。知らない気持ちだった。これはなんなのか、胸に手を当てると激しく脈打っている。アタランテはメレアグロスの去っていった方角をいつまでも眺めていた。

「――黄金の、メレアグロス……」

 その呟きは、熱情に浮かされたようだった。

















※なお概ね原典通りの模様。


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旅の道程

スマホが返ってこない……代用機書きづらい……。







 不用意に女神の領域に踏み入ってしまい、無用な殺生に手を染めた事をメレアグロスは深く反省した。
 音が鳴るほどに空腹が堪えても、メレアグロスは山を出て初めて釣り上げた大魚を己の物とはせず、丹念に貴重な塩をまぶして焼いた後、アルテミスを讃える文言を刻んだ槍の穂先に突き刺して贄とし、女神に捧げることで贖罪を優先する姿勢を示した。

 その際、この旅の途上では、如何なる山にも立ち入らぬことも誓う。
 生け贄と誠意ある祈り、或いは誓い、そして贄を捧げる者の苦痛……それらが揃っていてこそ神格は満悦するのである。神々はただ祈り、敬意を示すだけで寛大な心を示すことはないと、メレアグロスはいつの間にか知っていたのだ。
 槍に刺して大魚を天に翳すと、メレアグロスはすぐにその場を離れて、自分のための魚を取るべく再び川に向かった。
 背後で神格が降り立つ気配を感じる。強大な神威に、しかしメレアグロスは振り返らない。
 己の美を誇る類いの女神を、許可なく目にすることは不幸を招く。事を荒立てるのは本意ではない。メレアグロスは決して女神の姿を見ようとはしなかった。

 不思議なもので、メレアグロスはモイライ以外の神格を目にしたことはないのに、日に日に神への理解を深めていた。
 それは幼少の砌、初めて狩りを行なった頃より続けている、ゼウスやヘラ、アルテミス、アポロンへの月毎の生け贄と祈りを忘れぬ敬虔な姿勢を保っているが故のものかもしれない。
 徐々に神の歓心を買えている……学びもしていない神の好みや知識によって、それがよく実感出来ていた。
 まったく、現金な神だなと苦笑するも、この世界の神々は酷く人間的で、分かりやすいものだ。人間の感情や特性を肥大化し、尖らせた性格の持ち主だと捉えていれば、まず間違いはないのである。
 持ち上げ、称え、祈って、尚且つ貢ぎ物さえきちんと捧げていれば不興を買うことはない。カリュドンの父母のために、なんらかの神を後ろ楯に出来たら最高だと思っているが、打算などそれだけだ。探られて痛む腹などなかった。

 ――注意すべきは、決して神を侮る言動を取らぬこと。神は何時何処で何を見て何を聞いているか分かったものではない。不用意な侮辱は命取りだ。総ては心に秘めおけば、神々は決して本心を悟れない。

 神だなんだと言っても、神々は人の心を読むことができない。否、正確には矮小な人間のことなど歯牙にも掛けぬ故に、読もうとも思わないのだ。心など幾らでも操れる故に、そもそも心を読み解く必要など神にはないのである。
 であればこそ、メレアグロスの内心など知らず、この時代、最も信仰厚き英雄とされたメレアグロスの本心をオリュンポスの神々は最後まで知ることはなかった。
 それは幸運なことだった。誰にとっても。
 幾日も後、メレアグロスは川から水面に浮上してきた魚の影に短剣を擲ち見事仕留める。魚を回収して、なんとなしに魚を掴む手に力を込めると、金色に煌めく雷光が電熱となって魚を焼いた。
 神の血が流れる故に、なんの処理もせず生のまま食らってもなんら問題はないが、気分的な問題で、刺身以外の生物を口にする気には到底なれない。とりあえず焼く、という行為は習慣付いていた。

 時が流れるのは早いもので、あの女狩人との出会いも、既に数ヵ月前の出来事だった。

 自分が今、どこにいるのか、正確なことは知らない。ただ故郷のカリュドンがある方角だけは常に意識していたから、帰還には困らないだろうとだけ思っている。
 早く五年経てばいいと思う一方で、何も成さぬままに帰るのも味気ないとも思ってしまう。
 ただ流離い、風の吹くままに旅するのも悪くはないが、折角なので自分を高めたいという気持ちもなくはなかった。
 アタランテとの出会いが、メレアグロスに弓を捨てさせた。あれは真似できないと思ったのだ。単純に槍の方が性に合っているというのもある。彼女が弓を極めているなら、自分は槍を極めて見せる、なんて対抗意識を感じていた。それは久しく感じていなかった感情で、案外と世界は広く、己が如き人間が掃いて捨てるほどいるのかもしれないと考えさせられた。
 それは、なんて素晴らしいことなのか、とメレアグロスは思う。自分は特別でもなんでもなく、探せばどこにでもいる、少し珍しい程度の存在だったとしたら……これほど喜ばしいことはない。
 競争相手、或いは目標とできる人物。そんなものとは無縁だと勝手に決めつけていたが……そう断じるのは早計なのだとアタランテが教えてくれた。

 案外と、真っ正面から己を叩き潰せるような……全力を振り絞ってなお打倒が困難な怪物がいるかもしれない。――そんな心踊る空想に胸を膨らませて、気ままに旅をしていると、どこかから視線を感じる時があった。

 それが誰のものなのか判然とはしないが、害意はないようなので放っておいた。
 獣は、どこにでもいる。
 襲ってこないならそれでいい。無意味に殺すのは主義に反する。殺戮と暴力を好む己の血をメレアグロスは精神力一つで抑制していた。

 時々、旅人や詩人、行商人の一行と出会う時がある。メレアグロスは彼らに対し、決まって近くに有名な英雄、或いは賢者がいないかを訊ねた。
 腕試しがしたい。そんな若者らしい稚気を起こしたのだ。旅人らはメレアグロスの黄金の髪と、神威を放つ美貌、そして礼節を尊ぶ姿勢を見て、恐縮すること頻りで情報はろくに手に入らなかったが、ある時一人の商人が近くに城塞都市があることを教えてくれた。
 徒歩で三日の距離だという。そこは戦女神アテナが守護する都市国家アテーナイであり、近く祭儀があって、特にアテナのお眼鏡に適うものを捧げると、三つの願い事を口にする権利を得られるという。
 一つ二つは願いを叶えて貰った者はいるが、三つ全てを叶えて貰った者は未だかつていないらしい。何か知りたいことがあればその祭儀に参加してみてはどうか――商人はそう言った。

 なるほど、それは面白いことを聞いた。

 メレアグロスは折角なので、今から一ヶ月後の七月に行われるアテナの誕生祭、パンアテーナイア祭に参加してみることにした。
 聞くところによると、その祭儀では馬術、詩歌、音楽、文芸による競技が催されるという。
 パンアテーナイア祭は四年に一度行なわれ、パルテノーン神殿にあるアテーナーの神像の衣が取り替えられ、乙女たちが新しく織った衣を着せるとか。まあ、そこらはどうでもいい。
 祭りが好きな気質はどこから来たものか。判然とはしないが、メレアグロスは正直、まったくアテナのお眼鏡に適うとは思っていない。詩歌も、音楽も、文芸もからっきしだった。王子としてそれなりには学んだが、カリュドンは狩猟の盛んな狩人の都市である。上品な文学など廃れて久しい。ジャンル違いの都市なのだ。
 馬術なら優勝して見せる、とは思うも、まあ参加することだけが目的なので、そこまで力むことはない。都市にいけば、著名な人物を知る者もいるはずなので、むしろ本命はそちらだった。

 商人に礼を言うと、彼はメレアグロスに名乗り、己の名を覚えてくれるだけでいいと強かな笑みと共に言ってきて、メレアグロスは目を瞬き、彼の名と顔を覚えておくことを約束した。

 ――その日の夜のことだ。薪を魔力で起こした電熱で発火させて焚き火をし、その側で眠りに就くと、夢の中に二柱の神々が現れたのだ。

 メレアグロスは驚愕し、戦慄した。凄まじい光輝、圧倒的な神威だった。運命の三女神が赤子に見える神格の巨大さに、生まれて初めて畏怖の念を抱く。肌が粟立ち呆然としかけたが、なんとか跪き頭を垂れる。
 余りに突然、唐突な、夢の中への降臨。名は知らぬまでも、礼を欠くことはこれまでの祈りと生け贄を無為とする。それは認められないことだ。メレアグロスは懸命に意思を保ち、冷や汗を流しながらもお言葉が下るのを待った。

 やがて、光輝纏う男神が厳かに告げた。

"――壮健なる日々の努め、父母を敬う孝道、神に礼を尽くす忠道、まこと大義である"

 は、と辛うじて応える。押し潰されそうな神性に、メレアグロスは歯を食い縛った。
 次いで美しい女神が口を開いた。心の底から不思議そうな、怪訝そうな語調だった。

"そなたは、まことにアレスの子であるのか?"

 問いに、頷く。己の生まれた経緯を、メレアグロスは知っていたから答えられた。
 この身は間違いなくアレスとアルタイアーの子である。それはこの黄金の髪と瞳が証となりましょう、と。
 威厳溢れる男神と、美々しき母性の女神は同時に唸った。……なんだというのか。オレはどこかおかしいのか。

"物心ついてより欠かさぬ祈りと生け贄。アルテミスに見せたあの神を尊ぶ真摯な姿勢……あの愚かなアレスの子とはとても思えぬ"

"しかしその髪と瞳、そして妾譲りの美貌は確かにアレスに似ている……"

"では后よ、これなる子はまことにアレスの子であると?"

"そうでしょう。この美しさはただ事ではない。人の子にはあり得ぬもの。であれば、紛う事なき妾の孫となりましょうや"

 女神の言葉に、メレアグロスは察した。この二柱の神々は――



"妾の名はヘラ。ありとあらゆるモノの中で最も美しい、天界の偉大なる女王"

 権威を表す王冠と、王笏を持つ女神はそう名乗り。

"儂はゼウス。オリュンポスの神の王である。謁見の栄誉を与え、今またお前に試練を与えん"

 眩い光の、人の形をした雷光は全知全能の真名を唱え。 

"我が愚息、アレスをけしかける故、それを懲らしめよ。自らの子にしてやられたとなれば、あれも少しは変わるかもしれん"

 そう、メレアグロスに試練を与えた。


 軍神アレスを懲らしめよ。その命に、目を覚ましたメレアグロスは呆然と呟いた。



「…………なんでだ」



















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七つの難行が一





 あれは性質(たち)の悪い悪夢だった。
 ゼウスとヘラは実際には夢に出てきてなどおらず、全てはメレアグロスの見た幻であった。
 そうだ、そうだとも。何故にこんな男の許に全知全能の神王と、その后にして天界の女王が二柱揃ってやって来る? しかもその理由が、自分の息子の教育に関することと来た。
 有り得ない、馬鹿らしいにも程がある。現実的に考えてアホらしすぎた。
 仮にあれが現実だったとして、子供の教育ぐらい自分でやれと声を大にして言いたかった。特にゼウス、全知全能なら息子ぐらいどうにかしてほしい、冗談抜きに、切実に。

「……」

 やるせない気分で嘆息した。馬鹿馬鹿しい現実逃避だ。そんな妄想に耽る暇があるなら、今すぐに知恵を絞るべきである。
 ただの夢であるならばどれだけ良かったか。メレアグロスは掌に滲む脂汗を握り締め、どうしたものか頭を抱えた。
 懲らしめると言ってもどうすればいい? 話せば分かる手合いでもあるまい。上から言えば不敬であるし、対等にものを言えば不遜だし、下から言っても鼻で笑われて終わりだろう。
 正味、話を聞かない殺戮と暴力の化身。軍神にして戦神、戦争の暗黒面の具現化したオリュンポス十二柱の神の一人。異母姉の戦女神アテナと比べたら色んな意味でひどくて泣きたくなる。あんなのが父親とか嫌すぎた。オイネウスの爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。どうしてこうなったのか過去を振り返りたくなるが、自制する。

 メレアグロスは深呼吸した。

 なんとか落ち着き、具体案を練る。
 神からの試練だ、逃げることはできまい。ならば立ち向かうだけだ。
 と言っても、無策ではどうにもならない。こうなったらアテナの守護する城塞都市に駆け込んで、加護の一つでも貰うしかあるまい。アテナの領域にいれば、アレスもおいそれと仕掛けては来ないはずだ。
 そうなれば、じっくりと策を練ることもできる。自分一人だと心許ないので、仲間を募るのもいいかもしれない。一人で懲らしめろとは言われていないからだ。
 よし、そうしよう。思い立ったが吉日、メレアグロスはすぐに立ち上がって走り出そうとした――瞬間。

 怖気立つ神威。

 狂乱と破壊の神格。

 城壁の崩れ去るような轟音を伴い、遥か天空より黄金の額帯を付けた、四頭の神馬の牽く戦車が駆けてきた。

 それを見上げ、メレアグロスは絶句する。

 ――早い。早すぎる!

 粟立つ神気。圧倒的な、瀑布の如き威圧感。
 豪奢な戦車を操るのは、綺羅光る青銅の鎧を着込んだ絶世の美男である。
 メレアグロスに良く似た風貌に野性味を付け足し、精悍にした顔立ち。黄金の髪を短く刈り上げ、奇しくもメレアグロスと似た髪型をしている。

 この瞬間、メレアグロスは髪を伸ばすことを決意した。

 凝固するメレアグロスの前で戦車を止めた軍神は、軽やかに跳躍して戦車より飛び降りた。
 膨大な神威を隠そうともせず、じろりと黄金瞳でメレアグロスを睨む。
 神の視線。荒ぶる狂気の神。巨大な、身の丈以上の槍を手にするアレスの風格に、メレアグロスは怯みそうになる。気持ちを必死に持ち直そうとするも、なんの準備もしていないどころか寝起きの襲来に、動転していた気構えを整えられない。

「――貴様が、吾の仔か」

 まるで、自分の声。
 瓜二つの容貌に、声。メレアグロスは吐き気がした。血塗れた己の声が、こんなにも嫌悪感を煽るとは……。
 メレアグロスは、歪みそうになる表情を固め氷のような顔色で軍神に相対する。

「……ふむ。似ている、確かに吾の血を引いているようだ」

 巨大な槍を軽々と繰り、その穂先でメレアグロスの顎を掬い上げ、まるで犬猫でも見るように検分した後の第一声がそれだった。
 槍から伝わる強大な神気に、背筋が凍る。
 恐怖に震えだしそうだった。今すぐに跪き、許しを乞いたかった。だが、身に宿る魂が、それを許さない。人の身で、気力の限りを以て、毅然と見詰め返す。

 だが、震えはなくならない。こんな気構えでどうやって試練に打ち勝てる? メレアグロスには、何も――

「それで? うぬは、どこの女の腹よりひり出てきた?」

「……?」

 何を言われたのか、一瞬わからなかった。
 アレスは面倒そうに繰り返す。

「白痴か、うぬは。何度も言わせるでない。どこぞの端女の腹より捻り出されたのがうぬであろうが」

 その物言いに。
 メレアグロスの目に、雷電が散った。

「――我が母はカリュドン王オイネウスが后、名をアルタイアー。そして、オレの名はメレアグロス。覚えおきたまえ、偉大なる軍神よ」
「ほぉ、メレアグロス。覚えよう、覚えになくとも吾の仔であれば。……ところで、」

 鷹楊に頷き、アレスは何気なく、悪気の欠片もない――されど誠意の一片も含まれぬ言葉を吐いた。

「アルタイアー。……誰だ(・・)? それは(・・・)
「   」

 メレアグロスの顔から、
 完全に、
 表情が消えた。

 ――震えが、止まった。

「アルタイアー。アルタイアー……? 思い出せぬ。どこぞの戦の帰りに、昂った精を適当に吐き出した女であろうな。まあ人の女なぞ、吾の精を受けられた栄誉にさぞかし悦んでおったろう」

 ふん、と嘲るように嗤い、アレスは傲然と胸を聳やかす。そして更に言った。

「まあよい。メレアグロスよ、ここに跪け」
「……何故、と問うても?」
「吾の仔であろうが。天界に連れ帰る。そのために、人の血と肉は余分であろう。故に首を刎ねる。その神の身だけを召し上げようと言うのだ」

 脳裏によぎる、火傷で爛れた手。
 メレアグロスは、知らず。迸る雷を纏い、静かに答えていた。

「……オレに余分などない。この血と肉に恥じるモノなど何一つない。あるとすれば、それは御身の血だ」
「ほぉ……」

 にたり、と残忍に犬歯を剥き出しにしたアレスは、どこか楽しげで、嬉しげだった。

「吠えよる。なるほど、父の言う通り慢心しておるのか。吾の血を引いておるなら強大な力に酔うのも無理はないが。――よかろう、ならば教育し、仔は親に従うものと教えてやる」

 アレスは笑いながら距離を取る。目を眇めたメレアグロスに、悠然と余裕たっぷりに語りかける。

「同じ地平で戦ってやる。さすれば、否が応にも父の偉大さを思い知るだろう」
「……」

 本気か? 視線だけで問う。もはや交わす言葉の一つすら惜しい。メレアグロスはこの時、己の怒りだけで目の前の神を叩きのめすことを決めた。

 侮るのはいい。侮辱するのも、嘲笑するのも受け入れよう。だがこの身の父と母を軽んじる輩は、断じて赦しておけない。
 幸い、アレスを打ちのめす赦しは出ている。罰しられはしないだろう。

 アレスは神槍を構え、こちらに促してきた。

「槍を構えよ。腕前を見てやる」
「……その慢心、このオレが糺そう。二度と我が父母を軽んじることがないように。二度とこのオレを侮れぬように。覚えおけ、貴様はこれより、血を分けた子に諫められるのだ」

 やって魅せよとアレスが踏み込む。
 無言で帯電したメレアグロスが敵意を抱く。

 戦神と、黄金の狼。後の世にメレアグロスの難行の一つに数えられる、軍神との決闘がここに幕を上げた。




















 激甚なる黄金の稲妻を迸らせ、半神の槍が迫り軍神を突き殺さんとする。
 アレスは神槍を操り、メレアグロスの槍を受け流す。槍の纏う雷電が伝ったのか微かに顔を顰め、しかし問題なく穂先を逸らした。
 猛る黄金狼。裂帛の気合いを以て牙を剥く。
 腕を開いたアレスは青銅の鎧で穂先を受け、脇に挟むようにして無銘の槍を抱え込み、へし折ろうとした。しかしその動きを見て取っていたメレアグロスは即座に槍を握る柄を滑らせ、間合いを詰めるや槍を折られるより先にアレスの腹を蹴り付けた。
 やるな! 楽しげな軍神に、苛立つ半神。舌打ち一つ、黄金の狼が猛然と打ち掛かる。

 アレスの槍の技はつたなく、達人の槍捌きには程遠い。本来ならほんの十合も打ち合う間もなくメレアグロスに打ち倒されていただろう。
 しかしその闘争本能と、驚異的な反射神経によって、アレスはメレアグロスの技の全てを、見てから(・・・・)回避することが出来ていた。
 故に腸が煮えくり返る。互いに人の領域を越えているとはいえ、アレスは見るからに戦士としては格下、本当なら対等な勝負など成立しない。であるのに、アレスは己の素養だけで互角にまで持ち込んでくるのだ。これに苛立たぬほど、メレアグロスは大人ではなかった。

 陽が低い内から戦い始め、一度は天上にまで昇った太陽が地平線の彼方に傾いていく。
 戦いが続くにつれ、アレスの貌に狂気の色が立ち昇り始めていた。闘争の喜悦が、彼本来の性質を呼び起こしていたのだ。
 手加減すると言った、だがどのみち彼は人としてのメレアグロスを殺すつもりでいる。ならば、この戦いの喜びを……人の身でありながらこうまで己と打ち合える息子との戦いを、純粋に楽しんでもいいのではないか――自ら約したことを、アレスは既に破り捨てたい衝動に駆られ始めていた。

 夜になる。手加減がなくなっていく。防御に回っていたアレスが攻めに転じていく。ぐぅ、と呻きながらメレアグロスが防戦に回った。
 ォォォオオオ!! 軍神の狂喜に染まった咆哮。ほんの少しの間とはいえ、戦神が全力で攻めに回ったにも関わらず、堪え忍ぶメレアグロスの武勇に自分を抑えられなくなったのだ。
 珠のような汗を散らしながら、メレアグロスは怒号を発した。メレアグロスの雷光が槍の穂先の先端まで伝い、始めて真っ向から神槍と打ち合った。もはや得物を気遣いながら戦うのは不可能、メレアグロスは槍の寿命を自らの電撃によって磨り減らし、神槍と打ち合ってもすぐには破壊されぬようにするしかなかった。
 神槍と雷槍。激しく激突し、夜の闇をも駆逐する火花が散る。収まることを知らぬ神と半神の熾烈極まる戦いは、一日の時を掛けても終わることはなく。やがて槍を打ち合う剣戟の音色と、夜になったのにも関わらず昼の如き眩さを齎す狂騒に、近辺の城塞都市の住民は遂に耐えかねて守護神アテナに願った。どうかこの狂騒を鎮めたまへ、なにとぞ、なにとぞ! と。

 ――何ぞ黄金の怪物が食らい合っていると聞いて見てみたら……我が対となる愚弟ではないか。

 天空よりその激闘を眺め、戦女神アテナは呆れたように嘆息した。

 ――あやつめ、何を遊んでいる。我が眠りを妨げていることすら考慮の外か。

 全く、馬鹿馬鹿しい。
 そうは思うも、アテナは少し気にかかった。
 愚かなりとはいえ、アレスはオリュンポス十二柱が一柱の神である。それを相手に何処の何者がこんなにも長く戦えるのか。
 興味が湧き、眼を凝らしてアレスの相手を見た。
 そして、アテナはかつてない衝撃を覚える。それは、アレスに良く似た――されど、まったく違う、外見だけでない美しさを汗と共に散らす絶世の美男子だったのだ。

 ――ひ、人ではないか……人が、神と互角に戦うだと?

 美しき女神アテナの声が震える。そして、その身が纏う雷電が父ゼウスに由来すると見て取ったアテナは、彼が己の一族に連なる者と知り、アレスの子ではないかと思い至った。
 であれば、あれは半神。半分が神とはいえ、肉の体を待つからには人の括りで間違いない。それが、ああも猛々しく戦えるとは……。

 ――たぎる。たぎる英雄だ! よいぞ、この戦い、私が最後まで見届けてやろう! 我が加護なしでどこまでやれるか、魅せてみよ英雄!

「雄ぉぉお!!」

 答えたわけではあるまい。だがメレアグロスは吠えた。普段の冷徹なまでの氷の面を投げ捨て、決死に槍を振るい続ける。その雄叫びの、なんと耳に心地よいことか。
 美しく、強い。歌えば美々しい文化の声。戦えば勇ましい勇者の声。英雄を好む女神は夢中になってメレアグロスの姿を追った。

 月が輝けぬ夜は過ぎ去った。朝陽が昇り、尚も打ち合う狂乱する戦神は、闘争の喜悦に浸る余り、アテナとメレアグロスの度肝を抜く蛮行に手を染めた。
 延々と続く戦いに、少しばかり飽いたのだろう。趣向を凝らすかの如く、愉悦に興じるように嘯いた。

「ハハハハハハハハ!! 楽しいなぁ、息子よ! だが、少々飽いた。今度はこんなのはどうだ!?」

 言うや否や、一足飛びに遥か数㎞先の小山の麓まで跳躍したアレスは、その小山を両手で抱え、持ち上げるやメレアグロスに向けて擲った。
 さながら天が落ちてくるかのような光景。アテナが思わず声を上げた。いかん! それは、己の領域で考えなしに暴れるアレスを咎めるものではない。小山とはいえ雄大な大地の隆起を投げつけられた黄金の英雄の命を思ってのこと。
 だが、アテナのそれは、杞憂に終わった。メレアグロスは槍を地に突き立て、満身に力を込めて、山の重さとアレスの擲った力の合わさった山を、両手で受け止めて見せたのである。
 苦悶の呻き声と共に、完璧に山を支えたメレアグロス。黄金の狼は激怒して叫んだ。

「元にぃ――(もぉどぉ)せぇええ!!」

 渾身の力で投げ返した山は大地と水平に飛来し、アレスに直撃した。おぉ、感嘆の声を上げるアテナを他所に、戦神は吹き飛び、元の位置に戻った山に埋まった。
 なんとか這い出たアレスが次いで見たのは、天高く飛び上がり、全身より黄金の雷を放出して、第二の太陽の如くに燦々と煌めく狼の姿。
 手には、メレアグロス必殺の投槍。
 放たれていた魔力の全てを籠めた全身全霊、至大至高の一撃である。

 しまった、とアレスは喚くことすら出来なかった。メレアグロスが最も得意とするのは槍の投擲。槍を擲てる隙を曝した軍神の不覚。
 アレスの直上より、放たれた槍は光となって軍神の鎧を砕き、その腹を貫通して大地を穿った。大陸が震撼する、大海が揺れる。後に"メレアゲルの泉"と称されることになる巨大な湖が、大陸を貫通し大穴を穿って誕生した瞬間である。

 海神ポセイドンが慌てて海流を操作、戦女神アテナが瞬時に応じて大陸の割れ目に海を導く。被害は皆無とは言えない。だがそれでも最小に抑えた。
 アレスが"メレアゲルの泉"より飛び出る。その腹にはメレアグロスの槍。それを砕き、怒りに震え、電撃によって手足が痺れたまま赫怒の炎を纏って叫ぶ。
 メレアグロス! 殺意の赴くまま、自身の状態すら省みれず、アレスは狂乱して無手のメレアグロスに神槍で突き掛かった。危うし、とはならない。痺れた手足で、土手っ腹に風穴を空けられたままで、どうして満足に力を出せると思う。メレアグロスは突き出されてきた神槍を両手で受け止め、奪い取ろうと試みる。
 神槍を介した力比べは一瞬も拮抗しなかった。メレアグロスはアレスごと神槍を振り回し、堪えきれず神槍を手放し再び吹き飛ばされたアレスを追い、虚空を飛ぶアレスに追い付くやその足を掴む。「待っ――」何かを言いかけるアレスに、メレアグロスは拳を振りかぶって吠えた。

「赦しを乞え!!」

 それは誰に対してか。振り下ろした拳はアレスの顔面を深々と突き刺し、地面にめり込む。その体に馬乗りになりマウントポジションを奪うと、次々とその拳打を浴びせかけた。
 びくん、びくん、とアレスの体が拳の威力に反応して痙攣する。意識を失い、覚醒し、また気絶する。それを何度繰り返したのか。アレスは追い詰められ、激甚たる怒りを爆発させる。

"――オノレェッ! 吾が子と思い手心を加えてやっておれば調子に乗りおって、もう許さん、人のまま死ねい!"

 アレスの体が膨張する。巨大化する。弾き飛ばされたメレアグロスは、肩で息をしながら天高く見上げた。
 それは軍神アレスの本当の姿。二百メートルを優に越す巨体。足を持ち上げ、アレスは全力でメレアグロスを踏みつけた。一度、二度、三度、四度――
 人に対して余りに大人げない力の行使に、アテナは呆気に取られて見ていたが、我に返ると恥ずかしいやら悩ましいやら、人間離れした美貌を朱に染めて激怒した。
 英雄との戦いを汚すとは! あの愚弟、今度ばかりは許しておけん! 思わず武器を取り、戦装束で打って出ようとするアテナ。だが、アテナの出る幕はなかった。

 二十七度目の踏みつけの後、息を乱して、痛む腹を押さえながらアレスは止まる。治療をして貰わねばならない、もう帰るかと、全てが終わったと思ったアレスが――不意に、言語を絶する壮絶な激痛に悲鳴を上げた。

 巨大な足の裏。その下から、一頭の狼が這い出てきた。身に纏っていた衣装は襤褸となり、されど傷一つないままに。
 そしてメレアグロスは、アレスの足の親指を掴み、渾身の力で捻ったのだ。悲鳴をあげて倒れたアレスを、親指を掴んだままゆっくりと回転を始め、文字通りのジャイアントスイングを敢行。天高く放り投げ、地面に頭から落ちてきたアレスに、メレアグロスは全身の力を溜めて跳び上がる。拳を振りかぶり、山ほどもある頭の頂点を殴り付け、アレスを再度天に弾き飛ばした。

 着地し、轟音と共に地面に倒れ伏したアレスの顔に乗ったメレアグロスは、戦神の槍を帯電させて鼻先に突きつける。これ以上は、ただではおかない。何よりも雄弁な、メレアグロスの眼光に、アレスは人の姿になって黄金の狼を見上げ、呻くように言う。

「ま、参った……」
「……」

 神槍の穂先を離し、メレアグロスはアレスから距離を置く。そして、無言で何かを促した。

「な、なんだ? 吾の敗けだ、ハハ、流石は吾の仔であるな。うむ、油断したとはいえ、まさか一本取られてしまうとは」
「……」
「……な、何かほしいのか? いいだろう、吾の加護をやろう。戦となれば倍の力を発揮できるようにしてやる。そうなれば、人の中でうぬに勝る英雄はいなくなるだろう。なんとなれば女神の中から嫁をやってもよい。どうだ?」
「……そんなものは要らない。そして何を求めても無駄であると、今ので解った。去れ、軍神よ。オレは貴方と共に行くつもりはない」
「な、なに?」

 何も求めないと言うメレアグロス。アレスは、呆気に取られた。
 帰れと言われた。それはいい。アレスも、もうこんな所にはいたくない。だが……その前に、

「よ、よし、解った。要らぬと言うなら無理にくれてやるものもない。だが、その、な。……メレアグロスよ、吾の槍を返さんか」
「……断る」
「何故だ!?」

 はあ。と、嘆息したのはメレアグロスだけではない。

「オレの槍は、貴方に砕かれた。今、この神槍を返せば、オレは無手となって貴方に突き殺されるかもしれない。そんな危険は侵せない」
「だ、だが天界に帰り槍を無くしたとは言えん。それは、吾の権威の具現である。どうしろと言うのだ」
「……返したとして、それでオレを殺さないと誓えるか?」
「無論だとも」

 断言するアレスに、しかしメレアグロスは鼻で笑いもしなかった。

「……信用できない。貴方は手加減するという約定を自ら破ったばかりだ。戦車に乗り、早々に立ち去るがいい」
「なんだと! それでは吾の面目が――」
「……はぁ。……ではこうしよう。貴方は、ここで息子と会い、自らの槍を下賜した。そう言えば、貴方は面目を保て、自らの子に大事な槍を授けた寛大で慈悲深い神と思われ、偉大なる神々の王と女王も貴方を見直すことだろう」
「なんと! それはいい考えだ! 流石であるなメレアグロスよ、誉めて遣わす! で、吾は槍をどうすればよい?」
「……」

 なんでこんなのが己の父なのか。メレアグロスは天を仰ぎたくなるのを懸命に堪え、辛うじて眩暈を押さえて応答した。

「……神々の王は大層慈悲深い方と聞く。であれば、我が子を思いやって槍を贈った貴方を見れば、感激し槍の一本ぐらい新調してくださるのではないか。……恐らく」
「そ、そうか! 父が……吾を見直すか! うむ、うむ、よしではそうするとしよう。ではな、メレアグロス! もう二度と会うことはあるまい、せいぜい人としての生を全うしてそのまま冥府に逝くがいい!」

 オレも、二度とその顔を見たくない。――流石に声に出しては言えず、内心に秘めおいたが、疲労困憊したメレアグロスの内面は表情に出ていた。
 しかしさっさと戦車に乗り込んで天に去っていったアレスはそれに気づかず。斯くしてメレアグロスの手元には、一本の神槍が残されたのだった。

"見事。一時はどうなるかと思ったが、穏便に済ませてくれたか"

 アテナはその一部始終を見届けて、満足げに頷いた。

 アレスは天界で恥を掻くだろう。これだけの大騒ぎをして、ことの真相が天界に知れ渡っていないはずがない。
 そこでメレアグロスに言われたままに槍を失ったことの弁明をすればどうなるか……面目丸潰れどころではないだろう。だが全て自業自得だ。
 メレアグロスは試練を果たした。アレスを肉体的に、風聞的にも叩きのめし、大いに懲らしめたと言える。ゼウスとヘラは息子の醜態に頭を抱えるだろうが、そんなことはメレアグロスの知ったことではない。
 疲れきったメレアグロスは、その場で倒れた。
 そして、気絶するようにしてそのまま眠り始める。

 アテナはこの姿を見て、疼くものを感じた。このまま去らせてしまうのは惜しい、なんとか引き留められないか。そう考え、近く己の誕生祭が開かれることを思い出す。
 こやつをそこに参加させれば、公然と会う口実になるのではないか。それは、妙案に思えた。

 それまで放っておくのも可哀想だ。それに、神に打ち勝った英雄を、このまま野晒しにしておくのは憐れである。
 アテナは眠るメレアグロスを、城塞都市アテーナイに運ぼうと、彼のもとに降臨しようとした――が、アテナはあることに気づき、思い留まった。

 それは、全速力でメレアグロスに駆け寄っていく、深緑の衣装の小娘。アテナをして瞠目する健脚は、伝令神ヘルメスをも彷彿とさせる。
 小娘が、泡を食いながらメレアグロスを城塞都市に運んでいくのを見て、なんとなく面白くないものを感じたアテナであったが――

"……まあいい。メレアグロスの許に降臨するのは、然るべき時まで待とう。なに、すぐに会えるとも。――心待ちにしているよ、英雄"

 アテナはそう溢して、天界に戻っていった。



















メレアグロス、ゼウス由来の雷属性の魔力放出が可能であることが判明。

なおアレスは軍神ですが、戦神でもあります。ですので作中の表現は表記揺れではございません。

あと、今日スマホ帰ってくるらしいですが、流石にエミヤさんは今日は無理です。ほんとに。


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狩人の願い

エミヤ、書き終わったはいいけど、どうも納得がいかない……一度は書き終わったものをなぞった物だからだろうか……?

ちょい手直ししつつ、満足いったら投稿します。















 頬を拭う湿った布の感触に、メレアグロスは擽ったさを覚えて目を覚ました。
 意識が覚醒する間際に呻きながら身じろぎすると、驚いたように強張る人の気配を感じる。
 怪訝に思い、目を開くと。そこには湯で湿らせた手拭いを手に、なんとも居たたまれないような、恥ずかしそうな面持ちでこちらを見る、見知った少女の姿があった。

「……アタランテ?」

 野生の中に自然な気品が薫る、白皙の整った細面。以前は手入れのなされていない荒れきっていた深緑の髪は艶を持ち、その衣装もどことなく柔らかさを感じる仕立てとなっている。
 見違えた、しかし間違いなく知己のある少女である。まったく予想だにしない、数か月前に別れたきりの女狩人との再会に、メレアグロスは驚きを隠しきれなかった。
 名を呼ぶと、少女――アタランテは嬉しげに相好を崩した。緊張と、居たたまれなさがほつれて、年相応のあどけなさが前面に押し出される。

「……汝も、私を覚えていたか」
「無論だ」
「そうか……うん。よかった……」

 呟くその声に、メレアグロスは怪訝な思いを強める。別に難聴でもなんでもない、寧ろ地獄耳なメレアグロスは、間近にいる少女の呟きを聞き逃すことなどなかった。
 何が良かったというのか。首を傾げ、辺りを見渡す。アタランテを見た一瞬、ここは自然と山の中かと誤認しかけたが、なんてことはない石床と木造の建物――恐らくはどこかの安い宿の一室と思われた。
 自分はそこで、寝台に横たわっていて。アタランテはその寝台の横で、台に置かれた桶に満たされた湯に手拭いを浸けている。
 その手拭いで、アタランテはメレアグロスの顔を拭ってくれていたのだろう。

 思い出す。自分は、アレスと戦い、追い散らした後、疲労の余りその場で倒れたはずだ。
 なのに、こんな場所にいるということは……。

「アタランテが、オレをここへ?」

 問うと、何故かアタランテは言いにくそうに固まった。口をもごもごと動かし、あ、とか、う、とか何事かを言いかけてはやめて、戸惑うメレアグロスに、ややあって開き直ったように肯定を示す。

「そ、そうだ。私が、汝をここまで運んだ。うん、偶然な。たまたま、通り掛かったら、汝が倒れていたから、驚いて……」
「すまない。手間をかけた。そして、感謝しよう。わざわざ人里まで運んでくれるとは……あれも、アタランテがやってくれたのか?」

 目を向けた先には、部屋の隅に立て掛けられている赤布に包まれた長物。隠しきれない神気から、あれは神槍だろうと判じられる。

「ああ……人の目に触れさせては不味いと思ってな。勝手だが、封印している。まあ見た目だけしか出来なかったが……神槍なんて、私の手に余る」
「いや、助かる。普通の布では包んで隠すことすら出来ないだろう。外装を隠せるだけ、有り難い」
「うん。そう言って貰えると、私もやった甲斐がある。……あ、あと! 勘違いはするな。私が汝の面倒を見ていたのは、知った顔を野垂れ死にさせるのは目覚めが悪かったからだ!」
「解っている。この借りはいつか必ず返そう。わざわざすまなかった。そして改めて感謝を。ありがとう、狩人アタランテ。それと――久し振り。また会えた、これはとても喜ばしい再会だとオレは思う」
「――!! わ、私も……あっ、いや……」

 何かを言いかけ、言葉が見つからず。アタランテは、あたふたと返事をしようとして、悉く失敗した。恥ずかしげに俯き、赤くなった顔を隠すかのように頷いた。
 メレアグロスは薄い表情の中で、なんとも奇妙な感情が芽生え、擽ったいものを感じた。野生の獣然としていたアタランテが……まるで普通の少女のようになっていて……年下の少女ということで、アタランテが慈しむべき妹と重なって見えたのだ。
 寝台から起き上がり、床に足をつけて立ち上がる。装いも、襤褸屑となっていた物が一新されていた。
 目に栄える、上質な真白の衣装。台の側にある椅子に掛けられた、金糸で狼の刺繍がされた深紅の外套。
 眉を顰める。なんだこれは。目線を辿り、アタランテはメレアグロスの疑問を察したのだろう。軽く咳払いをして説明してくれた。

「リコセンス・メレアグロス――随分と有名になったものだな? 神を打ち倒した英雄殿。オリュンポスの神々が関わっているのか、一夜にしてその武勇の程は私の耳にも届いたぞ」
「……なるほど。そういうことか」

 黄金の狼の刺繍された外套は、アレスを打倒したメレアグロスを讃える意味合いがあるのだろう。
 そしてアレスと戦った付近の城塞都市――此処はアテーナイか、と呟くと、アタランテは肯定するように頷いた。
 英雄。その称号に顔を顰める。嫌な響きだった。あんな軍神を倒して英雄呼ばわりとは……。
 この部屋から出たら、きっと煩わしい目に遇うのだろうな、と容易に察しがつく。
 自然と足が重たくなる。メレアグロスは意気消沈し、面倒なことになった、と口の中で呟いた。

 あれだけ派手にやりあえた自分にも驚きだったが、アタランテが神槍があるのにさして驚いた様子がないのも、神々が……恐らくはゼウス辺りが、伝令神ヘルメス辺りを遣わして、ギリシア中に触れて回ったからかもしれない。
 本当に余計なことしかしない。神とはやはりそういうものか、とメレアグロスは諦めた。
 まあ、恨まれて付け狙われるよりはいい。昨日の今日だ、アレスも自分の前には現れないだろう。

 そういえば、と気にかかったことがあり、アタランテに訊ねた。

「そういえば、アタランテは如何なる用向きがあって此処まで? オレはてっきり、アタランテは山で終生を遂げるのだと思っていたが」
「っ……!?」

 その問いに、アタランテはまたしても凝固した。
 まるで聞かれたくなかったことを訊ねられてしまったかのような――弟のトクセウスが寝小便をしたのを隠そうと、躍起になっていた雰囲気に似ていると、アタランテに知られたらひっ叩かれそうなことを思い、メレアグロスは微笑ましい気分でアタランテの返答を待った。

「し、心外だな……私とて、人里に降りる時ぐらいある」
「ふむ。しかし、用があるからと、こんな遠くまで来るものか?」
「そ、それはだな……」

 冷や汗を垂らし、アタランテは言葉に詰まった。右に左に視線を走らせ、意味もないのに何かを探して。やがて、観念したのか、それとも最後の足掻きなのか、アタランテは懐から一つの首飾りを取り出した。
 深い翠色の原石が不可思議な光を宿し、それを紐で通した自然の工芸品――王子であるメレアグロスすら見たことのないほど美しい宝石である。
 が、かといって魅入られるほど鉱物に魅力を見い出さないメレアグロスである。それが如何に美しくとも、ああそうかとしか思わない。
 差し出す者、身に付ける者の器量によってのみ栄える代物だ。執着するものではない。メレアグロスはいたって冷静に、一国の王が血眼になって欲するものから視線を切る。

「それは?」
「汝があの時置いていった湖の主が、体内に溜め込んでいた魔力の結晶だ。これは本来、汝のもの。私が持っていていい物ではない。だからこれを返すために、こうして追ってきたのだ」
「……」

 メレアグロスはそれを聞いて、感激するよりも先に、呆れ混じりの苦笑を浮かべる。
 そして、自身の胸板の辺りにあるアタランテの額を指先で軽く小突いた。
 ぁぅ、と赤くなった額を抑え、抗議するようにメレアグロスを睨む少女に、少し怒りながら言う。

「嘘はいけない。貴様は先程、オレを介抱したのは偶々近くを通り掛かったからだと言ったはずだぞ」
「それはっ! ……そうだが。なにも、叩かなくたっていいだろう……」
「痛くなければ覚えん。人も、獣も。本当はこの宝石を届ける以外に理由があるはずだが?」
「……」
「……ふぅ。わかった、深くは聞かない。貴様には貴様の理由があるのだろう。それに、わざわざここまで追ってきてくれたのだ。無下には出来ない。その宝石は受け取らせて貰おう」
「あ……」

 そう言って、アタランテが手にしていた首飾りを受けとると、少女は少し照れたように俯いた。――この時は知らなかったが、翡翠の石の石言葉は、幸運・幸福・愛・新たな始まりを意味する。それを、なんの躊躇いもなく受け取ったことに、アタランテはなんらかの意義を見いだしていたのだ。
 アタランテの反応に不思議なものを感じつつも、メレアグロスは再び訊ねる。

「それで、用向きはこれで済んだことになる。アタランテ、貴様はこれからどうするつもりだ」
「……それ、なんだが。一つ、頼みがある。聞いてほしい」
「ああ。他ならぬアタランテの頼みだ、叶えられることなら聞こう」
「その、だな。私は山を出る時に、アルテミス様に旅立ちの許しを乞うたんだ。するとだな、うん……暫く戻ってくるな、とお告げがあって……追い出されてしまったんだ。……今の私には行くところがない」
「なに?」

 メレアグロスは、その仕打ちに一瞬、アルテミスへの負の感情を抱きかける。だが、瞬時にそれを打ち消し、恨むのではなくこれからどうするかを考えた。
 行き場がない。ならカリュドンに行くように言おうか、と思う。あそこならアタランテの故郷も近い。時を置けば、すぐに帰れるはず。
 悪くない案だと思った。提案する価値はあると判断し、言う前に。アタランテは、勢い込んで頭を下げてきた。

「は、恥を忍んで頼む! メレアグロス、どうか汝の旅に、同道する許しを与えてくれ!」
「……? ……何故だ?」

 真剣な顔で聞き返すメレアグロスに、アタランテは一瞬ショックを受けたようにたじろいだが、諦めずに言い募った。

「わ、私は、汝以外の人間と、まともに話したことがないんだ。どうせ宛のない日々を送るぐらいなら、知った者と共にいたい……だ、ダメか?」
「駄目とは言わんが……オレと共にいると、厄介事に巻き込まれるかもしれない。余り気が進まないな」

 アレスとの一件で、どうやら無駄に有名になってしまったメレアグロスに、暫くの間は平穏なんてないだろう。
 神々が飽きるか、ほとぼりが冷めるのを待つしかない。これから最低何年間は、神とのなんらかの問題が発生する可能性をメレアグロスは決して低く見積もってなどいなかった。
 困難な旅路になるのが目に見えている以上、不用意に旅の道連れを増やすべきではない。メレアグロスはそう思っていたのだ。

「……駄目、なのか」
「ああ。オレは貴様を受け入れるわけにはいかない」
「……」

 意気消沈するアタランテを見ても、メレアグロスの意思は揺らがなかった。だが、アタランテもまた、容易に退くような手弱女ではない。キッ、と見上げる形でメレアグロスを睨み付け、挑むように言い放った。

「分かった。ならば、汝には頼らない」
「そうか」
「私は、私の意思で、汝の旅路に同道する」

 その宣言に、剛力の勇士は思わず目を点にした。
 呆れを通り越し、感心すらしてしまいそうな強情さだった。

「……あのな。駄々を捏ねるな。オレといると危険だぞ」
「危険に怯むようでは山では生きていけない。それに、どこにいても死ぬ時は死ぬ。違うか」
「それは、そうだ。しかし――」
「こうなったら私も意地だ。例え汝が駄目だと言ってもついていくぞ!」
「何故だ。何故貴様はそうまで意固地になる」
「汝は私を美しいと言った!」

 泣きそうな声で、叫ばれて。咄嗟に返す言葉を無くし、メレアグロスは戸惑ってアタランテを見つめた。
 満面を朱に染めて、眦に滴を浮かべすらして、狩人は不退転の意思を示して言い切った。

「責任を取れメレアグロス! 汝のあの言葉のせいで、私は人になってしまったんだぞ!」
「――」

 アタランテは自分が何を言っているのかわからなくなっていた。ただ、必死だった。訳もわからぬまま、衝動に突き動かされるまま叫んでいた。
 メレアグロスも何を言われているか分からなかった。ただ……少女とはいえ女。女にここまで言われて、無下にすると男が廃ると思った。

 黄金の若き英雄は、深く嘆息した。

「……分かった。そうまで言うなら、貴様が山に帰れるまでの間、オレは貴様をあらゆるものから守り通そう」
「侮るなメレアグロス! 守られるほど私は弱くない! 足手まといにはなるぐらいなら自刃して果てるだろう!」
「なにを戯けたことを。自害されてはオレが遣る瀬なくなるだろう。何かあれば、オレを待て。必ず助けにいく」
「だから、不要だ。私の身は私が守る!」
「自衛できるかどうかではない。オレが貴様の危機を救えるかどうかが問題だ。アタランテ、これはケジメだ。オレのために危機に陥るだろう貴様を、決して見捨てたりはしないという」

 真っ直ぐ見詰めて言うと、アタランテは怯んだように微かに仰け反った。

「ぅ、……か、勝手にしろ……」

 勝手にする。か細く言い捨てた少女に口許だけで微笑みながら、メレアグロスは椅子に掛けられていた外套と、赤布に封印された神槍を取り、アタランテに言った。

「さあ、もう行くぞ。早速厄介事の臭いがする。オレと共に行くということがどういうことか、思い知って後悔するな」
「後悔なんて、しない。あまり見くびるな」

 弓と矢筒を背負い、アタランテもまた意気込んだ。
 その気力に溢れた姿に、なら安心だ、とだけ呟いて、メレアグロスはその部屋を後にする。

 メレアグロスの予感は当たった。

 宿を出たメレアグロスを待っていたのは、戦女神アテナの神託を受けた神官であり――神官はメレアグロスに仰々しく告げたのだった。

「カリュドンの王子、メレアグロスよ。女神アテナ様の御神託である。近く開催されるパンアテーナイ祭にて、なんらかの貢ぎ物を用意し、献上せよ! 競技に参加する必要はないとのことだ。励め!」


















アタランテが旅の同道を申し込むのを見て。

???「キャー! 言ったぁぁ! いいなぁ、わたしにも王子様が来てくれないかなぁ」
???「!? ……(もし来たら殺すか)」


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女神への献上品




 戦女神アテナは知恵、芸術、工芸、戦略を司るオリュンポス十二神の一柱だ。
 アルテミスやヘスティアと並ぶ、美と愛の女神アプロディタの神力が通じない神格である。

 ペルセウスなどの例を見るに、英雄には寛大で好意的な存在だが、一方で非常にプライドの高い女神でもあるようだ。それは、自らの美しさ、知性と芸術性の高さ、そして物事を深大な視点で見られることを自覚するが故のものなのだろう。
 アテナは他者が馬鹿に見えて仕方なく、自制が少しでも出来ない者は愚物に見えてしまうのかもしれない。故に常に上から物を見て、聞いて、判断する王のような気質と思われた。
 難儀なものだ。アテナに伴侶がいないのは、その気位の高さと他を圧倒する武勇、知性の為だろう。対等の視点で物を見られる相手を、彼女は心の何処かで望んでいるのかもしれない。だから英雄に肩入れし、彼らを庇護することで満足感を得ているのかもしれなかった。

 ――まあ、そんなことはどうだっていいのだが。

 メレアグロスは、そんな女神から献上品を求められた。問題はこれである。
 パンアテーナイ祭に元々参加するつもりだった身空ではあるが、優勝を積極的に狙うつもりはなかった。また本質的にはただ祭りの雰囲気を楽しみたいという思いがあっただけで、アテナ本人には何も用はなかったのだ。
 城塞都市アテーナイにて、祭りを機に集まった人々にこそメレアグロスは用があり、彼らに名高い英雄や賢者の所在を聞きたかったのだ。それだって無理をして聞き出すつもりはなく、無為な五年を過ごすのも勿体無いと思っていたから、何か有意義な時を過ごしたいと考えていたに過ぎない。
 それなのに、これである。オレは何か悪いことをしただろうか、と真剣にメレアグロスは思い悩んだ。

「どうするつもりだ、メレアグロス」

 アタランテが訊いてくるのに、さてな、と曖昧に応じ、祭りの用意に大忙しなアテーナイの人々を遠目に眺めた。
 階段の段差に腰掛け、祝福の施された赤布に包まれ神気を弱らせた神槍を肩に担ぎ、何処を見るでもなく沈思する。
 何か、魂の深い部分に、この難題を解決する糸口があるような気がした。それを見つけ出す思考の旅が、メレアグロスに深く重い沈黙を与えていたのだ。

「……」

 メレアグロスを英雄と讃えた人々も、彼に課された神託を知るが故に、彼に考える時間を与えようと遠巻きにするだけで決して話しかけてこようとはしない。
 またアタランテも、こういった問題に具体的な解決策を示せるでもなく、やきもきしながらメレアグロスの思索を見守るしかなかった。

 アタランテが促すままに、朝食を採り、昼食を平らげ、夕食を口にする。それ以外の時は、一睡すらせず考えに考えた。
 やがて、七日の時を要し、メレアグロスはアタランテに言った。

「……頼みがある」

 それは七日の思考の末、導き出した答えを形にする手段。メレアグロスの言葉に、アタランテは力強く頷いた。

「私はどうすればいい」
「難しいことではない。手の空いてる工芸職人を……そうだな、十人ほどだ。それから魔術師を一人か二人集めたい。手分けして探そう」
「そんなことでいいのか?」
「ああ。簡単だろう」

 首を傾げるアタランテに、メレアグロスは端的に肯定する。
 要は、気位の高い、知恵者の女を満足させるものを作ればよいのだ。
 罷り間違って神槍や、なんらかの財宝を献上すれば、まず間違いなくアテナの不興を買うだろう。知性を尊ぶ女人とは時に、男が想像だにしない癇癪を起こすものである。ましてや女神の癇癪ともなれば、その対象になるのは絶対に御免被りたいところだ。
 故に下手に手を抜くのは下策。いっそのこと本気で気に入られてやろうと思った。気分はまさに、死中に活を求める将軍そのものである。

 一日の時をかけて、アタランテは一人の、異様に醜い老年の職人を連れてきた。

 申し訳なさそうな。恥ずかしそうな。力及ばず遣る瀬なさそうな。そんな表情。
 対し、メレアグロスは一日で十二人の職人を集めた。中にはこのアテーナイ随一の才人もいた。
 都市の真ん中で、一声「手の空いてる工芸家はオレの許へ集まれ!」と号令を掛けただけである。瞬く間にメレアグロスが腕の立つ職人を求めているという噂が広まり、広場で待つだけで仕事を終えた職人が集まって、ついでにメレアグロスの求める材料を商人達が持ち寄ってきた。

「……私は、駄目な奴だ」
「寧ろオレは、貴様が一人でも連れてこれたことが驚きに値すると思うがな」

 苦笑し、しゅんとしているアタランテを慰めてから、メレアグロスは職人達に向けてまず始めに告げた。

「――さて。オレが貴様らの腕を求めたのは何故か。よもやこのパンアテーナイ祭にて才腕を振るわんとする者の中に、察しのつかぬ愚鈍な輩はいまい。貴様らには聡明なる戦略家にして、壮麗なる芸術家である女神、アテナ様への献上品を手掛けて貰うことになる」

 メレアグロスの声には、不思議な引力があった。聞く者を引き付け、釘付けにし、浸透させる魔的な音色――人はそれをカリスマと呼ぶ。
 未来。神罰の魔獣討伐のため、ギリシア中に集結を呼び掛けるや、数多の英雄達を一手に集わせたカリュドンの王子には、生来より人の上に立つ者の資質が備わっていたのだろう。黄金の狼の前に、人は一つの群れと化して、首領の言葉を厳粛に聞く体勢となっていた。

「まずアテーナイに於いて第一の腕を誇るという者。貴様は七人を指揮して、王と女王を一つずつ、戦車と僧侶、騎士を二つずつ、兵士を八つずつ、白と黒のピースに分けて二組作り上げろ。大きさは、等身の人と同じとする。期間はパンアテーナイ祭前日までだ」

 ざわり、と職人達がざわめく。だがすぐに治まった。
 不可能だ、などと喚きはしない。彼らは、芸術の都の住人。不可能ではない。
 超越的な存在が跋扈する神秘の世界である。やってやれないことはないのだ。

 ――メレアグロスは記憶に残る"チェス"を再現しようとしていた。
 知恵を競い合えて、駒に工芸品としての美しさを持たせられ、なおかつ美しい戦略には芸術性を持たせられる。それは間違いなくアテナを満足させられるだろう。

「具体的なピースの形状は後で図面を描き報せよう。残りの者は、二色の正方形のマスが交互に縦横八列ずつ並んでいる盤面を製作しろ。作り出すべき規格は言うまでもないな? 各々、考えうる限り、望みうる限り最高品質の材料と知恵を絞り製作に移れ。報酬は――」

 そこで、言葉を切り。メレアグロスは、不敵に微笑んで見せた。意味深に、あくまで明言せず。されど大きな期待を持たせて。

「――そうだな。全ては神のみぞ知る」

 その言霊は、アテーナイの職人達を奮い立たせた。
 女神の匙加減一つ。石ころ一つから、金銀財宝、最高の栄誉までなんでも有り得るということ。これに夢を託さない者はいなかった。それこそが最高の報酬だった。
 職人達は奮って技術の限りを尽くすだろう。メレアグロスは奮起する職人達を眺め、心配は要らないなと見てとるや、これからどうしたものかと内心悩みを抱えた。
 魔術師がいないのだ。やはりそういったものをアテナが好まないからか、アテーナイに居づらいのかもしれない。これでは最後の仕上げが……チェスの駒に命を吹き込むことが出来ない。

 メレアグロスの煩悶をよそに、時間だけは進んでいく。

 ――尋常の英雄ならば、偉大な賢者や神々の知恵を借りて乗り越えたであろうアテナからの要望。それをメレアグロスは、ただ一人の知恵のみで叶えて見せたと人は言う。
 故に、後世に語られる。叡知の勇者、女神の難題を七つの難行に数えず、と。




















 その日の夜のことである。メレアグロスの夢にオリュンポス十二神の主神ゼウスとヘラが現れた。
 降臨を予め予期していたメレアグロスは、顔色一つ変えずに跪き、顔を伏せる。心なし、沈んだ声でゼウスは言った。

"――アレスの件、大義であった"

 泰然と応じたメレアグロスにゼウスは小さく溢した。

"――もそっと、なんとかならなんだか? あんな醜態を見せられては、儂もな……流石に、愛想が尽きてしまうというものだ。あれが我が子でなければ、とっくに神格を奪い追い散らしているところである"

(斯様なことを申されても、オレとて今暫しの猶予があれば、穏当に済ませる知恵も絞れていた。しかしあのように時も置かずにアレス様が来たのであれば、流石に如何ともし難い。オレは御身と比べ矮小なる人の子。万能であることすら難しい身で在れば)

"それは分かっておる。儂も性急すぎたと反省しておるのだ。しかしだな……うぅむ……"

"――待ちなさい。あれは、妾の子ではないぞ"

(ヘラ様?)

 メレアグロスが不穏な呟きを聞き拾い、思わず聞き返すと、それまで黙っていたヘラが突如激昂して言った。

"妾の子はそなたよ、メレアグロス! 否、逆にそなたが真のアレスであり、あれがメレアグロスではないか!?"

"后よ……気持ちは痛いほど良く分かるがな、流石にそれは無理があるのではないか"

"何がです? オカシイのはあれでありましょうや! あれが……妾が腹を痛めて生んだ、あなた様の子であるはずがない! でなければ……妾はあまりに惨めでありましょう!?"

(……)

 不味い流れだ。ヘラの錯乱に、メレアグロスは咄嗟に口を挟んだ。この際、多少の不敬は目を瞑って貰えるのを期待するしかない。このまま黙っていれば、取り返しのつかないことになるという直感があった。

(オレは、ヘラ様の子ではない)

"妾に口答えを――"

(――しかし、)

 怒りの矛先が向く前に、語調を強めて阻む。このままではアレスにされる(・・・・・・・)という具体的な恐怖が彼を突き動かしていた。

(オレはヘラ様と、ゼウス様の、紛れもない直孫である。オレはゼウス様の雷の力を受け継ぎ、そしてヘラ様の美貌もまた同様。子としてではなく、直孫として寵愛を賜るわけにはいかないのか)

"ふ、む……。な、なるほど……? 確かにそうではある。……妾も大人げなかったか。許したもれ、メレアグロス。少々取り乱してしまった"

 さりげにヘラの美しさを讃えつつ、血の繋がりとゼウスとヘラの遺伝が確かにあるのだと訴える。そして自然に距離を保つために孫と言ったが……メレアグロスは内心、臍を噛む気持ちであった。
 距離を保ちたいのに、必要以上に近しくなりつつある。否、既になっているのか。不条理という言葉が脳裏をよぎる。話を逸らさねば、と知恵を絞っていると、曖昧だったヘラの姿が徐々にしっかりとした輪郭を帯び、明瞭な人の姿を顕した。
 豊かな金髪と豊満な双丘。目を瞠くに値する、その行ないの激しさと嫉妬深さからは想像できない柔らかな美貌。キトンを慎み深く着込み、体を隠す様は貞淑なもので……これがヘラの容貌なのだとしたら、なるほど傾城の美女と言えた。

 が、美しいものになど価値は見い出さぬのがメレアグロスである。故にヘラが跪くメレアグロスの傍に寄り、親しく手を取って立ち上がるように促してきても、なんら心揺れ動くものはなかった。

「メレアグロス……妾の、可愛い坊や……ええ、可愛がりましょうとも。妾の、唯一の(・・・)血を分けた孫であれば」
「……」

 態度ががらりと変わっての猫撫で声に冷や汗が流れる。なにか、危険な香りがした。それも、極めて直接的な危険である。
 神と人、立場の異なる存在が、近しくして良いことなど何もないというのがメレアグロスの考えである。どうしたものかと、促されるまま立ち上がりながら考えた。

 ――と。何やらゼウスがむずむずとし始めていた。

"后よ、これでは話が進まぬであろう。ちと離れんか"

「あら。まさか孫に対して妬いているので? あなた様ともあろう方が。ふふふ、ならば今少し親しくすれば、少しは妾の気持ちも分かってくださる?」

"ぐ、むぅ……"

「ヘラ様」

 バチバチとメレアグロスの比ではない雷電を散らし始めたゼウスに戦慄しつつ、メレアグロスはなんとか、己にしなだれかかってくるヘラをそっと嗜めた。

「ふふ、冗談である。あまり可愛いところを見せるな、メレアグロス。夢中になってしまいそうよ」
「……冗談を」

"……ふん。まあよい、ではメレアグロスよ。アレスを見事懲らしめた件、まずは誉めおこう。褒美を取らせる、なんなりと申せ"

「……褒美など。オレはそんなものは望んでいない」
「おお、この謙虚さ! 僅かなりともアレスに分けてやりたい! ……あらいけない、アレスとは誰だったか。刹那で忘れてしまった。まあよい、そんなことより素直に受け取りなさい可愛いメレアグロス。あれほど見事な働きをしたのだから、なんなりと申すがよい」

"……"

 オレを出汁にゼウスを挑発するのはやめて頂きたい。
 メレアグロスは心の内を吐露したい誘惑に駆られるが、寸でのところで堪えきった。

「……であれば、二つ許しを」

 余り固辞するのはかえって無礼である。已む無しと思って、この際困っていたことと、懸念すべきことを頼もうと思った。

「たったの二つでよいの? 人の身で神を打ち倒したのだから、もっと欲張ってもよいものを」
「欲深く在るには、既にオレは満たされている。故に多くを望むことはない」
「ほう。ふふ、在り方まで美しい……父母を敬い、神を尊び、一族を守護する……孝と義と仁と武と知を兼ね備えた英雄……雷電纏いし黄金の狼……いいえ、もはや狼など、超越している。そなたは獣であるな。誇り高く、光輝く雷鳴の雄、嗚呼! そなたは"黄金の獣"! まさに妾の愛し子たるに相応しき当世一の英雄でありましょう!」

 何やらノって来たヘラを呆れ気味に見切り、メレアグロスはゼウスに向き直った。夥しい光の塊、人型の宇宙とも言える天空神は、鷹楊に頷いた。

(ゼウス様。我が願いを聞き届けていただきたい)

"なんでも申すがよい。ここまで后の機嫌がよいのは珍しい故な、叶えられることなら聞き届けよう"

(では、ゼウス様。どうかオレに近しい女人に関わり給うな。我が祖父に当たる方が、身近な女人とまぐわったという話は聞きたくはない故に)

"ぐっ、む……よ、よかろう。我が后に誓う。メレアグロスに近しい女人には決して近づかぬ、と"

 ぎらりと目を光らせたヘラの手前、まさか断るわけにもいかなかったゼウスである。主神の意思を阻まんとするメレアグロスの不敬を咎めようにも、願いが願いゆえに、何も言えなかった。
 今のが一つ目の願い。もう一つは、

(ゼウス様。どうか、オレに命無きモノに仮初めの命を吹き込む業を)

 人間大のチェスの駒を、常理の埒外にある魔道にて駆動させる。それを以て、戦女神への献上品の完成としたいメレアグロスは、その超常の理を賜ることを願った。
 これに、ゼウスとヘラは互いに顔を見合わせ、さも楽しげに笑った。神らしく、超越的な――不吉を人に齎す笑みを浮かべたのだ。
 嫌な予感に、メレアグロスは固唾を飲んで返答を待つ。ややあって、ゼウスが言った。

 威厳轟く雷鳴の声音を以てして。

"それは必要あるまい。メレアグロスよ、その願いは、儂が叶えるまでもなく、既に其の方の運命が引き寄せた"

 ――なに?

 反駁する余地はなかった。ヘラが魔性の微笑みを湛え、告げる。

「我が愛し子よ。そなたの願いは全て聞いた。故に今宵はこれまで。嗚呼、いつも見守っていますよメレアグロス。次見える時までに、その乱暴な話し方を改めておきなさいな。雅に、高貴に、英雄的に! そなたの人としての生、全うできますように」

 夢から醒める。メレアグロスは苦虫を噛み潰したような心境で、暗雲の立ち込めた未来に歯軋りした。

 十数日後。メレアグロスはある出会い(・・・・・)を経て、望む献上品を完成させた。
 時は、パンアテーナイ祭が開催され、メレアグロスがアテナに謁見する所まで飛ぶことになる。


















アテナの無茶ぶりは、難行への前フリに過ぎたかったというね。


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最古の騎士

驚きの真実。ランサー枠のメレアグロス、実は幸運Bランク設定。

あと、原典を知らなくても本作は大丈夫です。メレアグロスは全く違う運命を辿りますし、神話も少し形が変わる予定なので。















 アテナは己の美貌がどれ程のものか、過不足なく理解していた。

 多くの神々に讃えられ、関係を迫られ。数多の英雄、庇護下に置く人間や神官からもまず美貌を誉めそやす賛辞を聞いてばかりいた。
 アテナは自らの容姿に自信を持っている。アテナは美しい、それは厳然たる事実であった。だが、そう何度も似たような美辞麗句を並べ立てられたところで感動はない。何を当たり前のことを――そう思うだけだ。
 故に、メレアグロスがアテナの美貌を讃えるための品を献上してきたなら。多くの英雄と、或いは思慮の足らぬ俗物と同じような真似をしたのなら。まあ、悪い気はしないが、それでもそんなものか、という感想を懐いただろう。
 しかし、やはりというべきか。メレアグロスは、有象無象の人間とは一線を画する英雄だった。

 ――メレアグロスの献じた品を眼にしてまず感じたのは、その洗練された駒の機能美であった。

 素直に、感嘆した。等身大のそれぞれ異なる形状の駒を、白と黒の二組揃えて三十二個並べた様は壮観だった。
 それを、斑な、しかし機能的な盤面に並べ、白と黒の駒を向き合わせた光景に、アテナの期待は最高潮に達した。何か、これまで見たことも聞いたこともないものを献上される。期待が膨らんだ。

 やがて城塞都市内の広場に盤面を置き、跪くメレアグロスは、遠く宮殿の玉座より身を乗り出して伺うアテナに、これが"チェス"と呼ばれる盤上遊戯であると言った。
 周囲を遠巻きにする者らが聞き逃すことのないように、良く通る声でルールを説明する。
 そのルールの説明を聞き、アテナは興奮に身震いした。なんたる、磨き上げられた遊戯か。奥深い遊戯の可能性に知性を刺激され、駒の機能性と遊戯の戦略性に歓喜する。

 予想を裏切り、期待を裏切らないメレアグロスにアテナはかつてなく感動した。

 駒は遊戯をおこなう者の言葉に従って動くという。思わず、アテナはメレアグロスに自らと対戦することを命じていた。
 ルールは一聞するだけで理解した。そして己の対戦相手足り得る智者はそういないと確信もしていた。故に最初の対戦は、メレアグロスでなければならない。傲慢にも、しかし神としては当然ながら、最初から勝てるつもりでいた。どうせ自分が勝つが、まあいい勝負は出来ると思い込んでいた。――だが、アテナはその初戦において完敗を喫することとなる。

 呆然と、"詰み"にされた盤面を眺める。

 メレアグロスが淡々と駒に初期配置に戻れと命じると、駒はそれぞれの所定の場所に帰還した。
 完成された戦術だった。アテナは暫し、メレアグロスの打ち手を思い返し、その深遠な定石を理解した。
 悔しさを滲ませ、再度対戦を命じ、再び文句一つ付けられず敗退した。
 二度目の、続け様の敗北に、アテナは今度こそ呆然自失とした。
 アテナは知恵の女神でもある。その知性は人間を超えていた。故にあらゆる打ち手が内包する意味と練り込まれた戦術を一度で理解した。
 自らに勝利できる者などいないのだと思い上がっていた。それは事実のはずだった。だというのに、二度も、連続して同じ相手に敗れた。

 ――メレアグロスは戦神にして軍神、アレスの子である。半神として、そして戦神の神性を持つ身として、軍事に於ける資質はアテナにも劣るものではなかった。
 そして、メレアグロスの知性は、己にこびりつく盤上遊戯の定石を漠然と覚えており、霞掛かりほとんど焼却されている酷く曖昧なそれを形にすることを可能としていた。
 数百年もの間、研ぎ澄まされてきた定石を、曖昧ながら再現し、己の打ち手の一つとして本来のものと遜色ない位階で身に付けているのである。資質が同等なら、初心者であるアテナに敗ける道理などメレアグロスにはなかった。
 これはそれだけのこと。しかし、そんなことはアテナが知り得ることではなく。必然、三度目、四度目と悉く完封され完敗したアテナは、完全に己がメレアグロスに敵わぬことを認めるしかなかった。

 アテナはアレスとは違う。屈辱の余り、激昂して暴力を振るったりはしない。

 だがアテナは、顔が険悪に強張るのを。声が怒りと屈辱に震えるのを、どうしても抑えることができなかった。
 メレアグロスを勝者として讃え、この世界最初のチェスの対戦を――神と人の知恵比べを見守っていたアテーナイの人々と、神官達にメレアグロスを讃えさせた。
 アテナに勝ったメレアグロスに、人々は歓声を上げたが。アテナの怒りに染まった顔に気づき、歓声はすぐに静まった。

"――見事、だ。私を、こうも興じさせるとは、類い稀な英雄でありながら賢者でもあったか"

「恐縮する」

 微塵も恐縮せず、言葉だけで儀礼を示すメレアグロスに、アテナは殺意にも似た熱情に胎を疼かせた。 
 己を突き動かす激甚なる感情のうねりに身を任せ、アテナは己の宮殿から飛び出て、広間に戦衣装にて降臨した。

 燃え盛る紅蓮のような艶髪が膨大な神気に揺られる。豊かな唇と灰色と青色の鋭利な双眸を激しく輝かせ、黄金の甲冑と立派な羽飾りのされた赤兜を被ったアテナは、武具こそ手にしていなかったが凄まじい威圧感を発していた。
 アテナはメレアグロスを威圧せんがために戦衣装で降臨したのではない。彼と相対する己は勇ましい戦女神でなければならないと感じたからだ。そうでなければ――脳を熱する怒りの火に焼かれ、何を仕出かすか分からなかった。

「……なんと誉めるべきか、言葉が見つからぬ。どうしてくれようか」

 猛る火炎が如き声音にも動じず、メレアグロスは平然と応じる。

()には判じかねるな。戦女神よ、それを決められるのは貴様だけだ」
「ふ、はは……暫し目を離した隙に、典雅な口振りを身に付けおって。悪くないが、以前のそれも悪くはなかったぞ」
「――ヘラ様に叱られてな。乱暴な話し方を改めよと命じられてしまった。傅く者を望むならそのように改めてもいい」
「よい。敬意とは言葉で示すものではなく、態度と心で表すものだ。女王は兎も角、私は相応の格さえ伴うなら咎めはせん。お前の不遜、特別に許す」

 だが――アテナは言い置き、そっと跪いたままのメレアグロスの肩に手を置いて、刃物のように冷たい美貌を耳元に寄せて呟いた。

「――余り昂らせるな。比されるのは癪だが、私とて戦を司る神格である。お前はどうにも、私を熱くしすぎる」

 甘く耳を噛み、アテナは艶めいて笑みを浮かべた。

「所でな、メレアグロスよ」

 悪戯っぽく離れ、何もなかったようにアテナは問い掛けた。

「駒の中に知らぬ名が含まれていた。なあ、教えてくれ。私に物を教える栄誉をやろうと言うのだ。メレアグロスよ、"騎士"とはなんだ?」

 その問いに、メレアグロスは微かに虚を突かれたように黄金の瞳を揺らした。
 数瞬、間を置き、メレアグロスは淡々と告げた。

「……それは私の造語だ。こう在る者がいたらいい、そう願って名をつけた」
「ほう、意味は?」
「主に仕える従僕だ。主に対する忠誠、公正、勇気、武勇、慈愛、寛容、礼節、奉仕を徳とする高潔な士の総称だよ」
「虚像だな」

 メレアグロスの言に、アテナは嗤うでもなく言い捨てた。人間は欲深く、神もまた同様。そう在れる者は余りに少ない。
 しかし、とアテナは微笑んだ。私はその騎士なるものに相応しい英雄を知っている、と。
 それは? 問うメレアグロスを、アテナは言祝ぐように指差した。

「お前だよメレアグロス。騎士とはまさに、お前を表すものだ」
「私はそのような大それた者ではない。買い被りだ、女神よ」
「では買い被りではなくするがいい。――メレアグロス、私に仕えよ。私の、私だけの騎士になれ。さすれば我が加護と寵愛を授ける。ギリシア全土に轟く栄誉と相応しい名声をやろう」

 ざわり、とアテーナイが揺れた。それは栄達への道だった。無謬の栄光と不朽の伝説を約束する英雄の本懐だった。
 心揺れるどころではない。心を鷲掴みにされる誘いである。人々は、黄金の英雄がどう受けるか、固唾を飲んで見守った。

「……女神よ。その前に一つ、いいかな」
「ああ」
「パンアテーナイ祭の競技は終わり、後は評するに値する者がいるか、貴様は定めねばならない。然る後に私の献上品を裁定するべきだ。それまで、貴様への返答は控えるべきだと思う」
「道理である。では裁定を下そう。――此度の我が誕生祭、いつにも増して見事であった。私はとても満足している。これからもお前達の住まう国を守護することを、我が名に懸けて誓おうとも。だが――」

 ――代わり映えのしない祭りでもあった。故に私に願いを叶えられる資格を持つ者は、お前達の中にはいない。

 メレアグロス。お前を除いて。

 宣言は、アテーナイの者全てに届いた。その上で、不服とする者はいない。メレアグロスのように女神と言葉を交わす勇気を持つ者はいなかった。

「メレアグロス。お前が私に献じた遊戯、誠に見事だった。お前の智者としての名と、この盤上遊戯はギリシア全土に広まるだろう。……いずれは私を楽しませる智者も、或いは出てくるかもしれない。しかしお前を超える者は今後現れないと確信している。私を楽しませ、そして打ち破ったお前には、特別に三つの願いを口にする許しを与えようではないか」

 三つの願い。かつて類を見ないその栄誉に、メレアグロスは頷いた。ただ、それだけだった。

「さあ、言え。私の全能を以てして応える用意はある。遠慮することはないぞ」
「ではまず一つ。女神アテナよ。献じられた品に、貴様が認めた分の重さを財とし、私の求めに応じたアテーナイの職人に与えるがいい」
「よかろう」

 言うや否や、アテナはその神力を振るった。
 彼女が蓄えていた金銀財宝、その全てが、アテーナイを満たさんばかりに天より降り注ぐ。あっと沸き立ったアテーナイの人々を尻目に、地を雨粒の如く叩き続ける金銀の宝石と剣や槍、鎧。その全てが積もっていく。
 誰一人、戦々恐々として、表立っては動けない。メレアグロスは立ち上がるや、振り返って人々に告げた。

「不当に財を得んとする不埒者はいまいな? 忠告する。許しなく財に手を触れた者は呪われるだろう」

 固まったのは、密かに手を伸ばそうとしていた者だろう。
 そして更に言った。

「私の求めに応じた職人、商人達。己の果たした役割に相応しいと、自らの良心に許せる限り、好きなだけ財を受け取るのを許す。心に従え、人民」

 言われ、戸惑ったように互いの顔を見合いながら、チェスの製作に関わった者達は、自らが相応と感じた分だけ、地に落ちていた財宝を手に取った。
 強欲な者がいた。無欲な者がいた。働きに相応しくない財宝を得た者もいた。だが、メレアグロスとアテナはそれを赦した。この財は、アテナがメレアグロスに取らせたもの。口を挟むことはない。メレアグロスは心に従えと言った。例え後に良心の呵責に苛まれ、苦しもうと、それは自己責任である。

 やがて動く者がなくなり、沈黙があたりを包むと、メレアグロスはアテナに向き直って告げる。

「後の財は返却する。私には無用だ」
「よかろう。お前の選択だ、尊重するとも」

 何一つ手に取ることもなかったメレアグロスに、嬉しそうにアテナは手を鳴らし、誰の手にも触れていない財宝は悉く霞の如くに溶けて消えた。

「二つ目の願いを。戦女神アテナ、貴様の知り得る中で、最も優れた英雄と賢者の名と所在を教えて貰いたい」
「ふ。よかろう。まずは最優の英雄だな」

 言って、わざとらしく悩むような手振りで顎に手を当てて、名を列挙した。

 カストルとポリュデウケスの双子の兄弟か? いやいや既に伝説となって久しいペルセウスか? 英雄と聞いて、思い当たる名は余りに多い。
 だが、私の知る英雄の誰もが、彼の者と比べれば見劣りする。私の知り得る中で最優の英雄は――

「――さあ、誰だろうな?」

 明言せず、アテナは意味深にメレアグロスを見た。
 苦虫を噛み潰したように口許を歪めた彼に、アテナは笑いながら言う。

「ああ、敢えてお前を除いて考えたら、最優はペルセウスだ。しかし今年齢十四を数えた少年は、或いはメレアグロスを超える勇者となるかもしれないが……ふ。最強ではあっても、最優ではないな」
「……その少年の名は?」
アルケイデス(・・・・・・)。ミュケナイ王家の血筋に連なる者。我が父がお前と等しく、特に目を掛けている少年だ」

 アテナは艶然と微笑み、屈強な体躯の――人としての形を取ったアテナより頭一つ背の高い美丈夫の体に触れながら歌い上げた。
 メレアグロスは冷めた目でそれを見下ろし、些かも揺れ動かず、アテナが賢者の名を言うのを待った。

「ペリオン山の洞穴に住む、ケンタウロス族の賢者、ケイローン。私が知る最良にして最優の賢者は彼だ。ん、どうだ。満足か?」
「ペリオン山のケイローンか。確かに覚えた。他ならぬ戦女神の人物鑑定だ、外れはないだろう。感謝する」
「はっ。莫大な財よりも、英雄と賢者の名に喜ぶのか?」
「愚問だな。財を成すのも、財を失うのも人だ。であれば目の前にあるだけの財に喜ぶより、有為の人物との縁に喜ぶべきだ。有形のモノはいつか失われるが、無形のものは無限に残る。残そうとする者が絶えぬ限り」
「金言だな。もし私が英雄を育てるなら、斯く在れかしとお前を指し示すだろう」

 それは光栄だ、と無表情に応じる。
 そして、三つ目の権利として、メレアグロスはアテナに要求した。

「最後だ。戦女神アテナ。灰と青の瞳を持つ美々しき神格よ、私の求めるものに応えることが出来るか?」
「無論だ。メレアグロス、お前の求めるものを私はなんであれ与えるだろう」
「保証は?」
「くどい! 我が名に懸けて、前言の撤回はない!」 

「では女神よ。これより先、貴様からの如何なる指示、如何なる求め、如何なる意思をも拒む権利を私に与えるがいい」

「な、なに……!?」

 メレアグロスの求めた報酬に、アテナはまず、呆気にとられた。
 それは、メレアグロスが、アテナの誘いの悉くを袖にするということ。その意思表示である。
 理解し、アテナは――激怒した。吹き荒れる神威が、殺気を帯びる。

「お前は……私の手を振り払うのか」
「その通りだ。今生に於いて私が仕えるのは、カリュドンに在る我が父母のみ。これを害し、歪めることは例え神々であっても赦しはしない」

 その宣言は、或いは覚悟の現れである。
 今後激化しかねない神の試練。それによって越えてはならぬものが曖昧になり、気がつけば神の側に取り込まれているような事態を避けるため、一線を敷く必要がある。
 メレアグロスは、言葉通り、もし神であろうと父母に手出しする者は殺す(・・)と言外に宣言したのである。

 人々は、その神をも恐れぬ姿勢に驚愕した。この、神秘の世界で。神という絶対者を恐れぬとは――

 後に、神を恐れぬのかと問いかけた者にメレアグロスは言ったという。神を敬い、礼節を尽くし、忠誠を捧げるのと――恐れ、諾々と服従するのは違うのだと。通すべき筋を見誤らぬこと、これこそが私の神への信仰なのだ、と。
 それは神への盲信を戒める、神からの自立への催促だった。

「貴様は私を騎士そのものであると言ったな? 買い被りでなくしろとも。――そうしよう。私は貴様の買い被りでない騎士となる。そして私の思い描く騎士は、決して二君に仕えぬもの。さあ吐いた唾は呑めないぞ、女神アテナ。私の求めに応じるがいい」
「……は、はは、」

 アテナは、心底、可笑しそうに笑った。それは憎悪の露出だった。

 ――生まれてより、己よりも知恵に長けた者など父以外におらず。父以外で、初めて知恵比べで己を負かし。
 ――神格に比する武勇を誇りながら、己をも感嘆させる芸術性を持つ、初めての存在と出会った。

 この英雄なら、とアテナは思ったのだ。

 この英雄なら、私は愛せるかもしれないと――女としての本懐を遂げるのも悪くないと、生まれて初めて思ったというのに……!

「――決めたぞメレアグロス。私は、何を置いても、絶対に、お前を手に入れる。お前にいつか言わせてやろう、我が下に跪きたいと! そして私は貴様を打ち倒し、その身と心の全てを蹂躙してくれる!!」
「不可能だ。私が貴様に屈することはない。貴様が如何に求めようと、私がそれに応えることもない。何故なら。戦女神アテナよ。貴様は、伴侶とするには強すぎる」
「――な、なに?」

 予想外の言葉だったのだろう。アテナは呆気にとられ、怒りの炎を弱らせた。
 ここぞとばかりにメレアグロスは言う。

「弱くなれ戦女神。猛々しい女の家庭など、破滅が目に見えている。一人で満ち足りる貴様は、孤独のみが与える儚い美しさを持ち得ない。真に己の美を誇るのなら、他者を対等に愛せる心を持て。美しく、強い、しかし同時に弱さをも手に入れたなら――誰しもが貴様に夢中となり、その愛を得んと躍起になるだろう」
「……それは、お前もか?」
「さて。それはどうだろう」

 意味深に間を持たせ、微かに微笑むと、アテナは怒りを持続できなかったのか肩から力を抜いた。
 そして、苦笑ぎみに言った。

「……もうよい。好きな時に我が許より立つがいい。止めはせん」
「承諾と見ていいのか」
「言ったはずだ。前言の撤回はない。だが忘れるな、メレアグロス。――私に恋を教えた罪、必ず贖ってもらう」
「悪いが、それを決めるのは私だ。愛するもの、守るものは私の心だけが決定する。私が神々を敬うのは、強制されたからではないのと同じだ」
「く、はは……ああ言えばこう言うな、お前は。弁論でも達者とは……疾く失せよ。これ以上我が眼前に留まるなら押し倒す」
「む。……今、私の交際条件にはしたない女人はいかんと付け加えられた。気を付けた方がいい」
「ええい、煩い! さっさと失せよ!」

 アテナは怒鳴り、飛び去るようにして天に還った。
 肩を竦めメレアグロスは周囲を見渡す。人民は、何か凄まじいものを見たような顔で、メレアグロスを見ていた。
 黄金の雄はなんでもないように歩を進める。すると人々は自然と道を開けて、行く手を阻まなかった。
 都市を出る。メレアグロスは天を見上げ、胸中にて溢した。

 ――なんとか、切り抜けられた、か……?

 答えは、アテナだけが知っている。

 あらかじめ都市の外で待って貰っていたアタランテが、メレアグロスに気づいて駆け寄ってきた。
 その顔を見ると、自身が一先ずは無事であることに実感が追い付き、メレアグロスはようやく安堵した。




 ――以降、神々ですら困難を極めるであろう数々の難行にて。メレアグロスが危機に陥ると、決まって押し付けがましく戦女神が助けに入るようになる。
 それは一見すると、今回の一幕は大成功を収めたように見えるかもしれない。

 だが。それは、そう見えるだけであり。

 戦女神の助太刀があってすら、踏破の困難な試練の幕開けでもあったのだ。




 ――今のメレアグロスの手に、神槍はなかった。


















神と人、立場を越えた恋愛劇()

狼の嫁取りという逸話に相応しい一幕でしたね()


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風に乗る邪悪

恐らく皆さんが忘れているだろうメレアグロスの年齢。

十七歳です、彼()















 その醜い老年の男は、自らを指してヘファイストスと名乗った。

 チェスの駒の製作が始まり、これに対し如何にして魔道の息吹を吹き込むか頭を悩ませていた時のことである。メレアグロスの許に、アタランテが唯一連れて来れた老人がやって来るなり鍛冶の神を名乗ったのである。
 疑うのが自然だ。神の名を騙る不届き者であることを考慮するのが当然だった。
 しかしメレアグロスは彼の名を聞き、納得して迎えたものだ。
 ゼウスとヘラの、あの意味深な言葉があったのも勿論ある。しかしそれ以上に、彼の左瞳にある理知的で頑迷な光が、神威を発さずしてただならぬ存在感を伴っていたのである。
 この者はヘラの嫡男にしてアレスの兄、火の神のヘファイストスなのだ。彼の醜悪な顔は、老人に見えるが、よくよく見ると若々しいものである。誰しもが嫌悪感に眉を顰めるだろう顔と、奇形に曲がった両足に、微塵も表情を険しくさせることはなく。メレアグロスは神に対する礼節を示すために跪き、恭しく頭を垂れた。
 錆ついた鎖帷子と、その上に着込んだキトンをダブつかせるヘファイストスは、意外そうにメレアグロスを見下ろした。

 ――ワシを疑わんのか。人の姿をしているワシは醜悪であろう。神とは思えん、ヌシはそう感じぬのか。

 メレアグロスは応じた。――貴様は確かに醜悪極まる。見るに耐えん、と。

 罵倒されるのに慣れているのか、眉を跳ね上げる程度で特に感情を荒ぶらせず。しかし己を侮辱した罪を糺さんとするヘファイストスに、メレアグロスは先んじて言った。

 ――だが、私は貴様よりも醜い神を知っている。他ならぬ我が父、アレス神だ。

 アレスはヘファイストスも認めざるを得ない絶世の美男だ。その忌々しい弟を、甥に当たる美男子はヘファイストスよりも醜いと言ったのである。思わずどういうことか、と問いかけたくなるのも無理からぬ話であった。

 ――闘争の狂気、誠実さに欠ける精神、滲み出る内面の下劣さ。どれほどの美貌の持ち主であっても、それを差し引いてなお目に余る。

 翻るに、貴様は醜悪だが、それは外面のみ。身に付ける衣服は襤褸のようでいて、鍛治仕事に汚れただけの誠実なもの。己の鍛治に誇りを持つが故の確固とした自負は、貴様の醜い外面を補って余りある。

 そう言ったメレアグロスに、ヘファイストスは隻眼を瞬かせ、次いで破顔した。

 多くの神々に侮蔑されてきた過去を有するヘファイストスは、自然と他者が自らに向ける嘲弄に敏感になっていたのだ。だからこそメレアグロスが本心からそう言っているのだと見抜き、愉快になって久しく失っていた笑いを発したのである。
 なるほど、偏屈な母が気に入るだけのことはある、と。認知はして貰っても、子として愛されたことのないヘファイストスは、肉親からの敬意に擽ったさと心地好さを覚えたのだ。

 硬派で硬骨な鍛治の神は、端的に言ってこの甥のことを気に入った。
 火神であり、雷神としての側面も持つ隻眼の男神は、隠していた神威を発し、笑いながら問うた。

 ――ヌシはまことにアレスの子か? とても信じられん。

 肯んじ難いが、事実である。
 苦渋の表情で認めたメレアグロスに、ますますヘファイストスは愉快になって、声を上げて笑った。

 ――あの憎たらしい愚弟めが己が子に懲らしめられたと聞いて、物見遊山気分で見に来た甲斐があった。いや、痛快である。ワシはヌシが気に入ったともよ。どれ、奴めから奪い取ったという槍をワシに見せてみぃや。

 ヘファイストスの催促に、メレアグロスは思慮を巡らせ一拍の間を置いた。
 果たして、槍をどうするのか。見せて終わりということはないだろう。だがまあ、無くして惜しいわけでもない、素直に渡した方がいいのか? いや、アレスが妙な因縁を付けてきそうで、少し面倒くさい……。
 その一瞬の沈黙を、ヘファイストスは神槍を惜しんでのものと誤解したのか、焦れったそうに言った。

 ――えぇい、悪いようにはせん。いいから見せんか!

 そうまで強く言われたなら拒むこともないと判断し、メレアグロスは赤布に包まれた神槍を差し出す。ヘファイストスは律儀に布を剥ぎ、それをメレアグロスに返して、手にした戦神の槍をしげしげと眺め嘲笑うように吐き捨てた。相も変わらず、暴圧的なだけの神性だな、と。

 ――甥よ。無理強いはせんがな、良ければこれをワシに譲らんか?

 忌々しいとまで言った弟の槍である。それを欲する訳を問うと、ヘファイストスは鼻を鳴らした。

 ――アレスめを打ち殺したいのは山々だが、流石にそれは他の神々に咎められてしまう。ならばだ、奴の権威の証足る神槍を打ち砕き、かつての我が妻に働いた不貞への鬱憤を晴らしたい。

 ――そういうことなら、是非もなし。神槍を譲ろう。

 躊躇うことなく一つ返事で了承した甥に、ヘファイストスは苦笑した。
 どんな英雄であれ武人であれ、一度は手に入れた神槍を手放すのは相当に惜しかろう。だというのに甥はそんな気をおくびにも出さず、未練なく譲るという。
 この心意気に応えてやりたい。神槍を譲られ上機嫌になった鍛治の神は、極めて珍しいことに、誰に命じられた訳でもなく他者のために武具を鍛えてやりたいと思った。
 ヘファイストスは言った。

 ――ヌシは、アテナめへ献上するために駒を作っておったな?

 ――左様。だが最後の仕上げに必要なものが足りない。駒に、使用者の命令に従って動く機能を与えようとしているのだが……。

 ――ならば、ワシに絶えて久しい愉悦を齎した褒美に、特別に女神ヘカテーに便宜を図ってやろう。奴ならば、物の数と座標さえ知れたら神殿からであろうと魔力を届かせられる。

 ――! 感謝する、ヘファイストス神。まさかそちらに斯様な伝手があるとは。

 死の女神とも、女魔術師の保護者とも言われるヘカテーに、鍛治場に籠ってばかりのヘファイストスが縁を持つとは意外だった。
 ヘファイストスは面白くもなさそうに、ゼウス神の魔法鎌を鍛える際、少々力を借りたのだと呟いた。
 彼としては、自分の仕事に他者の力を介在させざるを得なかったことが腑に落ちないのかも知れなかった。――メレアグロスとしては、ゼウスの武具作成にヘカテーが絡んでいたことは初耳であったが……まあどうでもいいか、と聞き流した。

 ――甥よ。ワシはどうやらヌシのことが気に入ったようだ。どうだ? なんならワシの鍛えた武具をくれてやってもよいが。

 ――願ってもない。槍の一つでも新たに買い求めねばならぬと算段していたところだ。

 ――ふ。ワシの鍛えた武具を、そこいらの鉄屑と同等に見るでないぞ。ヌシには我が雷火を束ねて鍛えた槍と、あらゆる呪いを弾く魔法の鎧をやろうというに。

 それさえあれば、ヌシは天界と地上、冥府の三界をも制覇する勇者となろう。さも得意気にそう言い置いて、ヘファイストスはまた会おう! と天界に帰還するべく去っていった。
 彼はメレアグロスの要らなさそうな目に、ついぞ気づきもしなかったが……ヘファイストスには少なくとも、甥に対する好意しかなかった。それが、幸か不幸かは置いておくとして。

 やがて如何なる魔術か、チェスの駒は遥か遠くに在るヘカテーにより自立行動を可能とし、遥か未来まで連綿と受け継がれる盤上遊戯が、戦女神に献上されることになる。

 この後、メレアグロスは辛うじて戦女神の悋気を避け、城塞都市アテーナイを後にした。

 再び野に出たメレアグロスは、女狩人だけを供として、二ヶ月にも及ぶ流離いの旅を無難に辿る。
 それは束の間の安息であった。
 長閑な旅路に心癒され、彼らはアテナの言うミュケナイ王家が治める地を目指して旅していた。
















 既に二ヶ月が経つというのに、鍛治神からの音沙汰は一向に訪れなかった。

 もしや約定を違えたのかと普通なら疑う所であるが、メレアグロスは然して気にすることなく、なんの変哲もない手槍を拵えて狩り道具とした。

 神々や、それに比する怪物と本格的にことを構えるわけでもなし。神造兵装を無闇矢鱈に求める気は更々ない。石の礫を擲ち、空を往く竜種の翼を射抜いて地上に落とすことも出来るのだ。過剰な威力を持つ武具を必須とする動機がメレアグロスにはなかったのである。
 普通の槍と、そこらの石ころだけで充分。戦神を貫いた槍も、普通の槍だった。神秘や魔術に頼る必要は、少なくとも剛勇無双の獣にはない。アルテミスに授かったという天穹の弓を持つアタランテなどは、その呆れた豪腕振りに最早驚くこともなかった。

 カリュドンに帰還するまで、決して山に入らないという誓いを立てたメレアグロスは、専ら街道や草原に出てくる獣を狩ることしかできない。これまでの教訓から、密かに眠りを浅くすることで夢を見ないようにして、毎夜のように夢に出てくるヘラを避けた。
 流石に避けすぎると不審がられるので、三日に一度は語らうようにしているが……さしものメレアグロスとて、匙加減一つでこちらを破滅させられる存在との対談には気疲れもした。いい加減にしてくれと遠回しに言ってやろうと思ったりもしたが……ここのところ、何故かヘラからの接触がぱたりと途絶えていた。
 不穏である。凄まじく嫌な予感しかしない。だが、慌てても、怯えても、嘆いても。何が変わるでもなし、メレアグロスは密かに気を引き締めるだけで、旅をやめることはなかった。

 最早意地だった。

 普通の武者修行で終えるはずだった旅が、神格との関わりによって本質が変容しつつある。
 しかしこれは、父母に与えられた有限の時。本来の目的をただでさえ蔑ろにしているのに、自らを高めることも出来ぬままでは父母に会わせる顔がない。
 故に是が非でも旅は続ける。メレアグロスの意思は固かった。

 アタランテと旅をしているからと、なにが変わった訳でもない。男女の空気になることもなく、アテーナイで弁舌を振るった精神的疲労もあってか余り言葉を交わすこともなかった。
 女狩人との会話は少ない。黙々と歩き、野営地を見繕ったり、道中で得た獲物を無言でやり取りしてばかりいた。
 両者共に、口数の多い性質ではない。必要がなければただ沈黙だけがある。しかしそれは、重いものではなかった。語らずとも察し合えるものがあるのだと感じあっていた。

「……メレアグロス?」

 昨日立ち寄った村で、こちらの所持している獣の肉と、村の穀物と野菜を交換して、久しく口にしていなかった緑の食べ物を堪能した次の日のこと。
 朝、日の出と共に起床したアタランテは、深く眠り込んだまま起き上がらないつがいの男に不審感を持ち、そっと耳元で囁いた。
 反応はない。心なしか、メレアグロスの息が荒かった。どうしたのか、漠然とした不安が芽生え、アタランテは息を呑んでメレアグロスの顔に触れ――

「っ?」

 熱い。その、熱した鉄板のような熱を放つ額に、アタランテは驚いて手を離した。
 呆然と、息の荒い、意識のないメレアグロスを見る。どれほど腰を抜かしていたのか、尻餅を付いて固まっていたアタランテは、我に返るとハッとして飛び上がり、動揺してメレアグロスの肩を揺らした。

「め、メレアグロス! 起きろ! 起きないとひどいぞ! ……起きて!」

 何が起こったのか判断できず、駄々っ子のような喚き、何度も呼び掛け続けるとメレアグロスはうっすらと眼を開いた。
 そして、力なく言う。

「……耳元で、騒ぐな……ただの風邪(・・)だ。寝てれば……治る……」
「かっ、風邪(・・)だと?!」

 その病の名を聞いて、アタランテは見ていて憐れになるほど動揺した。
 意味もなく立ち上がって走り出し、我に返って元の場所に戻り、あわあわと左右を見渡す。メレアグロスがまた意識を失っていることに気づくと、泣きそうになりながらメレアグロスの体を揺すって名を叫んだ。
 今度は反応がない。どうしていいか解らず、アタランテは途方に暮れた。

 ――風邪(・・)

 それは死病である。アタランテは知っていたのだ。アルカディアで狩人をしていた頃、人里に降りた時、子供から体力のある大人まで、風邪にかかると衰弱して死んでしまったことを。
 恐ろしい病だ。断じて寝れば治るようなものではない。アタランテは一瞬、目の前が真っ暗になった。
 出会いから、ここまでの、静かながらも克明に思い出せる旅の記憶。共有した時間。色づいた日々。それが失われるのでは、という想像にアタランテはいてもたっても居られなかった。

 思わず走り出していた。

 山野を駆け回り、手当たり次第に薬草と精のつく肉を調達して回る。
 鬼気迫るアタランテの足は風と一体になっているのではないか。そう思わせるほどの領域に踏み込んでいた。

 ダメだ、足りない!

 手に入った薬草は、どれもアタランテの知識にはないものばかり。とてもではないが、アタランテの知る薬を調合できなかった。
 目の端に涙すら浮かべ、昨日立ち寄った村に行って医者を探そうか、と思い立つ。だがそれまでの間、メレアグロスを放っておくわけにはいかない。どうしたらいい? どうしたら!

「アルテミス様……!」

 守護神に縋りたくなりながらも、アタランテは足を止めなかった。
 両手一杯になるまで薬草を摘み取り、血抜きした野兎を腰に吊るして、メレアグロスの許に戻る。

 どうする、どうする!

 メレアグロスの熱は下がらない。呼吸は荒いのに息は浅い。
 不安が募る、もはや是非もなかった。アタランテはメレアグロスの病魔を吸うように額に唇を押し当て、(まじな)いを早口に囁いた後、近くの村目掛けて走り出した。
 今までの限界を遥かに越える健脚ぶりで、一日歩いての距離にある村に、アタランテは一時間で到達した。

 深緑の髪を振り乱し、鬼気を発する少女が現れたことに村人は大層驚いたが、少女が昨日に立ち寄った旅人だと気づくと、少しだけ警戒を緩めて訊ねた。如何なる用向きでありましょうか、と。

「この村に医者はいるか? 或いは風邪に効く薬の調合方法を知る者は!」

 風邪と聞いて、顔を曇らせる村人に、アタランテは悲壮な気持ちになるも、何かを思い出したように言った村人に目を爛々と光らせた。

「そういえば、今この村に、病人を看て下さっている方が――」
「――どこだ!? どこにいる!」
「あ、あっち――」

 指差された方に一瞬にして駆けていったアタランテを視認すらできず、村人は呆気に取られていたが、アタランテにはどうでもいいことだった。

 普通の家。村長の住処。

 そこに駆け込んだアタランテは一も二もなく叫んだ。

「――医者がここにいると聞いた! 助けてくれ、頼む……!」

 突然の侵入者に、目を白黒させる者達を置いて。

 一人の半人半馬の青年は、麗らかな風貌に苦笑を湛えて女狩人を迎え入れた。

「やれやれ……穏やかではありませんね。いいでしょう、薬の処方も終わったところですし、話を聞かせて貰います」

 青年は、ケイローンと名乗った。

 
 















※原典のメレアグロスと本作のメレアグロスは完全に別人です。原典は原典、本作は本作と別けてお読みください。


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死なずの獣、難行へ

ヘラが疑われ過ぎて流石に笑った。なんでや! 孫大好きなだけのいい婆ちゃんやろ!()

















 粗暴な半人半馬(ケンタウロス)族の中に在って、唯一例外的に知性を尊ぶ賢者は、女狩人の案内を受け患者の待つ野営地に向かっていた。

 賢者の名はケイローンという。大神ゼウスと父親を同じくし、ニンフのピリュラーを母とする彼は、太陽神アポロンから音楽、医学、予言を学び、月の女神アルテミスからは狩猟を学んだ来歴を持つ。
 彼は決してひけらかさないが、ケイローンは神格を保有する不死の存在だ。その知恵は全知のゼウスにすらひけを取らず、神々すらもケイローンには一目を置き、アポロンなどは己の子の養育を託すほどである。その洞察力は人語を絶し、彼は一目アタランテを見るなり、彼女がアルテミス所縁の少女であることを見抜いてのけた。

 ――月の女神の神威(けはい)は、相も変わらず愉快な色ですね。

 ケイローンが内心、そう苦笑したかどうかは定かでない。しかしアルテミスの見守る少女が自身に助けを請いに来たことに、彼は言い様のない運命を感じていた。
 元より助けを乞う者を捨て置ける性分でもなく。ケイローンはアルカディアの狩人の先導に従い、野営地で横たわる男の許に向かった。

 ケイローンは、そこで黄金の獣を知る。

 戦神を打倒した英雄にして、戦女神を上回る知恵者。神々が熱狂する盤上遊戯をアテーナイにて献上し、今や古今並ぶ者なき最優の誉れを持つ、ヘラに曰く"黄金の獣"。
 ギリシア全土に名声轟く、神々の寵愛を浴びるギリシア男児の理想像。ケイローンは黄金の英雄が内包する祝福と呪いに瞠目した。運命の三女神の祝福(のろい)と、神々の女王と戦女神の溢れんばかりの熱情――のみならず、命を持たない(・・・・・・)が故の無敵性。
 彼の命は、彼のものではない。その数奇な運命と、今、彼を苦しめるモノの正体にケイローンは言葉を失った。

「これは……」

 呻き、沈黙したケイローンに、アタランテが焦れたように言った。

「どうしたというのだ。早く看てやってくれ」
「……いえ、無駄でしょう。これは風邪などではない。もっと別の、神のおぞましい呪いです」
「なんだと!?」

 病ではない。彼を激しく憎む憤怒が、黄金の獣を蝕んでいたのだ。
 数にして二百万もの戦死者の怨念。どれほどの英雄であっても到底耐えられる物ではない。あまりの苦痛に、死こそを救いとして求めてもおかしくはなかった。
 だが黄金の獣は理性を保ち、一度は目を覚ました後、アタランテと言葉を交わしたという。驚異的なまでの精神力であると言える。

「――本来なら、既に死んでいなければならない。彼以外なら死に引きずられるほどの怨念に蝕まれている。生きていられるのは……」

 彼の命が彼の物ではないから。ただ、それだけ。彼の命は此処にはない。故の不死である。しかしなまじ死ねぬから、永遠にこの呪いの責め苦にのたうつことになるだろう。
 魂をも汚染されてもおかしくはない。死後、冥府に逝くことすら儘ならぬのではないか。ケイローンがそう言うと、アタランテは悲痛さも露に縋りついた。

「頼む、私にはどうすることも出来ない。汝にしか救う手立ては見つからない! 私に出来ることならなんでもする、だから――」
「未婚の女性がなんでも、などと言うものではありません。……この呪いを解くには魔術神ヘカテーに協力を要請するか、呪いを放った張本人に解呪させるしかないでしょう」
「――誰だ!? いったい誰がメレアグロスを呪っている!?」

「戦神アレス。我が父だろう」

 不意に、玲瓏な音が鳴った。驚いてアタランテが振り返ると、横たわっていたはずのメレアグロスが体を起こし、今まさに立ち上がった所だった。
 目覚めの予兆はあった。知らぬ気配の接近に獣のような警戒心を揺り起こし、いつでも跳ね起きられる気構えでいたのだ。ケイローンはそれを見て取っていたから、特に驚くこともなく応じられた。

「――ええ。恐らくは。しかし起きていいのですか? 今、貴方は想像を絶する苦しみの中にあるはず」
「貴兄はアタランテに呼び寄せられた者か。さぞ知恵高き者なのだろう。呪いと言われるとそんな気がしてくる。……まあ死なぬと分かっているのだから、気の持ち方次第で幾らでも耐えられよう。幾ら数を揃えようと、怨念如きに私は負けん」
「……」

 平然と言ってのけたメレアグロスにケイローンは目を見開いた。
 断じて、言うほど容易いものではない。それをあっさりと言ってのけ、実現して見せている彼は、稀に見る傑物なのだと悟り自然ケイローンは居住まいを正した。

「貴方に敬意を、最優の英雄メレアグロス。私はペリオン山のケイローン、ここに貴方との知己を得られたことを幸運に思います」
「――貴兄が彼の賢者だと? 幸運なのは私の方だ。期せずして巡り会えたのなら、呪われた甲斐もある」
「め、メレアグロス……」
「アタランテも。貴様がこうして、私と彼の縁を結んでくれたことを感謝する。ただ、な」

 心配げに伺うアタランテに、メレアグロスは珍しいことに苦笑を浮かべ、言いにくそうに告げた。

「――神託があった。私はこれからナクソス島に向かう」
「なに……!?」

 正気を疑う宣言である。今まさに神に呪われているメレアグロスが、神の命によってナクソス島に向かうなど、アタランテとしては是が非でも引き留めたいところだった。
 だが、そうも言っていられない。メレアグロスはアタランテを安心させるように言った。

「……どうやらヘラ様が困っているようでな。助けに行かねばならない」
「なぜだ!? なぜ汝が行く必要がある!」
「何故も何も……行かぬわけにはいかん。ヘラ様が囚われ(・・・)、私に救われることを望んでいるとなれば」
「――メレアグロス殿、それは」

 ケイローンが瞠目して口を挟む。その顔は驚きに包まれていた。
 神々の女王が囚われた? そんな、大神をも恐れぬ不敬を、何者が――

「ポセイドン神の子、巨人の双子エピアルテスとオートス。二体併せ巨神の童子(アロアダイ)などと呼ばれる者らの仕業だ」

 寝込んでいたメレアグロスの夢に現れたのは伝令神ヘルメス。姿なく、ただ声だけがした。
 僅か九歳のエピアルテスがヘラを、オートスがアルテミスを力づくで奪い、ナクソス島にて遊びに耽っているという。幼い身にして神々に匹敵し、成人したなら不死の神々をも屠ってのけるだろう怪物。
 ヘラはアルテミスの助けもあってなんとか逃れたものの、ナクソス島からは出られず、隠れ潜んで助けを待っている。
 アルテミスは単身、アロアダイと戦ったが、何かに夢中になっているところを不意打ちされ傷を負っていたためか敵わず、兄のアポロンに庇われながら逃げ惑っているという。流石のアポロンも、妹を庇いながらでは強大な巨人に太刀打ち出来ず、このままでは敗れるのも時間の問題だった。

「……そんな、アルテミス様が」

 アタランテは、アルテミスが負傷していることを知り、天穹の弓をきつく握り締めた。
 避けられない戦いだ。神託に抗うわけにはいかない。それとは別に、アタランテとて大恩あるアルテミスを見捨てる訳にはいかなかった。

「私も行く。どのみち、メレアグロスの行くところには私も在らねばならない。止めても無駄だ」
「……解っている。貴様の強情、曲げられるとも思えん。同道を許す、この身に代えても必ず守ろう。――ケイローン殿、すまない。わざわざ来て貰っておきながら、親好を深める暇すらないとは。このまま去る非礼を許せ」

 何かを考えるように、ケイローンは目を伏せた。
 そして、メレアグロスの黄金瞳(ひとみ)を見詰め、はっきりと言い切る。

「私も行きましょう。恩義ある太陽神と月の女神の危機、知りながら捨て置く訳にもいきません」
「いいのか?」
「ええ。それに、このまま貴殿方だけを行かせれば、必ず(・・)敗北し、貴方は死すら生温い永劫の責め苦に墜ちることになる。どうして知りながらに見捨てられましょう」
「……感謝する」

 あたかも未来を予言するかのような言葉に、一瞬メレアグロスは瞑目し深々と頭を下げた。
 最敬礼を受けた賢者は、微笑んで言う。

「礼は不要です。そこの狩人に助けを請われながら、何も出来ずにいるのも寝覚めが悪い。折角です、私の弟子も連れていきたいと思うのですが、どうです?」
「貴兄の弟子となれば心強い。是非とも助太刀願いたい。その弟子の名は?」
「それは会って本人から聞いた方がいいでしょう。気位の高い、少々気難しい少年だ」

 苦笑し、ケイローンは一礼する。また後で、と。合流するゆえ、先に行かれるがいいと言い彼は駆け去っていった。
 メレアグロスはアタランテを促し、移動を始める。

 目指すはナクソス島。ヘラとアルテミスを救い出し、神に挑むほどに思い上がったアロアダイを討伐する。
 呪いに侵された体と魂に、しかし足が鈍ることはなく。メレアグロスとアタランテは先を急いだ。





 ――そうして道中にて、ケイローンは予告通り弟子を連れて合流した。

 そこで、両雄は出会ったのだ。



「――私はメレアグロスという。貴様は?」

「アルケイデス。最優の誉れ高き英雄よ、お会いできて光栄だ」



 齢十四にして、二メートルにも届かんとする長身のメレアグロスよりも頭一つは背丈の高い、筋骨逞しい雄壮なる漢。
 後に永遠の友情を誓い合いながら、最後には殺し合った終生の好敵手。不死のはずのメレアグロスに、傷を負わせた最強の男。

 その未来の名はヘラクレス。

 メレアグロス第二の難行『巨人殺し』にて。
 ギリシア神話の頂点に君臨した英雄達が、神を超えうる怪物との戦いのために轡を並べたのだ。

 この時、両名共に若造の域を出ていない。だが二人は互いに惹かれ合うものを感じていた。
 それは、これより先に待ち受ける、数多の試練に対する予感なのかもしれず。――或いはその試練にも勝る難敵に喜ぶ、英雄の本能なのかもしれなかった。


















メレアグロス(呪われ)、アタランテ(少女)、ケイローン(引率者)、アルケイデス少年(未熟)とかいう豪華すぎる面子による第二の難行。

勝ったな、風呂入ってくる()


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幕間「共感」

アレスの人気に嫉妬不可避。













 ――その男との出会いは運命だった。

 "黄金の御座"のヘラに疎まれ、憎まれている我が身と異なり、己と同じ半神(デミ・ゴッド)の身でありながら栄光を掴んでいるカリュドンの王子。
 軍神打倒の武勇伝。戦女神との知恵比べの栄誉。神々の寵愛。度々狂気を吹き込まれ、正気を失う己と余りに違う。
 どんな男なのか、気にはなっていた。嫉妬する気持ちがなかったとは言い切れない。オレとてやれる、オレも軍神を打ち倒せる。激流のような力のうねりを身に宿し、だからこそ持て余す大力に、少年と呼ぶには余りにもデカ過ぎる男の魂は叫んでいた。

 鉛色の肌の偉丈夫――アルケイデスにとってあらゆる事象は脆すぎたのである。

 触れば砕ける、撫でれば死ぬ。大地を支える膂力を制御するのは難度が高く、アルケイデスはケイローンという得難い師を仰ぐまで、繊細極まる人の子に触れることすら出来なかった。
 ケイローンはまず言った。手加減を覚えなさい、と。全力で掴み掛かっても、容易く投げられ、組み伏せられたのはケイローンにだけだった。己の剛力を、技で捩じ伏せたのだ。
 アルケイデスにとって、これは酷く衝撃的なことで。彼を尊敬し、師と仰いだのは必然のことであった。

 ケイローンの手解きを受けて手加減を知り、脆すぎる人にも触れられるようになり、しかしアルケイデスは日毎に鬱憤を溜め込んでいた。
 英雄と呼ばれる者を見た。余りに弱すぎた。やがてアルケイデスは悟る。己と比する者などいないのだ、と。ケイローンの技を身に付け、師を超える日も近いと感じるにつれ、アルケイデスは虚しさを感じ始めていた。

 ――この身の全力を振り絞るに値する強者はいないのか。

 若く、未熟なアルケイデスは、己の全力を振るえる好敵手の存在に飢えていた。
 いつか、並び立つものがなく。飢えは達観となり、寛大でありながらもどこか傲慢な存在に成り果てる未来がある。漠然と、それを感じ、寂しさを覚える気持ちがあった。
 だが、その未来は、ここに潰えた。

「――」

 メレアグロス。最優の英雄。騎士の起源にして始まりの称号を得た、今や知らぬ者なき大英雄。――黄金の獣。
 その名を聞き、名乗りを返し。相対して彼が自然と発する武威に肌を打たれ、心が震えた。そして彼が差し出してきた手を、つい握り返した瞬間、魂が歓喜した。

 まるで、大地を掴んでいるようだ。

 メレアグロスの体幹の(つよ)さに、彼の力を知る。その立ち姿に、武練の程を見る。
 強い。その確信が、未熟なアルケイデスを奮い立たせた。喜悦の滲む笑みを、犬歯を剥き出しにして浮かべ、体を震えさせながら問う。

「メレアグロス。そう呼んでもいいか」
「よかろう。私は貴様をアルケイデスと呼ぶ」
「――メレアグロス。お前は、何者を師として強さを得た?」
「さてな。生憎、師と呼べる者を仰いだことはない。我が槍は我流のそれだ」
「ほう。にしては、完成形を知る者に見えますが」

 ケイローンが面白そうに、意外そうに言う。
 メレアグロスの槍には、確かな理があった。それを我流で得たとは……。
 メレアグロスは表情一つ動かさずに囁いた。以前の私は槍術を学んでいたのだろうな、と。意味は判然としない。しかしそれは些事だ。師がいないのが余りに勿体なく思えて、アルケイデスは熱く勧誘した。

「……であれば、だ。お前も我が師に教えを乞うがいい。さすれば更なる高みへと至れよう」
「私としては否はない。が、それを容れるかどうかはケイローン殿が決めることだ」
「私は拒みませんよ。貴方ほどの英雄の師となる、これほどの栄誉は早々ない。ただ――」
「――その前に、やるべきことがある」

 明瞭に言い切ったのは、アタランテだった。
 彼女は男達が何を悠長に語り合っているのか理解できず、イラついていた。彼女は武人ではない。故にこの、急行せねばならぬ道程で、こうも悠長に構える彼らに怒っていたのだ。
 アルケイデスより一つ年上の少女は、早くしろと眼を怒らせ、先を急ぐべくメレアグロスらをせっついた。

「談笑している場合ではないだろう。アルテミス様達の危機なんだぞ」
「解っている。解ってはいるが……すまない、狩人よ。その前に一つ、どうしても確かめたいことがある」

 アルケイデスは、このか弱い少女の形をした狩人に謝罪した。確かに呑気に話している場合ではない。彼の理性はそう言っている。
 だが堪えきれなかった。どうしてもと雄叫びをあげる本能を抑えきれなかった。アルケイデスはメレアグロスに向き直り、掲げた握り拳を突きつける。

「最優の英雄。始まりの騎士。――黄金の獣。豪勇の誉れ高きカリュドンの王子よ、どうかオレの願いを聞いてほしい」
「聞こう。力のうねりを抑えられぬ未熟者。若さを受け止めるのも先達の務めだ」
「――フ。このオレを未熟と言うか。だが感謝する。まだ未熟ということはまだ先があるということだ。その先にお前がいることを願おう。今はただ、この一撃で死んでくれるなッ!」

 叫ぶや否や、アルケイデスは渾身の力で踏み込んで来た。
 大地が砕ける。地面が裂ける。世界が鳴動した。裂帛の気合いを吐き出しながら。生涯でただ一人、己の全力の力に真っ向から向き合える男に対し、アルケイデスは呵責なき拳を振るった。

 拳が大気を貫く。宇宙を戦慄させる。巌の如き握り拳がメレアグロスの腹部に突き刺さる。
 大地を砲弾とし拳に宿したが如き拳撃であった。狼を脱した黄金の獣は、その重厚極まる打撃を正面から受けて立つ!

「ぐ、っ……!」

 腹で爆発した威力にメレアグロスは苦悶の声を漏らした。死なず、敵無しのメレアグロスがだ。
 ダメージは通らずとも衝撃は徹った。メレアグロスを貫通した拳撃の威力は死なず、天まで届き、天空を覆う分厚い雲に大きな風穴を空けた。一歩、後退したメレアグロスは、声もなく驚愕する。

 今のは――痛かった(・・・・)

 過剰な痛みなど、感じたことがない。なのに今、メレアグロスは確実に苦しんだ。
 どれだけ受けても死にはしないだろう。だが解った。死にはしない、しかし受け続ければ倒される――ノックダウンさせられる。
 それは……未知だった。思わず黄金瞳を見開いて、メレアグロスは同じく愕然とこちらを見る男を見詰める。

「い、生きている……!」

 アルケイデスは、呆然と呟き、やがて歓喜が狂熱に沸騰する。
 生きてるだけではない! 万象悉くをも粉砕せんばかりこの力を受け、原型を保っている!
 ケイローンより授かった技術を総動員しての拳撃であった。それに己の膂力を込めての全身全霊であった。なのに、なのに! この男は顔色こそ変えたものの、確りと二本の足で立っている!

 英雄二人、驚愕と歓喜。

 己を倒し得る者、己の力に耐える者、未知の存在との邂逅が彼らを包み――

「ク、」

 不意に、獣が嗤う。

「ククク、」

 くつくつと、懸命に笑いを抑えながら、メレアグロスは愉悦に染まった黄金の双眸を歪め、満面に狂喜の波を揺らめかす。
 メレアグロスが拳を握る。ギリ、ギリリ、と途方もない力が握り潰された。一歩、進み。巨体の少年を見上げ、メレアグロスは溶岩のような気炎を纏い言った。

「――嗚呼。心踊る拳だった。返礼だ、私の感動を感じてくれ」

 獣が獰猛に狂い、世界の果てまで轟く震動を伴い踏み込んだ。拳を振りかぶり、何も考えず全力で殴り付ける。
 それはアルケイデスの腹筋を貫通した。拳が捩じ込まれ、筋肉を貫き、その屈強極まる体に明確な"感動"を刻み付ける。
 くの字に折れ曲がり一瞬巨体が浮き上がる。アルケイデスほどの力はなくとも、それは確かにアルケイデスに激痛を与えた。

「ガッ、……ハハ、」

 アルケイデスは、確かにそれを――"感動"を受け取った。苦痛に呻き、笑みを浮かべる。
 嗚呼、嗚呼、メレアグロスの気持ちが余すことなく伝わった。

 並び立つ者のいない孤独。全力で戦え、認め合える好敵手の不在。飢えていた、渇望していた。あらゆる凡てを懸けてなお、打倒が困難な難敵の存在を。
 この瞬間メレアグロスは、アルケイデスは。いつか、自分達が総てを掛けて殺し合う未来を了解した。

 ――お前になら殺されてもいい。

 ――お前となら命のやり取りをしてもいい。

 たたらを踏んで後退したアルケイデスは、前に出る。そして無言で、再び黄金の英雄と手を取り合った。
 言葉はない。言葉は無粋だった。アルケイデスは、メレアグロスは、将来殺し合うであろう男と、後ろ暗い負の気持ちなく、快活に、爽やかに友情を誓い合った。
 獣はもどかしかった。自分の命がここにないことが。命があれば死んでいたか? 否、一撃では死なない。意地でも叫んだろう。オレは無敵だ! と。くだらないガキの自負を振りかざし。

 ――モイライよ。運命の女神よ。オレは今、はじめて貴女を呪う。なぜオレを不死にした、なぜオレに……この男と対等に闘わせない?

 不死身でなければ殺されるからか?

 そんな勝手な決めつけのためか?

 ――嗚呼。屈辱だぞ。オレは負けん。絶対にだ。だからどうか聞き届けてほしい。せめて、せめてこの男との戦いに限って、オレの不死を無くしてくれ。それで死んでも構わない。この男になら殺されてもいい。こんな気持ちははじめてなんだ。この悦びを汚すことは貴女とて赦さない。傲慢だと罰してもいい、だから、どうか!

 メレアグロスの切なる訴えを、女神は聞き届けたのか。それを知る術は、一つしかない。
 メレアグロスはアルケイデスに拳を出した。アルケイデスは、拳を掲げて、それにこつんと合わせる。

 ――その感触に。肉の打ち合う感覚に。

 メレアグロスは満面に笑みを湛えた。

「――これほどか。黄金の騎士。オレは今、猛烈に感動している」
「私も……いや、オレもだ、アルケイデス。いつか、続きをやろう。貴様の一撃であっても簡単には沈まんぞ」

 メレアグロスの満面の笑みを、アタランテははじめて見た。よりにもよって、自分以外の誰かにそれを見せたことに機嫌を損ね、ささくれ立つ気持ちを持て余しアルケイデスを睨む。
 それに、メレアグロスは淡く口許を緩め、一同を促す。行くぞ、と。アタランテが怒っていると冗談を言って。

 更に強くなるだろう未来の英雄。その出会いに感謝し、共に戦える喜びに震える。

 アルケイデスは言った。その時を楽しみにしていると。

 ――ナクソス島の激戦。

 海を陸地とし、陸地を海とせんとする傲慢なる巨神の童子(アロアダイ)との戦いは、海を越え、山を越え、オリュンポス山に二つの山を重ねるほどの死闘となる。
 母の危機に駆けつけた軍神は既に敗れ、太陽神と月の女神の進退窮まった。

 駆けつけた人の子に、アロアダイは嗤う。新しい玩具が来た、と。


















アルケイデス少年のパンチはワンパンマンの「マジ殴り」に匹敵。今後も成長を続ける模様。
メレアグロス、気分は幕引きの一撃を受けた獣殿。アルケイデスと殴り合えるレベルでも、流石に力では到底敵わない。

よし、主人公最強(ヘラクレスより強いとは言ってない)タグを追加するかな!

てか怒りの日おもろいな! ニーチェから黄金の獣云々は引用したのにまさか被るとは……。





後のローマ文化。

男同士で仲良くなれるかどうかは、互いに本気で一発ずつ殴り合い、それで相手を笑って許せるかどうかで決まる。
それを「腕試し」と言うとか言わないとか。


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幕間「親子」



 "吾の槍は人の仔にくれてやったわ"――天界に引き返し、神々に対してそう言うと、戦神に向けられたのは冷笑だった。
 大神は、戦神の言に激怒した。"そなたのような愚物など儂の子ではない!" 訳も解らぬまま天界より追い出され、母に縋るも冷酷な一瞥のみをくれたきり無視される始末。戦神は自らの領地に当惑しながら帰還し、なぜ己があのように放逐されたのか原因を探った。
 答えはすぐに判明した。己の仔との一幕を、父である大神と母たる女王は見ていたというのだ。しまった、と痛恨の失態を悔い、仔を恨み掛けたが、流石にそれは大人げないと頭を振り逆恨みを自重した。
 他の誰ならいざ知らず、相手は仮にも吾が仔なのだ。これを恨むのは、他にも娘を持つ身として余りに情けない。そう思える程度には、彼にも親としての意識はあった。

 腹の奥底に燻る不満はあるが、仔があのいけ好かない戦女神との知恵比べで勝ったと聞いてある程度は溜飲を下げ、神々の間で盛んになった盤上遊戯に興じることもあった。
 それから暫くしてだ。戦神はふと、仔がどうしているか、親としてたまには見てやるべきではないか、と考えた。二ヶ月も経つと流石に頭も冷え、蟠りも薄くなっていたのだ。
 小生意気な輩であるが自らの仔であることに違いはない。ならば、少しは気にかけてやるべきではないか。
 らしくない親心、と戦神をよく知らぬ者ならば考えたろう。しかし元々戦神は子煩悩であった。娘を傷つけた海神の仔を殴り殺し、アマゾネスの女王である仔には戦神の軍帯を贈るなど身内には甘いのである。

 ――そう。だからそれは、余りに間が悪すぎただけなのだ。

 己の槍を持たぬ仔を見て、慌てて槍がどこにあるのかを僕や支配下の者らに探らせると、戦神の槍はなんとあの鍛治の神のもとにあると言うではないか!
 戦神は大いに慌て、鍛治神の許に飛んでいき槍を返すように言った。だが既に遅く槍は粉々に打ち砕かれ、神槍の核だけを取り出して、新たに雷火の大槍を鍛えているところだという。
 何を勝手なことを! それは吾が仔にくれてやったものぞ!
 憤怒の余り鍛治の神を懲らしめてやらんと剣を抜いたが、鍛治の神は他ならぬヌシの子に譲って貰ったのだから責められる謂れはないと反論してきた。
 なんだと!?
 驚いた戦神は事の真相を追求し、それが事実であると知ると、烈火の如く怒り狂った。
 己の槍を、よりにもよって鍛治の神に譲るなど到底許せることではない。自らの仔であってもだ。戦神は激情に突き動かされるまま戦場で無念の内に死んだ者達の想念を束ね、仔を呪った。罰として人としての生を奪い、天界に召し上げることで罪を償わせようとしたのだ。

 ――間が、悪すぎた。

 巨神の童子(アロアダイ)の神々への挑戦により、神々の女王が拐われ、月の女神と太陽神が危機に陥った。大神はガイアとの会談の最中であり妻の危機を知らず。
 そして、戦神もまた、領地に引き込もっていたが故に。その手のことに無関心であったために。自らの仔が、己の母と、戦女神の寵愛を授かっていることを知らなかったのだ。

 戦神は呪いを放った後に、アロアダイの挑戦を知った。

 母が拐われた。ならばこれを助けに行くのが子の務め。戦神は奮起してナクソス島に向かいアロアダイと対決した。
 仔との決闘とは違い、油断はなかった。遊びもなかった。冷静な内から本気を出し、決闘騒ぎの時とは打って変わって戦神の本領を発揮したのだ。
 後から振り返ると、仔との決闘で敗れたのは山を投げつけ、投げ返されて山の下敷きになり致命的な隙を晒したからだ。それさえなければ敗けはなかったと戦神は考える。
 それを証明するかの如く、一対一でアロアダイと戦った時、戦神はアロアダイの片割れを圧倒した。二体掛かりで来られても善戦し、やもすると勝利する寸前までいったのだ。
 だが、だからこそアロアダイは彼を恐れた。九歳児に大人げなく本領発揮した戦神に、とても敵わぬと悟って、かつて鍛治神が造り上げた対神宝具の青銅壺を投げつけ、恐ろしい戦神を封じたのだ。

 青銅壺の正体は、かつて鍛治神が母に認知を迫り、母を拘束した特製の玉座が変じたもの。神々の女王をも捕らえてのけた宝具に封じられてしまったら、さしもの戦神もどうすることも出来ない。
 かつて愛と美の女神との不倫現場を、鍛治神に取り押さえられた苦い記憶が蘇り、戦神は怒号を発して暴れ狂ったが、鍛治神渾身の対神宝具を打ち破ることは出来ず、壺の中に一ヶ月余りも幽閉されてしまった。

 飢えも渇きも戦神を鎮めることはなかった。寧ろ一層の狂気に震えることになる。――だが戦神の狂乱は、唐突にぴたりと収まった。

「……これは?」

 何かが近づいてくる。神の気配だ。しかし、完全な神格ではない。だがどこかでこの気配を感じた覚えがある。
 ぴん、と閃くものがあった。この気配を、戦神アレスは知っていた。
 何者かを悟って顔を歪め、アレスはその場にどっかと座り込んだ。腕を組み、目を瞑る。見たくもない顔だ。

 青銅の壺が――完全な神格である戦神では指一本触れることすら出来ぬ対神宝具が持ち上げられていく。神の因子に反応して肉を焼く音と臭いがする。
 巨大な壺を高々を放り投げた半神は、肩口まで伸びた黄金の髪を戦神の神気に揺らしつつ、戦神を見遣った。

「――やはり、捕らわれていたのは貴方だったか」
「……メレアグロス」

 胡座を掻き、腕を組んだまま忌々しい愚息の名を吐き捨てる。

「何の用だ。吾はうぬの助けなど求めておらんぞ」
「私も貴方に助けを求められた覚えはないな。だが仮にも親の危機だ、救わないわけにもいかん」
「……フン。二百万の怨念では足らなんだか。呆れた忍耐強さよ。いや、流石の生き汚さと言うべきか? 大人しく人の血肉を捨てておけば苦しむこともなかったろうに」

 悪態を吐く戦神に、苛立ちを示すこともなく黄金の獣は背を向けた。
 そのまま、半人半馬の青年と、巨躯の少年、深緑の狩人と合流しようとする。その背中に、戦神は声を掛けた。

「待て」

 立ち止まり、されど振り返らない仔に戦神は静かに言った。

「何処に行く? よもやあの巨人の餓鬼どもに挑みに行く気ではなかろうな」
「その通りだ。ヘラ様とアルテミス様、アポロン様の危機故な。微力ながら助けになりたい」
「……戯けが。そんなガラクタで何が出来る。吾の槍さえ手放さなんだらどうとでもなったものを」

 アレスが言うのは、メレアグロスが持つ無銘の槍である。何の変哲もないそれは、とてもあの巨人に通じるものではない。直接戦ったからこそ戦神にはそれが解った。

「うぬは吾の呪いを帯びた身であろうが。そんな青白い顔では死にに行くようなものぞ。……吾の母を救おうと言うなら、解いてやらんでもないぞ」
「要らん」

 即答に、アレスは面食らった。――今も絶え間なく苛む怨念が、魂を蝕まんとする怨嗟が、堪えていないというのか。
 いや、そんなはずはない。魂や自我が保とうとも、体の方が死に絶えるはずだ。仮になんらかの方法で死を逃れたとしても、その痛みが消えるわけではない。どれほどの英雄であれ気が狂う。それは、そういう呪いだった。
 呪いに掛かっている今、メレアグロスは本来の直感と技の冴えを半減させている。そんな状態でアロアダイと戦えばどうなるか……死なぬとしても、戦神の如くに封じ込まれるのが関の山だ。

「……何故だ。吾の情けは要らぬとでも?」
「いや。例え負のそれであれ、これは父から贈られたものだ。であれば、拒むこともない」

 神槍を手放しておきながら、何を言う。そう反駁しようとして、戦神は気づいた。
 あれは建前はアレスからの贈物だが、実際はアレスの逆撃を恐れての強奪である。贈られたのではなく、奪ったものである以上、メレアグロスの中で今の言葉に一切の矛盾はない。
 あれは戦利品。であれば、戦神から言うことはなにもない。手に入れたものをどうしようと、それはメレアグロスの自由だった。

「うぬは……底抜けに阿呆なのか、大器なだけなのか……」

 恨み言の一つでも言われたなら、アレスも後ろめたさを覚えなかったろう。しかしメレアグロスは皮肉も言わない。これでは、立つ瀬がなかった。
 強く舌打ちし、神剣を抜く。因果律の破断をも可能とする、黒鋼の長剣である。
 アレスはそれを無造作に擲った。それをあっさりと背を向けたまま掴み取った獣は問う。

「いいのか?」
「構わん。持って行け。母を救わんとする勇者の武具が、そんな貧相なものでいいはずがあるまい」
「……剣の心得はないのだが」
「それは、それ(・・)にでも聞くがいい。……吾もヤキが回ったか。吾の槍を手放す愚か者に、こうまでしてやるとは……」

 それ(・・)とアレスが言うと、メレアグロスの中で何かが変じるのが解った。
 怨念が静まる。怨嗟が消える。呪いが反転し祝福(・・)となった。

 メレアグロスは驚愕し瞠目する。剣の使い方が、はっきりと解ったのだ。

「二百万もの(つわもの)の経験だ。雑多なそれを、どう取捨選択し、使いこなすかはうぬの器量次第であるが……吾の仔であれば心配は要らんだろう」
「……貴方は」
「要らん世話とは言わせん。父からの贈物であれば拒まんと言ったのはうぬだ。大人しく祝福(のろ)われておけ」
「……感謝する。いつか、ゆっくりと話そう」
「……フン」

 鼻を鳴らし、戦神は目を開いた。

 その目が、立ち去っていく仔の背を見送る。
 賢者と半神、機敏な小娘と――忌々しい我が子。アレスは呟いた。あれに、酒の飲み方でも教えてやろうか、と。


 ――それが、二人の最後だった。


 メレアグロスは悔恨と共に回想する。
 愚かと決めつけ、壁を作っていた己の不明を呪う、と。

















それは、マルスの片鱗。


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無垢なる巨神

書いてて思うのは、ギリシャの神の畜生感がヤバイということ。ヤリ捨てとかどうなの海神さま……。















 海神ポセイドンの種を受けて生まれた双子、オートスとエピアルテスは、人の子でありながら怪物としての宿命を負った巨人であった。

 僅か九歳にして肩幅四メートルを超え、身の丈は十六メートルにまでなった。……例え人の姿形をしていたところで、その規格が埒外の物となれば、もはやそれは人ではない。
 事実、彼らの周りには己と同じ生き物とも思えぬ小人(にんげん)ばかり。些細な悪戯が人の命を奪い、母の叱責にもまるで痛痒を覚えることがなかった。
 肥大するのは、自らが強大な存在であるという自信。人を超えたモノであるという事実が拡大し、オートスとエピアルテスは互いのみを同じ生き物と認め、いつしか自分達は神々をも超える超人ではないのかと感じ始めた。
 その傲慢を正すべき海神(おや)はおらず。それを諌めるべき(おや)の声は届かず。母はそれと知らぬ内に踏み潰され、継母は二人を恐れて近寄ることすらなかった。
 故に、巨神の童子(アロアダイ)に悪意はない。
 斯く在れかしと望まれることもなく、オートスとエピアルテスは悪戯小僧のように、自らの所業が断罪に値するものと知ることなく神々に挑んだ。

 ――それが悪いことだと、誰も教えてくれなかったから。

 ただ、自分達に出来ることをして、強大だという神々が、自分達と同じ存在なのだと知りたかっただけだ。世界で二人きりの兄弟は。
 子供として自分を叱ってくれる母を、姉を、ヘラとアルテミスに求めて。自分達の父だという海神に会いたくて天界を目指したのだ。

 ――それが悪いことだと、誰も教えてくれなかった。

 恐い、恐い。

 オートスとエピアルテスは、戦神の刃をひたすら恐れた。強大なはずの自分達を害し、殺されることの恐怖を実感させられた。強烈な死への忌避感を抱かされた。
 事此処に至って、彼らは自分達を救ってくれる者がいないことに気づき、自分達を救ってくれる庇護者としての親を欲した。
 ナクソス島の継母が脳裏に浮かぶ。まともに話したこともない。親とも思えない。本当の母は知らない内にいなくなっていて。父は顔も知らなかった。

 助けて、助けて。

 幼い巨神達は、自分達が戦神を封じたことを知らない。近くのものを投げつけただけだ。すぐにでもやって来て、またいじめてくるのだと恐怖していた。

 助けて。

 恐慌するままに、姉を求めた。アルテミスは逃れ、アポロンが矢を放つ。反射的に二十メートルを優に超す巨槍で打ち払い、アロアダイは激昂した。

 どうして助けてくれないんだ!

 アロアダイの恐怖は、激発する憤怒へと転じた。子供らしい癇癪を起こして、アルテミスを隠そうとする悪いアポロンを(ころ)そうと槍を振り上げる。
 棍棒のような槍によって大地が陥没し、海が流れ込む。紛うことなき海神の子アロアダイは水流を操作する力があった。
 権能の使い方など知らぬまま、アロアダイはナクソス島を片っ端から砕いて回った。ヘラがどこに隠れているかわからない。知らないふりをする悪い女神、姉を連れ回す悪い男神。誰にも叱られたことのない童二人は、善悪の区別もつかぬまま暴れまわる。

 ――虚空を、矢が走る。

 遥か未来の基準に於いて、Aランク相当の物理攻撃。迅雷の如くに飛来した矢は、狙い過たず巨神オートスの剥き出しとなっていた背中の皮膚を極浅く(・・・)抉った。
 アポロンですらアロアダイの同士打ち以外に致命傷は与えることは出来ないと断じたアロアダイである。だが、オートスは絶叫した。痛い痛い痛い! 擦り傷程度のものを大袈裟に、されど切実に苦痛を訴え、弟のエピアルテスは矢の飛んできた方を睨んだ。
 そして。固まる。
 オートスもまた、エピアルテスと同じものを目にするや、ぴたと泣き声を納めて凝固した。

 黄金の髪と、瞳。そして自分達を散々に斬りつけた黒鋼の神剣。纏う佇まい、装い、髪の長さなどの細部は異なるが、幼い子供らには区別などつくはずもなかった。
 来た! 恐い神が来た!
 エピアルテスの精神が恐ろしさのあまり崩壊する。天地を響もす喚声を上げ、逃げ出そうと背を向けた。――その背中に、容赦なく二本の矢が射掛けられ、投槍が擲たれる。
 まだ辛うじて冷静だったオートスが、弟を庇う。咄嗟に伸ばした腕に矢が浅く突き立った。槍は、オートスの腕に深々と突き立ち血を吹き出す。
 オートスが、これまでと異なる苦悶の声を上げる。エピアルテスが驚いて振り返ると、己の兄が腕を抱えて蹲っているではないか。
 腕の太さからして、爪楊枝が刺さったようなものだ。だがアポロンでさえ小さな傷をつけるのが精々で、こんな痛みを感じさせはしなかった。
 兄弟は確信する。あれは、戦神だと。
 逃げられない。逃げ場はない。守ってくれる親はおらず、救おうとしてくれる友もいない。オートスとエピアルテスには互いしか、兄弟しかいなかったのだ。
 オートスは恐怖に立ち向かう。エピアルテスは兄が傷つけられた事実に恐怖を振り払って奮起する。恐い奴、いなくなれ、と。
 逃げるのではなく、抗う(ころす)ことを神々にも比する幼い怪物は選択した。

 地面を陥没させながら、巨神の童子(アロアダイ)が突撃する。小さな女の子と、馬と人を併せたような変な奴が左右に別れる。
 人としてはそこそこデカイ、しかしアロアダイからすればあまり変わりのない小人二人が構える。
 黄金の獣と鉛色の青年。恐ろしさは黄金にだけ向いていた。故に、邪魔とも思わず真紅の眼を鋭く光らせた青年を蹴散らそうとした瞬間、エピアルテスは足を捕まれ転倒した。
 痛い! ぎゅうぎゅうと親指を捻り上げる青年に、エピアルテスは腕を伸ばして首を掴む。力一杯に引き離そうとすると、今度は手に己の指を突き立て、食い込ませて捻り込んでくる。
 悲鳴を上げてエピアルテスは青年――アルケイデスを持ち上げた。如何にアルケイデスが怪力といえど、内包する質量の差は桁外れ。持ち上げたアルケイデスを振り払わんと腕を振るって、アルケイデスはエピアルテスの手の甲に手刀を突き刺す。血が吹き出、筋肉の繊維を掴んで引きちぎる。絶叫がナクソス島に轟いた。
 穂先で削ぎ落とそうと、塔のような槍でアルケイデスを狙う。しかしアルケイデスは器用に避け、手を離すと地面に着地した。エピアルテスは痛みへの忌避感からもう近づこうともしない。槍で上から下に叩きつけ、目にも留まらぬ速さで避けるアルケイデスを躍起になって追った。

 さすがのアルケイデスも、体格差ゆえに瞬く間に追い付かれる。地表すれすれに槍を薙ぎ払い、跳躍して避けたアルケイデスに返す刃で殴り付ける。鋼のような腕を交差させて防ぐも、アルケイデスは裂傷を負い、弾き飛ばされる。
 それを。弓を構えたケイローンが馬体の背で受け止めてそのまま走った。牽制の矢を放ち、アルケイデスを背に乗せるやエピアルテスの注意を引いて駆け出した。
 巨神の片割れは怒号を発して地響きと共にケイローンとアルケイデスを追った。
 半人半馬の賢者は内心溢す。そちらは任せましたよ、と。

 まんまと分断されたことに気づきもせず、頭に血の昇ったオートスが海を(・・)持ち上げる。ナクソス島の辺りを囲う海水が根刮ぎ抱えられ、瞠目する狩人をよそに天をも押し潰さんと広がった海塊を投げつける。
 激流である。氾濫する大河が竜となって襲いかかってくる悪夢がちんけに見える、圧倒的質量の暴力。黒剣を大上段に構え、黄金の英雄が高らかに咆哮した。

 眩い極光が迸る。黒き神剣は担い手の魂に応じて姿を変える。
 煌めきは金色。魔力を光に変換し、集束・加速させ、神剣の刀身にて爆発的に運動量を高める。青黒い大海の天は、解き放たれた光の断層に斬り裂かれた。
 咄嗟だった。オートスは反射的に横飛びに跳躍し回避する。しかし大海塊はオートスの支配下より解放され、天より二つに裂け空白となっていた陸地を満たした。
 戦慄にオートスは震え、再び金色に煌めく神聖剣を黄金の英雄――メレアグロスが翳したのに悲鳴を上げた。オートスは遮二無二に槍で打ち掛かる。塔にも比する槍を無茶苦茶に振り回し、陸海を逆転させ得る怪力を発揮して。
 メレアグロスは真っ向から迎え撃つ。両手で構えた神剣で巨大極まる巨槍を弾き返した。
 たたらを踏み、幼い巨神は驚愕に目を見開いた。力で負けたのではない、技で力を逸らされ威力の弱まったところを弾かれたのだ。だが、それを理解できるほどの腕をオートスが持つはずもなく、面妖な奇術なんぞ力づくで破らんとオートスは巨槍を振り回した。
 弾く、逸らす、打ち返す。雄叫びを上げオートスが棒切れでも振り乱すようにし、なんとか近づけまいと懸命に戦った。
 そのオートスの目に、矢が突き刺さる。唐突に視界の半分が潰れたことに錯乱し、痛みを感じるや巨槍を取り落としてオートスは泣き叫んだ。槍が地面に落ちた衝撃で地面が割れる。決めに掛かるべく魔力を充填し神剣を構え――

 ――兄の世界を響もす叫び声に、弟が呼応し咆哮する。

 『海果つる双神の慟哭(ペーリオン・オサ・アロアダイ)

 哭き声が共鳴し、ナクソス島全土を――否、島を超えギリシア全海域に巨神の魔力振動が轟く。鳴動し、地震は災厄の襲来を告げる。
 なるほど、と黄金の獣が納得する。――己とアタランテだけで挑めば敗れるというケイローンの予言は正しい。これほどの怪物、二体同時に相手取れば敵うべくもない。

 ――ナクソス島を呑み込まんと、粛清の権能が迫る。

 二体揃って初めて真価を発揮するEXランクの対界宝具。海神の権能を越権して使わんとするそれに海神が気づき、激怒と共に妨害し威力を十分の一にまで削いだものの、なおも人智を超え神力に値する暴圧の具現。
 ナクソス島を呑み込まんと、四方八方より大嵐の海嘯が迫り来る。それはまさに世界の終わりのような絶望的な光景。
 瀑布の如き津波と国土を薙ぎ倒す嵐。逆巻く竜風が万物を呑み込み、天地を埋め尽くそうと強大になっていく。空間悉くを滅殺せんと、法則をも侵食していくものを見て。黄金の獣は、にやりと笑んだ。

 二体同時なら、敗れていたろう。だが――

 メレアグロスは、アタランテの背に回り込み、その手にある天穹の弓に神剣をつがえる。
 手を重ね、耳元で囁く。合わせてくれ、と。
 アルカディアの狩人は崩壊していく島の只中で、ぴたりと触れ合う手と背中に獣の温かさを感じ、安堵と共にこくりと頷いた。

 引き絞れば、引き絞るだけ威力を高める天穹の弓。それにつがえる戦神の剣。
 メレアグロスの怪力も合わさり、限界を超えて引かれていく弦が軋みを上げた。

 そして。

 彼方にて。ケイローンに引き倒され、アルケイデスの拳によってエピアルテスが倒されるや、対界宝具の威力が弱まった瞬間に獣と狩人が静かに唱える。
 魂に訴えかける、言霊を乗せて。

 ――天穹を往け、我が栄光(タウロポロ・カレトブルフ)

 天穹の弓(タウロポロス)より戦神の剣が飛翔する。
 其れは暗黒に包まれていくナクソス島の空を走り、夥しい魔力の壁に守られていたオートスの胸の中心を貫通した。
 海神の妨害、双子と引き離されての発動、発動の最中に片割れを倒されて、初めて水圧の魔力防壁を貫通できた。
 オートスは、どぉ、と地響きと共に倒れ伏す。権能は未完に収まり、操る者のなくなった粛清の大海嘯を海神が取り戻し逆戻りにさせていく。
 まるで時間を巻き戻すかのような光景に、メレアグロスとアタランテは戦いの終局を知る。

 時間にして僅か二時間。第二の難行『巨人殺し』は、メレアグロスとアタランテがヘラを。ケイローンとアルケイデスがアルテミスを救い出して終幕を見る。

 歓喜しメレアグロスを抱き締めるヘラに、黄金の英雄は無感動に応じた。

 彼は確信していた。このヘラこそが、これからも自らに試練を齎すのだと。

 ――事実、メレアグロスはまだ知る由もなかったが、七つの難行に数えられぬ女神の二十の我が儘に、彼は振り回されることになる。

 だが未来を見通す術のない彼は、今はヘラにアタランテに対する好印象を持って貰うため、全神経を傾けることにしたのだった。


















無常。そこに達成感はなく。



難産回。書くのに一日も掛かった……。


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黄金期の始まり




 アロアダイにより積み上げられてしまった、オッサ山とペリオン山。そのぺリオン山の洞穴を住処にするケイローンは、困ったように眉を落として苦笑していた。これは、暫く帰れそうにありませんね、と。
 荒れ果てた山は魔境となり、鎮まるまでの間は草木の死ぬ呪詛の領域と化す。賢者ケイローンといえどこの理を断てず、清浄な山に戻るのを早めることしか出来なかった。
 薬草が採れぬなら、山の洞窟に住む意義もなく。暫くの間は麓の村に逗留し、正式に彼に弟子入りしたメレアグロスとアタランテを導くこととなった。

 賢者の弟子となったメレアグロスら。まずケイローンは、メレアグロスに己の編み出した叡知の武、総合格闘技『全ての力(パンクラチオン)』を伝授した。
 しかし元々の技量が高く、二百万の戦死者の経験を持つメレアグロスである。要点を押さえ基礎的な指導をすれば、瞬く間に『全ての力』を習得し、後は実戦でも通用するように習熟さえすればいい領域に至った。
 なんとも教え甲斐のない教え子である。ケイローンは嘆いた。アルケイデスはなんやかんや手間の掛かる弟子だったが、全く手の掛からない教え子もそれはそれで不満だった。
 仕方ないので後はアルケイデスと果てしなく組手をさせておくだけでいい。近頃のアルケイデスは力は強いわ矢鱈と器用だわでほとほと手を焼いていたので丁度良かったとも言える。対等に組手を行える同世代の好敵手との対決にはアルケイデスも喜んでいた。

 ケイローンを笑顔にしたのはアタランテである。

 まず、はじめに。一ヶ月でケイローンの技を会得したメレアグロスに対抗意識を燃やし、意気込んでいたアタランテであったが。まず最初にケイローンがしたのは、自ら教鞭を執って文字を学習させることだった。

 アタランテは字が読めなかったのである。

 これにはケイローンもにこりと微笑み、恥ずかしげなアタランテに丁寧に、分かりやすく、そして覚えやすく教え込んだ。
 元々が野生とはいえ、気質的に言えば生真面目な性質である。ケイローンとの相性はすこぶる良く、また互いに弓を得手とすることからアタランテも素直に賢者を尊敬した。

 村の外れで天地を揺らがす拳闘が繰り広げられているのを尻目に、アタランテの教養は育まれていく。時折り工事の音が聞こえるが気にしない。
 暇を持て余した村人達が集まり拳闘技(ボクシング)場が建設され、そこで毎日殴り合い、投げ合い、極め合う血戦が展開されていたが、ケイローンとアタランテは素知らぬ顔でいた。
 手取り足取り、一から十まで懇切丁寧に格闘技を教え込み、アタランテが着実に力を付けている横で、アルケイデスがあの手この手で多様な技を繰り出すメレアグロスに対応するため、一の拳撃に九発重なる超神速の打撃を開発。メレアグロスをノックダウンさせたりしていた。が、アタランテは遠い目をして見なかったことにした。

 メレアグロスが悄然と肩を落とし、ケイローンに縋る。

 あれはズルい。一撃でも喰らえば堪えるのにそれを一撃の間に九撃もとか。師よ、どうか知恵を与えてくれ。――なんでか童心に返っているメレアグロスにケイローンは苦笑し。アタランテは面白くなさそうで。
 時折り村人に混じって拳闘の勝敗の賭け事をする中で見て気づいていたことを、ケイローンは言った。
 あのアルケイデスと正面切って闘い勝てるはずもなし。故に勝つには手段は一つ。正々堂々と不意打ちなさい――メレアグロスはハッとして頷き、駆け去った。

 次の日アルケイデスがケイローンに縋った。
 雷光が閃いた瞬間、いつの間にか気絶していた。師よ、あれはズルい。何か知恵を!
 ケイローンは言った。――我慢しなさい。
 ハッとしてアルケイデスは去っていき、アタランテが訊ねた。あれは助言になるのかと。
 あれに難しいことを言ってはなりません。脳まで筋肉で出来ている彼は、耐える、殴る、絞める、壊すなどの単語で指示するしかないのです……。
 煤けた背中に、アタランテは頭が下がる思いだったという。

 日々拳闘に明け暮れているメレアグロスは楽しそうだった。アタランテはそれが不満で、ケイローンに訊ねる。最近、奴はアルケイデスとばかりつるんでる。どうしたらいい? と。
 薄々と察していたケイローンである。その問いで全てに気づいた彼は、妙案を出した。

「――アルケイデスとの拳闘時、メレアグロスを応援するといいでしょう」

 それだけか? 不服そうに反駁すると、ケイローンは意味深に解説した。
 酒、女、富、名誉――およそ人が欲する物に彼は価値を見い出さない。彼が尊いと感じるのは極めて身近なモノ。血の繋がりや、友情、経験などです。故に彼と近しくするには、多くの時を共にし、喜怒哀楽を同じくするしかないでしょう、と。
 今、メレアグロスはアルケイデスと友情を深めている。アルケイデスも、対等な友など持ったことのない孤独な少年だった。故に拳の語らいを是とし、彼との対決に愉悦を見い出している。
 もはやあの二人は兄弟弟子の括りを超えた、血の繋がりにも等しい義兄弟となりつつある。あの関係を壊すことは神にすら不可能。ましてや割って入ろうにも、あの拳闘に割り込めば私でも只では済まない。
 あらゆる策謀、あらゆる計算は無為。彼とアルケイデスのように急激に親しくなるのもまた不可能。であれば、常に共にいる。これしかない。
 彼は誠実な男です。貴女の想いに気づき、また貴女がかけがえのない存在になっていたのなら、彼の方から貴女に想いを告げるでしょう。

 なるほど、と頷いたアタランテは、しかし。ケイローンに秘めたる気持ちに気づかれたことを察し、顔を真っ赤にして逃げ出した。
 暫くし、村の外れから村人達の歓声に混じり少女の声援が飛んでいるのを聞いて、ケイローンは優しく微笑んだ。今日はここまででいいでしょう、と呟き『全ての力』の理論を説明するのに用いていた教材を片付ける。

 天地に轟く拳闘の血戦によって、やがて村には原因を探るために各国より遣いが来て、英雄メレアグロスと半神のアルケイデスが拳闘を繰り広げていると知るや大慌てで帰国した。翌月には各都市から王や、名のある戦士達が集ってきた。
 ゼウスを父に、スパルタ王妃レダを母とするカストルとポリュデウケスの双子の英雄。名を上げつつある吟遊詩人オルペウス、若きテセウスもまたこの大拳闘を見物に来た者達である。
 彼らは二人の半神の対決に血を沸き立たせ、肉体を武者震いに震わせて興奮した。手に汗握り声も大にして声援を送り、いつしか彼らのみならず、周りの者達まで拳闘を始めてしまう。
 いつしか拳闘大会が開かれ、後に拳闘(ボクシング)の聖地として語り継がれる大拳闘大会が開催される始末である。
 拳闘の創始者にして庇護者でもある太陽神アポロンまで参じ、いつの間にやら主催者の立場に収まって大いに大会を盛り上げ、ケイローンまでもがついには参戦した。
 密かに戦女神も降臨し、贔屓している英雄の応援に躍起になったりしていたが、これは余り知られていないことである。

 アルケイデスとメレアグロスは、時を忘れて二年もの間、ひたすらに切磋琢磨し合った。
 人生で最も充実していた時期の一つが、この頃だったとアルケイデスは後に振り返る。

 この二年の間に、アルケイデスは一時ペリオン山の麓の村を離れ、義父アムピトリュオンの求めに応じテーバイを助け、オルコメノスの軍と戦いこれを倒した。クレオン王は娘メガラーを妻としてアルケイデスに与え、二人の間には二人の子供が生まれ、更に一人を身籠ったのだ。
 メレアグロスやケイローンも祝福した。まさに幸せの絶頂であった。死する瞬間、思い返すのは今日この時であろうとすら彼は思い、充足を噛み締めていたのだ。
 かけがえのない青春時代であった。メレアグロスは、ケイローンとアルケイデスの元で二年もの時を過ごしたのだ。

 だが、離別の時が来る。

 二年目の拳闘祭が終わり、各地の英雄や吟遊詩人、王らが帰国し、アポロンらが天界に帰還して騒ぎが修まるのとほぼ時期を同じくし――

 ――アルケイデスが狂い、妻子を自らの手で殺めたのである。




















 天下無双の勇者が、顔を青褪め、自らの犯した罪に呆然と立ち尽くす。
 狂った彼を取り押さえたのは、メレアグロスであった。彼は義兄弟の契りを交わした青年を険しい目で見据え、重苦しい面持ちで腕を組んだ。

 私は――なんということを……。

 礼節を学び、荒ぶる血の気を鎮めたアルケイデスは、厳かな戦士としての在り方を自らに課すようになった。それは師であるケイローンと義兄メレアグロスの影響であろう。
 よき変化である。力を持て余していた豪勇の勇士が、自らを律する精神を身に付けたのだ。喜ばしいことであり、義弟の成長をメレアグロスは我が事のように嬉しく思っていた。
 彼が家庭を持つようになれば、女癖の悪いアルケイデスを諌め、火遊びを慎み誠実に妻と子を愛するように諭し、そうで在ろうとした矢先のことである。彼の突然の狂気の発露に、メレアグロスは怒気を纏っていた。
 アルケイデスは心身共に秀でた傑物である。断じて狂気に身を窶す程度の低い男ではない。そんなことはメレアグロスも良く解っていた。
 犯人がいる。
 彼に狂気を吹き込んだ何者かが。
 メレアグロスはその人物にこそ激怒していたのだ。

 幸福になろうとしていた家庭を破滅させた、恐らくは神。それにどうしたものか悩むも、手立ては浮かばない。
 鬱々として塞ぎ込んだアルケイデスから離れて、メレアグロスは目を閉じた。一人、何かを待ち続ける。

 やがて、女神ヘラがメレアグロスの夢の中に現れた。

 "白い腕の"ヘラは、メレアグロスを心配するようにして言った。
 ――己の妻子を殺めるような穢らわしい男と共にいるのは危ない。妾のメレアグロス、次はあの可愛いアタランテが手にかけられるやも知れませんよ、あのような者とは早く縁を切りなさい。
 その、あたかもメレアグロスを気遣っての言葉に。黄金の獣は、女神の悪意を透いて見た。
 嗚呼――と悟った。貴様か、と。黄金の双眸を細め、獣は義弟に代わり、この女神を懲らしめることを決意する。

 心配無用。アタランテに手出しするようならこの手で始末を付ける故。

 そう言ってヘラの佞言をやんわりと退けると、ヘラは孫の返答をあらかじめ見越していたのか、彼にしなだれかかって耳元で囁いた。――嗚呼、可愛いメレアグロス。穢らわしい男にも慈悲をやるとはなんと優しい。あやつをどうするかはそなたが決めなさい。妾はそなたの全てを許す。

 ――今宵は、メレアグロス。そなたに頼みたいことがあって参ったのだ。

 ヘラは、艶然と微笑みながら、メレアグロスの胸板に指先を這わせ、言った。

 ――天界にて生まれ、妾と我が夫のために饗されるはずだった牡牛が逃げ出したのだ。妾はあれの肉に舌鼓を打つのを楽しみにしておったというのに。なあ、メレアグロスよ。地上に逃れた牡牛を捕らえオリュンポス山にまで牽いて参れ。そなたにしか頼めん。な、妾のために、頼むぞ。

 ヘラは柔和に微笑み、ギリシアの地上のどこかに逃れた牡牛を探しだし、捕らえるように命じて。そこで、メレアグロスは目を醒ました。
 女神はよほどアルケイデスと己を引き離したいようだ。
 メレアグロスは一頻り、声を殺して笑い。
 塞ぎ込んだままのアルケイデスを殴り飛ばし、喝を入れて怒鳴る。デルポイのアポロン様の神殿に行き神託を受けよ。罪を悔やむ余りに気力を萎えさせるは不実である。
 メレアグロスはそう言ってアルケイデスを突き放し、ケイローンの元に跪き別れを告げた。
 天の牡牛が逃げ出し、それを捕らえるようにと私に神託が下った。突然ここを発つこと、お許しを。

 それにケイローンは驚くも、すぐに了解して言った。

 牡牛の逃げた場所に宛などないでしょう。こちらでも調べ、見つけたのなら貴方に報せを向かわせます。安心なさい、貴方は一人ではない。
 メレアグロスは頭を垂れ、感謝した。彼への恩義には、必ずや報いをと黄金の英雄は誓った。

 メレアグロスはすぐにアタランテを連れ、旅立つ。

 第三の難行『天の牡牛の捕獲』はこうして幕を上げ。
 二年にも及ぶ嵐の牡牛との追走劇の始まりは、大きな蟠りをメレアグロスの内に溜め込んだものとなった。

 ペリオン山の麓の村を発ってより暫く。

 彼の元に、黄金の鎧と雷火の神槍を引っ提げ戦女神が降臨する――


















それは、余りに短い青春の欠片。

砕けたものは、もとには戻らない。




悪い虫から可愛い孫を引き離そうとする祖母の鏡。

ここから少し、巻き展開。


※なお黄金期は終わっていない模様()


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叛意の種



 先日までの晴れやかな表情は一変し、メレアグロスの貌からあらゆる感情が刮げ落ちた。
 腹の奥底から沸き起こる、ドス黒く醜悪な、脂ぎった炎の如き激甚たる憤怒。それが表面に噴出せぬよう、全精神力を費やして冷静さを保とうとしていたのだ。
 ペリオン山の麓の村を離れ、既に七日は過ぎ去ったというのに、彼の激情は鎮まることを知らない。共に行くアタランテも眦を釣り上げ、内心の怒りを隠しきれていなかったが、それよりもメレアグロスに対する心配が上回りチラチラと様子を窺っていた。

 道行く人、通り掛かった村や都市に訪れては天の牡牛について知っているかを聞いて回ったが、流麗たる風貌のメレアグロスが、能面のような無表情で訊ねるのである。意図せぬまま威圧された人々は恐れ慄き、まともに話せることはなかった。
 アタランテは言った。

「人も獣も、気配には敏感だ。故にまず、汝は常の泰然とした物腰を取り戻すことに注力するべきではないか?」

 歳を経るごとに女らしさを増していく少女の指摘に、メレアグロスはばつが悪そうにしながらも頷いた。
 怒りは長続きしない感情であると言うが、メレアグロスの場合はそうでもなく、自身でも憤怒の炎を持て余していたところもある。彼女から窘められて、なんとか激しい感情のうねりを腹の奥底に沈めた。
 だが。相手が神であるからと、自らの怒りを押し殺していた義弟の姿が目に焼き付いている限り。メレアグロスは決してこの猛り狂う黒い炎を無くすことはないだろう。

 沈着とした人当たりで接すると、人々は天の牡牛について語ってくれた。どうやら、かなり有名らしい。
 嵐を纏うという神牛は、ギリシア全土を駆け回り、各国を荒らして回っているという。蓄えられた穀物や城壁、開墾された畑などに甚大な被害を齎し、もはや災害として恐れられているようだ。
 耐えかねた各都市国家の王達は、各地より勇士を募り天の牡牛の討伐を目論んだ。だが第一次神牛討伐は失敗に終わり、多くの勇敢な戦士達が倒れたという。
 数少ない生き残りが言うには、彼の牡牛は不死であった。如何なる刃を以てしても仕留めること能わず、傷は瞬く間に癒え、飛び道具は纏う剛風によって吹き飛ばされる。嵐は強く、小柄で力の弱い者は近づくことすら出来ない。力強い強壮な戦士も見上げんばかりの巨体に踏み潰されたというのだ。
 王達は諦めず更に討伐団の編成に臨み、広く勇士の参戦を呼び掛けている。恩賞は思いのまま、とも。
 また、各国の王は最優と名高い英雄メレアグロスの参加も求めているらしいが、行き違いになったのかメレアグロスの許には使者が訪ねて来ることはなかった。

 アタランテと顔を見合わせ嘆息する。自分達にとってはどうということもない旅路だが、脚が速すぎて使者が中々追い付けないのだろう。暫し一所に逗留し、待っていれば語りかけられるかもしれない。
 個人で牡牛を追うよりも、組織立って追った方がよほど効率がいい。メレアグロスらは一度都市部に向かってそこで宿をとることにした。

 ――その道中である。天上より発された重厚な神威を敏感に感じ取り、メレアグロスは空を見上げる。

 深紅の艶髪をヴェールで包み、上質なキトンの上に薄紅のヒマティオンを纏った優美な姿。人智を超えた理と知と武によって象られた天与の美貌。
 神々しさをも己を飾り立てる一因とする美女は、メレアグロスの前に降臨し、即座に跪こうとする彼を制止した。

「待て。立ったままでいい。お前の不遜を私は赦すと言ったはずだぞ」
「……では立ったまま相対させて貰う。猛き知恵の女神よ。此度は如何なる用向きで参った?」

 親しく心理的な距離を詰めようとする女神にメレアグロスは淡白だった。
 強く神性を感じさせる相手に隔意を抱いたが故の態度だったが、それに女神アテナは面白そうに目を細める。

「ふ。なんだ、やけに壁を感じさせるな? 私にへそを曲げて欲しいのならそう言え。次は戦装束で来てやる」

 メレアグロスは口を引き結び、好きにしろとでも言うようにして無言で腕を組む。
 闘いとは忌むものではない。律し、正しく行えば誉れを齎す。アテナとの戦いなら華やかな競技として成立するだろうという女神への理解が、メレアグロスにアテナとの戦いを厭わせなかった。
 その心情を見抜き、機嫌を悪くすることもなくなったアテナは黄金の獣の傍らに在る狩人を見遣る。

「――ああ、アタランテ。好いた男から邪険にされる私の気持ち、お前は解るか?」

 表情は穏やかで、悪戯げな目も、心も笑っていた。険悪な、醜い感情はそこにはない。アタランテは驚くべきことに、少し砕けた調子で応答した。

「私に問う意図を判じかねる。戦女神(アテナ)よ、問う相手を間違えるべきではない」
「つれないことを言うな。ペリオン山での拳闘大会で、同じ男の勝利を喜びあった仲だろう。私はお前が妬ましい(・・・・)が、同時に親しくしたいとも思っているのだぞ? 我が友パラス以来の栄誉に咽び、縋ってもよい」
「安易に縋る者を友とは呼べまい。無為に他者を試そうとする汝に、友情を築く才は欠けていると自覚するべきだ」
「ふはは! やはりはっきりと言う奴だ。いいぞ、そういった気骨は私の好むところである。ケイローンめ、中々の娘を育てたな」

 上機嫌なアテナをよそに、メレアグロスは内心複雑だった。
 両者には、何やらメレアグロスの与り知らぬ所で面識があったらしい。物問いたげにメレアグロスが横目に見るも、アタランテはそっぽを向いて答えなかった。

「……女同士、仲良きは喜ばしきことではある。だが私も暇ではない。用があるなら早く本題に入って欲しいな」
「そう急かすな。これからは私も共に行くのだから(・・・・・・・・・・)、焦ることもない」
「……なに?」

 その発言に、女神の正気と己の耳を疑う。瞠目するメレアグロスにアテナは快活に言った。

「喜べ、メレアグロス。私がこれからの旅に同行してやるのだからな。無論女神として居ては迷惑をかける故、人として、な?」

 私のことは暫し……そうだな、ミネルヴァとでも呼ぶがいい――そう言って神威を隠し、人に擬態した女神にメレアグロスは眩暈を感じた。
 斯くして、謎の女魔術師ミネルヴァが、彼らの一行に加わったのである。




















 ――そういえば、ヘファイストスめから鎧と槍を預かってきたぞ。

 なんでもないように言うや、謎の魔術師ミネルヴァは虚空から金色の宝玉と、メレアグロスの身の丈よりも長い黒き鉄棍を取り出した。
 忽然と顕れたそれらを、メレアグロスは訝しげに見る。
 どう見ても槍や、ましてや鎧にも見えない代物だった。どういうつもりなのかミネルヴァに問うと、彼女はその前に渡すものがあると言って群青のヒマティオンを取り出した。

「これは戦女神アテナ様が、手ずから仕留めた獅子の鬣で編んだ服飾だ。対物理衝撃の紋様も編み込まれてあるのだぞ。戦女神アテナ様を崇拝せよ! そして有り難く拝領するのだ」
「……」

 既にミネルヴァはアテナを別人と見なし、アテナを他人のように讃えながらメレアグロスの上衣を剥ぎにかかった。そして無理矢理に群青のヒマティオンを着せてくる。
 メレアグロスがされるがままだったのは、ミネルヴァの指が傷だらけなのに気づいてしまったからだ。
 流石に、これは無下には出来ない。困ったように視線を横に逃がすと、アタランテは悔しそうに呻いていた。なんとも言えず、これからも目を逸らす。

「……それで、鎧と槍は?」
「これだ。動くなよ」

 ヒマティオンの上に、ミネルヴァは金色の宝玉を取り付けた。
 すると拳大の宝玉は、衣の上を滑り、溶け込むようにして広がっていく。ズンッ、と魂魄をも揺らがす衝撃と共に、皮膚に黄金の神鋼が染み込んできた。呻き、露出している手足を見るが、そこに目を焼かんばかりの金色はない。

「空気より軽く、髪よりも薄い」

 ヘファイストスの言い様を真似るようにしてミネルヴァが唱えた。

「しかしてその護り、神楯(アイギス)の如し。ありとあらゆる呪詛、魔術を焼き尽くすは雷霆(ケラウノス)の如きかな。眼に見えぬが故の守り、身に付ける凡百の鎧を金色に染め上げん――だと。要は、奴はお前の体そのものを鎧としたわけだ。見映えを気にするなら勝手に鎧を着ろ、そうしたらその鎧は光輝纏う鎧になるとさ」
「……それは、身に余る代物な気がするな」

 流石にアイギスとケラウノスは言い過ぎだろう、とメレアグロスは目元を引き攣らせる。

「さあ、後は槍だ。受け取れ。これはお前の物だ」
「……鉄の棍にしか見えないが」
「奴に曰く、メレアグロスが魔力を充填(こめ)ると真の姿を見せるらしい。強すぎる故、普段は封印形態として穂先と魔力は封印してあるそうだ。今度機会があれば見せて欲しいな」
「そんな機会はない方が良さそうだがな……」

 なんの変哲もない黒鉄の棍。見た目には、装いを変えたメレアグロスが、黒鉄の棍を手にしただけだ。
 だが、これは肉体を鎧に変えるような鍛冶神の作である。所持していて嬉しい代物でもないような気がした。メレアグロスとしては、槍は頑丈であればそれで文句はないのだが……。

 ふと、ミネルヴァと対面して思い出したことがある。メレアグロスはなんとなく、なんとなしに訊ねた。

「そういえばミネルヴァ、一つ聞きたいことがあるんだが」
「ん、なんだ?」



 ――それは。後のメレアグロスの運命を決定付ける質問だった。



「二年間の拳闘大会に、二人目の我が父、アレス神が姿を一度も見せなかったのは何故だ?」

 メレアグロスは、アレスが己の母を侮辱したことを許してなどいない。だが、いつかは必ず謝罪させ――その後は、まあ……父と呼ぶこともあるだろう、と思っていた。
 それは、アレスが必ずしも邪悪で愚かな神ではないと、知ったからこその心境の変化である。

 メレアグロスとしては、あの拳闘大会はアレスの好みそうなものであったから、一度ぐらいは姿を見せると思っていた。しかし実際には一度も姿を表すことはなく。それをいつも不思議に思っていたのである。
 アレス。その名が出ると、ミネルヴァの快活な表情が凍った。
 怪訝そうに眉を顰め、ミネルヴァ、と呼ぶと。
 人を学び始めた女神は、ぽつりと呟いた。

「――奴は大神に神格を奪われ、追放された。今は私も知らぬ地にて封印されている。いずれ奴は消滅するだろう」


















アテナ「崇拝せよ!」

今後アテナは"永遠"にメレアグロス側ですよ、と。
人間を学び弱くなるということの意味を探っている模様。


今日明日忙しくなるので、投稿は未定。


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狼の謀






 一都市国家の王に過ぎぬとはいえ、この身は王家に連なる貴種である。

 望んだものとはとても言えぬ。さりとて不要の出自などと嘯く不遜を己は赦せぬ。
 高まりに高まった我が名声。容姿は広く知られ、成した偉業も輝かしい。吟遊詩人の唄の流行もカリュドンの王子のもので溢れ返り、今や気軽に話しかける者すら現れない。
 居るのは腕試しに挑んでくる荒くれ者か、下心を巧妙に隠した俗物ばかりであった。
 流石に度重なる有名税の支払いにはうんざりさせられていたが……これ(・・)は使える、と極めて冷徹に思考した。

 故に。

 両脇を固める、フードを目深に被った者を付き従えて、リコセンス・メレアグロスは悠然と自らのために空けられた道を歩む。

 ――国も、生まれも異なる戦士達。老いも若いも関係なく、男に生まれたからには名を上げんと欲する蛮勇の徒ら。
 英雄足らんと志す、それら有象無象の人だかりは、朱塗りの鞘に納まった黒き神剣と黄金の鎧、黒鉄の棍棒を携えた一人の英雄の威風に気圧され自然と道を空けていたのだ。

 自らに向けられる視線の衾をあたかも無きが如くに進み出て、高台にまで歩を進める。
 其処は天牛の討伐団を招集したテーバイの衛士らが、王の言葉を伝えるための場であった。だが黄金の英雄が無断で壇に上がったことを、誰もが咎められずにいた。
 大神と女神の寵愛を授かるデミ・ゴッド。アイトリアのカリュドン王の王子。……それらの肩書きが、不敬となり得る制止を掛けにくくしているのも勿論ある。
 だが、何よりも。
 その身が発する、圧倒的という形容すら陳腐に堕ちる神域の武威。強大な、されど惹き付けられてやまない魔的な偉容に――彼らは言葉を無くして魅入られていたのだ。
 檀上から、勇敢にして愚か極まる戦士らを睥睨する。すると、天の牡牛に挑まんとする者らが、ひそりひそりと囁き合う。



 あれが……黄金の獣。

 狼騎士だ。

 "最優"メレアグロス……。



 見れば若きテセウスや、カストルとポリュデウケスらの姿もある。良く良く縁のあることだな、と内心で苦笑するに留め、メレアグロスは静かに名乗り上げた。

「私は、カリュドン王オイネウスが嫡子、メレアグロスである」

 瞬間。ざわめきが途絶える。
 呪詛に等しい魔性の貫禄、意図するまでもなく発される厳粛な威厳。彼らは言葉ではなく、魂で理解した。
 高貴なる者、王者の威風。視線一つにすら抗いがたい魔力がある。黄金の双眸に見入られたなら、たちどころに魅了されてしまいそうな怖さがあった。

「此度はテーバイ王の求めに応じ、貴君らと肩を並べ戦わんがために馳せ参じた。私の参戦を不服とする者は、此処に名乗り出るがいい」

 返答は、無言である。誰しもが彼に反駁することはない。
 未来の英雄らは、当代一を謳われる大英雄を憧れの眼差しで見上げ、次なる言葉を黙して待つのみ。
 熱を帯びたその眼差しに、頷きだけを示し。孤高の狼は、今こそ自らの下に群れを成さんと錦の御旗を掲げる。

「――聞け。天界の神々すら逃した牡牛を討たんと、類い稀な蛮勇を発揮せんとする勇士ら。私は此処に宣言しよう。私と共に戦う者に英雄の名を与えることを。我が意を汲み爪牙を振るう悦びと誉れを与えることを」

 場の熱量が高まる。
 声の抑揚、手振り、表情。特に工夫するでもなく、悪魔すらもが跪く扇動の手腕が発揮される。

「我が下には神託がある。天の牡牛を捕らえ、オリュンポスの神々に饗せよとな」

 神託。王命を超える権能の代名詞。この瞬間に、テーバイの王の言葉よりも、原初の騎士の言の葉にこそ重みが宿る。

「我が下に有象無象の戦士は無用。私と共に往く者に軟弱な徒は不要。我こそはと吼える者、武を示せ、知を示せ。確固たる覚悟と勇気を抱く者だけが、我が下に傅く資格を持つ」

 此処に在るは反骨の徒である。こうまで大上段に構えられて反発せぬはずもない。
 だが、それでも反感を抱く者は絶無。
 唯々諾々とした姿勢。愉悦はなく、不快もなく。黄金の狼は、最後に試すように言った。

「これより命じる。反発せよ、抗って魅せよ。我が威に反抗する無謀を赦す。――跪け(・・)

 ほぼ総ての戦士らは、その令に反射的に従って片膝を地に着いた。

 つまらなげに、メレアグロスは目を眇め。しかし、僅かに数名、額に脂汗すら浮かべながらも立ったままの気骨の士を見止め、微かに笑みを浮かべた。
 群れの首領は、流麗な仕草で彼らを指差す。

「名乗れ、勇士ら」

「――アテーナイ王アイゲウス、トロイゼン王女アイトラの子、テセウス!」

 それはまだ、齢十も半ばに見える少年であった。
 だが侮るなかれ。トロイゼンにて育ったこの王子の性は勇、眼は知、心は清である。
 アテーナイ王アイゲウスに、実子であると認めさせるためアテーナイに向かった彼は、敢えて安全な海路を避け危険な陸路にて旅をした。
 その道中で旅人を襲うペリペテスを返り討ちにしてその棍棒を奪い。
 残虐な殺人に悦を感じる怪物シニスを、シニスがこれまで犯してきた残忍な方法で殺害し。
 人々を脅かす魔猪パイアを退治し。
 非道な海賊スケイローンを海に投げ捨て。
 旅人に格闘を挑んでは殺していたケルキュオンを殺し。
 恐怖の山を築いていた山賊プロクルステスを倒した。

 残忍な者には残虐に接し。高潔な者には真摯に応じる彼は、鏡の如き姿勢でありながら、確かな公正さを併せ持つ英雄の一人であった。

 栗色の髪の、小柄なテセウスに、メレアグロスは深く頷く。

「テセウス。一年前、ぺリオン山で会ったな。また私に挑むか」
「今のわたしでは貴方には届かない。今暫し貴方の下で力を付け、然る後に挑ませて頂く!」
「いいだろう。誰よりもまず、貴様の挑戦を優先すると約す。今は我が下で牙を磨け」

 言い置き、視線を切られるやテセウスはドッと冷や汗を流した。我ながら、なんたる無謀。そう後悔しかけるも、言ってやったと誇る自分がいるのに彼は気づいていた。
 そうだ。自分も英雄になるのだ。あの拳闘で手も足も出なかったアルケイデスとメレアグロスに、いつかは勝ちたいと――そう願った涙の夜を彼は覚えている。

 テセウスだけではない。他にもカストルとポリュデウケスの双子の兄弟が。後のテセウスの盟友ペイリトオスが。ハルピュイアの血を引く勇翼のカライス、ゼテスの兄弟がいた。

 テセウスを筆頭に、いずれ一廉の勇者足れる傑物の卵達。今は無名なれどいつかは伝説となるであろう栄光の英雄ら。
 彼らに向けメレアグロスは手を差し伸べる。

「貴様らに命じる。私に従え。この私を今生唯一の主君とせよ。この決定を拒むのなら武で挑め。知で語れ。さもなければ凡庸な男として、史に埋もれたまま死ぬがいい」

 一瞬の沈黙。無限の葛藤。――そして決断。
 勇者達は、意を決して叫んだ。断る! と。
 その上でメレアグロスは笑んだ。

「ならば、後は武で語るのみだ」

 斯くて。

 拳の一撃ずつで地に伏した若者達は、黄金の狼に膝を屈し、彼に付き従うことを晴れやかに是とした。
 敗れたのなら是非もなし。彼の下で名を成すことも、紛れもない栄光であろう。

 黄金狼の紋章の旗を掲げる騎士集団。世界で最初の騎士幹部。誰一人とっても見劣りせぬ英雄揃い。
 メレアグロスと、アタランテ、ミネルヴァを含めた最初の九人。後の加入者を含め、後世に曰く栄冠を戴く"十三席"結成――その真の思惑を知る者は、今は首領たる男のみである。



















 男の威風に、うっとりとする女を横に。男はひそやかに本心を吐露する。
 ――嗚呼、傲慢なる妬心の女神よ。
 オレは断じて貴様の望む者にはならぬ。子は親を愛し、親は子を慈しむものであろうが。
 その道理すら擲つ貴様に真の忠節を尽くすオレではない。

 人としての生涯を終えるまで。オレの一族に神の呪いを跳ね除ける力を授けるまで。貴様の傀儡として踊ってやろう。
 だが貴様の度重なるおいた(・・・)に対する仕置きを、このオレが諦めることはないと知れ。

 アレスから神格を奪ったのは確かにゼウスだろう。アレスを追放したのもゼウスだろう。
 だが封印したのは貴様なのは明白だ、ヘラ。秩序を重んじ、曲がりなりにも主神であるゼウスが、私情に駆られて罰の軽重を誤るとも思えん。
 大方、ゼウスの目を盗んで、秘密裏にアレスを封じたに違いない。

 天の牡牛はギリシア全土を駆け回っているという。ヘラの独断専行の証拠を集めるのにうってつけの口実になる。オレがギリシア全土を駆け回る大義名分としては丁度いい。
 手勢となる者を集めたのは後の布石。牡牛をわざと逃がし続ける(・・・・・・・・・)のも、ヘラの罪状をつまびらかにするため。

 ――ヘラを、人に堕とす。

 人に陥れ、あらゆる力を失った時こそが……貴様の審判の時だ。

















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幕間「最優・最智・最速」





 テーバイの天牛討伐団より離脱した六人の勇士は、確かに当代一を謳われる英傑を自らの主として仰いだ。
 だが、味方内に於ける序列は未だ決まってはおらず。彼らは競って我こそが"黄金卿"に次ぐ勇者であると主張した。

 ――武芸一辺倒では真の勇者とは言えない。故にまず武を競い、知を示せ。学び続ける者こそが、本当の意味での英雄となる。

 内々での切磋琢磨をメレアグロスは何よりも奨励した。剣槍を振るうだけの粗忽者は畜生に等しい。人面獣心のけだものであれば、人々の侮蔑を免れぬとしたのだ。
 目上の者と目下の者への礼節の違いと大切さを説き、軍略や政治力学への理解、部下の統率に不可欠な指揮官としての指導を始め、個人の武勇と共に連携しての戦術の習熟に努めた。
 適正や資質という面を考慮し、かつて受けたケイローンの指導法を参考にして、個別に適した教えを施す。テーバイより旅立ってからも、野営先で半年も続ければ、苦楽を共にし同じ釜の飯を喰らった若者らは、元の大胆さを残しつつ万事に対し観察を怠らぬ思慮深さを身に付けはじめていた。

 ミネルヴァは感嘆したものだ。流石に多才、後進の育成の手腕もまた卓越するか、と。

 メレアグロスは徹底して上下関係を敷き、力の差からくる畏怖を浸透させ、それを忠誠心にすり替えて刷り込むと共に、自らを頂点とする確固たる指揮系統を構築。メレアグロスを除き基本的に味方は対等としたが、決して平等ではないと教え込んだ。
 そうして非常に遅々とした歩みであったが、メレアグロスらは目的地としていたぺリオン山に辿り着いた。
 この時代に於いては異端とも言えるほど軍規を徹底し、略奪をはじめとする悪徳を厳に慎むべしとの思想を共有した彼らをメレアグロスは"騎士"と呼んで讃え、己唯一の称号を"騎士団(メレアクレイタイ)"全員のものとした。
 "騎士"とは、当代に於いて英雄の代名詞である。それを名乗ることを、他ならぬメレアグロスが赦したのである。
 刷り込まれた忠誠心は真実のものとなり、騎士団(メレアクレイタイ)の者らが呪いに等しいカリスマを持つ主君に心酔するのに長い時はかからなかった。

「――久し振り、というにはまだ早いですか」

 鍛冶神に依頼し製作された、対魔力に秀でた白銀の鎧兜に身を固めた六人の"騎士(えいゆう)"を従えるメレアグロスを、ぺリオン山から降りてきた賢者が出迎える。
 半年前は、アロアダイによって魔境と化していた山も、今は清浄な領域に快復しているのだろう。ケイローンは常の穏やかな風貌に苦笑を浮かべ、黄金狼の紋様を刺繍された御旗を仰ぎ見た。

「そうだな。師よ、そちらも久しいと感じる間もない時を過ごされたか」

 そう言ったメレアグロスは、明朗な顔立ちの青年カストルにちらりと目を向けると、心得たもので村で宿をとるための手配に向かった。
 ケイローンは、傍らに立つ緑髪の少年の頭に手を置き、微かに微笑む。

「ええ。天牛の行方の調査、女神ティティスの子の養育……やることは山積みでしたよ」

 女神ティティスは、その美貌からゼウスにも狙われたが、『必ず父より優れた子を生む』という予言が下り、ゼウスはあっさりティティスを諦めたという逸話がある。
 それを知るメレアグロスは、興味深げに相槌を打った。

「ほう。その子供が貴兄の新たな弟子か」
「弟子というより、手のかかる弟のようなものに思えますがね。……ほら、名乗りなさい。いつか話した貴方の兄弟子、メレアグロスですよ」

「……!」

 背中を押され一歩前に出された少年は、炯と光る双眸で長身のメレアグロスを睨み付けた。
 そして、変声期を迎えてもいない、甲高い声で叫んだ。

「俺は、アキレウス(・・・・・)だ! いつかお前を超える英雄になる男の名だ、覚えておけ!」

 穢れなく、されど溶岩の如くに燃えたぎる闘志が、真っ直ぐにメレアグロスに突き刺さる。
 幼い戦士に、メレアグロスは薄く色を浮かべる。それは、喜悦に近いもの……。そして少しの呆れを示すもの。

 メレアグロスは視線の高さを合わせることもなく、上から見下ろす。

「青く、未熟。血は熱くとも智は薄い。師ではないが、予言しよう。アキレウス、貴様が私に届くことはない。貴様は猛る血潮に任せたまま短い生涯を駆け抜けるだろう」

 言って、メレアグロスはあっさりとアキレウスから視線を切った。
 その余りに淡白な。興味を失ったかのような無関心な態度に。アキレウスが激発する前に、ケイローンが制するように前に出る。

「……貴方もそう"視"ますか」
「何にかけても激しすぎるきらい(・・・)がある。視る者が視れば、誰しもが口を揃えるだろう。旧交を温める間もなくすまないが、本題に入らせて貰いたい。構わないか?」
「それは構いません。立ち話もなんです。こちらにどうぞ」

 ケイローンが招き、村の離れに向かう。肩を怒らせ、着いてこようとするアキレウス少年にメレアグロスは冷めた一瞥を投げる。

「……少年。これは私と師との、大切な話だ。貴様の如き思慮に欠ける者が介在する余地はない。下がれ」

 射竦められる爆発的な覇気の発露に、幼いアキレウスは怯んで凍りついた。
 そのまま、何もなかったようにその場を離れる黄金の英雄に、アキレウスは我に帰ると、煮え立つ油のような怒りを覚える。
 路傍の石に等しい扱い。それを糺さぬ敬愛する先生。アキレウスは黄金の瞳が脳裏に焼き付くのに、言い知れぬ敗北感に打ちひしがれた。そして、決意する。いつかこの屈辱を晴らしてみせる、と。



















「――憎まれ役を買って頂き、感謝します」

 深々と頭を下げたケイローンに、メレアグロスは軽く答えた。

「憎まれ役? そんなものを買った覚えはないな。私は単に、自らの所感を述べただけだ」
「それがあの子には必要でした。歯牙にもかけられない(・・・・・・・・・・)――祝福と共に生まれ、英雄になることを運命づけられた彼には、圧倒的格上が存在することを知らしめるものが必要だったのです」

 ケイローンは、深い慈しみの眼差しで言う。
 ダメな子ほど可愛い。まったく、呆れた教師気質だ。メレアグロスは苦笑する。
 ふと、ケイローンは出来が良すぎて教え甲斐のなかった弟子に問う。

「……貴方から見て、アキレウスはどうでした」
「秘める才覚は私を超えるだろうな」

 あっさりと言い放った男に、ケイローンは。
 しかし、微塵も心を動かさず続きを促した。

「――だが、百戦して百度勝つのは私だろう。あの少年には致命的に欠けているものがある」
「……それは?」
「分かっていて聞くのか。らしくないな」
「……」

 そう。アキレウスには、メレアグロスにとってのアルケイデスが。アルケイデスにとってのメレアグロスがいない。そして、今後も現れることはないだろう。
 修行時代での、対等な好敵手の不在は、メレアグロスとアキレウスの差を決定的なものとする。これは、疑いようのないことで。

「それに――私はあの少年に惹かれなかった。殺されてもいいと、思うこともないだろう。貴兄なら、その意味が分かるはずだ」
「……なるほど。やはりアキレウスに必要なのは、過大な傲慢さを鎮める壁ですね」

 ケイローンでは近すぎる。メレアグロスでは遠すぎる。賢者にはそれが余りにもどかしい。
 メレアグロスは言う。

「それに。私の下にはあの少年よりも注目に値する英雄がいる」

 名はテセウス。輝ける大英雄の器。
 忠誠心を植え付けられ、幾度となく叩きのめし、忠誠を真実とした後でさえ、彼の者は決してメレアグロスへ挑戦する意思を鈍らせなかった。
 彼がどこまでの域に到達するのか、見てみたいとメレアグロスは願うようになっていた。
 
「――話が脇に逸れたか。今日、私が貴兄のもとを訪ねた訳を話したい」
「天の牡牛の行方を聞きに来た、というわけでもなさそうですね。いいでしょう、聞かせてもらいます」

 メレアグロスは、懐から一枚の刻印の施されたメダルを取り出して、それをケイローンに渡した。
 賢者はその金色のメダルを視る。
 そこには、()の刻印があった。
 これを己に渡した理由を、彼は一瞬で理解する。

「……なぜ私を?」
「貴兄は私が組織を率いる身となった時、私に足らぬモノが何か察しがつくだろう」
「ええ。何せ貴方は強すぎる(・・・・)。個人としても、王としても。故にこそ、私を求めますか」
「不死の賢者にして、我が敬愛を受ける唯一の師……私が道を踏み外した時、正せるのは貴兄だけだ」

 私には楔がいる。それが果たせるのが賢者ケイローンを除いて他にはいない。――メレアグロスは傲慢ともとれることを臆面もなく言い放ち、しかしそれをケイローンは諌めなかった。
 それは事実であるから。
 神の寵愛を一身に授かり、個人の武勇で並ぶのはアルケイデスのみ。知略で比肩するのは知恵の女神アテナか、賢者のみ。血筋、容姿、指導者としての器……彼が正道より逸れたとして、それを正せるものは人の内にはいないだろう。
 であれば、彼が自らの許を訪ねるのは必然であったのかもしれない。

 ケイローンは数瞬の沈黙の後、密やかに呟いた。

「……私は、俗世の人々と関わるつもりはありません」
「構わない。戦うも、戦わぬも貴兄の自由だ」
「貴方の敵を助けるかもしれない」
「是非もない。ケイローン殿が救う者が、邪な存在であるはずもなし」
「……貴方に弓を向けるかもしれない」
「そうするだけの訳があるのだろう。それは罪ではないはずだ。反逆も、また是である」

 ケイローンは苦笑した。

「四年後、アキレウスの教育を終えます。その時、私は貴方の下に跪くでしょう。我が君、遅参の段お許しくださいますか?」
「全て許す。私の団に於ける副長は貴様だ、ケイローン。楔として、頭脳として人の世のために共に尽くしてくれ」

 ただの臣下ではない。ある意味で対等な者。
 メレアグロスほど理を超えた存在でなければ、ケイローンが動くことはなかっただろう。彼には楔が必要だと、なによりもケイローン自身が感じていたことなのだから。

 そうして、メレアグロスは得難い参謀を得る。
 正しい意味での軍の師……"軍師"と呼ばれる半人半馬の傑物が、こうして人知れず彼の下に就くことを約した。

 ――メレアグロスがヘラの暗躍の証を掴む、一年前の出来事である。

















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証を掴むも断罪は遠く





 ――ヘラの栄光(ヘラクレス)が、ネメアの谷の獅子を絞め殺した。

 その報をメレアグロスが受けたのは、魔術を司る女神ヘカテーと密約を結び、オリュンポス十二神が一柱、家庭の中心である炉の女神、ヘスティアとの謁見の儀を取り付け一息吐いていた頃である。

 ヘラクレス。ヘラの、栄光。

 その名に端整な眉を顰め、メレアグロスは露骨に不快感を示した。
 義弟は、メレアグロスの言いつけ通りにデルポイの神殿で神託を受けた。其処で彼はアポロンの巫女に『ヘラの栄光』と呼ばれ、以来彼はアルケイデスではなく、ヘラクレスと名乗るようになったという。それが広まり、今や彼をかつての名で呼ぶ者はいない。
 戯け、と吐き捨てる。贖いのつもりか、と。妻子を殺めた罪を清めるために、己を殺して苦難に挑む意思表示――それがメレアグロスには酷く不快なものだったのだ。
 人を捨て神への道を歩き始めた不器用な在り方に憎悪すら覚える。同時に自分だけは、あの義弟の味方で在り続けたいと願った。

 ヘラクレスは、十の試練に挑むという。

 順風満帆に事が終わるわけもない。あのヘラが、黙って試練の完遂を待つはずがない。
 一刻も早く、ヘラの罪の証を掴み、アレスの行方を見つけ出して、せめてヘラクレスの難行が何事もなく終わるように手助けしてやりたいが……。
 否、とメレアグロスは首を左右に振った。
 あれもこれもと欲張れば、成すべき事も成せずに頓挫しかねない。今は一事に注力する時、情に流されるわけにはいかない。心配せずともあの男なら、どんな困難をも打ち破るに違いないのだから。

 オリュンポス十二神すら軽んじることの出来ない死の女王ヘカテー。彼の女神はメレアグロスに協力し、事実を秘することの代償として彼に一つの誓約を課した。これを破れば、死の女王はあらゆる術策を弄してメレアグロスとその一族を破滅させると酷薄に女神は告げた。
 常ならば肯んじられる件ではない。しかし、メレアグロスは敢えて誓約を受けた。自らの計画には、ヘカテーの協力はどうしても必要不可欠だったのである。

 まずヘカテーより一つの礼装を譲り受けた。

 女神ヘカテーが片手間に作り上げた魔術礼装である。空間(セカイ)の記録を読み取り、映像として写し出す水晶――たった一つの映像記録しか保存しておけない、ヘカテーにとっては玩具に等しい代物。
 だがメレアグロスにとっては、ヘラの罪を明らかにする証拠品となる。桁外れの魔術師でなければこんなものを用意することは出来まい。
 また、次いでヘカテーに依頼し、秘密裏にヘスティアと謁見するための場を設けて貰う。ヘカテーにして貰うことはそれだけだが、仮にも女神に依頼したのだ。代償としての誓約を、彼は終生守り続けねばならない。

 此処までは順調だった。しかし、何もかもが上手くいくこともない。
 アレスの行方は杳として知れず、自身を含めた騎士団(メレアクレイタイ)十人掛かりで挑めば、危うく天の牡牛を殺しかけてしまうこともあった。
 なんとか苦戦するふりをして逃がしたが、次は逃がす間もなく捕らえねば殺してしまいそうだ。

 メレアグロスはヘラに見守ら(監視さ)れている危険性があるため、後のローマ字となる暗号を用いてケイローンと話し合い、まずアレスの居場所の手掛かりとして嘗てアレスがポセイドンの息子を殴り殺したために罪を問われ、世界初の裁判が開かれた"アレスの丘"へ有翼騎士ゼテスに向かって貰った。無論、魔術礼装も持って行かせてある。
 どうやら此処でゼウスによりアレスは神格を奪われ、追放されたようだ。ゼテスの持ち帰った記録をテセウスらに見聞して貰い、暗号で内容を報せられる。

 アレスを不当に罰したらしいゼウスに物申したい所ではあるが、ゼウスもどうやら行方を眩ませたアレスを探してはいるようだ。なので、ここはぐっと堪えておく。
 テセウスに命じ、騎士カライスとゼテスの兄弟を連れて、三人でアレスの行方を追うように指示して三ヶ月。テセウスは水晶にヘラが力を失っているアレスを捕らえ、七つの丘のある地に幽閉するという旨を宣っている場面を記録して帰ってきた。
 それでこそテセウス! メレアグロスは急いでアレスの救出に向かいかけたが、なんとか自制した。ヘラを人に堕とすまで、軽はずみに動くわけにはいかない。折悪く、天の牡牛を捕捉もしてしまった。
 やむを得ず、今度は四肢をへし折り、天の牡牛を生きたまま捕獲する。無駄にデカく、力も強かったが……所詮は畜生。権能を如何に持とうと、十全に振るう知恵がないなら敵ではない。
 丁度、二年である。カリュドンより旅立って四年の月日が流れている。メレアグロスも二十一歳となり、髪も腰に届くまで伸びた。
 黄金卿と、その配下の騎士が束になっても、捕らえるのに二年も掛かったとされる天の牡牛――その真実は、ほぼ一方的な狩りに終始したことを知る者はメレアグロスとその配下しかいない。

 メレアグロスはオリュンポス山に天の牡牛を曳いていった。牡牛は、五回遭遇した内の最初で徹底的に恐怖を植え付けていたために、後は怯えて逃げ続けるだけで、決して人里に近づかなかった故に人々への被害は出ていなかった。偶発的に遭遇した旅人はその限りではないかもしれないが……。そこは目を瞑るしかない。
 牡牛を連れて行くと、オリュンポスの神々はメレアグロスを歓迎した。ヘラが飛び出、満面の笑みで抱きついてくる。
 遅かったではないかあ、待ちくたびれたぞ、と。小山のように巨大な嵐を纏う牡牛を、なんでもないように屈服させているメレアグロスに驚きもせず、あたかも当たり前のように。
 その様子に、ヘラに事は露見していないことを見て取り、メレアグロスは表面上は穏やかに接した。

 紛れもない祖母である。

 ……だが、微塵も容赦してやろうという気持ちは湧いてこなかった。
 不気味なほど凪いだ心で、冷徹に計画を進める。メレアグロスは此処で、はじめてオリュンポスの十二神全てと邂逅した。
 いつの間にやら、さらっと神々の内に混ざっているアテナが、にこやかに笑みを浮かべてこちらを見ている。
 それを気味悪そうに、豊かな肉体の美女、アプロディーテが見遣り、美しい銀髪のアポロンが親しげに挨拶をくれた。
 一々丁寧に、されどへりくだらず、挨拶をして回る。月女神アルテミスがメレアグロスの腕を取り、耳元で囁いた。

「早く気づかないと酷いわよ」

 ――メレアグロスがそれに真摯に頷くと、意外そうに目を瞬き嬉しそうに両手を合わせて微笑んだ。
 ヘラは、アルテミスがメレアグロスに言い寄っていると勘違いしたのか、アルテミスを引き倒して馬乗りになりラッシュを加え始める。大慌てで悲鳴を上げる妹を助けにアポロンが走る。
 颯爽たる青年神ヘルメス、厳めしい風貌のヘファイストス、威厳豊かなゼウスと荘厳な姿のポセイドン。――そして、全ての女神の中で最高位に位置する"大女神"デメテル。

 ゼウスの姉にして豊穣神。母なる大地、掟を齎す者の異名を持つ、神威の穏やかな大女神は他の神々からは距離を起き、こちらに気づくと憐れみの視線を投げてきた。
 おや、と思う。

 ――デメテルは今、オレの何を憐れんだ。

 淑やかに歩み寄り、すれ違うようにして肩が触れた瞬間、デメテルはひっそりと囁いた。愁いを含んだ、包み込むような声。まるで、アルタイアーのような……。
 思わず聞き入った彼は、背筋が凍った。デメテルは言う。

「貴方の成すこと、大地たるわたくしは見通しております」
「……!」

 ただ、と。

「わたくしの胸の内に、真実は仕舞っておきましょう。貴方は好ましい男子です」

 ですが。

「心得ておきなさい。貴方の進む道は、艱難辛苦にまみれたものだと」
「――もとより、覚悟の上」
「であれば、よい。わたくしは、ゼウスとポセイドンを好きません。覚えておきなさい」
「……は」

 デメテルはそれきり、姿を隠した。

 大女神は、無理に迫ったゼウスやポセイドンに犯され、子を産まされた過去を持つ。
 故に大女神は二柱の神を嫌い、特に己の最愛の恋人イアシオンを殺したゼウスのことは憎んですらいた。
 どんな思いで、メレアグロスに味方する等と言ったのか。胸中を推し量るしかないが、予期せぬ味方である。無条件に信頼することはできないが、頼もしくはあった。

 ふと、白い衣装に身を包み、青いリボンで艶やかな黒髪を頭の両側で結わえた女神が――豊満な双丘を揺らし、満面に晴れ晴れとした笑みを浮かべながら手をぶんぶんと振ってきているのに気づいた。

「やあやあ! 君がヘファイストスの言ってたメレアグロスかい?」
「肯定する。私の名はメレアグロス、カリュドンの王子だ」
「あっははは! へえ、あのアレスの息子とは思えないね! ボクはヘスティア、不本意ながら助平親爺のゼウス達の姉なんてものをやってるよ」

 ヘスティア。炉の女神にして、祭壇と祭祀の女神。デメテルの姉でもある。
 炉は家の中心であり、国家は家庭の延長線上にあるとされていることから、国家統合の守護神でもあった。
 いつか、王家を継ぐこととなるメレアグロスである。無論、ヘスティアに対する信仰を始めて、深く尊ぶつもりでいた。
 恐らく、メレアグロスが思うに、デメテルやヘファイストスと並び、数少ないまともな神格であった。

 無垢な少女のような女神に、メレアグロスは意外なほど和やかに話せた。近く謁見の儀を執り行うことになっているが、ヘスティアはそんなことなどまるで意識しておらず、極めて自然に接してくれた。有り難いことである。

「ヘラの頓珍漢なワガママに振り回されてるんだって? 大変だね……義姉として謝っておく。ごめんね。あんなのでも良い所もあるんだ。ちょっとゼウスの馬鹿の浮気が絡んだらメンヘラが入るぐらいで」
「……ヘスティア神に謝られるようなことではない」
「それでもだ。ボクは君に謝ることしか出来ない。だから謝らせておくれよ」
「……分かった。ヘスティア神の謝罪を容れる。だからどうか、頭を上げて頂きたい」

 深々と頭を下げるヘスティアに、メレアグロスは困惑した。
 ――神とは、こうも常識的に振る舞えるものなのか。
 そんな新鮮な驚きが、メレアグロスをして戸惑いを隠せなかったのである。

 誰もがヘスティアのような神格だったら、どれだけいいか。詮無き事とはいえ、そう思わずにはいられない。

 ヘスティアがぎろりとヘラを睨む。そして言った。

「この、バカヘラ。幾ら孫が可愛いからって、あんまりべたべたするんじゃない。困らせてることに気づけ、バカ」
「あ、姉上……妾にも女王としての立場というものがある、あまり公然と罵ってくれるな……」
「罵らせてるのは君だバカ。すこしは自重しないと、メレアグロスに嫌われるよ?」
「なっ!? そ、そんはことはないであろう!? なあメレアグロス! 妾の可愛いメレアグロス!」
「……ヘラ神の寵愛は、喜ばしいものだ」
「であろう! そうであろう! 全く、驚かせないで頂きたいな、姉上。メレアグロスが妾を嫌うわけがない。こんなにも可愛がっておるのだから、な」

 ふふ、と艶然と微笑み、ヘラは不意に妖しく、白々しく声を上げる。

 まるで、前々から決めていた通りに、台本を読み上げる役者の如く。

 あたかも主演女優のように朗々と。

 ――それが。メレアグロスがカリュドンに帰還するまでの、四つ目の試練の幕開け。

 狼の嫁取り、その最終章。ヘラはオリュンポスからギリシア全土に響くように歌い上げる。

「そういえば、メレアグロスよ。妾は少しばかり不思議に思っておったことがあってな?」
「……」
「そなた、何故旅などをしている? 何か訳があって旅をしているのではないか? そう疑問に思ってな、ヘルメスをカリュドンに走らせ、可愛いメレアグロスが何故旅立ったのか、その理由を調べさせたのだ」

 ハッ、とアテナが顔色を変えた。盲点だった、と。それは知らない、と。
 メレアグロスはもう、諦めの境地に達して、肩から力を抜いてヘラの言葉を待つしかない。

「――するとな、ヘルメスは言いおった。メレアグロスめは、自らの嫁取りのために旅を始めさせられたそうではないか!」

 ヘラには、善意と好意しかない。
 しかしメレアグロスにとっては、途方もなく厄介で迷惑な好意でしかなかった。
 このすれ違いに、ヘラが気づくことはない。



「メレアグロスよ、そなたの花嫁、妾が見繕ってやってもよいぞ? どうだ?」



 奇しくもそれは、ヘラの断罪を遠ざける新たな騒動の始まり。ヘラにとっての最善手。――ギリシア全土を巻き込んだ、メレアグロスの嫁取り。

 リコセンス・メレアグロスをして、精根尽き果てた第四の難行『狼の鞘当て』が開幕した瞬間であった。


















※メンヘラ

ヘラみたいなメンタル、の略語。広辞苑にも載ってある。

嘘です♪(´ε`*)


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狼の花嫁 (上)

上中下の三話構成。プロットなしの勢いだけでここまで来ましたが、意外となんとかなるもんですね……。















 『英雄の花嫁となるのは誰か』

 数あるギリシャ神話に於ける恋愛劇の中で、最たる規模とされる"狼の嫁取り"。
 ギリシア各国の王や、彼の英雄との縁を欲する者らが自慢の娘を差し出し、彼の名声に肖ろうとする輩が後を絶たなかった。
 黄金の騎士への心証を高めるため、自国の美姫を讃え他国の姫を貶し、それが元で関係に亀裂が走った幾つもの国の間に戦が勃発。無数の国家が滅び、或いは新たに興り。血が流れ、喜劇のような悲劇に彩られながら、当人不在のままに狂乱は盛り上がる一方であった。




















 神々の女王の戯れ言を真に受けて、始めに面白がり名乗りを上げたのは、愛と美と性を司る女神アプロディーテであった。
 メレアグロスが自らの愛人であったアレスの息子と知り、彼の容貌が大変美しく好ましいと感じた故の名乗り出である。
 何も彼女自身が花嫁にと望んだのではない。自らの侍女である三女神カリスを推したのだ。愛人の息子に自らの侍女を宛がう……まさに愛の女神の本懐である。

 三女神カリス――エウプロシュネ、アグライア、タレイア。それぞれ順に"喜び"、"輝き"、"繁栄"を意味する彼女らは、美と愛嬌、優雅さを兼ね備え、オリュンポス山の山頂に住み神々の宴があるとアポロンの竪琴やムーサの歌声に合わせて演舞する役割を持っていた。
 肉体的な美しさを表すだけではなく、精神的な部分においても優美を与えるため、芸術だけではなく技術を志す人々にも信仰されている。
 今もメレアグロスの歓迎のために踊っていた三女神達は、突然の推薦にも関わらず満更でもなさそうにメレアグロスに流し目を送り、誘惑するように彼の周りで踊り始める。

 ギリシャの恋の文化は非常にテンポが早い。惚れたなら男女どちらであれアプローチするのに躊躇わず、男は女を抱くために力を尽くし、女なら男に抱かれるために手を尽くす。
 美の三女神に秋波を送られたなら、如何なる妻帯者であっても誘惑に抗えぬであろう。ましてや精力猛々しい性質を持つ英雄であれば尚更だ。

 だがメレアグロスは微塵も表情を動かさず。丁重に三女神を袖にした。

 ゼウスとポセイドンが信じられないものを見た、とでも言うように目を見開く。対し、ヘラは当然といったふうに何度も頷いた。
 ヘラは敢えて候補を挙げず、メレアグロスに訊ねた。

「メレアグロス、嗚呼、メレアグロス! 軽薄なるアプロディーテなど無視しておしまいなさいな! 妾はそなたの好みとするところにきちんと耳を傾けますよ? さあ仰いなさい。そなたはどのような花嫁を望む? アジア一の美姫か、ギリシア一の……否、世界一の美姫かな。嗚呼、そう、そう、妾の娘など――」
「――ヘラ様、私の意思を訊ねてくれるとは、流石に懐が深い」

 まず褒めて、気持ちよく謳うヘラの調子を崩す。言葉を遮られておきながら、ヘラは機嫌よさげに口をつぐんだ。そのまま、メレアグロスの言葉の方を優先する。それほどに溺愛しているのだ。
 メレアグロスは、ヘラからの度重なる試練、我が儘によって、この神格の性根をどこまでも理解していた。
 鉄則。ヘラの意思を介在させてはならない。ヘラに任せたままでは子供のお使いも難度の高い試練となる。
 故にこういう場合、ヘラには無理難題を吹っ掛ける方が丁度いい。

「私の好みとする女性は……」

 チラと見遣るのは、二房の黒髪の艶やかな、幼げな風貌に反する豊かな肢体の女神。白い善良な女神は、うん? と首を傾げた。

「ヘラ様のように貞淑であり、白雪のように清らかであり、家庭をよく守り子を愛し、心の強い女性……例えば、ヘスティア神のような女性が理想だ」
「うぇっ!? ぼ、ボクぅ!?」

 名指しにされたヘスティアが顔を真っ赤にして泡を食った。
 メレアグロスは肩を竦める。

「無論、理想としては、だ。何もヘスティア神そのものを望むような高望みなど、とてもでないが出来たものではない。私も、身の程は弁えているよ」
「く、姉上のような女人を好むとは……! 流石に目が肥えているというべきか、贅沢が過ぎるというべきか……!!」

 ヘラはあわあわと慌てるヘスティアを見て、臍を噛んだ。
 二柱の女神の力関係は、先の一幕で確認済みだ。安易に貶すことも出来まい。ヘスティアが好みだと言えば、ヘラのことだ、どうすることも出来ずに封殺できよう。
 だが念のため、ヘラの自尊心を刺激しておこう。

「贅沢と言われると、確かにそうなのだろう。だがヘラ様なら、私の身の丈に合った女人を連れて来られるだろう」
「ぬ――ぅ、」

 呻いたきり、一時の間ヘラは沈黙させられることとなる。
 ――メレアグロスが見誤ったのは、ヘラの自身への入れ込み具合だった。
 常ならば決してせぬことでも、可愛いメレアグロスのためなら……と、孫可愛さのためにヘラは行動する。姉のヘスティアへの遠慮と、メレアグロスへの神愛を天秤にかけ、どちらに傾くかをメレアグロスは見誤ったのである。

 ――ヘファイストスぅ! 匿っておくれよ!

 何やら己へにじり寄り始めたヘラに戦慄し、ヘスティアは咄嗟に親しい友人に縋りつく。その光景を横に置き、メレアグロスはゼウスとポセイドンに対し跪き顔を伏せて礼を示した。

「此度は私などのために、御身らに温かく迎えて頂き我が感動、深甚の如きだ。しかし斯くの如く遅参した身でありながら、オリュンポスの神々の歓待を受けると罪悪感に胸が押し潰されそうでもある。どうかこの身がオリュンポスを後にすることを赦されたし」

 ゼウスはポセイドンを見た。虎髭を生やした豪傑然とした巨漢は鷹楊に頷く。
 真っ直ぐな敬意をこうも向けられ、悪い気はしない。メレアグロスが女神らにちやほやとされるのを黙って見ているのも面白くない。帰らせてもいいだろう、と二柱の神は判断した。

 赦しを得て、急ぎオリュンポスを去ろうとするメレアグロスに、アポロンが困り顔で声をかけた。

「待ちたまえ、気高き狼よ」
「――アポロン神。如何なる用か?」
「僕ではなく。我が不肖の妹の件だが……」

 アポロンは、ヘラを警戒して下手に動かぬアルテミスが、ぅぅぅ! と唸ってメレアグロスを睨んでいた。それに、微妙な笑みを浮かべてアポロンは言う。

「余り口出ししたくはないが、妹の推している娘のことは無下にしてくれるな。僕は君のことを高く買っている。……アロアダイの事もある、借りは返しておきたいが……妹は怒ると手がつけられない。胸に留め置いてくれ」
「無論。私が彼女を下手に扱うことはない。かの狩人は敬愛に値する同胞だ」
「……僕からは以上だ。また会うこともあるだろう、その時は……そうだな、僕の子アスクレピオスも交えて、アレスと共に酒でも飲もう。同じ男にしか言えないこともあるだろう?」
「……その時を楽しみにしておこう」

 その場を辞し、メレアグロスは急ぎオリュンポスを去った。
 山の麓で待機させていたテセウスらに出立を告げる。一刻も早く此処から遠ざからねばならない。此処に来るまでに考えも纏めた。

「我が故郷、アイトリアのカリュドンへ帰還する。進発!」

 女神ヘラの玉声は各地に轟いた。今更事実を伏せることは出来まい。無為に騒ぎ立て火消しに奔走するよりも先にしなければならないことがあった。
 いつの間にか人の女魔術師の風体に戻っていた、真紅の女ミネルヴァがメレアグロスを制止する。

「待て、メレアグロス。お前は私に言わねばならぬことがあるのではないか?」
「……私が旅をしていた理由についてか?」
「それ以外に何がある」

 険悪な物腰と、険のある眼差しだった。有無を言わせぬ強い語調に、メレアグロスは一瞥を向ける。

「黙っていたのはなんらかの意図有ってのことではない。私は伴侶を得るために旅をしていたのではないのだからな」
「では何故カリュドンより離れた」
「我が父母が、到らぬ愚息を気遣い、好きにさすらう時をくれたまでのこと。五年、嫁探しの名目で放蕩の旅をし、その中で生き甲斐となるものを探せというのが、父母の意図だ。そして私はそれを忠実に守っていたに過ぎん」

 嘘は言っていないようだな、と怒気を鎮め、ミネルヴァは怒りの矛先を治めた。
 剣を得意とする白銀の騎士カストルが、冗談めかすように言った。

「メレアグロス卿、我が妹クリュタイムネストラでも嫁にどうです? まだ幼いですが、その器量はわたしが保証しますが」
「なんだと! 抜け駆けとは卑怯な!」
「恥を知れ少女趣味の刀剣フェチめ!」

 同胞らから顰蹙を買って睨まれるカストルは笑って誤魔化したが、妹を薦める目は限りなく本気だった。
 忠誠を誓い、至上の主君と仰いだ男に妹を捧げる、彼からすればそれは名誉なことだったのだ。
 メレアグロスは嘆息する。そして何かを言う前に、メレアグロスに次ぎヒエラルキーの上位に君臨していたミネルヴァが鋭く叱責する。
 黙れッ! 一喝されるや、ぴたりと騒ぎが治まる。女などに、と侮るような惰弱な者は騎士団(メレアクレイタイ)にいない。数人がかりで挑み、返り討ちにされた記憶はまだ新しかった。

「メレアグロスの花嫁の座は、このっ、戦女神アテナ様の推薦を授かりしミネルヴァが頂くと決まっている! 外野は引っ込んでいるがいいさ!」

 決まってない、と。
 か細い反論は誰の耳にも届かなかった。

 メレアグロスは呆れたふうにミネルヴァを見遣る。

「さあ、メレアグロス! 私の準備はいつでも万端だぞ! この私ミネルヴァの他にもアテナ様という選択肢もあるぞこの果報者め!」
「……一人芝居は悲しくならないか?」
「何を言うっ! ……虚しくなるから言うな、頼むから」

 唐突に我に返り、ミネルヴァは落ち込んで肩を落とした。

「――戯れ合いはこれまでだ。進発の号令は下したぞ。よもやカリュドンが何処にあるか分からぬ訳ではあるまい。駆け足! 一時間後、貴様らを追い始める。追い付かれたらどうなるか、分からぬ訳ではないだろう」

 メレアグロスが言うや、騎士らは弾かれたように全身装甲の刀剣装備のまま走り出した。
 カライス、ゼテスの有翼騎士らが飛ぼうとするや、メレアグロスは彼らに礫を擲つ。頬を掠める衝撃波にたまげ、地面に落ちた彼らに忠告した。

「私の投槍を躱す自信があるなら飛んでもいいぞ」

 有翼兄弟は二本足で走り始める。死に物狂いの形相で。
 ミネルヴァはカリュドンに一番乗りし、義理の親になる予定の国王夫婦への挨拶のために大人げなく本気を出していた。
 あれも大分変わったな、と呆れるやらなんやら……。と常なら先頭を疾走しているだろう女が、まだスタートを切っていないことにメレアグロスは目を細めた。

「メレアグロス……」

 袖を引き、アルカディアの狩人――アタランテは心細そうにメレアグロスを呼んだ。
 弱ったような、困ったような、迷いを含んだ眼差し。それを見返し、言葉を待つ。
 やがて、アタランテは頭を振り、決然とメレアグロスの黄金瞳を見詰めた。

「汝に言っておかねばならないことがある。聞いてくれ」
「……ああ」
「汝は――」

 言いかけ、アタランテはぐいっ、とメレアグロスを引っ張り、つま先立ちになって背伸びをした。
 一気に近づいてきた顔に、驚く間もなく。
 歯と歯がぶつかる勢いで口付けしてきたアタランテは、頬に桜を散らしながら宣言した。

「――私のつがい(・・・)だ! 覚悟しろ獣め、狩人は決して狙った獲物を逃がさない!」
「――」

 言葉を失う。
 その、余りに真っ直ぐで、穢れのない、本気の本気が籠った眼と心に。
 不覚にも、メレアグロスは見惚れてしまった。

 逃げ出すようにして走り出したアタランテを、呆然と見送り。
 メレアグロスは、放心状態から我を取り戻すと、観念したように嘆息し、呟いた。

「……我に価値なし、とも言ってられんか……」

 腹を括る時がきた。ただ、それだけなのだろう。

 メレアグロスは胸が温かくなる感情に戸惑いながらも。一時間と経たず駆け出そうとする体を抑え込んだ。



 ――この時は、まだ事態を甘く見ていたのだろう。



 先に待ち受ける動乱に、メレアグロスらは巻き込まれていくこととなる。

















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狼の花嫁 (中)






 当代ギリシアに於いて、足の速さは英雄の条件の一つである。

 騎士団(メレアクレイタイ)の五番手、剣騎士カストルもまた駿足を誇る英雄であった。
 故郷で彼に比肩する速力の持ち主は、不死身である弟のポリュデウケスのみだったが、騎士団(メレアクレイタイ)には彼よりも速い者が四人もいた。言うまでもなく、メレアグロス、ミネルヴァ、アタランテ、テセウスである。
 現在、カリュドンに向けての超長距離走で、先頭を行くのは魔術師と言い張る女傑のミネルヴァ。全身装甲、剣や弓のフル装備でありながら、既に三時間は全力疾走を続けている。
 人間離れした速力、スタミナは神代の英雄にとっては大したものではない。一日中駆け続けることだって出来るのだ、二日もあれば千里を駆け抜けることも可能なほどである。
 しかし先頭のミネルヴァは、そんな常識すら越えていて。影も形も見えないほどの差を、カストルに見せつけている。
 女の癖に、と侮り、憤り、粋がっていたのは昔の話だ。女だてらに騎士団(メレアクレイタイ)の二番手を務めてはいないという証である。それに――三番手のアタランテは、そんなミネルヴァより更に速い。

「――」

 深緑の影がカストルを抜き去っていく。
 中性的な……どちらかといえば女にも見える美貌の持ち主カストルは、瞬く間に距離を開いていく女の軽やかな疾走に爽やかさすら覚える。女傑達は、実力で男達の侮りを拭い去り、騎士団(メレアクレイタイ)の騎士らから畏敬の念を勝ち取っていた。

 しかし。

 そんな二人よりも、速さで勝る者がいる。

「ああっ……」

 喘ぐように、悦ぶように、カストルは頬を紅潮させて呻いた。
 僅か半刻。麗しの狩人が駆け抜けた道を、金色の毛並みの狼が猛追する。擦れ違うように駆け、燃え盛る炎よりもなお熱い声がカストルをねぶった。

「姿勢が悪いな。息も乱れている。口を閉じ、手の振りを大きくしろ」

 黄金卿メレアグロス。その声に、カストルは興奮して言った。

「わたしの、口の、穴をっ、塞いでくれたら助かるのですがっ……!」
「よかろう。カリュドンに着いたら暫くものが食えぬよう、貴様の剣柄を捩じ込んでやる」
「そこはっ、黄金卿の剣でお願いしたい……!」
「神剣の神威で死にたいならそうしてやる」

 ふ、と苦笑を残して狼は駆け去った。
 高尚な愛故に、カストルは恋焦がれる。

 ――ああ、彼こそが、わたしの運命!

 カストルは彼と出会って以来、かつての恋人に別れを告げ、女を絶ち、彼に操を立てることを誓った。
 想いを遂げられなくてもいい、無償の愛だ。忠誠を誓う前から、彼には一目で恋に落ちていた。
 彼のために生き、彼のために死ぬ。カストルは愛を忠誠に昇華し、彼の剣となったのだ。彼の剣も握りたいが。

 ――黄金の狼は、足の速さでも騎士団(メレアクレイタイ)随一である。

 数年前までは、聖熊と同等の力を持つ狩人よりも脚の速さでは劣っていたらしいが、それも過去の話である。
 黄金の狼は山を受け止め、投げつけるほどの怪力の持ち主……優れた師の下で指導を受け、最適の走法を学んだなら、怪物じみた速力を得るのは自然な流れであった。
 何せ脚は腕の三倍の力がある。大山を持ち上げる膂力の三倍の脚力で走るのだ、勝てるわけがない。

 事実、騎士の中でアタランテは一番だが。

 こうした駆け比べで、首領足るメレアグロスに抜かれなかったことは一度もない。
 いつだって、最後にはミネルヴァも、アタランテも含め、全員が罰を受けた。一時間のハンデなど有って無いようなものなのだ。
 だが苛烈な罰則も、もはやカストルの楽しみでしかない。イジメられると、想われていると感じられて素敵なのである。今回はどんな地獄のような扱きを受けられるのか、今から楽しみで仕方ない。

 ――そんな思考(嗜好)など見通しているが。メレアグロスが彼を嫌悪することはない。

 男同士など考えられないが、彼は真剣であるのは解る。であれば、頭から否定することはない。単純に好みではないという問題があるだけだ。
 カストルは兎も角、カライスとゼテスはどうにかならないものか……あれの兄弟愛は中々に麗しいが、行き過ぎな感がある。
 体力も騎士団(メレアクレイタイ)の中ではないに等しい。鈍足で、空を飛べる以外に取り柄はない。並みの英雄よりは強いが……あれらはもう少し鍛える必要があった。
 今また、テセウスを遠くに捉え、メレアグロスは今度はどう声を掛けてやろうかと頭を巡らせて……。

 ふと。

 道中に、一人の女が独りで旅をしているのを見掛けた。

「……」

 女の一人旅は危険だ。が、どうやらあれは、アタランテと同類の猛者であると一瞬で見て取る。
 体幹が確りし、姿勢はよく、曳いている馬は駿馬と呼べるほどの逞しい馬体をひいていた。
 腰には弓と矢筒。馬にはかなり使い込まれた槍を括りつけてある。なるほどと思わせる風格を纏う戦士だった。

 黒髪を首元で結わえ、風の吹くままに靡かせる、凛々しい風貌の美女である。

 獅子のように猛々しく、巫女のように貞淑な乙女。メレアグロスはそれに、どこか既視感を覚え、なんとなく旅の女戦士に声をかけた。

「――失礼する。そこの旅の者、どこを目指し旅をしているか教えてくれないか」

 振り返り、女は一瞬、驚いたように目を見開いてメレアグロスを見詰める。

「私はメレアグロス。今、故郷へ帰還する道中にある。道程を同じくするのなら、暫し身辺を固めることも出来るが、どうだろう」

 それは些細な親切心だった。余計なお世話と言われたならそれまで。余計な世話であるのは事実なので、そのまま走り去るのみだ。

 すると、女は呆気に取られ、次いで我が耳を疑うように反駁した。

「……メレアグロス? あの、戦神の子であるという?」

 その芯のある声は、虚偽を赦さぬ響きであった。
 元より隠し立てすることでもない。慮外の問いに怪訝に思いながらも肯定した。
 あらゆる賛美も聞き飽きたが、戦神の子であることを問う者はこれまで滅多にいなかったのだ。メレアグロスの驚きはそこにのみ集束している。

「如何にも。我が父は二人いるが、間違いなく戦神アレスは我が父だ」
「……私の目的の場所は、カリュドンだ」

 少女とも、女とも言える年頃の戦士は、王者足る威風を自然に発しながらそう言った。
 高潔な人格の透ける、真摯な瞳。
 射抜くように、女はメレアグロスに告げる。

「ああ……これも戦神のお導きか? メレアグロス。お前に会うために、戦神アレスが娘、ヒッポリュテが遠路遙々やって来たのだ。まさかカリュドンに着く前に目的の男と会えるとは思わなかったぞ」

 僥倖とはこういうことを言うのか、と女は微笑み。さも親しげに、若干の照れ臭さを滲ませながら茶目っ気を見せた。

「私は優れた戦士には敬意を払う。不躾だが、兄と呼ばせて貰うぞ。偉大なるお兄ちゃん(・・・・・)
「……なんだと?」

 なによりもまず、その呼び方に度肝を抜かれた。




















 ヒッポリュテと名乗った女は、アマゾネス族の戦士長であるらしい。
 戦神と月女神の巫女の間に生まれた彼女は女王として君臨していたようだが、重大事があってメレアグロスを訪ねるため、わざわざ遠く離れた地を、数ヵ月に亘って旅していたのだという。
 メレアグロスがどこにいるか分からぬ故、まずその足跡を辿るつもりであったようだが、あのヘラの声がギリシア全土に響き渡り、ことの仔細を知ったヒッポリュテは、噂に伝え聞いたメレアグロスの人柄から彼は故郷に急ぎ帰還すると見抜き、こうしてカリュドンを目指していたらしい。

 そういった話を、後続のアタランテやカストルが追い付いてきて、横で聞いていた。

 テセウスとミネルヴァは、まだ先を走っているためこの場にはいない。暫くすれば他の面子も追い付いてくるだろう。
 メレアグロスはこめかみを押さえた。

「? どうしたお兄ちゃん(・・・・・)
「……その呼び方はやめて欲しいな。少し、否、かなりこそばゆい気分になる」
「どうしてだ? 旅の最中に子供達から聞いたぞ、妹は兄をこう呼ぶものだと」
「……間違いじゃない、間違いじゃないが……」

 なんだ、この……なんだ?
 凛々しく、美しい女戦士長が、あたかも幼い少女が如く兄と呼んでくる感じは……ギャップ、という奴なのか? 悪くないと思えてしまうがその感覚こそ悪である気もする。
 既視感の正体は解った。血族故の親近感だ。彼女が己と同じ神性を持つが故の同族意識という奴である。

「お兄ちゃん……黄金卿、わたしもお兄ちゃんと呼んでもいいでしょうか?」
「戯け。貴様に兄と呼ばれる筋合いはない」
「……残念です」

 心底残念そうな、中性的な少女に見えるカストルの大戯けは兎も角、メレアグロスは一先ずヒッポリュテに訊ねることにした。

「それで、貴様は何故私を探していた?」
「うむ。これを見てほしい」

 懐から取り出したのは、神霊の分体と思わしき軍章旗を帯に仕立て直した物。……微かに帯びる神気は、よく知る神格のものだった。
 目を細める。顔が険しくなった。その神気におぞましい変化があるのがメレアグロスは解ったのだ。

戦神の軍帯(ゴッデス・オブ・ウォー)、か」
「如何にも。これは我が父アレスが、私のために贈ってくれたものだ」

 誇らしげな表情が、娘の父に対する感情を素直に示していた。
 彼女にとって、アレスは良き父だったのだろう。軍章旗を帯に直して贈る……そんなことをわざわざする神が、他にいるか?

 思い返せば、己の権威の証したる神槍をあっさり手放したのは何故か。大事な神剣を、戦いに赴く子に譲ったのは何故か。考えてみればすぐに分かろうというものだ。それは……我が子だからである。

 どんな形であれ、戦神は親を尊び、我が子を慈しむことを知っている。

 ……アレスには、我が母を侮辱したことを謝らせねばならないと思っていたが、こちらも謝らねばならぬことがあることを、漸くメレアグロスは気づいた。
 贈られたのではなく、分捕った戦利品だったとはいえ、彼の神槍を無断でヘファイストスに譲ったこと。あれは、思い返せば誠実さに欠ける軽挙であった。
 謝らせ、謝るために、一度会ってゆっくり話さねばならない。そう、思う。

 ……思うのに、なんだ、この不吉な感じは……?

 軍帯の神気が、酷く弱々しく、おぞましい()を感じさせている。
 メレアグロスが気づいたと見て取ったヒッポリュテが、誇らしげだった顔を曇らせた。

「……解るか、お兄ちゃん」
「ああ。……戦神アレスは弱っている。それも、死に瀕しているだけではない。堕天(反転)しかけているのか」
「これは父アレスの分体だ。これの状態は、そのまま父の状態を写す鏡でもある。――アレスが危ない。何故こうなっているのか、事情は知らないか?」
「……」

 メレアグロスは、一瞬目を閉じ、ことの顛末を語った。
 次第に、険しさを増すヒッポリュテの美貌。最後に、アレスが囚われているらしい場所の手がかりを、耳元で囁きかけると、話を聞き終えたヒッポリュテは苛立たしげに拳を震わせ小さく呟いた。

「……話は、解った。それで、お前はこれからどうする」
「カリュドンに帰還し、事を鎮め、然る後に然るべきことを成す」
「……そうか。うん、お兄ちゃん、私の目を見ろ」

 言われ、メレアグロスは真っ直ぐに母の異なる妹の黒い瞳を見た。
 見詰め合うこと暫し、ヒッポリュテは頷いた。

「正道の男の眼だ。後ろめたさの無い、好ましい光を宿している。お前なら信じられそうだ。うん、損になることはしないと信じているぞ」
「……その信頼を裏切らないと誓う。……ヒッポリュテ、貴様に頼みがある」
「なんだ?」

 メレアグロスは腰の神剣を、鞘ごと抜き取って、ヒッポリュテに押し付けた。

「私の父から授かった剣だ。暫し預ける。無事に返しに来い。――待っている。必ず会いに来るんだ」
「……」

 目を瞬かせ、ヒッポリュテは神剣とメレアグロスの顔を交互に見る。そして、破顔して礼を示した。

「感謝する、お兄ちゃん。きっと、すぐ返しに行くとも。それまで壮健であれ」
「貴様もな」

 笑いかけ、メレアグロスは天に向けて叫んだ。
 それは、宣言である。ヘラをよく知るが故の、ヒッポリュテという存在を守るための保険。

「神々よ! ヒッポリュテなる者は、これより我が庇護下に入った! どうか手出し無用に頼む! 以て、天の牡牛捕獲の褒美としてもらいたい!」

 雷鳴が轟く。それは大神ゼウスが了承したということ。これで、下手に神々はヒッポリュテに手出しは出来ない。
 それはヘラも同様だ。メレアグロスが、ヒッポリュテを庇護すると宣言することは、あの女神に釘を差しているに等しい。

 ヒッポリュテは、ぱちぱちと目を瞬かせる。

「……私を守るのか?」
「当たり前だ。兄は、妹を守るものだからな」
「……は、ははは! ははははは! いい男だ、お兄ちゃんは! どうだ? 私の婿にならないか? 今なら王位も着いてくるぞ!?」
「戯け。妹と婚姻を結ぶ奴があるか」
「照れるな。私とお前が契れば、さぞ戦神の血の濃い子が生まれるに違いない! そうだ、せめて子だけでも拵えてくれないか? 孕ませてくれるだけでいい、うん、私はお前の子を生みたい!」

「――メレアグロスは私のつがいだ! 横から獲物を取ろうとするな、アマゾネスの戦士長!」

 耐えかねたように、アタランテが口を挟んだ。カストルがそれに意外そうにするが、構わず。眼光鋭くヒッポリュテを睨むアタランテに、猛き女王は目を点にし……不敵に笑った。

「略奪愛もいいな。なあ、義姉上」
「ふざけるな。メレアグロスの妹だとて、獲物を横取りするなら容赦しない」
「……二人とも、そこまでだ。乙女がそうも争うものじゃない。自重しろ」

 楽しげなヒッポリュテと、余裕なく睨むアタランテ。メレアグロスは今度こそ頭を抱えたくなるが、自己を律してヒッポリュテに言う。

「そうだ、ヒッポリュテ」
「なんだ、お兄ちゃん」
「……その呼び方はやめてくれ。肩から力が抜ける」
「ふむ。では、兄上と呼ぼう」

 最初からそう呼べばいいものを。呆れて何も言えない。
 嘆息し、メレアグロスは彼女に告げた。

「ヒッポリュテ、これより貴様は私の騎士を名乗れ。斯く在れば、必ず貴様の助けになる」
「……? よくわからないが、解った。兄上の騎士と名乗ればいいわけだな? ではそうする」
「ああ。さらばだ、また会おう」
「うん。じゃあ、また」

 言ったきり、メレアグロスはカストルとアタランテを促して、走行を再開する。ヒッポリュテも、神剣を腰に提げて、これまでとは異なる道を辿り始めた。
 再会は、数年の時を隔て成就する。
 メレアグロスは頭を振って、カリュドンを目指した。

 ヒッポリュテが、アレスの許にたどり着き、助け出せることを祈りながら。

















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戦禍を鎮めよ

狼の花嫁(下)の前のお話。超絶巻き展開で十話分省略しました。














 狼王子の帰還の報せは、瞬く間にカリュドン全体へと広まった。
 国を挙げての出迎えに、苦笑もせずメレアグロスは嘆息したものだ。昔は疎んでいた王子をこうも明け透けに歓呼して迎え入れるとは、カリュドンの市民らも掌返しが上手いものだな、と。
 まあそれはいい。メレアグロスにとっては、所詮は他人。職務と立場上、彼らを守り、栄えさせることは義務であるが、一切の情も持ち合わせてはいなかった。

 手勢を連れ、宮殿の前まで出てきたカリュドン王夫婦に帰還を告げる。「不肖、メレアグロス、五年の期間に五月ほど届かぬまま帰還した不義、平にご容赦を」。
 カリュドン王オイネウスは、複雑そうに嫡男を見詰め、深々と嘆息した。

「ここ数年のそなたの活躍、カリュドンまで鳴り響くこと雷鳴の如しである。父はそなたの勇名を我がことのように嬉しく思っておるとも。しかし、な……」

 父オイネウスは、四年と七ヶ月前から、何も変わっていなかった。温和な顔立ちと、人の善さの滲む佇まい……メレアグロスは、自然と穏やかな気持ちになっていた。
 そんなメレアグロスに、オイネウスは言う。小さく、我が子にだけ聞こえるように。

「伴侶を探して参れ、とは言ったが……それがどうしてこんな騒ぎになるのだ?」

 それに返す言葉もないメレアグロスである。思わず項垂れるが、オイネウスは苦笑した。

「よい。何も責めておる訳ではないのだ。手の掛からぬ嫡子が、特大の英雄となって帰ってきた……父はそれだけで嬉しいのだから」
「……」
「ミネルヴァ、といったか? そなたの妻となる者は」

「は?」

「器量よく、強く、賢い女人よな。うむ、よき伴侶を得られたようで父も――」
「待て。父よ、私は別に、伴侶となる者を連れ帰った覚えはないが」
「ん?」

 ちら、と後ろを見ると、素知らぬ顔で合流していたミネルヴァがいた。
 テセウスらが呆れ、アタランテが怒ったように睨むもどこ吹く風といった様子である。メレアグロスは微妙な気分になりつつも、父の誤解を解く。
 すると、オイネウスは声を上げて大笑した。
 相変わらず淡白な輩よな! これほどの美女に言い寄られ、なお動じぬとは! 嬉しげに言われても、子はなんとも言えぬままであった。
 英雄帰還のお祭り騒ぎは治まらぬまま、オイネウスはメレアグロスらを連れ立って宮殿に入る。配下となった騎士ら一人一人に声をかけ、オイネウスは瞬く間に騎士らと親密に、親しげに語らうまでになっていく。

 たらしめ、とカリュドンの王子は皮肉っていた。

 オイネウスはテセウスらを伴って宮殿の奥まで行ってしまう。そんなカリュドン王と擦れ違う形で母が急ぎやって来たのを見て、メレアグロスは父の心遣いを察した。
 父よ……にくい気遣いだ。苦笑して、メレアグロスは母と再会した。
 涙ぐみ、駆け寄ってきた母アルタイアーを抱き締め、その火傷跡の目立つ手を己の大きな手で包むように握りしめる。
 言葉はなく、無言でそうして。アルタイアーは、小さく呟いた。おかえりなさい、と。
 母の愛の籠った労いに、声もなくメレアグロスは頭を下げた。

 ――おにい様!

 ふと、二人だけだった空間に、いたいけな少女の声が複数こだました。
 振り返ると、六人の子供達が……五人の妹達と一人の弟がやって来ていた。
 甲高い歓声を上げて腰元に抱きついてきた五人の妹達を、メレアグロスは優しく微笑んで受け止める。どんなに離れていても、成長した姿を見るのははじめてでも、兄は妹達を見誤ることはなかった。
 黒髪の、可憐な妹達。長女から順に、

「テュレウス、クリュメノス、メラニッペー、ゴルゲー、ディアネイラ――元気だったか?」

 呼び掛けると、十二歳から八歳までの少女達は黄色い声で返事をした。アルタイアーも、普段は気難しい娘達の現金な有り様に苦笑を隠せない。
 メレアグロスは笑みを浮かべながら問いかけた。末妹……小さな小さな、ふわりとした黒髪を背中に垂らす、大きな目の猫のような少女ディアネイラに。

「ディアネイラ……私と最後に会ったのは三歳と半ばだった頃だろう? 私のことを覚えていてくれたのか?」
「んっとね……あんまり!」

 にへへ、と素直に言って笑うタンポポみたいな笑顔に、ふわりと甘い笑みを湛え、黄金狼は柔らかく末妹の髪を梳く。くすぐったそうにしながらも、ディアネイラは気持ち良さそうに言った。

「でもね、でもね! わたしの思い描いてた通りのおにい様だったよ!」
「……そうか。私は理想通りの兄か?」
「うん! トクセウスにい様なんかとは大違いだよ!」

 無邪気に言うディアネイラから目を離し、離れにいる弟のトクセウスを見る。
 十三歳の王子は、偉大な兄にどこか遠慮があるのか、複雑そうにこちらを見るばかり。メレアグロスは母を見る。アルタイアーは、柔和に表情を崩して頷いた。

 ちょいちょい、と手招きする。

 首をかしげ、素直に寄ってきたトクセウスの首根っこを掴み上げ、うわぁ! と弟が驚くのも構わず、メレアグロスは妹達を腰に纏わりつかせたまま外に出た。

「なっ、なっ、何をするんだよ、兄上!」
「久方ぶりだからな、貴様らと遊んでやろうと思ったまでだ」
「い、いいよ、別に。兄上は英雄なんだ、僕らに構ってる暇はぁああ!?」

 ひねた調子の言葉は聞かず、トクセウスを天高く放り投げた。
 地上百メートルまで吹き飛び、情けない悲鳴が辺りに轟く。メレアグロスは落ちてきたトクセウスを受け止め、また天に投げ放った。うわああああ! 泣きそうなトクセウスに何を見たのか、妹達が楽しそう! と羨み始めたのを見て、メレアグロスは腰に抱きついたままの妹達を千切っては投げ千切っては投げ……六人の弟妹を使って人間お手玉を始めた。

 胆が据わっているのか、テュレウスやディアネイラらは、きゃっきゃと笑い転げ、幼い体に負担が掛からぬよう気を遣うメレアグロスの方が気疲れしそうである。
 アルタイアーはにこにこと、久しぶりに見るわねぇ、なんて呑気に見守っていた。




















 ――平和な時は、そう長続きしなかった。

 メレアグロスが懸念していた通り、各国より娘を嫁にと差し出す王や名士の使者でカリュドンは溢れ返ったのだ。
 中には姫本人と、家財を持ち込んでそのまま居座る姿勢の強引な輩まで在り、メレアグロスは呆れてものも言えなかったが……呆れてばかりもいられなかった。
 他国の鎧兜で身を固めた兵が駆け込んでくるや、カリュドン王に援軍を要請してきたのである。
 何事かと聞くと、なんと娘をメレアグロスに嫁がせるために、諸王は争って互いの娘の欠点や容姿をあげつらい、罵り合い、堪忍ならぬと激発して戦争にまで至った国があるというのである。

 メレアグロスは眩暈がした。騎士団(メレアクレイタイ)の面々も絶句し、余りの愚かさに言葉もなかった。
 極めて真っ当な倫理観を育てた彼らにとってギリシャの常識的な争いが馬鹿馬鹿しくて仕方がなかったのだ。

 戦禍は拡大の一途を辿り、本来は関係のない国まで巻き込まれ、当初の目的を忘れて他国の姫を一人残さず殺し、国家間の関係は仇敵同士となって血で血を洗う泥沼の戦争状態に陥っているというではないか。
 ギリシャ西部にあるアイトリアのカリュドンに援軍を要請してきたのは、隣国の同盟都市ニコポリスである。要約すると、そちらの英雄殿が原因なんだから助けに来い、ということである。
 よもや己の嫁選びで、戦禍がギリシャ全体に広がるとは思いもよらず、メレアグロスは何も言えなかったが、最初から妃を選んでいたらこんなことにはならなかったのだと思うと、なんとも遣る瀬ない心境になった。
 こんな下らないことで無関係の人々まで死なせてしまうのは余りに偲びない。どうか争いを鎮めたまえと戦争の苦しみに喘ぐ者らに縋られメレアグロスは行動に出るしかなかった。

 効率的に戦争を止めるために一計を案じる。テセウスをアテーナイへ、カストルをスパルタへ送り込み、彼らがそれぞれアテーナイ王と、スパルタ王の位を得られるように働きかける。
 英雄の名声高く、黄金卿に従う騎士として誉れ高い両者である。優秀極まるテセウスは王位継承者としての権利を至極当然の如く獲得し、未来の王となることが決定した。カストルは精力的に動いて見事スパルタ王へと登り詰め、後押しした張本人である主を驚かせた。
 この間、僅か半年である。その時メレアグロスは各国の戦線に配下の騎士を率いて介入し、全戦士の武具のみを破壊して回る暴挙に打って出ていた。強制的に戦闘を止めるや調停し無理矢理に国同士の仲を取り持つ。
 寝る間も惜しんでの強行軍である。瞬く間に戦争を鎮め、各地に根強い影響力を植え付けて回り、王よりも民を味方につけて政治的発言力を高めた。
 仮初めの平和など長続きしない。遺恨を残したままの王や王族をそのままにしておくことも出来ない。カライスやゼテス、ペイリトオス、ポリュデウケスが疲労の極限で倒れ、アタランテとミネルヴァのみを従えて各地を巡り、下準備を整える。特にミネルヴァは、神としての立場と魔術師としての立場を活用し大いに助けとなった。




 そして、

 メレアグロスは王の中の王――


 "大王"として、


 一代限りの王権保有者として、ギリシャ西部を治める、複数の都市国家を併呑した"アイトリア王国"に君臨したのである。

 戦争を終わらせるために、愚かな戦争行為に手を染めた王族を廃して、自らが頂点に君臨する……それがメレアグロスの決断だった。
 神々の寵愛と、名声と実力、配下の影響力までをも利用した大事業。それを、ほんの二年で完遂した手腕はもはや怪物のそれ。
 平和を力づくで、政治的に、戦争的に、強権的に手にした王者は、

 ――王になったのだから妃を決めろ

 という、至極当然の声に圧力を掛けられることになる。
 結局、独身のままではいられぬ定めなのであった。


















どうしてこうなったのか、私にも解らない。勢いだからね、仕方ないね。

プロットなどない、ないのだ……!


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狼の花嫁 (下)

超難産回(二度目)
ヒロイン選択に迷いに迷った回。














 ――王者足る者、後継者を残すことも立派な責務である。

 期せずして諸王の上位に君臨する大王となったメレアグロス。彼は炉と祭祀の女神ヘスティアの名の下に支配下の都市国家を解体、統合しアイトリア王国なる大国を建国する羽目となった。
 史に燦然と名を残すこととなる、栄華極まる繁栄の御世――"黄金(アイトリア)時代"の幕開けである。
 大王はまるで何かから逃げるようにして名だたる英雄豪傑を揃えるのみならず、俊英の吟遊詩人や高名な医者、建設家を次々と招聘。彼らを厚待遇で迎え入れ、さらには概要を固めて知恵者らと協議し、後のローマにまで引き継がれる"十二表法"を制定。法整備と病院の建設を計画。正確に記録を後世に引き継がせるため、青銅板に刻んだ記録媒体を複数保存。
 また国民の娯楽のためにチェスを広め、公共ボクシング場を建設。また、拳大の丸い石を鞣した羊の皮で包んだ球を使い、足や手、棒で打ち、投げる、ベースボールの原点となる球技を開発。アイトリア王国の民はこれに熱狂した。

 大王の逃走は続く。

 北に戦争あれば騎士を率いて駆けつけ、南に怪物あれば飛んでいき、東に悪名轟く悪漢あれば退治しに出向いた。
 かつて名と顔を覚えると約束した商人を求めこれに報い、大王抱えの大商人として招いた。更には"アレスの丘"の故事に倣い、裁判を制度化して裁定者として罪人を裁いた。敢えて自らが裁判を受け、民を相手に敗訴して見せることも忘れない。所詮は形式的なものだが、王権保有者すらも法には服すべきという姿勢を示し、また敗訴したという前例を作るのは大事なことであった。

 太陽神アポロンや月女神アルテミス、戦女神アテナ、処女神ヘスティア、大女神デメテル、冥府神ハデス、魔術神ヘカテー、貞淑神ヘラ、天空神ゼウスを守護神として奉り、国家百年の安泰を築き上げ。斯くして大王とも、最優王とも騎士王とも号される、スペードのキングとして描かれるメレアグロスの逃走を誰も止めることは叶わず。二年も後に逃亡生活に終止符を打たれるまで、息吐く間もない激務の日々は続くこととなる。

 大王の偉業的施政に一先ずの終わりを運んできたのは、約束の時を迎え、英雄の師とされ、軍の師、官の師とも称されることになる伝説の名宰相、賢者ケイローンであった。
 ケイローンを快く迎え入れ、騎士団(メレアクレイタイ)の副長としたのは良かった。しかし宰相は、これまで大王が担っていた職務の過半を奪うようにしてこなし、彼に暇な時間を献上したのである。
 そうして、暇を持て余し、焦燥に駆られる大王の許へ日に日に高まる民の声が届けられることとなったのだ。

 ――いい歳なんだから所帯を持ってください大王陛下!

 メレアグロス、未婚の二十五歳である。




















「……」

 黄金瞳が苦悩に歪む。
 豪奢にして精緻なる意匠の玉座に腰掛け、肘置きに頬杖をついて眼下を見遣る。
 そこには、大いに着飾り、華やかに自己を顕示する美姫達の姿があった。
 空中庭園ならぬ、空中大宮殿。遥か未来の西暦、遺失建築技術として実在を否定すらされた伝説上の建造物。その主として在るメレアグロスに一切の喜悦はない。元より神の被造物、己が設計したのでもないのに誇るほど、メレアグロスの面の皮は厚くない。

 神々すら羨む黄金の都――世界中より集めるまでもなく参じる麗しい姫ら。

 多種多様、選り取り見取り。まさに圧巻である。肉欲を刺激されぬでもない。それほどに扇情的な光景だ。眼を瞠くに値する美しき女どもが、希世の王の愛を得んとするお見合い大会がこれである。
 ギリシャに収まらず、エジプトをはじめとして、アジアからも人の姫や妖精、女神が黄金王の后の座を望んでやって来ていた。
 それが権勢欲の持ち主だけなら、どれだけ良かったか。
 寧ろ姫らの大半は、純粋に、一切の利害関係なしに大王に恋焦がれ、愛を得たい一心の者なのである。
 どこで見たのか。西に東に駆け回る大王を目にしたがために一目で恋に落ちたのだという。
 姫らは本気の本気で恋の熱に浮かされ、愛し愛されたいと願っているのだ。どうしてそれを自分如きが無下に出来る?
 黄金の瞳は歳を経るごとに魔力でも帯びているのか、物の真贋、者の真偽、モノの軽重を判じるに長けた慧眼となっていた。故にメレアグロスには、彼女らの恋が本物だと分かってしまう。本当に彼女らは、メレアグロスの心を求めているのだ。

「――とんだ物好きもいたものだ」

 権勢欲にまみれた者が集まると予想し、面倒極まりないことが起こるのが眼に見えていたからこその逃避であり、根回し(・・・)だった。
 しかし、現実の趣は異なる。己を慕う真実の者らで溢れ返る光景には、腹を決めたメレアグロスといえど良心の呵責に苛まれた。

 オレなんぞに、良くもまあ惚れてくれたものだ……。

 呆れ混じりの呟きは誰にも届かない。
 自己評価を誤るほど愚鈍ではないし、他者の想いに気づかぬほど鈍感でもない。しかしそうした部分とは別に、どうしても思うのだ。こんな自分を好いてくれてもどうしようもない、もっと他の男を探せばいいだろう、と。
 一代限りの王権と自ら定め、大神ゼウスに追認して貰うことで確固とした権力を持てぬようにしたのは、身の回りから俗物を遠ざけるためである。しかしそれが逆に、集まる女達の質を高めることになるとは思いもしなかった。

 アジアの女神がいた。三美神(カリス)がいた。湖の精霊や、名も知らぬ妖精、女神がいて。中にはヘラに仕立てあげられたのか、華美に着飾り満面を朱に染めた守護神ヘスティアの姿まである。
 ヘラの熱い説得に推されての参加であろう。しかしまさか本当に来るとは思ってなく、また本当にヘスティアを嫁に迎えるわけにもいかぬのが現実。
 憎からず想われているのは喜ばしいことだ。しかし立場があまりに違う。人と神は、結ばれるべきではない。
 どうすれば、彼女達が諦めるのか――王権を振るい此処より立ち去らせることは容易い。しかし、真剣な恋心には真摯に答えねばならぬと思ってしまう。
 メレアグロスは心を鬼にし、彼女らの求愛を袖にしなければならない。それが通すべき筋であり、新しい恋に向かわせてやることが、女達に対する誠実さだろうと思う。
 ――が、話はそう単純でもない。
 人の姫は、まあいいのだ。こうまで頭を悩ませるのは、人ではない存在が多すぎるゆえである。相手が妖精や女神ともなると、安易に断るわけにもいかないのが実情なのだ。
 特にヘスティアである。受け入れると、ゼウスが何をしてくるか解らず。受け入れぬと、ヘラの反応が解らぬ。ヘスティア自身にも恩義があり、彼女は正直メレアグロスの好むタイプの女性であったからなんとも言えない。

 本当のことを言うと、ゼウスにも、ヘラにも対応することは出来る選択肢が見えていた。
 それを簡単に決めてしまえないのはやはり、ヘスティアが余りにも魅力的だから。
 彼女を抱きたいとは思う。振り払うに容易い欲望は、血の成せる本来の好色さ故のもの。こんなところで、自分がアレスの子なのだと納得するとは思いもしなかった。

 ――ボクのことはさ、そんな気にしなくてもいいよ。ただちょっとだけ冷やかしに来ただけだし? 戯れだよ、単なるね!

 メレアグロスの眼を見て答えを察したのか。ヘスティアはどこか強がるようにそう言って、自ら去ってくれた。
 ……なんと情けない。こちらから断るのが筋であるのに、それすら叶わぬとは。あの女神には頭が下がりっぱなしである。

 宮廷医として召し上げた、ケイローンの弟子であるアスクレピオス……騎士団(メレアクレイタイ)として招き入れたアポロンの子が、玉座の後ろからメレアグロスに耳打ちしてくるのに、漸くか、と嘆息した。

 群青のヒマティオンを靡かせ、玉座より立ち上がる。

 華やかな宮廷の演舞、艶めく美女らの見えない戦い。それらが、メレアグロスが立ち上がるだけで静まる。美姫らの饗宴の最中、幾日にも亘り沈黙を貫き続けてきた王の明確な動きに、多くの視線が注意深く向けられた。
 メレアグロスは、慎重に言葉を選ぶ。
 予想外に、予想以上に時の掛かった根回し(・・・)である。無為に緊張することなど今更ないが、いざ実行の段になると微かに顔も強張るのを抑えられなかった。

「……(みな)、此度で我が下に集うのは幾度目か?」

 特に声を張り上げるでもなく、王の声は朗々たる響きをもって宮廷全体に染み渡る。
 花嫁の座を得ようとする幾百、幾千もの女達の宴。女同士の暗闘の末、着々と数を減らしていく姫ら。……誰ぞ知ろう、その女の争いを煽ったのは大王の意を受けた者なのだと。
 厄介な女神、妖精を特に重視して蹴落とし、排除し。なんとか手に負える面々だけを残すのに細心の注意を払ったものだ。

 メレアグロスは、言う。疲労を隠した鉄壁の語調で。

「此度で、十回だ。私もいい加減に腹を決め、伴侶となる者を決めることを決意した」

 ざわめきが起こる。
 貧血を起こす姫がいた。
 勝利を確信して笑みを深める美女がいた。
 祈るように、縋るように、媚びるように佇む女がいた。
 それぞれが目を瞠くに値する美しさだ。
 だが、それだけ。メレアグロスは、外見的な美しさには、なんら価値を見いださない。
 魂の美しい者を。気高く、誇り高い、芯の強い者をこそ、メレアグロスは尊ぶ。

「今日、貴様らが此処に来るよりも前に、私の手の者が触れて回ったな。今度で伴侶たる者を決めると。それは偽りではない。既に私は、我が傍に生涯侍ることを赦す者を選んでいる」

 言って。
 ああ、しまった、と思う。

 なんと傲慢なのか。選んだのではない。赦したのでもない。
 選んでもらって、共にいてくれると向こうから言ってくれたのだ。それを、すげ替えての物言いに僅かに自己嫌悪を覚える。



 ――戯けか、お前は。



 真紅の艶髪を夜風に揺らし。地平線の彼方に沈む日輪を背に、丘に立つ女神が罵る声が甦る。

 ――私は神だが。お前の前ではヒトの女である。一度の敗北ぐらい、大目に見てやろう。なに、ヒトとしての友の幸福を願うなど私には容易い。精々、僅かな時の幸せを噛み締めさせておくさ。

 ただ、と。強がる声に、巨大な失意と衝撃の色が滲み。眦に滴を浮かべていることに気づくこともなく。女神は、大王の胸板を力なく叩いた。

 ――ヒトとしての生を終えたなら、お前は私のものだ。覚悟しろ最優王。私は、執念深いぞ?

 押し付けられた唇は、涙の味がした。

 潤み、震える声の、精一杯の強がりだけを残して、女神はそのまま、その場を去ったのだ。

 今。宮廷の隅には、真紅の女魔術師の姿が、影に潜むようにして在る。メレアグロスはその姿を視界に収めつつ、自己嫌悪は己を好いてくれた全ての者への侮辱と心得、言葉を続けた。

「――幾人もの女を同時に愛せるほど器用ではない。私は断じて(めかけ)など取らん。私には一人の女を愛することしか出来ぬ。貴様らが選ばれなかったのは、ひとえに私の器が矮小であるが故だ」

 この期に及び、なお自分を小さく見せようとする己には呆れるしかない。まったく、なんと器の小さいことか。
 国を栄えさせることが出来ても。たった千人の女に報いることも出来ない。また、報いてもならない。
 この二年。一人の女のみを伴侶とすること、妾を取らぬこと、伴侶とする女の存在を諸国に周知し、納得させるのに長い時を要した。
 所詮、この騒ぎは茶番なのだ。女達は、裏で結果の定められていた舞台で踊っていたに過ぎない。――不実の行いに、メレアグロスは苦しんだ。

 泣き崩れる女達の顔から目を逸らさず、直視して、王は努めて冷静に言って聞かせる。そうするしか、ない。

「貴様らはそれぞれが魅力的な女性ばかりだ。どうか、気を落とさずに……」

 新しい恋を探せ、と言い掛けて。
 否、と言葉を呑む。
 言葉は無粋だった。彼女らの啜り泣く声が無くなるまで黙って女達を見詰め続けた。

 やがて。沈黙が横たわると、メレアグロスは、静かに告げる。

「厚かましいだろうが、どうか祝福してほしい。私は此処に、我が伴侶を披露する。

 ――来い、私のアタランテ(・・・・・)

 玉座の間の正門から、一人の深緑の正装を纏った正妃が凛と背筋を伸ばして大王の許へ歩んでいく。
 アタランテ。アルカディアの狩人。多くの女達の只中を真っ直ぐに歩み、妬み、憎しみを受けても、一寸も怯まずいた。
 やがて、姫の一人が祝福の言葉を告げた。
 それが呼び水となって、女達は嫉妬も、憎悪も呑み込んで、アタランテを祝福した。

 アタランテが上座に位置するメレアグロスの許まで辿り着き、大王がその腰を抱いて引き寄せると、その仲睦まじい姿にあらゆる負の感情を覆い隠す歓声が上がった。

「――すまない。オレ(・・)は、こんな形でしか、貴様と共に在ることが出来なかった」

 爆発的に拡大していく、正妃誕生の報せと歓声を聞きながら。
 メレアグロスは、深刻な罪悪感に美貌を曇らせ、小さな声で謝罪した。

 アタランテは、微笑む。

「汝はそんな小さなことまで気にするのか。神経が細いのか、太いのか、よく解らない奴だ」
「……アタランテ」
オレの(・・・)、とは言わないのか?」

 悪戯っぽく歯を見せて、アタランテはメレアグロスの胸に縋りついた。

「――言ったろう? 私は、汝と共に在ると。その言を違えることはない」
「……」
「ただ、そうだな。赦して欲しければ、汝は私に言わねばならぬことがあるぞ」

 メレアグロスは、言葉に詰まった。目を閉じ、穏やかに言う女に、込み上げてくる思いがあったのだ。
 美辞麗句が脳裏に浮かぶ。詩のように軽やかで雅な文言を思い付く。――その全てを。公人として、多言を振るう己をそっと横に置いて。
 久しく取ることの無かった、私人(・・)として、本来のメレアグロスらしく、直接的に言った。

「――愛してる(・・・・)オレの(・・・)アタランテ(・・・・・)
「……ん。私もだ。私の、メレアグロス」

 アタランテは、日溜まりのように明るい、笑顔の花を咲かせて。
 その口を、二人は――


















超巻き展開はここまで。たぶん。

次回から(強制)新婚旅行編


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そしてヒトになる

二日かかった理由。

前話の加筆修正を試み、あ、これ無理な奴や、と諦めるまでに時間がかかりました()
はしょり過ぎて省略してはまずいとこまで略してしまい、キャラが薄く感じられてしまう要因となったキャラの出番削減につきましては、今後書き進めていくなかで可能な限り補填していこうと思います。

















「誰よりも勤勉で、誰よりも高潔」

「何者よりも正統で、何人よりも誠実な人となり」

 ――其れは、失笑すら零れる他人評。獣は嘲笑する。オレほど怠惰で不真面目、不誠実な者は大神ぐらいなものだ、と。

 長年恋慕われていることを知りながら、素知らぬフリをする恥知らず。
 覚悟を決めていながら、行動に移るのに時と手間を掛ける半端者。
 求められる心地よさに胡座を掻き、女神を拒みきることが出来ない優柔不断。
 探せば欠点など次から次へと湧いてくる。何が最優王か。何が完全なる黄金卿。
 オレは女の腐ったような奴だ。何より、伴侶とした女に応えた理由が最悪すぎる。

 好意を向けられ、愛してくれて、
 好いてくれたから(・・・・・)好きになろう(・・・)なんて。

 ――そう。他者へと抱いたオレの愛は、鏡が如き反射に過ぎない。
 最初に好いてくれて、愛してくれたのがアルカディアの狩人だっただけなのだ。もしも他の誰かと、今の伴侶との出会いの順を入れ替えたなら、そっくりそのまま入れ替わった誰かを伴侶として受け入れていただろう。
 自分という人間性を知るが故、オレはそのように思う。こんなものが本当の愛であるはずがない、と。
 こんなオレが王の中の王などと嗤わせる。所詮は山野を駆け回るが相応の身の上だ。狩りに生きるだけの獣の方がまだ純粋で上等だろう。 オレは、畜生だ。
 ゼウスの血が流れているのも納得出来る。オレはヒトを愛する資格がない。そも、愛することも出来ない。
 父母に生きる理由を託す惰弱さが証明している。父と母を、弟や妹達をオレは真の意味で愛せてなどいないのだ。
 反射の愛を、どうして真と言い張れる?

 ――いいや、汝は私を愛している。

 隠し立てする卑怯を許せず、本心を吐露し、失望されることを望んだ。その行為だけでも身勝手な独り善がりと言える。
 だが深緑の狩人はそれでも確信を持って断言した。

「何故なら、私が汝を愛しているからだ」

 迷わず、激さず、疑わず。衒いのない佇まいで、狩人は真摯に糺す。

「汝は鏡なのだろう? ならば私の愛が曇らぬ限り、汝もまた曇ることはあるまい。なんの問題がある」

 愁いの籠らぬ晴れた瞳の、なんと美しいことか。オレは思わず反駁した。それでいいのか、と。このような不実を赦していいのか、と。
 愚問だな、狩人は苦笑した。

「出会った順番など、そんなif(もしも)を論じてどうする。私と汝はこうして出会った。なら、それが運命だったんだ。"もしも"なんて考えるだけ不毛だろう。私は汝と出会った幸運を喜ばしいものと受け止めているのだから、汝も悩むことなく全てを受け入れてしまえ」

 なるようになり、ならぬのならならぬ、と?

「後ろ向きに生きてなんになる。私は今、幸福だ。つまらない雑念なんて投げ捨ててしまえ」

 反射の愛、大いに結構。
 愛する限り愛し続けてくれるなんて、それは真実の証明に他ならない。
 自らの愛を、自らが本物と断じるだけでそれが本当になるのだ、これほどわかりやすいものがどこにある?
 それに、だ。

「汝は愚か者だ。自ら定めた規定を遵守することにかけては、右に出る者のいない頑固者でもある。汝が汝で在る限り、メレアグロスという男は決して誰をも裏切らないだろう」

 だから私にはなんの憂いもないんだ、と狩人は矢のように直線的に言い切った。

 ――そうか。貴様の中で、オレはそんなにも直向きな男なのか。

 そう在れたならどれだけいいか。……いいや、斯く在れかしと、自らに任じるべきだ。そうでなければならない。さもなければ、オレは……。

「まったく、呆れた男だ。自省癖……否、自罰癖のきらいがあるのか? 少しは楽しむということに向き合ったらいいものを」

 よし、と。なにを思い立ったのか、ヒトの妃(・・・・)は立ち上がった。

「汝は獣であった私を人にしてくれた。思えば私は、汝に貰ってばかりいるな。今度は……私の番だ」

 手を取り、先導するように歩き出す妃に戸惑う。
 どういうつもりだ? 問うと、妃は答えた。

「王ではなく、狩人ではなく、英雄でもなく、賢者でもなく。ただのヒトとして、ただのメレアグロスとして、汝が汝としての愉悦を素直に受け入れられるようにしてやる。――汝に人にして貰った私が、汝を人に戻してやると言っている」

「――」

 その、まったく予想だにしなかった言葉に、頭の中が空になった。
 まるで物心つかぬ幼子を連れるように宮殿を後にして、大王夫妻が向かったのは、黄金の都の城下街である。

 まるで別人のようだった。

 妃は普通の女のように我が儘を言って男を困らせ、普段は見向きもしない宝石を求めた。
 揃いの狩り装束を求めて、羽根飾りのついた帽子と外套を身に付けて、山に入って獣狩りを楽しんだ。
 怪物的な人喰い獣。醜い獣。雷電の幻想種。中には二人がかりでいかねば取り逃がしかけた竜もいた。
 狩った獣の数を競い、負けたら地団駄を踏んで悔しがり、勝てば歯を見せて笑って得意ぶった。――これまで見たことのない顔と、声。
 隠していたのではない。ただ、照れ臭かったから見せていなかった顔を、剥き出しにしているだけなのだ。
 楽しむというのは、こういうことなのだと、涼しげな美貌を朗らかにし、照れ臭さは流石にないわけではないのか、頬を桜色に染めて。
 オレは、現金なもので。
 釣られるようにして、相好を崩し。
 最初は意識して笑顔を作って。次第に、心に燻っていた蟠りがほつれていった。

 そうして、怠惰な獣はヒトになる。




















 幸せの絶頂は、まだ先だと思う。
 それでもメレアグロスは幸福だった。自分などには勿体ない伴侶を得られて。穏やかな日々を過ごせて。こうして、満たされたまま生きられたならどれだけいいかと、本気で夢想した。
 アタランテは、先日に見せてくれた無垢な笑顔は見せなくなって、いつも通りの涼しげな表情に戻っていた。時折、あの時の顔を見せてくれと頼むと、恥ずかしげに俯く様を見せてくれて、なんとも愛おしい気持ちにさせてくれた。
 まだ確信はないが、きっと彼女はメレアグロスの子を胎に宿している。
 子が生まれるまでは十月十日という。腹が膨れ始めてこそいないものの、今から楽しみだった。

 だが、やはりというか。

 平和とは、長続きするものではない。



 ――黄金の都にある空中大宮殿に、白い腕のヘラが現れたのだ。



 メレアグロスは、まったく感情を見せず、丁重に迎え入れた。
 思えば、ヘラと対面するのはオリュンポス山以来だ。こうして傲慢なる神々の女王の顔を見ると、メレアグロスは自然と"公人"としての仮面を被ってしまう。
 そうせねば、顔が強張るからだ。よからぬ感情を抱いていると悟られてしまうからである。
 女神ヘラは、玉座より下り、歓迎するかのように下座に立ったメレアグロスを親しく抱擁し大袈裟に吟う。

「ああ、久しいわ、可愛いメレアグロス! こうして会うのはいつ以来かしら?」
「牡牛をオリュンポスに届けた時以来だ、偉大なる神々の女王よ」
「そう、そうだったわね! 妾としたことが、もう十年は会っていないかと思ったわ! ……ところで、メレアグロス――」

 ――何故、妾が苦労して推した姉上を選ばなかったのか?

 耳元で、ゾッとするほど酷薄に囁かれる。間近にあるその人外の美貌を横目に見遣り、必ずしも鏡の如くとはいかんか、と女神の偏愛を疎む。
 反射の心を返すには、神と人の心の持ち方が違いすぎる。毒々しいのだ、ヘラは煩わしさすらある。メレアグロスはヘラに平然と告げた。

「ヘラ様は、私の選んだ者が不服か」

 剣呑さは、ない。しかしこればかりは干渉を受けぬという意思に、ヘラは薄い笑みを口許に浮かべ。

「『ふ、ふふ』。『ふふふ』。『フフフフフ』」

「……」

「不服も不服ですとも。されど、可愛いメレアグロスの選んだ娘が悪いわけでもない。妾も素直に祝福しますとも。ええ、ええ、妾のメレアグロスが間違うわけがない」
「……」
「間違うとしたら――ふふ。ああ、メレアグロス、あまり怖い顔をしないで? 此度はそなたにどうしてもお願いしたいことがあってきたのです」

 くすくすくす、と口許を隠して上品に微笑む貞淑神。様になる気品、ともすると眩暈すら起こす神性。メレアグロスは無表情にヘラの肩に触れ、そっと引き離した。

「私にか。今、私の妃が子を宿しているかもしれない。我が師、ケイローンの見立てでも、その可能性が高いそうだ。身重の妻を置いて、遠出するのは気が引けるが」
「あら。あら? そうなの? ならば都合がよい!」

 遠回しに断っているというのに、ヘラはまるで意にも介さない。
 暗喩に気づいていないのではない。気づいた上で、自分の言う通りにするのが最上なのだと信じているのだ。

 メレアグロスは閉口した。喉元まで、激しい罵倒の言葉が競り上がっていた。
 頭に血が昇り掛ける。堪えられたのは、ヘラへの報復策が完成を見ようとしているから。そうでなかったら、腹の底から沸き起こるドス黒い殺意に身を任せ、その細首を絞めていたかもしれない。
 溺愛する孫が伏せるものに、一切気づかぬままヘラは上機嫌に言った。

「昔の話です。イオルコスの現王ペリアースは妾の神殿を汚した罪深き者。これを懲らしめるため、妾は正当なるイオルコスの王アイソーンの子、イアソンが王位に就く手伝いをしようと考えています」

 しかし、と。

「ペリアースめは、なんと遥か黒海の果て、コルキスの秘宝を手に入れて来いなどとイアソンへ難題を出しました。そなたにとっては朝飯前の旅であっても、未熟なイアソンには厳しい。そこで」

 ちら、と。大王に寄り添う妃を。
 文武の要たる賢者を。
 居並ぶ英雄騎士らを。

 最後に、目の前の大王を見て。

「そなたが、イアソンを助けて上げてほしいのです。メレアグロスが味方するなら、イアソンの旅は成功したも同然なのですから!」

 さも名案のように言い。
 斯くて、難行に数えられぬ旅。
 されど不朽の伝説となる、英雄集結の大冒険が始まるのだった。

 ――よもや、大王位に就いてすら、旅に出ることになろうとは。

 ヘラは、言う。一片の陰りすらない善意のままに。

「大王様の新婚旅行には、打ってつけでしょう?」


 















※アタランテ・ストーリー(シンデレラ・ストーリー)
意味  創作でなく実在の人物の話であれば、成功をつかんだ女性は一般にアタランテと称され、華麗に演出されてマスコミなどで報道される。

感想欄からの新たな語源発掘()

すげぇやアタランテ!



ネタバレ。

ヘラはラスボス(裏ボスがいないとは言ってない)

嘘でふ。


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人類史上最初の大型帆船

本作に於けるアルゴー船メンバーは、型月に倣いアルゴナイタイと呼称いたします。や、アルゴナウタイの方が語呂いいと思いますが。














 正当なるイオルコス王はアイソーンである。
 しかし彼の弟であるペリアースが、兄が老境に差し掛かるや王としての使命を果たすには不足であるとし、アイソーンに代わり王の執務をこなすようになった。弟が兄を排して自らが王位に就くのに、そう長い時は掛からなかったのは自明であろう。

 ペリアースはアイソーンの王権の正当性を奪うため、彼の妃や子供を殺害することを企む。元より王妃位を追われたアイソーンの妻は身の危険を感じ取っており、妃はペリアースに追われた時、真っ先にヘラの神殿に逃げ込んだ。
 通常なら神の権威を畏れ、ここで手を引くのだが、王権を欲するペリアースは兄の妃を神殿の中で斬り殺し殺害。神聖な神殿を血で汚したとしてヘラの怒りを買うことになる。

 この時、アイソーンの妃はヘラ像の腕の中に息子のイアソンを抱かせており、さしものペリアースとて手出しできなかった。 
 イアソンこそがイオルコスの正当なる王子であるのは明白。だが、ヘラ神像に抱かれたことのある甥を直接殺めることを躊躇った叔父のペリアースによって、幼い王子は何処とも知れぬ山に捨てられてしまった。そのまま野垂れ死んでしまえ、と呪われて。
 ――しかし、王子は幸運だった。彼はケンタウロス族の賢者ケイローンに拾われ、彼に養育されることになったのだ。
 ケイローンの許で成人した彼は、自らの故郷であるイオルコスを目指して旅立つ。父王は高齢でこそあったが未だ存命であり、王位を奪ったという叔父と話し合って己の運命を明るくしようとしたからである。

 ペリオン山からイオルコスへ向かう途上、若きイアソンはアナウロス川に差し掛かった。
 その川岸に近づくと、そこには一人の老婆がいた。老婆は言う。

「おお、おお、お若いの。儂を背負って向こう岸まで連れていってくだされ。老いた儂には、こんな川はとても渡れたものではない」
「……呆れた婆さんだね。仕方ない、ここは優しいイアソン様に任せるがいい」

 イアソンは尊大に言うも、老婆を背負うことを拒みはしなかった。
 けれども、アナウロス川といえば巨大さで知られる川である。そこを老婆を背負って渡るのは、若いイアソンにも辛いことだった。
 ひーこら言いながら、やっとの思いで川を渡りきる頃には、イアソンは右足のサンダルを無くしてしまっていた。

「まったく、何て様だ。未来の王であるこのオレが……。ふん、まあいい。婆さん、精々この私に感謝しろ。未来の王たるこの私は、君のような老婆であっても見捨てたりはしないのだからな!」

 胸に手を当て、尊大に言い放ったイアソンは老婆を地面に下ろして、そのまま礼も受け取らずに去っていった。
 老婆は――否、老婆に化けていた女神ヘラは正体を明かさず、しかしイアソンが王位に相応しい人物と認め、彼の手伝いをすることを決めた。

 イアソンが故郷、イオルコスに辿り着くと、ペリアース王は宮殿の広間で盛大な酒宴を開いていた。
 ペリアースは立派に成長していたイアソンの名乗りと、何より彼の姿に仰天する。
 
 ――お前は片足だけサンダルを履いた男の手によって命を落とすことになるだろう。

 ペリアースは過去、そのような予言を受けていたのである。そこに、こともあろうに死んだと思っていたイアソンが、予言の通りの格好で現れたのだ。ペリアースは内心大いに狼狽したが、決してそれを表には出さず、柔和にイアソンに応じた。

「戻ったのか、イアソン。死んだものと思っていた。だが良かった、儂はお前のような臣が一人ほしいと思っていたのだ」
「ほお、それはそれは。大変結構、大いに光栄ですね!」
「突然ですまないが、早速お前の知恵を借りたい。もしだ。もしお前が家来に殺されると神から予言されたとしたら、お前はどうする?」

 ふむ、とイアソンは少し考える素振りをして言う。

「そうですね。私ならソイツに、コルキスの金毛羊皮でも取りに行かせますかね。なにしろ金毛羊皮を取りに行って生きて帰ってきた者はいないのですから」

 それは偽王にも名案に聞こえた。ペリアースは膝を打って喜び、イアソンに命じた。

「名案だ! ……うむ、ところで話は変わるが、実はその家来というのがお前のことなのだ。イアソンよ、お前は自らの言った通り、コルキスの金毛羊皮を手に入れに行って参れ!」

 ペリアースは甥が狼狽えるものと思ったが、イアソンは予想に反し冷静だった。
 寧ろ、微笑みすらして。
 冷酷に、猫撫で声で告げる。

「いいでしょう。このイアソンにお任せあれ。ただし――」

 にこり、と好青年のように笑い。

「私が見事、金毛羊皮を手に入れて帰ったなら予言の通りにさせていただくが、如何に?」

 見事な見栄、天晴れな啖呵である。ペリアースは言葉に詰まるも、なんとか応じた。

「い、いいだろう。その時は、イアソンに王位を譲ってやろう」




 















 コルキスとは、黒海の果てにあるという。

 ヘルメス神が遣わした金色の羊の皮から作られた毛皮は、所持した国を富ませる奇跡の力を宿していた。
 故にコルキスは豊かな生活を守るためにも、代々その王家が受け継いでいた。そして、金毛羊皮を失うことがないように、決して眠らぬ竜に守護させているという。
 これまで幾度もこの奇跡の力を求めた者がコルキスを目指して旅立ったが、誰一人帰る者はいなかった。
 イアソンは未来の王である。今は誰も知らないが、いずれは世界に名を轟かせる理想王となる男だ。
 そんな男が、自らの力量を見誤っては話にならない。どこぞの最優王と自分は違う。ああなりたいと憧れてはいても、ああはなれないとイアソンは自覚していた。
 何せ、自分は弱い。あの馬小屋臭いケンタウロスの穴蔵で教えられたのは武芸を除いたものだった。故に、というわけではないが。素人に負けはしないが、武に関してはその道の達人に劣ると認められていた。
 ではどうする。己は戦う者ではない。冒険の旅を己の知略だけで切り抜けても、眠らない竜とやらと事を構えた時、無力な自分だけでは話にならない。

 そこで、イアソンは考えた。

 ――そうだ。オレに代わり、手足となって動く駒を集めてしまえ。

 思い立ったら行動は早かった。コルキスに金毛羊皮を齎したプリクソスの子である、船大工のアルゴスに大人数が乗り込める大型帆船の建造を依頼。五十の櫂を持つ、人類史上最初の大航海と銘打ち、ギリシャ各地の名高い英雄に使者を送り、コルキスを目指す旅の同志を広く求めた。
 もう手当たり次第である。まさか全員が来てくれるなどとはイアソンも考えてはいない。
 来てくれたら御の字、来なくても別に構いはしない、といった軽い気持ちだった。
 英雄を乗せた船の長として、伝説に語られる英雄達のリーダーになる……想像しただけで絶頂しそうになる大胆な発想だ。イアソンは己の思い付きを自画自賛し、ふと悪ノリしてギリシャ西部を束ねる大王にも誘いの手紙を書いた。

 流石に来るわけがないが、イアソンとしては単なる悪ふざけ、憧れの大王に自分の名を知らしめてやりたいと思ってのことである。
 そうして時が少しばかり流れると、各地より我ぞ我ぞと競ってイアソンの許に英雄達が駆けつけた。
 建造された大型船――"快速"を意味する"アルゴー"と、イアソン直々に名付けた帆船の前に、高名な勇者らが犇めく壮観さにイアソンも鼻が高かった。
 自分が呼び掛けただけで、名のある勇士が集まってきたのだ。やはり自分は王者足れる資格を有するのだと誇らしくなった。

「――お前が私を呼びつけた者か」

 四十人近く集まり、予定よりもまだ少ないがそろそろだろう、とイアソンが思っていたときだ。

 イアソンだけではない。この場に集った後のアルゴナイタイの勇士全員の肩に、途方もなく強大な重圧が圧し掛かる。
 全員の視線が、イアソンの許に歩み寄った鉛色の肌の巨人――ネメアの獅子の毛皮を纏う、最強の戦士ヘラクレスに釘付けにされた。

 ふつふつと、心が沸き立つ。イアソンは歓喜に震えた。
 一目見た瞬間に確信したのだ。この男は最強だ、と。そしてこの男が来た以上、失敗は有り得ないと。

 イアソンは辛うじて、表面上は平然と、声を上擦らせることなく応じた。

「――ああ、そうだ。私がイアソンだ。お会いできて光栄だよ、同志。ああ、ところで君の名は? 分かりきってるが、是非君の口から聞きたい」
「私はヘラクレス。求めに応じ、参上した。私の参加を認めてもらえるか、船長」
「認めるとも! 君ほどの英雄を邪険になんてするものか! にしても、見れば見るほど震えてくる――なるほど、君がヘラクレスか……」

 くつくつと嗤い、イアソンは間近で見る無双の大英雄を見上げる。
 妬ましいほど力強い。焦がれるほどにひたすら雄々しい! イアソンは、素直に感動していたのだ。
 故に、彼は意図せずして、大英雄の抱える歪みを突けたのである。
 
「素晴らしい、羨ましい! 確かに噂通りの化け物だ! 安心してほしい。私は君を優遇し、使ってみせる。私……オレと共にいる間だけ、君は化け物じゃあなくなるよ。未来の王を護りし大英雄だ」

「――」

 一瞬。
 ヘラクレスは、目を見開き。

 そして、イアソンを見た。

「……呆れた男だ。自らが何を言ったのか、己でも分かってはいないのだろうな」
「……? なんだい?」
「いや……お前はつくづく、幸運な男だと思ってな」

 何を感じたのか、ちらりと背後を振り返り、ヘラクレスは微かに口を緩める。
 釣られてそちらにイアソンも目を向ける。そして瞠目した。驚愕する余り絶句し、口を阿呆みたいに開けてしまう。

 ――十人を超える勇壮なる騎士を従えた、黄金の"大王"が遠くからやって来ているではないか。

 その、ヘラクレスに勝るとも劣らぬ威風を伴う王に。ただただ全員が魅入られる。
 十数名の名だたる英雄騎士ら……スパルタ王、アテーナイ王を含めた騎士団は、しかし代名詞たる旗と武具を持たず。それぞれが別途の、装いの異なる集団であった。それが意味するのは何か。判然とはしない、しかし、それもすぐに明らかとなった。

 黄金の大王、最優王メレアグロス。

 彼が、余りにも気安く、自然とイアソンの前まで来ると。
 普段の傲慢さを失い、凝固したままの彼に、偉大なる王は高らかに名乗りをあげた。

「我が名はマルス(・・・)。貴兄の求めを受けた大王メレアグロスの遣わした戦士である。オレの参戦を認めて貰いたい」

「……は?」

 思わず、イアソンは目を点にしてしまっていた。


















※なお隠す気ZERO

後世にも正体はバレバレ。


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彼らはアルゴナイタイ






 ――リーダーは誰が良いか。

 何しろ危険な冒険である。死を恐れるわけではないが、死なずに済むならそうしたい。故に可能な限り優れた頭目を担ぎたいと考えるのが人情というもの。
 自然、アルゴー船の船長には彼をと真っ先に目されたのは"マルス"と名乗った無銘の戦士である。
 西ギリシャの覇者にして、その気になれば世界制覇すら容易いとされる大王メレアグロス。その代理として騎士を束ねる力を期待される、出自不明・正体不明の黄金の戦士。
 彼は一体何者なのか。群青のヒマティオンを纏い、漆黒の棍棒に穂先をつけた急造の槍を携えている。背中に垂らした黄金の髪と艶めいた双眸……大王の縁者に違いない瓜二つの容貌だ、只者でないのは確かだろう。

 ――彼本人はほとんど正体を隠す気がないのか、中性的な美貌のスパルタ王カストルが恭しく接するのに全く拒む様子すらない。

「黄金卿」
「マルスだ」
「失敬。……マルス様、どうです? 旅の疲れが溜まっているなら肩でも揉みましょうか」
「不要だ。オレよりもポリュデウケスを構ってやれ。愛する兄にまたほったらかしにされて、可哀想に。不貞腐れているじゃないか」
「嗚呼そんな……わたしはただ、マルス様のお側に侍りたいだけというのに。弟もきっと解ってくれます。ですから一度だけ、先っちょだけでもお情けを……」

 離れていた年数がそれなりのためか、いつになくカストルは積極的だった。
 軽くあしらうようだったマルスも、これには真顔になる。幾らカストルが女顔の優男とはいえ、彼は同性同士など考えたこともないギリシア神話の特異点。男の相手は生理的に無理だった。

 鉛色の吐息を溢し、兄とは違い本当の不死身である弟に声をかける。

「……ポリュデウケス、このねっとりしたモノをオレの側から離せ。暑苦しくて敵わん」
「――は。ほら、兄さん、マルス様が鬱陶しそうにしてますよ。早く離れないとまた腹にパンチされますって」
それ(・・)を待っているのさ!」

 船長選びのための議論などそっちのけ、集まる視線もどこ吹く風。纏わりつくスパルタ王の水月に容赦なく拳を叩きつける戦士マルス。
 恍惚の顔で崩れ落ち、踞る形そのままに足元へ縋りつく王から視線を切り、マルスはげんなりとして言った。

「……ゼテス、カライス! この馬鹿を引き剥がせ。よほど暇らしい、空中遊泳でもさせて遊んでやれ」

 隅の方で、兄弟で睦まじく何事かを囁きあっていた双子の騎士らに命じると、条件反射なのか有翼騎士らは咄嗟に最敬礼で応じた。

「は! 黄金卿のご命令とあらば例え火の中水の中カライスの腕の中!」
「黄金卿ではない。マルスだ」

 ゼテスの戯れ言を綺麗に無視。双子の有翼騎士はカストルを引き剥がし空高く飛んでいく。大王の弟、トクセウスと同じく高所恐怖症のカストルである。きゃあ! なんて女性的な悲鳴を上げ暴れると、あわや墜落しかけること五回に亘る。
 不死身ではない兄を慕う余り、狂気すら帯び始めたポリュデウケスが、兄さーん! と叫んで発狂する。届きもしないのに虚空に手を伸ばす姿は実に悲劇的な絵面だ。

 相も変わらず飽きない奴等だ……マルスは苦笑し、生真面目に深緑の衣を纏う美女、ルミナを振り返る。

 宮廷医にしてアイトリア病院院長でもあり、騎士団(メレアクレイタイ)の一人でもあるアスクレピオスとアテーナイ王テセウス、女魔術師ミネルヴァ、ペイリトオスで身辺を固めた気品薫る貴婦人、ルミナ。その内面より滲み出る豊かな心が、一層彼女を美々しく引き立てていた。

 ああ、とマルスはアルゴー船の乗組員となる者らを見渡し、言う。

「彼女はオレの妻ルミナだ。大王配下の騎士が身辺を警護する程度には重要人物故、不用意に近づくのはお勧めしない。オレは兎も角、騎士らの気性は荒い故な」

 それは暗に、何を言わんとして居るのか。
 殺意も、敵意もない。しかし明確にマルスの言葉の意味を悟った面々である。ルミナなる、噂に伝え聞く大王妃に良く似た婦人に近づけば命はないと察し、何人かの好色そうな男が乾いた笑いを溢した。

「……まったく……心配性だな汝は。自分の身は自分で守れると言ったのに」

 ルミナは仕方無さそうに肩を竦めて、ミネルヴァと目配せし可笑しそうに笑いあった。
 ミネルヴァに、マルスは少しだけ気まずそうな目を向けたが、それも一瞬。マルスは自身に近づいてきた巨躯の英雄に気づくと、親しげに歩み寄って肩を叩き合った。

 そして、思い出したように取り繕う。

はじめまして(・・・・・・)。オレはマルス、貴様は?」
「ヘラクレスだ。はじめまして(・・・・・・)だな、戦士マルス。私の義兄よりも強そうだ。機会があれば腕試しでもしたいものだな」

 獅子の毛皮と革鎧を身に纏った、自身より頭二つは大きい男と見合い、フッと笑い合う。
 纏うのはネメアの獅子を素材にして作った鎧か。背には岩盤が如き棍棒が背負われている。その威容、まさに天を衝く有り様であるが――

 ――更に強くなったか。

 懐いた想いは同一だった。軽くコツンと拳を合わせただけで、互いの力量を察し、心底嬉しくなる。

 無意識に発される覇気のぶつかり合いに、力に生きる勇士らは鳥肌を立たせた。
 直感したのだ。次元が違う、と。
 船の長は両雄のどちらかが相応しいのでは、という声が広まる。ヘラクレスは苦笑し、マルスは失笑した。

「聞こえるか? お前を(かしら)に推す声だ。どうする?」
「面倒臭い。誰がやるかそんなもの」

 からかうように言ってくる大英雄に、大英雄の代理は面白くもなさそうに吐き捨てる。

「大体だ。オレは名も無き一戦士に過ぎん。そんな者が恐れ多くも大英雄ヘラクレスの上役など、冗談でも務められるものか」

 苦笑いを浮かべるヘラクレスの脇腹を肘で小突き苦悶させつつ、マルスはあたかも探し物でもするように辺りを見渡した。

「この航海を企画した、大胆不敵な男がいるのではなかったか。女神ヘラの寵愛を受け、イオルコスへ金毛羊皮を手に入れに行かんと同志を募った者がいるのではなかったか」

 つ、とマルスの黄金瞳が、一人の若者を捉える。
 らしくなく、師にも見せたことがないほど動揺し、緊張に体を強張らせ、金髪の若者――イアソンはその視線を受けた。

 彼にとって、その男は憧れだった。
 理想だった。
 ああなりたいと自らの思い描いた理想王。

 国民全てに敬われ、国民全ての生活を満たした、まさにイアソンの目指す完成形。
 こうまで見事に理想を体現されてしまうと、嫉妬する気にもならない、敗北感すらない王の中の王。

 この男相手にだけは傲慢には振る舞えない。だが、自分を大きく見せたい、認められたいと最も強く願う相手でもあった。
 故に、イアソンは、マルスに向けられた視線に電撃を感じ、魂が奮い立つのを感じた。

「勇者を広く求め、黒海の果てを目指さんとする者にこそ大義がある。さあて、その男の名はなんと言ったのだったか」
「――イアソンだッ! この私、イオルコスの未来の王! アルゴー船を組み上げたこのオレが! お前達を束ねる長に相応しい!」

 堂々と名乗り上げるイアソンは、英雄の煌めきを放っていた。
 未熟で、性根は歪み、自尊心ばかりが肥大した青年の咆哮は、その一撃のみで周囲の雑音を掻き消した。
 ヘラクレスが微笑を湛える。テセウスが興味深げに頷き、英雄を好むミネルヴァが好意的に目を細め、マルスは素直に称賛する。

「ああ、まさにその通りだ。名も無き身より立身せんとするイアソン、この者こそが我らの担ぐべき神輿ではないか? 賛同する者は彼の者の名を叫べ! イアソン! イアソン! イアソンと!」

 イアソン! イアソン! イアソン!

 マルスが煽る。すると、遠くイオルコスの宮殿まで届く歓声が轟き、偽王ペリアースは戦慄した。
 全身を打つ熱気に、イアソンは高揚する。これだ、と思った。ヘラクレスが、メレアグロスが、自分を担ぐにたる存在と認め、それ以外の英雄も認めてくれた。
 やはり、己は王たれる器なのだ!

 増長しかけるのに、いつの間にかすぐ横まで来ていた黄金の英雄が、イアソンにそっと囁きかける。

「――余り力むな。自然体の貴様が一番強い。傲り、弱くなる無様を晒すなよ」
「……っ?! あ、ああ……わ、解ってるっ。今に見てろ、すぐに私もお前に並ぶぞ、大王!」

 ぽん、と肩に置かれた手が、大地のように重く、大きく感じられ、一瞬でイアソンは気が鎮まる。
 折角の興奮に冷や水を掛けられたようだったが、不思議と悪い気はしなかった。

 黄金の大王は笑い、気のない仕草で訂正した。



「大王ではない。今は、ただのマルスだ。采配を期待する、気張れよ船長」
 
























次回から数話、コミュ回。
予定では

1.ヘラクレス
2.ミネルヴァ
3.ルミナ()
4.テセウス
5.イアソン
6.ヘラクレス&イアソン

という感じです。



活動報告で本作に関わる意見を募集してます。
気が向いたら覗いてくれたらな、と。


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最たる者達

一つ注意事項を。

ギリシャ神話は色んな意味でカオスで、時系列がごちゃごちゃです。色んな所で辻褄が合わないので、細かいことを気にしたら夜も眠れなくなります。
なんで、ここではそうなのかー、ぐらい大きく構えてくださると幸いです。














  詩聖オルペウスが勇気の湧く歌を唱え、アルゴー船は大いなる航海に打って出た。

 船出の高揚は未知への恐怖に似る。根源的なそれに浮き足立ち、なかなか落ち着けないでいたアルゴナイタイの面々は、同志との信頼関係を構築する意味合いもかねて船長のイアソンを中心に置き酒盛りを始めた。
 酒の魔力は人と人の距離感を薄くし、恐怖も和らげる魔性のそれ。漂ってくる酒の薫りに釣られ、ヘラクレスも参加したがっていたが、彼の酒癖の悪さを知るマルスはヘラクレスと話がしたくなったと無理に誘い、酒盛りの席から強引に引き離す。
 マルスとヘラクレスは、近況を報告し合う意味も含めて船舶の隅に寄った。
 当代を代表する二大英雄の会話が気になるのか、聞き耳を立てたのはルミナの警護役の騎士らである。特にヘラクレスの獅子鎧を見て目を輝かせていたのはアテーナイ王テセウスであった。



 ヘラクレスは言った。まず始めに倒したのは"ネメアの谷の獅子"である、と。



 今から何年前だったか……義兄の助言に従い、訪れたアポロンの神殿で、太陽神は彼に神託を授けたという。
 "ミュケナイ王エウリュステウスの与える使命を果たせ。我が巫女の呼びし名を受けよ。今日よりその身はヘラの栄光である"と。
 この啓示を受けて彼……ヘラクレスは試練に挑むことになったのだ。

 ――エウリュステウスとは、ペルセウスの血を引くヘラクレスの兄である。ヘラの企みにより、本来ならヘラクレスがなるはずだったミュケナイ王の座に就いた小器の彼は、ヘラクレスが自らに仕えると聞くと大いに恐れ慄いた。
 エウリュステウスは、ヘラクレスに王位を奪われるのではないかと疑ったのだ。故に彼はヘラクレスに対し、絶対に不可能と思われる難題を幾つも投げ掛けることになる。
 そうしてヘラクレスはミュケナイ王に命じられるままに、ネメアの谷に出没するという獅子を倒すことになったのだ。

 ネメアの獅子は母に怪物エキドナ、父に大神に比肩する力の持ち主テュポンを持つ、正真正銘のモンスターである。
 人智を超えた獅子の皮は鋼よりも固く、皮膚の下には筋肉が変化して出来た甲羅があった。のみならず獅子は人類の文明、人理を否定する神獣であり、人が生み出すあらゆる道具を無効化する特性をも備えていた。
 故に獅子にはヘラクレスの剣と矢がまるで通じず、追い詰められた彼は破れかぶれに渓谷の岩盤を引っこ抜き、岩塊で殴り付けたのだ。
 すると、ネメアの獅子はよろめいたではないか。
 打撃がそこそこ効いたと見て取るや、ヘラクレスは躊躇いもせず武器を捨て、獅子が倒れるまで拳で殴打し続けた。更には獅子が動けなくなると首に腕を回し、三日三晩に亘り絞め続けたのだ。正に豪勇無双の豪傑に相応しい豪快なエピソードだが……。

「……そこで毒を試さなかったのはなぜだ?」

 なんとなしにマルスが問うと、鉛色の大英雄はぎくりとして固まった。
 毒。
 人理の範疇に収まらぬ天然の猛毒など、そこらの怪物を狩れば普通に採取できる物だ。竜を殺す毒草も探せばある。
 ヘラクレスの怪力を跳ね返すほど硬いなら、いっそのこと毒でも盛ればよいとマルスは思ったのだが。……ヘラクレスの沈黙に答えを察し、おい、と呆れ混じりにせっつくと、ヘラクレスは観念したのか力なく呻く。

「……それは、思い付かなかった」
「脳まで筋肉で出来ているのか貴様は」

 マルス以外の者が言えばたちまち血祭りに上げられかねない罵倒であるが、ヘラクレスには返す言葉もない。
 頭の出来では義兄の後塵を拝するとよくよく思い知っているのだ。一の反論に十の正論を返され、ぐぅの音も出ないほど女関係で説教された記憶は、今も彼の記憶に残り続けている。こうなったらもう項垂れるしかなかった。

 マルスの微妙なものを見る眼差しに、ヘラクレスは辛うじて弁明する。

「仕方がなかった。毒の持ち合わせはなかった上に、当時は私も若かった。頭に血が昇って、一旦引いて罠を張ることも思い付かなかった。逃げずに戦うことしか頭になかったのだ」
「……だから絞めに掛かったと」

 そもそも戦いになると分かってるなら、最低限の準備ぐらいしておくものだろうとマルスは思ったが、敢えて何も言わないでおいた。
 ここで準備なんて必要ないと言われようものなら、マルスはもう泣きながらヘラクレスを海に投げ捨ててしまいそうだったからだ。
 そんなマルスの内心など知らず、ヘラクレスは神妙に語る。

「最初は良かった。だが時が経つにつれ次第に力を取り戻し、渾身の力で暴れる獅子を押さえつけつつ絞め殺すのも難しかった。奴に引っ掻かれ、私も体中に傷を負ったものだ」
「戯け。打撃が通じるならば他にも手はあったろう。手足を折れ、牙を砕け。絞殺は四肢を封じてからだ。……なぜそうしなかった? 貴様の膂力なら可能だったろう」
「……」
「おい」
「……昔は私も若かった。今なら、そうしていただろう」
「……」

 別に若さは免罪符にはならないのだが。マルスが白い目でヘラクレスを見ると、彼は居た堪れなさそうに目を逸らす。
 誤魔化すようにヘラクレスは続ける。獅子を倒すと、奴は天に登り獅子座になった、と。どうでもいいな、とマルスは空を見上げた。
 赤みを帯びた日が暮れ始め、アルゴー船は錨を落として航行を中断していた。やがて船員らが二人を囲み、両者のやり取りに耳を澄ませるようになってもまるで気にする素振りもない。
 良くも悪くもヘラクレスは細かいことなど気にしないし、マルスはマルスで大勢に囲まれることに慣れていたのだ。

 酒が飲みたい気分だ、とヘラクレスが溢すとマルスは即座に言う。貴様の酔っている所を見掛けたら、オレはすぐに貴様を海に捨て、そのまま置いていくぞ、と。
 やると言ったら必ずやるのがメレアグロスである。その代理足るマルスでも同様だろう。ヘラクレスは残念そうに諦め、大海原の重厚な潮騒に耳を傾けるように静々と言う。

「――次にミュケナイ王の指示を受け、挑むことになったのはレルネーの沼に住む九つの頭を持つ蛇だった」

 名はヒュドラ。触れただけで全生命体を絶命させる宇宙最強の猛毒を有する、ネメアの獅子以上の化け物。
 近寄るだけで体が麻痺しかけ、ヘラクレスは神の祝福を受けた聖布で口と鼻を覆って戦うことになった。
 死闘だった。幾ら首を切り、吹き飛ばしても次々と再生し、最初よりも首の数は増えていったという。
 最も多かった時など、首の数は百にも届いたものだ。百の首から一斉に毒を吐きつけられ、猛毒の津波を乗り越える羽目になった時は死を覚悟したほどだ。
 死闘の最中、ヘラクレスは百頭を同時に射殺す武技を編み出したが、それも無意味。確実に甦るヒュドラを前に万事休すかと思われたが、ヘラクレスが吹き飛ばした首の傷口を、従者が不死をも焼き払う聖火の松明で焼き、再生を阻害して回ってくれたおかげでなんとか活路を見いだせた。
 しかし最後に残った巨大な首は本物の不死であり、如何なヘラクレスといえど退治することは能わず、やむなく大岩を持ち上げて不死の頭を潰し、そのまま埋めて封印したらしい。

「無我夢中だったが、おかげで長年追い求めていた武の頂きを垣間見れた。従者のイオラオスなどは"射殺す百頭(ナインライブズ)"と呼んでいたが……名前負けしない形には仕上がったと自負している」
「それは興味深い。どんな業なんだ?」
「明日、日が高くなったら拳闘をしよう。その時に見せてやる。大王の代理足るお前には、是非とも体で味わって貰いたい」
「ほう……面白い。大王の代理足るオレは逃げも隠れもしない。受けて立とう、オレも貴様に見せたい業がある。楽しみにしておけ」

 にこやかで、なごやかなやり取りだった。

 だが、英雄達が総身に鳥肌を立たせるほどの猛烈な気迫が渦を巻いている。
 物理的な壁で上から押し潰されるかのような重圧と緊迫感。息を詰まらせる者がいる中、そういえば、とヘラクレスはぽつりと呟いた。
 ヒュドラとの戦いの最中、巨大な蟹が現れたような気がする、と。まあ簡単に踏み潰してしまったのだが。

 エウリュステウスは、ヒュドラ退治は従者の助けなく成し遂げられたものではなかったと言い、それを口実に功績を無効にしたらしい。
 それはまあどうでもいいな、とヘラクレスはおおらかに笑った。
 しかしそれに、マルスはこめかみの血管を怒張させた。マルスはヘラクレスほど寛容ではなかったのだ。公正な性質である彼は、エウリュステウスの不正を知り、ヘラクレスの試練が終われば必ず相応の償いをさせると内心誓う。

 それよりも、とヘラクレスは思い返す。

「ヒュドラを退治し、帰路についた時のことだ。私がリビアを通り掛かると、アンタイオスという男に戦いを挑まれた」

 アンタイオスとは、海神ポセイドンとガイアの息子である。

「これが強かった。何度倒しても復活し、際限なく力を高め、力比べで互角に持ち込まれたものだ」

 最終的にヘラクレスは、彼は大地に触れていなければ無限の力が得られないというアンタイオスの弱点に気付き、アンタイオスを持ち上げそのまま絞め殺したのだが。

「純粋な力比べでヘラクレスに並ぶか……」
「種のある力など、解き明かしてしまえば如何程のものでもない。私としては最後の結末は興醒めだったな」

 技は拙く、武技に於いても無双の領域に立つ最強の英雄であるヘラクレスからすれば、アンタイオスは余りに未熟過ぎた。故に力が互角でも容易に持ち上げられる無様を晒す。
 力に溺れ、操る術を持たなかったアンタイオスの不覚であろう。後悔は先に立たず、あわれ冥府へ旅立つ羽目になったのだ。

「ある意味で最も手こずったのがケリュネイアの鹿だな。何せ傷一つ付けずに捕らえよなどとアルテミス神に厳命されてしまった」

 第三の難行、ケリュネイアの鹿の捕獲である。
 アカイア地方にて。月女神アルテミスの戦車を曳くのは、彼女の聖獣で、黄金の角と青銅の蹄を持つ五頭の鹿の兄弟であった。
 ある時、アルテミスはうっかりこの聖獣を逃がしてしまい、慌てて捕まえに行った。だが、四頭は無事に捕らえられたものの、五頭目の牝鹿はアルテミスですら捕獲の能わぬ速さを誇っていた。
 弱り果てたアルテミスは、試練に挑むというヘラクレスのことを知り、エウリュステウスに彼に捕まえさせるよう依頼。女神でも無理なら捕らえられるはずもなしとエウリュステウスもたかを括り、斯くしてヘラクレスはケリュネイアの鹿の捕獲に出向くことになった。

 適当に罠でも仕掛けて捕まえようとしたが、ケリュネイアの牝鹿は賢く、とても罠にかかるような獣ではなく。かといって足の一本でも圧し折ろうにも、女神が「やだやだ傷つけちゃやだぁ!」と駄々を捏ねるものだから、ヘラクレスはやむなくケリュネイアの牝鹿の行動パターンから好むもの、縄張りとする範囲を慎重に割り出し、確実に捕まえるために池の前で数ヵ月間身動きもせず潜伏。
 池の間近。木の上で気配を殺し、待ち構えるヘラクレスに気づかず牝鹿が真下を通り掛かるや、一瞬にして飛び降り制圧することに成功した。
 要した時間は一年である。

「……」
「……」

 女神のわがままに、英雄二人は遠い眼をした。

 とても他人事ではない。マルスはぽつりと溢した。

「……大王も、ヘラ様に苦労させられているようでな。振り回されること既に十回を超えたそうだ」
「……? 私が聞いた話だと、メレアグロスは四つの難行を成し遂げたと聞いたのみだが……?」
「……覚えておけ、ヘラクレス。憎まれるより、好かれることのほうが、逆に災いを齎すものもある、とな」
「そうか……。……その、元気出せ、と大王に伝えてほしい」
「……」

 込み上げるものに、マルスは上を向いた。堪えるのは、遣る瀬なさである。
 哀愁の漂うこと枯れ木の如し。流石にアルゴナイタイも同情を禁じ得ないようで、イアソンですら貰い泣きしていた。……彼は泣き上戸らしい。

 微妙な空気のままヘラクレスは語る。
 次なる難行は、エリュマントスの猪の生け捕りだった。
 それ自体は何事もなく簡単に終わってしまったが、この時ケンタウロス族といさかいを起こし、ヘラクレスに泣かされた連中がペリオン山に逃げ込み、酔っていたヘラクレスは弓と毒矢を手に追い撃ち殺した。後からそこがケイローンの住処と気づき、血の気の引く思いだったという。
 マルスは、ヘラクレスに言った。

「ヘラクレス。貴様、今後一切の飲酒は控えろ。その酒癖の悪さはいつかその身を滅ぼす」
「む。しかし、流石に酒なしにはやってられんのだ。私の気持ちも解って欲しい」
「……ならせめて、酒を飲むのは、オレか大王の目の届くところだけにしろ。酔った貴様を止められる者など、この地上にそう何人もいない」
「……酔った途端に首を絞められ、オチるのはもう懲り懲りなんだが……」
「なら禁酒するんだな。悪酔いする者に慈悲はない」
「……」

 頭ごなしに叱ってくれて、いざとなったら力づくで止めてくれる者など義兄だけであった。故にヘラクレスはどんなに酷い扱いを受けても、メレアグロスにだけは頭が上がらない。――その代理にも。
 ヘラクレスは不満げに眉を顰め、泣きついてくる酔っ払いイアソンから酒を奪い一気に飲み干す。
 呆れながら酒盛りを再開する連中を見遣り、やがて酔いが回り始めたヘラクレスが暴れそうな気配を出すと。

 マルスは嘆息してソッと立ち上がり、ヘラクレスに足払いを掛けて転倒させ、素早く首に腕を巻き付けて圧迫。瞬く間に意識を奪って鎮圧したのだった。


















書いてて思ったこと。

こいつら人間じゃねぇ!(今更感)


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神の堕落(上)




 威風堂々足る勇姿を見よ。
 彼の者こそ女神の栄光(ヘラクレス)、最強の誉れ高き無双の半神。
 巌の如き拳、山脈の如く隆々とした筋骨、盛り上がった雄々しい体躯。人間離れした力の顕現、神をも破る勲の塊。
 体幹は揺るぎなく。重心は低く。掌は柳のような(やわら)の形。自然体の脱力姿勢、力無く大力を宿す矛盾無き武の真髄。
 完成したと嘯くのに一寸の法螺なし。立ち姿一つ取っても圧倒的の形容以外相応しからず、あらゆる賛辞を陳腐に堕とす神域の存在力。
 感嘆する。流石の威圧、ぶるりと震える体は悦んでいた。それでこそと、強がる意気に我を見る。

 彼は当代――否。過去・現在・未来に於いて間違いなく最強の戦士だろう。

 それと。
 真っ向切って対峙する、我が身の栄誉。

 ヘラクレスに合わせるようにして、マルスもまた右足を引いて腰を落とした。
 肘を胸の前で閉じるようにし、双拳を眼前に掲げ、身を半に開き、肩と背から力の緊張を抜く。
 圧倒する武威はない。されど、到達した者のみが有する唯一性の美々しき構え。

 潮騒が、ざぁ、と寄せて大船を彩る。甲板の中心で向き合い、周囲を囲う英雄五十人の見守る中、日輪を頭上に戴いていた。

「……」
「――」

 師を同じくし、共に神域を踏破した驍勇の武人ら。全なる力の基盤に基本を敷き、今や並ぶ者など互いしか有り得ない。
 なんたる僥倖なのか。充溢する闘気が互いの存在に呼応し、天井知らずに高まり続ける。
 両者は久しく向き合わなかった同胞と対峙し確信していた。
 まだ、自分は強くなれる――それが嬉しくて嬉しくて堪らない。未来、更に強くなった好敵手と戦える予感に歓喜した。

「始め」

 審判として立つのは、絶壁の如く武張った威厳を纏う、真紅の女騎士ミネルヴァ。キツく引き結んだ唇が、端的に開戦の合図を奏でた。

 瞬間。世界から音が消える。

 刹那に彼我の間合いを喰らい、撃ち放たれた拳が破壊の鎚となってぶつかり合ったのだ。
 撒き散らされた衝撃波に船が揺れる。潮を揺らがせ大海が振動し、ミネルヴァの張った結界がたった一撃で大いに軋んだ。
 ――所詮は挨拶代わり。
 苛烈な手合わせを済ませ、肉食獣の笑みを浮かべる栄光の戦士。彼は獅子鎧を脱ぎ捨て、鍛え上げられた上身を晒す。
 獅子の鬣の如き長髪を潮風に靡かせ、黄金の貴人もまた群青のヒマティオンを脱ぎ、全身を覆う不可視の鎧を宝玉として外しミネルヴァに投げる。人体の黄金律とも言える調和の取れた白い半身を惜しげもなく晒して、男たちは正々堂々裸一貫となって向き合った。

 心之臓を握り潰さんばかりの鬼気が天地に満ちる。

 満面の笑みは牙を剥く獣のそれ。
 黄金の英雄は、声もなく語る。

 ――敗北とは、即ち予測の上を行かれることを言う。

 貴様はオレの予測を超えるほどの成長を遂げられたのか。
 オレは貴様の予測を超えられるまでに至ったのか。

 試し合いに言葉は要らない。微動だにせず睨み合っているように見えるのは弱者だけ。武に長けた一廉の勇士のみが、マルスとヘラクレスが徐々に間合いを詰めていることに気づいていた。
 腹の探り合いは不要。ただ己にとっての最適の呼吸で、敵手の呼吸を乱して気を呑まんとしている。
 獣ではない。武に拠る生粋の戦士である。五体余さず精密に操ってこその武人。脊髄反射だけで戦うのを野蛮と言い、知恵のみで戦った気になるのを愚者と言うのだ。
 天賦の才に驕るは二流。確たる練磨に浸るだけでも二流。一流とは双方を過不足なく合一させたモノ。無双とは理論を含んだまま論理を超えた領域を言う。

 ――では。無双の先に有るのは何か。

「   」

 ヘラクレスの拳が、マルスの体の正中線を照準する。
 黄金の瞳が稚気に歪む。"狼の狩りを教えてやろう"――ゆらりと狼の気配が溶けて消えた。
 地を縮する幻惑の歩法。瞬間移動に等しい神業の一歩。トン、と気配なく大英雄の死角となる背後に現れ、颶風を纏う首狩りの裏拳が振るわれる。
 転倒するようにして前傾となり、ヘラクレスは片手を地に着いて軸とするや独楽のように回転して背後に廻し蹴りを見舞う。
 裏拳を振るった力の流れに逆らわず、回転しながら膝を着き、頭上を掠める丸太のような豪脚を回避。そのままヘラクレスの体を支える軸の手を足刀で薙ぐ。
 一瞬、ヘラクレスの巨体が宙に浮いた。回転は止めず加速、更に威力を乗せた脚撃がヘラクレスの側頭部を襲った。
 クリーンヒット。脚に確かな手応えが返る。頭部を支点に、ヘラクレスが風車のように空中で回った。巨漢が両手を甲板に着いてなんとか体勢を整えようとした隙に、追撃となる下段足刀を喰らわさんとし――下顎に掬い上げるような脚撃を叩き込まれ、たたらを踏む。
 追撃を断たれた。器用にもヘラクレスは、宙を舞う我が身を制御し、手を甲板に着いた瞬間に反撃の一手を打ったのだ。
 曲芸のように両手を着いたのと同時、巧みに体軸を移動させつつ、後方に下がり様に下から蹴りを放つ。言葉にすればそれだけだが、追撃を断ちつつ仕切り直し、距離を置き息を整える妙手と言えた。

 まんまとマルスのペースを乱し、今度はこちらの番だとヘラクレスが魔速にて踏み込む。
 初動にて全速。腰溜めにされていたヘラクレスの拳が、マルスの腹を抉らんと大気を奔る。
 宇宙に風穴を空けんばかりの破界の拳撃。神鉄をも砕く巌の拳。ヘラクレスの最速、最高の打撃力を誇る無窮の技撃。
 防御は不可能、一撃必倒のそれ。
 マルスは滑らかに腕を廻す。肘を曲げ、ヘラクレスの左拳を左掌で受ける。貫通しそうな衝撃を食う前に、左掌を腹の前から左後方に向けて閉じるように流す。脇腹を掠めていく拳。流された拳の威力に、ヘラクレスは自身の体を引き摺られ微かに体軸が流れた。
 ぎら、とマルスの黄金瞳が光った。半歩進んで間合いをゼロとし、右掌を上に向け、側上に引き起こす。肩を沈め肘を下げ、力が掌に達するのを意識しつつヘラクレスの下顎を捉えた。

 だが。

 ヘラクレスの空いていた右手が、顎を守るように置かれていた。
 読まれていた――同時、ヘラクレスの左腕がマルスの腰に絡み付き、甲板に引き倒される。転倒した瞬間に顔面に下段正拳突きが叩き込まれ、視界が白熱して意識が刹那の間よりも短く飛んだ。
 だが、ヘラクレスにはそれで充分。マルスの胸板に爪を立てるように掌を撃ち込み、筋肉を貫いて骨を掴んだ。激痛に意識が戻る。マルスが対抗するよりも先に、今度は左手だけでマルスの体を持ち上げ宙に投げる。落ちてきたマルスを自らの頭突きで受け止め、マルスの背中を頭頂部に置く。左足と右腕を捕まれ、背骨をへし折らんと海老反りに張った。

 鮮血を吐きながら苦悶の雄叫びを上げ、マルスは左肘を振り上げヘラクレスの横っ面に叩きつける。一度、二度、三度。堪らず手放したヘラクレス。なんとか脱出したマルスを見て、ヘラクレスは血の混じった唾を吐いた。

「……やるな」
「そちらこそ」

 全く、なんて奴だ。呆れてものも言えない。
 だがそれでこそだ。それでこそ倒し甲斐があるというもの。
 再び構えを取る。決着を見ねば気が済まないほど高揚していた。まだやれる、なら戦う。
 闘争本能に火が点いてしまった。再度、己の全てをぶつけ合わんとする。
 ――すると、両者の間に泡を食って割って入る者がいた。

「待て待て待て待てぇぇえっっっ!?」

 イアソンであった。彼はもう慌てふためき、二人の間に入ると両手を広げて休戦を乞う。

「そこまで! そこまでだお前たち! これ以上は私の船が沈んじゃうじゃないか!? 少しは手加減しろぉ!」
「……」
「……」
「二人してそんな不満そうにするなよ頼むからさぁ! 船長のオレが頼んでるんだぜ?! ここはオレの顔を立てて終わりにしてくれよ!」

 余りにも必死なもんだから、マルスとヘラクレスは仕方なく妥協することにした。
 不完全燃焼で終わるのは赦せない。故に、

「――了解した。次の一撃で終わらせる」
「いいだろう。イアソン、お前が最強と呼んだ男の力、ここで見せてやろう。刮目し、私の勝利する様を見届けるがいい」

 違ぁう! 私は戦いをやめろと言ってもがもがもが。――見れば。審判役のミネルヴァがイアソンを制圧し、こちらに促してくるではないか。

 好きにやれ、後悔のないように。ミネルヴァの眼はそう言っている。

 笑う。マルスは右手で拳を作り、腰溜めに構える。全魔力を渦巻かせ、右腕に雷光を集束、加速させる。
 運動量の増大に伴い雷電が散った。マルスの右腕に雷霆が宿ったかのような螺旋の渦。煌めく稲妻は三つの原色を帯びて徐々に回転を激しくしていった。臨界に達し――

 ヘラクレスもまた笑った。右腕を天に翳し、ミチミチと全身の筋肉を膨張させる。
 宇宙に轟く無敵の力。発揮されるのはただの力。無限に湧く規格外の腕力。万物悉くを捩じ伏せる怪力無双。

 見計らったように、両雄は跳躍する。

 螺旋の三原の光を放ち、マルスは吠えた。



「――『火の星、霆の権(グラディウス・フォトン・レイ)』ッッッ!!」



 唸る力の波動。あらゆる局面、あらゆる武具に対応する技巧の究極。
 己の持ち得る全てを。対メレアグロス(・・・・・・・)のためだけに練り上げた一つの形態。
 赴くがままに大英雄は咆哮した。

「――『射殺す百頭(ナインライブス)』」








   †  †  †  †  †  †










 心地よい微睡みの中、懐かしい声がした。

 ――無様よな。吾の仔でありながら、同じ敵に何度も敗れるとは。

 大王は苦笑する。
 尊大な語調に感じ入るものがあったのだ。

 『オレは、負けたのか』

 心の中で呟くと、光の像は剽軽に肩を竦めて肯定した。

 "うぬの敗北(まけ)だ。うぬの編み出した火の星は、星をも砕く百撃の拳に撃ち抜かれたのだ"

 聞いて、失笑する。なんだそれは、と。
 認めるしかなかった。己の完敗を。
 百頭を射殺すという技巧の名に恥じぬ、見事と言うしかない百連撃。一体どうすればそんな真似が出来るのか、皆目見当もつかない。

 "悔しくはないのか"

 悔しいさ。しかし、奴との戦いは、勝つも敗けるも財産となる。オレは、それでいい。
 そう言うと、光の像は嘆息した。やれやれ、と。以前までの毒気が抜けた勇壮な佇まいで。

 "男児たる者がはじめから負け腰でどうする。やるからには勝利以外は認めぬのが戦士の王道であろうが"

 それは、そうだ。しかしオレも強くなっている。それは認めてくれてもいいのではないか。
 オレがそう言うと、光の像は仕方無さそうに腕を組み頷いた。

 "フン。まあ……確かに強くなった。吾もうぬには勝てぬようになったかも、な……"

 ……? 意外だな。その口から、そんな言葉を聞けるとは。
 首を傾げると、光の像は、何かに想いを馳せるように呟く。

 "――うぬに、頼みがある"

 オレに? 貴方が、か。
 録なことをしていない、不肖の子である。彼が自分に頼むようなことなど……。

 "その旅が終わった後でいい。……吾の、娘を頼む"

 ヒッポリュテを、守ってやってくれ。

 その言葉に、オレは。
 メレアグロスは、眼を剥いた。

『◼◼◼! 一体どういう――待て、どこに行く。まだ話は終わってない、待て! 行くな――!』

 ◼◼◼! と。名を呼ぶ声が、掻き消える。

 光の像は、儚く霧散していく。
 名も、姿も、裏返って黒く染まる。

 七つの丘に、神は堕ちた。





「――ッ!!!」




「……マルス?」

 跳ね起きた男、メレアグロスの目に飛び込んで来たのは、気絶していた彼を介抱してくれていた真紅の女神――ミネルヴァであった。


















力が足りず。

娘は、間に合わなかった。


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神の堕落(下)




 真円を描く金の月。

 船首に立ち、月光を浴びる影は二つ。
 手摺に縋って上体を逸らし、ぼんやりと満月を見上げていた男は、女に向けて小さく語りかけた。

「……アテナ。オレは、間違っていたのか?」

 ともすると、男女の逢い引きのようにも見える、秘密めいたやり取り。
 だが、そこに甘い空気はない。思索に意識を傾けながら、心ここに非ずといった風情の男に女神は穏和に応じる。

「知らん――等と冷たくするには、私はお前と近しくなりすぎたか」

 苦笑めいた声音だった。知恵の女神アテナは男、メレアグロスの傍らに立ち、彼に倣うように背を手摺に預け満月を見上げた。
 憎たらしいほど美しい、月女神アルテミスとは似ても似つかない幽玄な美々しさ。アテナは皮肉げに眼を眇て月を見詰め、本音を秘めることなく言葉にする。

「告白すると。私は、私の片割れたる戦神を好いてはいなかった。司るものが余りに正反対ゆえ、水と油の関係だったのだ」
「……」
「しかし認めるべき所はあった。奴は己の子に甘い。厳しくも優しく在れる、狂気とは程遠い男だったよ。奴の領域で、奴を慕わぬ者がおらぬほど、厚く信仰されていたのがその証明だ」

 恐らく。
 時を置き、時代がうつろい、抱える信徒が増すにつれて、奴は主神にも匹敵する神格となっていただろう。
 否、一部に於いては明確にゼウスを凌駕する神となっていたとアテナは睨んでいる。

「とどのつまり、間が悪かったのだろうな。誰も悪くない……いいや、ヘラの暴走を制御出来なかった、我が父こそが最も罪深いと言えよう」
「……ヘラ様を悪く言っていいのか?」
「私の方が強い。何を恐れることがある? 父も、私には強く出れんさ」

 ふん、と鼻を鳴らし、アテナはつまらなげに一応は弁護した。

「ヘラもあれで、悪いところばかりではない。嫉妬が深すぎさえしなければ、ヘスティア様やデメテル様に伍する人格者だ」
「……」
「まあ、それを打ち消して余りある欠点がアレではあるが」

 実際、被害を受ける側にとって、加害者の美点を聞かされたところでなんの慰めにもならないだろう。
 アテナは不思議な心境だった。
 まだ十年も過ごしていないのに、人の気持ちが解るようになってきた。
 弱い人間の立場を理解できて。神の身勝手さや神の独善、神の愚かさをまざまざと見せつけられている。
 自らも神であるというのに、気がつけば人としての立場で怒り、嘆いている自分を、時折り見つけて驚くことも増えてきた。
 これが、弱くなるということか、と。人の肉を纏って生きるのも、悪くはないかもしれないなんて血迷ったことを考えることもあった。

 それもこれも、この男のせいだ。

 アテナは放っておいたらだんまりを決め込む寡黙な男を横目に見る。
 黄金。この形容以外に相応しいものがない、人体の黄金律。魂の煌めき。他を拒み、圧倒する魔性の金ではない。暖かく包み込む暖炉の火のような黄金色だ。
 容姿に惹かれた。強さと賢さに惹かれた。そして、次第にその魂に魅了されて。いつしか、強さも賢さも、容姿もどうでもよくなり。メレアグロスという魂だけを見詰める己がいた。

「悩むな。お前は悪くないよ。メレアグロスはいつだって最善の道を進んでいた。試練も国の統治も、最短で最高の結果を得て、更にその先を見据えた手を打ってもいる。私が認めよう。知恵の女神として。大王メレアグロスに過ちはない。戦神のことを私に伏せていたのは頂けないが、神剣をアマゾネスの戦士長に託し、単身で向かわせたのは最善だった」

 大所帯で動けば、必ず神の目に留まる。それは避けねばならなかったのだろう?
 メレアグロスの思惑を見抜いたわけではないが。人間なら、神に悟られたくない心もあるとアテナは察していた。
 それに。

「頭を冷やせ。お前には優先順位がある。アタランテと己の父母が一番で、二番目に一族のことがあって、三番目に身の回りの者のことがある。……私を優先しないことは業腹だが、まあそれはいい」

 男は何も言わなかった。
 女神には、振り向かない。振った相手を気遣うのは、余りに惨いではないかと本気で思っている。
 バカな奴、アテナは呆れるやら愛おしいやら……それがいいんだ、と心中で溢す。

「メレアグロス。お前は偶々、一度敷いた道を歩んでいる途中に、父の片割れを優先順位の高い所に食い込ませてしまっただけだ。メレアグロスに過ちがあるとすれば……それはお前の人としての心、その弱さによるものだろう」

 強いものを好んでいたのに、そんな弱さが今のアテナには眩しく見える。
 責めることはない。悩むぐらいなら相談して欲しいと思うぐらいだが。
 結局彼は、神という存在とは距離を置くのが正しいと信じ、そしてそれは事実正しいのだ。

「悔いているのか? 神を父だと認めてしまったことを」

 問うと、メレアグロスは答えなかった。

「デミ・ゴッドであっても、お前は人間だ。完璧な存在ではない。間違うこともある。過ちを悔いるなとは言わん。ただ、否定はするな。認めて、次があれば間違わぬようにすればよい。それが……人間というものの特権なんだろう?」

 何も求めず、ただ寄り添うだけの助言に、メレアグロスは努めて無感情に言った。

「……貴様は、解らん奴だ」
「? 私ほど分かりやすい者も中々いないと思うが」
「いいや、貴様は複雑怪奇な女だ。訊くが、何故貴様は自らを袖にした男の許に留まり続けている? オレは貴様に答えを返した時、戦女神と一戦交える覚悟でいた。女神を無下にするということは、そういうものだろう」
「それは……ふむ。何故だろうな。たぶん――」

 首を傾げ、アテナは頭を空にして、自然に言葉が出てくるのに任せてみた。
 自分でも、己の本音を知りたかったから。

「――私はヒトになりたいと、思ってるから、かな……」

 それに、アテナは納得する。
 自分の本音が、あんまりなほど弱々しい未練だと自覚してしまった。
 自分が神でなかったら。人の女としてメレアグロスと出会っていれば。彼は、自分に振り向いてくれたかもしれないなんて――

「……なに?」

 メレアグロスは、思わず傍らの女神を。どこまでも神である存在を見た。
 爽やかに、しかし断固としてアテナは言う。

「忘れろ。ただの戯れ言だ」
「……」
「メレアグロス。私はお前の味方だよ。永遠にだ。女神としても、ヒトとしても……騎士としても。だから……というのもおかしな論法かもしれんが、それでも私を信じろ、私に命じろ。万年に一度、あるかないかの気紛れだ。
 私は、お前の下に立つ。――無償の愛というのも、中々に人の女らしいだろう?」
「……貴様は、」

 言葉に詰まり、メレアグロスは顔を背けた。

「怖い女だ」
「ならお前は、とてもとても、酷い男だよ」

 ここまで言っても、メレアグロスの心は揺れていない。愛する者を決めたからか。
 アタランテめ。憎い奴。仲良くしてやるから死後ぐらいは赦して欲しいものだ……。

「アテナ。頼みたいことが……いや、命じるんだったか」

 メレアグロスは、素直に彼女を信じることにした。
 例え騙されるのだとしても、まあ、彼女なら騙されてもいいか、なんて……血迷ったことを考えてしまった。

「オレの成すこと、その最後の仕上げを、貴様に託したい。聞いてくれ」
「聞こう」

 ――その、腹に秘めた計略に。

 アテナは痛快さを覚えた。神として、罪深い身だからか。いっそ、自分もそうして貰いたいなんて思ってしまった。
 つい、言う。心にもないことを。

「外道め」
「……否定はせん」
「ソレは、お前にとっての毒となる。良心を苛むものとなる。だが……それでもやるんだな」
「愚問だ。ヘカテー神は契約を守った。ならば今更後には退けん。オレに謀られ、生け贄となる見ず知らずの女がどう思おうと、オレはオレの優先する者のために外法に手を染める。ヘラを――神の御座から引き摺り下ろす」

 記録媒体となる水晶を、月を見上げながら無造作にアテナに渡した。受け取ったものを使えば、ゼウスは秩序を司る身として妻を裁かねばならない。弾劾する者が神ならば、なおのことだ。
 アテナが弾劾し、ゼウスが裁く。しかしゼウスは妻に対しては軽い刑罰で済ませるだろう。せいぜいが、アレスにしたように、三ヶ月程度の神籍剥奪と奉仕だろう。
 その隙に――メレアグロスは仕掛ける。失敗は有り得ない。動き出せば一日もかからないのだから。

「いつ動く?」
「それは解らん」
「……おい」
「本当ならいつでも行ける。だが時がない。条件はオレに纏まった時間が……数ヵ月ほどの暇があればいい」
「……本当なら、婚姻騒動さえなければ、いつでも出来たということか」
「ついでに言えば、この旅が無ければよかったんだ。……恐らく、計画の実行はまだ先になるだろう。アテナは天界に戻り、オレに不都合なことが起きないように立ち回ってくれ」
「……私の判断に任せるのか?」
「知恵の女神だろう。下手は打たんと信じてみた」
「……私の使い方をよく解ってるな。やはり酷い男だ」

 微笑み、女神は船首から離れた。
 振り返り、思い出したようにアテナは言う。

「そういえば、気づいていたか?」
「……何がだ」
「お前が暗号として用いるローマ字なる物で、メレアグロスと書いてみろ」

 Meleagros

「それを削ると、マルスになる」

 M (ele) a (g) r (o) s

 マルス。

「そして。"マルス"というのはな――ある地域では、"アレス"と言うらしい」

「―――」

 驚いて眼を瞠くと、既に女神は天に昇っていた。



「本当に、怖い女だ」

 予言、ではないだろう。
 メレアグロスは言葉に出来ない領域で、戦慄に体を震えさせる。

 克明に思い描けた未来。

 ――オレは、また戦神と闘うことになる。

 勝てないかもしれない、なんて。メレアグロスは漠然と思った。

























メレアグロス→マルス
この無理矢理感である。

感想欄でどきりとさせられること幾数回。勘の鋭いヒトは気づいてたでしょうね……。


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レムノス島にて




 航海は続く。

 帆に順風を受けて、潮を掻き分け進む快速の(アルゴー)船。
 青空の下、船長の掛け声一閃、益荒男らは息を合わせて櫂を漕ぎ、黒海の果てを目指した。

 日が昇り、沈む。大海原の航海は、真っ直ぐ進めているかの確信も持てない。夜に浮かぶ北極星を見て方角を確かめ、アルゴナイタイは陽気さを失わず櫂を握った。
 あくる日の朝。船長のイアソンが叫んだ。島が見えたぞ! と。
 手隙の船員が続々と、一目久方ぶりの陸地を拝まんと表に出て、島をその目で見るや歓声を上げた。
 飲み水と食料の備蓄も心許なくなっていた時分である。この島の発見は、彼らにとっては天恵に等しかった。
 イアソンはこの島にて一先ずの休息を取り、鋭気を養って、住民がいれば水と食糧を分けて貰うことにした。果たして、男達にとってこの島は楽園であった。

 此処――レムノス島には女しかいなかったのである。

 レムノス島の女達はアルゴナイタイを歓迎。大いに歓待し、イアソンらはすっかりいい気分となっていた。
 ヘラクレスは興味なさげに島の女に訊ねる。なぜお前達の島には男がいないのか、と。
 その女は答えなかったが、代わりに、みんな死んだのだ、と島の女王ヒュプシピュレは沈鬱に言った。
 このままでは子を成すことが出来ない。だから一度でいい、寝所を共にして欲しいと女達は乞い、アルゴナイタイはそれに応じる。
 イアソンは女王ヒュプシュピレと。船員らは思い思いの美女達と共に夜を過ごした。
 だが、やはりというか、一夜では男と女の饗宴は終わらず、七夜を過ぎても男らは女に溺れていた。

 ヘラクレスは呆れて物も言えん、とアルゴー船に引っ込み。――同じく船内にて夫婦で過ごしていたマルスとルミナに追い出されて途方に暮れた。
 途端、女が群がってくるのに、鬱陶しそうにヘラクレスは振り払う。女は好きだが、この島の女には食指が働かなかったのだ。
 マルス! 教えてくれ、この島には何故男がいないのか!
 ヘラクレスの知り得る中で、義兄は師に次ぐ知恵者である。聞けばなんでも答えてくれると信じていた。阿呆のように声の大きな義弟に、アルゴー船内で寛いでいたマルスは億劫そうに顔を出して言う。

「決まってるだろう。この島の女達が男を殺したからだ」

 マルスはそれとなくテセウスらを遣わせ、島を探索させていた。
 すると、神々の像は一通り揃っているのに、その中には美と愛の女神アプロディーテの像だけがなかったのだ。
 つまり、女達はアプロディーテを崇めていないということになる。愛の女神はこれに怒り、女達になんらかの呪いを与え、男達が相手にしないようになり、これに女らは怒って凶行に手を染めたのだろう。
 ヘラクレスはそれを聞いて納得した。
 夫や子供、父や祖父を怒りに駆られるまま容赦なく殺めるような女など、外見的魅力しか感じられなくても仕方がない。まともなのは女王のヒュプシピュレだけだ、と彼は感じていたのだ。
 特に何かやることがあるわけでもない。ヘラクレスはふらっと島の奥の方に足を向けた。丁度、山の頂上に気になるものを遠目に見つけたのだ。時間潰しに見に行くか、と彼は呑気な足取りで山頂に見える蔵を目指す。

 暇人だな、とマルスは呆れてヘラクレスを見送り、船内に戻った。

 彼からすれば、この島の女は美しくもなんともない。酒でいい気分に酔っていたから覚えてないだろうが、イアソンに今日で島を出ると話を通してある。
 そんなにこの島の女が気に入ったなら、不埒な輩からアルゴー船を守る騎士らとイアソンを回収した後、乗り遅れた者はそのまま置いていくつもりだった。

「……」
「……」

 アタランテ――否、今はルミナと名乗っている深緑の狩人は、簡易なチェス盤を険しい顔で睨み付けている。
 対局しているのはマルスだった。
 台を間に挟んで置かれてある椅子に戻り、どかりと腰を落として、難しそうに眉根を寄せるルミナの表情を眺める。
 ルミナは、そっと手を伸ばす。しなやかな指が掴もうとしたのは、ルーク。

「それは悪手だ」
「……!」

 マルスがぼつりと呟くと、ぴたりとルミナの手が止まった。
 ルミナが上目遣いに夫を見る。首を横に振りヒントはないと身振りで示すと、悔しげに呻いて盤面を凝視する。まるで、そこに答えを透けて見んとしているかのようだ。
 ふと、ルミナは軽く言った。

「……マルス。先を急ぐのか?」
「そうだな。のんびりするのも悪くはないが、急ぎの用が出来てしまった。なるべく、早く終わらせたい」
「ミネルヴァは汝の助けになるために動いているのだろう。なぜ私には何も言わない。私は、そんなに頼りないか?」

 不満げなルミナの手をマルスは軽く叩いた。さりげなく駒の配置を動かそうとしたからだ。
 マルスは何事もなかったように応える。

「いや、単純にオレと貴様の子を慮っているだけだ」
「む。……むむむ」

 手元を見ながら口惜しげに呻き、ルミナは言い募った。

「私は、汝と共に在り続ける。だから……」
「子を流す訳にはいかんだろう」

 ひっそり動く手を抑えられ、ルミナは言葉に詰まる。

「それは……そうだが。汝と共にいたいと思うのは、いけないことか? どんな時も、汝と共にいたい」
「ルミナ――いや、」

 しつこく盤面に伸びる手を、マルスはしっかりと掴み、女の眼を見てはっきりと言った。

「アタランテ。オレを信じろ。どれだけ離れていても、オレはいつだって貴様と共に在る」
「む、むむ……」

 重ねられた手と、盤面を交互に見ながら、仄かに頬を上気させたルミナは観念して肩を落とす。

「……私の敗けだ。まったくもう……汝は段々、狡くなっていく」
「貴様が可愛いから、オレも宛てられたんだ」

 フフン、と得意気に笑い、マルスはチェス盤を片付けた。台も横に避け、ルミナの傍に腰掛けその華奢な肩を抱く。
 密着し、何もせず、ただ時が過ぎるのに身を任せる。
 いやな沈黙ではない。このまま黙って、こうしていたいと思うような、暖色の空気に包まれている。ルミナは、自らの腹を撫で、気紛れのように口を開いた。

「なあ」
「……」
「この子の名は、何が良い?」
「!」

 マルスはその問いに眼を見開いた。盲点だった。
 その反応に、ルミナは眼を細める。

「……名前。考えてなかったのか」
「……」
「私は幾つか考えているぞ。男児ならば"祝福(クレイオ)"、女児ならば"幸運(カリ・ティヒ)"といった具合に」

 呆れたな、と言われ。マルスは悔しげに揚げ足をとった。
 中々に大人げない。しかし彼は真剣だった。

「……双子なら?」
「む」
「男児二人、女児二人の場合は?」

 二人の身長差は、頭一つと少しある。
 自然、ルミナがマルスを至近距離から睨むと上目遣いとなって、その野性的な気品に可憐さを足して見えた。

「……やはり汝はズルい。不利になるとすぐにそれだ」
「……人聞きの悪いことを言うな。オレはそんな言い訳がましくはない」
「ウソだ。言い訳はしなくても論点は逸らすだろう。おかげでいつも私ばかり悩んでしまう」
「……」

 もどかしさを乗せて、渾身の力でルミナはマルスの胸に拳を叩きつけた。
 だが、マルスはびくりともしない。カストルを悶絶させた拳が全く効いていなかった。そのせいか、まるで愛らしい猫が主人にじゃれついているかのような印象が先立ってしまう。
 ばつが悪そうに、マルスはそっぽを向いた。

「……双子が両方男児なら、兄をロムルス。弟をレムスとする」
「む。……両方女児なら?」
「姉をオモルフィ……いやウェヌスタ……ぬ、ぅ……」
「……」
「……女児の場合は、生まれた時に考えよう」
「ばか」

 ク、とマルスは遣る瀬なさそうに呻く。
 久し振りにやりこめた気がして、ルミナは満悦だった。

 不意に外を見ると、日が暮れ、黄昏時となっているようだった。
 時の流れが存外早い。マルスは外に出て、声を張り上げた。テセウス! 叫ぶと、アルゴー船の守衛として立っていたアテーナイ王は即座に応じた。

「ペイリトオスと共に集落に向かい、享楽に興じる戯けどもに申し伝えろ。日が沈み、二刻すれば船を出すとな」
「は! 船長殿はどうなさいますか」
「時間を待つまでもない。今すぐに連れ帰れ。なに、話は既に通してある。否とは言わせん」

 胸を叩き、テセウスは己が盟友を連れて早速駆け去っていく。
 ――それと同時。レムノス島の中心に屹立する山の頂上から、大気を震わす大なる咆哮が轟いた。

「……」

 地響きがする。それは、テセウスがイアソンを連れて来て、引き留めたがる女を引き連れた船員らが勿体なさそうに集まってくる頃には、明らかに地面を揺らす大規模な地震となっていた。
 二メートル半ばの巨体を持つヘラクレスが、急いだ様子でアルゴー船に戻ってきた。
 その手には、紺碧のブローチのピンが握られていた。

「……それは?」
「ああ、山の上に神の財宝蔵があったのだ。その中に、槍投げを助ける物を見かけたのでな、くすねてきた」
「……」
「お前の妻が懐妊しているというではないか。祝い品だ、受けとれ」

 まるで悪びれもしないヘラクレスにマルスは頭痛がして眉を顰めたが、投げつけられたピンを咄嗟に受けとると、あたかも所有者として定められたかのように右手首に巻き付いてきた。
 はあ、と嘆息する。手の焼ける奴だ、と。ピンを外して返却しようとするも、女王ヒュプシピュレは首を横に振った。
 それは貴公に差し上げる。持っていくといい、生きてこの島から出られるなら、と。哀れむような、悲しむような顔で。

 見れば青銅の巨人が、神の血(イコル)を纏ってヘラクレスを追っているではないか。
 盗人行為を働いた不逞の輩を罰さんとしているのだろう。あまりの巨体と重さに島そのものが悲鳴をあげているようだった。

 マルスらは、一生知ることはなかったが、この青銅の巨人の名はタロスといった。

 鍛冶の神ヘファイストスが作り出した神の蔵の番人。
 なぜあんなものをほったらかして此処まで来たのか、ヘラクレスを責めるように睨むも、まるで堪えずヘラクレスは何かを促すように腕を振るった。
 察し、マルスは嘆息する。

「……槍」

 言うと、ささっ、とカストルが手槍を差し出してきた。
 それを掴み、ヘラクレスを睨む。
 要は、試し打ちの的にしろと、そういうことだろう。

 仕方ない、仕方ないから利用させてもらおう。腑抜けたアルゴナイタイに活を入れる意味も込めて。

 槍を振りかぶる。雷電の魔力を纏わせ、やる気の欠けた投槍を以て青銅の巨人を穿った。
 槍は、虚空を駆ける際に、二段階に分けて加速し、威力を高めたようだ。タロスの胸を穿ち、貫通して砕けた槍が、独りでにマルスの手元に戻ってくる。

 どうやら、投槍の威力を高めるだけでなく、槍を主人の下に返す力があるらしい。高速で飛来した槍を掴み取り、大きな地響きと共に倒れたタロスを指差しマルスは言う。

「船に乗り遅れた者。その一秒後の姿があれだ」

 言った瞬間、アルゴナイタイは一瞬にして船に乗り込んだ。
 呆気に取られた女らの顔が見ものだと、愉快そうにヘラクレスが言いながら船に乗り――マルスに殴り倒された。
















尺の問題で、タロスさんにはここで出演()してもらいました。


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騎士か、英雄か

短め。






 テセウス・エヴィエニス・アテーナイ。

 ――其れは誉れある騎士団の長、神の途絶えることなき恩寵に与りし、アイトリア王国藩屏たる正義と真理の忠実な擁護者である我らが黄金卿より授かりしわたしの真名である。

 忠実なる騎士としてただ在るのではなく、王としても偉大に在りて更なる上位者に傅くのを使命とされたわたしが、王位を戴きて大王に拝跪した時。彼の黄金の君は、わたしを指して斯く在れと望まれた。
 清く正しく誠実な貴き一門の党首たること。これ即ち"貴族"と号し新たに"家名"を奉じて一族悉くに法理を敷かん。そして貴き一族の使命として、テセウスを筆頭にアテーナイ王家は未来永劫に亘って人々の善き営み、善き行いを守護する者となる。
 それこそが貴族(エヴィエニス)。これより先、テセウスより端を発する一族は悉くが"アテーナイ"を家名とし、人ではなく、国にでもなく、斯く在るという貴族の概念に忠義する機構となるのだ。



 わたしは、その栄誉に打ち震えた。



 幾度となく打ち倒され、数多の敗北を積み重ねられ、望んだ王位を価値低しとばかりに与えられ、圧倒的敗北感を烙印された。
 絶対に勝てないと確信し。それでも絶対に勝ちたいと渇望し。なお、至らぬ我が無力。わたしは絶望した。何があろうと、憧れ、畏れた黄金卿に手が届かない。
 それでもわたしは幾度となく挑戦した。そして全てに敗れた。徹底的に、完膚なきまでに、決定的に優劣を定められた。
 牙は、折れていない。まだだ、まだわたしは諦めていない、いつか必ず、忠誠を捧げた絶対者に一矢報いる。それだけを望んでいた。
 だが、どうだ。
 彼のために尽くすことのなんと甘美なこと。脳髄が溶け、魂まで魅入られた。
 騎士にして王、世界で"最初の貴族"とされた時。わたしは、痺れてしまったのである。なんとしても屈服せぬと、ことあるごとに反抗してきた大王に、わたしは己の魂魄を歓喜に震えさせて、真実心から膝を屈してしまった。
 屈辱も、悔しさもなかった。はじめからそうしておけばよかったと、むしろ後悔してしまった。だが、

 ――いいだろう。誰よりもまず、貴様の挑戦を優先すると約す。今は我が下で牙を磨げ。

 認められなかった。認めたくなかった。屈してしまってなお、わたしは黄金の君に挑み続けた。
 この挑戦をやめた時。貴方を超えると吼えた青二才だったわたしを、期待するように赦してくださった黄金卿に失望されそうで。
 失望されることを恐れるばかりに、敗けても当たり前だと受け入れてしまっている惰弱ぶりに涙した。
 わたしは、どうすれば良いのか。
 レムノス島より出港し。ドリオニアのキュージコス王に歓待を受けた日の夜。
 わたしは黄金卿に挑み、またしても地面に叩きつけられて敗北した。

 超然と、倒れたわたしを見下ろす黄金瞳。夜の闇の中、瞳だけが妖しく輝いて見えるのは、何故だろう。
 仰向けになり、わたしは溢れてくる涙を懸命に堪えた。

「なぜ泣く」
「己の至らなさが、情けなくて」

 わたしは、悔しくて泣いた。ただ、己の心の変遷を受け入れられなかったのだ。

「わたしは、貴方に勝ちたかった」
「諦めたのか」
「いいえ、いいえ! わたしは諦めてなどいない。けれど貴方に破れても、わたしはそれが当たり前だと、悔しくもないと感じてしまっている! これが堪らなく悔しいのです!」

 涙ながらに喚き、その惨めさに一層、胸が苦しくなる。

「英雄になりたかった。王になりたかった。でも、貴方に出会ってしまって。貴方に憧れてしまって。英雄も、王も、なんとちっぽけなのだろうと絶望してしまった。己の目指すものの正体が、ただ己の欲と見栄を満たすだけの矮小にして下賤なものと知って……わたしは、自分が情けなくて、恥ずかしかった」

 見よ、世に蔓延る英雄とやらを。
 戦場で武勇を誇り、負かした敵の財産や、娘や妻を略奪する醜悪な者。それが英雄。

 刮目して知れ、有象無象の都市国家の王を。
 民より搾取し傲慢にも神の血を引く等と嘯く血統主義。それが名ばかりの王。

 わたしは、そんなものに成りたがっていたのだ。そして成った後に、その醜悪な王として愚挙に手を染め滅びていただろう。わたしにはそれが解った。他ならぬわたし自身のことだ、己の浅ましい本性を、よくよく理解できていた。

「わたしはどうすればよいのです? 教えてください、マルス様。わたしは、何を目指すべきかも、もう、解らないのです……」

 震えて、わたしは縋ってしまった。
 失望されてしまう。見放されてしまう。失言だったと後悔しても遅い。わたしは裁きを待つ罪人のように嗚咽した。

「甘えるな、テセウス・エヴィエニス・アテーナイ」

 その名が、わたしの道となる。

 黄金卿は厳しく叱咤した。それこそが、最もテセウスという者を奮い立たせると知悉するが故。

「貴様にはもう、示すものはない。歩むべき道も、目指すべき姿も、全て貴様の胸中に刻み込まれている。今更何を惑う。貴様が成るべきは英雄ではない、ましてや王者などでもない。その名に恥じぬ者だろう」

 地に打ち捨てられたまま、わたしはこの場を去っていく足音に耳を傾け続けた。
 テセウス、貴き者……。英雄ではなく騎士、王ではなく貴族……。

 わたしは、涙を拭った。急ぎ立ち上がり、主の背中に頭を垂れる。
 生娘のようだと笑いたくば笑え。この醜態はなかったものには出来ない。この胸に刻み、忘れぬようにする。そして、わたしは、そう在ることを誓うのだ。

「貴方に仕えられる名誉、それだけを褒美として頂きたい。願わくば、これからもわたしの標たらんことを」

 答えは、返ってこない。
 しかし確かに、わたしは主の返答を受けた気がした。

 ――またいつなりとも挑むがいい。オレは、貴様の挑戦を待っている。








 











 翌日、アルゴー船は特に何事もなくドリオニアより出港した。
 逆風に遇うでもなく、風雨に妨げられることもない、順調な船出であった。
 予定通りの航路を辿り、計画通りに櫂の漕ぎ手を交代し。イオルコスからの船出より一ヶ月半も経つと、マルスの妻ルミナの腹が膨らみ始め、過酷なはずの航海も辛くはなかった。
 マルスはテセウスを見遣る。
 特に何が変わったわけでもない。しかし彼の者の物腰はどこか落ち着いたように見えた。

 ――英雄は、成ろうと思うものではない。

 気がつけばなってしまうもの。そして、そうなってしまったことを悔やんでしまうものだ。

 ――国王は、憧れや野心故に登極すべきものではない。

 憧れは実態を伴わず、野心は滅びの火種を常に抱かせる。
 英雄への憧憬を捨て、王者の虚しさを知る今のテセウスなら、無惨な末路を辿ることはあるまい。貴きものとして在る、それだけで彼は悠久の時の果てですら英雄と呼ばれるに足る傑物と目されるだろう。
 英雄の名声に喜ぶようでは未熟。王位に驕るようでは愚物。そんな虚飾に惑わされぬ在り方こそが、本物の英雄というものだ。

 ――わたしは、英雄に成りたいのです。

 青二才だったテセウスと交わした、一つの約束。
 彼を、本物の英傑とする。その約定を、

 ――確かに果たしたぞ。後は、貴様次第だ。

 無欲の誠心。どうせ名を残すなら、無窮で在れよ我が愛弟子。
 いや。なかなかに楽しかったぞ。一廉の人傑を育て上げるのは。



 満足げに頷く黄金卿。



 後にこのテセウスこそが、メレアグロス最大の危機を助けることになると、彼はまだ知らなかった。


















最近、マジ忙しいので、二日に一度ペースになってます。
すまぬな!

次回――産まれずの命。


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産まれずの命

二日に一度になる「かも」とは言った。
「なる」とは言ってない()














 女神エイレイテュイアは神々の女王、白い腕のヘラの娘である。
 母の容色の秀でたるを受け継ぎ、司る権能を振るうこと勤勉な神格であった。
 超常の物質的神性を担う神秘の存在でありながら、我欲に薄く、我意の表出を控え、清楚な佇まいで母や父、他の神々の後ろに潜んでいるような女神……。時として苛烈に振る舞うことあれど、それは他の神の依頼によって果たさんとした役目を、他者の思惑によって果たせなかった時のみであり、それは上位の指示に従順な性質を持っていることを示すだけである。
 エイレイテュイアは影が薄く、主張のない、清楚とは言ってもどこか影のある女神だ。
 いつまでも、いつまでも。その在り方を損なうことなく、歪むことなく、ただ存在し続けるだろう。

 ――本当なら、そのはず(・・・・)だったのだ。

 必然の出来事である。
 女神は、狂った。
 自らの母であるヘラが、ここ何年も上機嫌であったのだ。その上、異様なほどに熱を上げて一人の英雄を見守っているという噂まで天界で広まっている。
 一体、何事なのか。あの気難しい母が、自らの嫉妬やなんらかの思惑から来る他者への加護を与えているのなら話はわかる。しかし、そうでなく、純粋な好意と愛を以てして、地上の者を溺愛しているという。エイレイテュイアでなくとも好奇心を刺激され、その人間を一目見ようとするだろう。
 果たして――否。或いは、と言うべきか。他の神々と同じく、ともすると其れ以上に、エイレイテュイアはその英雄に魅入られた。

 ああ、はっきりと言い換えよう。

 エイレイテュイアは、英雄メレアグロスへの恋に落ちたのだ――

 故に、狂った。
 どんな性質であろうと、ヘラの娘らしいとも言える感情を、エイレイテュイアは確かに持っていた。
 英雄メレアグロスの伴侶を決める空中大宮殿での恋愛劇。数多くの美姫、妖精、女神の中に混じって、そこにエイレイテュイアはいた。光輝く高貴なる大王の伴侶となることを夢見て、女神はメレアグロスに熱烈に求愛したのだ。

 だが、大王は。

 メレアグロスは、エイレイテュイアを袖にした。有象無象の如く、見向きもしなかった。
 恋慕った大英雄は、ただの人間の娘を。神の血を色濃く引くでもなく、高貴なる育ちでもない、粗野にして下品、馬の骨のようなみすぼらしい娘を伴侶とした。
 愕然とした。
 エイレイテュイアは呆然とした。
 何故、自分を選ばない? ヘラの娘たる女神を見ようともしない? なぜ? なぜ? なぜなのか?
 恋の熱は、冷めなかった。むしろより一層、狂おしく燃え盛った。
 見向きもされないなど、考えたこともない。神々の女王の娘なのだ、選ばれないなど有り得ないとまで思っていた。

 だからこそ、それは何かの間違いなのだと。あんな人間の小娘を伴侶とするなど、間違っていると思った。

 じっと待っていれば、いつか大王は過ちに気づくだろう。そう思って、暫くは静観した。人間の娘が幸せそうにしているのを、腸が煮えくり返る思いで見過ごした。
 だが、待てど暮らせど、大王はいっこうに間違いに気づかない。それどころか、大王はあの小娘との間に子をもうけてしまった。

 ――嫉妬に、気が狂いそうだった。

 いいや、既に狂っていたのか。エイレイテュイアはその過ちの象徴(・・・・・)が健やかに小娘の中で命を育む様を、憎悪を込めて見ていた。
 何度、呪ったか。
 何度、流させようとしたか。
 だがエイレイテュイアの力は、決して小娘に届かなかった。傍に大王がいたからだ。
 身に纏う、魔術・魔法・呪詛をも問答無用で弾く鍛治神ヘファイストスの鎧。それは神格の権能にすら干渉し、魔術神ヘカテーすら光輝の鎧を纏う大王を害し得ないほど。
 そんな彼と、深い繋がりを持つ小娘は、彼が近くにいる限り、直接触れねば神すら呪い得ない守りを得ていたのだ。
 ――まるで、本当に愛されているようではないか!
 エイレイテュイアは怒り狂い。時を待った。

 司るは、妊婦の出産。権能は、それ。

 アルゴー船の冒険。レムノス島やドリオニアでは、遂に機会は訪れなかった。小娘の腹は、膨れ、このままではエイレイテュイアが立ち会う必要もなく子が生まれてしまう。
 そうなれば、生まれた子はヘスティア様や他の女神の管轄となり、決して手出しできなくなるだろう。それだけは、我慢ならなかった。
 だが、漸く、アルゴー船がドリオニアの次に立ち寄ったミューシアにて、好機は訪れた。

 好色な妖精ニンフが、メレアグロスに魅了され、彼を手に入れようと誘惑に出たのだ。
 メレアグロスは、やはり眉一つ動かさず。淡白に袖にしたが。それで簡単に諦めるような妖精ニンフ――海の精ネーレーイスではない。
 百人にも及ぶ妖精らは海潮を操りアルゴー船の航海を止め、先に進みたくば自分達と来いとアルゴナイタイを脅迫した。が、彼らが応じるはずもなく、アルゴナイタイは逆にネーレーイスを恫喝。このまま航海の邪魔立てをするのなら然るべき報いを与えると言ったのだ。
 武威盛んな勇者らの威圧に、恐れ慄いたネーレーイスらは退いた。しかし流石にただ退くのは業腹だったのか、百のネーレーイスらは海潮を操りアルゴー船を大きく揺らした。そして腹いせに、転覆し掛けた船を慌てて保とうとする船員らの隙を突き、自分達に見向きもしないメレアグロスの妻を拐ったのだ。
 些細な悪戯だったのだろう。しかし、畢竟、メレアグロスは激怒した。身重ゆえ、激しく動くことを躊躇ったが故のアタランテの不覚。予期し得なかった転覆間近の海面の揺れに対応できなかった騎士ら。そして、まさかメレアグロスの妃に手出しする命知らずだったとは思わなかった油断――様々な要因が重なり、ほんの僅かの間のみアタランテは拐われ。

 ――メレアグロスより引き離されたのだ。

 瞬間である。エイレイテュイアは狂喜して権能を振るった。所詮は妖精、瞬く間にメレアグロスに捕捉され間引かれるだろう。そしてアタランテもまた英雄である。決断すればすぐにでもネーレーイスの拘束を抜け出すに違いない。
 機会は一度。好機は一瞬。エイレイテュイアはアタランテを呪った。

 強烈な陣痛。
 未知の痛みへの苦悶、困惑。
 ルミナを名乗るアタランテは、全く予想だにしなかった事態に混乱した。
 子供が、産まれる(・・・・)! よりにもよって、こんな時に! ……否、まだ産まれるには早すぎるではないか!

 アタランテは身動きが出来なかった。必死に息を整え、本能的に体勢を固める。

 そして、アタランテは自らの正気を疑った。

 ――子供が(・・・)消えた(・・・)

 瞬く間に胎盤より流出した子供が!
 大切な、はじめての、メレアグロスとの子供が!

 霧となって、靄となって! 溶けて消えてしまった!



「メレ、……ア……グロス……!」



 引き攣った、喉。我を見失うほど狂乱し、それでも深緑の妃は我知らず愛する男の名を脳裏に満たした。

「メレ、ア――グロスうぅゥゥ!!」

 取り乱していた。錯乱して、泣き叫んでつがいの名を絶叫した。
 それと同時だった。雷光が煌めき、ネーレーイスはたったの一人を残して悉くが焼き尽くされ、鏖殺された。呆然とアタランテを担いだまま、海上に浮遊するネーレーイスは、ただ一人のみ。
 有翼騎士ゼテスとカライスの組んだ肩の上に二本の足で立ち、世界を灼く雷火の槍の巨大な穂先で、最後のネーレーイスを照準している。

 解放された雷火の槍。船の舵の如くに大きな其れが、雷鳴を轟かせながら収斂し、金色に輝く雷霆を宿す火の槍となる。
 その形状は、幅広大型の、三角形の穂先を持つ長槍。斬撃・刺突機能に特化した作りで、刃に殆どの重量が集約されたもの。
 神秘の重さは、神々の武器にも決して引けを取らない。自らに最適の形状を定め、メレアグロスは冷徹に目を細める。
 震え上がったネーレーイスに、絶対零度の声と眼で、マルス――メレアグロスは質した。

「何をした?」

 ルミナ。否、アタランテのあのような声を。悲痛な悲鳴を、魂を引き裂くような悲愴な哀しみを、メレアグロスは聞いたことがない。
 凍える声に。ネーレーイスは、同胞が一瞬で絶やされたことに怒り、憎むよりも。

 ただ、ただ、恐怖した。

「もう一度だけ聞く。……何をした?」

 メレアグロスの問いに、ネーレーイスは強張った喉を懸命に振動させ、声をひり出す。
 あなた様の奥方を拐った、と。

「メレアグロス、メレアグロス! わたっ、私の! 汝の!」
「……落ち着け。何が――」

 と。
 そこで、メレアグロスは気づいた。
 ほんの微かに膨らんでいたアタランテの腹部が、元に戻っていることに。

 殺気に、メレアグロスは眩暈がした。

 自らの強すぎる殺意に、辺り一帯の精霊悉くが狂騒に堕ちる。離れた位置にあるアルゴー船の船員らは身も心も凍りついた。間近にいる有翼の双子については何をかいわんや。
 気絶しかけた瞬間、黄金瞳が向けられ。背筋が凍てつき、意識を取り戻して空中の足場として体勢を戻した。

 近づけ、とゼテスらに命じ、彼らは凍ったままのネーレーイスに近づく。メレアグロスは、アタランテを取り戻し、固く抱き締めた。
 嗚咽し、首にかじりつくようにして抱き返す妃を、慰めるように背中を軽く叩く。

「………オレと、アタランテの子だ。どこにやった?」

 ネーレーイスは、必死に言い募った。知らない、なんのことを言ってる? 本当に知らないの!

 メレアグロスは、それが真実であると見切った。だが、だからと云って罪無しとするほど寛大でもなかった。
 故に獣は、空けていた片腕で無造作に槍を振るう。
 切断面から血も流れぬ斬撃。最後のネーレーイスは、それと自覚する間もなく首を刎ねられた。

 ぇ……?

 断末魔は其れだけ。内臓、脳髄、骨髄、神経、肉体、そして魂。ネーレーイスを構成する総てを滅し、冥府にすら逝かぬよう、徹底して滅ぼした。



 ――笑い転げる女神あり。



 天界で、総てを見届けたエイレイテュイアである。
 嫉妬が晴れる、心が踊る! なんて甘美な復讐なのか。愚かにも自分と大王の間に割って入った人間の娘! 様を見ろ!
 喝采を叫び、女神は呪縛から解き放たれたであろう大王を言祝ぐように見ようとして。

 その、黄金瞳が、地上から天界を。

 天界のエイレイテュイアを捉えているのに気づき、呆気に取られた。

「……え?」

 メレアグロスが、槍を振りかぶった。
 体を捻り、背中が見えるほどに捻転し。

 虚空に躍り出て、投擲。

 世界の境を易々と突き破り、雷火の槍がエイレイテュイアの下腹部に突き刺さった。
 熱い、痛い、アツい、アツい、いたい――女神は悲鳴すら焼かれ、槍ごと引き摺られる感覚に堪らず天界より墜落し、槍共々、メレアグロスの元に引き寄せられた。

 串刺しにされた女神を掲げ、槍を肩に担ぎ、アタランテをゼテスらに預け有翼騎士らの肩より跳躍。アルゴー船の甲板に着地し、槍を振るって穂先から女神の体を抜き取った。
 乱雑に扱われた女神は、白目を剥き、壮絶な痛みに悶えながら気を失っていた。
 メレアグロスは、アルゴナイタイが固唾を呑んで見守る中、無言で女神に近づき、恐るべきことにその腹を蹴り上げた。

 神が不死でなければ万回は死する仕打ち。何度も、何度も蹴り、異様な静寂の末、エイレイテュイアがなんとか意識を取り戻すまで赫怒の打擲は続けられた。

「ゴボッ、コボッ、ゴホッ……!」

 女神が目を覚ます。メレアグロスは、有無を言わさず槍を突きつけ、問うた。

「貴様、なぜ笑っていた?」

 研ぎ澄まされた超感覚は、自身ではなく、アタランテに向けられた嘲笑を聞き取っていた。
 不愉快極まるそれを聞いた瞬間、メレアグロスはその女神の居場所を見抜き、投槍を以てして貫きそのまま手元まで引き寄せたのである。
 無の目線。心が空になっているとしか思えない、無限の殺意。混沌の透明さ。メレアグロスの問いに、女神は答えられなかった。

「貴様、名は? ……いや、そういえば以前、見たことがあるな。エイレイテュイアか」

 つまらなげに呟き、正体を言い当てられ、エイレイテュイアは体を凝固させた。
 その反応だけで十分だった。産まれるには早すぎるアタランテと己の子。生まれを早めさせられるのは、出産を司る女神エイレイテュイア。
 以前会ったことがあり、更にこのエイレイテュイアは、あの(・・)ヘラの娘だ。
 動機も、能力も明らか。メレアグロスは無慈悲に槍を持ち上げ、エイレイテュイアに穂先を向けた。

「――止せぇっ!」

 そこに、恐怖に固まる女神と、空間を歪めるほどの殺意を放つメレアグロスの間に、アルゴー船の船長が割って入った。
 眉を顰め、メレアグロスは訊ねる。

「どういうつもりだ」
殺すな(・・・)っ! 女神を、殺すな!」
「……何を馬鹿な。神は不死だぞ?」

 必死の形相のイアソンに、メレアグロスは失笑して言った。
 そう、神は不死である。故にこれは、ただの復讐。究極的なハラスメント攻撃でしかない。
 だが、イアソンは確信を持っているようだった。怯えながら、震えながら情けなくも恐怖に泣き出しそうになりながらも、船長として船員を制止する。

「殺せる! お前なら殺せるんだろう、マルス!?」
「……」
でなければ(・・・・・)、お前が槍など取り出すものか!」
「っ、」

 イアソンの知るマルスという男は、必殺を誓った時にしか得物を抜かない。戦場での武器壊しの逸話から見ても、メレアグロスは決して無用な殺戮を好まない。
 ましてや戦う意思も力もない女神を相手に武器を構えるなど、とてもではないが考えられないのだ。
 即ち、メレアグロスはこのエイレイテュイアを確実に殺すつもりだ。不死のはずの女神を、ヘラの娘を!

「……だからなんだ? オレがこれを殺したからなんだ。貴様は関係ないだろう」
「関係あるに決まってんだろ!? 私は、いや、オレはこの船にある限り、お前の担ぐ大将だろうが!」
「……」
「神を殺すな! 殺せばどうなるか、マルスなら解るだろうが!!」

 イアソンの、叫びは。
 メレアグロスを冷静にさせる力を宿していた。

 槍を下ろす。族滅、その単語が脳裏を過った。
 だが、この忌々しい女神をそのままにはしておけない。
 どうしてくれようか、とメレアグロスが思案した時だ。

 天界より、白い腕のヘラがアルゴー船に降臨した。

「ああ、待ちなさい妾の……マルス? 怖い顔をしないで頂戴? そこな愚娘、妾が預かります」
「……ヘラ様。それは無理な相談だ」
「あら?」

 愚挙に手を染めた娘を、母として預かり、内々に罰を与えるとでも言いたいのだろう。
 だがメレアグロスはそれを拒絶した。ヘラの決定に、こうして歯向かったのは初。ヘラは首を傾げ、微笑んだ。

「……自分で罰を与えたいのかしら」
「ああ。これの処罰は、私に任じて貰いたい」
「……」

 優しげな微笑を湛えたまま、ヘラはメレアグロスを凝視する。
 そして、不意に、ヘラは仕方なさそうに肩を竦めた。

「いいでしょう。妾が大神に掛け合い、一年の神籍の剥奪を申し出て差し上げます。その間、妾の娘エイレイテュイアを好きにするといい」
「……では、遠慮なく。好きに(・・・)させて頂く。それより、ヘラ様に訊ねたい」
「なにかしら?」
「私の子は、死んだのか?」

 メレアグロスの目が、苦しげに細められる。
 ヘラは微笑んだ。安心させるように。

「双子の男児は、二人とも死んではおりません」
「っ!」

 そう。死んではいない。

 ――ただ、胎児のまま、靄となってどこかに消え去っただけ。死なず、老いず、意識も何もなく。永遠に赤子のまま、世界を漂い続けている。

「……それを、救い出す手は?」
「さて。さてさて? 妾には特になんとも。ただ、そうねぇ。見つけて、孕み直して、生まれたら、普通に育つのではなくて? 見つけられたら、ですけれど」

 憐れむように首を左右に振りながら、ヘラはまるで、避けるように退散した。

 ――可哀想に。あんなに怒っているメレアグロスははじめて見たわ。嗚呼、でも。

 天界に昇って行きながら、ヘラは痛快さを覚えていた。
 ヘラクレスを生ませるなと命じたのに、しくじったエイレイテュイア。あの鈍臭い娘も、たまには役に立つ。
 自ら手を下すまでもなく、勝手に動いてくれるなんて、なんて親孝行な娘なのだろう!

 ヘラはほくそ笑みながら、天に帰る。

 メレアグロスは、悲嘆に暮れるアタランテに、言った。

「……案ずるな、ルミナ。オレは、例えどれほどの時を掛けようと必ず我らの子を見つけ出し、取り戻す」

 必ず。必ずだ。
 口の中で呟き、決意を固める。
 メレアグロスは、そして、意識のないエイレイテュイアに憤怒の目を向けて、アルゴナイタイに告げた。

「……貴様らも、そろそろ女の柔肌が恋しくなった時分だろう。これが神籍を失えば、ただの人の罪人に過ぎん。次の陸地まで、好きにするがいい」


















ヘラ疑われ過ぎ嫌われ過ぎで笑うしかない(笑)


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果てのコルキス





「……貴様らも、そろそろ女の柔肌が恋しくなった時分だろう。これが神籍を失えば、ただの人の罪人に過ぎん。次の陸地まで、好きにするがいい」

 とは言ったものの。

 ――マルスの誘惑に喜ぶ者は皆無だった。

 当然だ。今でこそ鎮静したとはいえ、マルスの怒りを買った女である。身の毛もよだつ憤怒を、否が応にも思い出させる女など御免被りたいというのがアルゴナイタイの本音であった。
 故に必然である。以後の航海に於いて、エイレイテュイアはアルゴー船の船員らに指一本たりとも触れられることはなく。ポリュデウケスを中心としたベブリュクス人との戦争(いさかい)、サリュミュデーソスの地にて予言者ピネウスの救出、ハルピュイア退治。更なる航海の最中でアポロンとの遭遇を経る中――女神は物置に手足を縛られたまま放置されていた。

「って、(くっさ)ぁっ!?」

 そう、放置(・・)されていたのだ。
 食べ物も、水も与えられず。涙ながらに乞うても下の世話もなく。糞尿を垂れ流しにし、飢えと渇きに苦しみながら、三ヶ月もの間もほったらかしにされていた。
 人に堕ちたりとはいえ、もとが神である。どれほど苦しくとも簡単に死にはしない。故に、物一つ置かれていない、名ばかりの物置(・・)を開いた時。

 貧乏籤を引くことに定評のあるカストルは、秀麗な美貌を歪め端的に感想を述べた。

 エイレイテュイアの朦朧としていた顔が、恥辱に染まる。物を言う気力すらなく、弱々しく睨み付けることしかできない。
 意にも介さず、カストルは冷徹に呟いた。

「……ったくもう、テセウスもペイリトオスも、ポリュデウケス、ゼテスとカライス、アスクレピオスとその他大勢! なんだってこのわたしが! こんなのの面倒を見なきゃなんないのかなぁ!?」

 完全に独り言である。眼前のエイレイテュイアなど、見向きもしていない。
 眼中に無し。カストルは中性的な美貌をこれ以上なく顰め、エイレイテュイアを右手で掴み引き摺っていく。木張りの床に摩擦され、痛みに呻く女のことなど気遣いもしていない。
 甲板に出ると、カストルはエイレイテュイアの糞尿の染み込んだ衣服を剥ぎ取り、海に投げ捨て、裸にされたエイレイテュイアの抵抗を押さえつけつつ穢らわしそうに荒縄で括る。
 そして、カストルは海にエイレイテュイアを突き落とした。
 唐突な暴挙。盛大に海水を飲み込み、暴れることも出来ず悶え苦しむ女神を、そのまま半刻放置し。船上に引き上げられる頃には、エイレイテュイアは無惨に気絶していた。
 カストルは機械的に、エイレイテュイアの洗濯を終え、真水を掛けて綺麗に体を拭いてやると、親切にもきらびやかな衣裳を着させて、その頬を平手で張り目を醒まさせてやる。
 呻きながら起きたエイレイテュイアの口に、パンと水を流し込み、強引に元気注入。必死に咀嚼するのを省みず、カストルはエイレイテュイアの手を引きながらアルゴー船を降りた。

「ど、どこに……?」
「ん?」

 エイレイテュイアが弱々しく訊ねると、桟橋から陸地に上がったカストルは気のない素振りで答えた。

「ああ……着いたんだよ、コルキスに」

 それは、アルゴー船の目的の地。
 カストルは面倒くさそうに言った。

「黄金卿のご命令だ。物置のを綺麗に洗って、清めた後、適当に着飾らせてコルキスの宮殿まで持ってこいってさ」




















 イアソンは緊張の渦、その真っ只中にいた。
 何せこの場でしくじれば、イアソンの未来は閉ざされたに等しく、その上これまでの冒険も全て水泡に帰すことになるのだ。
 そんなこと、アルゴー船の船長として断じて認められることではない。彼は彼なりに、苦楽を共にしてきた仲間を大切に思っていたのだ。彼らに報いるためにも、なんとしても金羊毛を手に入れる。イアソンは今、大一番に挑まんとしていた。

「――やぁやぁやぁ、私の名はイアソン! 遥か彼方のイオルコスより参った未来の王! 此度は貴殿にお願いしたき儀がありて参上した次第!」

 両脇を固めるのは大英雄ヘラクレスと、黄金のマルス。彼らを筆頭に勇猛果敢なアルゴナイタイ総勢五十名は、コルキスの宮殿玉座の間に乗り込んでいた。
 アポイントメントも取らずにやって来た彼らを、無論のことコルキス王アイエテスが快く思う訳もない。その上、彼らは事もあろうにコルキスの至宝たる金羊毛を所望するなどと言うのだ。歓迎しろという方が難しい。
 だがアイエテスは私情を呑み込み、表面上は笑顔でイアソンらを迎え入れた。のみならず、酒宴の支度をし、長い船旅の疲れを落とせるようにと繊細な気遣いを見せさえした。
 それというのもアイエテスの娘、"王女メディア"の助言があったのだ。彼らは神々の祝福を受けています。無下にすると善きことにはなりません、と。

 太陽神ヘリオスの後裔、大魔女キルケーと同じ金色に輝く瞳を持つメディアは、薄い紫髪の幼く純真な顔立ちの少女であった。
 魔術神ヘカテーの寵愛を受け、女魔術師としても卓越した技能を誇る賢明なる王女を、アイエテスは目に入れても痛くないほどに可愛がっている。メディアは、楚々として父王の背後に控え、アルゴナイタイと向き合うアイエテスを静かに見守っていた。

「――我が国の金羊毛を貰い受けたい、と。なるほど、なるほど」

 神々の加護があるからといい気になるなよ小僧……! 内心、イアソンを激しく罵倒しつつもアイエテスは考慮する姿勢を見せる。
 暫し沈思し、アイエテスはやれやれと首を左右に振った。どれだけ考えても、譲歩できるものではないと思ったのだ。

「よくよく考えては見たが、それは無理な相談だ。我が国の富めるは、この金羊毛の奇跡の力に依るところが大きい。これを手放そうものなら、余はたちどころに王としての権威を失い、王位を追われることになりかねん」
「なるほど、至極尤もなことですな」

 イアソンはしたり顔で頷いた。玉座に在る王を見上げ、そんなこと知ったことじゃないんだよ、と小さく吐き捨てる。
 なんとなれば力尽く、という手もあるが、それは最後の手段だ。イアソンは何がなんでも金羊毛を手に入れるつもりであった。

 ふと、イアソンはアイエテスの傍らに控える王女メディアのことが気にかかった。
 不思議な形の杖を、胸に抱くようにして立っている。その瞳は、金色に輝いて見えた。
 あたかも、イアソンの腹の裡を見透かすような眼。苦い気持ちになり、王女から眼を逸らした。

「……私も道理を知らぬ恥知らずではない。ただで寄越せ、なんて盗賊のようなことは言わないとも!」
「ほう。どういうことかな、イアソン船長殿」

 一応は聞く姿勢を持つアイエテスは、なるほど理性的な人物である。なんとしても金羊毛を手放したくないという意思がありながら、対話の構えを持てるだけ中々立派と言えた。
 イアソンは、ここに来る前に、思いきってマルスに知恵を借りていた。国を富ませる奇跡の金羊毛を、一国の王が簡単に手放す訳がない。どうすれば穏便に済ませられるだろうか、と。
 マルスは言った。貴様が叔父王より提示された条件を思い出せ。奴はなんと言った? コルキスの金羊毛を手に入れて来いと言ったのだ。断じて、ペリアースに献上することではない。

 息を整え、イアソンは堂々と胸を張り、アイエテスに提案する。

「アイエテス王。何も金羊毛を私に譲ることはないのだ。ただ、貸し与えるだけでいい」
「……ふむ。話が見えぬな、もう少し噛み砕いて申してみよ」
「ええ、ええ! 無論ですとも。私が金羊毛を欲するのは、イオルコスに持ち帰り、我が王位を不当に手にしているペリアースに見せつけ、王位を取り戻すため。それを偽王に与えることではない。一旦金羊毛を私に預けたまえ、王位を無事手に入れたなら、然る後に返還するであろう!」
「ははぁ……そういうことか。しかしなイアソン殿。それには一つ問題があるのだ」
「なんでしょう」

 一つ、間を置き、アイエテスは玉座より身を乗り出して告げる。
 尤もな言い分を。

「余の国の至宝を貴公に預けたとて、約束通り返還してくれる保証がどこにある? 余と貴公は親しくもない。端的に言って信用がならんのだよ」

 フフフ、とイアソンはほくそ笑んだ。そして傍らの黄金の英雄を指し示す。
 おや、とマルスは眼を大きくした。打ち合わせにないことだ。

「心配要らない、アイエテス王。さあ、これなる者を見るがいい! 見覚えは? 或いは心当たりは!?」
「む……?」

 アイエテスは言われるがままマルスを見る。
 やもすると、王は徐々に眼を見開き、やがて驚愕の余り玉座から転げ落ちた。
 なっなっなっ!! 言葉を失って、しどろもどろになる姿に、アルゴナイタイは苦笑する。その気持ちは、アイエテスの立場からすると仕方ないものだ。コルキスの王はなんとか、玉座の肘置きに縋りつきながら言った。

「あっ、アイトリアの! アイトリアのメレアグロス大王!?」

「――の、親類の戦士マルスだ」

 イアソンは大王の威を背に得意気だった。マルスは苦笑する。なるほど、使えるものはなんでも使うか、と。彼からすれば、それは好評価のポイントでしかない。
 まるで歌劇の主演の如く歌い上げ、イアソンは言った。

「彼が証人だ。私が約束を破ったなら、彼が大王に報せ、私はたちまち滅ぼされてしまうだろう。これでも信用ならないかな?」

 彼の大王は公正無比なる裁判官としても知られる。敢えて自らを対象に裁判を起こし、大王であっても法の名の下に裁かれることもあると示した逸話は轟いていた。
 そんな裁定者たる大王の名の下に誓われたなら、なるほど説得力は充分。信用も信頼もできる。
 メディアが、アイエテスの耳元で囁いた。上品に驚きに口を手で覆い、つぶらな瞳が溢れ落ちそうなほど眼を見開いたまま。――彼は本物の大王です。神々の加護の厚さ、間違いありません。
 アイエテスはあんぐりと顎を落とした。なんで本人がこんなところに?! 馬鹿な!
 マルスが大王に似ているだけの赤の他人という線も消えた。間違いない。イアソンが約束を破ることはない!

「う、うむ……な、なるほど? 大王メレアグロスの縁者が証人となるなら信用できようとも。貴公は確かに、余に金羊毛を返還するのだろうな」
「ええ!」
「しかしだ、余が貴公に至宝を貸し与えることで得られる利はあるのか? 無為に貸し与えるだけというのは、今後求められれば金羊毛を貸し出すという悪しき前例となる。無償で貸し与えることはできぬぞ」
「そこで! そこでだアイエテス王! 私には名案があるのだ!」

 ばっ、と両手を広げ、イアソンは言った。

「私が貴殿に提示できるものは三つある! 一つ、未来のイオルコス王イアソンとの親密な友情!」
「……ふむ」
「二つ、我らアルゴナイタイ全員との知己!」
「……」
「三つ!」

 二つとも、アイエテスからすれば極めて些少なる見返りであった。なるほど、英雄らとの関係は確かに欲しいが、別に無理してまで惜しいと思うほどでもない。
 自分にはメディアがいる。妹には大魔女のキルケーもいる。並みの英雄や国など恐れるに足りない。
 故に、やや失望しながら最後の一つを聞き、丁重にお断りしようと思い――我が耳を疑った。

「大王メレアグロスの親類の立場」
「――っ?」

 驚きに眼を瞠く。
 来い。マルスが、背後に振り返り、言うと、一騎の剣騎士が恭しい物腰で、一人の美女を連れてやって来た。
 豊かな体。美しい顔。艶やかな金髪。白磁のような白い肌といい、腰つきの佳さといい、素晴らしい女だった。

 思わず眼が釘付けになるアイエテスに、イアソンは含み笑いながら不良債権の押し付けを始めた。

「彼女の名は、聞いて驚き召さるな? なんとあの女神、エイレイテュイア!」
「なんと!?」
「このエイレイテュイア、妻を亡くし数年も独り身を寂しくする貴殿を想い慕い、妻となりたいと申している!」
「おお!!」

 エイレイテュイアは驚愕し思わず食ってかかろうとするも、マルスとヘラクレスが密かに殺気を飛ばすと一瞬にして凍りつき言葉を無くした。
 ヘラクレスが侮蔑も露に囁く。貴様は今、マルスの所有物だ。逆らう真似は赦さん、と。
 対し、マルスは優しげに言った。このまま人として嫁ぎアイエテスを愛せ。一年経っても神籍への復帰を拒んで、人として生涯を終えるがいい。さすればオレは、死後に神の座に昇れば、貴様を召し上げ側に置こう。
 ――それは毒だった。あれほどの眼に遭ってなお、メレアグロスを慕うエイレイテュイアの狂気。それを突いた言葉の毒。エイレイテュイアはそれに魅了され、自分が神で神は不死であるという思いから受け入れてしまった。
 エイレイテュイアは、今の己が人であるという自覚が薄かった。死んだ後、神の座に復帰できると信じて疑わなかった。

 故に、エイレイテュイアは人のまま生き、そのまま死んで冥府に墜ちるだろう。

 神を殺すのに槍は要らぬ。ただ言葉の毒があればよい。マルスは――メレアグロスは、エイレイテュイアを何としても死せる身に落とすことを諦めてはいなかったのだ。
 果たして、容姿ばかりは人外の美を誇る女神にアイエテスは魅了された。

「賢明なるアイエテス王はご存じとは思う! 女神エイレイテュイアといえば、あの! 偉大なる貞淑神の娘! そして大王メレアグロスはその孫に当たる血統! 女神エイレイテュイアと契るということは! なんと、私も妬ましいながら?! 大王と縁者となるということ! おお、これはコルキスの国益にも繋がりそうだ!」

 イアソンはもう絶好調だった。調子よく歌い上げる内にアイエテスも乗り気になり、エイレイテュイアを熱い眼差しで見詰める。

「よ、よかろう……金羊毛を貸し与える。ただ……」

 斯くてアイエテスはなんら含むものなく金羊毛をイアソンに貸し与えることを誓約した。
 しかし困ったことに、金羊毛は眠らぬ竜が守っている。アイエテスでもこれをどうにかすることは出来ない。
 故に、だ。

「金羊毛が欲しくば、貴公らが取りに行くがいい。無論、手助けはする」
「よろしい! 王の赦しがあれば我らに恐れるものはないのだから! なあ、ヘラクレス! マルス!」

 はぁっはっはっは! 上機嫌に高笑いするイアソンはもう勝った気になっていた。
 事実、既に勝ったに等しい。二人の大英雄を振り返り、イアソンが勝ち誇ろうとした、瞬間である。

 マルスが不意に動き、何かを掴み取った。

「……どうかしたのか?」
「ああ、少し」

 マルスの手には、一本の短矢があった。
 神の呪い。これは……と視線を虚空に向ける。すると、そこには女神アプロディーテの子である、性愛の神エロスが弓を構えて浮いていた。
 物理的な破壊力すら伴う黄金の眼光にエロスは恐れをなして逃げていく。
 エロスが狙ったのは王女メディアか。
 目が合い、きょとん、と首を傾げたのに。マルスは首を左右に振って視線を逸らした。

 ――何年も前の話だ。魔術神ヘカテーとの契約により、彼は女魔術師を庇護することになっていた。

 故に見過ごせなかったのだ。それを抜かしても、エロスの権能であのような無垢な少女を弄ばすのは不愉快な話である。
 マルスはアイエテスの衛兵に矢を渡し耳元で言う。それはエロスの矢だ。エイレイテュイアの愛を失ったと感じたなら、それを刺せば再び熱い恋を得られるだろう、と。
 衛兵は慌ててアイエテスの側に寄り、その耳元でマルスの言葉をそのまま言った。
 嬉しげに受け取ろうとしたアイエテス。しかし、衛兵とのやり取りを聞いていたメディアが不意に可憐な蕾のような唇を開いた。

 ――マルスをして、純真無垢が過ぎて一種狂気染みたメディアのことを見誤ってしまったのだ。

「お父様、その矢をわたしに下さらないでしょうか」
「な、なんと? なぜだメディア」
「わたし、恋というのがどういうものか、知りたいんです」
「む、む?」

 だから、と。
 メディアはそっと衛兵の手から矢を抜き取り、えいっ、と可愛らしい掛け声と共に、その矢を、

 自らの胸に突き刺した。

「なあっ!?」

 アイエテスの驚愕。短矢は独りでに王女の胸の中に入り込み、完全に溶けて消える。
 メディアは、途端に熱い眼差しを――マルスへ向けた。

 マルスは、絶句し。
 興奮気味に恋の熱情に酔いしれる王女を見るしかない。

 十三席、最後の一席。

 その最後を埋める魔術師メディアは、そうしてマルスを熱く見据えたのだった。


















純真無垢極まりサイコ気味なメディア・リリィ。その行動を読める奴なんていないのである。

メレ「とりあえずイアソンに投げるしかねぇ!」
イア「やめろぉ! やめて!」
メレ「これからの補佐にぴったりだろいい加減にしろ!」

こんな感じになる可能性。


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旅の終わり、終わりの始まり

地雷回避はお手のもの。














 にこにこ、にこにこと。蒲公英のような麗らかな笑みを携えて、月をモチーフにした杖を握り、王女は軽やかな足取りでアルゴナイタイを先導する。

 ――その後ろ姿を、心中複雑な様を隠しきれずに見ながらマルスは嘆息した。

 鉛色の、疲れきった重い吐息。
 揶揄する無謀を、賢明なるアルゴナイタイ諸氏は持ち合わせていない。
 これまでの冒険で、勇気と蛮勇は違うのだと彼らは一様に悟っていたのである。

「あー……その、なんだかな。私が言うまでもないかもだが……」

 肩を寄せ、イアソンがマルスに小声で話しかけた。金羊毛の安置されてある場に向かう途上のことだ。
 彼としては珍しいことに、極めて真っ当かつ深刻な心配である。イアソンは冷や汗を流しながら王女の華奢な背中を見遣った。

アレ(・・)、どう考えてもヤバイよ。何がヤバイってあの王女サマ、お前を見てるようで全然見てない」
「恋に恋するお年頃なんだろう」
「それにも限度ってものがあるだろ!? 普通に考えて、『わたしぃ、恋を知りたいのぉー、えいっ』とか言ってエロスの矢を自分に刺す奴があるか!?」
「……自慢じゃないが、見ず知らずの相手に恋慕われるのは初めてではない」

 ここまで毛色が異なる輩は流石に初見だが。
 マルスの透徹とした眼差しは、多分に諦めの色が染み込んでいた。
 英雄船の船長は、憐れむように呟く。

「ヒュー! そこだけ聞くと色んな意味で凄ぇけど、全く羨ましくないね! ……いやほんと。可哀想過ぎて泣けてきた」
「……代わるか?」
「嫌だ。絶対。ほんと無理だから」

 真顔で即答したイアソンは、メディアが横目に自分を見てることに気づいて慌ててマルスと距離を置いた。
 にこりと王女は囁く。みんな仲良く。仲良しさんで行きましょう……。
 怖っ。思わず口を滑らせた金髪の青年。純真に首を傾げ意味が分かっていない様子の王女。イアソンは呻いた。

「アイエテス王はさ、どうやってこんなの育てちゃったんだ……? 後学のために是非教えて貰いたいね……」

 メディアはあれで、まともな部分が残っているのか、既婚者であるマルスに過度に接触して来ない。エロスの呪いに支配されている故に、逆にそれが不気味だった。
 計算か、それとも天然か。仮にすり寄ってきたところでマルスは丁重に距離を置かせていただくだけなので、メディアは今、己にとって最適の言動を取っていることになる。 

 王女メディアの得体の知れなさに恐々としつつ、その先導の下、金羊毛のある場所にアルゴナイタイは辿り着く。
 マルスやヘラクレスすら見たことがないほどの威容を誇る竜種、眠らずの竜をアルゴナイタイは総力を結集して討伐した。五十名の英雄による間断なく投槍、メディアの魔術砲撃を加えて永眠させたのだ。
 記念にと、金羊毛に眠り竜の因子を編み込んだメディア。丁重に、忠実に、無言で、王女はイアソンに金羊毛を献上。斯くて彼らはイオルコスに帰還せんとするのだが。

「……アイエテス王。すまない、暫らくご息女を預かる。なるべく早く呪いを解き帰す故、赦して欲しい」

 帰路に着く前に、マルスはメディアを連れ、アイエテスにそう詫びた。アイエテスとしては無念であるが、責任の所在を見誤るほど愚かではない。苦渋の表情で応じた。

「元はといえば、余の不注意の為にメディアにエロスの矢を取られてしまったのだ。余の方こそ、頭を下げねばなるまい」

 アイエテスは「迷惑をかけてしまい、申し訳ない。どうか娘を頼む」と深々と頭を下げた。
 それにマルスとしては何も言えない。不良債権を押し付けた相手である。今更だが罪悪感が彼を襲った。
 こうなればせめてコルキスとの国交を結び、彼と親しく付き合っていつでもメディアが帰れるようにしてやるしかない。ヘカテーとの契約を抜きにしても、王女を無事に帰すことを誓った。

 そうして帰路に着いたアルゴナイタイは、セイレーンの惑わしの歌、渦潮の化身の怪物との対決を経て、大嵐に見舞われたがためにアフリカにまで流された。
 その間、子を失い悲嘆に暮れ、傷心のルミナにメディアは付きっきりで話しかけ、進んで仲良くなろうとしていた。
 心得たもので、メディアは決してマルスへの恋心を見せず、匂わせず、ルミナに付きっきりでいた。次第にルミナはメディアに気を許したのか、遠目には姉妹のように見えなくもない程度には親しくなったようだ。
 余りに、何も無さすぎる。これにキナ臭さを感じたマルスは、密かにメディアを監視。時折ルミナと会った後に一人になると、頻りに不思議そうに首を傾げる姿を見つけ、マルスは嫌な予感を懐き一つの決断を下す。
 メディアに付きっきりになり、ルミナと二人きりにはさせず、王女に自らの知る社交界での処世術、対人関係の構築の心得を伝える。そして国の統治の補佐役としての身の処し方を教えて、なんとか世間知らずから来る無垢さを取り除こうと計った。

 甲斐があったかはまだ不明だが。一応、最低限の知識は与えられた。以前の面影がなくなるほどに儚くなってしまったルミナに付き添い、マルスは伴侶の傍から離れなかった。
 そのような経緯を経て、嵐によって九日も流されたアルゴー船はアフリカのリビアに漂着。砂漠の奥地まで押し上げられた。

 イアソンは船員らと図り、陸路を往くことになる。メディアと予言者イドモンが共同で運命をなぞり、各々の母が各々の胎内に宿し、苦しんだ恩に報いたなら、これより先の帰路の苦難は払われると言ったのだ。
 アルゴナイタイは大型帆船を担ぎ、飢えと渇きに苦しみながら、十と二日もの間、トリトニス湖にまで運搬。海神トリトニスは彼らの苦痛を憐れみ船を地中海まで押し流してくれた。

 それからアルゴー船は穏やかで賑やかに、元の陽気さを取り戻して航海の苦楽を喜んだ。イオルコスのウォロー湾に到達すると、彼らは旅の終わりを喜ぶと共に、仲間達との別れの時を迎えたことに大いに悲しみ男達は声を上げて太く泣き、イアソンに別れを告げた。
 これまで誰一人帰ることのなかった金羊毛を求めての冒険。誰一人欠けることのなかった武勇伝を携え、意気揚々と英雄らは故郷に向けて帰っていった。

 最後にイアソンの許に残ったのは、マルスとルミナ、メディアとヘラクレスだけであった。
 騎士らもまた、王である。一番に場を辞したのはテセウスだ。彼はイオルコスにアテーナイの者が待ち、ミノタウルスという恐ろしい怪物が在ることを知らされ、王としてこれを除くために急ぎ帰還する必要があったのだ。
 テセウスが役割を果たすなら、他の騎士らも負けてはいられぬとばかりに自分の元の鞘に収まってゆく。
 イアソンは、感慨深そうに金羊毛を携え、イオルコスに向かおうとする。爽やかに別れを告げ、何かあればすぐに駆けつけてやるからと上から目線で感謝の言葉を紡いだ。
 そんな彼に、マルスは苦笑しながら言う。

「待て。一人で行く気か?」
「ん? ああ、まあ……そうだけど?」
「軽率だな。貴様から聞いたペリアースなる男は、決して王位を手放そうとはせんぞ。悪いことは言わん、オレの助力を受けろ」
「いいのかい? まあ私としては助かるけど」
「受けるんだな?」
「あ、ああ。オレも一応は有事に備えたいし、ねぇ……?」

 我が意を得たりとマルスは頷いた。
 嫌な予感に、イアソンは顔を引き攣らせる。

「未来の王足る貴様には、その統治を助ける腹心が必要だと思う。暫し臣を貸し出す故、その助けを受けつつ他の忠実な家臣を育てよ。護衛に相談役、荒事以外なんでもこなせる万能なる者だ」
「ちょ、え? 待って待って待ってください大王陛下! え? なに? お前が残ってくれるんじゃないの?」
「何をバカな。オレとて暇ではない。国に戻りこれまでの不在を詫び、速やかに成さねばならぬことがある」

 したり顔で言い、マルスは満面に脂汗を浮かべるイアソンに、極めて親密に告げた。

「恩に着る必要はない。ただのお節介故な。うむ――そういうわけだ、メディア。くれぐれもイアソンに迷惑を掛けること罷りならんぞ」
「はい」
「は、はあぁぁぁ!?」

 従順にうなずく少女メディアは可憐である。すっとんきょうな悲鳴を上げるイアソンの肩を叩き、マルスは悟った聖人の如くに穏やかに語りかけた。

「オレは個人的に、貴様には大いに期待している。寄せ集めの荒くれ者どもを、曲がりなりにも統率しきった人望の厚さは王として望ましい資質だ。うむ、そういうわけでな……メディアの社会勉強、任せた」
「なんでだよッッッ!!」

 泣きそうになりながらイアソンは絶叫した。渾身の力で殴りかかるも難なく抑えられ、成す術なく鎮圧されたイアソンは口を抑えられる。
 マルスは強引に話を進めた。彼としても、今のメディアを側に置き続けられるほど頭の中が平和ではない。彼は王女に課題を授けた。

「メディア。貴様は何をするべきか、心得ているな」
「はい」
「イアソンを良く支え、その王としての統治が安定するまで補佐すること。片手間でもいい、魔術の研鑽を怠らず、神の魔術式をも破る術を編み出すこと。いいな?」
「はい。マルス様の仰る通りに。わたし、きちんとしますから、それを果たせたなら誉めて欲しいです」
「……無論だ」

 淡く微笑む少女は、まったくマルスのことを疑いもしなかった。彼が、彼女自身の手で、エロスの呪いを解けるようにしろと暗に言っているのに、それに気づきもしていない。
 恋は人を盲目にさせるというが、こうまで無垢だとやり辛いというのが本音である。

 良い子だ、と髪を撫で、くすぐったそうにしながらも嬉しそうなメディアに別れを告げ、マルスらもまた帰路に着く。

「ちょ、待てよ!」

 よほど慌てているのか、イアソンが巻き舌気味に制止したが、マルスらは聞く耳を持たずそのまま立ち去った。
 ああぁぁ! 畜生! いいか!? これは貸しだからな!? 絶対に! 絶対にオレに貸しを返せよ! じゃないと許してやらないからな畜生めぇッ!

「……最後まで騒がしい男だ」

 苦笑して、ヘラクレスはイアソンとの別れを彼なりに惜しんだ。
 まったく、ああも憎めない男と、ここで別れることになるとは。ヘラクレスの、決して幸多からぬ人生の中でも、得難い知己だと思っているのだろう。マルスは苦笑した。

「貴様らは良い組み合わせだと思うぞ、オレはな」
「……そうか」
「今生の別れというわけでもあるまい。また会った時にでも、友情を固めるが良いさ」
「ああ。……お前もな」
「……」

 イアソンという男、気に入ったのだろう、と。ヘラクレスは小さく笑いながら言った。
 マルス――旅が終わり、メレアグロスに戻った黄金は、決してお人好しなどではない。気に入りもしない者をわざわざ気遣い、別れた後の面倒まで見てやろうとする男ではなかった。

「……買い被りだな。厄介な王女の社会勉強に、イオルコスとイアソンが適していると思っただけだ」
「どうだかな。お前もなかなか難儀な性質だと自覚しろ」
「……」

 メレアグロスは黙りこみ、暫し間を置いて、義弟の胸板を軽く叩いた。

「……貴様も、まだまだこれからだろう。気張れ。オレはオレで、上手くやる」
「……メレアグロス、」

 静かな面持ちに、何を感じたのか。ヘラクレスは瞠目し義兄の名を呟き、続けかけた問いを飲み込んだ。
 目を見合う。戦いは、まだ終わっていないのだと、潜む獰猛な鬼気にヘラクレスは確信する。そして、せめてと、彼は告げた。

「……私は、何があろうと、お前の味方だ。それを忘れるな」
「オレからも言えたことだ。苦難に遭い、どうにもならぬと思ったのならいつでも頼れ」

 メレアグロスとヘラクレスは、別れ道に来た。
 英雄ヘラクレスの試練はまだ半ば。やらねばならない、耐えねばならない。苦しく、辛い生を、彼は思うように生きることを決めていた。
 拳を合わせ、再会を固く約束する。メレアグロスは言った。

「……機会があれば、オレの故郷のカリュドンに来い。父と母、弟たち共々歓迎する」
「必ず。……ではな」

 二人の英雄は、そうして一旦別れた。
 別々の道を往く。交わる時は定かでない。だが、志は同じだと、目を見ただけで察した。
 余計な言葉は要らない。そう確信している。
 兄弟というより、友。
 友というより、同胞。
 同胞というには固い友情と親愛。メレアグロスとヘラクレスは、互いを半身だと感じていた。

 ――故に栄光の英雄は。いつか、己の妻子を殺めてしまった時。義兄が己以上に激怒したように、今、義兄以上に憤怒の激情を腹に呑んでいたのだ。

「……メレアグロス、私は……」
「貴様は何も言うな、アタランテ」

 二人並んでゆっくりと歩きながら、アイトリアを目指す。

 思えば夫婦水入らずの状況は、何年ぶりだろうか。
 帰路を辿る足は、重くも軽い。

「赦しは乞うな。貴様に過失はない。もし償いたいと言うなら……」

 そこまで言って、そこから先は特に思い付かず。
 誤魔化すように気弱なアタランテの髪を掻き乱して、出来るだけ未来を見られるように、彼なりの励ましの言葉を捻り出す。

「その、なんだ。……オレも、悪いからな。……なんだろうな。……」
「……」
「……まあ、オレは娘が欲しい」
「……ぷ、」

 思わずといったふうにアタランテは吹き出し、眦に滴を浮かべすらして、声を上げて笑った。
 なんというか、と、笑いを噛み殺しながら、憮然とした様子のメレアグロスに、アタランテは薄く微笑む。

「バカだ、汝は」




 ――神罰の名を借りた、アルテミスより齎された密かな報せ。後世に真実は伝わらぬ、第五の難行とされる「神罰の魔獣狩り」が始まる、半年前の光景であった。


















メディアがアタランテと二人きりになっていた時、ルミナに何をしていたか。ご想像にお任せします。
ただ、メディアの魔術は全て弾かれました、とだけ。


プロットなしの勢いで進んできましたが、ようやっと終わりが見えました!
五十話までに新約ギリシャ神話編が終わる!(多分)


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ミネルヴァの機略






 "パラティウム"が死領と化した。

 金羊毛を巡る冒険を終え、緩徐の歩みでゆるゆると帰路を辿っていたメレアグロスとアタランテ。彼らはこの噂を耳にするや、まったりとした旅路に終止符を打ち、急ぎアイトリアの都へ帰還した。
 大王一代にのみ与えられた宮殿は、宙に佇む故に遠目にもはっきりと見ることができる。己の死と共に崩れ落ちる其れを、大王はさしたる感慨も懐かず一瞥した。
 所詮は後世にも残らぬ幻の城である。死後の後始末を考えねばならぬとなれば、この絢爛たる黄金宮殿も厄介事の種でしかなかったのだ。

 メレアグロスは都に入ったその足で、自身の不在時に一切を仕切る宰相、ケイローンの許を訪れた。他の官民に見つかれば騒がしくなる故に、隠密に徹しての帰城である。
 ケイローンは突然顔を出したメレアグロスに少しも驚かず、あらかじめ見透かしていたように彼を玉座の間に導く。煩わしげに従う最優王の顔色は苦かった。

「パラティウムの件について知りたい。ことの真偽はどうか」

 社交的な挨拶をそこそこに、メレアグロスは宰相が差し出してきた月桂冠と(ガレア)を組み合わせた王冠を被り、真紅のサー・コートを面倒そうに纏って玉座に腰を落とす。
 彼の傍らには妃であるアタランテが、紺碧のバトルドレスを纏い、白銀の宝冠を頭上に戴き佇んでいるのに、メレアグロスは落ち着かないのか肘置きを指先で叩きつつ急かすように問いかけた。
 悠々と、優雅に賢者は応じる。

「まずその前に。大王の帰還を祝す百官の祝辞と、祭事の一切を私の独断で中止としたこと、ここにお詫びしましょう」

 大王帰還に伴う儀式を、独断で中止したことを頭を垂れて詫びる。
 彼らは師弟ではあるが、公的上下の関係を逸脱することはなかった。どれほど親しくとも、王は軽薄には在れず、王の師であっても驕ることは赦されない。公私混同は忌むべきものだと彼らは認識していた。
 暗に落ち着くようと嗜める師にして懐刀であるケイローンの目に、メレアグロスは小さく舌打ちを一つ。目頭を揉みほぐして嘆息し、意識を切り替えた。

「……構わん。(オレ)とて祭事の重要性は理解しているが、今はそれどころではない。寧ろ貴様の判断には感謝しよう。手間が省けた」

 ケイローンの采配にはなんら不満はない。半馬の麗人は恭しく礼をして、上段にある大王に青銅で出来た札を紐で纏めた玉簡を捧げる。

 訝しげにメレアグロスが手を翳すと、その玉簡はケイローンの手を離れ、虚空を漂い大王の手に収まった。巻物のように巻かれていた札の束を広げ、内容を流し見たメレアグロスの目が鋭く細まる。
 そこには、事の仔細が記されていた。



 " 東をアドリア海、西をティレニア海、南をイオニア海に分断されているアペニン半島の地は狂乱の渦に呑まれ、今や生あるモノ悉くが絶えた "

 " パラティウムに在りし暗黒の渦、理と精を歪ませ獣を生む。草木は枯れ落ち、大地は汚染され、空は軋む。神々すら恐れしゴルゴンすらも避けるであろう冒涜的な昏い神威、堕ちた神性の狂乱 "

 " 人でなく、巨人でなく、神でなく、妖精でなく、魔物でもない。あれは何か。何だというのか。およそあらゆる悪なるものを煮詰め、凝縮したかのような涜神の吐息。冥府神の兜を借り受けし伝令神、命からがらに逃げ帰りオリュンポスの神々に報告せし "

 " 『彼の怪物、ペルセウスの討ちしゴルゴンが裸足で逃げ出すであろう。われではとても敵わず、多くの神々の軍勢であってもたちまち滅ぼされるに違いない。オリュンポスの神々を滅ぼし得る斯様な生命の息吹、これまで全く知られずに在ったというのが如何にも信じ難し』 "

 " 『大神に言上し奉る。ただちに討伐の軍を興されたし。さもなくば彼のもの、狂気の混沌を撒き散らして地上を滅ぼし、途轍もなき脅威となりて天界を滅し、宇宙を染め上げあまねく生命に終焉を齎すであろう』 "

 " 大神、これを受けて驚嘆す。このようなこと、女神の予言に無きこと。神々の脅威ともなれば秩序を司りし大神も動かぬ訳にはいかぬ。されど、巨人族ギガースとの決戦(ギガントマキア)も近い。下手に動けぬ大神は宣告された "

 " 『彼の進軍する者(グラディウス)を討ちし人の子には神々の座を約そう。神なる者が討ったならオリュンポスに招き入れよう。無窮の栄誉と無限の富、思いのままぞ』 "

 " 斯くして千の英雄が挑み、百の神々が挑戦したが、グラディウスに敵う者なく、また帰る者もなかった "

 " 嗚呼! 着々と広がりし狂乱の渦潮、宇宙を染め上げつつあるぞ! 人の世の滅びはグラディウスの呼吸の続く限り早まるだろう、人の滅びし後には神が滅びるだろう、神の滅びし後には宇宙に生命が絶えるだろう! 英雄よ立ち上がれ、さあグラディウスを滅ぼすのだ! "



「……」

 玉簡を持つメレアグロスの手が震えた。
 冷や汗が顎先より落ち、手の甲を流れる。
 後の世に幾人か現れる騎士王。その源流たる王者は、声を震えさせて賢者に問いかけた。

「……何故、これほどのことを、今の今まで(オレ)が知らなかった」
「さて。私の口からは憚りますね」

 答えは言われずとも解るだろうと。ケイローンの静かな語調に真意が透ける。
 メレアグロスの耳に入らぬように、彼に関係し、関係しうる全ての者にこの情報が入らぬよう遮断した者がいる。それは――

「……アレ(・・)は、こんなにも……っ!」

 ――愚かなのか! 叫びだしそうなメレアグロスを、素早くケイローンが制止した。

「大王よ、それより先を口にしてはなりませんよ」

 ギリシャの外の者しか知らぬ終末の予言。今にも仮初めの平穏は破られ、人心は大いに乱れるだろう。そうなれば大王の治世に在っても王国は統制を失い、鎮めるのに多くの時を費やすことになる。
 このままでは不味い。そうでなくとも、この報はメレアグロスの胸中を掻き乱した。
 不死にして神々の一人であり、賢者として予言の業を修めるケイローンだからこそ、このことをメレアグロスに深い仲にありながら知ることが出来た。今はそれに感謝するしかない。
 天界にいるミネルヴァ――アテナも無論、このことを知っているはずだが、天界から報せはなかった。そのことからも、あの女神の思惑が透けて見えた。

 こともあろうに、アレ(・・)は! 空白となった十二席の一つを、メレアグロスで埋めようと画策していたのだ!

 奥歯が砕けるほど歯を噛み締め、メレアグロスは肘置きを叩き砕き勢いよく立ち上がる。

 本人は決して信じて疑っていないのだろう、グラディウスなるものよりもメレアグロスが優れていることを! 欠片も疑っていないに違いない、メレアグロスがグラディウスなるものを滅ぼすのに一片の迷いも抱かぬと!
 度しがたい!
 盲目的に確信しているのだ!
 アレは、心の底から、メレアグロスを愛している! 愛するが故に、愛せぬものを排除してその座に就けようとしているのだ!
 自分が滅びることなど考えもしていない。どれほどの被害が出ているのかも考慮の外! 全てはメレアグロスのために! メレアグロスを彩る伝説のために! 純粋にッ! 愛している(・・・・)から! こんな暴挙に簡単に手を染める!

「……いつか、アレは凡てを滅ぼすのだろう。夫への対抗心ゆえに、巨神王(テュポン)を解き放って」
「! ……大王、気を鎮めてください。猛ってもどうにもなりません」
「解っている。大神は予言に従ってヘラクレスを巨人決戦(ギガントマキア)に当て、この私(オレ)をグラディウスに当てるのだろう。神の座の約束はヘラ神からの入れ知恵かな?」

 嘲笑し、メレアグロスは虚空に視線を這わせた。
 何を視ているのか。ケイローンも、想像するしかない。ややあってメレアグロスは呟いた。
 地に増え、都市を造り、海を航り、空を裂いた。何のために? 果てを語るモノ、いずこに在る……。

「……メレアグロス?」

 怪訝そうに、アタランテが名を呼んだ。
 かぶりを振り、メレアグロスは軽く右手首のブローチを撫でる。すると、手元に雷電を迸らせ、爆発的な神気を発する神鳴りの槍が出現。それはただ在るだけで界の震動、雷気の波動は広まり、ケイローンらの肌を打つ。

 それが、彼の手の中でくるりと回転した瞬間に穂先は幻と消え、金色の塗装は剥がれ落ち、漆黒の鉄棍となった。
 封印形態の棍を携え、メレアグロスは玉座を降りる。

「どちらへ?」
「知れたこと。戦の支度だ。異母妹ヒッポリュテのことも気がかり故な、貴様も今回は出て貰うぞ」
「総力を結集しますか……拝承いたしました。しかし、それにはまだ早いようですよ」
「なに?」

 彼は如何なる未来を視ているのか。玉座の間に駆け込んで来たのは、騎士団(メレアクレイタイ)が一人アスクレピオスであった。

「だ、だだだ大王陛下ぁ! 大変大変大変ですよぅ!」

 いい歳して、少年然とした幼さの消えない宮廷医――死者蘇生すらも可能とする後の医神。その肝っ玉の太さは騎士らの中にあって随一と言えるほど逞しいものだった。
 その彼が、こうも慌てて駆け込んでくるとはただ事ではない。メレアグロスが冷徹な眼差しを向けると、途端に静まるのは訓練の結果か。

「どうした。端的に言え」
「ははははいぃ! えっと、その……落ち着いて聞いてくださいね? ……大王様の故郷カリュドンは、今、丁度夏の真っ只中でして……神々への生け贄を捧げる祭事の最中ですよね?」
「そうだな。今年は豊作だったと聞く。さぞ立派な生け贄となり神々も喜んでいるだろう」
「は、ははは……そ、そうなんですけどね」

 メレアグロスの相槌に、アスクレピオスは色素の抜けた短髪を掻いた。
 言いにくそうに、彼は肯定し、そして。

「そのぉ、大王様の父君はカリュドン王としての仕事に、ちょっと疲れてらしたんでしょうねぇ……あれですよ、ちょっとした凡ミスと言いますか……」
「勿体ぶるな。端的に言えと命じたはずだが?」
「はひっ! ――カリュドン王様は! それはもう立派に生け贄を捧げられましたが! 月女神への生け贄だけ綺麗さっぱり忘れちゃってまして! アルテミス神が大層お怒りになられてカリュドンに神罰を下さりました! 城よりも大きな猪が野に放たれたんです!!」
「……よりにもよって今、か?」

 驚くよりもメレアグロスはまず怪訝そうに眉を顰めた。
 神々にとっても火急を告げる状況に在って、一々一都市への制裁に手間を掛けるか?

「アルテミス神のことですよぉ! きっと『他のみんなにはあんなに凄い豪勢な御馳走があるのに、どぉぅしてわたしにはないのよぉ! ぷんぷん!』とか言ってるに違いありません!!」
「口を閉じろアスクレピオス。死者蘇生の薬を乱用し大神の怒りを買って雷霆に打たれかけたのを、大神に嘆願して助けてやったが……もう二度はないぞ」
「はひっ!」

 メレアグロスは、ふと、オリュンポス山で見たアルテミスのことを思い出した。
 ふわふわとした、自由闊達な女神だったように思う。しかし、彼女の側には、大抵あのアポロンがいた。アポロンが神々にとっても火急の事態に直面している中、メレアグロスの領域にあるカリュドンを乱し、メレアグロスの動きを制限するようなことをするだろうか?

「……メッセージ性があるな」
「ええ」

 呟くと、ケイローンも同じ考えなのか首肯した。
 思えばあの知恵の女神がなんの報せも寄越さぬのは不自然。神々の女王に見張られているのだとしても、アテナならば出し抜くことは出来るだろう。
 それに、元々アテナには、天界でメレアグロスに有利になるよう立ち回って貰っている。むざむざカリュドンへの神罰を許すとも思えない。そんな無能ではないはずだ。

 であれば……この神罰はアテナの意思が入っている?

「……ミネルヴァめ。味な真似を」

 にやりと唇を歪め、メレアグロスは玉座の間より出た。
 空中大宮殿より眼下の都市を見渡し、黄金の都全体に轟く雷声を発する。
 それは、ミネルヴァの機略――助け船に乗ってのこと。
 公然と戦力を集められる、絶好の機会!

 ――民よ。我が下にて繁栄せしアイトリアの民よ。我が声を聞け、我が紡ぎし玉言を拝聴せよ。

 ――既に仔細を知る者も中にはいるだろう。隣人たるカリュドンに神罰が下ったのだと。

 ――それは何故か? 理由など些事である。気掛かりは貴様らの、(オレ)の隣人が危機に直面していること。困難にありてこれを助けるは我らの義務。義を見てせざるを勇なきと云う、断じて見過ごす訳にはいかん。

 ――故にだ! 聞け、我が愛する民らよ! (オレ)は求める。カリュドンを救おうと立ち上がる勇者を!

 ――ギリシャ全土を駆けよ、我が声を世界に届けよ!

 ――英雄、我が旗の下に集え。勇士、我が下で槍を執れ。神罰の獣、これを討ちカリュドンを救う。女神の怒りは(オレ)が鎮める。さあ、誉れ高きを欲する者よ、アイトリアに集え!

 ド、と都は歓声に湧いた。いつの間にか帰還していた大王に驚くも、その光輝纏いし存在の波動に当てられ、彼らは瞬く間に熱狂したのである。
 ケイローンは苦笑して、相変わらずの魔性ですね、と大王を讃えた。

「ミネルヴァのメッセージは二つだ」

 メレアグロスは、アタランテに解説した。

 一つが、順調にヘラの弾劾のため、声を同じくする神を集められている、ということ。
 大女神デメテルは、唯一メレアグロスの策略の全容を見抜いていた故、最初から味方だった。ヘスティアも、正しいことなら裁判で裁くことには反対しまい。
 ハデスも同様。ヘファイストスは微妙だが、最悪でも中立だろう。

 そして、アルテミスを介しているということは、アルテミスとその兄のアポロンも、アレスの丘での裁判で、ヘラを糺す側に回ったことの証左となる。
 ミネルヴァは既に、神々の過半を味方につけたに相違ない。
 流石、と言える働き。心強かった。
 此度の騒動を静めた暁には、即座に動いてもらうようにこちらからも伝える必要がある。……如何なメレアグロスとて忍耐の限界だった。早急に、策の結実を見なければならない。

 二つ目のメッセージが、グラディウスに対策する猶予。
 ミネルヴァはメレアグロスだけでは厳しいと、現実的に判断して彼のために戦力の充実化を促しているのだ。
 知恵と戦いの女神をして、そうするほどの危険がある。ミネルヴァは言っているのだ、形振り構っている場合ではない、と。

 ふむふむ、とアタランテは頷く。そんな彼女に、メレアグロスは言った。

「そういうわけで、な。……貴様は、此処に残れ」
「……え?」

 ――それは、妻の身を案じるが故の、命令だった。

「オレ達の子を、また(・・)失うわけにはいかない。鎧を貴様に預けておく。此処で、オレの帰りを待ってほしい」

「め、メレアグロス……そんな、そんな……!? 私は汝と共に在り続けると誓って――」

「――悪いが」

 金色の玉を取りだしアタランテに押し付ける。
 妃を守護する無敵の鎧。纏うのがメレアグロスでないなら、その力もたかが知れるが、それでも無いよりはあった方がいい。
 鎧を以て妻の言葉を遮り、メレアグロスは、はっきりと。残酷にも言い放った。

「身重の貴様は足手まといだ。守ってやれるとは思えん。いいか、貴様を心配して言っているのもあるが――」

 すぅ、と息を一つ。
 大王は告げる。

「戦いの場に貴様は邪魔だ。大人しくしていろ」

 メレアグロス……。

 か細い声で、縋るアタランテを振り払い、大王はケイローンに出陣の支度を促してその場を去った。
 ぽつんと、一人残されたアタランテは、ぎゅ、と唇を噛み締め。強く、固く、挫けそうな意思を満身よりかき集めて、囁いた。




「私は……」



















ヘラから迸るラスボス感よ……。

ちなみにカリュドンの猪さんは、かなり強化されてます。
はっきり言って、激強です。天の牡牛みたいに、猪(笑)とはなりません。

死亡フラグとなるか否か。


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カリュドンの猪狩り(上)






 アルゴー船の冒険に次いで、各地より集いたるは勇猛なる戦士達。
 その名簿をざっと流し見るや、メレアグロスは真っ先に問うた。

「ヘラクレスはどうした?」

 此度、最も当てにしていた英雄の名がどこにもない。露骨ではないが、些かそれに落胆していると、彼の動向を知っているらしいアテーナイ王テセウスが耳打ちした。

「詳しくは知りませんが、どうやらアウゲイアス王の家畜小屋の掃除を第五の試練として成し遂げた後、奴隷となって女王オムパレーに三年仕えることになったようです」
「……何をやっているんだ、あの馬鹿は……」

 呆れて物も言えん、とメレアグロスは苦笑する。
 奔放な義弟らしいとも言えるし、らしくないとも言える。判断に困るのがまた……。

 ――この時、テセウスは敢えて言葉を選んでいた。奴隷に身を落としたのは、ヘラに狂気を吹き込まれて親友を殺してしまい、その罪を清めるためだということを言わずにおいたのだ。
 テセウスはメレアグロスの普段と異なる、焦りとも怒りとも取れる、張り詰めた余裕のなさを感じ取っていた。
 何より言葉にはしないが、大王が最も重んじるアタランテの姿が彼の傍にないのである。このことから、今のメレアグロスに要らぬ心労を掛けるのは避けた方がいいと判断した。
 常のメレアグロスなら、テセウスが何かを伏せたのを瞬時に見抜いていたはず。それがないのだから、テセウスは自らの考えは誤っていないと確信していた。

 騎士団(メレアクレイタイ)の総員……ヒッポリュテ以外の騎士が集っているのを確認し、メレアグロスは名簿をテセウスに放る。
 空中大宮殿より城下を一望する彼の眼には、数多の英雄達の壮観な勇姿が映っていた。



 城下ではなく傍らに。アテーナイより、この半年で恐るべきミノタウロスを屠り一躍名声を高めた勇者王テセウス。
 スパルタよりディオスクロイ――双剣王カストルと双弓ポリュデウケス。
 メッセニアから、カストルらには劣るもののアルゴー船の船員として勇名を馳せたアパレーティダイのイダスとリュンケウス。
 ラーリッサよりテセウスの盟友、隠者ペイリトオス。
 ペライからアルゴナイタイにして、"征服されない男"の名を持つアドメートス。
 ピュロスから、神々に常人の三倍の寿命を与えられたネストル。
 プティアよりアキレウスの父――勝利を約束される魔剣の担い手ペーレウスとエイリュティオン。
 マグネシアより、テッサリア随一の美女にして大王の伴侶にと自ら望んだ、不死身の女傑とも謳われる槍の名手カイニス。
 アルカディアよりアルゴー船の舵取りアンカイオス。

 そしてイオルコスよりコルキスの王女メディア。






 その他にも綺羅星の如く英雄達が集った。
 知った顔も、知らぬ顔も、勇壮な面構えである。特にメレアグロスが一目を置いたのは、海神ポセイドンの双子、二人併せてモリオネーと呼ばれるエウリュトスとクテアトスであった。
 驚くべきことに、この双子の発する覇気は、テセウスをも超え、ともすると巨神童子と戦った頃のヘラクレスを超える力を感じさせた。或いはメレアグロスと出会わず驚異的なまでの成長をしなかったヘラクレスにならば、互角に戦ってのけるだろう武威を感じる。

 二人ともが青銅の鎧を纏い、己の銀腕を武器とするのだろう。赤銅色の髪と黒い肌、精悍な面構えの兄弟は巌のようだ。
 メレアグロスに見られていることを察したのか、彼らモリオネーは居住まいを正し一礼してくる。その礼を弁えた所作に、メレアグロスは笑みを浮かべた。

「佳い戦士……否、寧ろ佳き将の資質があるな」

 大王の呟きに、テセウスはぴくりと片眉を跳ね上げた。お言葉ですが、と前置きをして、彼は意見を述べる。

「所詮は将止まりでしょう。ある種の思考停止の気を感じます。わたしが見るに、彼らは与えられた任務は忠実にこなしますが、それ以上は有り得ない。有事に際して頼りにすべきではないかと」
「……なんだ、(オレ)が誉めたのに妬いたのか?」
「っ! ……お戯れを。わたしは感じたままに彼らを評したまで」

 黄金の眼差しは、不調に在ってまで輝きに曇りがない。油断した、と歯噛みする愛弟子に、大王は微かに笑いかけて言った。

「武人としては貴様以上だが、あくまでそれだけだろう。勝つための戦術を卑怯と切り捨て、正面から戦うことを好む頑迷な気質が貌に現れている。ちょっとした計略で容易く討てる猪武者だが……正攻法ではヘラクレスの猛攻をも凌ぎ切る勇将と成れよう。要は使い方次第、用いる主次第だな」

 遠くからその姿を見ただけで、そこまで判別出来る洞察力にテセウスは改めて畏怖の念を懐く。
 黄金瞳は、人の持つ資質を見い出すことにかけては並ぶものがないだろう。事実、彼の人物鑑定が外れたことはない。でなければ騎士団(メレアクレイタイ)の伝説は、こうまで燦然と輝くことはなかったろう。

 メレアグロスはテセウスに言った。最優王はあの半神の双子を気に入ったのだ。

「彼らを我がアイトリアに招き入れたい。テセウス、登用の誘いを掛けておけ」
「……はい」

 憮然とした顔を伏せ、表情を隠しながらテセウスは御前より下がる。
 一人前の英雄になったのに、自分の前ではいやに子供っぽい愛弟子が可愛く見えて、メレアグロスは微笑みを深くした。
 しかし、すぐに顔を引き締める。彼はすぐにテセウスに続き宮殿を後にすると、勇士らの集う広間に赴いた。

 ――メレアグロス! メレアグロス! メレアグロス! メレアグロス!

 歓呼して大王の名を讃え、アイトリアの偉大な英雄を崇める声が唱和される。
 それは広間から都全体にまで広がり、メレアグロスが片手を上げて制止しても静まるのに一時の間を要した。

 鎧を、盾を打ち鳴らしていた男達の中から、少女と白髪の美女が進み出てきた。
 少女は、メディアである。名簿で存在を知っていたとはいえ、目前にするとげんなりとするメレアグロスであるが、そんな内心をおくびにも出さずに応対する。

「半年ぶりか。経過はどうか?」
「はい。万事恙無く」

 くすり、と。魔術の研鑽、国の安定化、新王の輔弼という重責を課し、成せるまでアイトリアに来るなと申し伝えていた王女は微笑む。
 彼女は幼くとも肝が据わっているのか、まるで悪びれもせずにやって来たのだ。イアソンの代理などと表して。

 ――いや、天然だな。

 肝が据わっているのではなく、自然体として当たり前に振る舞っているに過ぎない。メディアはそういう王女だ。

「ペリアース様は、あの後、イアソン様のお父様と弟様を殺害なさってました。イアソン様はもうお怒りになられまして、わたしに報復を命じられたのですが……」
「……見下げ果てたな、ペリアース」

 まさか、である。あの意気揚々としていたイアソンに、そんなことがあったとは……。
 メディアは本当に辛そうに眼を伏せる。

「しかし、今後を見据え、イアソン様の国の安定を計るには、血生臭い報復など下策。わたしはイアソン様を嗜めました。そしてペリアース様の所業をイオルコスに流布し、ペリアース様の嫡子のアン……ア……」
「……」

 思い出せ、そいつはアルゴナイタイにもいたぞ、と思わず内心で応援してしまったメレアグロスである。しかし、メディアは愛らしく頬を染め、ぺろりと舌の先を出して微笑んだ。
 どうやら思い出すことを放棄したらしい。

「……ア、なんとか様の手で直接、裁いて頂き、ペリアース様と後顧の憂いになりうる血族の方を穏便に、イオルコスより追放しました」
「……」

 陰謀の臭いがした。が、メレアグロスはそこは眼を瞑る。もとより穏便に済む道理などないと分かりきっていたのだ。
 問題は、イアソンに害があるか、ないかであり。メディアは見事に害なく遣りきった。

「こうしてメレアグロス様の元に参りましたのは、国が安定しかけているとはいえ、まだまだお忙しいイアソン様の代理というのもありますが、何より……メディアはちゃんとやったんです、ってご報告して、誉めて頂きたくて……」
「……そうか。良くやったな、メディア」
「はいっ。えへへ……」

 頭を撫でてほしそうなメディアであるが、メレアグロスは曖昧に誉めるに留めた。
 それでも、メディアは可憐に笑い、心底嬉しそうに杖を胸に抱く。

「メレアグロス様、お久しぶりで御座います。不肖カイニス、招集に応じまして罷り越しました」

 鎧兜も纏わず、純白の衣と白い短髪、銀色の瞳の美女が名乗り出る。
 海神ポセイドンに愛され、不死身の肉体を得た英雄である。カイニスに、メレアグロスは眉を落として呆れ顔で迎えた。

「カイニスか。……男になったり女になったり、忙しい奴だな貴様も」

 このカイニス、元は女だったのだが、ポセイドンに無理矢理に行為に及ばれ、それに嘆き悲しんだ末に不死身の男の体を望み、ポセイドンがそれを叶えた過去を持つ。
 故に、メレアグロスの伴侶と望んでやって来た時、彼女は"彼"だったのだ。

 それがこうして女に戻っている。メディアを見ると、照れたように小首をかしげた。

「お恥ずかしい……しかしこのカイニス、これからは女の英雄としてお側に置いて頂きたく」
「それは、貴様の働き次第だ。知己とはいえ、贔屓にはしないぞ」
「……はい。無論で御座います。……行くぞ、メディア。我々はなんとしても御前に侍る身となるのだ!」
「はい、カイニス様。……それではメレアグロス様、一旦控えさせて頂きますね」

 言って、少女と美女は退いていった。

 メレアグロスは気を持ち直し辺りを見渡す。そして、言った。



「貴様らは何を望み、我が呼び掛けに応じた?
 狩りの時が来たぞ。神罰の獣の皮か、牙を求めるか。
 地位か、名誉か、富か。
 望むものを与えよう。神獣を討ちし者に! 

 ――出るぞ。成功を願う、貴様らの狩りに!」


 我らの狩りに! 応じた雄叫びが、戦いの始まりを告げた。





















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カリュドンの猪狩り(中)






 メレアグロス自らの母アルタイアー。彼女の兄弟にしてメレアグロスの叔父に当たる者達の狩りへの参加を、大王は決して認めようとはしなかった。

 というのも、彼の中でこの狩りは、後に続く死戦への試金石という位置付けであり、いたずらに死者を増やすことを厭ったからだ。
 それは暗に叔父らの無能と、それに比例する強欲さを疎んじたということでもあるが、母にとっては大切な兄弟故、要らぬいざこざを起こさぬよう配慮したとも言える。
 叔父らがこれをどう受け取ったかは定かでないし、メレアグロスも彼らの不満などは捨て置いた。所詮は箸にも棒にも掛からぬ英雄未満、身内贔屓で栄光を銘打った狩りに参入させる謂れはない。

 幾人かの叔父との確執を残しつつも、狩りは始まった。

 カリュドンにやって来た彼らが目にしたのは荒れ果てた城壁、畑と穀倉庫。蓄えの殆どを食い荒らされ、踏み荒らされた故郷にメレアグロスは怒りを覚えたが、英雄軍を周囲の警戒に充て自らは急ぎカリュドンの宮殿に向かった。
 父オイネウスとアルタイアーは、憔悴しきった様子で、頼りとなる子にして大王のメレアグロスを見ると歓喜して駆け寄り、三人共々抱き合った。
 妹達もすっ飛んできて、偉大な兄に縋りついて如何に神罰へ恐怖したかを赤裸々に語る。メレアグロスは無意識の内に火傷痕の残るアルタイアーの手を握り、母や妹らに言う。

「オレが来た、もう心配はいらない」

 感極まって啜り泣く母と妹達を慰め、十四歳の末妹ディアネイラが無言で背中に縋るのに、彼は相変わらずの寂しがり屋だなと苦笑する。
 そして父オイネウスに向き直る。儀礼的な一切を省き、アイトリアの穀倉地帯テッサリアから物資の援助をする故、それで今年は凌いで貰いたいと告げた。
 オイネウスは頷き、厳しくも優しい声音で、息子を激励した。

「父より掛ける言葉の軽薄さを許してくれ、子よ」
「父よ。貴方の言を、このオレが軽んじることはない。なんなりと言付けてくれ」
「……どうか。どうか、死を想うことなかれよ、メレアグロス。今のそなたには死相が見える」
「……」

 父王の言葉に、メレアグロスは瞠目した。
 死相が出ている……オレは死を望んでいるとでも? それとも……。
 そこまで考えかけて、メレアグロスは頭を左右に振った。一瞬、母の方を見そうになって、そんなはずがないと否定する。そしてそうなったら、そうで構わないとも思う。
 しかし。ディアネイラが、言った。

「お兄様、アタランテ様のこと、置いてっちゃだめだよ?」
「……!!」

 思わず、自らの背から顔を出す妹の顔をまじまじと見つめた。

「――そうか。そう、だな」

 苦笑しディアネイラの頭を柔らかく撫でた。
 そう。メレアグロスは、死んではならない。
 子として父母よりも長く生き、生き抜いて、アタランテと添い遂げねばならない。呆然と涙した愛する者の顔を、最後に見た記憶にしてはならない。
 こんなただの少女に言われて気づくなんて、何が最優王か。メレアグロスは肩から力を抜き別れを告げ、カリュドンを後にする。

「メレアグロス!」

 英雄軍に戻りかけたメレアグロスを呼び止めたのは、息を荒らげたアルタイアーであった。
 母は、長方形の青銅の箱を大事そうに胸に抱き、祈りの言葉を彼に掛ける。

「……あなたへ迫る死の運命が、遠ざかりますように」
「言われずとも、貴女よりも長く生きてみせよう、母よ」
「ええ。そう、あってほしい。だから――」

 胸に飛び込んできた母を抱き締め、老いた母の香りに、癒されるものを感じながら、彼女の決意を秘めた宣言を聞いた。

「あなたの死を、この老婆がアイトリアの都に連れて行きましょう。だから、この身だけが確信しています。あなたは死なない、きっと。それが、運命だから」
「……ありがとう。母よ、美しく老いられたな」

 死への忌避ではなく、母の想いへ、メレアグロスは感謝した。慈愛の籠る静かな眼差しに、母は少しだけ照れて子の腕の中から離れた。
 メレアグロスは、英雄軍を統率する立場にある腹心の騎士らに呼び掛ける。

「誰か、母の護衛に着こうというものは? 狩りと、後の戦いへの参画を不可とする命令だ。拒否を許す、自主的に名乗り出よ」

 その命令に、数瞬、沈黙が流れる。テセウスが名乗り出かけるのを、傍らの盟友ペイリトオスが制し英雄軍より進み出る。

「おれが大王の母君の身辺を固めさせて頂きます」
「頼む」
「はい。騎士として、黄金卿の母君を守護し奉られるのは、戦の武勲にも勝る名誉。気になさることはありません」
「小癪なことを言う。野蛮にして単細胞だった昔を忘れたか」
「ははは……なんのことやら」

 ペイリトオスは曖昧に笑って誤魔化し、己の盾を拳で叩き敬礼する。
 頷きを返し、メレアグロスは今度こそ、英雄軍を引き連れ神罰の魔獣狩りへ向かった。




















 なだらかな斜面の続くジュゴス山。
 生い茂る樹木は瑞々しく、土の豊かさと緑の多さは例年を超えていた。
 常にない豊潤な土の臭い。噎せ返りそうな蒼さ。野猪は自然の寵児か、と誰かが魔獣を讃えるのに、メレアグロスは明確に否定を示す。

「違うな。奴はこの山を己の領域としている。住み良く作り替えられたこの山は、既に月の聖獣(アグリオス)の腹中と心得よ」

 魔獣の本質は呪いである。見せかけの豊かさに注目せず、その裡を見なければならない。
 生まれながらの英雄にして源流の貴族、勇者王テセウスは右腕を覆う籠手に内蔵した宝具『辿り糸の叡知(アリアドネー・ラビュリントス)』を伸ばし、地面に射し込むや納得して言った。

「……なるほど、確かに。これは呪いと言えますね」

 魔獣(アグリオス)は、山の土と緑の因果を操り、寿命を早め、数年分の豊かさを山に齎しているに過ぎない。
 一見すれば確かに素晴らしい。しかし長期に見れば災厄である。捨て置けばジュゴス山はたちどころに枯れ腐り、死した山と化すだろう。
 メレアグロスは感心した。

「無限に伸びる不断の糸か。可視的な能率に加え、音波と微弱な電気の波を感知、取得した情報を担い手の脳に集積し解析・演算する。擬似的な頭脳をもう一つ得たに等しいな。何処で手に入れた?」
「一目見ただけで内包した力を看破しないで頂きたい……。これは我が妻、アリアドネより授かりしものです。アステリオス……否、ミノタウロスの血を吸い魔獣殺しの属性を得た短剣もあります。此度も、その後の戦いでもお役に立てるかと」
「戯け」
「……は?」

 唐突な叱責に、テセウスは眼を点にした。そんな愛弟子に、メレアグロスは呆れながら叱りつける。

「妻帯したのならそう言え。祝儀もやらん狭量な主と思わせる気か」
「あ……いや……。……申し訳、ございませんでした」
「……馬鹿が。事が終われば、祝儀と共に暫しの暇を出す。妻を置いて長く留守にするな。傍にいてやれ」
「……は、ご厚情、感謝、いたします」

 なんとも言えない顔で、照れたように俯き、テセウスは御前より下がった。

 ――テセウスが持つのは、短い生涯で愛用することになる棍棒と、その先端に短剣を括りつけた短槍である。
 疑似頭脳でもある不断の糸と、魔獣殺しの短剣を括りつけた悪殺しの棍棒。身に纏う鍛治神の鍛えた白銀の騎士鎧も相まって、極めて強力な戦力となるだろう。

 メレアグロスは英雄軍を中層より指揮し山を進む。
 山狩りだ。アグリオスの住み処を探し、その痕跡をテセウスとメディアが探っていく。
 やがて、ジュゴス山の中腹に、城の門ほどもあるくり貫かれた洞窟を見つけ、彼らは確信する。
 これが、アグリオスの住み処なのだ、と。

 迸る獣気は、禍々しい黒霧を放つ。メレアグロスは告げた。

「まずは挨拶だ。総員、こんにちはの合図で洞穴に槍を投じよ」



























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カリュドンの猪狩り(下)




 知・体・武・芸に於いて、決して到達し得ない究極の概念こそが神であり、自らの生を賭して神に近づくことこそを、ギリシャ人は最大の目標とした。

 彼らのオピニオンを極めて簡潔に言えば。より強く、より美しく、より賢く、だ。

 危険を厭わぬ冒険こそが男の価値であり、困難に立ち向かう気概が英雄に必要な要素とされた。
 足の速さ、力の強さ、容姿の美しさも英雄の条件であり、向こう見ずなまでの開拓精神を以てして海を越え、未知の土地に行き、そこに根を張った。
 そうして彼らはエーゲ海を越え、黒海沿岸から地中海の北の海岸悉くをギリシャの領域として征服。遥か未来、近代文化の源流となるほぼ全ての学問を生み、芸術を生み、オリンピックなどのスポーツを生み出していったのだ。

 ――即ち、"英雄"とは人間の極限である。

 神に近づくことを目指す古代ギリシャの価値観に於いて、英雄の称号は超人の証。
 神代の後に続く時代では毒素とされる神秘。それを当たり前のように呼吸し、独自の文明を着実に築き上げていく彼らは無力な民からして超人の素質を持つ。
 濃密な神秘の大気を満身に浴び呼吸する人体は、その体一つで重火器を弾き、二本の腕のみで巨塔の如き建造物を破壊してのけるだろう。
 そんな超人の中にあってすら外れるのが『英雄』だ。謂わば、超人の中の超人。人の規格を外れ、神に近い人型の怪物と言える。

 そんな彼らが、英雄の中の英雄とも言われる半神(デミ・ゴッド)の号令に従い、渾身の力を以てして槍を投じる。快活に笑いながら、カイレ(こんにちは)! という掛け声を乗せて。
 擲たれた無数の槍は音速で飛来した。さながら徹甲弾の如き重厚な運動エネルギーを宿し、門扉を彷彿とさせる巨大な洞穴に次々と吸い込まれていく。やがて度重なる着弾の轟音と共に瓦礫が落ち、崩落した洞穴が岩石に埋め尽くされた。

 喝采をあげる英雄軍。彼らは人類の叡知、現代兵器で武装した大国の軍を鼻唄混じりに殲滅する絢爛なる勇者達だ。
 彼らは一切の小細工抜きの、物理一辺倒の攻撃をこよなく愛している。分かりやすい破壊ほど――人々に称えられる暴力ほど心地よいものはないからである。胸を張って堂々と、悪辣なるものを討つ……そんな大義があるとなれば俄然やる気も出ようというもの。

 しかし、流石にこれはやり過ぎたかなと笑う者がちらほらと見える。これでは戦利品が得られないのでは、と真剣に危惧する者までいた。

 一騎当千の英雄を雑兵として使役せしめる黄金の首領は、嘆息して彼らを戒めた。カイレと言ったのだ、返事(カイレテ)を返されても可笑しくはなかろう? と。
 その場が大きな笑いに包まれたのは、首領が冗談を言ったのだと思い込んだ者が多かったからだ。しかし賢明なる者は即座に油断を消し去り、気を引き締め直した。まだ獲物の死を確かめたわけでは……。

 ――ズン、と腹の底に響く重い足音。笑い声が消えた。ズン、と骨の髄まで浸透する震動。ズンッ! 地殻変動に等しい地表の爆発。

 次の瞬間、洞穴を塞いでいた岩石が蹴散らされた。

 飛び出してきたのは、小山ほどの体躯を誇る優美なる黒獣。異形の月。
 巨体に見合わぬ骨張った貧相な皮膚、垂れ下がった皮膚にしがみつく墨のように艶のある黒毛。斑点のように目立つ白い毛が不吉な病のような呪いを帯び、おぞましいことに皮膚と体毛の上に穴だらけの筋肉が蠢いていた。
 体の構造を裏返したような有り様だった。内臓が地面に落ちている。目蓋のない、充血した目玉。聖獣、月の獣の名が疑わしくなる異様な姿……嗚呼、と黄金が呟いた。猪は月女神と戦神の共有物だったな、と。
 万の生命を冒涜し、嘲笑する邪悪な獣。緩やかな曲線を描く三日月の牙だけが、青白く煌めき美しかった。

 神罰の魔猪(アグリオス)が声無き声で咆哮した。
 聞く者の正気を削ぎ落とす邪悪な声。突然のことに動転した気配が英雄達から漏れた。
 無傷だって!? 誰かが信じられないといったように叫ぶ。
 アグリオスは全くの無傷だったのだ。魔猪は英雄達の槍を受けたはずなのに、痛痒を覚えた様子もない。
 獣の住み処を荒らし、憤激させただけ。暴走戦車の如くに怒り狂い、アグリオスは恐れる素振りもなく英雄軍に突撃を仕掛ける。
 異形が眼を血走らせ、一直線に自分達目掛けて突き進んでくるのだ。小山ほどの超質量の進撃は、それだけで圧倒的脅威となる。咄嗟にその突撃の軌道線上から退避出来た者は幸運だった。逃げ遅れた五人の英雄が牙で突き殺され、突進で轢き潰されたのだ。
 如何な英雄人種と言えど、人は人。胴体の真ん中を破城槌の如き牙に串刺しにされ四散すれば死ぬしかなく、踏み潰されれば語るも憚られる無惨な有り様になるしかなかった。

 メレアグロスは声をあげた。ネストル! そこにいると狙われる、死にたくなければ走れ!
 ぎょっとしたのは目端の利きそうな青年だった。アグリオスの狂気に呑まれた視線に射竦められ、弾かれたようにネストルは逃れようとアグリオスの後ろに回り込むように走る。
 自身に狙いを定めたなら、アグリオスの死角に逃げ込み、逆に英雄軍の眼前に無防備な尻を見せてやろうという機転である。言葉にすれば簡単だが、一撃で英雄を屠る怪物を前に、その簡単なことをするのは存外難しい。
 ネストルの機転を称え、まんまと尻を見せた獣を嘲る英雄軍。そこにメディアが刹那の間に詠唱を完成させ、薄紫の極太魔術砲撃を六条叩き込む。見たこともない実戦的な直射型砲撃魔術に瞠目しながらも、女英雄カイニスが槍を投擲した。共に対城の一撃に一歩足らずとも、十分に必殺足る一撃。無防備なアグリオスの背後に突き刺さりそうなそれは、しかし。

 なんだと!

 カイニスが信じられないと叫ぶ。彼女の槍は確かに直撃線上にあった。
 であるのに、カイニスの槍はアグリオスを避けた(・・・・・・・・・)
 まるで槍がアグリオスから逃げるように。不自然なまでに槍が逸れた。カイニスの槍だけではない、メディアの砲撃もまた曲線を描き地面に突き刺さり、法外の魔力爆発を巻き起こし山に傷跡を残す。
 メディアが口に手をあて、可憐に驚いて見せた。まあ、と。メレアグロスは面倒そうに嘆息した。

「因果逆転。自らに直撃するモノを『当たらなかった』という結果を盾に逸らしているのか」
「あ、さすがメレアグロス様。気づかれましたか」

 感嘆したようにメディアが手を叩いてはにかむ。それに、メレアグロスは呆れて言った。

「ああ。貴様が時折り投げてくるいかがわしい魔術にもな」
「……えへへ」

 ちろりと舌の先を出して照れ隠しするメディアに、はあ、と溜め息を吐くしかない。厄介な姫君だ。所有者の対魔力を引き上げる、アタランテから贈られた翠色の首飾りがなければ危なかったかもしれない。油断も隙もないとはこの事だ。

 しかし、アグリオスの異能を一目で看破してのけたのは、メレアグロスとメディアの他に、テセウスしかいなかった。
 不用意にペーレウスが手槍を掲げ、投げつける。
 素早く振り向いたアグリオスの瞳孔が、嫌らしく細まった。ペーレウスの槍は極端な曲線を描き逸れ、そのままペーレウスに向け跳ね返って来たのだ。驚愕してペーレウスは回避したものの、その槍は同郷のエイリュティオンに突き刺さり絶命させた。
 馬鹿が! ペーレウスを罵り、アンカイオスが斧を構えてアグリオスに挑みかかった。だが初動から全速での突進に移ったアグリオスの巨大な頭蓋に斧を弾かれ、撥ね飛ばされて虚空を舞い、身動きの出来ない空中で牙に突かれアンカイオスは爆散した。
 英雄軍がたじろぐ。嘆息し、メレアグロスが手槍を上空に投げ、手槍がアグリオスの背後に突き立った。何を? 一同が怪訝にメレアグロスを見て、アグリオスは嘲笑う。どこに投げている、と。
 メレアグロスは言った。

「後方注意だ。悪く思え」

 何、と疑問を懐く者らを横に、不意にアグリオスが絶叫した。神罰の魔獣の後ろ足に、メレアグロスの手槍が突き刺さっていたのだ。
 右手首に巻かれたブローチの力である。投げたものを手元に返すブローチは、手槍を従順に引き戻し、その軌道上にあったアグリオスの後ろ足に食いつかせたのである。
 槍を直撃せしめたメレアグロスに対し驚嘆する英雄軍に大王は頷く。こういうわけだ、と。

「奴の操れる因果は限定的なようだぞ。奴を直接狙った物のみを逸らす、といった感じだ。故に奴の真上を狙って槍を投じよ。自由落下に任せた絨毯爆撃ならば奴に傷を負わせられよう」

 腕を上げ、振り下ろす。その動作に英雄軍は統率された。一糸乱れぬ動作で、同時に槍を投げつける英雄軍総勢五十名。メディアが瞬時に英雄軍の槍の穂先に強化の魔術を掛けた為か、五十の槍は比喩抜きの焦土化爆撃となってアグリオスに降り注ぐ。
 山の地表を抉り、アグリオスに次々に着弾するミサイルの如き槍の雨霰。絶叫し、アグリオスは地響きと共に逃げ出した。
 追わんとする者らにメレアグロスは肩を竦める。好きにせよ、とメレアグロスが言うと、競い合いながら一同は駆け出した。

「良いのですか」

 みすみす手柄を渡して。
 テセウスが怪訝そうに問うのに、メレアグロスはなんでもないように返す。

「構わん。所詮は次の戦のために集めた烏合の衆だ」
「アグリオスさんに負けちゃうなら、それまでの者だったということ、ですか」

 メディアが言う。にこにこと、邪気なく。
 微妙な気分になりつつ、メレアグロスは頷いた。

「……せいぜいアグリオスには篩に掛けて貰うさ。共に戦うに値せぬ者を除く絶好の機会だろう」

 冷酷な物言いは、決して王者は慈悲深いだけでは勤まらぬという証左である。

 斯くして魔獣狩りは六日間にも及んだ。
 大王を筆頭に、騎士は積極的に狩りに参加せず、あの後暴れまわったアグリオスによって十七名もの英雄がその命を散華させた。
 その中に、ペーレウスが入っていたことは予想外であったが。とりたてて重要でもない。カストルは彼の魔剣を回収し、大王に捧げたが、それをそのままカストルに賜わした。

 生き残ったのは、三十三名の英雄。
 メレアグロスは以上を以てふるい落としを終了とし、雷火槍を投じて力業で因果の守りを破りアグリオスを仕留めた。
 アグリオスの二本の牙をモリオネーの兄弟にそれぞれ与え、毛皮を削ぎとり自らの物とし、余ったものを神々に捧げる生け贄とする。

 さて、とメレアグロスは内心嗤う。

 もういいだろう。ミネルヴァに始動するように言わねばならない。
 彼は、まるで何かに急かされるように動き出した。






























次回、人類史的なターニングポイント。


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神権失墜の因 (上)




 貴婦人の顕現せし神格。
 貞淑なるの権。
 畏敬し奉るべき母の能。

 『白い腕』とも。『黄金の御座』とも形容される婚儀の象徴神。

 オリュンポス十二神が一柱、ヘラ。



「あら。あらあら……」



 上機嫌に。そう、極めて(・・・)上機嫌に、豊かな金髪を揺らしながら、女神は毛先を人差し指でくるくると絡める。

「見るに耐えない獣だこと。所詮はレトの娘、下賤な血統に相応しい趣味ね……」

 神罰と銘打ち、ヘラの寵愛篤き英雄の故郷に斯くも穢らわしい獣を遣わすとは、相も変わらず月の女神とやらは愚かしい。
 折りを見て仕置きをしてやらねば、とヘラはほくそ笑み。しかし、そんなことなどすぐに忘れて、待ち望んだ時の到来に胸を高鳴らせる。

 万事恙無くとはまさにこの事。計ったように事は進み、一から十まで思い描いた通り綺麗に事態は推移した。
 ああ、漸くだ、と女神は思う。漸く、不出来で不愉快な子供達の中から、真に愛するに足る者が生まれ出た。
 女神ヘラを敬うのみならず、美しく、賢く、強く、多くの崇拝を獲得せし血族を得られた。

 ――不条理だった。神々の女王でありながら産む子供の悉くが不出来な輩ばかり。
 大神ゼウスが一人で産んだ戦女神などはああも賢く、美々しく、強い神格だというのに。このヘラの子は悉くが不具であったのだ。

 認められない。神々の女王として、それだけはあってはならないことだった。女として、子を産む者として、断じて大神に劣ることがあってはならない。
 もしヘラが、子を産む者としてゼウスに劣るようなことがあれば、自身の存在意義が大いに揺れる。女神としての矜持が砕ける。
 認められない、認めてはならないと焦ってばかりいた日々――長く、辛い日々だったと微笑みを浮かべてヘラは過去を振り返る。夫の不貞を止められない、情けない妻と後ろ指を指されることも、これからは無くなるだろう。

 そう! ヘラには素晴らしい英雄が付いているのだから!

「メレアグロス、嗚呼、妾のかわいいメレアグロス……! 待っててちょうだいね、あと少し、もう少しの辛抱ですよ!」

 ()息子(・・)に。
 ()()に。

 ヘラは純粋に愛せる者の為に、愛せない者を除いた。そして人の身から神の御座に上げ、愛せる者を真の意味で永遠に愛し続けられるように謀った。
 メレアグロスは美しかった。容姿だけでなくその魂までも。神に敬虔な姿勢、知恵の神を凌駕する知恵、神を打ち倒す武勇、群を統率する威厳……完璧だった。完全だった。こういった偉大な英雄こそが、真に己の血を引く者なのだとヘラは思う。

 窮屈だろう、人の身は。
 煩わしいだろう、人のしがらみは。
 早くそれらから解放してやらねばならない。
 早く神の栄光の座に就かせてやりたい。
 きっと喜んでくれる。きっとヘラの誇れる神となる。
 永遠に! 自らの子として愛したいのだ!

 ヘラの栄光(ヘラクレス)とは即ち、メレアグロスにこそ相応しい真名だろう!



「――嗚呼、女王殿。こんなところにおられたか」



 天界の宮殿、その絢爛なる后の間にて。
 慈愛溢れる眼差しで、穏やかに地上を眺めていたヘラに、不躾な声を掛ける者がいた。
 ハッとして顔を上げると、そこには忌々しい戦女神が。ヘラは自らの領域に無断で立ち入った粗忽者の無作法を咎める。

「誰かと思えばメティスの娘ではないですか。妾の許に伺いの使者も立てずに参るとは、知恵と技芸を司る名が泣く無礼ですよ? それとも新たに道化の業でも修めたのかしら。流石に多芸ねえ? アテナ」

 深紅の衣を纏い、燃え盛る炎のような長髪を揺らめかして、アテナは嗤う。
 常ならば敵対的な態度と言葉に怒気を発するところであるが、今は気にもならない。
 アテナは恭しく一礼し、わざとらしく口上を垂れた。

「いやはや面目ない。なにぶん急ぎの用でしてな。神と言えども、火急の事態とあらば道化の真似事でも致そうというもの」

 無造作に深紅の女神がヘラに歩み寄る。
 女王が不愉快げに眉を顰めるのに、アテナはまるで怯みもしなかった。
 そして、こともあろうにアテナは、むんずとヘラの腕を掴み上げたではないか!
 不敬であるぞ! 怒号を発さんとするヘラ。しかし底冷えのする眼差しを射込まれ、逆に怯むことになった。

 上辺こそは丁重に。されど、その真相は冷酷に。アテナは穢らわしい者を――まるで鏡を見せられているかのような複雑な心境で女王を引き立てる。

「さ、こちらへ女王殿。ギリシャの神々が、貴女への拝謁の栄誉を賜らんとしておりまする。どうか大人しくして頂きたい。私も叶うならば乱暴は控えたい故」
「い、痛っ……な、何をするこの無礼者! 妾をなんと心得る!」
「畏れ多くも神々の女王であらせられるな」

 しかし、と。

 アテナは灼熱の如き熱情を灯して、牙を剥き嘲笑う。

「同時に神々に滅びを齎す罪深き者でもある」
「な、なんですって……!?」
「裁きの時だ。気高き者を自称するなら、せめて晩節を汚すような真似はなさるな」

 不敵にして無敵の戦巧者たる女神は、粛々ともがく貴婦人を連行していく。
 オリュンポスの天界から引きずり下ろされ、ヘラが引っ立てられていったのは忌々しい『アレスの丘』。

 かつて、神々の公正な裁判の場として用いられた土地である。




















 列せし神は、オリュンポス十二神を含め、三十を超えた。

 険しく、重々しい面持ち。
 敵意が突き刺さる。弾劾の意思がありありと見てとれた。
 ヘラは困惑する。
 アルテミスの、アポロンの敵意はなんだ。
 ヘスティアの悲しげな目は。
 デメテルの無感動な瞳は。
 ゼウスの怒りを秘めた姿は。

 まるで、自分が裁かれるような空気は。

「……あなた様。これは、如何なる儀でありましょうや。不当に我が身を拘束せし戦女神めをどうにかなさって? 妾の腕が痛くて堪らないの」
「そなたは」

 秩序を司る故、それを乱されることを何より嫌う大神は、声を震えさせて后の訴えに眩暈を起こした。

「后よ。そなたは、何をしたか理解しておるのか……?」
「何を、とは……さあ。なんのことを言っているのか、とんと理解出来かねます」

 ふてぶてしい態度に、アテナは失笑して。月女神が激怒し、太陽神が殺意を帯びる。
 神々が、悉く怒気を発してヘラを睨んだ。それらを睥睨し、ヘラは煩わしげに嘆息する。

「……如何な大神と言えど、謂われなく妾に無体を働くのであれば、妾にも考えがありますよ。さあ、こんな不毛な集まりは解散してしまいなさいな。妾も暇ではないゆえ」
「何故暇ではないのかな? 女王殿」

 アテナが揶揄する。ぎらりと睨み、ヘラは言う。

「いまや遠くパラディウムに生じた脅威のほどは、そなたらもよくよく感じていましょう。これを討てるのは、妾のかわいいメレアグロス以外に考えられない! 妾はメレアグロスに加護を与え、かの英雄の武勲に華を添えねばならないのです。それが神々をも救う希望の階となりましょうや! 時間はない、早く妾を解放なさい!」
「……は。どの口がほざく。その面の皮の厚さ、この技芸の神たる私にも真似できぬな」
「……なんですって?」

 アテナの不敬のほどは、ヘラの我慢の限界を抜くのに充分だった。憤怒の形相で睨み付ける様は、流石に神々の女王。その神威は強大、多くの神は仰け反った。
 が、アテナは涼しげな風貌を崩しもせず、残念そうに嘆息するのみだ。

 アレスの丘。

 ヘラを眼下に。取り囲むように神々は広がり聴衆となり、ゼウスの左右を固める十二神。
 罪人の如き立場に立たされるヘラの内心は煮えくり返っていた。どうしてくれようとヘラがアテナへの報復を考え始めるや、ゼウスが重苦しく口を開いた。

「……もうよい。儂とて巨人どもの動向に目を光らせておかねばならぬ。無為に時を浪費するわけにはいかぬ。アテナよ、今一度我が后の罪の証を此処に示すがよい」
「ああ、御意のままに」

 仰々しく応じ、アテナは懐より水晶を取り出した。
 虚空に投影されしはヘラの立体。歌い上げるは策謀。企み事を朗々と語る自らの声に、ヘラは顔を蒼白にする。
 すぐさま水晶の発する己の声を掻き消さんとヘラは金切り声を発した。

「ヘカテーェェぇええ! これはそなたの企みか!? 妾を蹴落とし大神の后の座を! 神の女王の座を! 妾から奪わんとする陰謀か!」
「何を戯けたことを」

 上品に口許を隠し、黒衣を纏い、黒い太陽の杖を担う死と魔術の女神は嘲弄を示した。

「この身は既に女王である。この上さらに権威を得てどうするというのだ? 阿は大神の愛を求めてはおらぬのだ。それでどうしてあなた様の座を欲しよう」
「ではアテナですか! 妾を不当に陥れ、何を求めるのです!?」
「何をと申されましても、正当なる裁きをとしか」

 嘲笑も露にアテナは断ずる。
 そして周囲に言った。

「お前達も罪には罰が必要とは思わないか? それこそが秩序である。それこそが誇りある神である。貴し者を自認するならば声を上げよ!」

 裁きを! 罪には罰を!

 怒りと屈辱に顔を真っ赤に染め上げ、ヘラは言い募った。

「……いいでしょう! 甘んじて罰は受けましょう! しかし、せめて今暫しの時を妾に寄越しなさい! 妾は英雄メレアグロスに加護を与え彼の者の難行を助け――」
「ああ、それは私がやろう。なんの憂いもなく裁かれるがいいぞ、女王殿?」
「――ア、アテナぁ!!」

 遮り、英雄を祝福する権利を奪われた貴婦人が怒髪天をつく。
 ゼウスは悲しげに目を細めた。

「……のう、后よ」
「大神! あなた様! このでしゃばりな小娘を黙らせておくんなまし! もう我慢が、」
「――黙れぃ!」

 天空神の一喝に、世界が震動する。悲しげにゼウスは糺した。ヘラのおろかな真似を、心の底から嘆いた。

「そなたは己が何を仕出かしたか、解っておるのか! 儂とそなたの子を……◼◼◼を堕とし、神々の、世界の、秩序の敵としたのだぞ!? なんたることを……あれが如何に不出来であろうと、我が子であろうが!?」
「あっ、あんなもの、妾の子などでは……」
「なれば、儂の子である! 神を反転させ怪物とした罪、子を殺めるべき存在とした罪! 秩序を乱した元凶としての罪! 人間の世界と冥府、天界、神々の脅威を産み出した罪! タルタロスの深層に落とすに足る充分な罪過であると心得よ!!」
「なっ、あ……!?」

 ゼウスは雷霆を振り上げた。
 斯くもゼウスが激怒したことはない。前例のない主神の憤怒に神々は怯えた。ヘラも、腰砕けとなって、大神を見上げる。
 それを。止める者がいた。

「父よ、待っていただきたい」

 アテナである。

「裁きとはいえ、夫が妻を殺めるは夫の罪ともなる。激情のままにタルタロスに落とすのは早計だ。ここはひとつ、罪を今少し軽くされてはどうか」
「あ、アテナ……?」

 まさかの助け船に、ヘラは呆然とアテナを見た。ゼウスも愛する妻を苛烈に罰するのに躊躇いがあったのか、その仲裁にどこか安堵しているようだった。
 アテナは言う。尤もらしく、神らしく、傲慢に。

「仮にも神々の女王。無体に扱うのはどうか? 神の席にこれ以上の空席を作るのは上手くない。罰として機能する裁きは、女王殿にとってこれ以上ない恥辱であるべきだ」
「……それは?」
「父よ、女王殿の神籍を剥奪されよ。無論、期限付きで」
「ふぅむ……」

 ヘラは、唇を噛み締めた。千の罵倒が口を突きかけたがなんとか堪える。タルタロスに落とされるよりは、まだその方がましという打算があった。
 大神は尤もらしく唸る。ヘラの美貌を惜しむ心情が透けて見えた。更に一押し、女神は知恵を入れる。

「人に奉仕させるのだ。女王殿にはそれで反省していただき、今後は心を入れ換えて……大神に意見せぬことを誓わせてはどうか?」

 それは、ゼウスの不貞を、実質歯止めをかけぬということ。アテナの言にヘラは頭に血を昇らせた。なんてことを! 貞淑さを司る神を前になんたる放言!
 しかし、ゼウスはそれに乗り気だった。

「そうだな、そうするのが妥当か」

 何が妥当なものか! 女王の叫びは、しかし届かず。

「ヘラよ、貴様の神籍を剥奪する。期限は……そうさな」
「一年、いや五年が妥当では?」
「ふむ。では、二年だ。二年、奴隷としてオムパレー女王に仕えよ。見事任期を果たしたなら、神籍に戻すこととする」

 温い裁定だった。先程までの激烈な怒りを鈍らせている。
 アテナはまるで残念なふうでもなく。まあそんなものだろうと納得しているようだった。
 そうして、ヘラは神籍を剥奪され人に堕ちる。
 人の女として、奴隷として、地上に落とされ、オムパレー女王の許に連れられていかれた。

 ゼウスはそれで、もうヘラを罰したつもりとなり。
 神々も不満を懐きながらも、ゼウスの決定には逆らえなかった。

 だが。

 事態は急転する。




 ――ヘラが誘拐されたのだ。




 その報にゼウスはひっくり返るほど仰天し、その行方を探らんとして、ヘラを拐った下手人をどうしてくれようと怒りに燃えた。

 そして。拐われたヘラを見つけ出し、救出した者が現れる。



 最優王、黄金の狼。

 メレアグロスであった。


















何がターニングポイントなのか。賢明なる読者諸氏なら見抜かれておられるでしょうが、答えは次回に明らかになるでしょう。


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神権失墜の因 (中)




「 契約の時だ 」

 ()に望みたるはいずれであるか。
 魔道の深淵か。
 魔境の叡知か。
 はたまた根源への接続か。
 なんなりと申すがよい。囀ずるは自由ぞ。

「 そんなものは要らん 」

 では何を求める?
 阿は遠くにまで力の及ぶ者。意思の者。死の神、霊の先導者、無敵の女王。
 黄金よ、獣よ。いやさ、運命の外れ者。あなた様の望みはなんである。
 何物も逃れ得ぬはずの運命より外れし運命の寵児。あなた様の言動全てに興味が尽きぬ。疾く、疾く、申すがいい。

「 万象の根源。無限の叡知。権能の全。そんな力に何がある。全は砕ける、無は潰せる。時も世界も我が槍が奔れば燃え尽きる。叡知があろうと生死の重さに変わりなく、根源へ接続しようと人は人。であれば躍起になって求めることもない。そんなもの、とうの昔に手に入れているのだから 」

 世界の全てを手に入れていると? 傲慢だな王者よ、貴き者と定められし英雄よ。あなた様は此の世全ての悪と善、それらを既に掌中に納めていると嘯くか。

「 間違えるな。(オレ)にとって(オレ)の生きる世界が全てだ。故に、世界は(オレ)の物。眼に映る全てを背負ってこその王者であれば、背負えずとも生きられるのが人だろう。全てだとか唯一だとか、くだらんものに縛られる生になんの喜びがある。人は己の道を歩むことに喜ぶべきで、そこに加えられるものは余分でしかない 」

 欲するのが過ちだ、と?
 なるほど、なるほど。無欲なのは善きこと。だが後悔めさるな。
 逃した魚は大きい。あなた様は世界を改変する鍵を捨てたのだから。
 いつか、後悔なさる。この鍵があれば、きっと成せたこともあったろうにと。

「 後悔する? (オレ)が? 」

 何を笑う。有り得ぬとでも?

「 いいや、有り得る。確かに後悔する時がくるかも知れない。何せ既に(オレ)は、己の迂闊さに幾度も後悔してきたのだから。過去改変、成せるなら為したいと思う気持ちは確かにある 」 

 ……。

「 だがな、侮るなよ魔術神。根源の接続者。(オレ)は……オレは、断じてこの現実を歪めようとは思わん。それが何故か解るか? 」

 解らぬ。解るが、解らぬ。何故だ、教えよ。

「 この世界はオレのものだ。だがオレの世界には、オレよりも貴い者が在る。であればオレの一存で、何もかもをどうこうしようと思うことはない。きっと人のまま、人として、あらゆる困難に挑むだろう 」

 それが、人だと?

「 違う。それがメレアグロス(オレ)だ。他の誰でもないこのオレという人間だ 」

 なるほど。
 なるほどな。
 阿は魔道、深淵の叡知。全智を司るは阿の職分ではないが、全を知ることは容易くもある。
 人の不自由、あなた様の苦悩、まるっと全てお見通しなれど。こうして見て、聞くことは新鮮な気持ちにさせられる。

 よいでしょう。阿はあなた様との契約を結びましょう。
 ただし約束なされ。あなた様はこれより、阿に繋がらんと欲する魔道の者……か弱き魔女の庇護者となると。阿と同じように、見守る者となると。さすれば阿は如何なる儀にも応じましょう。

「 いいだろう。オレが貴様に求めるのは悉くが俗世のものだ。女神ヘカテー、メレアグロスが依頼する。世界の記録を読み取り、写し出す宝具を貸してほしい。オレとの契約を何者にも知られぬよう伏せてほしい。そして―――を、一つ秘密裏に寄越して貰いたい 」

 仔細承知しましたとも。
 契約が守られる限り、阿はあなた様の御意のままに。
 善き旅を。己の道を往ける喜びに触れた者。
 黄金の狼。幸多からんことを、祈って差し上げよう。

「 感謝する。永遠の生に飽いたならオレに言え。その我を砕き、物言わぬ根源(むくろ)に変えてやろう 」

 うふふ、
 あはは、
 あはははは。

 ええ、ええ。その時が来たなら、阿はあなた様に殺されるとしましょう。大神以外に根源を殺せるのはあなた様ぐらいでしょうから。
 今は(・・)、まだ。

 このままだと反じた神に、無の下層――虚無へと叩き落とされるでしょうけど。

 それは、言わずにおくのが華か。
 絶望して阿に泣きついてきたなら、その時こそ阿があなた様を砕いてしまおう。
 黄金の散る様は、万華鏡のように毒々しいだろうから。とても、見応えがあるに違いない。
















  †   †   †   †   †   †
















 "女"は、呆然と虚空を見詰める。

 白亜の壁に四方を囲まれていた。
 右を見ても、左を見ても、上を見ても、下を見ても。
  白。
    白。
      白。
 網膜の三錐体全てが均質に刺激されていた。
 あらゆる波長の可視光線が均質的な無彩色に映り、気が狂いそうになるほどに清浄な空気に吐き気がして仕方ない。
 視界を埋め尽くす白は、雑音(ノイズ)となって脳内を席巻する。ひび割れた理性に我を見失い、軋む心が必死に現実の理解を拒んだ。
 これは何? 一体なんだというの?
 細切れにされた本能が懐疑した。拒んだはずの現実を、それでも理解しようと脳細胞が反応した。
 記憶が混濁している。自分が何故こんな所にいるのか思い出せない。
 言語化されない恐怖。かたかたと歯が鳴っていた。頭蓋の内を跳ね回る思考が袋小路に追い詰められる。"女"は虚空に視線を固定したまま目を見開き、懸命に事の前後を探ろうとした。答えは己の内に在る、そんな気がしたのだ。

 わらわは、わらわのなまえは。

 なんだろう。なんだったろう。拙く、幼子のように、陸に打ち上げられた魚のように、いと尊き御名を唱えようとする。しかし、しかし、口はぱくぱくと開閉するだけ。

 なまえ、なまえ。

 喘ぐように"女"は嗚咽した。
 失くしてしまったのだと理解したのだ。
 大切な、栄光に包まれた玉名を。

 なまえ、なまえ、なまえ……!

 それでも"女"はもがいた。失くしたからと、諦められるはずがない。なんとか思い出そうと喉を掻き毟る。豊かな金髪を振り乱して目玉に触れた。
 その時だ。あたかも、計ったかのように、狂おしいほど頼もしい雷鳴のような美声が白亜の空間に浸透する。

 ――名前か。ああ、確かにそれは必要だ。

 この、声。

 ……そう、そうだ。
 この声なら、この声なら思い出せる! 忘れてなどいなかった!

 メレアグロス!

 その名を何度も、何度も、何度も何度も何度でも繰り返した。そうすると安心できた。安心できたのだ。
 辺りを見渡す。白い空間が縦に割れ、そこから稀代の偉丈夫が侵入してきた。白い空間を、夥しい雷光で侵し抜くように。
 "女"はメレアグロスの胸の中に飛び込んだ。胸の中で大粒の涙を流して大声で泣いた。
 そうすると、メレアグロスはあやすように背中を撫でてくれて、幼い子供のように安堵できた。

 わらわの、わらわの、なまえは……?

 問うと、答えてくれる。そう信じて、メレアグロスに質問した。
 すると。
 底抜けの悪意が、
   くぱり、
 と、口を開いた。

「……貴様の名は、
 クレオパトラー(・・・・・・・)だ」

 ぁ、と。
 喘ぐ。

 ちがう、ちが、う……。

 クレ……オ、パトラー……。違う、"女"はいやいやをするように首を振り、メレアグロスから逃げるように遠ざかった。
 だが、背後には白い壁。逃げ場は、ない。

「貴様はクレオパトラーだ」

 ちがう、ちがう、はず。

「貴様はクレオパトラーだろう?」

 ちが、ちがっ、

「クレオパトラー」

 恫喝する、低い響き。
 思わず、怯えて。女は、否定を忘れた。

「クレオパトラー? どうした、クレオパトラー」

 ち、が……ぅ。

「クレオパトラー。聞き分けが悪いな。貴様の名前だろう? 何を否定する」

 ……わらわ、は……クレオパトラー……?

「ああ。まったく、己の名すらも忘れるとは、な。世話の焼ける女だ」

 ……ごめんなさい。メレアグロス、わらわは、どうかしていたようね。

「本当にな。昔馴染みとはいえ侍女(・・)にかかずらっていられるほど暇ではないというのに」

 ぇ。侍、女……?

 クレオパトラーは、呆然と、自らの肩書きを唱えた。
 侍女。自分が? そんな、そんな馬鹿な、そんなことがあるはずは。
 メレアグロス? 何を間違えているの? わらわは、そんな低き身分などでは……。

「ああ、余り公衆の面前で呼び捨てにしてくれるな。オレと貴様では身分が違うだろう」

 ……? 何、を……?

 身分が、違う。それは、そうだ。しかしメレアグロスの言っていることは、自分の理解している意味とは違う言葉に聞こえて。クレオパトラーは、不安げに瞳を揺らす。

「……記憶が混乱しているとは聞いていたが、ここまでとはな。度し難い。よもや貴様、自らをヘラ様と思い込んでいるのではあるまいな?」

 っ! ヘラ! そう、そうよ! 妾は、ヘラなの! そう! 妾は――

 それが自らの名前だと、クレオパトラーは確信する。しかし、そこに途方もない違和感があって。クレオパトラーは自らの主張を信じられなくなって、次第に言葉尻を萎ませてしまった。ヘラという名前に、巨大な違和感を感じてしまったのだ。
 まるで、それが己の名前ではないようで。
 女は、途方にくれる。

 メレアグロスは嘆息した。

「戯れ言を垂れるな。ここがどこか教えてやろう。ここは病室だ」

 病室……?

 それは、確か。
 メレアグロスが新設した、人々を救済するための施設。
 なぜ、自分がそんな場所に?

「ああ、オレの義弟ヘラクレスが奴隷として女王オムパレーに仕えていてな。暫しの暇が出来た故に会いに行ったんだ。侍女の貴様と、我が騎士らを連れて」

 ……。

「するとだ。たまたま時期が重なったのか、ヘラ様が神籍を剥奪され、女王オムパレーに二年間奴隷として奉仕することになったというではないか。オレはヘラ様のこれからの労苦を偲び、女王に交渉し、奴隷としてのヘラ様を買い取った。だが賊が現れ、女王がオレにヘラ様を引き渡す場に来る前に、ヘラ様を拐ってしまった……」

 ……そう、ね。確かに、そうよ。妾は、それでメレアグロスに助けて貰って……。

「オレは賊を討ち、ヘラ様を救い出した。だがその際に、賊が破れかぶれに礫を放ち、ヘラ様を害そうとした。恐れ多くも神々を憎んでいたらしくな、最期の最後までヘラ様を狙っていたよ」

 ……妾が、憎まれて……?

 困惑するクレオパトラーを無視し、メレアグロスは続ける。

「貴様はヘラ様を身を挺して守った。だが礫の当たり所が悪かったのだろうな、貴様は昏倒し、幾日も眠り続けた。ヘラ様は大層貴様の安否を気にしてな、早く礼を言いたいなどと言って聞かない。病み上がりで辛いだろうが、ヘラ様に会ってやれ」

 ぇ? ヘラは、妾よ? ……会うも、会わないもないでしょう……?

 訳が分からずそう言うと、メレアグロスは深々と嘆息した。これみよがしに肩を竦め、処置なしだと呟いた。

「貴様はクレオパトラーだ。いいな、粗相のないようにしろ。仮にもこのオレの侍女なんだ、面目を潰すような真似だけはしてくれるな」

 そう言って、メレアグロスは半身を開き、背後に道を開けた。

 そこに。

 白い空間に、一人の人間の女が。

 豊かな金の髪の。
 天与の美貌の。
 威厳纏う、無機的な表情の。

 ヘラ(・・)が、やって来た。

「ぁ……?」

 淡々と、ヘラ(・・)が礼を言う。クレオパトラーが身を挺して自身を助けたことを、高慢に誉める。
 ヘラ(・・)は、機械的に。
 感情の薄い、幼子のような無垢な顔で。

「ぁ、ぁあ……」

 クレオパトラーは、悟った。メレアグロスが、騙されている、と。この、偽物(・・)に!
 ヘラを騙る、ヘカテーの人形に!

「ァァアアアアッッッ!!」

 クレオパトラーは修羅のような形相で人形に掴みかかった。瞬時にメレアグロスに鎮圧されても。
 組伏せられ、床に顔を押し付けられても。
 喚き、嘆き、怒り、猛り、発狂すらしてクレオパトラーは眼前のヘラを偽物と信じて疑わず、般若のように禍々しい顔で睨み付ける。

「ヘラ様、これも普段は落ち着いた侍女。此度の無礼、どうかお許しを」
「許しましょう、メレアグロス。そなたの所有物ならば、これぐらいは多目に見ますとも。なにより、恩人ですからね」

 拙く、台本でも読んでいるような、淡々としたヘラの声。
 クレオパトラーは、混沌として激情が限界を越えて、ぷつりと意識を落とした。

 メレアグロスが、遠くで何かを呟いたようだ。




Ας στο διάολο.(アストディアロ)



 地獄へ落とす、と。
 極大の憎悪と共に吐き捨てられる。

 何を地獄に落とすのか、クレオパトラーには最期まで解らなかった。

 解ることは、なかったのだ。


















※ターニングポイントがどこか明らかにすると言ったな。あれは嘘だ(デデドン!!)

長くなったから途中で切っちゃったんだぜ!
でもここまでで分かった方も出てしまったかも。

色々と拙いところの目立つ作品ですが、今後もお付き合いいただけたら幸いです。


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神権失墜の因 (下)





『神権失墜の因は此処に有り』

 紀元前十四世紀、或いは紀元前十三世紀。幻想と神秘の時代。其れは『神代』と題され、お伽噺の領域とされていた。
 だが、史は語る。古代ギリシャ神話の時代に実在の王がいたことを。
 復元された十枚の青銅板が物証とされ、青銅板は斯くの如く後世に語った。

 ――王の知勇は神の如し。数多の偉業を達成せしめる。

 最初の騎士。原初の大王。貴族任命者。ボクシング聖地建設の因。チェスとベースボールの原典開発。病院の新設。裁判の定着。空中大宮殿建造伝説。そして古代ローマに引き継がれる十二表法の制定。
 伝承や神話に散見される逸話、偉業を併せて数えること三十を超え、無数の英雄・学者・偉人の統合された大王だとする学説が有力視される破格の傑物。 
 一部の青銅板には度々ヘラクレスを賛美する文言が盛り込まれ、彼らが義兄弟の関係にあった事、ヘラクレスに該当する英雄が実在した事を示す材料ともなった。

 そして。

 最も保存状態の劣悪な青銅板には、歴史的な記録が残されていたことが、近年明らかとなった。

 ――それは、大王の懺悔。

 西方世界(オクシデント)を率い、東方世界(オリエント)との戦争を主導したという物証である。
 最古の東西戦争の主導。九偉人の一人、ヘクトールに娘を嫁がせトロイアを抱き込み、ヒッタイト帝国との十年にも亘る戦争への橋頭堡とした謀。
 神話に記される、生涯を通じて神に忠実だったという大王が、たった一度だけ漏らした恨み言が、それには記されていたのだ。

"ゼウスよ、私は貴方を赦さない"

















  †   †   †   †   †   †
















 大王メレアグロスの下には、本物の予言者が二名存在していた。

 死の運命をマルスにより免れていた、アルゴナイタイのイドモンと、メドゥーサの鮮血より産まれた蛇に噛み殺されそうな所を救われたモプソスである。
 彼らはどんなに優れた予言者、千里眼の持ち主であろうと大王の運命を見通すことは出来ぬと畏敬し、大王に服従した。
 だが彼ら予言者はある時、宇宙の深淵に触れ発狂することになる。
 狂い、自らの喉を爪で破って死んだイドモンは、大王に堰を切ったように語った。

『かつて黄金の種族が在りて、無限の繁栄と共にあった。しかしこれはティタノマキアに巻き込まれぬよう自ら土に還り滅びた。
 かつて白銀の種族が在った。無垢なる生命であった彼らは、無邪気ゆえに教養がなく、また神々を敬うことがなかったのでゼウスに滅ぼされた。
 かつて青銅の種族があった。トネリコの木より産み出されし青銅の種族、しかしこれらも一組の男女を残してゼウスに滅ぼされた。
 そして今代、英雄の種族の時代である。ペルセウスに端を発し、ヘラクレス、テセウス、イアソン、オデュッセウスなど、半神らの活躍せし時の層。大王もこの英雄の種族であるがその運命は知れぬ。だがこの種族も滅びの定めにある。戦いに明け暮れ自滅し、後の鉄の種族の繁栄、その礎になるだろう』

 頭蓋を砕き、脳髄を自らの手で引きずり出して死んだモプソスは、多くをイドモンと同様の事を語った。されど、英雄の種族について一言多く彼は予言した。

『英雄の種族が自滅するのは、ゼウスの陰謀が遠因である』

 大王はこれを受け、大いに戦慄したという。そして賢者ケイローンと計り、如何にしてこの予言を活かすかを話し合った。
 果たして結論される。英雄の種族の自滅は決して免れぬだろう、と。だが必ずしも全滅する事もないはずだと大王は信じ、予言への対策を考え続け――大王は英雄の種族の興亡が、己に係っていることを知ることになる。



「大神よ。オリュンポスの神々の祝福を我らに与えたまえ」



 それは、"進軍するもの(グラディウス)"の座すパラディウムへ向かう前の最終準備段階。
 天に最も近き宮殿、アイトリアの黄金の都にて、メレアグロスが"ヘラ"という奴隷を天に捧げるべく、祭祀神ヘスティアの司る国の中枢の炉を経由してゼウスに降臨を希った。
 本来このような裏道は通用しない。しかしヘラの今の身分はあくまで奴隷、それも人の身。所有者であるメレアグロスが奴隷の身柄を主神への捧げ物とし、ゼウスの許に戻すことは不可能ではない。
 比類なき美女を捧げる――メレアグロスの召喚の声はゼウスに届き、大神は神々も羨む大王の居城に降臨した。そしてヘラをその目にし、驚嘆することになる。
 ヘラは人に堕ちてなお、美しかった。
 否、人の技の粋を凝らして着飾り、そして憑き物が落ちたように苛烈な気性が鳴りを潜めているためか、以前よりも美しく見えた。
 淑やかで、気性穏やかな妻の姿に、ゼウスの女好きの気が騒ぐ。メレアグロスは敢えてヘラの名を呼ばず「この奴隷を大神の物として捧げる」と言った。
 ゼウスはこれに大いに喜んだ。神籍を取り上げ奴隷とした以上、その身を所有者がどう処したところで自由である。つまり、メレアグロスがヘラをゼウスに捧げ、神籍に復帰させるのは合法だったのだ。
 その代償に、メレアグロスはオリュンポスの神々の加護を求めた。

 メレアグロスには戦女神。
 ケイローンには大神。
 テセウスには伝令神。
 メディアには月女神。
 カストルには海神。
 ポリュデウケスには鍛冶神。
 ゼテスには大女神。
 カライスには祭祀神。
 アスクレピオスには太陽神。
 そして、もし生きているのなら、ヒッポリュテに貞淑神。

 恐るべき大怪魔との決戦を前に、少しでも勝算を高めようとメレアグロスは計ったのだ。
 本当は配下の英雄全てに加護をと望みたかったが、神々は加護を安売りするのを必ずしも快く思ってはいない。危急の事態にあっても、その矜持ゆえに渋るのは目に見えていた。
 故にこそメレアグロスはオリュンポスの神々にのみ限定し、腹心の騎士らにだけ加護をと望んだ。ここがぎりぎり上限だと見越して。

 そうしてメレアグロスと、騎士団(メレアクレイタイ)は神々の加護を得た。
 これで人事は尽くしたと言える。来たる決戦に備え鋭気を養い、メレアグロスはパラディウムに向けて進発するためゼウスの御前を辞そうとした。

 だが、ゼウスはそれを引き留めた。

「メレアグロスよ、暫し待て」

 ぎくりとし掛けたメレアグロスであるが、瞬時に平静を取り繕い、大神の制止に応じる。

「……なんだろうか、大神よ」

 好好爺然としたゼウスは、しかし主神にたる威厳と圧力を放っている。メレアグロスは緊張を押し隠し、跪いて淡々と元の体勢に戻った。

「そなたはこれより"進軍するもの(グラディウス)"の打倒へ向かう腹積もりなのだろう」
「肯定する。明日にでも此の場を発つよう段取りを済ませた。心配なさることはない。神々の加護を得た我らは必ずや"進軍するもの(グラディウス)"を打ち倒そう」
「うむ、それは心配しておらん。そなたならやり遂げると信じておる故な。だが、ものは相談という。一つ、儂の頼みを聞いてくれ」
「……は。なんなりと」
「"進軍するもの(グラディウス)"だがな、

 少しの間でよい、放置せよ」

「……何?」

 一瞬、その言葉の意味を理解しかねて、メレアグロスは固まった。
 放置。放置……? 誰を? 何を?
 まさかとは思うが……"進軍するもの(グラディウス)"を?

 言葉を失ったメレアグロスに、ゼウスは重々しく頷いた。

「世界のバランスを見よ。今や人は増えすぎたのだ。人の数を減らさねばならぬとは、元より考えていたこと。◾◾◾のことは無念だが、どうにもならぬならこの際、最大限に利用しようと決めた。◾◾◾には人の数を減らして貰う。神としての最後の仕事だ、あれも誇れよう」

「……」

「そうさな。……一年だ、一年、"進軍するもの(グラディウス)"を野放しにしておけ。そうなれば人は半減し、丁度よい塩梅となろう」

 絶句、とはこの事だろう。
 メレアグロスの胸中に去来したのは、怒りではなく、真っ白な空白であった。

 大神は、今、なんと言った?
 人の数を減らすと言った。あたかも人を家畜として見ているかのような。
 増えすぎた獣を間引くかのような物言いで、ゼウスは、そう言ったのだ。

 ――否、そんなことはどうだっていい。顔も知らぬ他人がどれほど死んだとて、神の裁定ならば是非もなしと見捨てられる。

 メレアグロスの意識野に迅雷が奔る。
 思ったのは、彼の世界の内の者。◾◾◾の、顔。
 神である。だが、メレアグロスの、二人の父の片割れでもある。
 そんな彼に――虐殺の罪を負わせるのか?
 怪魔に堕ちた父に、人を……?
 これ以上の、更なる汚名を被せようというのか……?

「……」

 不名誉とも、汚名とも、戦神◾◾◾ならば思う事はないかもしれない。
 しかし、しかしだ。
 今の◾◾◾は、神ではない。今の彼の所業は神ではなく、大怪魔の災いとされる。
 永遠に、◾◾◾は、人類史に深い爪痕を残し続ける怪物として名を残す事になるのだ。それを……それを、見過ごして、いいのか……?

「では、しかと申し伝えたぞ。"進軍するもの(グラディウス)"討伐の暁には、そなたを神の席に列する事を約する。では、見目麗しい奴隷の献上、大儀であった。ではな――」
「――暫し、そのままおられよ」
「ぬ?」

 ふと、メレアグロスは、無意識の内にゼウスを呼び止めていた。
 よせ、と心の中で制止する声がする。
 そんなことをしてなんになる、と。

 メレアグロスは歯噛みする。元はといえば、元はといえば、元凶は貴様だろうに! ヘラの暴走の原因は、貴様だろうに!
 貴様が! 貴様が不貞を働き続け、ヘラの面目を潰したが為に! ヘラは、オレがどうにかせねばならないほどに血迷ったのだ!

 相手は主神。どう足掻いたとてどうにもならぬ相手。
 故に憎まぬように意識していた。恨まぬように自制していた。
 懸命に、ゼウスの周囲を過度に憎むことで、心を調整していたのだ。

 だが、その心のたがに、皹が入る。軋んで、どす黒い激情が噴出しかけた。
 それを抑え込み、メレアグロスは言う。

「――大神よ。どうか(オレ)を止めたまうな。(オレ)はこのまま"進軍するもの(グラディウス)"を討ちに向かう。父の介錯は、早くしてやりたい」
「ふむ。……儂の決定に逆らうか?」

 瞬間、大神よりメレアグロスを押し潰すほどの怒気が発される。
 しかし、メレアグロスは内に秘める憤怒に支えられ、怯むことなく淡々と反駁した。

「逆らうのではない。人を間引くのは、(オレ)に任せよと言っている」
「……む、どういうことだ」

 愚かなことを言っている、という自覚はあった。
 だが止められない。否、止めてはならないと思う。

 この際、目の前の神を殺してしまおうか、と危険な思考が走りかけるのを、自重した。

 怒りを鎮め、聞く姿勢を取った大神に、大王は告げる。
 それは。
 人類史に語られる――否、ギリシャ神話の人世界に於ける最大の戦争の裏にあった秘話。
 父ではなく、己に咎を。そんな、救いようのない意思の発露であった。



「人を間引くのなら、その大任は(オレ)が担う。どうせ間引くなら、我が国の国益に繋げた方が建設的故な」



 その申し出に。
 大神は、我が意を得たりと満足げに頷いた。


















神と戦うか、人を間引くか。


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アタランテの覚悟




 最近とみに思う。

 自らの裡に、自分以外の命を宿すことの、なんと重いことだろう、と。
 自分一人の体だった。自分だけの体だった。それが、いつの間にか自分だけの物ではなく、愛した男と、その子の物ともなっていた。

「……なあ、汝は母を笑うか?」

 膨らんだ胎を撫でながら、アイトリアの大王妃は儚げに微笑む。
 重たい、体が。心が。
 山野を自由に駆け回っていた頃では、とても想像できなかっただろう。これが人の、新しい命の重みなのだ。

 体が鈍っている。獣のしなやかさが失われつつある。騎士なんて大層な肩書きを得て、弓騎士として鍛え上げた戦士としての己が……。
 代わりに、女になった。母になった。それが嫌だと感じることはない、しかしそれでも、何かが足りないと思ってしまう。
 何が足りないのだろう。荘厳なる宮殿の奥で煩悶とした心を抱え、ぼんやりと自室の壁に飾られてある『天穹の弓』を眺めた。

 ふと、歓声が聞こえた。

 何事かと侍女に訪ねると、カリュドンの魔獣狩りを終えた大王らが帰還したという。民は歓呼し、また一つ偉業を達成した騎士王を称えているのだ。

「……」

 唐突に、つがいの顔を見たくなった。
 侍女に支えて貰い、アタランテは自室を出て宮殿の外に向かう。
 道中、それとなくペイリトオスが警護を買って出てくれたのが、なぜだか辛かった。

「メレアグロス……」

 帰還し、民の声に後ろ手に応えつつ宮殿に向かってきていたつがいを見つけ、アタランテはつい、か細く呼び掛けてしまった。
 そして、すぐに後悔する。アタランテに気づいたメレアグロスが驚き、急いで駆け寄ってきて、労るように支えてきたのだ。傍の侍女は気を利かせて一歩離れる。

「アタランテ、迎えにきてくれたのか。身重の身に辛くないか?」
「……そんなことは、ない。私は……」
「……中に入ろう。貴様と、胎の子供に障るかもしれん」

 何を言いたいのか、アタランテはよく解らない。自分の事なのに、解らないのだ。
 メレアグロスは、耳元で囁いた。泡を食いそうなことを、平然と。

「……明日、すぐに出立する」
「! あ、明日? は、早すぎないか? もう少しゆっくり休め。今は、一緒にいたい……。私の中の子も、父を感じていたいはずだ」

 焦っていた。アタランテの、言葉にできない部分が、激しく警鐘を鳴らしていたのだ。
 行かせてはならない、そんな焦燥にアタランテは突き動かされ、メレアグロスの袖を掴む。だが、メレアグロスはやんわりとそれを離し、不敵に微笑んだ。

「ふ、オレを誰だと思っている? 休まねばならんほど消耗はしていない。なに、すぐに帰るさ」
「……」
「オレが貴様に嘘を吐いたことがあるか? 約束する、一年以内に必ず帰るとも」

 大神に降臨して貰い、加護を貰わねばならんからな。また後で会おう。――そう言って、メレアグロスは行ってしまった。
 大王に暇はない。それでも彼は、アタランテと家族の時間を必ず取っていた。

 寝る間も惜しむ、とはこの事だ。彼は自身が不死であるからと、死なねば安いとばかりに簡単に無茶をする。誰かが叱ってやらねば止まらないのに、今は誰も止められない。

 メレアグロスが六日間、カリュドンで神罰の魔獣狩りを行っている時。アイトリア王国の財宝蔵に納められていた、白い神馬の革でアタランテが手ずから外套を編んでいた。
 妃のアタランテに嫌がらせや嫉妬をする低俗な世話係りはいないし、メレアグロスの母アルタイアーに"家の女の仕事"を教わっていたから暇だけはしなかった。
 ――莫大な神威が宮殿の中心に降りる。大神が来たのだ、と察したが、かといって何が出来るという訳でもない。大王夫妻の質素な寝室で黙々と、寝台に腰かけたまま編み物を続けた。

 元々完成が近かった為か、暫くすると白い外套が出来上がる。
 布のようでありながら岩のように丈夫で、穢れを払う加護のある、神聖な衣装。剣を差し挟める軍帯と、胴帯の服飾も用意してあった。
 何も出来ないなら、せめてこれを御守り代わりに夫へ贈ろうと考えていた。出来るのはこれだけだから……。

 外套が出来るとやることもなくなり、自分の胎に手を当ててぼんやりと虚空を眺める。
 遠くで、英雄達の勇ましい雄叫びが聞こえてきた。パラディウムに向かい、大怪魔を討つと夫の声が此処まで届いた。
 相変わらずの扇動上手だ。本当なら誰しもが厭う死への旅路なのに、恐懦に呑まれて討伐軍への参加を拒む気配がない。きっと彼らの中では無限の栄光への思いの丈が詰まっているのだろう。

「なんだか、虚しいな……」

 周りから、自分だけが取り残されているようだ。
 少し前まではあの熱気の中にいたのに、今ではすっかり部外者扱い。アタランテの内に潜む戦士が、もどかしそうに弓と山を求めている。
 このもどかしさも、いつかは消えてしまうのだろうか。そう考えると、叫び出したくなる。胸の奥で蟠る気持ちをどうするか、どうしたらいいか、決めかねていた。

「……」

 それから暫くして、どこか暗い面持ちでメレアグロスは寝室にやって来た。
 身を清め、夕食を平らげたのだろう。珍しいことに、まだ陽が沈んだばかりなのにこれから就寝するようだ。
 妃が膝の上に乗せていた外套に、ちら、と目を遣り。メレアグロスはアタランテの隣に腰を落とす。

「……」
「……」

 肩が触れあう。夫の肩に頭を載せて、妃は薄い声で呟いた。

「……なんだか、汝が遠くなった気がする」
「……」
「汝は死なない。そうだろう?」
「……無論だ。オレの運命は、貴様の許にある」
「……」

 義母アルタイアーから、アタランテは青銅の箱を託されていた。
 曰く、中の薪が燃え尽きたら、メレアグロスは死ぬ運命にあるらしい。逆に、薪が無事なら死なないとも。
 メレアグロスは不死だ。心配は要らない。だというのに……途方もなく不吉な予感がするのは何故だ?

 アタランテは、外套をメレアグロスに押し付けた。

「アタランテ?」
「……もう寝る。私も、少し疲れた」
「そうか。……実は、オレもだ」

 そうして、眠り。――アタランテは、

 夢を見た(・・・・)








 ――死の国。大地を汚染し死せる丘の黒い邪神。五体余さず潰され、封印される英雄の末路――








「……ッ!!」

 跳ね起きた。
 全身から嫌な汗が吹き出ている。
 咄嗟に隣を見て――メレアグロスは、どこにもいなかった。
 飛び起きようとして、腹が重く、素早く動けなかった。
 おかしい、昨日よりも一回り腹の中の子が大きくなっている。なぜ、と、思うと。
 見知らぬ女――仮面をつけた侍女が寝室に入って来て、起きているアタランテを見て驚いたように声をあげた。

「まあ! お妃様、お目覚めになられたのね?」
「な、汝は?」
「妾はクレオパトラー。大王さまの侍女です。もう、突然眠りにつかれてもう二ヶ月も眠られておいででしたのよ? 皆様も本当に心配なされて――」
「に、二ヶ月だと!?」

 アタランテは慌てて寝台から降りて、侍女に食って掛かった。

「メレアグロスは! メレアグロスはどこだ!?」
「だ、大王さまは二ヶ月前、まだお眠りでした妃様の異常も知らず、出立なさってしまわれましたわ」

「――」

 仮面の侍女はアタランテから解放されると、慌てて妃が目覚めたことを報せに走った。
 何が……何があったのか。
 アタランテは、己の信仰する月女神の対になる神気――太陽神の気配を己の内に感じとる。
 それはつまり……あれは、太陽神の予言。身重故に、神の予言を受け止める力が弱く、そのまま眠り続けてしまったのだろう。

 ――なぜ、私にそれを見せた?

 アタランテは、その答えも知らず。荒ぶる気性そのままに勇壮に吠えた。

「――私の弓を持ってこい! メレアグロスを追う!」

 義母が止めた。だが聞く耳を持たなかった。
 お腹の子はどうする気です! 叱責に、怒号を発する。


「パラディウムに向かう途上で生む! 世話はクレオパトラー、汝が乳母となってやればいい! 急ぐぞ、一刻の猶予もない!」


























ピコーン(何かが立つ音)


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七丘への道程





 砕けていた。

 軍靴に踏み躙られたのか。
 或いは何かが叩きつけられたのか。

 破壊されていた。

 生きているもの、生きていないもの、その生死の境界までも含めて、形を成すありとあらゆるものが。
 パラティウムを始めとし、オッピウス、ウェリア、ファグタル、ケルマルス、カエリウス、キスピウス――七つの丘に近づくほどに死腐の波は強まり、物質は朽ち去り、空気は真空の毒となって虚無に散っていく。地面は沼となり、足を取って食いつき、一時でも一所に留まろうものなら奈落の底まで沈んでしまうだろう。
 これをなんと形容するべきか、メレアグロスにも判じかねた。
 彼を先頭に、神々の加護を受けた騎士と、その後ろに列をなして進む英雄らの姿がある。
 アイトリアより出立し、既に三ヶ月は経っただろうか。パラティウムは近い。彼らの死もまた近い。メレアグロスは、手勢の騎士とメディア以外は死んでもよい手駒と認識していた。いわば、当て馬のようなものだ。
 無論、義務として可能な限り生かして帰そうとは考えている。しかし、そんな事は不可能だと、この地を踏んで直感していた。
 多くが死ぬだろう、戦いの果てか、或いは大気の毒によって。

 予期せぬ事だったが、見れば神々の加護を受けられなかったギリシャの英雄達は、その顔に呼吸への苦痛と、水気のない沼――例えて言うなら"溶けた塩"だろうか――に足を取られ疲労を重ねていた。
 なんでもないように沼の地面の上を歩き、呼吸できているのは、メレアグロスを含めた騎士達とメディアのみ。神々の加護はそれで相殺され、他には特に効力を発揮できていない。
 神性、人間性、等しく溶かす破滅の空間。強大な神々の加護すら死の国では無為なのか。無駄な体力を使わないで済むだけましと割り切る他ない。
 やがて、行軍にも辛さを匂わせ始めた者らを見かねたのか、メディアが彼らのために魔術を放った。

「――『修補すべき全ての疵(ペインブレイカー)』」

 それはメディアが魔術の研鑽の中で見出した一つの奥義。万種の呪い、神秘による損傷を修復するもの。
 本来の健常な状態を算定し、その姿に戻るように修補しているのだ。あらゆる疵を打破する魔術は淡い燐光を伴い、英雄達の肉体と精神を包み込んで瞬く間に癒していく。
 カイニスやモリオネーを筆頭に、名だたる勇士らはホッと一息吐いて、口々にメディアへ感謝を示した。

「いえいえ、みんな仲良し、仲良しさんで行きましょう!」

 可憐な王女の言葉に、強張っていた勇士らの顔が綻んだ。賢者ケイローンが言う、良い娘ですね、と。苦虫を噛み潰した顔でメレアグロスは言った。

「……そうでなかったら、まだしもやり易かったんだがな」

 斯様な物言いには苦笑するしかないケイローンである。
 本当は連れてくるべきではない、死地には似合わぬ王女だ。だが彼女はメレアグロスと一緒に行くと言って聞かない。
 契約により、女魔術師には弱い大王である。押しきられる形で、こんな所にまで連れてきてしまった。

 ケイローンは、汗を流して懸命に付いてくる王女に言った。

「もし、王女様? なんでしたら私の背にお乗りなさい」
「……い、いいんですか? ケイローン様」
「ええ、強化の魔術で騙し騙し付いてくるのも限界でしょう。遠慮はいりません、可憐な少女一人、どれほど乗せて歩いても重荷にはなり得ないのですから」
「あ、ありがとうございます……」

 素直に好意に甘え王女は馬上の人となった。
 和やかな光景の場違い感に、笑いが漏れる。顔を赤くして俯く王女に、微笑ましげな視線が集中した。
 が、それもほんの一時の気の緩み。メレアグロスはふと、目を眇て一同に告げる。

「見ろ。あれをどう思う?」

 騎士王の指し示した遥か先には、一軒のあばら家が建っていた。
 隙間だらけの、朽ち果てた木造の小屋。家畜の餌としての飼料作物を蓄え、雨風より防ぐためのもの。一見すれば、なんてことはない牧歌的な建造物であるが、この全てが崩壊した国の中に在っては異様である。
 壁、塔、城、家。地平線の彼方まで、目に映る全てが砕けて腐り、埋っているのだ。なのにそのあばら家と、周囲の地面は、豊かな国のように肥沃な土を保っていた。
 あたかもその空間だけ切り取られ、守られているかのような……。緊張感の欠片もない暢気な様子でケイローンは首をかしげる。

「……何かありますね」
「あるだろうな。まあ、何でも良い。代わり映えのしない黒い空、腐った地面、殺風景な環境と、うんざりしていた所だ。なんなら覗いて見るのも一興だろう」

 騎士と勇士らに、そのあばら家を囲ませる。自分が行くと無駄に言い争う者らを捨て置き、お行儀よく入り口からメレアグロスが入った。

 中は、いたって普通の家畜小屋――そのなれの果てとも言うべき朽ちた小屋であった。
 なんのけなしに中を検めていくと、一束の飼料作物が微かに膨らんであるのを見つける。
 何かいる。
 微弱な気配に、ほんの僅かに警戒の念を浮かび上がらせ、左手の黒鉄棍でその作物の束を掻き分けることにした。その瞬間、

 殺気が走る。

「……」
「――なに!?」

 飼料作物より飛び出るや、メレアグロスの首を狙って奔る黒塗りの刃。左方より迫るその刀身の腹を、無造作に右手の平で打撃し地面に叩き落とす。
 動作を連続させる。右腕を畳み、肘鉄を胸の中心に突き込んで相手を倒し、無力化のために棍棒の先を奇襲の主に突き込みかけ。……その顔を視認し、ぴたりと動作を停止した。

「……ヒッポリュテ?」

 驚きの余りに目を疑うような誰何。女は苦しげに瞠目して王を呼ぶ。

「お――兄ちゃん……?」

 黒髪の、アマゾネス族の戦士長。
 痩せこけた異母兄妹の姿に、メレアグロスは目を瞠き。
 待ち望んだ英雄の到来を悟って、ヒッポリュテは悔しさか嬉しさかに感極まったのか、跳ね起きるなりきつく兄を抱擁した。

「……待っていた。ずっと、ずっと待っていたんだ、私は! 貴方を!」



















「すまない、取り乱した。もう大丈夫だ、お兄ちゃん」

 眦に滲んでいた水滴を手の甲で拭い、黒髪の女王は飼い葉の束に腰を下ろして異母兄に隣を勧めた。
 すぐには座らず、メレアグロスはヒッポリュテの総身を見渡す。
 頬は痩け、身に付けている衣服は草臥れ、生気は薄く、見るからに窶れている。勇壮なる戦士長の偉容は見る影もなく、顔を知らねばヒッポリュテと名乗られても俄には信じられなかったに違いない。
 目を険しくし、自身の背後から忍び寄ってきた糸を掴みあげた。

「テセウス。水と兵糧の余剰分を持ってこい」

 弾かれるようにして入室してきたのは『辿り糸の叡知』で中の様子を窺っていたテセウスである。ヒッポリュテとも一度会っている事もあり、特に驚くこともなく青銅の瓶に保存していた水を一つと、分厚い豚の干し肉を二つ持ってきた。
 愛弟子のアテナイ王がそれをヒッポリュテに渡すと、テセウスに言いつける。暫し二人きりにしろ、と。彼が頷き、小屋から出たのを確認してから、メレアグロスはヒッポリュテの隣に腰を落とした。

「……お兄ちゃんは止せと言ったはずだがな、妹」
「すまない。けど、初めがああだったからな。つい、呼んでしまうんだ」
「呼びやすいならそれでもいいが……」

 苦笑し、ヒッポリュテの髪を荒く撫でる。
 痛そうにするも、拒むことなく受け入れて、ヒッポリュテは思い出したように黒剣と鞘を差し出してきた。

「約束の聖剣だ。返す」
「……」

 メレアグロスが手にすると、黒色が錆のように剥がれ落ち、金色の煌めきを露にする。
 漲る神気。刀身を虚空に捧げ持ち、なぜこの小屋と周辺が無事だったのかを理解した。
 ちら、とヒッポリュテの腰に巻き付けられている『戦神の軍帯』を見る。それは予想に反し猛々しい莫大な神気を帯び、何年か前に見た時よりも力を増しているように見えた。

 この軍帯と、聖剣があったから、ヒッポリュテの周囲にあるものは無事なままだったのだ。
 聖剣を鞘に納める。メレアグロスは、沈鬱な語調で訊ねるしかない。

「我らの父は、どうだった」
「どうもこうも、」

 応じるヒッポリュテに、暗さはない。いっそ不自然に感じられるほど彼女には後悔がなく、また恨みも感じられなかった。

「相変わらずの親馬鹿殿だった。最後まで私と共にいてくれてな、うん。……自我がなくなるまで、稽古を付けてくれた」
「……」
「なんというか、情けない話になるが。時間感覚が鈍っていて、どれほど前になるか解らないんだ。戦神が死ぬ直前に、この軍帯に残る神気の全てを籠めて、己の死後にも軍帯が残るようにしてくれた。形見だと言ってな、こう、猫の首でも掴むようにされて、私はここまで投げられてしまった。しかも、此処から動けなくなる呪いのおまけ付きだ。どうにもならなくてな、言われた通りお兄ちゃんが来るのをずっと待っていたという訳だ」
「……戦神は、死んだのか」
死んだ(・・・)もう、父上殿はいない。――あんなものが、父であるものか」

 誇らしげな語調を一転、ヒッポリュテは吐き捨てるように言った。
 それから暫し沈黙が流れる。
 メレアグロスはぽつりと呟いた。

「オレを、恨んでいるか」
「恨む? ……何故だ」

 頓珍漢な事を聞いたと、目をぱちくりさせた異母妹に、苦渋を滲ませて問う。

「ここに来るのに、何年もかかった。オレが今少し早く来ていれば、戦神は……」
「うん。……まあ、恨んでない、と言えば嘘になるな」
「……そうか」
「そうだ。でも、別に気にする事はない。だって私が気にしてないんだからな」

 言って、ヒッポリュテは気丈に微笑む。
 ほんの微かな負の感情のない、颯爽とした横顔。凛と、上を向く。

「父上殿は、私を可愛がってくれた。私が一番可愛い娘だと言ってくれた。メレアグロスのような生意気なガキに育たないでよかった、とも言っていた。つまりな、父上殿にとって、私の方がお兄ちゃんよりも大切だったということだ」
「……」
「だから、それでいい」

 そうか、と、もう一度呟く。
 遠く、何かに思いを馳せながら、ヒッポリュテは言う。

「でも。

 ――心せよ、メレアグロス。父は、お前を待っているのだ」

「――オレ、を?」
「ああ」

 力強く頷き、ヒッポリュテは確信をもって断言する。
 父に最も愛されたと自負するからこそ、その遺志を伝えるのだ。

父を越えて見せろ(・・・・・・・・)。戦神の後継は、お前だ」
「……」
「命を惜しむな、名を惜しめ。いいな、メレアグロス。私は善き父を持てた。善き兄をも同時に持てたのだと、誇らせてくれ」
「……ああ。任せておけ」

 そう言うしか、なかった。メレアグロスは立ち上がる。
 往こう。そう、思った。早く、堕ちた戦神の許へ。

「呪いは解けた。お兄ちゃんが来たら、解けるようになっていたのかもな」
「貴様はここにいろ。弱り果てた貴様は、足手まといだ」
「断る。私も戦うぞ。まあ、腹一杯に食って、英気を養うまで少し時はかかるがな」
「では、貴様が来るまでに決着をつけておくことにする。せいぜいぐうたれておけ、ヒッポリュテ。貴様の出る幕はない」
「そう願うよ、お兄ちゃん」

 ふん、と鼻を鳴らし、小屋を出る。

「お兄ちゃん、忘れ物だ」

 背後から投げつけられてきたものを、振り返りもせず掴みとる。
 それは黄金の瓶だった。何か、とてつもない神気と、芳しい薫りが鼻腔を衝いた。
 その正体を看破する。飲んだことはないが、これは――

「酒だ。とても遅れたが、成人祝いだと」
「……」

 黒く、逆巻く天上の奈落。
 虚空に漂う終末の気配に、目を閉じて。
 ずっと重くなった聖剣を腰に、メレアグロスは往く。

 ――星の悲鳴。助けてと叫び、剣に息吹を吹き込んでくるのを無視して。

「もう、貴方を父とは呼べないのだな」

 それが、残念と言えば、残念だった。



















気づいた。気づいてしまった。

(五十話で終わるの)無理これぇ!

ろ、六十話くらい、かな……? ね、年内には終わらせる所存。
エミヤもやらなきゃ……(使命感)


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天魔邂逅




 星は腐り、夜は閉じた。

 ――であるのに。遠天に飾られる月の、屑のような煌めきだけはそのままなのか。

 触れば裂けそうな脆い月。氷細工の如くに繊細な夜気の中にあると、まるで自分まで紛い物に堕ちてしまった気がする。
 "死"という概念がある。"生"あるものが絶えたこの地は、ともすると死んでいると形容できるのかもしれない。しかしそれは正確な表現ではなかった。より明確に、明瞭にアペニン半島の現況を述べるなら。

 溶けて(・・・)いるのだ。

 無に帰して(・・・・・)いるのである。

 死んでいない。しかし生きてもいない。
 死ねず、生きられずの狂気の極限、混沌の奈落――その果てに落ち続ける"虚無"を形として拡大したかのような暗い異界だ。
 七つの丘を擁するアペニン半島は、もはや天界とも、地上とも、冥府とも異なる完全な魔界と化している。死すらも救いとはなり得ない。人も神も、怪魔の区別すらないだろう。皆等しく有限であるならば、無限の虚無へ抗う事など出来るはずもない。

 これぞ、魔法の位階。奇跡の一つ。"無"そのもの。『 』の証明。

「……有限の星に無限が咲けば、等しく散るのは必定か」

 創造を切り捨て、破壊のみを突き詰めた究極がこれ。当然の帰結だ、壊すだけ壊したその彼方には何も残らない(・・・・・・)のだ。破壊の完全となった概念とはこれなのである。

 見るが良い。此の地に在った人のなれの果てを。魂魄を虚無に落とし、人の形をした血袋は腐り、目と肌が溶けて同胞と融け合っている。
 人身一体と成った有象無象の化生。雲霞の如き様を見て、所詮は雑魚と侮れはしない。その身に宿すのは魔法の断片。否、虚無の端末とも言える、有限のモノの断末魔。
 不死も、不滅も、有限の範疇。ならば易々と触れる訳にもいかぬだろう。粕のような有限の残滓を微塵にし"無"の象る端末を破壊するしか対処法はない。

「……これは、何一つ残してはならない、世界にとっての致死の毒だな。有限であるからこそ成り立つ世界に、一片たりとも虚無が存在してはならない。無の証明を存続させ、成立させたなら、たちまち万象一切が無為に帰す」

 故に必然である。虚無の元凶も、その端末も何一つと残してはならぬなら。一点集中、乾坤一擲とは罷りならぬが道理だろう。
 戦神の後継と定められた人の王は、必然の理に導かれ決定を下す。賢者も、英雄も、王女も異論を唱えることは出来ない。
 誰の目にも明らかだった。そうする他ないと言わねばならなかった。

「雑魚狩りだ。根刮ぎ、一切合切を根絶やしにせよ」

 その命令の意味するところは一つ。

「生死の境の無くなった、動く有限の概念。その悲鳴を止めよ。それらはもとは命あるモノと言えど、容赦する余地などない。ただ在るだけで有限の星と世界を貪る、事象悉くを暗黒に落とす奈落の種だ。絶やせ、命に代えても」

 殲滅せよ、と。号令の裏側にあるのは、戦力分散の愚策。
 しかし、他に替わる案はない。
 手が足りないのだ。英雄クラスの生命力と体力があってはじめて活動できる魔界である。大軍の投入は不可能となれば、足りない手で駆け回るしかない。
 その英雄も、長時間の魔界での活動は死を意味する。否、死ぬこともなく無に帰す。

 だがそれでもやれと、王は言う。

 やらねば滅びるのだ。不可能でも、やれと言わねばならない。

「貴様らは無となるだろう。だが貴様らの名は永遠だ。報酬はそれだけだが、擲つには惜しくない命だろう。行け、そして滅ぼせ。貴様らに望むのは殲滅のみ」

 忌避されるべき命令を、しかし拒ませぬ威が黄金の王にはあった。
 英雄らもまた、英雄である。莞爾と笑い、応じる答えの勇壮なる様。それに、野蛮な輩でも輝ける魂ではないか、と一瞬惜しむ。

 感傷を振り払い王は王女と騎士らに命じた。

「メディア、ケイローン、テセウス。貴様らは一つの同胞(はらから)となって騎士団を率い、我が英雄らの督戦及び援護に徹せよ」

 彼らは神々の加護により、強大な力を得ていたはずだった。しかし魔界に踏み込むに至り、ただ無事に活動できるだけの状態にまで落ち込んだ。
 それでも無いよりはましである。通常のポテンシャルを問題なく発揮できるだけ喜ばしい事だ。本来なら傍に置いて使いたいがそうも言っていられない。

「黄金卿は?」

 問うのは、勇者王テセウス。
 不安げなメディアより視線を切り、王は答える。

「愚問。(オレ)は元を叩く。任を果たしアペニン半島に静寂を齎したのなら、ただちにパラティウムに来い。やもすると(オレ)と共に戦う栄誉に与れるかもな」



















 そして、独りになった。

 ――久しぶりだな、と独語する。

 比喩でもなんでもなく、文字通り何もない(・・・・)平原を漂うように闊歩しながら、メレアグロスは実感する。
 常に、誰かと共に在った。
 幼い頃は父母と。少年となってからは弟と妹達と。カリュドンを旅立って独りになったが、アタランテと出会ってからは目が回るような激動の日々を過ごしてきた。
 傍には、いつもアタランテがいた。
 いなくても、一緒なのだと思っていた。
 騎士が、部下が、敵が、獣が、神が、片時も離れず我と共に在ったのだ。

 それが、こうして独りになった。

「……」

 星の息吹の鳴る聖剣。封印の剥がれ落ちた三界の神槍。弓が欲しいな、馬が欲しいな、戦車が欲しいな、なんて欲張りにも思ってしまう。
 そういえば、鎧がない。少し心許なくなってきた。城でも担いで持ってくればよかったか。山でもいいな、と反省する。

 一人は、こんなにも寂しいものなのか、と内省しかけ。いいや、丁度いいのだと思い直す。
 あらゆるしがらみ、運命、成すべき使命……それらから、今だけは解放されている気がする。
 体が軽い。軽すぎて逆に不安になるほどに。メレアグロスはふと、産まれてくる自分の子供の事を思い出す。
 男児だろうか、女児だろうか。
 どう育つのか。どう生きるのか。
 母と父、どちらに似るだろう。母に似て欲しいな、と思う。

「……」

 苦笑する。消えた双子も、見つけ出して、産み直さねばならん、と考える。
 男の己には無理だ。アタランテの下に戻してやりたいが……代理出産なんてことは、出来ればしたくない。

「なんだ」

 しがらみが消えると、頭にあるのは妻と、子供の事ばかりだ。オレはこんなに子煩悩だったかと気づくと、なんとも面白い気分になる。

「やりたいことは、もう見つけていたんだな」

 やらねばならぬこと、ではない。己のしたいことは、こんなにも明確だ。
 勝って、終わらせて、帰る。帰ろう、と強く思う。

 神酒を呷る。
 慣れぬ喉越しに噎せてしまった。
 不味いと思うのは酒の楽しみ方を知らぬからか。旨い飲み方を覚えるまで、神酒は勿体なくて飲めないなと思う。
 瓶に蓋をしようとし掛け、考え直す。

 いや、次があるか解らない。一気に飲もう。

 全て飲み尽くすと、メレアグロスは苦しくなった。吐きそうである。無理をするからだ、ばかめ、と自分を罵る。
 まあ、酔いはしなかった。気分が高揚はしているが、思考は氷のように冷たかった。

 歩きながら、一際大きな丘を見つけ、呟く。

「……オレより強い者など、ヘラクレスぐらいのもの、と思っていたが」

 砕け、腐り、積み重なった有限の残骸。

 その頂上に座すのは。

 陶器のように艶めいた漆黒の肌。
 金糸を刈り上げたかの如き毛髪。
 肌を走る朱色の呪刻の深淵さよ。
 漲る覇気、夥しい死気。
 滓かに腰にしがみつく神衣の名残。

 立てた片膝に腕を乗せ、悠然とこちらを見下ろす黄金の瞳。

 圧し掛かる神威の反意、天魔の波擣――

 メレアグロスは、心底弱りきって苦笑した。


「参った。
 ちょっと、勝てない」

















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天魔死戦 (上)





 やや怪訝そうに目を細め、天魔は高みより眼下の"有限(おうごん)"を眺める。

 何故あれは壊れていない(・・・・・・)のか。溶けず、狂わず、崩れないのか。
 理性ではなく、本能ですらない。概念としての現象、それの齎す結論として存在する被破壊物体が無事に在る、天魔にはそれが不可解だった。
 それが"有限"であるなら、それの因子は粉微塵に溶けて消えるが必定である。なのにそれがない。何故だ――"天魔(げんしょう)"が首を傾げる様に、黄金は物悲しそうに呟いた。

「……オレもまた、破壊(がいねん)の子だ。視線一つで砕けるほど脆くはない。……言っても解らんか、死体(・・)には」

 星の聖剣――所有者の死により、神性もまた死んで星の息吹に絡め取られた大剣を鞘より抜き放つ。黄金の神槍を右手に、金色の聖剣を左手に、高貴なる大英雄は静かに戦意を纏う。

「我が父の尊厳を辱しめし天魔よ。暗黒は暗黒へ、虚無は虚無へと還り給え。貴様の有り様は生けとし生ける者、全ての死者への冒涜でしかない」

 破壊されるべきはその身に他ならぬ――断じる言葉に、迷いはない。それを告げる意味も、また存在しない。自らを奮い立たせる為だけに発される意気に天魔は反応した。
 ぴくりと眉を跳ね、ゆらりと幽鬼の如く立ち上がる。嘗ては隆々と盛り上がっていた筋肉はこそげ落ち、痩身の黒炭じみた姿で天魔は上体を前に倒して、まじまじと黄金を見詰めた。
 そして、不意に顔が、横に裂ける。
 ――黒い、暗い、奈落のような口腔を開いたのだ。
 笑っている。げらげら、ゲラゲラ、げらゲラと。はしたなく、下品に、おぞけを誘う悪なる吐息を漏らして。

 天魔グラディウスは歓喜し、狂喜していた。

 その笑い声は、界を震動させ、黄金の王の肌を打ち。地をぐらぐらと揺らし、この世の有限なるモノ悉くが震撼する。
 びりびりと肌を打つ衝撃波に、黄金は顔を顰める。内包される力を改めて悟り、戦慄に体が凍りそうになるのを気力を振り絞って堪えた。
 粉塵が虚空に舞い上がっていた。かつては"生物"だったのか、"物体"だったのか、判じる事も不可となった実体の残骸が。
 天魔が右手を水平に薙ぐ。その手の先に、有限なる者の残滓が集い、集積し、集束する。圧縮され、縮小され、収縮される。――其れは、視線すら吸い込まれそうな漆黒。暗黒天体の落とした存在しない影。総身の総毛立たせて慄然とする大英雄、その眼前で一振り、二振りと手応えを確かめた天魔は、その暗黒を槍ほどもある巨剣へと変貌させた。

「……なんだ。"破壊"を衣にした"闘争"の概念だったのか」

 苦笑する。
 そう、戦神が司るは戦の狂気と破壊。破壊を突き詰めたとて、残った闘争の概念がなくなった訳ではない。
 神格が剥がれ落ち、剥き出しの概念の結晶となった以上、純粋に"戦う"事も出来る。これまでは、"戦う"に値する"有限"の者がいなかっただけなのだ。

 誰ぞ知ろう。

 天魔は堕天して、その神格を喪失し自我を無くして以来、一歩たりとも丘の上より動いていなかった。
 それは、天魔は其処に在るだけで森羅万象を滅亡させられる故。戦うのは、これが初。
 平たく言えば闘争の天魔は餓えていたのだ。戦える相手に。その概念を発揮できる相手に。まったくなんて奴だと感心してしまう。
 戦力分散はやめて、最初に総力を結集し天魔を討つべきだったか、と後悔しかける。
 いや、間違ってはいない。このアペニン半島に被害がまだ留まっているのは、アペニン半島が天魔の体内と化しているからだ。もしも天魔を最初に倒してしまえば、虚無の端末を閉じ込める結界となっていたものがなくなり、まだ無事な世界に破滅の種を四散させてしまうことになる。
 黄金の王の判断は、どこまでも間違ってはいなかった。だが、間違っていなかったからと、それで報われるわけではない。

 満足げに第一魔法"無の否定"に類する"無の生成"足る巨剣を眺め、天魔はにやりと汚ならしく口端を歪めた。とんとん、と足の爪先で丘を蹴り、ゆっくりと、何かを宣う。

 す、

   ぐ、

     に、

       は、

「……死ぬなよ、か」

 舐めるなと覇気の気炎を立ち昇らせ、大王は莫大な雷光を迸らせる。暗黒の拡がる魔界の中枢に、瀑布の如き光量を齎し、人理の守護者は大喝した。

「アイトリア大王リコセンス・メレアグロスが受けて立つ。――来いッ!!」
















  †   †   †   †   †   †
















 迅雷が爆ぜる。

 黄塵万丈。光より尚速く、空間に風穴を開ける砲弾の化身となって、丘の頂上より地を蹴って飛来する"闘争(てんま)"の概念。魔眼の域にある黄金の双眸すらも暗黒の気配を捉える事は能わなかった。

 ――ッ。

 だが肉眼に映らずとも、その"観の眼"――即ち第六感たる直感に身を任せた黄金の狼は応手を誤らない。天魔が視界より消えたと判ずるや否や、黄金の王は稲妻を全方位に全力で放出。辛うじてその有効範囲に天魔を捉えた。
 有史上最高峰の勇者である大王の放つ大雷は城を、大陸をも抉ろう。如何な天魔とて無事では済むまい――等と、大王は自惚れていない。
 地上の太陽となった金色の球体に、正面からぶつかって来たのは天魔グラディウス。迸る雷光に天魔は怯みもしなかった。強引に雷迅を掻き分け迫る暗黒の戦意は、あまねく事象を砕く雷撃を意にも介さず巨剣を閃かせ――

()ォォオッ!」

 雷撃に足を鈍らせ、肉眼で目視出来る速度に落ちた天魔を狼がぎらりと睨み据える。得物を構える猶予を得た大王は間合いの近さから本能的に聖剣を主兵装(メイン・ウエポン)に選択。神槍を手放すや瞬時に聖剣の柄を両手で握り、無拍子で斬撃を見舞う。
 首を狩る一撃。期せずして後の先を奪った王の剣撃は、しかし。

 あたかも最初からそうであったかのように、漆黒の巨剣が首を守るように配置されており、当たり前のように防がれる。

 しまっ――

 巨剣を構成する因子は"無"である。つまり、触れたものは吸い込まれるようにして切断されるだろう。空間切断、絶対斬撃とも言える剣が天魔の得物。それと聖剣を接触させるということは、聖剣の刀身を半ば失うも同然だった。
 止めようにも既に遅い、巨剣と聖剣は噛み合い、聖剣はその機能を失う――事はなかった。
 硬質な、鋼とぶつかりあったかのような衝撃が手に返る。聖剣を失ったと戦慄し、剣筋と力を鈍らせていた大王は剣ごと吹き飛ばされる。

「な、」

 突撃の勢い、自身を遥かに上回る膂力に驚愕する暇もない。吹き飛ばされた大王に追随し、その足を掴んで手元に引き寄せた天魔は黄金の王の腹部に巨剣を突き立てんと刃の切っ先を振り下ろす。
 虚空に在るまま咄嗟に半身を捻り、自由な方の足で渾身の蹴撃を巨剣を握る天魔の手首に叩きつける。巨剣の切っ先が自身を大きく逸れ、地面に突き立ち砂塵を巻き上げたのを見て大王は確信した。

 ――質量があるのか!

 "無"より生成された剣である。それが質量を内包するなど矛盾でしかないが、どういう訳か天魔の刃は物質の重さを確かに持っていた。
 何故か? 瞬きの間もなく打ち出された推論は一つ。天魔は破壊の権化であるが、同時に闘争の化身でもある。であれば戦いの実感を得るために、敢えて無の巨剣に質量を与えたのかもしれない。
 それは心の隙。心など持たないだろうが、天魔に対する勝機を零から一厘ほどは見出させる材料となった。

 聖剣を地に突き立てるのと、推論を弾き出すのは同時。大王は聖剣を基点に身を捻って天魔の手を弾き自由を取り戻すや着地し、両手で構えた聖剣を鋭く切り上げる。
 確信を持った斬撃は力強く、袈裟に振り下ろされてきていた巨剣を迎撃した。

 力負けし、地面を足で削りながら後退させられる。上体が後ろに倒れそうになるほどの一撃。軋むような奇声と共に天魔が一足飛びに踏み込んでくる。勢いに逆らわず身を捻り、天魔の力を上乗せした逆撃の剣撃を幹竹割りに繰り出した。
 虚空で剣と剣が噛み合い、またしても打ち負けた黄金狼は今度は自ら後方に跳んで間合いを稼ぐ。追撃は速い、星の息吹を放つ聖剣に雷光の魔力を充填、眼前に躍りかかってくる天魔目掛けてコンパクトに、しかし最大の威力を連続して叩き込めるよう、技量の限りを費やす。
 一撃、一歩も下がらず互角に打ち合う。空間がひしゃげ、天が割れ、地面が砕ける衝撃。
 二撃。一撃目で巨剣を絡めとり、下方に流したところに流水の如き円環を描いて切り上げる。聖剣はまともに天魔の胴を捉えた。だが、堅い――

 強引に振りきり、力付くで間合いを引き離す。

 愉悦を覚えたのか。にたりと笑む天魔を無視し、大王はただの斬撃は効果を見込めないと判断。力も劣っている、ならば聖剣の真の力を解放する他ない。
 両肩の上の辺りに大雷の魔力を集中。高速で回転させ、二つの魔力塊を球体状に維持、聖剣にも雷電を束ね、変換し、回転させ、圧縮。嗤いながら様子見に回った天魔に向けて、メレアグロスは満身より力を発して咆哮した。

「――『火の星、霆の権(グラディウス・フォトン・レイ)』!」

 両肩に維持していた二つの雷球、かつてヘラクレスに打ち破られたものを二つ同時に解き放ち牽制とする。
 唸りを上げて迫る二条の雷嵐の火線に、天魔は巨剣を膨れ上がらせる。比喩でなく、塔のように巨大な塊となったそれで、天魔は豪快に薙ぎ払い嵐の顕現を打ち消した。
 だがそれで時間稼ぎは上等。メレアグロスは腰を落とし大上段に構えていた星の聖剣から、黄金の極光を解き放つ――!

「聖剣の切れ味、とくと味わえ! 『戦神に捧ぐ勝利の剣(セクエンス・カレトブルフ)』ッ!!」

 ――絶命の一撃。救世の剣。

 それを、天魔は嘲笑い、元の大きさに縮小した巨剣を悠然と構え――声なき声で、確かに謳った。



 多重次元屈折――射殺す百頭(ゼルレッチ・ナインライブス)



 闘争の概念。
 それは。
 過去・現在・未来に於いて、編み出された業悉くを内包したもの。

 即ち、こと『業』に分類する全てを扱える概念であり。
 同時に人智を超えた絶技を組み合わせ振るえるということ。

 聖剣を真っ向から撃ち破る、

 完全に同時に(・・・・・・)三つ存在する巨剣が、超速の三百連撃となってメレアグロスを襲った。




 理解する。



 遊ばれていた。

















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天魔死戦 (中)





 金の粒子が淡く散る。

 さながら粉雪のように漂う燐光は、深海の暗闇が如き黒界に呑まれ消えていった。
 名残を惜しむ雑念を、持ち得る余力はとうに無い。メレアグロスは、唇を震えさせ、聖剣の柄を固く握り締める。

「お、」

 暗黒天体の存在しない影、虚無の鋳型――奈落が如き巨剣を肩に担ぎ、にたにた、ニタニタと笑む天の魔物。遥か未来、主神と同列とされた戦神の反転存在グラディウス。
 その異様なる威容。世界に空いた一点の黒い孔。怯みと恐怖が湧き出るのを瞬時に圧し殺して。

「おおお、」

 メレアグロスは無数の雷球を生み出して虚空に滞空させ、乱回転する嵐の弾丸として解き放つ。

「オオオオオオオォォォ…………!!」

 ――それは断末魔にも似て。

 自身を鼓舞する活火山の噴火に等しい咆哮を轟かし、大英雄メレアグロスは次々と『霆の剣(フォトン・レイ)』を撃ち放つ。
 天魔に悉く着弾したのを目視するも、巻き起こる砂塵に呑まれ安否は定かならぬ。手応えはあった、しかし、こんな事で倒せるとは思えない。
 もくもくと立ち込める砂塵が視界を潰し、それをも射抜く眼光が天魔の健在を見て取る。
 無傷。確実に地形を変えた爆撃を受け、尚も天魔グラディウスは全くの無傷。巨剣を溶かして囲む円形の盾とし、大嵐の魔力弾を完全に遮断したのだ。
 グ、と喉を強張らせ呻く。メレアグロスは厳しい眼を聖剣に向けた。――先程の一撃、想定よりも魔力の練り込みが甘かった。変換効率も巨神童子を相手にした時と大幅に差異があったように思う。そのために、メレアグロスの意図した通りの究極斬撃とは相成らず、天魔によるただの三百連撃に打ち破られてしまったのだ。

地球(ガイア)の間抜けめ……余計なものを寄越してくれたな……!」

 傲然と肩を聳やかし、砂塵を突っ切り姿を表した天魔の姿が、徐々に徐々に周囲に溶けて消えていく。メレアグロスは名を知らぬ業、圏境と称される存在消失の絶技によるものだ。
 人ではなく、英雄でもなく、超常の恵体である天魔の気配が断たれるのだ。その脅威に畏敬の念すら懐き始めたメレアグロスは乾いた声で笑うしかない。

「……猪口才な。まだ遊び(・・)足りないのか?」

 姿は見えず、気配は無く。――されど黄金の魔眼はうっすらと天魔の姿を捉えていた。見えるはずの無いものを視る。不可視を可視とするが、圏境を発動されたまま戦うとなれば、やり辛い事この上ない。
 メレアグロスは肩から力を抜く。力むだけ無駄だ。実力の差は痛感した。勝てる気がしない絶望とは正にこれ。諦観の念すら生じている。
 しかし。敵わないと理解し、それでもと奮い立つ己がいる。この身もまた、野蛮な英雄の種族なのだと悟らずを得ない。それが今は堪らなく痛快ではあった。
 聖剣を通じ、星に語りかける。――宝剣と、星の息吹。混ぜ合うには互いの個が強すぎる。元の形に戻れ、さすればより純粋な力と相成ろう、と。

 するとどうだ、聖剣は担い手の求めに応じ、その姿を二つに分けた(・・・・・・)

 漆黒の宝剣セクエンスと、
 黄金の聖剣カレトブルフに。

 星の息吹の具現たる聖剣と、神性の死んだ火星の概念を内包する宝剣。双剣を両手に携え、黄金の狼以外には完全に視認不可となるだろう天魔を正面から見据えて迎撃の構えを見せる。
 おや、と天魔が気づく。メレアグロスには、自分の姿が見えているのだと察したのだ。

 ――脳裏に警鐘。

 けたましく鳴り響くそれに身を任せたのは、眼前の天魔の姿が唐突に消え失せたのと同時。本能的に左右の死角に双剣を配置するや、右後方より斬撃。ひとつの斬線を右手のセクエンスが防ぐ。
 素早く振り返ったメレアグロスの眼に映ったのは、背後に縮地法にて空間転移した天魔と、宙を舞う右腕と宝剣(・・・・・)。完全に同時に襲い来る三つの巨剣の一の太刀を宝剣で凌ぎ、聖剣によって二の太刀を防いだが、三の太刀をも捌ききるには至らなかった。
 その術理、いかなる魔技か。振るう者が人ならば、メレアグロスの肉体に掠り傷一つ負わせられぬものを、天魔が振るうが故に因果律をも(・・・・・)破断せしめる。

 運命の女神による薪の加護。それをも貫く重い神秘。

 矛盾の成り立つ事象あらば、より神秘の重いものに因果は傾く。
 天魔はある種、神秘そのものといえる。これまでメレアグロスを無敵足らしめてきた『運命の燃え木(モイライズハンド)』を――より正確には、運命の三女神の権能を凌駕し、これを突破する事など容易であった。

 最小の被害で必殺を逃れ、腕を失っても眉一つ動かさず反撃に移る。痛みはある、しかしたかが腕の一本ごときがなんだという。メレアグロスは無傷で勝てる等と慢心していなかった。
 肉を切らせて骨を断つ。右腕の喪失を知覚する前から動きだし、左腕の聖剣より瀑布の如き魔力を放って全力で反撃。
 逆袈裟の切り上げは、天魔の胴を腰から肩にかけて両断する――事は、出来なかった。

 天魔は多重次元屈折現象の斬撃を片腕で放っていたのだ。空けていた陶器のような黒い腕を掲げ、天魔は聖剣の刀身を腕で受け……くるりと腕を廻し聖剣の威力を殺し、巧みな身のこなしで体を躱す。
 化勁。
 絶紹を極めた幾千もの拳士を統合した、神域を遥かに超えた先にある天魔の技量。傷一つもつかずに難なく黄金の刃を受け流した天魔は、そのまま流れるようにしてメレアグロスの懐に潜り込み、無拍子で放たれたるは高速三連撃。把子拳、寸勁、頂肘。達人の中の達人が放てば城門を、闘争の天魔が撃てば惑星を打ち開く絶紹である。

 最高の神性、運命の燃え木、黄金の鎧が掛け合わされば、古今無双の硬度を誇るメレアグロス。しかし、今は鎧を欠いている。

 打ち砕かれる五体。全身から血が吹き出る。内臓全てが破裂し、骨は微塵となって引き裂かれ、威力が極まり木っ端の如くに四散した。

 肉体を失い、しかし自我は残る。

 ――拘りは捨てた。勝つ、絶対に。

 なんにでも命は一つだなどと嘯いたのを、今は棚にあげる。
 既に死んでいるものに殺されるなど、
 絶対に認めない(・・・・・・・)
 運命の権能は活きていた。守りを破られようと不死は不死、メレアグロスの命たる薪は無事で、命が無事であるということは死ぬわけがない(・・・・・・・)のが道理である。

 権能の守護。元通りの姿に復元されたメレアグロスは眼を白黒させる天魔に微笑み掛けた。

「後方注意だ、悪く思え」

 右人差し指をクイッ、と捻る。手首に巻かれてあった翠石のブレスレットが光った。後方より捨てられていた神槍が飛来。天魔の背中に金色の穂先が突き立つ。

「    !!」

 不意の激痛に絶叫し、天魔が身を捩った隙に腹に蹴りを叩き込み距離を開く。全力の蹴撃である、天魔は地平線の果てまで吹き飛び掛けるのを、大地を足の裏で掴んで堪える。
 瞬間、星が傾いた。惑星は平面のものと信じられ、そう在る神代。桁外れの怪力同士の衝突は天地を揺らす。

 天高く跳躍したメレアグロスは全魔力を雷光に変換。天魔が縮地法による空間転移で間合いを殺してくる前に、数百もの雷球を生み出す。 担い手の保有する性質を極限化させる宝剣、因果のセクエンスを天に掲げ一際巨大な――黄金に燃える小太陽の具現を形成。並列して大嵐の爆撃を敢行し足止めを計る。

 霆の剣(フォトン・レイ) 霆の剣(フォトン・レイ) 霆の剣(フォトン・レイ) 霆の剣(フォトン・レイ) 霆の剣(フォトン・レイ) 霆の剣(フォトン・レイ) 霆の剣(フォトン・レイ)――

 因果律の破断は、天魔のみの専売特許ではない。戦神の後継と定められし英雄もまた、セクエンスを通じて成さしめる。

「――滲み出す極光の紋章。仰ぎ見よ不遜なる狂気の(ともがら)。光落とす道、火種を煽る風、大火の淵を遠天に集わせ、天の射手たる我が指を見よ。弓引く音色が欲界に満ちる」

 月に等しい大質量。小太陽の雷球を、宝剣を振り下ろして地上に落とす。
 是即ち、

「『父よ、剣の切っ先にて胸襟を開こう(セクエンス・マーウォルス)』」

 小太陽とは即ち燃える火の星、火星。赤の極まる金色の炎。転じて雷撃の極み。闘争の親子は死により隔たれ、語り合う術は闘争に拠る。
 大嵐の絨毯爆撃を、巨剣をくるりくるりと回転させて難なく凌ぎ、すぐさま回避に移ろうとしていた天魔が、ぴたりと止まる。どこか呆然とした、愉悦の消えた黄金瞳。天魔は、ぽつりと溢した。

 メレアグロス?

「……」

 やはりな、と、思う。

「……これがオレの全身、全霊。至大至高の一撃だ! そのなんたるか、無我のままで受けるのは赦さんぞ!!」

 どうせ戦うなら、負けるなら、心から戦いたい。一人相撲ほど虚しいものはないだろう。

 声は届いたのか。火星の剣を、天魔は見上げて、

 呼応した。

 巨剣が鞭のように(・・・・・)しなる。
 莫大な、濁流の如き魔力の充実。
 一瞬で臨界に達し、余波だけで界を穿つ剣撃の一。
 天魔は、無ではなく、有なる剣を振りかざし吼えた。

軍神の剣(フォトン・レイ)

 剣の切っ先を太く構え、突撃。
 天魔は正面から火星の顕現を貫通する。

 ――強いな、貴方は。

 勝つと決めた、しかし思う。メレアグロスは生涯最高の業を真っ向から破られて、満足していた。それでこそだ、そうでなければならないと、天魔の姿に確信している。
 遠くで、薪に皹が入ったのが解る。天魔の力は破壊のそれ。故に、許容できるダメージは蓄積されながら計上しているのだ。これを受ければ、どうなるか、試してみたいと思う。生きるのか、死ぬのか。知りたい。

 虚空に漂うまま、剣先が迫るのに、メレアグロスは動けなかった。

 天魔に貫かれる、その寸前に、割り込む者がなければ、メレアグロスはどうにかなっていたかもしれない。



「戯け!!」



 颯爽たる鎧武者。
 凛然なる高貴なる光輝。

 怒髪天を衝くは真紅の女神。英雄の死戦に駆けつけたる祝福の守護天。
 アテナ。
 アイギスの盾と優美なる兜の羽飾り、黄金の鎧と火炎の杖槍。完全装備の女神は天魔の巨剣を盾で受け、衝撃に苦悶の表情を浮かべながらも、辛うじて受けきり、槍の一閃によって天魔を退かせた。

 地に共に降り立ち、アテナは一喝する。


「死ぬには早いぞ、我が英雄。
 あれなるを倒すまで、我らは一心同体とならん!」


















薪の英雄の苦難の中、かの女神は常に傍らに居た。


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天魔死戦 (下)




 大神の寵愛を一身に受けし、神々随一の知勇を誇る戦女神アテナ。
 雷霆が納められている武器蔵の鍵、その在処を知る唯一の存在であり、大神の武器防具を自由に借用する権利を与えられた神格である。また大神の随神である勝利の女神ニケを従える事も赦され、戦の男神と対を成すのがこのアテナであるとされていた。

 ――だが、異母姉弟である戦神と戦女神の関係は険悪なものである。

 多くの人々に好かれ、多くの神々からも慕われ、頼られ、特別扱いされたアテナ。
 多くの人々に嫌われ、多くの神々から鼻つまみ者とされ、疎まれ、敬遠された戦神。
 事あるごとに両者は対立し、悉くにアテナは勝利した。互いの溝は深まるばかり、関係修復に努める者も無い。彼らの険悪な心証は深まるばかりであり。

 遂に、行くべき所まで行ったのだ。

 薪の英雄を守護し叱咤した戦女神は、無敵の神楯を手に恐るべき天魔と対峙する。かつての戦歴を思い返すアテナではない。今、両者の力関係は完全に逆転しているのだから。

「……◼◼◼よ。前に言ったな。狂気を御し、破壊衝動を戦に特化させれば、お前は我らの父にも伍する偉大な神格に成れると」

 言った通りだろう、と真紅の姉神は。無用な本能を失い、不要な理性の溶けた漆黒の天魔を哀れむ。
 アテナが見るに、もはや天魔グラディウスの力は父であるゼウスにも比肩するものとなっていた。即ち、こと闘争に限れば、並ぶ者は皆無である。ゼウスが天魔に勝るには、不意打ちをするか、如何にして最大出力の雷霆で焼き払うかに終始する。もしもそれをしくじれば、ゼウスは天魔の前に屈することになるだろう。
 それほどの怪物。闘争の枠に捕らわれれば、敵う者など無い。無双とは、武神とは、戦神とは。陳腐な表現となるが、最強の代名詞なのである。

 天魔は、明確に女神を嘲笑う。もはや神の楯と杖槍を手にする女神など覚えていない。しかし彼女が自らとの闘争を望んでいるのだと概念ゆえに理解していた。
 勝てると思っているのか。
 否、戦えると思っているのか。――そんな、弱くなった身で。

「私が弱くなっただと?」

 嬉しげに微笑み、強く笑う女神。

「――それは誉め言葉だぞ、天魔よ!」

 裂帛の気合いと共にアテナは馳せる。

 神すら例外なく毒となる魔界の災厄、そんなものは神盾アイギスの神威に祓われている。故に肉体的な弱体化はない。弱くなったのは、心だ。人を知り、愛を知り、有限の儚い命を尊んだ。だから神格の保有する絶対性、不変性を喪失している。
 だがそれがなんだ。弱さ故の強さを手に入れた? そんな綺麗事、ちゃんちゃらおかしい。だがその綺麗事を真剣に受け入れられることのなんたる充足か。神にはない脆さは、人の偉大さでもあるのだから。
 杖槍の先に鋭利な火の刃が形成される。神速の踏み込み、光速の刺突。十字を描く火槍の穂先は視認すら出来ぬ超常の一撃。それを、天魔は二本の指で容易く掴み取る。
 片腕で軽々と操られ、虚無の巨剣が閃いた。神楯に激突したのは、斬撃というよりは打撃。その守りは破ること能わぬと見抜いた故に、神楯ではなく楯の握りを掴む女神の持ち手を狙ったのだ。
 果たして苦悶し、危うく神楯を取り落とし掛ける。その硬直を見逃す天魔ではない。杖槍の穂先を捩り上げ引き寄せつつ、火槍の担い手アテナの体勢を崩して更に構えられてある楯に宇宙の一部を破壊せしめる蹴撃を、槍の刺突の如く呵責なく叩きつけ、神楯を持つアテナの腕を破壊。苦鳴を漏らし引き下がった瞬間、地に落ちた楯を天魔が遠くに蹴り飛ばし、杖槍を取り戻せぬと判じたアテナが徒手空拳となった途端に首を狩る斬撃を見舞う。

 勝負はそれで決した。――アテナが一人であれば。

「――オレを見ろ、よもや忘れたとは言うまいな?」

 天魔の背後に回り込んでいた黄金狼が、宝剣セクエンスにより極限化した雷光の性質を、聖剣カレトブルフに注ぎ込み、雷電を散らしながら必殺の剣閃を繰り出す。
 うぬを忘れる者が在るか? 天魔は音無き喉を震わせ嘲弄。背後からの強襲に当たり前のように対応した。
 アテナを仕留めんとして居たのは偽攻。巨剣を振り切り空振った遠心力を利し、左足を軸に独楽のように捻転、背を切り裂かんとする横一文字の光の斬撃を紙一重で屈み様に回避して、伸ばした足の爪先がメレアグロスの左脇を抉って食い込んだ。
 一撃で肋骨は複雑に折れ、心臓が破裂する。だが瞬時に復元する。血反吐を吐きながらメレアグロスは天魔の脚を抱え込み引き回す。竜巻すら発生させながら大回転し、血を吐きながら天魔を遥か彼方に投げ飛ばす。
 地平線の彼方まで消えていった天魔は、恐ろしく楽しげ(・・・)であった。

「……一心同体なのだろう。先走るな、戯け」
「すまない。少し良いところを見せたかった」

 お前の前では見栄を張っていたいのだ、と参上時とは打って変わってはにかむアテナに、メレアグロスは呆れて嘆息した。
 隣に並び、肩を揃え、メレアグロスは百倍した勇気に奮い立って前を睨む。

「オレが合わせる。行けるな?」
「ああ!」
















  †   †   †   †   †   †
















 ――血戦であった。

 アテナの腕は瞬く間に快復。魔術に拠らぬ神核の恩恵である。神とは不死、腕が四散した程度で弱りはしない。
 彼方に消えた神楯と杖槍が、アテナのもとに召喚される。
 メレアグロスは雷火槍ゲエンナを右手に、星の聖剣カレトブルフを左手に、火星の剣セクエンスを背中に括りつけ、気力を全身に充謐させた。そして女神に問う。神核は、通常どこにあるものなのか、と。

「心臓だ」

 端的に告げるアテナ。

「人は神に似せて作られた。即ち、人の急所は神の急所でもあるということ。頭を潰せば死なずとも思考が止まり、心臓を潰せば動けない。動けぬとなれば、それは実質死んだも同然。神格を有する者の神核は、胸の真ん中にあるものだ」

 なんなら触ってみるか?
 意地悪く豊満な胸を張る女神に対し、露骨な舌打ち。そして無視。

「では、天魔の核をどうにかせねばな」
「……うん。そうだな」

 メレアグロスは前を見たままぽつりと呟く。

「来るぞ」

 ――瞬間である。直前まで世界の果てまで飛ばされていたはずの天魔が、前方に突如出現する。

 誓って言おう、瞬き一つしなかった。

 なのに突然、フィルムを一枚捲った瞬間に現れたかのような唐突さで、天魔は其処にいた。
 空間転移。魔術でも、魔法でも、権能ですらない。ただの技術、技法、技能。魔法の域に在る縮地法。天魔の一歩は、世界を目的の場所まで縮める。極めれば人にでも出来うるもの。
 故に畏怖する。
 才能と努力と環境と時代。それらが揃えば誰でも出来る業だから、その凄まじさは一層恐ろしく映るものだ。――比類無き恵体を持つ天魔がそれほどの絶技を当たり前のように繰り出して、無数の究極の一を掛け合わせるのである。実質、消耗も無しに。

 天魔が巨剣を二つに割った。遊びは終わりなのか、それとも続くのか。疾走する真紅の女に惑いはない。無防備な背中は、最優の大英雄を心の底から信じ託した故のもの。
 神楯を前方に押し立て、突貫するアテナ。背後に続くメレアグロス。具体的な打ち合わせもなしに攻め寄せる彼らを、昂る事で刺激される『闘いの記憶』に歓喜して天魔が吠える。
 口腔より迸る物理的衝撃波は大砲となってアテナの足元を直撃。戦女神は突如生じた地面の窪みに足を取られ、転倒してしまうような間抜けではない。しかし、舞った砂塵に視界を遮られ、刹那の先に突き込んだ杖槍が空を切って異変を察知。
 獲物が消えた――何処へ――答えはメレアグロスが知る。アテナの死角に圏境を発動して出現した天魔に狼の牙が剥かれた。
 帯電した雷火槍ゲエンナを豪快に薙ぎ払い、それを躱した天魔の攻性行動を制限、巨双剣による虚無の斬線を瞬時に伏せて回避。アテナの輝ける神眼に天魔は映らず、しかしメレアグロスの測る間合いと体捌きから天魔の位置を割り出し、果断に間合いの外へ杖槍を一閃。完全に天魔を捉えた権能は、アテナの象徴たる小惑星ミネルヴァを模したトロヤ群の流星爆撃だ。秒間数百を数える、一つの流星で都市を壊滅させる権能の一部である。

 範囲を極めて狭め、規模を縮小しての天体質量の奔流に呑み込まれた天魔。本来の威力には劣るが確実に命中させた。
 これにはさしもの天魔も無傷で切り抜けられなかった。少しの火傷(・・・・・)打撲跡(・・・)を拵え、小惑星の嵐の渦から脱出。激甚なる雷鳴を散らし黄金の狼が雷火槍ゲエンナを繰り出す。
 これを右腕に受けて筋肉を固め、槍が引き抜けぬように固定、霧のように霧散する黒血を出血しながら天魔が地を蹴る。地殻を蹴り穿ち変動させ、アテナとメレアグロスが微かに体軸を揺らして止まった瞬間、アテナに巨剣の片割れを投擲。神楯で止めたものの途方もない威力に弾き飛ばされ、呼吸二つ分の時をメレアグロスは単独で天魔と相対する。

 0.01秒。体勢を回復したメレアグロスは雷撃を送って天魔の腕から槍を引き抜く。

 0.02秒。知覚すら出来ぬ速度で一歩、メレアグロスの背後に回って巨剣を投擲、同時に元の位置に戻り拳を構える。

 0.03秒。メレアグロスは無手の天魔に眼を瞠き対処を誤った。先の意趣返しとばかりに天魔の巨剣が黄金の王の背に突き刺さり串刺しにする。

 0.04秒。人体の反射として停止したメレアグロスの顔面にコンパクトに纏められた天魔の拳撃が九連叩きつけられ脳震盪を起こし意識を奪われる。

 0.05秒。無防備な獣を解体するべく胸の中心から突き出ている巨剣の刃先を掴み一気に抜き取る。

 0.06秒。巨大な刃が体の中心を貫通した衝撃に意識を取り戻す。

 0.065秒。首を刎ねられる。

 0.08秒。両腕を断ち落とされる。

 1秒。両足を付け根から断たれる。

 1.05秒。何も出来ずに狼は胴の中心を蹴り抜かれ吹き飛ばされる。

 1.5秒。アペニン半島の際まで吹き飛んでいた狼に追撃の一刀。巨剣が擲たれ再び串刺しになり岩壁に張り付けられる。

 2秒。新たに虚無の鋳型、暗い巨剣を精製し背後を振り返る。

「ォォォオオ!!」

 激怒し迫るアテナに、天魔は権能の大魔術のみを警戒しつつ両手をだらりと落とす。二天、一の剣。脱力した自然体の極致。ふわりと双巨剣を握る天魔が黄金瞳を嫌らしく歪めた。
 双剣それぞれ、右と左の半身が別の生き物のように動作し、アテナの光速の槍衾をひらりひらりと躱し様。――双剣が、六つに。六百の剣撃を瞬きの間に繰り出した。
 驚愕し、されどアテナは己を呑み込む刃の結界に対処。神楯で鎧では防ぎきれぬ急所を防御。神楯は傷一つ付かぬも楯を握る腕は砕け、腰は抜け、内臓はぐちゃぐちゃに掻き回される。甚大な痛みに白熱した自我。
 アテナはフッと気絶し、

「まだ、だァァア!!」

 天魔の予測よりも三秒早く黄金の大王が復帰。
 五体を復元しながらも全身から鮮血を吹き出し、したたかに天魔の側頭部に雷火槍ゲエンナの超重の刃を叩きつける。
 ぐらりと揺れた天魔の脇腹に聖剣を突き、刺さったのが僅かに小指の先と見て舌打ち。メレアグロスは全力で天魔の頭部を握って地面に引き倒し、圧し掛かって拳を食らわせる。
 地面と拳を何度も往復し、七発まともに殴打されるや、ぎらりと天魔の眼が光る。黄金の眼光、邪悪の虚無。
 視線が熱線となってメレアグロスを襲った。未来予知の域にまで踏み込んだ直感に従い咄嗟に天魔の上から飛び退く。

 巨剣を一対精製し、メレアグロスと対峙する天魔グラディウス。その顔に笑みはなく、剥き出しの闘志が込められていた。
 準備運動は終わりだとでも言いたいのか。
 天魔を挟むようにして、アテナがゆらりと立ち上がる。

 颶風を巻き起こし前後を挟まれた天魔が戦女神と大英雄に応戦。縮地で逃れる隙も与えず、間断なく猛攻を加える。
 呼吸する余裕すらない。決死の覚悟で女神と英雄は槍と楯と剣を操り一分、十分、百分、千分と攻め続ける。

 だが、

 それでも、

 躱す、捌く、流す、止める、切り抜ける。
 小さな傷は多々あれど、有効打となる一撃は一度も貰わず天魔は両者の織り成す刃の牢獄を凌いでいた。
 寧ろ追い詰められているのはアテナとメレアグロスである。一瞬のミス、気の緩みで天魔は囲みを突破するだろう。のみならず、逆撃によって更なる深傷を負いかねない。
 あらゆる手管を費やす。凌がれる。防がれる。
 やがて、最初に根を上げたのは――アテナである。
 息を、
 一つ、
 吸った。
 その隙にメレアグロスの聖剣を腕で止めるやアテナに魔力弾を拡散して放ち圏境を発動。的を見失ったアテナの攻撃に精妙さが欠けるや容易く包囲を破り、離れた位置にまで空間転移し仕切り直される。
 はぁ、ハァ、ハぁ、はァ。メレアグロスは息を荒げ、アテナの横に並ぶ。

 天魔が、右手を天に翳した。

 暗黒が集う。天を覆う破壊の波が渦を巻き、アペニン半島を覆い尽くしていた闇を集結させたのだ。
 束の間、夜空が見えた。日が昇り、再び沈んだ後だろう。玄妙なる満月に、心が呆ける。天魔が嗤う。

 アテナが前に出た。神楯を地に押し立て、神威を全開で放ち真の力を解放――



 ――虚ろなりや必滅の権(グラディウス・フォトン・レイ)

熾天に翳せ敵無しの環(イージウス・アテーナー)ァッ!」



 破壊の権能を、無敵の楯が防ぐ。防ぎきれるのか。傷一つ負わぬはずの神楯が軋む。アテナは自身の神威を総動員して全力で防ぐ、防ぎきると吼える、さもなくば、自分だけでなく、後ろに庇う英雄まで――


 死闘は続く。


 天魔がアペニン半島を覆う虚無を解き、魔界が崩壊したのを契機に、

 死戦は、次なる段階に進んだのだ。






















どうやって勝つんだこれ……。


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集いて踊れ、死への道 (上)



 虚ろなりや必滅の権(グラディウス・フォトン・レイ)

 熾天に翳せ敵無しの環(イージウス・アテーナー)




 無敵の楯が開門される。
 四方に割れ、破片が展開され、多重次元を歪曲させる白金の粒子が噴出した。
 万の事象、億の理総てに対する不可侵の楯。
 防ぐのではない。
 弾くのでもない。
 遮断(・・)しているのである。
 担い手の守護する者を楯の内に隔離して。

 無敵の謳い文句は偽りではない、雷霆を以てすら傷一つ付かぬ以上、破れるものなどあろうはずが――

 天魔の掌握する権能、破壊の概念の濁流。それは"遮断"と"断絶"の壁にすらも侵食するのか。

 ――無敵の神造兵装"神楯アイギス"が軋む音に無限の戦慄をアテナは覚えた。
 神を。霊体、実体を備える不変の神を、天魔は明確に超えていた。否、神に付随する性格や概念を余分(あしかせ)として切り落としたが故、剥き出しとなった現象が本当の力を発揮しているだけだ。
 その脅威は、神楯ですらも悲鳴を上げるほどのもの。或いはアイギスすらも破壊されるやも知れぬと、アテナは神力の限りを総身より絞り出す。

「……」

 この瞬間。メレアグロスが視ていたのは、
 自身を守護する者でも、
 無敵という概念をも滅ぼさんとする暗黒の虚無、その濁流でもなかった。

 満天を覆う分厚い雲すら散り、その繊細な肌を露にした夜空。
 星屑の撒かれた月光の天。
 黄金の大王には見えたのだ、皆無だった勝機を、零から一にする起死回生の策が。暗雲に閉ざされていた勝利への光明が。

「――星よ。星の意思よ。よもや貴様、もはや手立てはないとは抜かすまいな?」

 火星の剣を媒介に、雷霆の魔力の質量を極限まで高め、星の聖剣へ皹が入る程に充填する。
 聖剣の耐久限界を優に超し、自身の体を崩壊させ、薪の加護により崩れた体を無理矢理に復元して、更に魔力を弾丸として装填。黄金の輝きは暴力的なまでの光量となり夜を昼ほどのものとして、刀身の内側で雷を光に変換・圧縮・圧縮・圧縮・収束・加速の工程を連続し運動エネルギーを増大させ続ける。

 地球(ガイア)は応じる。何が望みだと。否、何をしたらいい、と。星は、自らの命運が黄金に懸かっていることを知る。故に全面的な協力を惜しまない。

「死にたくはなかろう。貴様はまだ生きていたいだろう。ならばオレに総てを投資しろ。出し惜しむ愚を犯すな。救世の聖剣に貴様の生存を賭けろ」

 さすれば、

(ガイア)の滅びを、このオレが食い止める。貴様の敵を、このオレが滅ぼしてやる」

 悪い話ではなかろう。メレアグロスが嘯くのに、星は全力で応えた。
 溺れるものは藁をも掴む。死地に在りて救いの手を差し伸べられたなら、掴まざるをえない程に星は幼い。

 星の聖剣が変貌する。外装ではなく、その中身が。
 元が神剣をモチーフとした物ゆえ、ガイアの意思を反映するのに最適とは言い難かった大剣が、究極の光の断層を送出するに相応しい媒体と化す。
 神槍を地に突き立て、両手で光の剣を掲げて光の束を検分した。
 神造兵装とは星を滅ぼしうる外敵と戦うための兵器。世界を救う戦いでしか真価を発揮しないもの。それを一切の枷なく振るえるのが、この決戦である。

 星のバックアップを受け、この時を以て星剣は聖剣のカテゴリーに於ける頂点に君臨した。
 凄烈なる地球の生存欲求。ガイアの訴えにメレアグロスは首肯する。貴様の元で住まう一個の生命として、孝行するのもたまには良いだろう、と。

 メレアグロスは、踏ん張るアテナの耳元で囁く。

「この命を預ける。貴様の命をオレにくれ、アテナ」

 激増する気力。女神はその言葉に鼓舞され、神核より迸るまま神力を起爆した。
 押し切られかけていた"アイギス"が、瀬戸際で一層強く、甚大なる権能を振るう。守護の一点、アテナが言葉にならぬ猛々しい咆哮を轟かせた。

 破壊の波動、虚無の引導。幕引きの権能が阻まれ、遂に跳ね退けられた。
 驚愕なんて無駄な機能を有さぬ為に、天魔はアテナの背後より飛び出た英雄を見逃さない。瞬時に照準を定めるも、最大出力の権能を放った直後の神経的硬直に対処は間に合わず。

「『戦神に捧ぐ(カレト)――」

 星の光そのものを手に、臨界を遥かに超えた命の奔流を、黄金の王は逆袈裟に振り上げた。

「――勝利の剣(ブルフ)』ッ!」

 解き放たれた究極斬撃、光の断層。
 遠くにまで認められる星の激流が――光の柱がアペニン半島の中心に聳え立つ。

 飛び退いた天魔は、辛うじて半身を断ち切られる運命より脱した。代償に右腕を根元から両断され、大化生たるモノの腕が地に投げ出される。

 神楯に縋りつき、体を預け、息も絶え絶えの女神にメレアグロスは言った。

「勝ちに行く。回復したらいつでも続け」

 神槍を引っ掴み、寸断され地に落ちている天魔の右腕、その上方に投擲。縮地法により腕を回収に現れた天魔は、自身の行動を読まれている事を悟り、咄嗟に体を傾け神槍を回避。
 神槍が飛来するのに合わせ、体を躱しながらその柄を掴み取って奪わんとするのを、

 天魔の背後に出現(・・・・・)したメレアグロスが聖剣を振るって阻止。

 伸ばし掛けた左腕を戻すも、体勢を崩していた天魔の首を火星の剣(セクエンス)で刎ねるべく背より引き抜き様に振り下ろす。
 天魔は、器用にも左腕で体を支え、脚を広げ独楽のように右に回転。左足でメレアグロスの腕を蹴って斬撃を逸らし、右の足で脇腹を蹴り抜き体軸を崩す。流れるように立ち上がり様、天魔は仕切り直すべく空間転移。

 だが、それにも張り付くようにして天魔の背後(・・・・・)にメレアグロスは現れた。

 天魔は悟る。左腕に籠手の形に虚無を纏い、斬撃を防ぎながら愉悦する。――嗚呼、うぬに見せすぎたのか、吾は。

「そうだ。そう何度も見せられたら、阿呆でも模倣できよう」

 伊達に戦神の後継に据えられし者ではない。 完全ではない、しかしそれに近しい領域で、黄金の大王は天魔の歩法を見て、盗んでいた。
 縮地法を駆使し、黄金と天魔が島を所狭しと駆け回る。空間を砕く剣戟の音色が打ち鳴らされ、天魔と黄金が渡り合った。

 圧倒的な、不利。

 切り結ぶ中で何度首を折られ、腕を断たれ、目を潰され、心臓を貫かれたのか。虚無の防具を纏いつつ、巨剣を戦いの最中に形成して縦横無尽に跳ね回る天魔の戦闘能力は常軌を逸している。
 単独で戦うのは無謀。だが死なぬ、殺されても死なないメレアグロスの意地。血反吐を撒き散らしながら黄金狼は雄叫びを上げた。

 オレは此処だ、と。
 雄壮に吼える。此処にいるぞ! と。

 やがて黄金の大王は天魔の巨剣の腹に打撃され、虚空より打ち落とされて地面を大きく陥没させた。クレーターの真ん中で、苦しげに顔を顰めつつも、メレアグロスはにやりと不敵に笑う。

 天魔もまた嗤った。メレアグロスの体力が底をつき、動きに精彩が欠いてきたのを見抜いたからだ。殺しても死なぬなら、封じて、じっくりと概念ごと溶かして滅するのみ、と天魔は嘲笑する。
 楽しませてくれた英雄に止めを刺すべく、天高く跳躍して、真っ直ぐにメレアグロス目掛けて落下していき――



 ――横合いから、月女神の弓に匹敵する矢が天魔を殴り付けた。



「横から失礼」
「援軍に参りました、メレアグロス様!」

「……早かったな、ケイローン殿。それとメディア」



  いの一番に現れたのは、半馬の賢者と、その背中に乗せてもらっていた王女であった。





















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集いて踊れ、死への道 (中)





 音の壁を貫き、光速に至る鋭利なる鏃――横合いから飛来した狙撃弾。
 こめかみを穿つ弾道に、直前で勘づいた天魔は舌を打ち、漆黒の巨剣を閃かせ難なく十の徹甲弾に等しい一矢を叩き落とす。
 黄金の獣を仕留めんと虚空に躍り出て、空中で無理に体勢を捻っての防御である。未完の聖剣の刃を弾いた天魔の肌は、たかが矢の一撃を受けたとて掠り傷も負わぬ。無視すればよかったのだが、咄嗟の事に、闘争の概念が内包する卓越した戦闘者としての天魔が防御を選択してしまっていたのだ。
 斯様な無駄な動作を一つ間に差し挟み、黄金を砕く事は能わぬ。天魔はすっぱりとトドメの一撃を諦め、空気の壁を蹴って空中で軌道を変更。真横に跳ねてアイトリアの勇者らと対峙する。
 健在なのは最優王。半馬の賢者。コルキスの王女。――知恵の戦女神は今、回復に専念していた。
 メレアグロスは苦笑して、特に殺気立っているでもない天魔に怯えを隠せないメディアと、厳しくもたおやかに構えるケイローンに声をかける。

「奴は縮地法を使い空間転移する。距離を置いているからと油断するな」
「それはまた……貴方の見る戦力比をお聞かせください、大王陛下」

 神核を保有する不死のケイローンは、しかし一瞬も気を緩めずに天魔を見ている。
 天魔は、手の中の巨剣を変形させ、槍に変えていた。そして、在りし日の軍神を想わせる青銅の鎧を模した虚無の鎧を纏う。
 武装するに値する敵であると、天魔は認めたのかもしれない。認めぬままいてくれた方が楽で良いのだが、流石に甘くなかった。

「メディアを五として、宰相殿を十、オレとアテナを二十。天魔は百だ」
「――それは、まことで?」
「ああ」

 戦力は隔絶している。数値だけを見れば束になっても敵わぬだろう。ケイローンは一つ頷き当たり前の事を言った。

「私達だけでは厳しいですね」
「総力を結集しても難しいな」
「ええ、しかしみなの力を合わせねば、とても太刀打ちならないでしょう」
「そうだな。故にオレは貴様らを呼び寄せた訳だが……やけに早かったな? どうやって此処まで来た」

 ガイアのバックアップを得た聖剣による光の柱を、態と天高く放ったのは、自分の居場所をこの地にばらけていた手勢に知らしめ、彼らを呼び寄せるためであった。
 自らの企図した事とはいえ、賢者と王女の参陣は余りに早い。その種は何か。
 訊くと、メディアが笑顔を引きつらせながら言った。

「あ、あの、わ、わたし……出来るんです」
「……何がだ?」
「く、空間転移(・・・・)です。ヘカテー様が、教えてくださった魔術ですから、いつでも、どこでも使えます」
「……」

 目を瞬き、メレアグロスはまじまじと王女を見る。このような場でありながら照れたように俯けるのは余裕故か、天然故か。
 後者だなと頭の片隅で判じつつ、メレアグロスはメディアに対する評価を改める。意外と、使えるやもしれん、と。余り期待していなかっただけに、嬉しい誤算だ。

「あ、あのっ。他にもいっぱい出来ます、わたし、お役に立てると思うんです!」
「……分かった。では宰相殿の指示に従え。オレは前に立つ、指示を出す余裕はない」
「はい! そ、それじゃあ、頑張ります!」

 あ、でもその前に、と。
 前置きをして、メディアが詠唱する。一瞬の呪文、展開されるのは大魔術。えいっ、と詠唱の完成と共に杖を振るうや、自身の周囲に無数の魔法陣が展開された。
 召喚魔術か、と驚く。メディアは、この地に集っていた英雄軍を容易く召喚したのである。
 続々と魔法陣より現れたるは、貴き者テセウス、神秘の双剣遣いカストル、腕と同化した双弓の担い手ポリュデウケスを初めとした騎士団の面々。
 槍の名手カイニスがいた。
 二人揃えばヘラクレスにも伍し得るかもしれない双子のモリオネーがいた。
 ザ、と地を蹴りて力強く召喚に応じる彼ら。何人か姿が見えないのは……そういう事なのだろうが、ほぼ欠員なく健在なのには驚かされた。

 ――メレアグロス! メレアグロス! メレアグロス! メレアグロス!

 楯や鎧を打ち鳴らし、英雄らが高らかに大王の名を歓呼する。声の限りを尽くして。
 この期におよび、なおオレの名を唱えるか、とメレアグロスは瞠目する。彼らは、この死地にあって、メレアグロスこそを心の拠り所としていたのだ。酔狂なと呆れるやら、彼らを捨て駒としていた自身を恥じるやら……颯爽たる彼らの中から、騎士らが歩み出る。

騎士団(メレアクレイタイ)、此処に」
「お呼びとあらば即参上、カストルです」
「……よく来た。事前にメディアに召喚される旨を打ち合わせていたのか?」
「は。賢者殿のご采配によります」

 なんの抵抗もなく現れた彼ら。メディアの魔術が如何に強力でも、テセウス辺りは弾く事も出来たはず。それをしなかったという事は、なんらかの打ち合わせがあったという事になる。そうメレアグロスが問うと、テセウスが副首領たる賢者に敬意を払いながら応じた。
 流石の知見だ、と讃えると、ケイローンは謙遜しながら言う。

「有事に備え、数パターンに別けて方策を用意するのが参謀の役割でしょう。この程度は出来なくては」
「……メディアが空間転移出来ることを知っていたな? 意地の悪い男だ」

 詰るような物言いに、涼しい顔で半馬の賢者ケイローンは嘯いた。

「そこは計算高いと仰って頂きたいですね」
「……ふん。伊達に長生きしてはいないな、長老殿。あれはご老体には辛い相手だ、あまり無理はするなよ」
「……歳の事は言わないでください。それよりもミネルヴァ殿の姿が見えませんが、今どちらに? 彼女なら大王の危機にまで参じないはずがないと思っていたのですが」

 態とらしくそう言うのは、事情を見抜く賢者故のもの。苦り走った顔で、戦女神アテナは汗を拭いながら彼に言う。

「……ミネルヴァは此処にいるぞ、賢者殿」
「おや。これはこれは、勇壮なる戦女神殿。それは如何なる意味でしょう?」
「信徒……いや、我が巫女ミネルヴァの要請に応じ、巫女の体に憑依して、共に戦ってやっているのだ。共に轡を並べられる栄誉に咽び泣け、英雄達」

 かの戦女神と共に戦えるとは! 単純な者はそう喜ぶ。メレアグロスは苦笑し、しかしすぐに表情を引き締め、天魔に向く。

「……さて。これで、二十対一となるが。よもや卑怯とは言うまいな?」

 如何に強かろうが、対処可能な手数は揃ったと言える。彼らは天魔からすれば雑魚だが、天下無双の雑魚である。ただでは屠れぬ。簡単に死なぬ。死ぬにしても置き土産ぐらいは残せる面々だ。侮れるものではない。
 だが。
 しかし。
 そうメレアグロスが確信するのに――天魔は薄く嘲笑を浮かべる。 
 そして槍を地に突き立て、ゆっくりと見せつけるように唇を動かす。

 来い

 どろり、と。暗黒の泥が、人型を象るようにして、そそり立つ。それは美しき女神を象り、正体を察したアテナが呻いてその名を呼んだ。

「エリス……エニュオ……! ◼◼◼に引き摺られたか、愚か者め!」

 それは不和の女神。恐怖の具現たる者。双方ともに戦神◼◼◼の随神であり、彼に付き従う者らであった。
 更に、煌めく戦帯で飾られた四頭の神馬が、戦車を牽いて現れる。自身の眼前に並んだ彼らに、天魔は薄ら笑いを浮かべながら巨大な槍を突き刺した。
 びくん、と痙攣した神に連なる者ら。
 形が崩れた。無に帰したのだ。――否、正確には、天魔に吸われ、一体化したのだろう。戦車だけを残して崩れ落ちた四頭の神馬。二柱の女神ら。それらはズグズグと気泡を立てながら再び人型となり、

 六体の天魔(・・・・・)と化した。

「――」

 絶句する。
 それぞれが天魔グラディウスその物となったのだ。天魔の力を注ぎ込まれ、侵食され、その存在が上書きされてしまったのである。
 なんたる事か。声もなく戦慄する英雄らの眼前で、虚無の概念は個体という状態すらも喪失して"無い"ものとされたのか、更に無数に分裂していく。

 天魔という絶対者の力は半分以下に落ち込んだ。しかし、その数は――三十を数えられた。

 うぬらは英雄だ。よもや、卑怯とは言うまいな?

 嘲笑も露に、天魔は玩弄するように巨大な槍を翳す。

 此処に。

 絶望的な戦い、その開戦の幕が切って落とされた。























「――は、」

 槍を、剣を、弓を持つ、天魔の群れ。
 個々の力は、どれもメレアグロスに匹敵するだろう。天魔の本体は、大幅に弱まったとはいえ、それでもメレアグロスに倍する力量を保持している。
 どう考えても、勝機はない。
 質も、数も上を行かれた。どうしろというのだ。どうやれば勝てると言うのか。
 暗くなりかける空気。重くなる士気。
 それを、切り裂くように、笑う者有り。

「ははは、ハハハハハハハ!!」
「メレアグロス殿……?」

 ケイローンが、正気を疑うように、大口を開けて哄笑するメレアグロスを見た。
 彼だけではない。不安げにする英雄ら。メレアグロスは、そんな彼らに言った。

「どうした? 笑え。笑わずにどうする? 苦しいだろう、勝てないだろう、絶望的だろう。だが、だからこそ、笑え。こんな時に笑って、不可能を可能にしてこその英雄だ!
 絶対に勝てない?
 戯けめ。敗けを認める者は死ね。共に戦う気概がある者だけ聞け。いいか、オレは。いや、

 オレ達は絶対に勝つ(・・・・・・・・・)!!

 死んでもだ。必ず奴を滅ぼす。断じよう、勝つのはオレ達だ! 勝利を掴むのはオレ達だ!
 勝利を望め! 勝ち取ると誓え! 死ぬならば笑って逝け! さあ、笑え!!」

 は、

 はは、

 はははははははは!!

 ――気でも狂ったように、英雄達は悉くが笑い声をあげた。笑って、笑って、笑って、天魔の齎す破滅への予感をはねのけた。
 彼らにあるのは、勝利への渇望。
 黄金の大王の下で戦える栄光に、彼らは歓喜した。

 号令が下る。黄金は神槍を掲げた。

「アテナを中心に集結! メディア、アスクレピオスを死守せよ! 死ぬまで笑え、勝つまで笑え、笑って天魔を滅ぼせ! 誇り高く死ぬ楯となり我が命令を厳守せよ! 命令終わぁり!」

 メレアグロスの怒号に、ハハハと笑いながら英雄らが高らかに服従する。
 精一杯の勇気を振り絞り、メディアが唱えた。


「――みなさんに、勝利を!」


 全員に、力を数倍させる強化の魔術が掛けられる。
 死線を越える時だ。





























彼らは死ぬ。だが、ただでは死なぬ。
テセウスは言った。

「わたしが――僕が、貴方を勝者としてみせる」


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集いて踊れ、死への道 (下)






 その男は、名を"征服されない男"アドメトスと云った。

 奔放なる彼は大楯による鉄壁を担い、自慢の剛力による楯の打撃を得意とした。カリュドンの猪狩りでもアグリオスの突進を受け止め、多くの同胞を守護したものだ。
 故に自負がある。英雄軍の仲間内でも屈指の楯持ちであるという自負が。そして、他の誰かには無理でも、必ず天魔の猛攻にも耐えきって見せると意気込んでいた。
 だが、彼の決意はいとも容易く破られる。
 天魔三十の内、二十八体の先頭を駆けてきた天魔の影は、メディアとアスクレピオス、アテナを中心に置いて円陣を組んだアドメトスらに正面から突進を仕掛けてきた。そして、事もあろうに最も円陣の堅牢な部分――アドメトスの護る地点を強襲してきたのである。
 防ぐ。
 煮え滾るその闘志を、一撃で打ち砕いたのは太々とした棍棒を握った魂なき天魔の分身。コルキスの王女により倍増された力、十全の気力と体力を注ぎ込んだ防御態勢が、黄金の獣に匹敵する棍棒の一閃に打ち崩されたのである。

 声もなくアドメトスは笑った。

 笑った。

 大王がいる。ならば我は死すとも我らは負けぬ。その信頼を越えた信仰が、今際の際でもアドメトスを怯えさせなかった。
 迫り来る漆黒の棍棒。節くれだった荒い樹木のそれを模しただけの虚無。それはアドメトスの頭を潰し、意思を砕き、命を奪った。だが、彼の"遺志"は、彼に繋がっていた『辿り糸の叡知』を経由して、確かにテセウスに届いた。

 ――悪ッリィ、無様晒した。無念だが、後は頼むぜ、テメェら。

 屈強な英雄の遺志はテセウスを通し、不断の赤い糸を通して英雄軍全体に行き渡る。
 瞬間的に獅子吼が迸る、吼えたのは誰か。テセウスが英雄ら全員に通じ合わせた糸で制御、統率、操作するのに全力で応えつつ、皆等しく裂帛の咆哮を放つ。
 アドメトスの馬鹿野郎! 奢った酒の借りをまだ返してもらってねえ! 誰かが精神網の中で叫ぶ。全員が爆笑した。そして、テセウスの内に宿った(・・・)アドメトスが、豪快に笑う。

 ――皆に勝利の美酒をやろう。それで許せ!

 彼らは笑いながら了解する。そして彼ら全員が予感する。
 アドメトスが一撃で守りを破られた。なら、自分達もそうなるだろう、と。
 全員に、アドメトスの剛力が付与される。残留思念が彼らに力を与えたのではない。涙ながらに杖を振るったメディアが、テセウスの中に宿ったアドメトスの魂を媒体に、生き残っている英雄らに征服されない男の剛力を憑依させたのだ。
 人語を絶する痛みがアドメトスの魂を襲っている。メディアはそれを偲んで泣いていた。だが、泣くことはない。悲しむことはない。肉体が滅んでも、共に戦える。これほど嬉しいことがあるか!
 次なる天魔の一撃で、更に英雄が散る。アドメトス同様に、その力を全員が憑依される。死者が増えるほどに厚みを増す守り。更に増す想い。傷つき、倒れ、死んでいく者らに、アスクレピオスが大声をあげて泣いていた。 

 ――無念です! 助けたいのに、助けちゃなんないなんて! テセウス君はなんて酷い奴なんだよ! 僕なら死んだ人も生き返らせることはできるのに!

 テセウスは苦笑した。助けられる者は、誰であっても救いたいと泣くアスクレピオスの純情に。しかし、ここで死者蘇生は無粋だ。散り様も英雄を飾る花道、であれば何故にそれを汚す真似が出来ようか。
 アスクレピオスは喚く。やっぱりあんたら英雄はイカれてる! 喜んで死ぬなんて悲しいじゃないか!

 ――そうさイカれているのさ!

 英雄が散り様に吼えた。
 更に強くなる、固くなる護り。次々と倒れる彼らは、早くも半数に割れている。それでも不敵に笑って、アスクレピオスに言うのである。

 ――正気で英雄がやれるか!? 狂っていいのさ、成すべき事を成せるなら!

 ――考えてもみろよ! おれらの首領に勝利を献上する、これ以上の誉れがあるか!? 死ぬは今、戦うなら今だ! 死んだ後も一緒に戦えるなんて、こんな嬉しい事はねぇ!

 巨剣の一閃が縦に英雄を割る。更に強まる英雄軍。悉くがテセウスの内に宿り、メディアにより増幅される。遂に、生き残ったのは騎士らとカイニス、モリオネーの双子エウリュトスとクテアトス、アパレーティダイのイダスとリュンケウスのみとなった。
 彼らは戦友らが散華した事で過剰なまでに強化され、天魔の分身の猛攻を一度、弾き返す事に成功する。
 天魔の分身は、戸惑ったように攻め手を緩めた。こんな雑魚に手間取る事態を理解しかねたのだ。

 ――ちっ。悔しいが、テセウスよぉ。おたくの言った通りにするしかねぇみてぇだな。

 気に食わないという声に、すまない、とテセウスは悔やむ。
 彼らの死を、使っている。彼らの魂を武器としている。なんと罪深い、冥府神ハデスもお怒りだろう。死者の扱いは本来、ハデスの管轄だから、きっとテセウスは厳しく罰されるに違いないのだ。

 だが、それで構わない。テセウスは戦局を正確に見定めていた。

 勝機は零。勝ち目はない。
 あの恐るべき天魔に勝つ事は出来ない。
 正攻法で戦うな、相手の土俵で戦うな、馬鹿正直に戦うな。自分より強い者と戦う時の鉄則がそれである。であれば、勝つための方策をどうするか。

 テセウスには、策があった。ケイローンと共謀した秘中の策――勝機零を、一にする策が。
 そして、一の勝機さえあれば、必ずやあの黄金卿は勝利を掴み取ってくれるという確信が、信仰が、彼にはあったのだ。
 なぜなら己の主は、あの偉大なる最優の騎士王。この身が敬愛を捧げし唯一無二の師なのだから。
 信仰の理由はそれだけで過分。楯を構え、他の騎士らと肩を並べて、背中を守り合い、天魔の分身の槍と剣、弓の射撃を凌ぎながら、テセウスは謝罪する。

 ――すまない。お前達の命、このわたしが。……いや、この()が貰い受けた。安堵していい。お前達を、有効に使いきって見せる。無駄にはしない、絶対に!

 テセウスは。

 最期に(・・・)

 天魔の本体と、円盤形の楯を持つ分身を相手取り、圧倒されながらも持ちこたえる黄金の大王の勇姿を見て。その偉大な姿に、殉じる覚悟を固めた。

 ――ケイローン殿。後は、お頼みします。

 ――やれやれ、ここで私を指名しますか。……あの天魔が相手です、やもするとこの私でも死んでしまうかもしれませんが……やむを得ませんね。いいでしょう、貴方に賭けます。悔いの無いように逝きなさい。

 寛容に応じる賢者の、なんと知恵深き事。危地に在りて恐れに鈍らぬ知性のなんと尊い事。己の独断に、それが最善と判断して即応してくれる判断力のなんと気高い事か。
 お見事、流石は大王の師。貴方もまた貴き者です。テセウスの声なき賛辞に、ケイローンは苦笑し。

 ケイローンは、円陣から抜け、一直線に馳せる。

 その背に、赤い糸を繋いで。




















「オ、ォオ……オオオオオッ、ッッッ()オオオオオォォォッッッ!!」

 極大の戦意を爆発させ黄金の獣が大喝した。
 潜在する黄金の電流を絞り尽くし、雷火槍を眼前の楯に突き立て、死に物狂いの力を結集し放射。自らを凌駕する天魔の分身を遥か地平線の彼方まで吹き飛ばす。
 如何な天魔と云えど、所詮は魂の宿らぬ分身風情。理性すら溶かすほどの闘争本能の具現と化した黄金の全出力の電流を受けて直ぐには動けまい。

 メレアグロスは巨槍を構える天魔の本体に果敢に挑みかかる。一対一、多大な労力を費やして漸く掴み取った決戦の好機。天魔は迂闊にも分裂し、力を弱めている。千載一遇の機会だった。此処を逃せば勝機はない。今倒す、確実に超える、自身より倍する怪物が敵であっても!
 敵は闘争の化身だ。そして、同時に虚無の鋳型である。核を潰さぬ限り死は有り得ぬ、そも死の概念自体持たぬ。死なぬモノをどう倒す。答えは単純明快、五体余さず粉砕せよ! 奴が我にしたように!
 肉薄し、神槍を振るう。こと此処に至り剣は捨てた。最も得手とする槍の技に全てを託したのだ。メレアグロスは己の全てを絞り尽くす覚悟だった。

 天魔は悠然と迎え撃つ。遥か高みの次元から降りてきたのは闘争をより高密度の愉悦に変える為。今後、これほどの戦いを体験することはないと感じたが故の気紛れだ。
 好きに侮れ、酔狂の果てにあるのは貴様の滅亡だとメレアグロスは挑む。膨れ上がる殺気を超えた超自然的神威。物理を凌ぐ神秘の波擣。天魔は笑む、刹那の間に己をも呑み込む勢力の雷電が、激流となって百に分岐し、槍先の残像が壁となって押し寄せたのである。
 空間すら燃焼させて灼き払う大雷の槍。炎上する熾烈な刺突。耳をつんざく雷撃の槍に巨槍を合わせ、天魔は真っ向から黄金を迎撃して悦に浸った。
 これだ、と。この手の痺れ、対等に戦う喜びだ! 天魔を中心に据えた爆心地、余波だけで天界の神々が恐れをなして逃げ出すのに、爆ぜる空間の只中で天魔と黄金は雷鼓を響き渡らせる。

 ハッ、ハハハ、ハハハハハ!!

 巨槍を握る天魔は隻腕。腕を失ったまま黄金と戦いなお互角。巨槍を繰る腕は雷電に灼かれ皮膚が剥がれ、肉は爛れて骨が剥き出しとなった。だが、哄笑は止まらない。
 果たして互角なのか。黄金が猛るままに全身全霊を振り絞るのに、天魔は隻腕で巨槍を振るう。跳躍して躱す黄金、薙ぎ払われる巨槍の穂先に乗り、その頭蓋を砕かんと神槍を振り下ろす。だが天魔が嗤いながら眼を見開いた。
 眼光が破壊の光となった。咄嗟に飛び退いたメレアグロスは見る、天魔の視線が物質に干渉し、大山を貫通して風穴を開けたのを。
 舌打ち一つ。神槍に膨大な熱量を集束。同時に突き放たれた槍が互いの刃を滑り互いの体に大穴を穿つ。体を構成する水分が一瞬で蒸発、灰となった体が復元していく中、黄金の瞳が確かに天魔の"核"を視認。其処か――と、見抜いた時。天魔もまた、黄金の不死不滅の種を見抜いていた。

 うぬを縛るは不死の運命か。ならば、その運命を滅ぼす。神核による不死も斯様に滅ぼせば良いのだな

「――やれるのなら、やるがいい。残骸風情にやれるはずもない」

 鮮血を吐き捨て、ふと、メレアグロスは気づいた。この死闘に精力を傾けていたが故に、気づくのが遅れたのである。

 手勢の英雄が壊滅していた。
 アテナはまだ回復していない。守りは崩されて、カストルらの奮闘虚しく敗れようとしている。回復しきっていないアテナもやむをえず戦線に復帰したが、戦局は芳しくない。 
 メディアが魔力砲撃を延々と繰り広げモリオネーが連携して二体の分身を相手に互角に戦っている。カイニスはアテナと共に必死にメディアとアスクレピオスを守っていた。

 テセウスは、そんな中で、どこかに姿を消していた。ケイローンもいない。何処へ――

 思考が逸れた隙に、天魔が巨槍を投擲した。それは、狙い過たず黄金の大王の左腕を吹き飛ばした。
 天魔は嘲弄しつつ、今度は巨剣を生成。メレアグロスは不覚を取った事に憤るも、慄然とした。腕の復元が遅い、よもや――既に運命の概念を捕捉したとでも?
 その時、半馬の気配を感じて、ハッとしたメレアグロスが叫んだ。

「来るな! 奴は、"不死"を殺すぞ!」

 制止は意味を成さず。半馬の賢者は些かも怯まずに、全身を天魔の矢と槍に傷つけられ、分身の囲みを突破した代償に左半身を失いながら天魔に掴みかかる。
 その手には、自慢の弓すら無い。馬鹿が、死ぬ気か!? メレアグロスが驚愕する。事実、ケイローンは我が身を擲っていた。此処で死ぬ覚悟が彼にはあった。英雄達のため、大王のため、命を捨てる事を由としたのだ。

 ――故に、勇者王の意思に乗ったのである。

 天魔は一刀の下に最智の賢者を切り捨てる。止せぇッ! 黄金が叫ぶのは、賢者が近しき者故。しかし、ケイローンは笑った。笑って斬られた。ケイローンという存在を生かす"運命"を破壊する無慈悲な刃が、袈裟に賢者を斬る。
 瞬間、その馬体の裏に隠れていたテセウスが飛び出た。奇襲、されど不発。メレアグロスも一撃を貰い得るそれを、簡単に見切ってテセウスの胸に巨剣を突き立て、虚空に翳した。

「テセウスッ!!」

「黄金卿……これで、僕は……貴方に勝ちを――!」

 だが、奇襲など通じぬ事など、端から承知の上。テセウスは笑った。笑って、末期の力を振り絞り、『叡知の辿り糸』を伸ばす。
 それは天魔に突き刺さった。仕留めた獲物の悪足掻きと見た天魔の失策。テセウスを、英雄らを雑魚と見切ったが故の不覚。
 テセウスが、事切れる。呟きは、勝利宣言だった。

「――お前は、無限なん、だって? 無、そのものだって……?」

 ――奇遇だな。僕も、僕らも(・・・)無限(そう)だ!

「僕らの、魂も……黄金だ……! お前なんかの無限に、呑まれるほど、ちっぽけじゃない……お前如きに、僕らの魂を……食い尽くせるか……!?」

 糸より流れ込むのは極限の有限。
 一時代を煌めく英雄らの魂。この場で倒れた者達の、テセウスの魂を総て天魔に流し込む。天魔の体内にある無の宇宙を乱す毒となる! お前が無だというなら、有を叩き込んで純粋なものを汚してやる! この世界に――"虚無"は不要なのだから!

 テセウスの体は、そうして滅んだ。

 勇者王の末路に、メレアグロスは声を失い。天魔は、首を傾げてその無意味な蛮行を評価しかねる。
 やがて、血迷った愚か者の愚行なのだと判断して、天魔は黄金に向き直り――

 ぐらり、と、その体躯を揺らめかした。



「    ?」



 なんだ? と、怪訝な表情。
 闘争の化身、虚無の鋳型、終末を顕す破壊の概念。
 単一宇宙とも言える暗黒天体は、自らの内に生じた雑音(・・)に肉体の動作不良を起こしていた。

 四体の天魔の分身と戦っていたアテナが倒される。魔力と精神力の尽きたメディアが気絶する。
 カストル、ポリュデウケス、ゼテス、カライス、カイニス、モリオネー。彼らもまた天魔の分身により瀕死の重体であった。立っているのもやっとといった有り様。唯一無事なのはアスクレピオスだけ。

 天魔の分身は二十体も残っている。メレアグロスが吹き飛ばしていた大楯の分身体も戻って来ていた。先の見えた状況と言える。
 だが、不意に、天魔の分身体が崩れていく。 不和の女神、恐怖の具現、四頭の神馬が元の姿で現れた。

グッ、ガ……?

 悶え、苦しみ、戸惑う天魔。
 暗い黒みの宇宙が軋む。


 ――「無」の中に、膨らむ「有」。


 その異物に、溶けぬ魂に、体内で足掻くたった十と少しの雑魚の叫びに、天魔は純粋さを失いつつあった。


「……そういう事か。そう言いたいのか、テセウス。オレに、勝てと。貴様らの魂を背負えと。そう、言うのだな……」


 黄金の王は、哀しげに呟き、神槍を構える。



「天魔よ。貴様を、滅ぼす。貴様を蝕む偉大なる者達の為にも」



 そして、決戦は終局へ移った。

 狂った天魔。
 されど、未だ黄金を凌ぐ。

 負けられぬと燃える黄金の残照。闘争への喜悦すら溶けて乱れた天魔が、遊びを無くして牙を剥く。

























決着まで後、三話(多分)。


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貴き槍よ、楽土へ導け

(展開が冗長になって)すまない。すまない。













 あ、生まれる。

 そんな無意識に溢れ落ちた独白に、血相を変えたのは大王の侍女だという仮面の女。正確に妊婦の状態を見極め、本格的に産気付く陣痛が始まったと見るや、てきぱきと身を落ち着ける為の場を手配し、その細腕からは想像できないほどの腕力で妊婦を運びすぐに出産の準備に取りかかっていた。
 母親初心者の女は呆気に取られ、されるがまま、言われるがまま。仮面の侍女は大王の妃に怯みもせずに怒号を発した。何度も陣痛があったはず、どうしてそれを妾に伝えなかったのです!
 か細く、深緑の女は反駁した。だって……汝に言えば足止めされるではないか……。
 当たり前です! 怒鳴る仮面の侍女。びくりと首を竦める妃。
 やがて、妃は出産の苦しみと痛みに大いに呻いた。体力は有り余っていたお陰か、弱る事は無かったが、想像していたよりも遥かに重い使命だった。これが、子供を産むということなのだと、妃は必死に痛みに耐え、漸く珠のように愛らしい金色の娘が生まれると、感極まって涙してしまった。
 妃はしかし、すぐに涙を拭い、仮面の侍女に娘を抱かせる。戸惑う侍女に妃は娘の名を教えた。薄く金色の髪の生え揃った、宝石じみた人越の愛らしさを持つ赤子。その娘は幸福(カリ・ティヒ)を意味するエフティリアだ、と。

 見れば、妃の姿は変貌していた。

 腰まで届く深緑の艶めいた髪は獅子の鬣へと変じ、獣の耳となっている。驚く侍女に出産間もない母とは思えぬほど生気に溢れた妃――アルカディア随一の狩人は苦笑する。
 此処は大神の神殿だろう。出産の場に相応しくないと大神はお怒りになられてな、私を獣に変えてしまった。まあ、メレアグロスの鎧のお陰で、半獣に留まってくれたが。
 侍女は怒りの余り立ち眩みを起こすも、腕の中の赤子を思い出しなんとか堪える。元気よく泣き続ける赤子をあやしながら、ふと、母たる狩人が弓を持ち、走り出さんとしているのを見つけ、驚いて言った。
 お待ちください、娘を置いてどこへ!?
 当初の目的通りだ。私はこのまま、メレアグロスを追う。止めるなよ、クレオパトラー。私はその娘の父を助けにいく。親無き娘にして堪るものか。頼むぞ、クレオパトラー。叱るのは帰ってきてからにしてくれ。

 妃殿下!

 制止する仮面の女を振り払い、狩人は身軽になった体で疾走する。
 彼女は大神の仕打ちに感謝していた。半分が獣と化したこの体なら、嘗てのように走る事が出来る。衰えをないものと感じられる。メレアグロスには悪いが、勝手に拝借してきた"神罰の魔獣(アグリオス)"の毛皮と同化した時の親和性も大幅に高まった。
 アグリオスの毛皮は、強い負の感情に反応して使用出来るようになるとメレアグロスは言っていた。だが、狩人はそんなものが無くても、アグリオスの妄執を御す事が出来た。何故なら今の己は狩人だ。獣には負けない。そして、半分が獣となったのだから、自らに劣る獣なんて調伏出来て当たり前だった。自分は、メレアグロスのつがいだぞ、と。そう自負するが故に。

 アグリオスの醜悪な激情を律し、その恩恵だけを引き出すと、身体能力が跳ね上がると共に『天穹の弓』が腕に同化していった。意思一つで引ける弓というのも中々に使い勝手がいい。まるでポリュデウケスのようだ、と思う。

 風のように走っていると、昔を思い出す。

 何も考えずに山野を駆けていた頃。メレアグロスと出会ってからの激動の日々。熱情に浮かされたまま獣性を失い、人として共に在り続けた。
 思えば、これほど長くメレアグロスと離れていた事はなかった。まるで、半身と切り離されたようだと感じている。女々しいなと笑ってしまいそうだった。
 どうせ、今はミネルヴァ辺りがこれ幸いとメレアグロスの傍にいるに違いない。許せるものか、人のメレアグロスは、人のアタランテのつがいなのだから。

 思考がどこまでも鋭くなる。意識が最適化していく。

 腹が減っては即座に獣を仕留め、川辺で水を飲み、火をおこした。慣れたものだった。
 食べる時と、排泄、寝る時以外は走り続けていると、メレアグロスの鬼のような扱きを思い出す。なんだ、まだ走れるではないか――衰えていた体力は、減じるどころか最盛期にどんどん近づいていく。やがて、脚力だけで海面を走れるようになると、狩人は確信した。最盛期を超えたと。

 そうして遂に、半獣の狩人は崩壊した異界へ辿り着く。

 死闘の気配がした。ぞわり、と獣の野生が確信する。――嗚呼、そうか。私があの夢を見たのは、この為だったのか。
 静かに決意を秘め、黒獣のアタランテはひた駆ける。その先に待ち受ける、自身の未来を知りながら。
















  †   †   †   †   †   †
















 暗黒を還す時だ。

 虚ろの無、虚ろう影、終末の闘争。隻腕だった天魔が、分身の消滅の反動か腕を復元する。

 両の手でぴたりと巨剣を構えるや、それは長大な巨槍へと変じた。天魔が最後に選択した武装は、黄金と対を成すかの如く長槍だった。
 対峙はほんの数瞬。
 ――転瞬、大地が砕け両者を結ぶ像が掻き消える。一歩にして間合いを零とする魔の歩法。己を律する鎖を引き千切り、黄金は上段より神槍を振り下ろした。

 火の華、激震を飾る。振り上げられた巨槍と噛み合い、火花を散らした。
 刹那の内に駆け引きがある。押すか引くか、流すか受けるか、止まるか進むか――黄金の振るう神槍が脇に逸らされ、天魔の槍が体皮を裂く。右肩から浅く血が吹き出る。
 意にも介さず、槍を振り下ろした勢いのまま左脚を跳ねるようにして前に伸ばす。右膝を柔軟に曲げ、左の掌で神槍を体に引き寄せる。左半身に身構えつつ流れ、刃物を吐くように呼気を打ち出す。
 伸ばした左脚を起点に右半身を左半回転させ前に出た。神槍を背部で旋回、左から右の掌に神槍を持ち替えながら遠心力を生み豪快に薙ぎ払う。

 一連の流れに遅滞はない。偽攻、幻惑、反転からの一閃。天魔は一切惑わされずに巨槍の穂先で神槍を受ける。その威力を利し巨槍を旋回させて勢力を乗せ、黄金の腹部へ熾烈な刺突を送った。
 黄金は神槍を薙ぎ払い様、起点を右足に移していた。体を倒しながら巨槍を躱し、頭の位置が腰より低くなるまで前傾となる。半ば倒れ込みながら半歩前に出るや頭上を巨槍が擦過。灰の土を蹴り猪突猛進、天魔の圏内に侵略。
 扇状に腕を広げ雄大に構えた天魔は拳を握っていた。射殺す百頭――白打のそれ。かつて黄金の狼を打ち破りしもの。闘争の記憶によるものか、一度は倒したという実績に恃んだのだろう。

 ――それはもう見た。

 初見ではない。予備動作は盗んである。二度は通じぬと金狼は猛る。喝破して牙を剥き、大陸を打ち砕く金雷が一点に集中され、凝縮した神雷が神罰の如くに天魔に先んじる。
 刹那遅れて放たれる百撃の拳は総て空を切った。転じ、金狼の牙たる雷火槍が天魔の左肘から先を断つ。突きから払いに転じ胴を薙がんとするのに天魔は淡々と応じた。
 左膝を上げ、残された左肘で穂先を挟み込んだのだ。帯電したそれに触れた事で天魔の膝と肘が爛れるも怖気が走る。

 マズイ――天魔の闘争へのスタンスが変わっている。如何に楽しむかではなく、如何に壊すか(・・・)にシフトしていた。
 腕を食わせたのは態と、槍を止めたのも計算通り。天魔は魔速に踏み込む。金狼の左肘を柔らかく握り、粉砕。咄嗟に蹴り飛ばし間合いを開ける。
 共に腕を失った。やはり、復元が遅い。この戦いの中ではもう左腕を動かす事は出来まい。

 何が狙いなのか。巨槍を無造作に蹴り上げ、悠然と掴み取って構える天魔の、合理的な破壊が導き出すものは……。
 答えの出ぬまま黄金は駆ける。考える暇など与えぬと天魔が馳せ、反射的に応じて駆け出していたのだ。

 石火雷光、技芸の極みが打ち鳴らす剣戟の調べは聖歌にも通じる美々しさ。炸裂する無謬の槍。絶え間なく交わる槍と槍。
 涅槃より尚先へ、早く速くもっと疾く、一瞬を寸刻みにした時の裡に万を超え、掻き鳴らされる神鉄の火花は億にまで届こうかという程。人類史に冠たる者らによる鬩ぎ合いは星を絶叫させる。
 並みの英雄が一撃繰り出す間に百槍を馳走せしめ、一歩進む間に千を超え、断末魔に併せて万の槍が撃走する。苛烈極まる槍の応酬は血飛沫を咲かせ、多量の鮮血が黄金をおぞましく飾り付けた。

 圧される。

 傷を増やすのは金狼ばかり。歯を噛み砕き、メレアグロスは吼えた。ひたすらに渇望した。魂が叫んでいた。
 負けん、負けてたまるか、意地でも勝つ、絶対に勝つ。一時代を代表する程度の英傑ならば万回殺して余りある刃の宴の中、大英雄は大英雄の所以を示す。
 圧倒的格上を敵とし、食らい付き続ける闘争本能。三撃完全同時の刃を凌ぎ、多重次元屈折現象を利用して百撃を放たんとする前に潰し、貪欲に獲物の喉元を食い破らんと必殺の牽制を弾いて本命を封殺。

 遥か高みに在った天魔に後少しで手が届く。実感が、黄金にはあった。
 だが焦りはない。勝利を餓狼の如くに欲するが、目の前に垂らされた釣り針に食いつくほど間抜けでもない。簡単に業の出を封じさせたのは金狼に油断させるためだ。実力は伯仲していると、天魔が思い込ませようとしている。騙されはしない。侮るな。
 英雄らは敢闘を示した。
 賢者は挺身を見せた。
 勇者は無限の魂を黄金だと謳って魅せた。
 ならば――彼らの主たる我が、相応の業を成せねば名折れ!
 此処を死地とする。是が非でも天魔を滅し、父と母、弟妹達、アタランテと、自分の子供達の生きる世界のために勝利して魅せる。
 そのためならば命だって惜しくはない。このまま砕け散っても構わない。

 豪快に天魔が槍を振るう。胴を薙ぐそれを敢えて受け、骨の砕ける音を聞きながら自ら吹き飛ぶ。

 間合いを稼ぐ。メレアグロスは雷火槍ゲエンナの穂先を天魔に照準した。
 勘づいたのか、退避しようとする天魔の脚は鈍い。
 幾度も雷撃を食らわせ、その脚を鈍らせ続けた布石が活きる。

 もう長くは戦えない。魔力も、気力も、底を尽き掛けていた。この期に及び、出し惜しむものなどない。黄金の大王は、遂に槍の封を切った。



χαρά(喜べ)――」



 それは解号か。粛々と、透撤とした詩が吟われる。

εὐοδόω(道が開かれた)

 黄金の穂先が二つに割れる。微弱な稲妻が、天体の如き雷霆へと変じ、宇宙に激震を齎す。
 地球と云う惑星、月と云う衛星、日輪と云う恒星、星座と云う永遠。
 ありとあらゆる概念、物質、情報、精神。無繆を砕く優美なる破壊。熔解させ、崩壊させ、崩落させし権能のいかずち。
 神鳴りを報せる。
 雷を震動させる。
 天に在りて地に在って、天地を掴みて人が在る。語るは破壊。他は無為。人を焼きて地を灼熱し、一つの鳴動が世を滅す。

 三界に通じし神槍の前に、道が開かれた。

μοῦ(私は)」・「ἐπαγωνίζομαι(戦う)

 なにゆえに。

αἰώνιος(永久の)」・「ἀγαθοποιέω(善を行うため)

 果たしてそれは、悪であるか。



       「王の権能(エクスシア)



 識らぬ者、語る術なくば平伏せよ。
 望むのなら、裁きを与える。傲慢なる王者の権により能うのだ。

 ――遍く生命の根源的狂気。過去・現在・未来に亘る闘争の概念、その記憶。渦巻く混沌、暗黒の天体。人型の、畏敬すべき暗黒面。
 恐るべき戦神よ。
 決別の時だ。

 どうか安らかな眠りを貴方に。導こう、永遠の楽土へ。

 真名、解放。



貴き槍よ、楽土へ導け(エリュシオン・マクロテュミア)
























そして、運命の時。


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翳る黄金、天魔の勝算

言い忘れてました。イシュタルとアナちゃんとエルキドゥ来ました。(宣戦布告)















 其の槍は本来無銘である。

 元は"城壁の破壊者"の権威の象徴だった神槍を、鍛冶神が鍛え上げる際に原型も残らぬほど破壊し尽くし、零から再構築したものだ。
 だが、神槍の破片を基に新たな武具を鍛え上げようとした鍛冶神は、一つの難題に頭を悩ませる事になる。
 その神槍は神格の象徴だった物、如何な名工と言えど槍の型に復元しようとすれば、神格の一部として復活する事になる。つまり、武具を造るはずが"城壁の破壊者"の体を生み出すに等しい愚行を犯す事になるという事だ。
 言うまでもなく、これは神々の掟に反する。当時は健在だった"城壁の破壊者"の肉体、ないしその一部を造ってしまえば、オリジナルは怒り、大神にも罰される事になるだろう。
 其処で、鍛冶神は一計を案じた。槍の型に戻すのが叶わぬなら、神の器を型に嵌め込め得る物を用意すればよい、と。
 鍛冶神は伝令神に依頼し、八方手を尽くして世界の最果てにある光の柱――世界の表裏を繋ぎ止める塔の影を回収。其処に神槍の残骸を溶かし込み、興が乗るに極まり総ての技芸を結集して鍛え上げ、完成させたのが"神柱"である。
 余りに強力に過ぎ、鍛冶神は権能の火により柱を焼き黒く焦がした。それを封印形態として固定せしめたのは、鍛冶神の偉業であっただろう。
 斯くして二年もの歳月を経、黄金卿の手に握られた"神柱"は、彼に世界の最果てに至る光景を見せた。黄金の男は其処にタルタロスに類似する地獄を幻視――無銘の柱を槍と定義し、地獄を意味する"ゲエンナ"と名付けたのだ。

貴き槍よ、楽土へ導け(エリュシオン・マクロテュミア)

 彼が如何なる心境に達し、地獄の柱で楽土へ導けるとしたのか。
 地獄を現実の()にある物とするなら、楽土は()の物だと彼は悟り、それらを繋ぐ槍ならば地獄も楽土も自在に渡らせる事が出来ると理解したのだ。

 故に、彼は"陰陽の理"を掌中に収める。

 世界と――星の意思と繋がりやすい性質は、そうして養われた事を彼は知らず。天地万物を灰塵と化さしめる"陰の理"を、彼は神の業として封印した。

 振るわれたのは"陽の理"に属する金雷の大海嘯。天空神の擲つ雷霆にも伍す"陰の理"に至る工程の大部分をキャンセルする事で、地上で振るっても問題のない威力に絞ったもの。
 内包せしは破壊の因果。元となった神槍は、天魔に通ずる類いの破滅の概念。黄金の稲妻に熱量は存在せず、触れたモノを有機無機の隔たりなく消滅させる金色の波動。分子間の結合を分解する王の権能だ。
 接触したモノを瞬く間に消滅させる金雷は、その分解速度の余りの速さに消滅したと錯誤してしまうだろう。

 真の姿を解放し、塔の神柱の槍先を基点に投射された破壊の耀きは、過たず強大な天魔をも呑み込んだ。その体を構成するものは、悉くが分解され結合を解かれ無となり、"陽の理"により楽土へと導かれた事だろう。彼の者の霊は、其処で安息の裡に沈んでいく。
 それで、終わりだった。
 死闘は終わった。この戦いで散っていった総ての者に報いる事ができた。そして、幸運にも生きて勝つ事ができた。とても喜ばしい事だ。

「……」

 ――なのになんだ、この拭い難い違和感は。

 本当にこれで終わったのか? あの、天魔が相手だったのだ。幾ら弱体化していたとはいえ己一人で倒せてもいいのだろうか。何か釈然としない。魚の小骨が喉に刺さってしまったかのような不快感がある。
 その正体を探っていくと、すぐに気づく。
 上手く行きすぎなのだ。天魔の片腕を奪ってからの流れが、こちら側にとって都合が良すぎた。片腕同士での戦いの果てに、こちらは致命的な攻撃を何も受けていない。腕を奪うまでは天魔の誘い、こちらも腕を奪われた……で? それから、何があった。
 神槍による決着を図るべく、距離を取ろうとこちらが目論むや、天魔は何をした。親切にも巨槍を薙いで遠くの間合いまで打ち払ってくれたではないか。

「……」

 だが、それがなんだという。天魔は滅んだ。その身が消滅するのを黄金の魔眼は確かに視認した。滅んだ者には何も出来ないのが道理。やもするとあの天魔にはまだ戦神が残っていて、それが手助けしてくれたのかもしれないではないか。
 ……馬鹿め。戦神はとうに滅んでいる。どうしてこちらを助ける事が出来ると思う。感傷的になるのも解るが今はそうすべきではない。

 ――脳裏にちらつく、合理的に万物を破壊せんとしていた天魔の瞳。

 頭を振る。決着はついた。今は、素直に勝てた事を喜んでも良いだろう。帰ったらアタランテに謝らないと。子供ももう生まれた頃だろうか。立ち会えなかったのは残念だが、次は問題ない。もうメレアグロスは冒険に出なくてもよくなるのだから。
 この戦いの事は、永遠に語り継ごう。ヘラクレスに自慢しよう。これほどの勇者達と、こんな強敵と戦い、そして勝利したのだと。悲しむよりも、誇った方が彼らへの手向けにもなるはずだった。



「――黄金卿ぉぉおお!!」



 叫んだのは、唯一無事で、意識も保っていた兄弟弟子のアスクレピオスだった。
 童顔の少年めいた彼が、血相を変えてメレアグロスに何かを訴えかけようとしている。

 彼の元には衰弱して今にも死にそうなメディアや、アテナ、カストルら騎士達の姿がある。皆が意識なく倒れていた。アスクレピオスは、そんな彼らを介抱していたのだ。
 そして、まだこの場に魂が残っていた――正確には、テセウスが連れて逝かなかった賢者ケイローンの姿もある。あの馬鹿は、性懲りもなく助けられる命があると見るやケイローンを蘇生させたのだろう。自然の摂理をもねじ曲げ、生死の有無すら超越する医の神とも言い切れる腕前で。
 馬鹿が、と苦笑する。ケイローンを助けてくれたのは嬉しい。しかし、また生死を覆したアスクレピオスの助命を大神に嘆願せねばならない。天魔討伐の功績があれば、一つくらい無理を言ってもいいはずだ。それにケイローンも、不死の身で死んでしまったのだ、彼の不死は失われ、普通に年老いて死ぬ半馬に堕ちてしまった事になる。不死属性に親との繋がりを感じていたケイローンの事だ、きっと気を落とすだろうなと思った。



「逃げてぇぇえええ!!」



 アスクレピオスがそう言った瞬間。
 とすん、と。
 背後から、何かが心臓に突き刺さる。体が微かに揺れ、軽い衝撃に、呆然とする。
 ――なんだ?
 呟きは、声にならず。
 メレアグロスは、恐る恐る、視線を胸元に落とした。

 そこには。

 天魔の核(・・・・)が、

 埋まっていた。

「――は。奴め、核だけで動きおった」

 苦笑して、メレアグロスは全てを悟る。
 天魔は、テセウスらの挺身により、内部にバグを宿してしまった。その時点で、天魔は崩壊し滅ぶ運命にあったのだ。
 故に天魔は生き延びるため、古い器を捨てて新しい器を求めた。全てに勝利する闘争の概念と、全てを破壊するための概念の具現は、毒された肉体を捨てる事を最初から決めていて。
 なんらかの手段で、メレアグロスに気取られぬように己の核を外部に排出、後に古い器を滅ぼさせ、近くにあった新しい器に向けて飛来したのだろう。

 道理で最後は天魔と互角に戦えていた筈だ。核を外部に捨て、器だけで戦ったなら、自壊していて当然である。互角だと感じていたのは、メレアグロスの一人相撲だったわけである。

 とんだお笑い草だ。

 幸い、メレアグロスは、新しい天魔の器として、最適なそれだった。寧ろ理想的とすら言える。来歴も、強さも、血のルーツに至るまで。故に、爆発的に侵食してくる天魔(・・)に抗う術などあるはずもなく。
 何事かを喚きながら駆け寄ってくるアスクレピオスを、なけなしの力を振り絞って突き飛ばし、己の左腕を短く持った神槍で切断。

 血が吹き出る。メレアグロスは、鈍化した思考の中。黒く霞んでいく視界の中。ぼんやりと笑う。結局こうなるのか、と。脚を砕き、片手間で巨大な岩石を掘り起こし、それを虚空に投げる。あれに押し潰されても、本当なら死ぬわけはないが、今の弱りきりあらゆる加護を喪失して只人同然と化した己なら殺せるだろう。
 死んでしまえば、天魔に乗っ取られる前に、器も壊れ、天魔ももろともに滅びる。

 手足の自由が無くなった。無事な右腕を天魔が動かそうとしている。
 させじと押さえ込む。岩がすぐそこまで迫ってきた。
 思う。頭にあったのは、やり残した事。妻の事。父母の事。弟妹達の事。――我が子の事。

 すまん。

 一言、詫び。天魔メレアグロスは、人の肉体のまま、死に逝く――



「汝は死なない。私が、汝を死なせない」



 ――飛来した矢が、岩石を砕く。
 その、予想だにしなかった声に驚き、天魔は槍を振るった。

 肉を貫く、槍。

 胸の中心を貫かれた深緑の狩人は、口端から血を垂らしながら愕然とする者に淡く微笑みかける。

「忘れ物だ。届けに来たぞ、私の、愛しい人」

 金色の、玉。
 それがメレアグロスの体を包み込む。
 光の失った女の瞳。瞬く間に天魔の侵食が取り除かれ、呪いをはね除け、体内に無色の核だけを残したメレアグロスは、己の手に残る肉を貫いた感触に、忘我した。

「……アタ、ラン……テ……?」

 死より遠ざけられ、
 死に捕まった女を槍に縫い付けたまま、
 男は彫像のように固まって動けなくなった。

 メレアグロスは、叫んだ。



「あっ、アスクレピオス!! あ、アタランテを、アタランテを助けてくれぇ!!」




 運命を決定付けた、神話の一幕。

 自らのエゴで動いた時、アスクレピオスは、当たり前のように救いに走る――
































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読み解かれる神代



 藤丸立香は人理継続保障機関フィニス・カルデアの新米局員にして、人類に残された最後のマスターである。

 紆余曲折の果て、人理焼却が為されるまでは日の出る国の高等教育機関に籍を置く、普通の女子高生であった立香は、今や人類史その物を背負う最後の砦、希望となっていたのだ。
 その重責も、最初は実感が薄かった。しかし冬木で。フランスで。ローマで。過酷な人理修復の旅を辿る内に事の重大さを意識し、真に理解するに至った。
 平和な国で育ったが故の平和ボケも、危機意識の希薄さも捨て去り、自らの未熟を意識して少しでもこれからの戦いの勝率を高めねばならないと立香は発奮した。
 自分を先輩と言って慕ってくれるデミ・サーヴァントのマシュと共に、カルデアの資料室に足を運んで改めて歴史と偉人についての学習を始めたのは、そうした意識の現れである。

 これまでの経験上、特異点で立ち塞がってきたのは悉くがサーヴァントだった。同時に、助けてくれたのも現地にカウンター召喚されていたサーヴァントである。
 彼らの事をもっとよく知っていれば、絶望的な戦況でも或いは光明が見えてくるかもしれないと立香は考える。同時にいつまでもドクターことロマニ・アーキマンや、ダ・ヴィンチちゃん、マシュ達の知識に頼りっぱなしなのも情けないという意識もあった。この藤丸立香、自らの無知を恥じぬほど無恥ではないと弁える。

 彼女は今後特異点として発見される可能性のある、人類史のターニング・ポイントをピックアップした。人類史は長いが、特異点化するほどのターニング・ポイントはそう多くない。著名な英雄や事件を辿れば自然と割り出せる。
 故に、立香の学習はマシュの補助もあって恙無く進んでいた。お世辞にも勉学は得意ではない立香であるが、自らの背負う使命の重さを想えば意欲的にもなれる。ならざるを得ない。夜更かしして肌荒れとか髪の手入れとかお洒落とか、そういった女の子的に欠かせない諸々を犠牲に、豊富な歴史知識を蓄えつつあった。

 学習をはじめてどれほどの日数が経ったか。そろそろドクター達が特異点の座標をキャッチする頃合いかな、と漠然と予感するようになると、立香は歴史マスターとなっていた。今なら期末テストも怖くない、そんな気分である。
 そんな立香は、ふと、疑問に思って傍らのマシュに訊ねた。

「ねえ、マシュ」
「なんですか? 先輩」

 なんとなく幸薄そうな、色素の薄い髪の少女は小首を傾げ、かけていた眼鏡をずらす。
 少女マシュ・キリエライトは眼鏡少女であるが、こうして人と対して人と話すときは、眼鏡のレンズ越しに人を見ようとはしない。必ず、自分の瞳で、じかに目を見てくる。最初はただ恥ずかしかっただけだが、最近になってその癖が、マシュの根本にある世界に対する向き合い方に由来するものと気づいた。
 同性の女の子でも、可愛らしく、尊敬に値する真摯な人柄だと立香は思う。博識なくせに、垢抜けぬ田舎娘めいた彼女の事が、立香は存外気に入っていた。全てが終わった後も、友人でいたいと願うほどに。

「ふと気づいたんだけどさ、ここまでわたしが勉強したの、西暦に入ってからの歴史だよね」
「はい。神代の終わりが十二世紀、ここから人は神秘とはかけ離れた科学への道に進んでいきます。その歩みは遅々としたものですが、その分多くの発見と歴史上の大事件があります。ここまで先輩が学習してきた史実の中に、きっと特異点クリアのヒントとなるものが含まれているはずです」
「そうだといいんだけど……ねえ、マシュ。西暦以前、つまり紀元前が特異点になることってないのかな?」
「それは……」

 素朴な疑問に、しかしマシュの目が俄に真剣さを増す。
 あれ? なにかまずいこと訊いたかな、と首を傾げていると、マシュは難しそうに言った。

「可能性がない、とは言えません。しかし、そうなると、その特異点の定礎復元は困難を極めるでしょう」
「どうして?」
「……詳しいことは、今度ドクターにでも聞いてください。ドクターも先輩とゆっくりお話がしたいでしょうし、いい話の種になると思いますから」
「……? うん、わかった」

 素直に頷く立香である。彼女も、ドクターと話しておくべきと感じることがある。
 オーダーに関わる事態にのみ言葉を交わす関係というのも嫌な物だし、なぜか彼は立香に対して責任を感じている節がある。よく話して、彼の心的負担を軽減してあげたいというマシュの気遣いを察しないほど、立香は鈍くはなかった。

「しかし、神代――神話の時代を学んでおくのは必要だと思います。強力なサーヴァントの多くが、神代の英雄だからです」
「うん、実際世界規模のお話もあるんだよね、ゲーム知識だけど」
「はい。もしかすると今後の戦いに神話の英雄が現れる事もあるかもしれません。或いはカルデアに召喚される事だって有り得ます。どうでしょう、軽く流す程度でも神話を勉強しませんか?」
「わかった。いきなりディープだとあれだし、マシュ的にとっつき易い所をピックアップしてほしいかな」

 お願いするとマシュは数瞬思案して、手元にあるタブレット端末を操作した。
 何を検索しているのだろう。覗き込むと、打ち込まれていたのは『ギリシャ神話』という単語である。
 立香は脳裏に閃きが走るのを感じた。神話を題材とした某ゲームの主人公の元ネタが、この神話だとゲーマー故に知っていたのだ。

「あ、これ知ってる。"復讐の雷帝"がいる神話でしょ」
「……? えっと、このまえ先輩が教えてくれた『ごっどおぶうぉー』の主役でしたよね? 主人公の名前は確か……」
メレアグロス(・・・・・・)だよ。金髪イケメンだけど顔芸がよくネタにされてる。オリュンポスの神々を豪快に殲滅するゲームなんだけど」
「それはまた……とても胸のすく爽快な物語なんですね」

 マシュは苦笑して、立香に感想を示した。
 首を傾げる。立香としては、凄惨な復讐劇を指してマシュが『爽快な物語』と称するとは思わなかったのだ。

「メレアグロスというのは、ギリシャ神話の二大英雄の一角で、同じく二大英雄のヘラクレスの義兄でもあります。先輩はメレアグロスの事は知ってますか?」
「知ってるよ。我々ゲーマー業界の者にとっては常識レベルだし。……教科書にも載ってるし。世界(ローマ)的に」

 脳裏を過るのは、あの思い出深いローマの特異点。あのローマ建国王の父であるとなれば、なるほどとっつき易くもなる。

「リコセンス・メレアグロスは、過去に実在した英雄です。その功績は多く、ここでは割愛しますが彼がいなければローマが生まれず、人理が崩壊してしまうほどの重要人物でもありますね」
「へえ……メレアグロスの事は知ってるけど、どんな人なのかは知らない。ロムルスみたいな人だったりする?」
「……ぇっと、実際の人柄は記録と異なる場合が多々ありますし、余り参考にはならないかと」
「あー……」

 確かに、と納得する立香である。カルデアにいるサーヴァントは色々ぶっとんでいるのだ。ダ・ヴィンチちゃんとかがいい例だろう。

「ギリシャ神話を一言で纏めると、『ザ・理不尽』です」
「そうなの? 具体的にはどんなふうに?」
「ヘラクレスの十二の功業、メレアグロスの七つの難行が有名ですよ。こんな感じです」

 タブレット端末に表示されたものを見て、立香は軽く引いた。うわぁ、と。こんなのごっどおぶうぉー不可避ですわと立香は思う。
 真に驚くべきは、二大英雄の忍耐強さであろう。立香だったらこんなの耐えられない。というか神々に反乱の一つでもしてしまう。神様相手とはいえよく我慢できたなと同情してしまいそうだ。

「話の流れですし、メレアグロスの方を解説するとですね。彼は神々に……人生の前半はヘラ神に、後半はゼウス神に振り回される生涯を送っています。その中で彼は実の父である戦神と戦うことになったり、神々すら恐れる巨人の双子と戦ったり、天の牡牛を捕獲したりと大活躍しているんですが……」
「そこだけ聞いてもあれだよね。なんか幸薄いというか……傍迷惑な毒祖父と毒祖母に構われ倒される孫の悲哀というか……」
「ええ。なまじ優秀な方だったために、期待にも要望にも悉く応えられるものだから、ヘラ神の溺愛ぶりも深刻化していきます。以降もアタランテ・ストーリーの中心人物にされたり、神罰の猪狩りをさせられたりと大忙しです。この直後に実の父が転じた怪物グラディウスの討伐までさせられてます。更に、この十年後の最後の難行も酷いものですし。それが終われば個人としての難行は終わって、今度は大王としてギリシャを統一してヒッタイト帝国と十年間戦ってます」
「確か……メレアグロスと戦って、負けたことが原因で国力が衰退、ヒッタイト帝国は滅んじゃうんだよね」
「はい。知ってるんですか?」
「うん。ラムセス二世だか三世だかがヒッタイト帝国側で参戦して、メレアグロスと何度も戦うんだけど、決着がつく前にラムセスが病死って流れで、戦局はギリシャ軍に傾くんだけど、その後にメレアグロスが神様になっちゃって人の王じゃなくなったから、ギリシャ軍を統率する権利を喪失……したんだよね」
「ざっくり言うとその通りです。一説にはゼウス神の密命――人類の人口の調整を終えた所、深すぎる罪を償うために自害したとも言われます。彼の一族はメレアグロスの死後、九大偉人の一人、トロイアの王子ヘクトールに保護されて、平穏に過ごす事が出来たそうです」
「……もし、そのメレアグロスがサーヴァントとして出て来たらどうなると思う?」

 不意に立香がマシュに意見を求めると、可憐なデミ・サーヴァントは深刻な語調で答えた。

「味方としてなら、彼一人で全部解決できるレベルです。具体的にはわたし達の経験してきた特異点での諸々を難なく片付けるでしょう。彼はそれが可能なレベルの大英雄です。冬木で戦ったあの騎士王のスケールアップ版と言えば解りますか?」
「うわあ……」

 驚嘆と言うよりは、ドン引きである。
 立香はもう、敵として来られた場合どうなるか、察してしまった。

「敵として現れたら……。悪いことは言いません、すぐ逃げるか、"薪の英雄"の名から分かる通り、弱点の薪を見つけ出すしかないでしょう」
「……戦って勝てるかな」
「無理です。恐ろしいのは、彼の逸話はほとんど実話か、実話に基づく伝説だということ。仮に真正面から戦闘に入った場合に想定されるのは、如何に勝つかではなく、如何に逃げ切るかという戦法に終始することです」
「……詳しいね。もしかして、ファンだったりするの?」

 熱弁を振るうマシュという、珍しい絵に立香がこぼすと、仄かに頬を染めつつマシュは小首を捻った。

「……そういえば、どうしてでしょう。わたし、そこまでメレアグロスという英雄に思い入れがあるわけではないのに、色々語っちゃってます」
「きっとマシュに力をくれたサーヴァントが、メレアグロスの大ファンだったのかもね」
「……そうでしょうか。……そう、かもしれません」

 タブレット端末を弄り、なんとなしにメレアグロスの生涯を流し見ていくと、立香はもう色々と頭が痛くなってきた。
 グラディウス討伐の後、グラディウスの呪いから駆けつけた妻を誤って殺害。世界の終わりを防いだという伝説的な伝承は、一気に不穏な空気になって、メレアグロスは部下のアスクレピオスに懇願して蘇生して貰った。
 しかし、過去多くの死者を蘇生させ秩序を乱し、死の神ハデスを激怒させ、ゼウスに殺されかけたのをメレアグロスに救われたアスクレピオスである。このグラディウスとの戦いの後、不死だったはずなのに殺されたケイローンを復活させ、アタランテをも甦らせた事にゼウスが激怒。雷霆を投げてアスクレピオスを殺してしまう。

 これに激怒したのはメレアグロスだけではない。アスクレピオスの父、アポロンもまた怒り狂い、アポロンはゼウスの雷霆を作った巨人族の鍛治職人を皆殺してしまう。
 そしてメレアグロスは冥府に殴り込み、ハデスからアスクレピオスの魂を奪還。彼を生き返らせ、自分が生きている内は決してアスクレピオスを死なせないと宣言した。
 アポロンはゼウスに罰され、人に堕とされたものの、神に復帰した後はメレアグロスに感謝し、彼のためにメレアグロスの一族の守護神となった。また、何かとメレアグロスを贔屓するようにもなったという。

 しかしまんまと死者の魂を奪われたハデスは怒りに燃えた。

 これが後に尾を引き、メレアグロスがマルス神となった後に因縁となる。ハデスとマルスは反目しあいながら、和解するまで数々のいさかいを起こしたのだ。

 そして。

 メレアグロスがマルスとなる前。
 即ち、メレアグロスが人だった頃。

 ハデスはメレアグロスに復讐する為に、かの大王に陰謀を仕掛けた。

 それが個人としてのメレアグロス最後の難行。ギリシャ神話の変遷を決定した、今も熱く語られる伝説の戦いへと繋がるのだ。

 立香は神話を学ぶ。

 後に挑む第三特異点で、その二大英雄と敵対することになるとも知らず。





































七章にかまけて執筆できなかった。訴訟。

英雄王かっこ良すぎんよぉ!! クリアしました!


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幻の黄金期、最盛の大王



 諸説あるが、メレアグロス大王の最盛期は、二十七にも及ぶ彼の冒険が終わってからとされる。

 戦士として。或いは一個の英雄としても多大な功業を打ち立てたメレアグロス大王は、しかし英雄としての逸話には最後にケチが付いてばかりいた。
 最初の試練である戦神との決闘による因果。天の牡牛の捕獲を幾度も失敗し時を掛ける不始末。アタランテ・ストーリーに端を発する、後のローマ建国王とされるロムルスとその弟ロムスの喪失。神罰の魔獣狩りに於いては戦利品の管理不届きによる、アタランテの奇跡の力を持つ猪の毛皮の無断借用。ギリシャ神話最大の怪物テュポンに次ぐとされる大天魔グラディウスを仕留めるも、鎧を妻に与えていた為にその呪詛を受け最愛の妃を殺してしまう不覚。
 その他にも難行に数えられなかった神々の試練でも、幾つか決定的に詰めを誤ることがあった。特に運命の三女神モイライとの決闘など、ゼウス神の仲裁がなければ運命の秩序が崩壊する所だったという。

 実力はヘラクレスに比肩していながら、事を詰める段に入ると必ず何かが起こった。
 彼自身の気質ではなく、持って生まれた星の巡りの悪さとも言える悪果である。故に英雄としてヘラクレスと名声を二分しておきながら、その評価はヘラクレスに一歩譲っていた。
 残した功績、後世への影響という面ではヘラクレスの比ではないというのにである。故にこそ個人としてのメレアグロス大王は、有史以来有数の傑物とされながら、どこか完璧という彼の印象とは異なる実像を持っていた。完全無欠とは言い難い、人間味のある英雄として。

 ――しかし。

 生涯の折り返し地点に立ち冒険を終えた後の大王が、王者として采配を振るう段に入ると、彼の詰めの甘さは掻き消える事になる。
 メレアグロス大王に非があるとすれば。それは、生前にアイトリア王国を割り、統一されていたギリシャを分断。諸王を割拠させ、然る後に自ら命を絶った事だけだろう。
 結果的に後継者争いによる動乱期の到来を防ぎ、国の滅亡による被害を最小に留め、新しい時代の幕開けのために王国を軟着陸させたのだと彼を弁護する者は多い。しかし、それでも、自らの意思で国を手放すなど、王としてやってはならない事であった。

 メレアグロス大王の軌跡。彼はその後半期に何を想い、何を見たのか。
 彼の残した青銅板は、黙して何も語らない。






















 アイトリア王国首都。絢爛なる空中大宮殿、その中枢にあるのは金色の騎士王である。
 各都市の宮殿の中心にある炉へ、大王の命により王女メディアの製作した通信装置が設置され、そこからいつでも連絡を取り合えるようにしていた。
 黄金の大王は、王座に座す自身を囲むようにして浮遊する各都市の諸王の像――立体映像が順繰りに報告を寄せるのに黙って耳を傾け、それぞれに指示を与える。神々の加護により、彼の治める国が貧困に喘ぐ事はなく。不当な暴力に怯える必要のない高水準の治安の確立に成功していた。

 不意に、王座の後ろから幼い少女と少年が、ひょっこりと顔を出した。

 金糸のような髪を足元まで伸ばした、人形めいて愛らしい金色の瞳の王女、エフティリア。緑髪の少女めいた可憐な王子ルーファウスである。それぞれ五歳と四歳であり、緑の王子は姉の王女について回る、ひよこのような少年だった。

 王の王たる者として采配を振るう父に甘えに来たのだろう。とてとてと黄金の最優王の面前まで進み出て、王座に腰かける父の脚にじゃれついた。

「……」

 各都市の王が、大王の子供達に気づいて苦笑する。大王は嘆息し、諸王らにまた後で出直せと命じて、立体映像を虚空に映し出す魔具への魔力供給を遮断した。
 途端に消え失せた映像などすでに意中にもなく、大王――メレアグロスは自身の脚にしがみつく王女と、その真似をしてもう片方の脚に抱きつく王子の首根っこを掴んで目の前まで持ち上げた。

 幼い頃のメレアグロスを彷彿とさせるほどに寡黙な娘は、無言でメレアグロスの黄金の瞳を見詰める。緑の瞳をぱちくりとさせ、ルーファウスはメレアグロスの顔に手を伸ばした。
 頬を引っ張るルーファウスを真上に高々と投げると、きゃっきゃっと喜んで空中で回転する。片手で投げては掴み、投げては掴み。目を回したのを確認して離してやり、ふらふらとよろめくルーファウスの額を小突いて転がした。

 とてん、と転んで立ち上がれなくなった王子を置いて。メレアグロスは氷のように冷たい無機的なエフティリアの顔に苦笑する。

「オレに何かして欲しいんだろう。なんでも言え。可能な限り応じよう」
「……」
「おままごと? ……オレとか?」
「……」

 こくりと頷くエフティリアに、メレアグロスは微妙に困って眉を落とした。

「……自分がお母さん、オレがお父さん? 子供役はルーファウスか」

「ダメだぞ。メレアグロスは私のつがいだ。ごっこ遊びでも妻の役は許さない」

 気配もなく傍らに立っていたのは、大王妃のアタランテである。
 大人げなく娘の遊びを諌めるも、エフティリアは敵意も露に母を睨む。なんだかな、とメレアグロスとアタランテは目を見合わせ、なんとなしに微笑むしかなかった。
 ルーファウスが、アタランテの脚にしがみつく。抱っこ、と仕草で要求していた。アタランテは優しく王子を抱き上げ、あやすように揺らしながらメレアグロスに言った。

「……なあ、メレアグロス」
「なんだ?」

 頭にエフティリアを載せて、しがみつかせたまま、いたって正気なメレアグロスは応じた。

「……」

 大王妃とはいえ、本来大王の執務にまで同席する必要はない。――だがあの時(・・・)以来、メレアグロスは片時もアタランテの側から離れようとはしなくなった。
 アタランテが側にいないと眠れない。妃がいないと理性を保てない(・・・・・・・)。その狂気を植え付けてしまった罪悪感が、アタランテにはある。何を言いかけたのか、迷ったように口を開き、しかし閉じた。「なんでもない」と言って。

 黄金の幼い瞳が、母を睨む。

 力と知恵に於いて、小娘の身でありながら、並みの大人を凌駕する怪物じみた王女である。父の血が濃いのだろう。雷の気を時折り放つ彼女は、殊更に自らの母を毛嫌いしていた。
 それは、何故なのか。アタランテは察している。しかし、どうしようもない事だと受け入れていた。
 無邪気に母を慕うのは、ルーファウス。特に母の血を濃く受け継いだ彼は、しかしメレアグロスと同じく姉以上の怪力の持ち主であった。

「……空中大宮殿の設計図は、青銅板に写し終えたと聞く。技術が遺失しないように備えるのはいいが、なぜそこまでする?」
「王たる者、建築の秘法を後の世に残すのは義務だからだ。一言で言えば、仕事だからとしか言えんな」

 エジプトのピラミッド辺りも未来には失われるだろうから、それの製法も記録しておかねばな、と何気なく大王は呟く。どんな基準を以てして、どんな視点でものを見て、そんな結論に至るのかアタランテには皆目見当もつかない。頭の出来が違うんだ、と思うしかなかった。
 メレアグロスは、虚空に視線を流しながら、ぼんやりと言った。

「……時折、オレの任意によらず、視えるものがある。星を埋め尽くす人の文明だ」

 そこには、神秘はない。ひたすらに俗的な法則に縛られ、息苦しく犇めく人間と、奔放に羽ばたく人間とが生きていた。そこに価値があるのかと言われたら、人に価値はないと言える。
 星を食い潰す癌のようなものだ。病原菌じみた生命体を好ましいとは思わない。
 しかし、そんな人間の作るもの、残すものは価値がある。その価値あるもののために働くのは悪いことではない気がした。ただ、それだけの事で。未来を想う事は、単純に面白くもあった。

「――未来には、空中に建造された建物も、ピラミッドの製法も存在しない。独創的な閃きを持たぬ我が身の非才でも成せる事はある。未来に存在せぬ今の物を記録し、残し続ける事だ。人類史は、先人の残した物を元に発展していくもの。であれば、オレもそれに倣うまでの事だよ」
「……」

 記録を残す――それを徹底するメレアグロスに、エフティリアは頭の上で鼻孔を膨まらせて父の髪を引っ張った。
 アタランテは短く、そうか、と頷き。

 不意に緊急用の通信装置が作動し、そこに騎士位を持つアマゾネスの女王ヒッポリュテの姿が投影された。

 何事だ、とメレアグロスは目を剥き、久方ぶりに見る叔母の姿にエフティリアとルーファウスが諸手を上げて歓迎の意を示した。

『お兄ちゃん! 聞いてくれ!』

 挨拶もなく、慌てた様子のヒッポリュテ。相変わらずの呼び名に苦笑して、メレアグロスは異母妹を嗜めた。

「なんだ、騒々しい。子供達が見ている、教育に悪いだろう」
『そうも言ってられない! 今、私の所にお兄ちゃんの義弟が来ているんだ!』
「……なに、ヘラクレスが?」

 何があって、アマゾネスの領域にヘラクレスが? 困惑して言うのに、ヒッポリュテは錯乱気味に応じた。

『それでだ、お兄ちゃんの義弟が……その、あれだ。あれが欲しいから譲ってくれとか言って来てだな、』
「あれとはなんだ。はっきり言え」

『――ぱ、戦神の軍帯(パンツ)だ! ヘラクレスが私の戦神の軍帯(パンツ)が欲しいって言ってる! 私はどうしたらいいんだお兄ちゃん!? 教えてくれ!』

「……よし、とりあえずヘラクレスを出せ。どうせそこにいるんだろう。寝言を垂れるようなら物理で絞めてやる」

 義弟が異母妹の下着を欲して現れたという報に、メレアグロスは頭が痛くなってきた。




 ――それはまだ、平穏だった時勢。

 英雄譚は、まだ終わっていなかった。























活動報告にて、多くのスキル&宝具ネタが集まっておりますが。

今後、このやたら長い「序章」が終われば、サーヴァントとしての宝具でメレが持参する可能性は大です。

ちなみに、私的に、メレのクラスで人気なのはライダーとキャスターだったり……。

素敵な案を多く下さり、大感謝であります!


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幻の黄金期、血よりも濃いもの






『待て、落ち着け。誤解だ。私は別に、お前の妹のパンツを求めているわけではない』

 巌の如き巨漢が映し出され、生ける伝説ともいえる大英雄が、必死に己が身の潔白を訴える様は実に滑稽であった。
 神性を宿す真紅の瞳は、切実に義兄に弁解する。謂われなき誤解で――しかも義兄の妹の下着を欲した、際者めいた性癖の持ち主という汚名は寛大な彼をして受け入れられるものではなかったのだ。

「では何故オレの可愛い異母妹(ヒッポリュテ)のパンツが欲しい等と抜かす。事と次第によっては貴様をパンツマイスターと青銅板に書き残すぞ」
『やめろ。そんな事をされたらお前の国と一戦交えるのも辞さん』
「ほう? 大きく出たな。戯れ言であったが、案外面白いかもしれん。なれば受けて立つ、いつなりとも挑むがいい」

 呆れた風に嘆息したアタランテの腕の中で、ヘラクレスを見るなりルーファウスは泣き出していた。
 未来の冒険王ルーファウスも、今はまだ四歳の無垢な子供。憚りなしに大泣きされたヘラクレスは少なからずショックを受けたのか、力なく肩を落とした。
 自らの頭の上で、鉛色の巨人を歯を剥いて威嚇する王女エフティリア。ばちばちと雷を帯電する娘に苦笑し、メレアグロスは義弟を皮肉った。

「相変わらず子供に嫌われるな」
『……何故だ。小さき者よ。私はお前達を害する者ではないというのに……』
「その筋肉が駄目なんじゃないか?」
『ばかな。私の筋肉は無駄に盛り上がった達磨とは違う。一分の無駄なく鍛え上げ、完全に律し操れる刃そのものだ』
「だから駄目なんだろう。見た目がな、貴様は迫力がありすぎる。刺激が強い。端的に言って同じ生き物とは思えんのだ。故に幼子は貴様を恐れるのだろうよ」
『……コルキスの王女は、今は』
「メディアも貴様は未だに苦手だそうだ。筋肉の圧力が無理と言っている」
『……』

 全否定されたヘラクレスは目に見えて落ち込んだ。
 まあそんな事はどうでもいい、とメレアグロスはヘラクレスの苦悩を一蹴する。エフティリアが頭の上に立ってヘラクレスの立体映像に雷撃を打ち込み始めたのを尻目に、ヘラクレスに事情の説明を求めた。
 彼もまさか己の義弟が異性の下着を欲するような際者なわけがないと信じている。信じてはいるが、流石に何も聞かない訳にはいかなかった。

『……ミュケナイ王エウリュステウスが、私に試練を出しているのは知っているな』
「ああ。なんだ、まさかそのエウリュステウスがヒッポリュテのパンツを被りたいと抜かしているのか?」
『違う。いい加減パンツから離れろ。何故そうもパンツに拘る。エウリュステウスが娘のなんとかという王女の我が儘を聞き、アマゾネスの女王が持つ戦神の軍帯を欲しがっているのだ。故にミュケナイ王の戯けは、私にアマゾネスの女王からパンツを奪ってこいと命じた。事もあろうに、九回目の試練としてな』
「……控えめに言って、馬鹿か? そのエウリュステウスとやら」

 呆れて物も言えん、とメレアグロスは嘆息する。大の男に……しかも英雄の名声を確固たるものとしているヘラクレスにとっては、確かに試練ともいえる罰ゲームであるが……。
 メレアグロスは仕方無さそうにヘラクレスの横にいるだろうヒッポリュテに言った。

「ヒッポリュテ、パンツをやれ」
『!! お兄ちゃん!? 血迷ったか!』
「血迷ってない。脱ぎたての生暖かいそれをヘラクレスの頭に被せてやれ。エウリュステウスに渡ったそれはオレが取り戻してやる。どうせミュケナイもアイトリアに併呑するんだ。一年もせん内に取り戻せるだろう」
『嫌だ! こんなデカイ頭に被せたらパンツが破れる! というか、こんな剛毛だと穴が空くだろう!』
『……』

 切なげなヘラクレスを間に挟み、兄妹は口論する。エフティリアがメレアグロスの髪を引っ張った。乙女的に、ヒッポリュテの味方なのだろうか。
 苦笑して、メレアグロスは言った。

「解った解った。ヘラクレスからエウリュステウスの手に渡った瞬間に取り戻せるように手配する。丁度、ケイローンとペイリトオスがヒッタイトとエジプトの内偵を終え帰ってくる頃合いだ。奴らに命じておく。取り戻した後、頭に被るなとも厳命する故、安心していい」
『むぅ……ヘラクレス、偉大な勇者よ。屈め、仕方ないから被せてやる』
『メレアグロス……ヒッポリュテ……私をなぶって楽しいか……?』
「意外と楽しい。弄り甲斐のある男だよ、貴様は」

 メレアグロスは肩を竦め、呆れた風なアタランテに目を遣る。
 本気か、とアタランテは問いかける。本気だとメレアグロスは笑った。

「――元々ミュケナイ王は排除するつもりだった。オレの妹の宝を奪おうとした……滅ぼすに足る口実だとは思わないか?」

 己の義弟に、次々と無理難題という名の嫌がらせをするミュケナイ王に、メレアグロスは容赦してやる慈悲を持ち合わせていなかった。
 仁と徳だけでは成せぬものもある。無道なる覇も、非情なる暴も時には発揮せねばならない時もあった。使命を果たすためには、軽蔑に値する野蛮な王の真似も平然と為そう。
 ギリシャの人間は、とかく愚か者の育ちやすい土壌がある。勇敢さは美徳であるが、蛮勇と履き違える事甚だしく、素直に支配を受け入れる者は少ない。メレアグロスが号令したからとギリシャが瞬く間に統一される事はなかった。
 故に。アマゾネスのヒッポリュテ、テセウスの後を継がせた新アテナイ王イダス、スパルタ王のカストル、ラピテース族の女王カイニス、コルキスの王女メディア、イオルコス王イアソンらを用い、反抗的な各都市国家を解体してアイトリアに次々と取り込んでいった。
 王族は総て追放、或いは処刑し、アイトリアの秩序の浸透に努めている。――所詮一代限りの絶対王権と侮らせはしない。メレアグロス亡き後にこそ芽吹くものがあるのだと、取るに足りない陰謀を企てる者らに教えてやらねばならない。
 アイトリアは滅びる。
 メレアグロスが滅ぼす。
 しかしアイトリアは滅びても、育んできた文明と命、遺産は残り続ける。
 大事なのは命だ。国の名前ではない。アイトリアという名は滅んでも、アイトリアという文化は生き続けるだろう。そして、この国は永遠になる。国の在り方とは、滅びをも視野に入れて、如何に綺麗に滅び後の時代の礎となるかに懸かっている。
 寿命の短い国を、無理に延命させても良いことはない。国を永遠としたければ、国のもとに生きる市民の心を国とするしかないのだ。

「案ずるな、ヘラクレス。貴様を煩わせる物は直に無くなる」
『そうであればいいがな』
「いつか、共に冒険に出るのもいいかもしれんな。国を二人で落とすのもいいかもしれん」
『ふ。ならばトロイア辺りに行こう。あそこの王は、私との約定を破棄してくれた。報復してやろうと思っていたが……メレアグロスと行けば面白いことになる』
「それもいいな。残りの試練を終えるのに、後三年といった所か。なんとなれば娘も連れて行こう。初陣には持ってこいだ」
『娘? 娘を戦場に連れて行く気か?』
「ああ。エフティリアは獣だ。狩りの一つでも仕込んでやらねば、危なくて人様のもとに嫁へやれるものか」

 エフティリアが、失礼な、とでも言うように頭をてしてしと叩いてくる。
 ルーファウスがぼくも! とアタランテの肩の上に仁王立ちして主張していたが、頭を撫でて誤魔化した。

 そして、ヘラクレスに微笑を向ける。
 かねて待ち望んでいた事を、彼に伝えるために。

「今度、都合が合えばカリュドンに来い。貴様に会わせたい者がいる」
『私に?』



「ああ。ずっと、会わせたくて堪らなかった女だ。貴様への贈り物だよ」



 己は赦しても、ヘラクレスがどうするかは、彼にも分からない。
 あの仮面の下に隠した顔を見て、ヘラクレスが何を思い、何を為しても、メレアグロスは一向に構わなかった。彼だけは、何をしても赦される権利を持つと、メレアグロスは確信していた。














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幻の黄金期、赤心の誓い

勢いで進んでくるため、どうしても粗が出るジレンマ。
しかし、立ち止まったら負けかなと思うので、粗を出しまくりつつ完結目指しております。
思えばプロットもなく走り続けて何ヵ月。終わりが見えてきましたね(にっこり)














 後に医術の神として神格化され、軍神マルスの随神となる事が定まった童顔の男。
 アスクレピオス。
 宮廷医として、メレアグロスの寝室に訪れた彼の右腕には、"貴き者"テセウスの遺した手甲『叡知の辿り糸』が装着されていた。

 赤い糸がアスクレピオスの意思を受け、メレアグロスの肉体に侵入している。
 額に脂汗を浮かばせながら体組織を精査し、死者をも蘇生させる秘法『地母神の神血管』を潜り込ませて、大王を蝕む"病魔"の駆逐に没頭していた。
 癒せぬ傷はなく、治せぬ病はないと彼は自負してきた。だがアスクレピオスは力なくかぶりを振って、遣る瀬なさそうに疑似神経糸を抜き取る。デミ・ゴッド故か老いの遅い男は、無念そうに大王に告げた。

「……すみません、黄金卿。七年もかけて漸くテセウスの糸を使いこなせるようになりましたけど、判明したのは以前から動かない事実だけでした」

 悔しげに唇を噛むのは、医師故か。
 患者を救えぬ事実が、彼には悔しくて悔しくて堪らない。
 メレアグロス大王は平然と鼻を鳴らし、然して気にした風もなく先を促す。

「黄金卿の左胸にある天魔の神核は、完全に黄金卿の心臓として機能しています。摘出は不可能。仮に無理に抜き取っても、黄金卿の肉体が復元されるのに合わさり、天魔の神核は黄金卿の裡に戻る事になると思います。別の心臓を移植しても、その心臓と置き換えて神核が現れるのは間違いありません。完全に、因果が絡み付いて、同化しちゃってます」
「……で?」
「……ぶっちゃけ黄金卿、人としてのあなたの精神が砕けるまで、今から十年あるかどうかじゃないかなと思います」
「十年。まあ、そんなものか」

 あっけらかんとメレアグロスは受け入れた。
 アスクレピオスはふるふると肩を震えさせ、苛立たしげに床を蹴った。

「というか何で黄金卿は生きてられるんですかねぇ!? 天魔ですよ、神核ですよ!? あれの核と一体化してるせいで、黄金卿は過去から未来に至る闘争の概念(・・・・・)の化身になって、精神を常に億を超える戦士の魂に圧迫されてるんです! 自我が残ってるとか普通あり得ませんから!」
「ふん。オレを染めるには、愛が足りんよ」

 林檎を掴み、丸かじりして、メレアグロスは不敵に笑う。
 実際、天魔に蝕まれメレアグロスは狂った。
 だが混沌の海の中、自我を見失い掛けた刹那に、アタランテという錨を落として心が混沌に流れぬよう固定しただけである。たかが闘争の狂熱如きで、心に錨を落としたメレアグロスを塗り潰そうとは片腹痛いというのだ。
 まあそのせいで、アタランテを常に傍に置かねば正気を失ってしまうのだが、限定的状況に限られるが正気でいられるだけマシであろう。『雷霆の鎧(クリューソス・ケラウノス)』があっても、体の内側に潜むものまで弾く機能はなかった。

 アタランテは、自分のせいでメレアグロスが狂った等と誤解しているが、それは違う。彼女のお陰で狂わずにいられるのだ。
 本来のメレアグロスなら、その事をアタランテに伝えて罪悪感を薄めさせていただろう。だが敢えてそうしていないのは……『アタランテの心が、己だけで埋め尽くされてしまえばよい』という、得体の知れない狂熱に蝕まれているから。
 メレアグロスの事で苦しむなら、それもまた是であると嗤う歪んだ愛があった。歪ませたものがあった。――宮廷医アスクレピオスが最も"治したい"と考えるのは、それである。
 見透かしたように、黄金の双眸が細まった。

「不要だ。歪んでいようが、本質が変わった訳ではない。今あるのは元から備えていたオレの性質なのだろうよ。どれほど醜かろうとな」

 もういい下がれ、と身振りで示し、メレアグロスは寝台に移った。
 アスクレピオスは、不要なものなんてない、と吐き捨てるように呟く。寝室から立ち去りつつ、彼は闘志を燃やした。
 体を救う術は極めた。次は、心を救う医術を極めて見せる、と。テセウスのように補佐するのは無理でも、僕のように助けられるものはいない、とアスクレピオスは自負していた。

 メレアグロスは思う。

 ――アスクレピオス。貴様が十年保つと言うなら、十五年は保たせよう。オレの寿命が、そのまま貴様の寿命となるのなら、少しでも長生きさせてやりたい。

 何せ彼は、メレアグロスにとって、かけがえのないものを救った恩人なのだから。






















 震える指が、石の仮面に触れた。

 固唾を呑んで、蓋の外れた顔を見る。せめてもの情けとして、眠らされた女の顔を。老いに捕まり、人の女として朽ちていく女の顔を。
 狂おしく欲した時が、現実となった。
 深層心理の中、幾億回も夢想した光景が、目の前にあった。
 妻の。我が子の。親友の。
 仇。

「……」

 ――十二の試練は、終わった。その最中に、あるだろうと思っていた女神の妨害も、不思議とぴたりと無くなっていた。
 三年。九回目の試練を終えてから三年が経った。試練を終え、己の名を"ヘラの栄光"として広めた。己はそれで女神に赦されたのだと思っていた。だが違ったのだ。赦したのではない、ただ呪うほど憎んだ女神が、別人にすげ替えられていただけだった。

 笑った。

 嗤った。

 声を上げて泣きながら笑い、腹を抱えて転げるほどに我を見失った。
 痛快だった。なんたる様だと胸につっかえていた蟠りが一挙に取り除かれたような心地だった。手を伸ばせば容易くくびり殺せる、よく見たら目元に皺が出来ているのが見て取れる。あの高慢な女の末路がこれか。こんな、こんな、どこにでもいる侍女として生かされ、朽ちて死んでいく人間になったのか。
 流石。
 流石としか言えなかった。
 流石は我が義兄。ただ一人、全力を尽くしてなお打倒の困難な次期戦神。
 そして――感謝する。この手に、憎き仇の命を握らせてくれて。

 笑いが静まるや、一瞬にして凪いだ湖面の如く男は沈黙した。

 無言で女の顔を見下ろす。拳を握り、そして――

「……」

 その、密室から出た。
 待ち構えていたのは、義兄と大王妃。無言で佇む大王妃の顔は、どこか佇んでいる。
 最優の騎士王が、口を開いた。

「どうした。殺したのか」
「……殺した?」

 反駁して、鼻で笑う。可笑しかった。

既に死んでいる(・・・・・・・)物を、どうやって殺す」

 握った拳に、血は匂わない。
 総身を切り刻むように見渡し、黄金の双眸を閉じて。開き。大神により試練を達した褒美として、十一の命をストックとして与えられた英雄を見つめた。

「私は、決してヘラ神を赦すことはない。しかし既に死んでいるのなら、これ以上奴の存在を記憶に留め置くのは不毛」
「……怨みを捨てるか」
「捨てるものか。我が恩讐、拭うには我が心身に沁みすぎた。だが、アレ(・・)はクレオパトラーだ。ヘラ神ではない」
「そうか。貴様がそう言うなら、奴にはクレオパトラーとしての生を全うさせる」

 言って、黄金の大王は微笑んだ。どこか、嬉しげに。大王妃もまた安堵したように嘆息している。
 英雄――ヘラクレスは糺すように義兄メレアグロスに問いを投げた。

「メレアグロス」
「なんだ」

 平然と応じる彼が、何を考えているのか。ヘラクレスは一歩、近づく。

「お前は私に、どうして欲しかった」
「別に、どうも。貴様が奴をどうするかは、貴様が決める権利がある。オレは奴に絶望を与えた。ならばその生殺与奪の権利は貴様にこそあると思った。故にこうした」
「嘘だな」
「……」

 断じると、メレアグロスは閉口した。
 見下ろす先の黄金の瞳は、微塵も揺れない。しかしそれでも確信を持って、ヘラクレスは言う。

「お前は寡黙な男だ。多弁を要する時、それはお前の公的な――大多数に向ける建前の言葉となる。……私にも、そうするのか?」
「……」

 鳩が豆鉄砲を食らったような表情を一瞬し、メレアグロスは可笑しそうに微笑む。よもや、貴様に読まれるとはな、と。

「正直に言おう。奴を生かすも殺すもどうでもよかった。貴様が"赦せる者"か"赦さぬ者"か、確かめたかっただけだ」
「……私は、赦しを与えられる寛大な男だと?」
「否。貴様は"己に問う者"だった。己の内側にある物から答えを出した。これが嬉しくてな、つい諧謔に走った。許せ」

 それはつまり。ヘラクレスは、メレアグロスの思惑から外れたという事。
 尊大な物言いが、彼の本心を伝える。その語調こそ、本来のメレアグロスのものだった。ヘラクレスは頷き、そして、深く頭を下げる。
 怪訝そうにする義兄に、頭を下げたまま義弟は告げた。

「感謝する。私のために、骨を折ってくれたのだな」
「……別に苦労はしていない」
「それも嘘だ。ただ己の報復心を晴らすだけなら、お前ならもっとスマートにやる。こんなふうにわざわざ生け捕りにはせず、タルタロスにでも落としていた。違うか?」
「……さて。なんのことやら。人の身に落ちた神の絶望、中々に深いものだったがな」

 あくまで認めようとしない彼に、ヘラクレスは頭を上げる。
 どうあっても感謝の気持ちを受け取るつもりはないらしい。なら、別の形で感謝の念を伝えるしかない。

 ではどうするか、思案していると、メレアグロスは言った。

「折角だ、オレの妹……ディアネイラにでも会っていけ」
「なに?」
「奴も二十歳目前だというのに、未だ嫁ぎ先が見つからん。誰のせいだ」

 汝だ、とは言わないアタランテである。
 黄金の光に目を焼かれた結果、世の中の男を見るに堪えないと感じる義妹達を誰が責められる。特に末妹のディアネイラ等はメレアグロスに可愛がられてきた。メレアグロスしか見えない義妹に、アタランテは複雑な気持ちで接してきたものだ。

 物言いたげな彼女にヘラクレスは何かを察し、半笑いで口ごもった。

「いや、しかし……私はだな、流石にそんな資格はないと思うわけだが」
「ん? 誰がそんな事を決めた」
「それは……」
「嫌ならいいが。オレも、貴様を本当の義弟にしたいと思っている。妹の為、というのも大きいがな」

 それに、貴様にならディアネイラも任せられる、と含むものなく言う義兄に、ヘラクレスは毒気を抜かれた。
 仕方ないな、と呟く。

「……会うだけ会おう。どうせ、私は怖がられるだけだと思うがな」
「決まりだな。よし、試練も終わって暇しているんだろう。オレもたまには骨休みがしたい。オレとアタランテ、ヘラクレスと……そうだな、イアソン辺りを捕まえて、エフティリアの初陣の供にしてやろう」
「――嗚呼、トロイアの件か」

 なんなら手隙の騎士も連れていこうか、なんて何気なく呟く義兄に、ヘラクレスは呆れるやらトロイアに同情するやら。まあ、約束を破るのが悪いな、と思う。
 トロイアの城壁はアポロンとポセイドンの築き上げた宝具の域にある防壁だが、自分とメレアグロスなら難なく突破できる。今に見ていろ、と報復の時を思い浮かべれば、今から楽しみになってきた。

 イアソンと会うのも久しぶりになる。今度は、友人として会えるだろう。あれから彼がどう成長したか、それもまた楽しみであった。
















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幻の黄金期、輝ける日々





「ちょっ、痛っ、痛いっ!? やめっ、やめろバカ! なんなんだこのちんまいの!?」

 その顔を見るのは何時以来か。
 イオルコス王イアソンは、白を基調とした衣装を華美に飾り、あたかも歩く宝石箱といった風情で二十名の戦士を供として引き連れ、アイトリアの王都にやってきた。
 儀礼張った再会の挨拶もそこそこに供を下がらせ、イオルコスの戦士らに王都に暫く滞在する事を命じる。イアソンにはヘラクレスとメレアグロス、アタランテとエフティリアと共に、トロイアへ『慰安旅行』に出掛ける旨を通達。この時点で壮絶な嫌な予感に顔を引き攣らせたイオルコス王だったが、突如として黄金の王女が飛び掛かって来たために逃げ出す好機を失ってしまった。

 全身を綺羅びやかに飾っていた宝石類を全て剥ぎ取られ、背中まで伸ばしていた金髪もバッサリと帯電した手刀に切り落とされる。無惨に刈り落とされた金髪を引っ張ったり、首筋に噛みついたり、背中に張り付いて指を背中に食い込ませたりと暴れまわるエフティリアにイアソンは悲鳴を上げた。
 八歳児に手玉にとられる英雄船長に、メレアグロスは和みながら言った。

「おう、イアソンが気に入ったか。エフティリアに初見で懐かれるとは、やるなイアソン」
「大王様ぁ?! このジャリガキはなんなんですかねぇ!? いきなり人様の衣装は台無しにするわ髪を切るわ最悪なんですけど!?」

 流石に大王を相手に不遜な振る舞いはしないイアソンである。しかし、メレアグロスは笑って不敬を勧めた。今は一切の公的しがらみを忘れての『旅行』である。そんな堅苦しいのはナンセンスだ。

「敬語はいい。貴様には人を食った態度の方が様になる。ああ、それと、そこな小動物はオレの娘のエフティリアだ。仲良くしてやってくれよ」
「娘ぇ!? ちょっとお父さん教育なってないぜこのジャリ! どんな教育してんだよ! まるで猿だぜ、猿! 雷猿だ!」

 早々に敬語を投げ捨て、毒吐きながら背中に手を回して、ちょこまかと這い回るモンスターの脚をなんとか掴んだイアソンは、エフティリアを片手で宙吊りにしたまま目の高さまで掲げる。そしてそのまま、ぶらりぶらりと揺れるエフティリアの顔を嫌そうに見た。

 金色の瞳と、獅子の鬣のような黄金の長髪。もちもちな白磁の肌と表情の薄い人外の美貌。確かにメレアグロスの面影がある。血の繋がりは感じられた。
 しかしイアソンからすれば、折角伸ばしていた髪と、威厳のために揃えてきた髭と宝石を全部取り上げてきた無礼な猿である。これは赦しがたい。子供の責任は親の責任、どういう事だと睨む目は怒りに燃えていた。
 そこに、身分と実力の差に萎縮したものはないし、一切の遠慮も感じさせない。器量を高めて、柄を一枚上げたのか。王として成長していたイアソンに、メレアグロスは相好を緩める。
 傍らのアタランテが、なんとも言いにくそうに言った。

「怒るな、イアソン。メレアグロスはエフティリアに教育などしていない。伸び伸びと気儘にやらせる方針だそうだ」
「アタランテ……君さ、母親がそんなんでいいのかよ? 君がいたらもうちょっとまともな娘に育ちそうなもんだけどな」
「……私はエフティリアに嫌われてるからなぁ」

 イアソンの尤もな指摘に、アタランテは苦笑して力なく肩を落とした。
 ん? とイアソンは眉を顰める。アタランテが嫌われてるだって?

 何気なく宙吊りにしたままのエフティリアとアタランテを見比べ、そして微妙に距離のあるアタランテとメレアグロスに目を遣り、アタランテの目を見る。
 何を察したのか。イアソンは、若い頃の焦りが消えた落ち着いた眼差しで、納得したように一つ頷く。

「……はぁん? なるほど、嫌われるわけだね。アタランテさ、悪いこと言わないから一回死ねば?」
「なに?」

 突然の辛辣な言葉にアタランテは鼻白んだ。
 瞬間的にこめかみに青筋を浮かべたのはメレアグロスである。しかし、怒気を発して動き出す前に、肩をヘラクレスに掴まれて出鼻を挫かれ、舌打ちしてアタランテへの暴言を流した。
 黄金の野獣の天涯の怒気にイアソンは内心、死にそうになりながらも、昔馴染みのために堪えて助言した。

「あのね、こんなチビガキが親を嫌ったりするもんかよ。こういう道理も知らない猿は、無条件に世界が自分を好きになってくれると信じてる年頃だ。世界は自分の事が好きで、自分も世界が好き……ま、嫌いって感情自体がない訳よ、普通はさ。なのに嫌われてるって事は、一番身近な奴、つまり親に不満があるってわけ」

 頭を逆さにしたままぶらんぶらんと揺らされるエフティリアは、無表情にイアソンを見ている。
 感情の起伏は乏しいが、どこか無垢な瞳。イアソンは、やだねガキって、と心中嘆息しながらアタランテに指摘する。

「ガキの気持ちも分かってやれよ。ガキが世界で一番好きなのは父ちゃんと母ちゃんに決まってんだよ。『嫌われてる』? ばっかじゃねえの? 当たり前じゃん、マルス(・・・)のバカになんの負い目があるか知んないけど、そうもあからさまにマルスと距離置いてたら、ガキの方も気分悪いぜ。な?」

 エフティリアはそう聞いてきたイアソンの顎に掌底を食らわせた。ぐっはぁ!? とひっくり返ったイアソンを尻目に、エフティリアは綺麗に着地してメレアグロスの脚に抱きつく。

 ぎくりと身を硬直させたアタランテに、イアソンは顎を擦りながら立ち上がり、面倒臭そうに目を細めた。

「ガキ目線で見たら、マルスはルミナに負い目はない。けどルミナはマルスに負い目がある。態度がよそよそしい母親の方がおかしいって思うだろ、ふつーに。仲は良いのに距離がある、おまけに娘の自分にもどこか遠慮があると来たもんだ。そりゃお父さん大好きっ娘になった反動で母親が疎ましくもなるもんだよ」

 ほんと単純で猿みてぇ、と毒吐くイアソンにアタランテは項垂れる。

「……そんな、一目で解るものか?」
「解るに決まってんだろ。こんなでも親だぜ、オレ。理想の王は理想の親じゃないと。さもないと理想の後継者に、理想の国は引き継がせられない。ま、この私もいつまでも若くはないということかな」

 ふふんと得意気に鼻を鳴らし、晩婚の二人を見てイアソンは腕を組んだ。
 アタランテは目を逸らしてきた事を真っ直ぐに指摘され、ばつが悪そうに俯いた。しかし、すぐに顔を上げて、頭を下げる。

「……金言、感謝する。多分、言われなければ気づかなかった」
「しゃんとしなよ、きみだって二児の母だ。母親ってのは父親の雑な教育に中身を持たせるのが仕事なんだぜ。見なよこの中身のない猿。生まれ持った性質と気質だけで野獣一直線じゃんか。早くなんとかしないと、将来マルス二号になっちゃうぜ」
「ほう。それはどういうことかなイアソン君」

 にこにこと友好的に笑うメレアグロスに、イアソンは「やっば」とヘラクレスの背後に隠れた。私を守れヘラクレス! マルスの奴割りと怒ってる!

「面白い事を囀ずるようになった。気に入ったよイアソン君、来たるヒッタイトとの戦い、前線の作戦指揮官は貴様にしてやる」
「はぁ?! お、横暴だ! それカストルの奴の仕事だって決まったろ!? なんで私が!」
「オレのアタランテに生意気言ったから……というのは冗談として」

 思っていたより成長していたからだ、とメレアグロスは微笑んだ。
 え、と。
 若かりし無名時代、憧れた大王からの手放しの賛辞にイアソンは我知らず喜んだ。
 だが。

「しかしオレの娘を散々猿だの畜生だのと罵った事は見過ごせん。実際本当だから言い返せんのが腹立たしい。罰として此処からトロイアまで、エフティリアの遊び相手に任命してやろう。有り難く思え」
「ちょ、」
「気を付けろ。娘は、獰猛だぞ」

 飛び掛かって来たエフティリアに、やめろぉお! とイアソンは悲痛な断末魔を響かせた。

 アタランテは、思う。
 過去、あれほど情けなく見えた男が、こうも成長していた。
 自分はまだまだだ。ルーファウスにかまけるばかりで、エフティリアを蔑ろにしてきていたのだ。かつて仕方がなかったにしろ、生んですぐに置いていった事を申し訳なく思っていたのが遠慮を生んでいた。
 狩人として、女として、大王妃として、立派に勤められるようになったと自負している。しかし親としてはまだまだと自覚して、アタランテは決心した。

 このトロイアまでの道のりで、エフティリアとゆっくり話そう。
 親としての気構えを持ち直そう。
 なんなら、親としては自分よりも上のイアソンに意見を求めるのもいいかもしれない。いやそうした方が絶対にいい。

「よしっ」

 天穹の弓を固く握り締め、アタランテは意を決してエフティリアに歩み寄った。
 途端に警戒して来る娘を抱き上げ、その目を見る。
 不思議と、暴れない娘に、アタランテは言った。

「エフティリア。イアソンとメレアグロスとばかり遊ばないで、私とも遊ぼう」

 暫し黙って母親の目を見ていた黄金の小動物は、やや迷いながらゆっくり頷いた。
 そして、小さな指で弓を指差す。

「ああ、弓で遊びたいか。いいぞ、狩りの技を教えてやる。望むなら汝をアルカディア随一の――いやギリシャ随一の狩人に仕立て上げてもいい」
「なんでだよ! 立派な淑女に育てろよ!」

 イアソンの野次は、縮地でヘラクレスの守りを突破して回り込んで来たメレアグロスに潰された。我が家の教育方針に口出しは控えて貰いたい、と満面に笑みを湛えながら。

「さあ行こう、今からこの旅が楽しみになってきた」

 アタランテはエフティリアを抱いたまま、三人の男達に華やかに微笑みかけ歩き出す。
 足取りは軽い。いつか消えてしまった双子とルーファウス、エフティリアとメレアグロス、そして自分。この六人家族でどこかに旅がしたいな、と淡い願望を抱きながら。



 ――最後になるこの平穏。人としての柄をあげたのは、イオルコスの王だけではなかった。

 大王妃アタランテの、しなやかな心。
 近く、夫と向き合う時が来る。その時に、歪んでしまったものを正して見せると、深緑の狩人は固く誓った。

 輝ける日々。

 始まるのは、仲間達との団欒。
 これが最後になったとしても、誰も後悔はしないと、誰しもが心のどこかで確信していた。





















日常は尊く。しかし、終末の足音は近い。


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幻の黄金期、儚きかな人の子よ


 そろそろ来る頃合いか――黄金卿がそう呟くも、神妙に頷きを返したのは駿足の狩人のみ。人越の大英雄と英雄船長は不可解そうに眼を見合わせた。
 そんな彼らを横に、彼方へトロイアの城壁を目視したメレアグロスは、持参していた青銅の槍に白地の布を巻き付け、無造作に投擲した。見る見る内に遠のき、見事トロイアの宮殿に槍が突き刺さったのを見届けたメレアグロスは、何事もなかったように面々へ振り返る。

「今、布に何か書いてあったよな。なんて書いてあったんだ?」

 イアソンが訊ねるのに、然して大した事でもないようにメレアグロスは嘯く。

「『ヘラクレスが来たぞ、不義の背信王ラオメドン。海の怪物を討つ事で娘の命を救われながら、対価の神馬を差し出さぬ強欲なる愚者よ。かつて城壁を築きし海神と太陽神に何も報いぬ小器のラオメドンを罰するため、アイトリアの大王もトロイア攻めに呼応した。ただちに降伏し助命を乞うなら一族だけは助けよう。潔く首を差し出せ、世界で最も取るに足らぬ稀代の愚王』」
「うわあ……」

 なんとも言えなさそうにイアソンは呻いた。 肝なのは、ヘラクレスとメレアグロスと、少数の供しかいないとは書いていない事だ。特にメレアグロスの名が記されてある時点で、雲霞の如き大軍を擁して攻めかかって来たものと誤解するだろう。
 そして、降伏してもラオメドンだけは殺すと書かれてある。であれば、ヘラクレスから聞いたトロイア王なら絶対に降伏しない。徹底的に交戦するだろう。
 小物ほどプライドだけは一丁前だ。斯くも痛烈に罵られたなら、絶対に攻め気を持つに違いない。

「後はこのまま待機すればいい」
「餌は撒いた。後は獲物が食いつくのを待つだけ、か」

 アタランテは小さく呟く。
 一艘の船だけでここまで航海してきた。港の何処に乗り上げたかなど地元の都市国家が予測出来ない訳がない。必ずラオメドンは奇襲を仕掛けてくる。それを待つだけでいいのだ。
 所で、とヘラクレスが問いかけた。

「何が『そろそろ来る頃合い』なんだ」

 大英雄が気になっていたのは、トロイアではなく何気ない義兄の呟きの方だった。乾いた笑みを浮かべ、メレアグロスは言う。

「決まっている。その功績故に、騎士に叙さざるを得なかった魔術師(メイガス)だ」

 言うや否や、突如として発生した魔力の渦が逆巻き、メレアグロスらの眼前に大輪のような魔法陣が展開された。
 予測通り現れたのは、"少女"を脱して艶めいた美女へ成長した、紫紺のローブを身に纏ったコルキスの王女。名をメディア。十三人目の騎士として列された、稀代の魔術師である。

「メレアグロス様!」

 少女時代の無垢さは削がれたものの、その瞳にある狂熱に一切の翳りはない。
 「げぇっ!?」と驚愕したのはイオルコスの王。心底嫌な顔を見たと言いたげな顔を一瞥して、超遠距離転移魔術をいとも容易く行使した女魔術師は、飼い主へじゃれつく子犬めいて大王に駆け寄った。
 その顔は、邂逅の時より変わらず、熱情に浮かされたもの。心なし罪悪感を覚えるまま、メレアグロスは相対する。

「言付かれた通り、アイトリア内部の不穏分子の調略を終えました。またヒッタイト領にてこちらに靡き得る者との接触、引き続き手の者に工作を続けさせております」
「そうか。流石はメディア、手際がいい。その調子でやれ」
「はい! 私にお任せくだされば、メレアグロス様の望むままに世界をも捧げましょう!」
「……世界は要らん。が、忠心は受け取ろう。所でメディア、どうして此処が? 行き先は伝えてなかったはずだが」
「メレアグロス様のいらっしゃる所がメディアの居場所ですから」

 答えになってない、と言いかけるのを飲み込み、メレアグロスは嘆息して周りを見た。
 アタランテは仕方無さそうに苦笑し、イアソンはげんなりとしている。ヘラクレスはどこか身構え、エフティリアはメディアを嫌悪も露に睨んでいた。
 慇懃に、貞淑に、されど傍より離れる気配もなくメディアはメレアグロスを見上げている。メレアグロスは内心申し訳なく思いながらも、メディアに後ろを見ろ、と言った。
 小首を傾げながら、メディアが振り返る。
 そして、鉛色の筋肉の大山を見つけ、一瞬にして気を失う。崩れ落ちたメディアをメレアグロスはやんわり受け止めアタランテに預けた。

「……おい」
「今ばかりは貴様の筋肉に感謝する。対メディア・ショック兵器の面目躍如だな」
「いやいや、まったく大したものだよヘラクレス! 暑苦しい獅子の毛皮と目に毒な筋肉量は伊達ではないな! 流石と称賛させてくれ!」
「喧嘩を売っているのか? ならば言い値で買おう。ラオメドンの前にお前達だイアソン、メレアグロス」

 あっはっは、と快活に笑いながら背中を叩くイアソンは、そんな脅しも柳に風といったふうである。流石に自分には手加減してくれるだろうという打算があったのだ。

 昔から気の弱い女子供から恐れられ続け、メディアなど初対面からこの調子である。
 さしもの大英雄とて気にもするようになるというもの。日が暮れるまでの間、ヘラクレスはメレアグロスとイアソンにからかい倒され、遂に激怒して大斧を振り回し始めるや、周囲一帯を焦土に変えながらの義兄弟(きょうだい)喧嘩が始まった。

 ラオメドンがトロイア軍を率いて夜襲を仕掛けて来る頃には、すっかり瀕死に陥っていた彼らである。

「……しまった、やり過ぎた」

 千百戦中、五百五十八敗と負け越していたメレアグロスであるが、激戦の末今度は辛うじてヘラクレスをノックアウトした所だ。
 大の字になって昏倒しているヘラクレスを見て、我に返ったメレアグロスはふらふらと千鳥足になりながら呻く。バカをした、トロイア軍が攻めてきたのだ。予測通りなのに絶望的な状況である。
 アタランテは背中にエフティリアとイアソンを庇いながら、呆れたように言う。

「相変わらずヘラクレスが絡むと子供になる。汝も進歩がない」
「言うな。言わないでくれ……」

 体の節々が軋んでいる。娘と嫁の前だからと頑張り過ぎ、何より意地を張り過ぎた。洒落にならないほど消耗している。今ならイアソンにすら軽く小突かれただけで倒れそうだ。
 メディアが恐る恐るヘラクレスを見て、完全に気絶しているのを確認してホッと安堵している。そして心優しい王女は医療魔術の奥義とも言える『修補すべき全ての疵』でヘラクレスを回復させた。途端にメディアが転移魔術で逃げ去ったのは、ヘラクレスさえ回復したら何も問題ないと知るが故。メレアグロスは回復魔術も弾く為、魔術をかける意味がないと弁えるが故だ。
 姿を隠し、様子を見て、場合によっては遠くから援護してくるのだろう。

 完全にメディアから避けられているヘラクレスは、回復するなり意識を取り戻し、むくりと起き上がって悔しげに顔を歪める。
 拳を地に打ち付け、ヘラクレスは呻いた。

「私は強くなった。だがお前もまた、強くなった。……次はこうはならんぞ」
「オレもだ。次は更に磨きをかけて圧倒してやろう。まだ見せていない芸がある」

「おい、いい加減にしないか。トロイアの連中が近くまで来ているんだぞ」

 諌めるというより、叱りつけると言った方が適当な一喝に、メレアグロスは気落ちしつつ口をつぐんだ。本当なら楽勝な所が、まったく予想外に苦戦しそうだ。

 そう思いつつ、一刻後にはラオメドン含め、トロイア軍の兵士らを軒並み昏倒させて生け捕りにしたヘラクレスとメレアグロスである。

「……弱いな」
「ああ。弱い」
「バカ、お前らが強すぎんだよ」

 イアソンが気の抜けた声で悪態を吐き、同情したふうにトロイアの面々を見渡す。
 狼の娘エフティリアなど、雷を纏って体当たりを繰り返していただけだ。それだけで大の男達が吹き飛ばされていたのだから笑うに笑えない。アタランテも素手で武装した兵士達を相手に意識を奪うだけに留める手加減ぶりだ。
 エフティリアが器用にも、気絶した戦士達を積み上げ山にしていくのを尻目に、メレアグロスは白けたように溢した。

「英雄と呼べる者が一人も居ないな。なぜこの程度の連中を相手に一度引いた?」

 ヘラクレスは捕虜としたラオメドンをどう処すべきか、思案しつつその首を掴み応じた。

「まだ試練の最中であったからだ。無駄に時間を取られるわけにはいかなかったから退いたまで」

 まあそれしかないか、と興味無さげに相槌を打ち、メレアグロスはエフティリアとイアソンらに言う。

「ラオメドンだけ連れていく。トロイア兵はこのまま置いていくぞ。目が覚めたら勝手に帰るだろう。獣に食われたら御愁傷様と拝まない事もない」

 トロイア兵を相手に一歩も引かなかった事を誉めて欲しそうなエフティリアだったが、特に誉めるに値する相手でもなかった故に髪を撫でるに留める。
 不服そうに唇を尖らせ、エフティリアは不貞腐れたようにアタランテの方へ走っていった。

 ――不意に、アタランテの腕に抱かれたエフティリアが、トロイアの方に視線を向けた。

「……」

 どうした雷猿とイアソンが言うと、エフティリアはポツリと鈴のように可憐な声を溢した。

「……不思議。彼処に、誰かいる」

 獣めいた直感がエフティリアに囁いていた。何かが起こるよ、と。
 初めて聞いたエフティリアの妖精じみた声に、イアソンは驚く。メレアグロスもやや驚きながら己の娘をまじまじと見つめた。

「珍しいな……ルーファウスのおねしょを宮殿で言い触らして回った時以来だぞ、エフティリアが喋ったのは」
「おーい! それでいいのかお姉ちゃん!」

 イアソンの突っ込みをよそに、エフティリアはアタランテを見上げる。早く行こう、早く。そう無言で急かす娘にアタランテは目をぱちくりとさせた。
 本当に珍しいな、と呟いて。アタランテは促されるまま歩き出す。メレアグロスらはその後に続いた。

 次代を担う若者と出会うまで、後少し。
 ラオメドンを担いでトロイアに着く頃には、すっかり夜が明けようとしていた。



















長くなりそうだったので一旦カット。
おじさん(若)の出番は次回です。


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幻の黄金期、次代の英雄達



 眼前にまで引っ立てられた老王ラオメドンを眼にした時、トロイア王の系譜に連なる者は己が身の破滅を理解した。
 国に災いを齎す暗愚な王。彼の所業を思えば何時かはこうなる事も予期し得た。オリュンポスの神々への非礼、最大の英雄ヘラクレスへの無礼、命知らずとしか言えぬ愚挙である。
 トロイア王ラオメドンの嫡子ポダルケースの子、ヘクトールは内心、祖父の悪因より発した悪果に頭を抱えたくなっていた。
 特に捕虜となったラオメドンを抱えたまま、神々の権能をも防ぎきる堅牢なる城壁を、易々と飛び越えてきた巨漢を見た時は変な笑いすら込み上げてきたものだ。

 ――俺にもっと発言力があれば……。

 悩ましい事に今のヘクトールは数ある王族の一人でしかない。現王ラオメドンの王子ポダルケースの長男でしかないのだ。王位継承権などまだ視野にも入れられていない。故に兵権など握れるはずもなく、そもそも二十歳そこそこの若造が公の場で大きな口を叩くのを、ラオメドンとその家臣は良い顔をしなかった。
 嗚呼、まさか祖父の行いを掣肘出来ぬが為に敗軍の責を負う事になるとは。ヘクトールは、せめて弟達、妹達の命はもとより、トロイアの市民達を救えぬものかと算段を立て始める。王家の責を無辜の民草にまで及ばせられない。
 敵に抵抗する? 無理(・・)だ。ヘラクレスを見た瞬間、ヘクトールは確信した。勝てる勝てないではない、あれの相手は絶対に無理(・・)なのだと。人の身で抗う事など出来ない。人でありながらギガントマキアに参戦し、神々を勝利に導いた実力は伊達ではないのだ。
 それでも、トロイアの城壁を楯に守戦に徹すれば、まだ勝ち目はある。自分ならやれる、とヘクトールは考えられた。――所詮は現実にならぬ絵に書いた餅。ヘクトールに兵権はない。抗う機会は祖父の無能が潰してしまった。

 やがてトロイアの兵は捕虜とされたラオメドンと、無双の英雄の武威溢れる姿を見て戦意喪失。武装解除の勧告にトロイアの兵らは武器を捨てた。中には果敢にも挑み掛かろうとする者もいたが、ヘクトールがそれを止めた。
 あたら若い兵らの命を散らせる訳にはいかない。そう判断したのだ。

 ヘラクレスの指示により、城門は開かれた。一体どれほどの大軍の下に城下の盟を誓わされるのかと思っていると、やって来たものの数を知って、遂に堪えきれずにヘクトールは笑ってしまった。

「は、ハハハ、ハハハハハハ!」

 この場に在っての呵呵大笑を、不謹慎だと咎める者はいない。誰もが呆気に取られていたからだ。
 トロイアを破ったのは、ヘラクレスを入れてたったの六人。しかも内一人は子供! 黄金の獣の威容、深緑の狩人の凄烈な眼光、なるほど大したものだ。だがあのひ弱な男はなんだ、およそ争いには向かなそうな女魔術師はなんだ、あの少女の皮を被った化け物はなんだ!
 なるほど勝てない訳だ。ヘクトールは納得した。あんな滅茶苦茶な、理解不能な集団に狙われれば太刀打ち出来る道理はない。あれらは既に人の世で敵うモノではなくなっている。特にあの最優王とヘラの栄光は桁外れだ。あの両雄が揃っている内は、神々すら退くに違いない。
 個人の武勇という観点から見て、あれらに並ぶのは不可能だと見ただけで思い知った。

 彼らはトロイアの王家をどう処すのか。今は出方を見るしかない。固唾を飲んで成り行きを見守っていると、ネメアの谷の獅子の毛皮を編んで出来た、『神獣の裘』を纏うヘラクレスが口を開いた。
 神殿の門が軋みを上げたかのような、荘厳で重々しい、重厚な声音。彼の英雄性を滲ませた鉄壁の自我を想わせる言葉の羅列。

「ヘーシオネー。前に出るが良い」

 重石のような命令に、海の怪物よりヘラクレスに救い出されたヘーシオネーは、怯えながらもしっかりとした足取りで前に出る。
 宮殿の玉座の間に集められた他の王族と、武装解除した衛兵が固い唾を呑んで見守る中、ヘクトールの父ポダルケースの姉がヘラクレスを見た。

「お前の父、ラオメドンはお前の命を救う対価として神馬を譲ると約束し、私に怪物狩りを依頼した。私はこれを果たし、確かにお前を救い出した。相違ないな?」
「……はい」

 ヘーシオネーが肯定すると、ヘラクレスは頷き、彼女に告げる。

「だがお前の父は、娘を救った対価を支払わなかった。即ち今現在、お前の命はまだ私の手元にあるという事になる。異論はあるか」
「……ありません」
「これよりお前には私の所有物として、一つの選択をして貰う事になる。その儀を以てお前の命はお前の下に還されるだろう」
「……!」

 ヘーシオネーはその言葉の意味を過たず理解した。つまり、ヘラクレスに従い何かを選択すれば、ヘーシオネーは命を奪われずに解放されるという事。この息詰まる状況から解き放たれるという事だった。
 一瞬。希望を感じたのは一瞬だけ。
 ヘラクレスの命令に、ヘーシオネーは絶望する。

「ラオメドンの血脈を、ヘーシオネーの指が示す者以外根絶やし(・・・・)にする。引いてはヘーシオネー、お前はこの内より、ただ一人血を残す者を選べ」

 それは。ラオメドンの多くの子の中から一人だけ選び、それ以外を見捨てろという事。ヘーシオネーは絶句し、次いで反駁しようとする。だがヘラクレスの壮絶なまでの威圧感に言葉を失った。
 猿轡を噛まされているラオメドンが何かを喚いた。必死に、自分を選べと言っているように見える。しかし、ヘラクレスは言う。ラオメドンだけは赦してはおかん、と。
 沈黙したのは絶望からだろう。ヘーシオネーの兄弟達が必死に助命を乞う。自分を助けてくれ、頼む、死にたくない――ヘーシオネーは耳を塞ぎ、蹲った。兄弟達から一人だけしか救えない、その選択は彼女にとって重すぎたのだ。

 メディアが恐怖に引き攣った目でヘラクレスを見る。敵の王族を処断する事を恐れたのではない。その報復のやり方に恐怖しているのだ。やはりこのヒトは怖い、メディアはそう思っている。
 だが、そんな事はどうだっていいのだ。この場にメディアの介入する余地はない。黙っているしかなかった。

 やがて、ヘーシオネーは、自らにとって最愛の弟ポダルケースを指差した。
 彼が最もヘーシオネーにとって命が重く、また子を多く持っていた。ヘクトールら甥と姪の命を足して、ポダルケースを助けるのが賢明だと判断したのだ。ヘーシオネーの兄弟達が悲鳴を上げる。ヘーシオネーを罵倒する。
 顔を蝋のように白くして、ヘーシオネーは俯いた。これ以上は見ていられない、ヘクトールは進み出て、ヘラクレスに訴えた。

「待て、ヘラクレス!」
「……?」

 燃え盛る気合い。腹の底から大英雄の威圧を跳ね返し、睨みつける若者。
 ヘラクレスは喜ばしいものを見つけたように表情を緩めた。

「活きの良いのがいるな。名は」
「トロイア王子ポダルケースの子、ヘクトールだ! 俺達王族の処断はアンタの裁量に任せるが、トロイアの民達はどうするつもりだ? 場合によっては、俺はアンタが相手であっても挑ませて貰う!」

 その宣言に、ヘラクレスは僅かに真紅の双眸を見開いた。何かを探すような素振りを頻りに見せていた黄金の少女の瞳が、ヘクトールを捉える。
 大王が嬉しげに唇の端を上げたのを尻目に、ヘラクレスは機嫌良さげにヘクトールへ言った。

「良い啖呵だ。王家に連なる者など、多くが愚物ばかりだが……お前はそうではないようだな」
「……」
「ヘクトール、安堵せよ。私はトロイアの民にまで危害を加える気はない」
「本当だな」
「無論。私の成してきたあらゆるものに誓う」

 そうまで言われたら信じる他なかった。ヘクトールは頭を下げでしゃばった非礼を侘びる。ヘラクレスは気にした素振りもなく赦しを与えた。
 彼はポダルケースの子。ヘーシオネーが選んだ者の血統だ。元より手を出す気はなかった。彼の父に目を遣り、ヘラクレスは命じる。

「ポダルケース。お前の命はヘーシオネーに買われたに等しい。故にこれからは"買う"を意味するプリアモスと名乗れ」

 分かりました、と強張った顔でポダルケースは了解した。以降、ポダルケースはプリアモスと名を改める事になる。
 ヘラクレスは重厚な戦斧を握り、他の王族らに命じる。

「外へ出よ。これよりお前達を処刑する」

 悲鳴を上げて逃げ出そうとする彼らに、ヘラクレスは叱声を発した。
 従えッ! その命令は雷鳴の如くトロイア王の血脈を打ち据え、恐怖の余り震えさせてその足を止めさせた。歩く事すら儘ならぬまでに腰砕けとなった王家の者らに、ヘラクレスは呆れてしまって殺意を鈍らせる。
 その間隙を意図して縫った訳ではあるまい。しかし形として、大王の娘エフティリアは時間の空白を埋めるようにして、とてとてと父と母の許を離れた。

「エフティリア?」

 母の制止も聞かずヘクトールの許にまでやってくるなり、エフティリアは彼の衣装の端を、その小さな手で掴んだ。
 困惑して少女を見下ろすヘクトール。なんだこの娘は、と思わず目を合わせて見詰め合う形となった。

 黄金の、無垢に過ぎる瞳。

 邪気の一片もない、透明な意思。

 そこから、得体の知れない好意を感じて、ヘクトールは更に困惑した。

「エフティリア。どうした?」

 万が一にも人質に取られては堪らぬと、メレアグロスが動いていた。
 それと察知する間もなく傍に現れたのに、ヘクトールは極大の戦慄を覚える。いつの間に、と。武勇のほどに自負を持つヘクトールをしてメレアグロスの接近に気づけなかったのだ。下手に動けば殺される――その確信に、背筋に冷たい汗が伝う。

「……パパ。エフティリア、この人、好き」
「!?」

 メレアグロスが驚愕した。ヘクトールは己の耳と正気を疑った。
 予想だにしなかった告白である。
 俄に空気が変わったのを感じざるを得ない。メレアグロスは咄嗟にエフティリアに問いかけた。

「それは、どういう意味の『好き』だ? オレやアタランテに向ける『好き』ではあるまい?」
「うん。わたし、この人の子供、生む」
「?!」

 直截的な、他にどんなふうにも解釈の出来ない真っ直ぐな言葉である。
 メレアグロスはまずエフティリアが魔術や呪詛に掛かっている可能性を検討し、しかしそんな気配もないと察知。今度こそ娘の言葉が本心だと理解して思わず天を仰いだ。
 そして、ヘクトールを見て、問いかけてきた。

「貴様、幼女趣味か?」
「まさか!」

 断固として否定するヘクトールである。
 ヘクトールは今、二十一歳。八歳そこそこの小娘をそういう対象として見る事はできない。

「妻帯しているか?」
「それは……まだ、としか」

 いい歳して嫁を貰っていないのは、剣や槍、戦車の扱いの訓練の他に、貿易先の商人との交渉や他の都市国家との外交、ヒッタイトとの折衝などやる事が山積みだったためだ。
 そろそろ結婚しないと不味いかなとは思っていた。しかしその相手として歳が一桁の少女をなんて考えたこともない!

 ヘクトールの答えに、メレアグロスは舌打ちした。嘘でもいいから妻帯者だと答えればよかったものを。
 鈍い奴だ、殺すかとドス黒い殺意を向けられ、下手を打った事を察して肌を粟立たせるヘクトール。エフティリアは、メレアグロスに指を向けて言った。まるで、叱るように。

「パパ、めっ。ヘクトール、怖がってる」
「! ……すまん」
「いえ……謝られても困りますよ。なんとかして下さい、アンタ最優王なんでしょう? ほんとなんとかしてくださいよ」
「無理だ」
「はあ?!」
「エフティリアは頑固だ。一度言い出したら聞かん。せめて断る口実があれば言い聞かせられたんだが……」

 はあ、と露骨に嘆息してメレアグロスはヘクトールを睨む。
 睨まれてもヘクトールにはどうしようもない。途方に暮れるしかなかった。

 苛立たしげに髪を掻き、メレアグロスは思案した。

 ――元々このトロイアは攻め落とし、ヒッタイトと戦う為の橋頭堡にしようと思っていた。
 当然、攻め落とした後に王家は皆、こちらに取り込むか追放するか、はたまた処刑するかせねばならない。ここはヘラクレスに任せ、後から都合のいいように牛耳ってしまおうと算段していた。

 しかし、エフティリアがヘクトールを一目で好いてしまった。

 この瞬間、メレアグロスの中からトロイア王家の処刑は無くなった。エフティリアに嫌われたくないというのは勿論ある。しかし、それ以上に下手に怨みを残して禍根を作りたくはなかったのだ。
 仕方がない。メレアグロスはヘラクレスに言うしかなかった。

「ヘラクレス。すまん。処断するラオメドンとその一族の命、オレに譲ってくれ」
「……断る、と言いたいが……」

 ヘラクレスも苦々しい表情だ。
 他ならぬ義兄の頼みだ。それだけで無下には出来ない。その上、ヘラクレスはメレアグロスに対して借りがあった。
 自分に代わり、女神をある意味で『殺してくれた』借りである。
 本人は借りとも思っていないだろうが……ヘラクレスにとってはそうである以上、断れるはずもない。

「……仕方ない。メレアグロス、こんなもので良ければ、好きにするがいい」
「感謝する。いつか埋め合わせをしよう」
「要らん。こんな連中の命で埋め合わされても大したものにはなるまい」

 すっかり機嫌を悪くしたヘラクレスに、メレアグロスは苦笑して。
 トロイア王家を、殲滅・追放の方向から、取り込む方へ舵を切ったメレアグロスは、娘の要望を併せてヘクトールとプリアモスらに向けて言った。

「という訳だ。ラオメドンとその子らはオレが預かる。アイトリアに連れ帰って適当に生かす故、罪悪感に苦しむ事はない」
「……!」

 ヘーシオネーはぺたん、とその場に座り込んで、安堵の余りはらはらと涙を流した。それを慰め喜ぶプリアモス。

「ただし。トロイア王プリアモス。そして王子ヘクトール。貴様らはオレの下に着き、アイトリアの旗を仰いでヒッタイトと戦って貰う。拒否は認めん」
「なっ、」

 安堵は急転し、絶句するヘクトールらに、メレアグロスは尚も言った。

「オレは決して貴様らを捨て駒にはしないと誓おう。その証が、オレの娘であるエフティリアだ。エフティリアをヘクトールに嫁がせる。そうなれば我らは縁戚だ。義理の息子を故意に死なせる事もない、安心できるようになる」
「待て、待ってくれ! 俺が……アンタの義息子? こんな小さい娘を嫁にする!? 勘弁してくれ!」
「貴様! エフティリアに不満があるのか!?」

 黄金の瞳を血走らせ、怒号を発したメレアグロスに、ヘクトールは一瞬にして沈黙させられた。
 断れば折角助かる一族が危ないというのが一番だが、何よりメレアグロスが、子供を溺愛するいわゆる『親馬鹿』であると察したのである。抗弁は命取りだった。

「オレとて貴様に娘をやるのは業腹だ……! しかし、娘が好いた相手を邪険にも出来ん! 口惜しいが娘をやる、幸せにしろ畜生め……!」
「……」

 この王様、論点がズレている。そして見事にこちらの意見は無視だった。
 意外と面白い人だなぁ、なんて遠い目をして思わず笑ってしまったヘクトール。諦めも時には必要なんだな、と理解させられた瞬間である。







 ――メレアグロスの死後。アイトリアの看板を失くした諸国が分裂し、覇権を争おうとする者らを罰し。追い込まれていたヒッタイトが逆襲を仕掛けてきたのを、逆に叩きのめして滅亡を決定付けた英雄夫婦は、こうして縁を結んだ。
 ヒッタイトの側に着き、打倒メレアグロスを掲げていた駿足のアキレウスとの死闘は、遥か未来でも語り草となるほどの激戦であり。ヘクトールは、エフティリアと力を合わせてこれを破ったのだという。

 強引に繋ぎ合わされた縁を、どう思っていたか。没する前のヘクトールは側仕えに問われ、曖昧に笑って答えた。

『最初の五年は諦観。次の五年間は生殺し。その後は極楽だったよ。なんのかんの言って、相性だけは良かったみたいでねぇ』

 ただ、とヘクトールは最後に一言付け足した。

義父(おやじ)殿は、一発殴ってやりたいねぇ』

 なんせ幼女趣味なんて風評を広めやがった野郎である。
 満面に笑みを浮かべて老境のヘクトールは言った。エリュシオンで会えたなら絶対殴る、と。













現在エフティリア八歳。
最初の五年で十三。
次の五年で十八。


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そして幻は露と消え





 ――それが"伝説"の前日譚。

 伝承ではアイトリア大王の深淵な謀とされるトロイア攻め。騎士ペイリトオスを交えたエジプト観光と、ファラオ・ラムセス二世の庭を騒がした謎の狩人マルスとルミナ、ルーファウスとアルケイデスによる神獣乱獲。最優王の末妹を、婚前交渉によって孕ませていた事が判明してからの第三次義兄弟喧嘩による空中大宮殿崩壊事件。
 十二の功業を打ち立てし不朽の英雄と、七の難行を成し遂げる最優の騎士王。神話に冠たる栄光の徒ら。笑い合い、語り合い、殴り合い、彼らの友情は永遠なのだと確かめ合った安息の歳月。

 だが、此の世に永遠のものなどない。

 ギガントマキアに敗れ宇宙の彼方にまで追いやられた巨人族は言った。『己が一敗地に塗れたのは英雄ヘラクレスがいたからだ。ヘラクレスの助勢のない神々など恐れるに足らぬ。ヘラクレスの死後、我らは再び戻ってくるだろう』
 冥府神ハデスは、戦神との繋がりが深い故に一切の怨恨とは無関係に警告した。『天魔の神核は今、英雄メレアグロスの心臓として機能している。後数年もすれば彼の英雄は天魔の再来となり、今度こそ世界を滅ぼすだろう』
 神々は世界の秩序のため、巨人族への備えとしてヘラクレスを神々の席に列するようにと大神ゼウスに訴えた。そしてメレアグロスが天魔となる前に天界に迎え、戦神とすれば天魔にはならないと求めた。
 ゼウスは迷った。
 神々の言は一理ある、しかし問題があった。ヘラクレスを神とするのはいい。元よりそうするつもりではあった。しかし今のヘラクレスは神々の内にすら並ぶ者なき無双の豪傑。全盛期にある今の彼を倒せる者は皆無だ。では老いて衰えるまで待つか? しかし、衰えたヘラクレスでは巨人も恐れぬだろう。全盛期のヘラクレスを是非とも神としたい。
 翻るにメレアグロスにも隙が無かった。無敵の鎧と雷霆の神槍、不死の運命の守りとヘラクレスに並ぶ武勇、賢者ケイローンに比類する知恵の持ち主でもある上に、多くの神々は彼にとても好意的だ。天魔に反転する危険性を説いても、メレアグロスの打倒に賛同する者がいるとも思えない。そもそもメレアグロスを倒せたとしても、彼に託した人類人口の調整が台無しとなる。

 どうすれば良いのか。ゼウスは相談役の伝令神ヘルメスに問うた。ヘルメスは言う。

 "二つの難事を同時に解決しようとするのは余りに浅慮。ここは狙いをどちらかに絞るか、どちらに転んでも構わぬように図るべきでしょう"

 なるほど、確かにその通り。しかしメレアグロスを神としてしまえば、彼に託した使命はどうなるのか。ヘルメスは悪知恵を出した。

 "メレアグロスが使命を果たせぬようになったなら、彼の纏めた国を分断してしまえばよろしい。さすればこれまでの統一の反動により、覇権を求めて人は相争い自然と目的は達せられるでしょう"

 この言葉に迷いを無くしたゼウスは一計を案じた。無双の英雄と最優の半神、共に打倒が困難ならば、いっそのこと彼らを相討たせ、共に神々に迎え入れるのはどうか、と。
 そこでゼウスはハデスやモイライに命じた。自分がヘラクレスに命じる。そなたらはメレアグロスに命じよ、と。

 ヘラクレスが嘗て生んだ"西世界の最果て"より最果てに輝ける槍を取り出し、ゼウスがヘラクレスに与えた。そしてその場で彼に命じる。
 "メレアグロスは間もなく天魔へ堕ちる。彼を真に想うなら、人のまま倒し彼を神とせよ"

 ハデスとモイライはメレアグロスへ命じた。
 "強大な巨人への備えとしてヘラクレスの力は必要不可欠。彼の大英雄を倒し神とせよ。さもなくば巨人は再来し、お前達人間にとっても不幸な事になるだろう"
 それぞれがメレアグロスに因縁のある神である。ハデスはアスクレピオスの一件以来、モイライは運命の歪みを巡る決闘以来、蟠りがあったのだ。
 故に彼らの言を、メレアグロスは脅迫と受け取らざるを得なかった。己の身より、家族を第一とすら彼にとって、それは致命的に有効な言葉だった。

 メレアグロスは。ヘラクレスは。不思議と凪いだ心境で粛々と武装を整えた。

 星の聖剣と戦神の剣を腰に帯び、金色の宝玉により顕現した黄金の鎧を纏った。貴き地獄槍ゲエンナを右手に。戦神の遺した戦車を四頭の神馬に牽かせて搭乗。戦車はメレアグロスの意思一つで躍動し、何処かへと駆け出した。

 全身を赤い染料で染め上げ、白い染料で胸に紋様を描く。軍旗の如くに仕立てた神獣の裘を被り、黄金の果実を袋に包んで腰帯に吊るす。数多の幻想種を屠った大剣マルミドワーズを腰帯に差し、愛用の大弓を背負う。そして長く使い込んだ棍棒を、世界の最果ての柱を槍へと変じさせ、神馬アレイオーンに飛び乗って何処かへ駆け出した。

 誰かへ導かれたわけではない。何かを打ち合わせたわけでもない。しかし、彼らは何も言わず、何も残さず、ただ独りとなって彼方へと向かった。

 其処は、何処か。

 語る者は居ない。あらゆる生命の無い、世界の果てであると神話は言う。
 黄金の額帯に飾り立てられた勲の神馬。新たな主人を戴き、猛々しく嘶く不死の神馬らは戦意に猛る。
 天と地の境なく、空と面を隔てず疾走する戦車は青銅ではなく黄金。城壁の破壊者の異名、その由来となった突貫走法は狂気の渦を逆巻かせ、最大戦速にて彼方に捕捉した目標へ突撃する。

 ――駆け巡れ、在りし日の父の如く(ギリシアス・トラゴーイディア)

 形あるものを瓦礫の山とする破壊の騒音。崩れ落ちる破壊の旋律は知性ある者の心を乱し、轟音と共に思考力を奪い去る。
 戦車を意思だけで操り、地獄槍ゲエンナを持つ姿は正に戦神のそれ。人語を絶する偉容は目にしただけで人の魂を砕き、後に肉体をも砕くだろう。

 しかし、地平線の彼方より飛来した神馬アレイオーンは怯みもせず、主人に操られるまま戦車を高々と飛び越えた。ソラを駆ける戦車と神馬は絡み付くように天に昇り、空中軌道を競い合い、互いの槍が幾千も激突する。
 その余波で地表は抉れた。大気は風穴を空け真空となり、無数の竜巻を生みながら世界の果ての槍を縦横無尽に振り回す。

 幾度目かの交錯。神馬アレイオーンは四頭の戦馬に圧され、弾き飛ばされた。鬣を引っ掴んだヘラクレスは無理矢理馬首を下ろし、体勢を変えて首を薙ぐ神槍を回避。落下しつつ最果ての槍を擲ち戦車の車輪を破損させた。
 瞬時に大弓を取り出し矢を射掛ける。射殺す百頭――百矢は一頭の神馬を狙い撃ちし爆散させる。
 破損した戦車に即座に見切りをつけていたメレアグロスは、最も逞しく従順な馬に跨がり、戦車から綱を切り離して飛翔。地に落ち行く戦車と残りの神馬に一瞥すらくれず、百矢を放った直後のヘラクレスの首を、その神槍の一撃で圧し折った。
 決着ではない。敢えてまともに受けたヘラクレスは『十二の試練(ゴッドハンド)』により蘇生しながら腕を伸ばし、メレアグロスの神馬の首を掴んでいた。もがき苦しむ神馬から意地でも手を離さず、もろともに地に落ちる。

「此度は独りか、メレアグロス」

 何事もなく己の足で着地し、同様に降り立った義兄へ、世間話でもするようにしてヘラクレスは言った。
 神馬が不時着し、その衝撃で失神したのを背後に感じながら、メレアグロスもまた穏やかに応じた。

「ああ。何故か、今だけは平気な気がしてな。アタランテには散歩に行くとだけ言ってきた」
「ふ、散歩か。私もディアネイラにそう言って来れば良かったよ」
「ほう? 諧謔を解するようになったか。親に戻り男を上げたな、アルケイデス(・・・・・・)

「……そうかな? お前から見てもそう取れるのなら、多少は私も進歩しているらしい。悪くない気分だ」

 一瞬。己の本当の名を呼ばれ、ヘラクレスは言葉に詰まった。
 メレアグロスは微かに微笑む。
 この場にあって、しがらみを気にするのも馬鹿らしい。そして、遠い日の思い出を懐かしむように、ただ一人の男は言った。

「はじめて貴様と眼を合わせた時から、いつかはこうなると予感していた」
「奇遇だな。私も……いや、俺もそうだ」

 ヘラクレスがそう返すと、可笑しくなって二人は笑う。

「神々に与えられた力が卑怯な物で、他の人間の努力と研鑽の価値を塵にしていると感じていた時期だ。貴様に敗れた時オレは救われたよ。――オレよりも強い者がいる。オレも研鑽を積んでもいいんだと思えた。オレも生きていいんだと感じられた」
「……ふざけた事を」

 義兄の吐露した本心に、義弟は吐き捨てるような語調で誤魔化しながら言った。

「俺もそうだ。お前と出会う以前、俺は俺よりも強い者など有り得ず、師であるケイローンをも直ぐに超えてしまう確信に苛立っていた。そんな俺にとって、俺に並びえるお前は、何よりも得難い壁であり、負けたくないと思える好敵手だった。お前が俺を強くしてくれたのだ、メレアグロス。お前が――俺をつまらぬ男から、成長させてくれたんだ」

 ヘラクレスは、無限の友情を込めて、感謝と歓喜の心を伝えた。
 面食らい、照れてしまい、咄嗟にメレアグロスは何も言えず。面映ゆい心地で彼に親愛と共に告げた。

「――結局、貴様とはどうあってもこうなると解っていた」
「だがそうなる運命でも、俺はお前と友になる事を厭わなかった」

「オレは傲慢な男だ。殺すのはいい、しかし殺されるのは駄目だと拒んでいる」
「俺は他者を見下している。心の何処かで対等ではないと冷めている。俺は愚か者だ。己の命が最も価値があると未だに感じている部分がある」

 だが、と。

 メレアグロスとヘラクレスは、永遠の存在しない世界で、永久に語り継がれる友誼を、口を揃えて同時に伝え合った。



「――たった一つしかない命を。貴様(おまえ)とならやり取りしてもいい。そう、心から思っている」



 だから。



「これが最後だ。決着をつけよう、友よ」



















※戦車はモルゲンスタインさんの案より頂戴致しました。
 事後報告となりましたが、早速使わせていただきました。名案ありがとうございました!


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報恩の結末

メレアグロス
CV:諏●部順一

ヘラクレス
CV:中●譲治(※イメージ)

















王の権能(エクスシア)――!」

 開戦の号砲を打ち鳴らしたのは不世出の黄金王。天高く跳躍するや、弓なりに振りかぶった神槍に魔力を送り、二つに割れた穂先に天体に比する(いかずち)を孕ませる。
 帯電した地獄槍の震動、その余波だけで激震する最果ての地。万物が等しく含有する概念をも、微塵の如くに砕き散らす破滅の轟音が轟いた。
 其は神鳴りの雷鳴だ。慢心なく、初手から出し惜しみ無しの全力である証。
 無双の勲を打ち立てし最強の英雄を、雷火の槍先が睨む。掛け値無しに至高と謳うに足る人間の忍耐、その窮極を穿たんと渾身の力で神槍を擲った。喩えこの一撃で全てが終わったとしても構わない――気迫の総量は万象を満たすに足りた。

貴き槍よ、楽土へ導け(エリュシオン・マクロテュミア)!」

 本来であれば、拡散照射される金雷を放たず神槍に帯電させて過剰な負荷を与え、注ぎ込んだ魔力が漏出するのも構わず、得手とする槍の投擲に全エネルギーを転用。
 光速で飛来するのは導きの雷光。天魔を葬った金雷の大海嘯に熱量は存在せず、金色の波動は触れたモノ悉くを消滅せしめる。さしもの大英雄とて応手なくして即死は免れぬだろう。
 故に応える稀代の益荒男。武芸の極みに立つ人間の極致。血は通わずとも心を通わせた朋友の第一手、読めぬほど蒙昧ではない。
 全力だろう。全開だろう。至高の一撃こそが我らの決戦を彩ると信じ、無二の華を繚乱させるべく仕掛けてくるだろうと確信していた。
 真紅に染め上げた五体が唸った。総身の筋肉が膨張し、手にする不滅の槍の先で唯一の好敵手を照準する。巨搭の端で抉るように地面を蹴り抜き、巌の如き巨漢もまた世界を繋ぎ止める聖槍を抜錨した。
 厳かに唱える。次は無い、この界槍を使い捨てる為に息吹を吹き込む。

「大地を支える者。西の果てに埋もれる者。旧き神々の末裔アトラスよ、天地を投げ出し逃れるがいい。その五体、別つ時が来たのだ。さあ――『最果てを担いし巨神の柱(アトラース・ディアプトラ)』よ、神の力に抗えい!」

 擲たれた界槍は、世界その物の重さである。途方もない質量移動の余波で地表が抉れて冥府が地上に露出する。死の国に囚われていた魂が我先にと地上を目指そうとして――眩い金雷の光を眼球に入力されて脳を破裂させ、そのまま冥府へ弾き飛ばされていった。
 激突する二柱の最果ての錨。
 神槍の威力の大部分を削減した代償に、不滅のはずの界槍は木端微塵に崩壊し、咄嗟に冥府を閉じた冥界の神と、外界へ衝撃が徹らぬよう必死に結界を維持していた神々が苦悶した。権能を全開にしての守護領域にすら亀裂を入れ、ヘラクレスは迫り来る神槍を聖大剣マルミアドワーズを引き抜き迎撃する。
 黄金色に包み込まれた栄光の聖大剣。最も信頼する武具を神槍に叩きつけ――瞬間、ヘラクレスの十の命が吹き飛ばされる。界槍により威力を落とし、聖大剣で防ぎ、万全の防御体勢を取ってなお、神槍はヘラクレスを十回殺したのだ。
 しかしこれは、あくまで目算通りの結末。あの厄介極まる地獄槍の威力はそれほどのもの。こうまでして漸く凌げる規格外の業。ヘラクレスは即座に受け止めた神槍を奪取し、復活していた神馬アレイオーンに銜えさせ走り去らせた。
 そして腰帯に吊るしていた袋から黄金の果実を取り出す。それは、食した者を不死にするもの。十二の試練、その最後に獲得したものを、ミュケナイ王が最優王に討たれた際に取り戻していたのだ。
 神の果実を躊躇いなく握り潰すや、内包されていた莫大な魔力がヘラクレスの体に浸透し、瞬く間に十一の命のストックを回復する。
 ヘラクレスは聖大剣を鞘に納め、背に負っていた大弓を取り出すなり手槍の如くに堅牢な大矢を装填。間髪入れずに宿敵へ射掛ける。

 眉間に突き立たんとする矢弾を、右手で抜き放った聖剣で切り払い、メレアグロスは獰猛に牙を剥いた。流石だと讃えるのは地獄槍ゲエンナを凌ぎきった故。
 稲妻と黄金の鎧を纏う騎士王は、星の燐光を煌めかせる。
 竜の首を象った九発の光線を、ヘラクレスが大弓から放つのと。メレアグロスの左手から無数の雷球が形成され、一瞬にして『霆の権』が連発されたのは全くの同時であった。
 雷球を速射砲の如く連射するも、ただ一つも逃さず撃ち落とされ、両者を結ぶ線上に金色の爆光の華を無数に咲かせた。
 咲き誇る大輪の魔力の花火。土を溶かし、大気を焦がし、世界を滅ぼし尽くす震源の只中で、夥しい火線が炸裂する。連射される雷球は最早隙間なく帯の流れる様相を呈し、互いの間合いを競り合った。

 詰め寄らんとする黄金の狼。

 近寄らせまいとするヘラの栄光。

 矢は無限ではない。魔力も無限ではない。互角に渡り合っているようで、その実、圧しているのはヘラクレスである。
 ヘラクレスの矢に対抗するために大火力の魔力弾を連射するメレアグロスは、自身の魔力が急速に削がれていくのを実感していた。矢を放つだけのヘラクレスの方が、やや燃費がいい。長期的に見て劣勢に追いやられつつある。
 少しの被弾を覚悟してメレアグロスは強引に攻勢に移る事を決意。腹を括るや進撃を開始。ヘラクレスは瞬時に飛び退きつつ大矢を装填し奥義を放った。

 ――真・射殺す百頭(ナインライブズ)

 ヒュドラを屠った大弓、その真名解放。百の首を殲滅した宝具を模して開眼したのが百芸の奥義。更なる研鑽が真紅の半神を極限の先、断崖の彼方へ飛翔させた。
 視界を埋め尽くす矢の雨。誰が信じられようか。世界を黒く染める一万の(・・・)矢弾は、たった一人の弓兵が一息に放ったものである。その一矢すらもが竜種の王を屠殺せしめる絶殺の弾丸。水爆にすら比する究極の霰。
 万の矢は黄金の狼を呑み込む。黒い絨毯が圧し掛かるが如き光景は死の神の抱擁にも似て。――しかし矢の絨毯は、星の極光により切り裂かれた。

 少なからず被弾したにも関わらず、弾幕を突破した黄金の狼は全くの無傷。金色の鎧の下に着込んだ群青のヒマティオンを翻し、稲妻となりて疾走するメレアグロスにヘラクレスは哄笑する。
 大弓を投げつけ、聖大剣を再度抜剣。戦神の剣と星の聖剣を引っ提げ突貫したメレアグロスが大弓を漆黒の戦剣で払って咆哮し、受けて立つヘラクレスの豪腕が唸った。

 ―――戦神に捧げる勝利の剣(カレトブルフ)

 ―――真・射殺す百頭(ナインライブズ・マルミアドワーズ)

 黄金の大王を自らの守護者と認識するガイアのバックアップは健在。最大火力を発揮する星の極光は刃となって栄光の大戦士を葬らんとする。
 だが。
 たかが惑星一つの究極がなんだという。此の身は宇宙最大の豪腕と知れ……! ヘラクレスの放った聖大剣の一閃は、九つの斬撃を一つに重ねた空間断絶の斬線。斬撃は斬る対象の選択すら成さしめる。ヘラクレスは斬った、聖剣を通じて現出する星の意思を。
 ガイアが絶叫した。星が震えた。斬られた事実に狂乱し、痛みにのたうち回り血を噴き出した。世界中の火山が噴火する。怒り狂って泣き叫んで守護者に縋る。あの恐ろしい化け物を倒してくれ、と。

 眼中にない。

 力の源を見切られた剣など鉄屑にも劣るとばかりに聖剣は捨てられた。
 火星の宝剣――漆黒の戦剣。神側の父が己の意思で遺した唯一の宝。此の場で恃めるのは最も慣れ親しんだ剣である。
 黄金の狼は、天魔を宿すが故に倒される側の英雄である。しかしそんな因果がなんだというのか。我こそはメレアグロス、因果律の破断すら成さしめる人界の覇者! そんな道理、威光一閃で跳ね除ける!

 幾千も、幾万も斬り結ぶ。剣戟の結界は縦横無尽に鳴響する。真紅の半神、黄金の半神、共に技の限りを尽くしていた。
 剣の鋭さ、受ける度に骨の髄まで浸透する感覚に喜悦する。世界の終わりのその先で、世界が七度滅んで八度創世される時の果てで渡り合う。

 だが、しかし。

 それでも、

 なおも、

 両者、完全に無傷。



 ――音も、物も、何もない白い世界。己と己しか在らぬ無謬の線上。



 聖大剣が弾き飛ばされる。
 宝剣が叩き落とされる。
 凄烈に笑う声は無音。紅い徹甲弾が握り拳となって顔面を穿った。
 凄絶に笑う声も無音。金色の魔弾が握り拳となって腹部を抉った。
 やがてもどかしげに裘を捨て、黒髪を振り乱して魔人が迫る。
 応じて鎧を捨てて黄金の獣が戦意を爆発させる。

 拳が、腕が、足が、膝が、肘が、額が、無心で宿敵を打ち倒さんと無限に交わされる。
 骨が砕ける。肉が裂ける。感覚が死ぬ。脳の揺れる先に何かが見えた。
 立っている。朋友はまだ二本の脚で立っている。なら、倒れられない。一人になんてしてやらない。負けてなんてやれない、圧倒的に勝ちたい。

 殴。
 打。
 打。
 殴。
 蹴。
 蹴。
 打。
 殴。

 言語を絶する血戦が其処にあった。

 血の泡を吹きながら盛大に爆笑する。呵責なき猛攻は友情の重さ。打つのだ。撃つのだ。討つのである。体の肉という肉がこ削げ落ち、骨が割れ、死という死を味わい尽くす。
 だが死なぬ。その程度で死ねるものか。こんな程度で死んで堪るか……!

 臨界を超えた闘志は二つの魂を交わらせる。一撃は最早言葉と同義。何時しか彼らは拳を言葉に代える。

 ――本当に、色々な事があったな。

 人生の旅路。
 岐路に立たされたのは、何時だったろう。

 ――ああ。本当に。何から語れば良いか解らぬほどに。

 穏やかな心境だった。
 和やかな目であった。

 ――貴様が狂う度に、何度となく打ちのめしてやったものだ。……あの時はすまなかったな。もっと優しくしてやればよかった。

 懐かしむ、光輝いていた思い出の日々。

 ――あれは痛かったよ。何度心の中で殴り返した事か。

 色褪せていた命が華やいだのは、きっと互いの道が交わってから。

 ――本当に。本当に、色々あった。とても一日では語り尽くせぬほどに。

 万感の想いがあった。
 言葉では表現できない、表現してはならない貴いものが溢れていた。
 回想に走る意識に、巌のように重い思念が、断固として告げる。

 ――そうだな。そして……今さら、一々語り合わねばならん仲でもなかろう。

 呆気に取られ、男は一拍の後、納得して頷いた。

 ――フ。……その通りだ。

 この期に及び、よもや貴様に諭されるとはなぁ。

 白い世界が解れる。黄金の獣は、地に在りて天を仰ぎ、苦笑した。

「……」
「……」

 己を見下ろすのは、勝者たる真紅の半神。
 最強は、最強だった。
 当たり前の事が、酷く誇らしい。胸一杯の達成感に、メレアグロスは眼を閉じた。
 ヘラクレスは、ゆっくりと、地に突き立っていた愛剣マルミアドワーズの柄を握り、引き抜いた。
 そして、倒れるメレアグロスの下に向かう。

 厳かに、ヘラクレスは告げた。

「私の――俺の、勝ちだ。メレアグロス」
「……ああ。そして、オレの敗北だ」

 不意に、メレアグロスの心臓が、強烈に脈打った。
 胸の中心から、天魔の息吹が。混沌の虚無の気配が、全身に回り始める。
 メレアグロスが瀕死となった事で、侵食する速度が急激に跳ね上がったのだろう。

 ヘラクレスは剣を掲げ、その刀身に自身の顔を映した。

「メレアグロス。俺は、誰だ?」

 問いに、義兄は笑った。何を馬鹿なことを、と。

「痴れた事。貴様はアルケイデス(・・・・・・)だ。オレの、最も親しい友よ」
「……」

 そうか、と。ヘラクレス――否、アルケイデスは誇らしげに呟いた。俺はアルケイデスだな、と。
 剣を下ろし、アルケイデスは天を仰ぐ。そして。

「――覚えているか、俺とお前が出会った時の事を」
「アロアダイと戦いに向かう途上だったな」
「そうだ。お前は俺に、沢山のものを与えた。

 強敵を。
 試練を。
 仲間を。
 親友を。
 家族を。

 そして、この世のあらゆる財宝をも上回る、至高の友情を」

 メレアグロスは、怪訝に思って、なんとか首を巡らせてアルケイデスを見た。
 義弟は、莞爾と微笑んでいた。
 屈強な英雄に相応しからぬ、童子のような笑顔で。

「……アルケイデス?」
「与えられてばかりの人生だ。俺は、お前に何も返せていない。だからこれは、ほんの少しばかりの報恩と知れ」
「……おい。まさか、貴様……」

 アルケイデスは己の首に、剣を添えた。
 黄金の瞳を限界まで見開いて、メレアグロスは絶叫した。



「やめろぉぉおお!!」



 す、と縦に引かれた刃が、鮮血を散らす。
 アルケイデスは言った。穏やかに凪いだ瞳で。

「お前だけだ、メレアグロス。お前だけが、俺をアルケイデスと呼んでくれた。
 この世に、オレの本当の名を知る者がいなくなるのは、淋しい。だから兄弟。勝利の代償に、己に打ち克て」

 そんな天魔(もの)に負けるお前は見たくない、と。
 どうせまた会えるのだから、悲しむことはないだろう、と。
 死して神となる英雄は、親愛なる義兄に全てを託した。

 天魔の汚染が一掃される。
 悲鳴を上げてメレアグロスはアルケイデスの亡骸に縋りついた。
 嗚咽を溢して生かされた男は義弟の分厚い胸板を何度も叩いた。何度も、何度も、熱い滴を何滴も落として。

「愚か者め……この、戯けめッ……! 貴様なんぞに生かされた我が身の惨めさをどうしてくれる!? 弟に負け、弟に生かされる兄のなんて無様さだ! 糞、糞、畜生!」

 肉体が崩壊していく。灰となるアルケイデスの亡骸。
 無我夢中になって灰をかき集め、慟哭する男が――英雄ではなく、獣ではなく、ただ一人の男として、友を亡くした悲痛さに咽び泣いた。




 ――青銅板に、盛んにヘラクレスを讃える文言を付け足した男の心境を、伺い知る者はいない。



 期せずして天魔の侵食を留めた大王は、以降、ヒッタイトとの戦争に注力していく事となる。
 七年後。最愛の妃アタランテ、彼女が病を得て、緩やかに衰え始めた時。メレアグロスは、己の死に場所を定めた。


















何話かは忘れましたが、『青銅板にヘラクレスを讃える文言を盛り込まれている』的なニュアンスの記述があったはず。それはこの場面を経た故に、自分は負けた、勝ったのはヘラクレスだと知らしめるためだったり。

次回、序章最終話。


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薪の英雄、捧げる人間性




 其して伝説は幕を下ろす。

 神話に名高き七の難行を終えたメレアグロス大王は、アイトリア文明の構築に一層の熱を入れ、当時の食文化から建築学の心得、服飾から神々に相当する存在を示唆する記述を多数残した。
 人類がまだ、歴史を紡ぐ事への意欲と認識が薄かった時代である。にも関わらずメレアグロス大王の残した史料のジャンルは多岐に渡り、膨大な量の記録が後世に残された。
 現存する青銅版は状態の劣悪な物を含めれば百を数え、紀元前1200年初期から後期の詳細な風土環境、歴史の変遷を明らかなものとした。
 中でもメレアグロス大王の自ら記した英雄伝説は高い評価を得た。テセウスやヘラクレスを筆頭に、彼らが如何に偉大であったか。また、ヒッタイトとの戦局の推移から始まり、戦争の内に倒れたカストル、ポリュデウケス、ペイリトオスの列伝はある種の戦記として、学術的な見地からも極めて重要な資料として今も保存されている。

 エジプトのラムセス二世は、追い詰められたヒッタイトの要請に応じアイトリアとの戦線に介入。アイトリア軍を一度ならず二度、三度と苦境に追い詰め、自ら弓を取ってはカストルを射殺したという。双子の弟ポリュデウケスは憤激しラムセス二世を撃退するも、深い悲しみからカストルの亡骸に縋りつき自害。彼らは双子座として星座になった。
 崩れかけた戦線を建て直すため、対ヒッタイト戦役で一度だけメレアグロス大王は前線へ出向き、イアソンやヘクトール、ケイローンらを率いてエジプト軍に夜襲を仕掛けた。その時の戦詳は不明ながら、エジプト軍は撤退し、以降ヒッタイト戦役に関わる事はなくなった。
 直後にラムセス二世が没していた事から、アイトリアの奇襲により深傷を負い、その傷が元で死んだのだとする説と、その場で討たれたのを隠して撤退したのだとする説が有力視されている。見つかったラムセス二世の木乃伊、その胴部分に深い傷跡が見つかった事から、少なくとも手傷を負っていたのは確実だった。

 後にメレアグロス大王も後方に控え、ヒッタイト戦役で得た鉄を持ち帰り、これを量産して鉄器の製鉄技術を研究。研究過程からこれを事細かに記録した。
 平行して戦線の指揮も行い、ヒッタイトの国力を大幅に削り取ったのに反比例してアイトリアに更なる繁栄を齎し、名声を不動のものとして、市民は彼を讃えると共に更なる栄華を想い描いたという。

 時は移ろう。

 メレアグロス大王の偉業は、ある時を境にぴたりと閉ざされた。

 愛妃アタランテが病に倒れたのだ。
 アタランテは治療を固く拒否。またメレアグロス大王も宮廷医アスクレピオスの申し出を退け、妃の意思を尊重した。以後はケイローンに自身の後事を託し、数年の時を掛けて自身が抜けても大事なく計って、ケイローンと今後の展望を示し合わせるや妃と宮廷医を連れて表舞台から姿を消した。

 彼の事業を引き継ぎ、老衰で倒れるまで宰相ケイローンは見事に使命を全うした。
 ヒッタイトは着実に国力を落としており、鉄の兵装を整えたアイトリアに対抗する力が残されていなかったのだ。ヒッタイトはメレアグロス大王が姿を消したとの報を掴み、乾坤一擲の逆襲に出るも、イアソンの下で実質戦線を指揮していたヘクトールにより擂り潰され、切り札として投入されたアキレウスもヘクトールとエフテュリアによって打ち倒された。
 幾度となくアイトリアを苦しめたアキレウスも最期を迎え、少年の身ながら騎士にも並ぶ勇者として敵将を射殺していたルーファウスも、人知れず姿を消していた。
 後に冒険王として、最古の世界図を記したバビロニアに次ぎ、ヨーロッパ大陸の緻密な地図を作成するまでルーファウスの名が上がる事はなかった。
 ルーファウスは姿を消した父と母を追ったとする説もある。その根拠として、彼は父の剣を所持し、没年には湖に剣を投げ入れたというのだ。その伝承は真実として囁かれ後のアーサー王伝説に派生していく事となる。

 以下は、史実ではない。

 神話の領域の物語として、姿を消したメレアグロス大王と、アタランテ、兄弟弟子のアスクレピオスと息子のルーファウスを交えた、最後の『建国神話』である。

























 「すまないな、アスクレピオス。巻き添えにする形になってしまった」

 憑き物が落ちたように、超然とした佇まいを喪失した金色の大王は、申し訳なさそうに眉を落として恩人である太陽の子に謝罪した。
 傍らの深緑の妃もまた深々と頭を下げる。彼女にとっては、直接命を救われた身だ。それがこうして我が儘を聞いて貰い、共に死んで貰う事になると慚愧の念に顔色を曇らせてしまう。

 少年の頃のままの童顔をむっつりと顰め、人類の終わりまでを見渡しても並ぶ者なき名医は毒吐いた。

「まったくですよ。お望みとあっては地獄の底まで付いてきますがね、貴方達はちょっと僕を馬鹿にしてるとしか思えない」
「馬鹿になどするものか。オレは貴様に感謝している。貴様がいたから、オレとアタランテはこうしていられたんだから」
「そういう事じゃありませんよ黄金卿」

 子供のように唇を尖らせ、太陽の子は軽い愚痴でも言うように深緑の妃を睨んだ。

「医者に病気を癒すな、なんて命令――今を生きる全ての命への冒涜です。貴方達はこの僕の前で命を軽んじ過ぎだ。ふざけるなって話ですよ」
「それは……返す言葉もない」
「そりゃね、僕だって人間です。貴方達の言わんとする事は分かりますよ。――貴方達は生きてちゃいけない(・・・・・・・・・)存在だから死ぬしかない(・・・・・・)。でも、だからって見過ごせるもんか。見捨てられるなら端から僕は医者になんてなってない」
「……」

 そう。メレアグロスは生きていてはいけない存在だった。
 このまま長く生きれば生きるほど戦禍は広がり、際限のない征服と発展を経て、膨大な栄華の果てに多くの人々を破滅させてしまう。
 メレアグロスは強すぎたのだ。
 個人として。集団の頭として。その存在そのものすら。
 故にメレアグロスが生きている限りアイトリアは何処までも膨れ上がり、いつかメレアグロスが死すると、風船のように膨らんでいた国は破裂して大いなる災いを齎すに相違ない。
 今の人類は、余りに幼すぎる。巨大な統一国家を戴き、維持し、守り続けられるほど成熟した生き物ではないのだ。

 今ならまだ間に合う。アイトリアはヒッタイトと戦い、ある程度疲弊していた。
 そしてゼウスの目論み通りに人口を減らし、暫し休息する時期に入ったのだ。
 この時を逃して、人類が致命的な破滅への道を歩み始めるのを正す好機はない。メレアグロスがいては人々は止まる事が出来ないだろう。故に退場する必要がある。人類という総体からメレアグロスという装置を摘出しなければならない。

 言ってしまえば、アタランテはメレアグロスと共に死ぬ事を選んだのだ。
 子供達は巣立っていった。ルーファウスも心配は要らない。なら最期は母ではなく女として――メレアグロスただ一人の伴侶として死にたいと願った。病を得たのは天啓だとすら思った。

 アスクレピオスはそれに怒っている。自ら死を選ぶ大王と、死ぬ必要のない妃の選択に。そしてその怒りは正当故にアタランテは何も言い返せないのだ。

「……アスクレピオス。すまない。そして、ありがとう。汝がいたから、私はこうしてメレアグロスの傍にいられた」
「ふん。あのね、最後の別れだからこの際言っておくけど、僕は死ぬのは怖くないんだ。どうせ死んでも黄金卿の許にいるんだし。僕が恐いのはね、アタランテの死を美化して後世に伝えるだろう馬鹿のせいで、後追い自殺がさも尊い行為として伝えられる事を恐れているんだ。君が死ぬ事で、死を選ぶ必要のない人達が多く死ぬかもしれない。生きる事を放棄するかもしれない。それが怖いんだよ」
「……すまない」

 や、僕に謝られたってねぇ、とアスクレピオスは機嫌悪そうに鼻を鳴らした。
 言った通り、アスクレピオスはこれから訪れる自身の死をまるで恐れていなかった。メレアグロスの死が、己の死に繋がっていると知りながら、死のうとするメレアグロスの判断を責める気配は微塵もない。
 メレアグロスは苦笑した。そしてちくちくと嫌味を言うアスクレピオスにアタランテが肩を縮こまらせているのを尻目に、少し距離を置いてついてきていた緑髪の少年――ルーファウスに声を掛けた。

「ルーファウス。いつまでそうしている?」

 投げ掛けられた言葉に、少年は涙ぐみながら駆け寄ってきた。
 ルーファウスは、父に言った。

「……パパ。どうしても、死んじゃうの?」
「ああ。元より人としての寿命を持たぬ身だ。死期は自分で選ばねばならん。そして、それは今だ」
「……」
「ルーファウス。傍に寄れ」

 無言で身を寄せた息子を抱き寄せて、すぐに離した。近くで顔を見下ろし、相好を崩して言う。

「貴様は、どちらかと言えばアタランテの方によく懐いていたな。それが最後はこうして、オレの方にいる。奇妙な話だ」
「……そっかな。ぼくはママの事好きだけど、パパの事も同じぐらい好きだったけど」
「嬉しい事を言ってくれる……ルーファウス。貴様には特別に、これをやろう」

 メレアグロスは息子の胸に、星の聖剣を押し付けた。目をぱちくりとさせる母似の子に、父は優しく言って聞かせた。

「餞別だ。いいかルーファウス。よく聞け。何かと迷いがちな貴様がブレぬよう、言って聞かせることがある」
「……なに?」
「妬みは魂の腐敗と心得よ。自らの器を知れ。生きるために食べろ。食べるために生きるな。そして――世界を動かしたいと志すなら、まずは自分を動かせ。行動なき者の言葉に重みはない」
「……」

 聖剣を胸に抱き、子ははらはらと涙を流した。
 別れの言葉なのだと察したのだ。父から子に向けられた最後の言葉は、子が生きる道を見失わぬ指針だった。
 メレアグロスはルーファウスの背を押した。行け、と断固として子を旅立たせる。
 未来の冒険王は駆け出した。二度と振り返らなかった。生涯を風のように走り続け、ルーファウスは星を開拓する者となる。

 アタランテは、アスクレピオスから解放されて、ポツリと呟いた。

「ママ、ママ、と言って懐いてくれた子だが、最後はメレアグロスの方に行ってしまったなぁ」
「貴様に気を遣ったんだろう。アタランテはルーファウスには甘いからな。逝かないでと言われたら、迷ってしまうだろう?」
「……なんでもお見通しか、父子揃って」

 アタランテは苦笑して、メレアグロスに寄り添った。
 太陽の子は気を利かせたのか、いずこかへと立ち去っていく。別れではない、最後ぐらいは二人きりにしてあげようという、にくい心意気という奴だ。
 メレアグロスはアタランテの腰を抱いた。胸板に手を添えて、アタランテは静かに言う。

「なあ、汝は何故、最期を此処にしようと決めた?」

 ――二人がいるのは、七つの丘。アペニン半島。かつて天魔と死闘を繰り広げた、決死の戦場跡。
 メレアグロスは困ったように眼を泳がせた。特に何か考えがあっての事ではなかったのだ。
 しかし、男として、好いた女には見栄を張っていたい。特に考えもなく、メレアグロスは適当に言った。

「此処に国を作ろうと思ってな。人としてのオレは貴様と共に此処で死ぬが、神としてのオレは生き続ける。何かやり甲斐がないと永遠は生きられん」
「だから国を作り、人を育てるか」
「ああ。国の名前はローマにしようと思う。……待てよ、意外といい考えな気がしてきたな……」
「メレアグロス?」
「あ、いや……なんでもない」

 誤魔化すように咳払いし、メレアグロスはアタランテの持つ青銅の箱に眼を遣る。
 視線に気づき、アタランテは箱を開いた。
 中から取り出したのは、なんの変哲もない薪である。こんなものがオレの命なのか、とメレアグロスとしては笑うしかない。

 神槍の石突きで地面を叩く。すると、足元から猛烈な炎が発生した。
 それは二人の体を包み込む。薪に燃え移り、自身の体が焼かれていく感覚に微笑んだ。

「……この地を復興する。消えたオレ達の子は、必ず見つけ出す。何も心配はない。憂いはない。そうだろう?」
「ああ。そうだな……」

 ふと、アタランテはメレアグロスの顔に手を伸ばした。
 切なげな眼差しは、青春時代の慕情にも似て――アタランテは、ゆっくりと燃え尽きながら、儚く囁いた。

「もしも……」

 思い描くのは、自由な草原。豊かな山。
 力も、地位も、宝も要らない。
 ただ自由な命となれるなら。
 夢想してしまう。そんな事は有り得ないと分かっていても、アタランテは、つがい(・・・)に向けて希望を告げる。

「もしも、『輪廻』があるなら。また……ご一緒させてください」

 女の言葉に崩して、アタランテは物を言う機能を捨てた。

「……」

 佳いものだ。
 最期の瞬間に、佳い女が傍にいる。
 それは本当に、佳いものだ。

 己の魂が引かれる感覚を覚えて、なおもメレアグロスは槍を掲げた。

 誓おう。
 もしも有り得てはならない次の生があるのなら。
 ――オレは貴様を探し出し。きっと、またアタランテだけを愛して生きる。











 ――薪の英雄は時代を見据え、燃え尽きた。

 人が正しく成長した先に、己と同じように燃え尽きると知っていても。
 己の成した事は決して無駄ではないと、己自身が信じられるから。



 丘の頂上で燃え尽きる二人の姿を、荘厳なる絵画として描いた者は、何も語らずに尊崇の念を表して、これが我が父と母であると誇っていた。



















脳内設定。
 マルスとなったメレは、後に医神によって何回か生き返り、人として生きて何度か死んでたり。
 その度に、伴侶としたのは緑髪の乙女。

 レア・シルウィアは緑髪だったとかなんとか。


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新約ギリシャ神話・蛇足編 裏切りの由縁、弑逆秘話











 メレアグロスが死んだ時、エロスの矢は効力を失って――コルキスの王女メディアを支配していた狂気は冷めた。

 英雄船団(アルゴナイタイ)の冒険を経てアイトリアに加入し、植え付けられた恋心に突き動かされるまま、果てに騎士団(メレアクレイタイ)の末席を得るに至った。
 メディアの強迫観念にも似た行動理念は、ひたすらに恋した男のために尽くすというもの。エロスの矢が力を失った今、メディアにはアイトリアのために働く意義はない……。

 その、はずなのに。

 頬を伝う、熱い滴はなんだというのか。この胸を掻き毟る狂おしい哀しみの正体はなんだ。今の今まで眼を背け続けた、心に風穴が空いたような喪失感はなんだというのだ。
 ――エロスの矢は抜け落ちた。
 だが、メディアは、以前とは異なり狂気こそ無くしたものの。その心に抱く熱情に、些かの曇りもない事を自覚せざるを得なかった。
 ヘカテーに仕える無垢な巫女だったメディアは真実、あの時、あの場所で、本物の恋心を抱いたのだ。しかし傍らに侍る妃を見て。労る大王の姿を見て。己のそれが道ならぬそれで、決して報われるものではないのだと察して。それでも初恋の狂熱はメディアを諦めさせないで。
 咄嗟に、その場にあったエロスの矢を利用して、大王に付いていく事に違和感をなくすために、意図的にエロスの矢を自身に刺したのだ。

「ああ……」

 幸せ、だったのだろう。
 報われる事のない恋に、それと意識する事なく走り続けられて。
 あらゆる不安もなく、ただ盲目的に尽くす事が出来て。
 アイトリアに尽くすほど、信頼されて大きな仕事を任され、成し遂げる度に誉めて貰えて。
 困った顔。誉めてくれた顔。分厚く大きな手で撫でてくれた時の顔。――保護の対象に向ける慈愛。

「わた、しは……」

 なんて、事をしたのだろう。

 メディアは嗚咽を隠し、暗闇のなか蹲った。
 彼に大きな迷惑を掛けた。彼の愛する人に、メディアにとっても信愛の対象だった妃にも、何度も無垢な悪意を向けた。
 なんておぞましいのか。なんていたましいのか。恋に狂い、狂い続けることを望んでいた為に、何も気づけなかった。気づくことを拒否し続けていた。
 それがどれだけ愚かだったのか。
 そして、最後の瞬間まで、遂に本当の意味で尽くす事も。
 失恋に向き合う事も出来なかった。

 ――メディアは悟っていた。大切に、大切に狂い続ける燃料としてきたエロスの矢が抜けた事の意味を。



 メレアグロスが死んだのだ。



 泣いた。涙する資格はないと知りながら。
 本当に好きだったと告げる事も、気づいて貰う事もないまま、全てはエロスの矢が原因なのだと誤解され、誤解させたままに別れてしまった。
 咽び泣き、メディアは立ち直れぬまま立ち上がった。せめて、せめてアタランテに詫びなければならない。これまでの非礼を、友情を汚し続けた不誠実さを。
 だが、メディアは直ぐに真実を知った。
 アタランテもまた、メレアグロスと共に逝ったのだ、と。

 呆然として。亡我した。

 そんな、と掠れた声が、メディアを更に失望させる。
 止まったら何かが壊れる、そんな気がして、今度は彼らの子を探した。エフティリアはトロイアにいる、それは分かっている、だから今は一人きりのルーファウスを探して――それも、見つける事は出来なかった。
 メディアは泣き腫らした目を隠す気力もなくエフティリアの下に向かった。贖罪を、この度しがたい愚かな女に罰をと求めた。

「……メディア。それを罪だと思うなら、償いの方法は自分で探さねばならない」

 父を亡くした悲しみを、凛とした黄金の眼差しは露ほども表さず、トロイア王の妃となっていた少女はメディアの欺瞞を許さなかった。
 ひゅ、と息を詰まらせ、メディアは途方に暮れる。そんな事を言われても、成す術を持たない。どうすればいいのか。メディアはすぐには分からなかった。

 エフティリアは、静かに告げ、彼女をトロイアから送り出す。

「貴女を赦し、罰する事、出来る人はいない。弁えて、メディア。全てを貴女は、自分で決めないといけない」

 突き放すような厳しさだった。
 それこそを求めていたのだと悟ったメディアは、彼女に仕える事を願ったが、拒否されてしまった。
 ならばとメレアグロスの父と母を訪ねるも、やんわりと拒絶されて、彼の兄妹達は静かにメディアを見るだけ。その透明な眼差しに耐えられず、メディアはカリュドンから逃げるようにして立ち去った。
 行き先も定まらない。手当たり次第にメディアは足を運び、最後にはケイローンを訪ねた。最早何をどうすればいいか解らなかったから。

 国政の場に慣れ親しんだメディアである。ケイローンがアイトリアを緩やかに解体しようとしているのを直ぐに察した。
 メレアグロス様の残した国を滅ぼすというのか、それでも彼の師だった賢者か、メレアグロス様に後を託された男か! 糾弾するも、ケイローンは例の透徹とした眼差しで諭した。

「アイトリアの王権は一代限り。故に私はメレアグロス殿の遺命通り、アイトリアの名ではなく実を遺すべく働いているのです」

 衝撃だった。彼の国は無くなる、それは決められていた事だ。だが、ケイローンは国を人々の心に残すべく尽力していたのだ。
 そして、悟った。己の成すべき事、己にしか出来ない事を。

 メディアは、覚悟を固めた。

 アイトリアを。メレアグロスが遺したものを守る為、アイトリアの敵を滅ぼし、ケイローンがその使命を全う出来るようにする。それが、自分に出来る事だ。自分の償いだ。
 メディアはアイトリアを離れた。そして彼女が向かったのは――

 アイトリアの宿敵ヒッタイト。

 国力衰えたりとはいえ、未だ健在なその国に向かってメディアは国の有力者に取り入った。アイトリアの重要機密――今後を見据えれば然して価値のない情報を手土産に、自身の才覚を以てヒッタイトに利する行いに手を染めた。
 例えそれが、アイトリア側からすれば、度し難い"裏切り"に見えていたとしても構わない。メディアは裏切り者の汚名を対価として受け取り、ヒッタイトを内部から切り崩していく。
 衰退していくヒッタイトにトドメを刺したのはメディアなのだと知る者は少ない。
 原初の騎士の十三席、唯一忌むべき裏切りに手を染めた"裏切りの魔女"は、ヒッタイトの滅亡と共に消息を断った。

 ――冒険王ルーファウスが、数多の逸話を残す中。彼が危機に陥る度に、助けに入る無名の魔女がいたのを指し、あれはメディアではないのかとする説もあるが。

 真実は、定かではない。
























 時相の異なる次元にて。

 ――ティタノマキア、ギガントマキアと快勝したオリュンポスの神々は増長していた。

 オリュンポスの神々こそ世界の支配者として永遠に君臨するのだ、とこの世の春を謳歌し、オリュンポス山にて連日宴を開いて饗宴に浸った。その賑やかさたるや地母神にして星の意思(かみ)であるガイアの耳にまで届くほど。
 ティタン族も、巨人族も、共にガイアの子である。その絢爛なる宴に怒りを覚えたガイアは怪物の王テュポンを産み落とし、オリュンポスを滅ぼせと命じ解き放った。

 テュポンは巨人に類するモノ。その体長は地表から宇宙にまで到達する。巨体は宇宙の星々と頭が摩擦し、腕を伸ばせば世界の東西の涯にも達した。
 際限のない怪力を持つテュポンは疲弊する事のない体を持っており、両の肩からは百の蛇の頭が生え、炎を放つ目を持ち、腿から上は人と同形でありながら、腿から下には巨大な毒蛇がとぐろを巻いた形をしていた。
 星の意思ガイアの最後の子として産まれた怪物王(ビースト)は、しかしガイアの意思に服する事はなく。生命否定者(テューポーン)は己の存在意義を果たすべく地球を焼き払い、天空を破壊し、灼熱地獄となりて暴れ回り全宇宙の秩序を崩壊させた。

 怪物の王の脅威は全宇宙を狂乱させた。テュポンに追い回された神々は恐怖の余りに逃げ惑い、動物に変身してエジプトまで逃げてしまった。――エジプトの神々が動物を姿をしているのはその為だという。

 テュポンはその権能により地球を炎上させ、天空に突進して宇宙中を暴れ回り、全てを混沌の渦に叩き込んだ。衆寡敵せず逃げ惑う神々に苛立ち、これ以上見ていられなくなったゼウスは遂にテュポンへ決戦を挑んだ。
 金剛の鎌と雷霆を武器に、宇宙の天上にて激戦を繰り広げるゼウスとテュポン。全秩序が混沌に堕ち、全宇宙を揺らがし、神々の王と怪物の王の戦いはテュポンが制した。
 無傷で勝利とはいかなかったものの、テュポンはゼウスの手足の腱を切り取って、これを世界の何処かに隠してしまう。なんとかヘルメス神に助け出されたゼウスは、自身の敗北を認めず手足の腱を取り戻した暁には再びテュポンに挑み、今度こそ倒して見せると息巻いた。
 しかしヘルメス神はゼウスを置いて手足の腱を探しに向かうのを躊躇う。もしテュポンに見つかれば、今度こそゼウスは復活できなくなるまでに追い詰められてしまうだろう。

 ――其処に戦神が貞淑神と英雄神、魔術神を連れて来るなり申し出た。

「我らが大神を守護しよう。なんとしても死守する故、貴様は大神の腱を探しに行くがいい」

 ヘルメス神は安堵し、その場を離れた。
 大神ゼウスは頼もしい守護者の到来に、自身の勝利を確信する。今度はこの戦神と共にあの怪物の王に挑もうと考えた。そうすれば勝利は確実だろう。
 だが。

「……まさかの好機だ。どう思う?」
「さてな。問題は大神抜きにアレを屠れるか否かだ」
「それならば問題はあるまい。我らが合力すれば、テュポンにも勝ろう。そして、既にテュポン攻略の策は成ったも同然。恐れるまでもない」

 ゼウスは嫌な予感に冷や汗を掻いた。戦神と英雄神が、異様な殺気を纏っていたのである。
 震える声で、大神は訊ねた。どういうつもりか、と。

「ああ……解らぬか、下郎。貴様が加減もなく戦った故に地球は滅亡の危機に瀕していた。守り抜くのは骨が折れたぞ。ガイアもテュポンの始末に手を焼き、最後に縋ったのはまたオレだ。あれら災害の化身をどうにかしてくれ、とな」

 儂を……殺すと?

「察しが良くて助かる。だが安堵せよ、貴様の魂は消すがその神格だけは残す」

 大神は沈黙した。こんな運命は予言になかったが、この戦神は運命の環の外に立つ者である。そして、神をも滅する権能を持つ事を、天魔を知るが故に理解していた。
 なぜと問うと、戦神は失笑した。
 神にしてやった恩を忘れたか、と言われ英雄神は嘲笑した。

 誰が頼んだ?

 戦神は地獄槍を脳に突き刺し、英雄神は心臓に剣を突き刺し、その魂を滅した。
 残った亡骸を、魔術神がこねくり回す。貞淑神が新たな命を吹き込む。
 産まれたのは、大神の姿をした傀儡。
 姿と力をそのままに、意思なきモノとなった神。

 この後に英雄神と共にテュポンを倒し、封じ込めた戦神は酷薄に告げる。決して表沙汰になる事のない陰謀を隠し通したままに。



「――ゼウス。その名を耳にするのも疎ましい。故、新たな名を与える。

 ユピテル。

 貴様はこれまでとは異なる主神として君臨せよ。主神という名の現象としてな」



















蛇足回でした。

次回はFGO編――と見せかけて全五話から十話のzero編。
あぽもsnもやりたい。

エミヤさんは正月予定。


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Zero編 武具など無粋、真の英雄は撲殺する

短め。
Zero時空最大の戦犯は彼です。



















 事のはじまりは望外の幸運により齎された。

 来る聖杯戦争、その四度目の儀式に向け、手配していた聖遺物――英霊召喚の触媒が、二つとも(・・・・)入手できたのだ。
 男は喜んだ。そして同時に頭を悩ませた。どちらも最強と呼ぶに足る英霊の触媒だ。しかしその二つを同時に使う事は出来ない。どちらを戦力として用いるか、贅沢な悩みを抱えて男は頬を緩ませたものである。
 長考の末、男は結論した。元より『メレアゲルの泉』の底に沈んでいた、とある『英雄の槍の穂先の欠片』は、『世界で最初に脱皮した蛇の脱け殻』の化石が入手できなかった場合に備えて手に入れたものなのだ。明確な弱点のある彼の英霊より、弱点らしい弱点の存在しない原初の英霊を選んだ方が正解だろう。初志貫徹し当初の予定通りに事を進めた方が失敗は少ないと男は経験上弁えていた。
 使わなかった方の聖遺物は、もし自分が失敗した場合、子孫が成し遂げられるように残して置こう。娘の次の代辺りになるだろうが、未来に備えるのは先達として当然の仕儀である。

「ふむ。しかしこの聖遺物は中々凄まじいな。流石はギリシャ二大英雄の一角の槍の欠片……所有しているだけで身体能力が向上するとは……」

 男は槍の欠片をリングケースに似た掌サイズの小箱に入れ、持ち歩く事にした。下手な礼装よりも余程優れた効能を持つそれは、万が一の際に所有者を救う一助となるかもしれない。所詮は凡人である男は、凡人であるからこそ平時から『備える』事の重大性を良く良く心得ていたのだ。
 常に余裕を持って優雅たれ。家訓であるそれを男は完璧に体現している。そしてその余裕は日頃の武の鍛練により育まれた部分もあった。その聖遺物を持ち鍛練していると、心なし上達し、とっくに限界だと見切っていた武芸の腕に自信がついて、男は毎日のようにいい汗を流すようになった。

「素晴らしい……。私もまだまだ捨てたものではないな」

 これはこのまま練達を重ねれば、初代にも勝る腕を獲得できるのではないか。男はその実感に機嫌を良くし、姿見の前で鍛え上げられた己の肉体を見てにやりと笑った。
 妻もそれを見て流石ですと称賛してくれたのも、男の武への自負を高めていく。
 やがて男は武神に由縁のある聖遺物をすっかり気に入ってしまい、四六時中持ち歩くようになってしまった。

「綺礼がサーヴァントを召喚する? まだ早いと思うのですが……いえ璃正神父の言う通りかもしれません。早期に英霊を召喚するのは、戦略を練る上でも重要な時間を生むでしょう。……璃正神父、良ければ私も召喚の儀式に立ち会わせていただきたい。何、教会までジョギングがてら走るだけです。これも鍛練の一貫、綺礼のサーヴァントと面識を持つのも無駄にはならないでしょう」

 それは、言うなれば気紛れ……というよりは、若かりし頃の鍛練への情熱がぶり返していた事の反動であった。何かと鍛練を行う口実に結びつけるようになっていた男は上機嫌に運動靴を履き、ランニングウェアに着替えて、完璧な姿勢で優雅に走り出した。
 勿論お気に入りの鍛練礼装も忘れない。うっかり(・・・・)これを忘れては、折角の鍛練効率が悪くなってしまう。彼は抜かりのない男であると定評があった。

 男は一定のペースを保ち、予定通りの時間で教会に到着。以前よりも確実にタイムは縮まり体力も余裕があった。
 いい汗を掻いたものだ、と自身の衰え行くばかりだった肉体の好調に口の端を持ち上げ、出迎えに出てくれた璃正神父が微妙そうな顔をしているのも気づかず、男は教会の地下に向かった。
 召喚の儀は、滞りなく準備完了していた。流石の手際に弟子であり同盟者となる代行者、言峰綺礼を褒め称えた。これで引けたサーヴァントが強力なら文句はない。仮に運用に困るサーヴァントであっても、英雄王を擁する事ができれば勝利は固いのだ。下手に力まず、優雅に召喚の儀式を見守っていられた。

 やがて、儀式は始まる。

 綺礼の詠唱に伴いエーテルが爆発的に巻き起こり、発生した強烈な光に目を焼かれる。男は驚嘆した。
 これが英霊召喚……! もしも目にする機会がなければ、英雄王を召喚した時に余裕を保つのは難しかったかもしれない。綺礼のサーヴァント召喚に立ち会ったのはやはり正解だった。
 詠唱が結ばれる。
 果たして触媒のない(・・・・・)綺礼がどんなサーヴァントを引き当てるのか、男は優雅に成り行きを見守る。
 きっと綺礼と似通った誠実さと生真面目さを兼ね備えた英霊を呼び出すに違いない。

「――抑止の環より来たれ、天秤の守り手よ」

 淡々と綺礼が告げた瞬間。
 エーテルの奔流が、地下空間を満たす。

 思わず手を翳し目を庇うや、魔法陣の上に巨大な存在感が突如現れた。

「問おう――」

 光が収まり、暗闇が戻った地下空間が荘厳なる神殿と化したような重苦しさが満たされる。
 緊張も露に璃正神父が生唾を呑み込む。
 その霊格の高さ、霊基の強大さは肌ではっきりと感じられた。
 男は戦慄し、そして驚嘆する。綺礼が間違いなく当たりのサーヴァントを引けたのだと確信したのだ。

 と、同時に。

 何故か、一つの薪が、綺礼の手の中に出現して。

 その黄金のサーヴァントが名乗ったクラス名に、男は冷や汗を流す事になる。

「貴様がオレのマスターか」

 綺礼を見る黄金の眼差し。苦しげに苦悶の声を上げるのは英霊召喚による魔力負担ゆえか。サーヴァントは、綺礼が応える余力もないのを見て、そして彼との間にパスが繋がっているのを感じ取り一人納得したように頷く。

「此処に契約は完了した。サーヴァント・拳闘士(ボクサー)、貴様を聖杯を巡る宴の勝者とする事を誓おう」

「えっ……」

 ギリシャの男神の彫像の如き、男子の理想像足る肉体の黄金律。
 群青の腰帯を纏う人語を絶する美貌の持ち主は、己の肉体美を惜しまず晒すスタイルなのか上半身には何も身に付けていなかった。
 そのサーヴァントの真名を察し絶句する男を尻目に、黄金のボクサーは告げる。

「人の身にオレの維持は苦痛だろう。故に、此度は全ての武具と鎧、戦車や宮殿などの宝具は置いてきた。比較的燃費はいいはずだが、まあ堪えろ」

 黄金のサーヴァントは宣言する。

「なぁに、案ずる事はない。我が肉体を以てすればヘラクレス以外は割となんとかなる。折角の宴、武具など無粋。真の英雄は拳一つで勝利するのだと教えてやろう……!」






































エクストラクラスにて現界。完全にお祭り気分。宝具はクマ吉さん案だったりします。


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ボクサー、芸能界への出陣

改訂版。















 厳粛にして荘厳なる神の家は今、一人の暴君によって弾圧の憂き目に遭っていた。

 古き教えを守り、静謐なるを尊び、貞節と清貧を美徳として来た教会が、或る英霊により近代化のメスが入れられ、教会の庭に無数の電柱が建ち、蜘蛛の巣のように電線が張り巡らされたのだ。  
 持ち込まれる電化製品の数々と、業者によって伝統が踏みにじられるが如き様は正に圧政。抵抗する力のない弱者を凌辱するが如き暴挙。申し訳程度に電柱と電線は、教会の景観を損なわぬように気遣われ、最低限のカモフラージュが為されてはいたが、言峰璃正は卒倒し息子の綺礼も敬虔なる信徒として、なんとも場違いな近代化に慨嘆するフリをするしかなかったほどである。   
 ギリシャ神話二大英雄の一角だという英霊はマスターの制止など馬耳東風。まるで聞く耳も持っていない。原初の騎士が聞いて呆れる命令無視だ。それを咎めて見ても、

「騎士であっても王である。ただマスターであるというだけで主君と認められるものか。まあオレが三騎士のクラスであれば、相応の振る舞いはしただろうがな」

 ――と、そのように躱されるだけ。綺礼は完全にお手上げ状態、璃正はもう今にも昇天しそうな青い顔色で神に祈りを捧げる始末。
 実の父の有り様に、綺礼はえもいえぬ情動を得たが……残念ながらそれを言語化できるほどの境地へ、今の綺礼は至ってはいない。
 荷物を纏め、何故か挙動不審だった時臣の下を離れて教会に帰還した綺礼は、変わり果てた教会を遠目に再発見して嘆息する。

 あの寂れた教会も失われ、最早昔の静謐な空間が取り戻される事はないだろう。
 近所の子供達が多く集まっていた。様変わりした教会の明るい地下を占拠し、サーヴァントの用意したテレビゲームやらボードゲームに興じ、庭ではかくれんぼやら鬼ごっこやらをして賑わっている。教会の主とも言える異教の神は不在なのか、璃正が子供らに引っ張り回されて遊びに付き合わされていた。
 何て事だと綺礼をして笑ってしまう。あの璃正がそこいらの子供にたじたじになって遊ばれているのだ。残り少ない髪を引っ張られ、悲鳴を上げている姿を見ると、息子として胸が熱くなる心地である。

 こんな遊園地じみた遊具やらで教会を埋め尽くした下手人の資金源は何か。綺礼が問うと、サーヴァントは言ったものだ。

「街中を歩いているとな、身なりのいい老人や投資家やらが何処からか現れ、オレの今後に投資したいなどと抜かしてな。パッと寄越してきたのさ。それを元手に手当たり次第に買い歩きをして遊んでいたら、金は減るどころか増える一方で困ってしまってなぁ。仕方ないから貴様らの寂しい家を賑わわせてやろうと気を遣ってやったまで。なに、感謝せんでもいいぞ、勝手にやった事だからな」

 流石スキルに黄金律を持つ英霊は違う、と場違いにも綺礼は感心し(あきれ)たものだ。あれはもう普通の人間とは感覚が違い過ぎる。あのオリュンポスの神々の過半から寵愛を受けるだけの事はあった。
 綺礼は子供に見つかると面倒なので、気配を殺して教会の裏から入っていった。荷物を下ろし、二階の窓からなんとなしに外へ目を向けると、教会を異境化させた下手人が正面から帰還してくるではないか。

 何処をほっつき歩いていたのやら、と呆れていると、ふと仕立てのいい糊の効いた黒スーツを纏ったサーヴァントが、背後に数人の外部の人間を連れているではないか。

 えらく畏まった様子の、企業マンめいた風体である。二人の男性はサーヴァント同様スーツに身を固め、あたかもサーヴァントに付き従う従僕といった立ち位置であった。
 そんな男達に気づいた璃正が、頭や肩、腰と両腕に悪ガキをくっつけたまま近寄り、どんな用向きで来たのか訊ねに行った。
 そして話を聞くにつれ、顔を赤くするやら青くするやら。璃正は卒倒寸前でサーヴァントに食って掛かるも、やはりどこ吹く風といった様子でサーヴァントは璃正をスーツの男らに押し付けて教会に入ってきた。

 子供達はヒーローの帰還とばかりに騒ぎ立てている。サーヴァントに構って欲しいと飛びかかり、見る見る内に子供に埋め尽くされながら平然と歩を進めるサーヴァントは、そのまま二階の綺礼の下にやって来た。
 鉄面皮を小揺るぎもさせず、綺礼は訊ねる。

「……今度は何をした」
「? まるでオレが悪い事をしているような口振りだな?」
「……」

 自覚なしである。これ見よがしに嘆息するもやはり気にした素振りはない。

「サーヴァント。余り騒ぎを作るな。もうすぐ此処は……」

 言いかけ、子供が大人数揃っているのを見咎め言葉を切る。しかしそれは解っているのか、サーヴァントはなんともないように言った。

「解っているとも。時が来れば、この者らにも言って聞かせる。暫し近寄るなとな」
「本当だな」
「念を押すとは……。少しはオレを信用しろ。場は弁えるとも」
「……では、あれはなんだ?」

 綺礼が指差したのは、外で話し合う頑なに首を左右に振る璃正と、諦めず説得を重ねる男二人。サーヴァントは何でもないように言った。

「芸能界にスカウトされてな。ちょっと天辺(てっぺん)獲ってやるのも悪くないかと思ったのさ」
「……」
「アイドルのように歌って踊りつつ、しかして時には俳優の如く演じ、スタントマンの如く舞い監督のように指揮する……楽しそうだとは思わんか?」

 父が頭を抱える訳だ、と綺礼は腕を組んだ。
 眉根を寄せ、綺礼は努めて冷静に言った。

「……それは、テレビに出るという事か?」
「? 当たり前だろう。それ目的という訳ではないが、必然的に出てしまうだろうさ」
「お前はサーヴァントの自覚があるのか?」

 思わず叱責するような語調になる綺礼。しかしサーヴァントはまるで痛痒を覚えた様子もなく苦笑した。

「無論だ。オレは貴様のサーヴァント、心得ているとも」
「……ならばそういった公に出るような真似は慎め。もしもお前の存在が知られれば、事だぞ」
「神秘の漏洩という奴だな。……ん? ああゲームの話だ、気にするな」

 サーヴァントは背中に張り付いている少女にそう言って、綺礼に向き直る。
 やはり、何も聞く気がない。

「綺礼。そうは言うが、オレがサーヴァントである事と、現世を楽しまぬ事は、決して等号で結ばれている訳ではあるまい。別に良いだろう、オレが何をしようと。貴様らのくだらん業界に迷惑はかけん」
「……そういう事を言っているのではない」
「そういう事だろう?」

 手近にあったソファーに腰掛け、指の先で少年をくるくると回した。
 きゃっきゃと笑うのは、少年の豪胆さ故か。それともサーヴァントの抜群の安定感故か。宙を舞った少年を抱き止め、サーヴァントは綺礼に向けて言う。

「マスターが詰まらん男だからな。この世の楽しみ方の一例を示してやっているまでだ」
「……なんの話をしている?」
「貴様の話だ。この世の全てが詰まらんと斜に構えた面をしている」

 サーヴァントは懐から一つのカセットを取り出した。それを綺礼に放って渡し、さっさと立ち上がって二人の少年と一人の少女を優しく振り落とす。
 綺礼はカセットを見た。『バイ○ハザード』というゲームカセット。

「それで正樹らと遊んでやれ。貴様のような男は、根が単純な奴とつるめば案外迷いは晴れるものだぞ」
「……知った風な口を利く」
「知っているとも。契約してもうどれほど時が経つ? 貴様の人生、貴様の苦悩、丸ごと夢で眺めてやったわ」
「なんだと?」

 思わず聞き返すも、サーヴァントは綺礼の部屋から出ていくところだった。
 あの英霊は何を知った? 綺礼は顔が険しくなるのを感じ、咄嗟にサーヴァントに制止していた。

「待て。お前は私に何を見た?」
「鏡を見ろ。そのままだ」
「……まともに答える気はないか」
「答えた。貴様は複雑に考えすぎている。騙されたと思って、子供達と遊んでやれ。そこに答えがあるはずだ」

 サーヴァントは綺礼から視線を切って、今度こそ歩き去る。
 これから先とんでもない厄介事を齎すだろうサーヴァント……規格外な事に単独行動スキルを擬似的に獲得しているという黄金の英霊は、綺礼の投げた言葉に平然と応じたのだった。

「……見る者が見れば、お前の正体がサーヴァントであると即座に見抜かれる。そうなれば大事だぞ」
「良いではないか。オレがサーヴァントだと知れば、最も目立つオレが真っ先に狙われるのは必然。そうなれば、わざわざ探す手間が省けるというもの。群れを成して挑んで来ようが構わん。オレの宝具を教えたはずだ。貴様さえ下手を打たねばどうという事もない。違うか?」
「……」
「オレは聖杯祭典(オリンピック)の参加者だ。それ以外の些末事はそちらで対応しろ。それだけで勝てるよ、貴様らはな」

 セコンド(マスター)の役割はボクサーを支援することだからな、と愉快そうに璃正や綺礼らの苦労を笑い、サーヴァントは華やかな闘技競技者はエンターテイメント性を強調された側面を見せ颯爽と再び教会を後にした。

「……」

 対魔力をAランクで保有するあのサーヴァントは、令呪の戒めも一画では通じまい。聖杯戦争開幕まで、まだ期間は空いている。
 早期の内に、まだ戦争が始まってもいないのに、令呪を切るわけにもいかない。召喚を早期に実行する判断を父が下した事を、綺礼は失策だったと諦めたように嘆息するしかなかった。

「……正樹と言ったか。やるか?」

 何も聞かなかった事にして、綺礼はとりあえず少年達に水を向けた。
 やる! 早くやろうぜおっちゃん!
 溌剌としたら少年らに、綺礼は暗い目を向けて。ゲーム中、スレてない子供の悲鳴に綺礼は悦に浸っている自分に気づき、なんとなく全ての苦労がどうでも良くなってきたのだった。



 数ヵ月後。



 芸能界に電撃的にデビューしたサーヴァントの姿が、歌って踊る伝説のパフォーマーとして出現したのに璃正と時臣が悲鳴を上げていた。




























挑む世界の変わったメレである。

オリンピックだからね、スターになるのも仕方ないね。


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冬の城、騎士の勘

報告!
・マテリアルを活動報告に移動しました。
・FGOでレイド挑戦中。レイド倒すのみんな早すぎィ!?
・マーリン来ました。

















 文明の恩恵を受けぬ閉ざされた森。その深奥に籠る一族は、外部よりその経歴を見込んで囲い込んだ魔術師殺し(メイガス・マーダー)により科学の息吹を吹き込まれるまで、一切の電子機器を知らない存在だった。

 アインツベルンは魔術師殺し衛宮切嗣の持ち込んだ俗世のものを疎んでいる。しかしアインツベルンを聖杯戦争の勝者へ導く為に存在する傭兵の意向を無視する事も出来ず、ある程度の妥協を余儀なくされていた。
 衛宮切嗣は外部に置いた己の手の者より齎される情報を円滑に取得するため、自身に与えられた領域にFAX機やノートPCなどをを導入。インターネットに接続し、外界の情報を比較的まともに入手出来る体制を構築していた。
 尤も、それも切嗣が外界に身を置いていた頃よりも、その工程の効率や手に入る情報の多角的な分析力は大幅に損なわれている故、あくまで"比較的"でしかなかったが……これを愚痴ろうものなら鉛を飲むようにして妥協したアインツベルンの当主アハト翁は激怒するだろう。

 ――それは冬の聖女の裔アインツベルンが、満を持して剣士(セイバー)のサーヴァントを召喚して幾日か経った時分であった。

 第四次聖杯戦争の開催地、日本の冬木(せんじょう)へ先行侵入させ、予備拠点の確保や地形の調査、人気の薄い箇所や人通りの少ない地点、外来のマスターが利用しうる拠点のピックアップを任せていた、衛宮切嗣の子飼い久宇舞弥により緊急の連絡が入ったのだ。
 舞弥は切嗣へ、速やかに日本の関東テレビ番組のチャンネルに合わせ視聴するべしと伝達。怪訝に思いながらも、舞弥が無駄な事を言うはずもない、とその機能に信頼を寄せていた切嗣は言われるがまま、ノートPCを操作して日本の関東のテレビ番組の動画を視聴(盗視聴)した。

「……」

 切嗣ははじめ、適当にチャンネルを替えながら、目的のモノを探した。しかしどれもなんの変哲もない、身にもならないような番組ばかりで。舞弥は何を伝えたかったのか詳細に明かすように指示するべきかと検討した。
 しかし傍らに居た妻アイリスフィール・フォン・アインツベルンが、ふと日本の歌番組に興味を示し、それを少し見させてと頼まれ、切嗣は仕方なくチャンネルを固定。すると――

『それでは、空前のギリシャ神話ブームを巻き起こした麻宮マルスさんのデビュー・シングル「アルカディアの狩人」です! どうぞ!』

「なっ……」

 その姿(・・・)が画面に映るや、切嗣は息を呑み。アイリスフィールは目を丸くして、その後ろに居た剣士のサーヴァント、アルトリア・ペンドラゴンが驚愕の余り声を上げた。

 一番は鮮烈にして激情を秘めた出会いの歌である。
 二番は熱烈なる愛と世界の息苦しさを表した歌である。
 三番は男が見た女の生き様である。
 感情ではなく魂を露にして激動の草原を表現する、迫力と深み、包み込むような情動、男の思いと聞き手の思いを合一させるが如き歌。思わず圧倒されるままに最後まで聞かされ、万雷の拍手と共に颯爽と舞台を降りた黄金の男に、アイリスフィールは呆然と呟いた。

「……今の、サーヴァントよね?」

 切嗣は言葉もなく、我が目と正気を疑っていた。代わりにアルトリアが肯定する。

「……ええ、間違いなくサーヴァントでした。しかし、あれは一体……」

 理解不能な事態にアルトリアもまたすぐには二の句を継げない。

「もしかして、アイドルのサーヴァント……?」
「……ミュージシャンのサーヴァントかもしれません、アイリスフィール」
「……」

 大真面目に思考を混乱させるアイリスフィールとアルトリアに、切嗣は一瞬、頭痛めいたものを感じて目頭を抑えた。そんなわけあるか、と召喚してからこっち延々と無視してきたサーヴァントに怒鳴りそうになってしまうほどだ。
 考えを纏める。
 舞弥が見せたかったのはこれだろう。それは解った。しかし、テレビにサーヴァントが出ている意味が解らない。神秘の秘匿とかそういった決まり事、諸々の問題が脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消える。
 しかし、素人目にはサーヴァントだなんて事解りようもない故、辛うじて神秘の漏洩はされてない、と言えなくもないのかもしれない。とはいえ、限りなくグレーゾーンなのは確かだ。判断は人によるとしか言えない。
 あのサーヴァントのマスターは何をしているのだろう。ああいった暴挙を律し、正すのがマスターの役割。サーヴァントという兵器を運用するに当たり、神秘の秘匿は当たり前の義務の一つである。仮に、敢えてあのサーヴァントを野放しにしているか、サーヴァント自身がマスターの指示によって動いているとしたらその狙いはなんだ?

「……マスター、彼はもしや、あの最優王なのでは……?」

 アルトリアが、黄金のサーヴァントの真名を予測する。……微かに声が震えていたのに気づき眉を動かすも、視線を前に固定したまま動かない切嗣に、アイリスフィールが仲裁するようにして重ねて訊ねた。

「ねぇどうなの切嗣。私もあれがギリシャの二大英雄"リコセンス・メレアグロス"なんじゃないかって思ったのだけど」
「……いや。アイリ、流石にそれはないよ」

 ふにゃりと気の抜けた笑顔で振り向き、切嗣は妻の言葉を否定した。

「名前が麻宮マルスで、歌が『アルカディアの狩人』で、黄金の髪に瞳、見る者を引き寄せるカリスマ性……確かに符合する要素は多い。しかしこうもあからさまなのはどうなんだい? 欺瞞だと疑うのが普通さ」
「しかしマスター。その"普通"の尺度で測れない事を彼はしています。あれがマスターの意向であれ自ら思い立っての行動であれ、ああも目立つ事を仕出かすのはなんらかの思惑あっての事ではないでしょうか」
「……」
「切嗣……」

 至極尤もなサーヴァントの返しに切嗣は何も答えない。アイリスフィールがもどかしげに促すと、切嗣は苦笑して言った。

「正直言うと、僕も余り解らない……というより判断が出来ないと言った方がいいかな」
「……どういうこと?」
「考えてもみなよ。サーヴァントにあんな目立つ事をさせるメリットはなんだい? デメリットはパッと思い付くけど、すぐに思い付ける利益がないんだ。無理矢理にこじつけるなら、マスターが録に魔力供給も出来ないヘボだから、ああやって知名度を少しでも上げて知名度補正を高める狙いがあったりするのかもしれないけど……それは邪道だ。しかも効果があるかどうかも解らない」
「……召喚された時点で補正は固定されてるかもしれない、だから今更知名度を上げても意味がないし、仮にあれが最優王だとしても、元々の知名度が世界最高水準なんだからやる価値もない……ってこと?」
「そうだね。そして、そこまでは誰でも思い付く事だ。僕としては、人類の知的財産の保存に尽力した賢者が、あんなふうな愚行に手を染めるとも思えない……。最優王が本気で勝つ気なら自身の真名を――正確にはその存在を徹底的に秘匿して、最後に決戦に乗り出して一度だけ戦うようにするはずさ。何せメレアグロスは、真名さえ割れなければ無敵の存在だからね」

 薪の英雄。即ち、急所となる薪を守り通す限り不死であるという特性。
 一戦限りなら、仮に真名が露呈したとしても薪を探し出される前に、決着をつけられるだろう。騎士系統のサーヴァントの頂点に立ち、死後は神格化され軍神マルスとなった大英霊は、およそ望みうる中で最高ランクのサーヴァントである。

 しかし真名が割れてしまえば、攻略法は確定してしまう。自らの存在を喧伝するが如き所業を、好きこのんで行う意味が解らない。
 なんらかの隠し球があるのか、そもそも真名がメレアグロスではない、後世のメレアグロスを熱狂的に信奉する英霊の可能性もある。

「結論を言うと、あのサーヴァントがメレアグロスである可能性は低い。メレアグロスだと馬鹿正直に信じて戦闘を避け、ありもしない薪を狙うように誘導しているのかもしれないしね。もしあれがメレアグロスでなく、外見的特徴を似せられるスキルなりなんなりを持つサーヴァントだった場合、まんまと漁夫の利を狙えるようになる。戦闘をこなす回数を減らせるかもしれない。……利点はそれぐらいかな?」

 切嗣の推測に、アイリスフィールは納得しているようだった。

 しかしブリテンの騎士王アルトリアは、どこか腑に落ちないものを感じる。
 自身の聖剣が妙にざわついている。
 長年憧れ続けてきた存在を直感的に見抜き、興奮に落ち着きが取り戻せない。
 言語化できないもの故に、アルトリアも明確に反論するのは難しかった。

 切嗣がノートPCを畳む前に、最後に映った黄金のサーヴァントへ、アルトリアは熱い視線を送った。

 ――本能的に、アルトリアは直感していた。

 あれは本物のメレアグロスだと。
 全ての騎士の理想にして、騎士王の体現。円卓の原典となった十三席筆頭。
 円卓の内でも、アルトリアをはじめ、ランスロット、ガウェイン、ベディヴィエールやモードレッド、ギャラハッドやパーシヴァル等、多くの騎士が彼の物語に夢中になったものだ。
 特に生前のメレアグロスを知る湖の貴婦人に育てられたランスロット、ギャラハッドは熱狂的だったものだ。自分は物語ではない最優王を知っているのだ、とよく自慢し他の騎士らに羨まれていたものである。

 なぜ最優王があんな事をしているのか、そんな事はどうでもいい。
 今はただ、彼と出会い、彼と鎬を削る時が待ち遠しくあった。
 直接語らえば、彼の真贋も明らかとなるだろう。もし本当に本物なら……。

 アルトリアは、どうしても願わずにいられない事があった。



















アルトリア「サインください」


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寝る子の起こし方

FGOで軍神マルスが言及されててヒヤリ。
辛うじて設定外してなくて冷や汗流しつつ安堵するの巻。















「さて……」

 空気を握るように柔らかく固めた拳を、ゆったりと開いていきながら。黄金のサーヴァントは然して重要でもない仕事をこなした事を、己のマスターに報告した。

「これで七人目(・・・)か。思っていたよりも少ないな。それとも現代の魔術師は慎重な気質なのか?」

 なんの変哲もないスーツ姿の白人男性――この冬木に来訪した魔術師の胸ぐらを離し、地べたに落としながら拳闘士は苦笑する。
 彼のマスターである言峰綺礼は、なんの感慨もなく己のサーヴァントを見遣っていた。
 綺礼にあるのは、然もありなんという泰然とした姿勢。綺礼はその経歴上、魔術師という人種について知悉している。此度のような事態は充分に予測出来ていたのである。

「今の時代、組織の庇護を受けない零細魔術師は、聖堂教会と魔術協会に粗方狩り尽くされている。残っているのは封印指定の賢しい魔術師か、時計塔で徒党を組んでいる連中ぐらいなもの。自らの力量もろくに把握出来ぬ者は早々に駆逐されてしまう。それを考えれば七人は寧ろ多い方だと思うがな」

 今の綺礼はいつものキャソック姿ではない。明るい色のジーンズにコートという、どこにでもいる一般人の衣裳を身に纏っている。十字架のネックレスだけは首に下げているが、それ以外はいつもの格好とはかけ離れていた。
 溢れ落ちた独白は、心底からの退屈さを表したもの。綺礼はこの手の輩とは飽きるほど相対してきた。今更新しい所感を抱く事もない。
 ギリシャ二大英霊同士で拳闘に明け暮れていた頃の性質を強調し現界したサーヴァントは、本来の彼よりも陽気な気質となっている。そんな彼をして苦笑せざるを得ないほど、今の綺礼は詰まらなさそうだった。
 愚図る幼子を宥めるようにして、拳闘の英霊は相槌を打つ。

「そうであっても、人は自らの裡より生じた好奇心には勝てない。一目実物の英霊を見ようと足を運ぶ者がいる中で、今の貴様のように令呪の気配を隠しもせず、無防備に歩いていれば要らん欲を掻いてしまう事もあるだろう」
「……お前がそうしろと言ったのだろう。何が目的だ?」

 わざわざ外部の魔術師を冬木に誘き寄せ、こうやってわざわざ刈り取っている理由。それは一体なんなのか――綺礼は自身を振り回すサーヴァントに嫌気を感じつつ問う。
 サーヴァントは肩を竦めた。数日前より芸能活動をぴたりと休止した彼は、打って変わって冬木に留まり着実に何か企み事を進めているようだった。その目的が何か、まだ綺礼は聞いていない。いい加減に教えろと強く睨むマスターに、サーヴァントは平然と告げた。

勝つ(やる)気のないマスターを、その気にさせようとしているのさ」
「……何?」
「貴様からは聖杯祭典(オリンピック)で優勝しようという気概が感じられん。大方オレの召喚に立ち合った似非貴族に唆され、奴に勝利を献上しようという協定でもあるのだろう?」

 ひやり、としたものを感じる。綺礼は一切の動揺も表には出さなかったが、黄金の魔眼は寒気を感じさせるほどに鋭かった。
 ――伝説では、普段は閉ざされているという未来を見る瞳。素の洞察力、観察眼は人智を超えている。超人の域にある代行者といえど人は人、綺礼が如何に上手く本心を隠そうと、見透かされてしまうものがある。
 召喚当初『ボクサー』と呼ばれるのを疎み、麻宮かマルスと呼べと告げたサーヴァント。何かにつけて綺礼を構う彼は、ここに来て綺礼に警告した。

「貴様にも事情はあるのだろう。しかしオレは八百長など認めん。やるからには勝つ。貴様がその気になれんというのなら、上手く焚き付け戦意を上げてやるのが良いサーヴァントというものだ」
「……私をやる気にするだと? それは恩義ある時臣師への義理や、父の期待へ応える事よりも重要な事か」
「重要だとも。サーヴァントにとってマスターは、何者にも優先する。そも、義理や人情に何も感じぬ身で何を宣う?」

 はっきりと言い切られ、不快げに綺礼は彼を睨んだ。自身の触れられたくない部分に、無思慮に踏み込んでくるサーヴァントを突き放す険悪な眼差しである。その三白眼に睨まれれば、大抵の者は気圧されるだろう。
 だが相手は超常の英霊である。英霊の中でもトップサーヴァントに位置する彼にとって、綺礼のそれは子供の駄々に等しい。マルスは頑ななマスターに言う。

「貴様は真人間ではない。だが真人間で在ろうと自らを律し、高潔な者として在れる邪なる聖者だ。普通の感性など持てん。貴様にあるのは悪徳への悦び、悪に堕ちる己を律する鋼の自制心のみ。道半ばに在りて惑う者なら、貴様の父として導いてやらねばな」
「……父、だと? 私の父は言峰璃正だ。お前の血は引いていないぞ、マルス」
「いいや、血の繋がりなど些事だ。何せ、貴様は世界(ローマ)の民ゆえ」
「なに、ローマ?」

 頓狂な言葉に綺礼は思わず聞き返した。
 そこで意識を取り戻しかけた白スーツの男へ拳を打ち下ろしながら、マルスは言った。

「我が子の言葉に倣うが、全てはローマに通ずる。世界とは、ローマだ。そしてお前もまた、ローマだ」
「……」
「ふ、訳が分からんか? まあオレも最初は分からんかったが、貴様もいずれ分かるようになる。悪も善も、例外ではない。貴様の悦は、決して否定されるものではないとオレが保証してやる」

 言いつつ、マルスは白スーツの男を肩に担いだ。このまま教会まで連行するのだろう。
 マルスは言葉を重ねた。極めて陽気に。

「今はまだ受け入れられんだろう。だが覚えておけ。一の悪を為したなら十の善を成せばいい。十の悪に手を染めたなら百の善を助けよ。それでも百の悪に溺れたなら、千の善で埋め合わせればいい。そう在り続ければ貴様の性は、今の貴様の望む道徳の上にありながら、迷いのない悦楽に浸り、その瞳の虚無を晴らす事が出来るだろう」
「お前は……」

 何かを言いかけ、綺礼は詰まった。――見透かされている。己の本性を知られている。そして、生涯をかけて己の求め続けた『解答』を、このサーヴァントは持っている。
 その確信が降って湧いた。思わず激烈なる欲求に突き動かされ、問いただし、場合によっては令呪を使う事すら視野に入れてしまっていた綺礼であるが、なんとかそれを堪えた。

「……何が目的だ?」

 代わりに出たのは面白味もない質問だった。
 マルスは微笑み、闇から闇に渡り歩いて、人目を避けながら教会を目指しつつ彼の問いに答える。

「目的は三つだ。
 その一。オレというサーヴァントを餌に各地より見境のない魔術師を釣る。それによってこの地の管理者だという貴様の師と、貴様の父を忙殺し、その目が我らから逸れるようにする」
「……」
「その二。些細だが、世界(ローマ)に潜む寄生虫(魔術師)を吐き出させ、誤差に過ぎんだろうが少しはローマの庭を綺麗にする。まあこれは本来貴様らのような庭師の仕事だが、たまにはオレ手ずから動くのもいいだろう」
「……世界の守護者気取りか?」
「いいや、人の守護者気取りだ」

 綺礼の揶揄にも些かも気分を害さず、マルスは平然と謳った。

 いつだって無知で無力な民は食い物にされ、巻き添えになって死んでしまう。
 善き生活、善き人生を由とした人生である。義務に過ぎなかったとはいえ、仮にも王だった事もあるのだ。多少の膿だしぐらいはしてもいい、そんな気分だった。
 そういう意味では、やはり剣も槍も弓も鎧も戦車も宮殿も山も持ってこなくて正解だった。こんな都市部でそんな宝具を放とうものなら、たちまち焦土と化して人々は灰塵に帰していたに違いない。
 死者が楽しんではならぬという法はない。しかし死者が生者をいたずらに殺めてはならないだろう。

 ――ついでに言えば、星の守護者でもあるがな。

 と小さく呟きつつ、マルスは綺礼に目線だけで振り返った。

「その三。オレの弱点の補填だ」

 それはどういう意味か。
 訝しげに目を眇め、綺礼が黄金の瞳を見ると彼はにやりと眼だけで嗤った。

「綺礼がマスターとして二流なのはどうしようもない。魔力不足のためにステータスが落ちているのは仕方がないにしろ、貴様の戦意の無さはどうにかせねばならん。やる気のない二流マスターなど、このオレであっても勝たせるのは至難の業だ。故に一番の目的は、こうして貴様と他者の目の届かぬ場で語らう事だった」
「……」

 嫌な予感に、綺礼は身震いした。
 この男は、何か致命的な事を言おうとしている。
 はやく耳を塞げ、目を閉じろ、出来ないなら令呪を使ってでもサーヴァントを黙らせろ。理性がそう命じても、本能がそうさせなかった。無意識の内に生唾を飲み込む綺礼に、マルスは告げる。彼の戦意を否が応にも刺激する、魔法の言葉を。

「――予言しよう。貴様の求道、求めた答え。祭典優勝の暁には、あらゆる疑問が解消されるだろう。だが勝つ事が出来ねば……最後の舞台まで勝ち残れなければ、永遠に(・・・)答えを手にする事はない」

 それは、余りに蠱惑的な誘い文句で。
 同時に途方もなく絶望的な奈落からの誘惑。

 楽園で、知恵の実を食べるように唆した蛇のようなそれに。

 綺礼は、抗うのが酷く困難である事を悟った。


















次回、金ぴか降臨。

次話やったら、そろそろエミヤさんやろうかな、と。


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英雄の王、騎士の王、漫談の回

本日二度目の投稿。前話もお見逃しなく!



















「ぬぁ……ッ! 待て待て待てぇ! それは所謂"嵌め技"という奴ではないか……!? えぇい卑怯だぞ最優王! 貴様それでも騎士の王か!」

「不覚だな英雄王……! 貴様には才があっても研鑽がない、であれば現界してより一年、片時も鍛練を忘れなかったこのオレに、初心者である貴様が届く道理はないという事だ……!」

「おのれェ、おのれおのれおのれおのれおのれエェェェ……ッ! よもや貴様如きに本気を出さねばならぬとは……!」

「ふ。勝負に逸る余り、隙を見せたな英雄王。そこだ、墜ちろカトンボ!」

「ぬわぁぁぁ……!」






















「……」

 どこか遠くを見る目をする時臣を、一体誰が責められようか。

 聖杯戦争開催間際、必勝を期して召喚した最強の英霊、英雄王ギルガメッシュ。遠坂時臣の切り札にして鬼札。彼を召喚できた時点で、彼の勝利は決定されたと言ってもいい。
 唯一対抗できる最優王も、その命脈である宝具『運命の燃え木』は綺礼の手にあった。いつでも破壊出来る以上、脅威となることなど万に一つも有り得まい。

 懸念があるとすれば、一つだけ。

 古代、絶対者として君臨した二人の王が、果たして時臣の目論見通りに手を結ぶかどうか。それだけが不確定事項であり、英雄王の召喚に立ち合った最優王へ英雄王がどう反応するか、最優王が英雄王へどう接するか、時臣は緊張の極みにあったと言える。
 場合によっては、召喚早々に令呪を使わねばならないとすら考えていたほどだ。だが、口火を切った最優王に、その緊張と不安は解消された。

『拝謁の栄誉を賜り光栄だ。原初の王、世界で最も偉大なる"人類史の開始者"よ』
『――ほう? 小癪にも王気を纏う不埒者が眼前にあると思えば、中々礼儀を弁えておるではないか。よい、我は礼節を知る者には寛大だ。許す、名を名乗れ』
『貴様の後の世を治め、人の文明(あかり)を継続させる任を預かったアイトリアの大王、メレアグロス。此度はエクストラクラスを以て現界した。王と号された身とはいえ、原初を担いし王に敬意を払うは当然の事。ひとまず同じ空間に在る事を赦すがいい』
『……良かろう。貴様の首、今は繋いでおいてやる。精々この我を興じさせよ、原初の騎士とやら。場合によっては、手ずから討つに値する英雄故な』

 そうして両雄は、不穏な空気はあっても、どこか認め合った者同士に特有の奇妙な親密さを感じさせる間柄となった。
 暫し後の綺礼に曰く、千里眼を持つ者同士は他と隔絶した視野を持つ者として、歴史上でも数少ない"仕事仲間、同じ職場の同僚"といった程度の距離感となる、とメレアグロスから聞いたらしい。

 無慈悲にして冷徹、容赦という言葉を持たぬ英雄王が、初見で最優王に一定の評価を与えたのはその能力故。成した事を知るが故。そして英雄王ですら彼の未来を見透せぬ、運命の環の外の者であった故だ。
 最優王は先達としての英雄王に敬意を払い、英雄王は同じ職場の後輩に対する態度を取る。そして何より、英雄王が自身の宝であると主張する聖杯を最優王は欲しておらず。『ただ勝ちに来た』というお祭り気分(スタンス)だった事が、彼らの関係を決定付けた。

 戦いはする。

 時が来れば殺し合うだろう。

 しかしそれまでは、一定の距離感の下、それなりに付き合いはする。
 即ち彼らはそれなりに仲の良い同僚として、不戦協定を結ぶ事を承諾したのだ。のみならず現代世界を漫遊する際に、共に街に繰り出し遊興に耽る事すらあった。
 それはいい。歓迎すべき事だ。この両雄が並び立つ以上、敗北は有り得ない。そしていざ決戦の段になれば、薪を持つ綺礼に破壊させ、自身が令呪を切れば聖杯戦争は完結する。

 しかし……まさかこんな光景を見る事になるとは、時臣をして予想だにしていなかった。

「ハッハッハァッ! これで四戦全勝、かの英雄王を完封せし者として、オレの英霊としての格が上がったな!」
「抜かせ雑種風情が……! これまでの戦績は、貴様に一日の長があっただけの事。コツは掴んだ故、すぐに追い付き追い抜き圧倒的に勝利して見せるわ!」
「ほぉ、慢心してこその王ではなかったか?」
「敗北を重ねる恥辱を想えば、そんな拘りなんぞ投げ捨ててくれる……! 思い知らせてくれよう、格ゲーであってもこの我こそが至高至大の絶対者なのだと!」

 召喚の儀の翌日、遠坂邸に現れた最優王は、事もあろうにテレビと低俗なゲーム機なんてものを持ち込んできたのだ。
『我らの決闘は天下分け目の場こそ相応しい、されど武を競うだけが王者の格付けとはなるまい。ここは一つ、娯楽の王としての格付けも為すべきではないか?』
 そのような挑発に、しかし英雄王はあっさりと乗った。最優王が約一年も前に現界し、その手の娯楽では一日の長がある事を知らなかったのだ。
 斯くして勝てるはずもない戦いに赴いた英雄王は、順当に敗北を重ね、始めは詰まらなそうな表情だったのを、いつの間にかかじりつきそうな形相でコントローラーを握って、ムキになって熱中していた。

『スト○ート○ァイター』なるゲームをプレイする二人の英霊に、時臣が呆然とするのも無理はない。誰がこんな光景を想像できる。理解不能の極致であった。
 肩を寄せ合い、肩や手を叩き操作を妨害しながらのリアルファイトをこなしながら、最優王はわざとらしく勝ち誇る。

「フハハハ! 乖闢の祖としての偉大さ、千里眼の性能、王者としての純度、それらでオレが貴様に勝る事はあるまいよ! だが純粋な『強さ』であればオレは貴様を凌駕する……! 思い知れ傲慢なる英雄王! 研鑽を知らぬ生まれながらの絶対者は、決して究極の一に至った者には個で勝る事はないと……!」
「ほざいたなぁ、王でありながら自害した愚か者がぁ! 王とは君臨するもの、前に出て匹夫の勇を振りかざす未熟者に、この英雄の中の英雄、英雄王ギルガメッシュが劣る事など有り得ぬ! それを今から思い知らせてくれるわ!」

「……」

 時臣は呆然と、背後を振り返る。
 微かに笑みを湛えた綺礼が、師に語った。

「時臣師。こうなったサーヴァントを止める手立てはありません。諦めて撤退なされては?」
「……そうさせて貰うとする。私はどうやら疲れているようだ。少し休ませて貰おう」
「後は私が」

 ふらふらと退出した時臣を見送り、綺礼は不気味に笑む自身に気づかぬまま、二人の王者のやり取りを見ていた。このまま黙っていた方が面白い事になる、という予感に、無意識の内に引き寄せられていたのだ。
 最優王は言う。なんでもないように。

「時に英雄王。時臣なるあの似非貴族の描いた脚本、覚えているか?」

 英雄王は鼻を鳴らした。召喚者の詰まらぬ采配に辟易としながら。

「無論だ。この我は、一度見聞きした事を忘れる事はない。それがどうした」
「なに。脚本を担当したのはアレだが、舞台に登り演じるのは演者足る我らだ。であれば、演者としても一流である由縁を示さねばならんと考えるが、如何に?」
「――ほぉ? 面白い、アドリブという奴か。乗ってやろう。我は何をしても完璧だと見せつけてくれる」

 話が早くて助かる、と最優王は嗤った。

聖杯祭典(これ)は祭りだ。盛り上げてなんぼというもの。多少の筋書きは由としても、一から十まで決められた通りにしか動けぬ役者は三流でしかない。ならば、成すべきは一つ。――監督気取りの愚者を叩き起こす。貴様も当事者なのだと教えてやる。遠坂時臣、高みの見物などこのオレが赦さん」

 フハハハハ! と、すっかり気に入った悪役笑いというのをして、最優王は英雄王の操るリ○ウをKOし絶叫して悔しがる英雄王から勝ち逃げした。
 綺礼を伴い遠坂邸を後にする直前、最優王は思い出したように言った。

「――ああ。そういえば英雄王。王としての器は貴様が上だが、この時代の認知度ではオレが貴様を凌駕しているぞ」
「なに……?」
「疑うなら麻宮マルスという名を調べる事だ。彼我の優劣はそれで明らかとなろう!」

 フフフ、ハハハ、ハーッハッハッハ!
 お気に入りの高笑い。最優王は盛大に笑った。

 彼には見えていたのだ。英雄王が麻宮マルスを知り、称えられ、僅か数ヵ月の活動だけで生きる伝説として囁かれるマルスの人気ぶりに歯噛みする様が。
 英雄王が大いに荒れ狂う様を想像して、最優王は酒を嗜まぬ身でありながら、今夜は久方ぶりに英雄王を肴にして酒でも一杯引っ掛けようかと愉悦した。

 綺礼はなんとなく、その生き方に憧憬にも似たものを懐き始めていた事に、とうの本人だけが気がついてはいなかった。
























Fgoクリア。第二部、楽しみですね(ニッコリ)

次は他愛なし回。
その前に、正月まで投稿出来ませぬ。
年明けにエミヤをやって、章を終えてからこっちに戻る予定です。
今年はありがとうございました。残り僅かな今年度、良いお年をお過ごしください。来年もよろしくお願い致します。


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聖杯祭典開会式

風邪を引きました。多重次元執筆現象を起こそうとした途端にこれである。これが……抑止力……?
頭痛く体がだるい、もうだめだ、寝ようと思ったら書き上がっていた今話。折角なので投稿するの巻。














 聖杯戦争の監督役、言峰璃正に曰く。遂に全てのサーヴァントが召喚され、聖堂教会は第四次聖杯戦争の開催を正式に宣言したとの事。

 綺礼が言うには外来のマスターである魔術師も来日。アインツベルンとアーチボルトの姿も確認し、本格的に儀式は始まった証左として、拠点の割れている御三家の遠坂の館も魔術師の使い魔に監視されているようだ。

 まさにお誂え向きの舞台というわけである。

 弓兵のサーヴァント、英雄王ギルガメッシュのマスターである遠坂時臣は、斯くの如き計略を練った。いや、計略ではなく"方針"といった方が正確か。
 時臣は穴熊を決め込み、遠坂邸の守備に英雄王を配置。英雄王は最後まで勝ち残った英霊とのみ戦う――真の英雄のみが英雄王への拝謁の栄誉に与れるとした。そして敵サーヴァントが無謀にも挑んで来た時のみ迎撃し、英雄王の威を示していただく。
 綺礼を通して指示されたのは、最優王メレアグロスは遊撃として他のサーヴァントを撃滅し最後に英雄王と雌雄を決するというもの。英雄王の露払いとしての格は最優王なら持っているとして、時臣は英雄王を納得させたのだ。
 そして仮に最優王の真名が明らかになったとて、彼の命そのものである薪を持つ綺礼は遠坂邸に籠り、時臣共々英雄王に守護して貰うので危険はない。無論綺礼は代行者としての経験を活かして行方をくらませたものとする。
 もし他の陣営が綺礼の所在地を掴み、時臣と綺礼の同盟に気づき、徒党を組んで遠坂邸を襲撃してきたとしても、英雄王と最優王でこれを撃滅すればいい。実力的にそれは可能であり、斯くして最後は偉大な王らで決着をつける運びとなる。

 要は英雄王と最優王の実力にのみ依拠した方針だ。そしてそれは充分に実行可能であろう。時臣は古代の王らを御すのは不可能と判断し、事細かに計画を立てるのを断念していたのだ。
 全く正しい、堅実な勝ち筋。メレアグロスは薪さえ無事なら不死であり、決して正攻法では敗北しない。素の実力もトップサーヴァントに相応しいもの、順当に行けば時臣の思惑通りに祭典は終結するだろう。他のサーヴァントには不可能でも、時臣の戦略方針を成功させられる力が二人の古代王にはあった。

 だからこそ面白くない。

 確実、堅実、結果の見えた安定的な未来。なるほど、結構な事だ。しかしそんな勝ち方をしてなんとする? 主催者側に如何な悲願があろうと、これは祭りなのだ。
 英霊はそれぞれが生前の無念を、どうしても達したい目的を、果たせなかった未練に固執するがためにサーヴァントとして召喚され現界する。古今東西名を馳せた英雄が集結するのだ、これを"祭り"と称さずして何を祭りという。
 拳闘の聖地にて、義弟と切磋琢磨していた時期の精神状態として現界したメレアグロスは、基本的に常にハイテンションだ。そうとは見て取れぬ冷静な物腰であるが、その内面は面白さ重視であり、何より退屈さを疎んじる。
 故に綺礼より示された時臣の策をメレアグロスは"詰まらない"の一言で却下した。
 かつて対等な立場での拳闘という事で、遠慮なく太陽神アポロンの顔面に拳を叩き込み鼻血を吹き出(プー)させた男である。もしも薪を盾に言う事を聞くよう脅されても、全く恐ろしがらずに自由に振る舞うであろう。このメレアグロスには怖いものなどなかった。
 綺礼を通して時臣は言った。最優王は思うがまま敵を倒せばよい、と。最後は英雄王と決戦する事だけを留意してくれるなら、基本的には何も言わないと。

「ふーむ……」

 ――難しそうに唸るメレアグロスは、顎に手を当て思索に没頭していた。

 時臣は英雄王との同盟を、マスター越しに提示。綺礼が承諾した以上、メレアグロスに異論はない。天下無双の英雄王と戦えるとなれば、それは一大イベント足る決勝戦が相応しいとメレアグロスも思う。
 だが別に最終決戦まで英雄王と戦ってはならない(・・・・・・・・)と言われていなかった。

 つまり、これ(・・)は予行練習である。

 大舞台に立つ前に、予習復習を欠かさない役者の鏡的な精神だ。演目を演じるにあたり、相方と打ち合わせをしておこうという粋な計らいである。
 英雄王にも話は通してあるし、別に汚い不意打ちではないし協定違反でもない。なんら後ろ暗いものはなかった。
 故にメレアグロスは最初に遠坂邸を攻撃する事にしたのに、一片の迷いすら抱いていない。寧ろどのようにアクションを掛ければいいか迷う程度には頭を使っていた。

 ――やはり山か。いやしかし、現地調達するのは現世の者らに迷惑。地図をわざわざ書き直させる羽目になる。そこは自重せねばな。

 土地に関する利権も絡むとなれば、一般人には心安らかにいて貰う為にも線引きを誤る訳にはいかない。
 では槍か。しかし今の己は拳闘士、刃物の使用は厳禁である。クラス的に言って、やはり原始的にいくのが最低限のマナーというもの。かといって余り貧相な出し物だと英雄王に笑われる。面子にかけて、情けない物は使えない。

 どうしようか、と頭を捻りながら夜の街を練り歩くメレアグロスは。
 ふと街の片隅に、お誂え向きの物体を発見してほくそ笑んだ。 






















 ――時臣とやらの傍を離れるな。面白いものが見られるだろうからな。

「……」

 己のサーヴァントの意味深な言葉に、綺礼はなんとなく心がざわつくのを感じた。
 まるで物を知らぬ幼子が、祭りの賑わいを感じて浮き足立つ心地に似ている。綺礼は今、年甲斐もなくサーヴァントの齎す催しを、心のどこかで楽しみにしていたのだ。
 自分でも理解できぬまま、綺礼は唇の端を歪め、眼下の盤面を見下ろす。――遥か古代、最優王が開発したという盤面遊戯、チェスだ。無聊を慰めるという名目で、それとなく時臣の気を引いて対局しているのである。
 律儀にサーヴァントの言いつけを守る綺礼は正に観客の鏡。出し物を待つ今か今かと待つ姿勢は荘厳なる歌劇を拝する聴衆の如しだ。

「……どうかしたのかね、綺礼」
「いえ。英雄王の眼が気になったもので」

 盤面を見下ろす綺礼の変化は、時臣もなんとなく感じ取れる程度に常とは異なる佇まいだったのだろう。怪訝そうな問いに、綺礼は咄嗟に時臣の背後で不気味な笑みを浮かべる黄金の半神に水を向けた。
 時臣は恭しく英雄王へ視線を向け、見事な所作で顔色を伺う。立ち居振舞いに気品があるのは確かで、英雄王も邪険にはしない態度だ。

「英雄王よ、綺礼の不躾な発言、ひらにご容赦を」
「よい。我に構うな時臣。今宵は佳い月夜だ、そこな雑種が我の威光に目を灼かれるのも無理もない故、特に許す」
「は。ご厚情、ありがたく」

 不思議と上機嫌の英雄王に、綺礼はふと、時臣の目論見をこの場で暴露したくなる衝動に駆られた。
 もし真実を明かされたら、時臣はどんな顔をするのか、見てみたくはある。さぞかし悲痛で理解しがたい事態に困惑する様が展開されるやも……いや、何を考えている。そのような不徳、許される事ではない。
 綺礼は己の邪念を振り払った。そしてなんとなしに、窓から夜空を見上げる。
 満天に花開く月輪。見事な真円を描くものの周囲に、屑のように散っている無数の星。美しいとは思わない、しかし何か、吸い寄せられるように夜空を注視した。

 ――氷細工のように冷たく、繊細な夜気。遠坂邸の門構えの周囲を、他マスターの使い魔が偵察している。そんな、誰もが注目する中で、綺礼はふと気づいた。

「……?」

 煌めく月光に、欠落が見られたのだ。
 丸い月に針の穴ほどの小さな黒点が出現し、それが徐々に、徐々に、大きくなっていく。その黒点は加速度的に巨大化し、遂には満月を漆黒に塗り潰し、超高速で飛来してくる。その正体に勘づいた綺礼は瞠目するしかなかった。

 一直線に遠坂邸の庭に着弾したのは、

 廃ビル(・・・)だったのだ。

「フハハハハ! そう来たか最優王!」

 凄まじい轟音だった。ただの一撃であらゆる魔術的な仕掛けを破壊し尽くし、着弾の衝撃で遠坂邸の窓ガラスは吹き飛んで、室内の調和を飾る家具悉くを一掃し、遠坂邸を半壊させた。
 砕け散ったコンクリートの破片等が周囲に爆散する。人の柔肉など破片一つでミンチと化すほどの暴威。英雄王が金色の波紋に手を突っ込み、一つの丸盾を放り投げて魔力防御を展開、物理的衝撃波や廃ビルの破片、遠坂邸の残骸から守られねば時臣も綺礼も成す術なく即死していただろう。

「な、――」

 余りの事に、言葉すらない時臣。綺礼もまた呆然としかけるも、次々と彼方より飛来する廃ビルを見てこの馬鹿げたスケールの襲撃が何者によるのかを理解して思わず噴き出した。
 近く打ち壊される予定だった廃ビルの基礎からくり貫き、投槍(・・)に見立てて擲って来るのは間違いなく最優王。
 間断なく超質量のミサイルを三発も投げ込まれた遠坂邸は、中東の戦場跡地も斯くやといった劇的な変貌を遂げた。無惨極まる風景に、理解を超えた事態は、時臣の声を震えさせて、英雄王に問いを投げさせた。

「え、英雄王……これは……いったい……?」
「ク、クハハハハ!! おいおいなんだ時臣その間抜け面は!? 雑種、見ろよこの無様な面を! これが御三家の一角とやらの顔だ!」

 館と、精魂込めて築き上げてきた魔術工房の防備、それらが一瞬にして台無しとなった時臣の呆然と見開かれた目と口に、英雄王は隠す気もなく呵呵大笑した。
 綺礼も思わず時臣の間抜けな表情に、こんな場合なのに嗤わずにいられなかった。辛うじて口許を抑えたが、そうせねば込み上げる笑いを押さえきれず声をあげて笑い転げていたかもしれない。
 幸い、時臣は笑うのを堪える綺礼には気づかず、泡を食って英雄王に詰め寄った。

「王よ、今は御身とて戯れていられる物ではない筈! これは一体、なんなのです!?」
「見て分からんか、"敵"からの攻撃であろう? ハッ、聖杯戦争は始まっておるのだ、祭りの始まりを告げに来たのだろうよ!」
「敵!? では、これは宝具!?」

 現実が理解できない時臣に、英雄王は嘲笑を浴びせる。
 違う、宝具なんて勿体ぶったものではない。そんな事、常ならば一目で判断がつきそうなものだ。

「戯け。これはただの挨拶だ。景気付けの投石……投槍に類する原始的なそれに、そこまでたまげる奴があるか」
「あ、挨拶? これが……!?」

 表情が激変する。時臣の顔が、赤黒く染まり、優雅さの欠片もない姿に再び綺礼は小さく噴き出す。
 激怒し、混乱し、魔術師としてなんとか冷静さを取り戻そうとする時臣を尻目に、ややあって英雄王が面白がるようにして顎で外を示した。

「そぅら、来たぞ。頭の中身が祭り一色に染まった馬鹿者が」

 今度は電線の通らぬ電柱が、遠坂邸の惨状を飾り立てるようにして飛来し、庭先に突き刺さった。
 その電柱から飛び降り、軽やかに着地したのは、人体の黄金律を晒す腰帯のみの姿のサーヴァント。黄金の貴影は典雅に佇む。

 鼻を鳴らし、二階のテラスから飛び降りて、黄金の英雄王は大上段に構えて出迎えた。

「あれは……最優王!? 綺礼これはどういう事だ!?」

 さあ、私にも判じかねます。
 極めて平静な顔の裏で、綺礼は納得した。
 散々に取り乱す時臣の顔。――なるほど、面白い。或いはこれが、愉悦という感情なのかもしれない。
 なんと甘露なのか。しかし、まだまだ物足りない。自分の求めるものは、もっと苛烈なる刺激なのだろう。
 その形がなんなのか自問しながら、綺礼は頭の片隅で時臣への弁明を考え始めた。































斯くて年は明け、薪メレとエミヤさん、一章ずつ書き上げて、交互にやっていく事にしました。
さすがにね、多重次元執筆現象はね、無理がね、あると気づきました。風邪ですし。ぶっちゃけエミヤさんのイベ特異点、内容ガラっと変えなきゃなので、色々考えなくてはならなくなったので、こちらでまず時間を稼がせていただきます。


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黄金魔境





 微塵に散りし現代の塔。粉々となった石塊は先祖伝来の館を半壊させ、確かな気品を備えていた庭園を跡形もなく吹き飛ばしていた。
 辛うじて形を保つ館も、宝具の守り無くしては一溜まりもなかっただろう。わなわなと肩を震えさせる遠坂時臣の頭の中は、この被害を如何にして補填するかで一杯だった。
 いざとなれば最優王の薪を破壊する――綺礼はそう言って時臣を説得し、もはや昔日の雅な庭園など思い出せもしない惨状の中で向き合う、黄金と黄金の王の対峙を見守っていた。

「――フン。憎い演出であるな、最優王。この我をして度肝を抜かれたぞ。流石はオリュンポスの神々をして『弁えたる者』と評した男だ。貴様のような男が臣下にいたなら、道化としてさぞかし重宝していたであろうな」

 其はウルク第一王朝第五代王。伝承に曰く、あらゆる物を視た者、全ての物を国の果てまで見通す者、深淵を覗き見たる知恵の究極者とまで記された古代オリエント最大の英雄。
 真紅の双眸は満足げに細められ、僅か十メートル先に立つ黄金の男を見据える。
 英雄王ギルガメッシュにとっては掛け値なしの賛辞であるそれに、男は気にしたふうもなく飄々と肩を竦めた。仮にも大王として至尊の座に就いた男、道化などと評されるのは屈辱の極みであろうにまるで意にも介していない。

「彼の英雄王にそうまで持ち上げられるのも悪くない気分だ。だが、そこは"道化"ではなく"俳優"と言って貰いたい」
「同じことではないか?」
「大いに違う。ピエロとアクターと言い換えれば、その役割の違いは明らかだろう。オレは確かにオリュンポスの神々が望む英雄を演じてはいたが、決して奴等に玩弄されるだけのピエロに堕ちた事はない」
「ふむ。確かに貴様は比類なき演者であろう。道化と言ったのは取り消す。嘲ったのではない故、赦すがいい」

 それは異様な事態だった。
 もしも英雄王を知る者がいれば驚愕のあまり己の正気を疑い、世界の終わりを確信するような驚天動地の大事件だった。
 あの、英雄王が。
 己の言を自ら改め、それを詫びた。
 それだけで、成し遂げた者は歴史に名を残すほどの偉業である。
 だが、幸か不幸か、この場に在って両者の真名を看破してのけた者はいない。
 遠坂邸を監視していた使い魔は超質量の原始的ミサイル三発の余波で消し飛んでおり、今頃慌ててこの対峙の行方を偵察せんと再度使い魔を放っている頃合いだろう。
 最優王は気にするな、とあっさりと詫びを受け入れる。そして英雄王から俄に立ち昇り始めた黄金の王気(オーラ)を満身に受け、心地よさげに微笑して見せた。

「折角遊びに来たんだ。英雄王ともあろうものが、よもや無下にはしまい?」
「ほざきよる。我が金色の偉力に打たれ、奮い立っているのか? よかろう、予想は裏切るが期待には応えるのが我が王道! 今の我は少しばかり興が乗っている。悦べ、今宵は出し惜しみはせん。記念すべき祭りの幕開け故、お望み通り派手にいってやろうではないか!」

 宝物庫の鍵が開かれる。金色の波紋が庭園を満たす。剣が。槍が。斧が。数多の英雄伝説を彩る原初の形が列を成す。宝具の原典、極限の財力、圧政の究極。展開された三百(・・)の砲門は、一斉に絶対者の意向を受けて標的を照準した。
 その豪勢な財宝の展示に、魔性の戦神は獰猛な笑みを浮かべる。絶対の死、その具現とも言える光景を前にしても、彼の魂に怯濡はない。綺羅びやかな様に、寧ろ豪華な光を浴びれたと見て機嫌をよくした。
 この程度で絶望するほど易い人生は歩んでいなかった。英霊としての自分には無関係であるが、まがりなりにも戦神と軍神、武神を歴任した神格の前身である。これはまだ"戦"の範疇に入らぬ、所詮は前座、本番まで精々盛り上げるだけの舞台。
 まあやり過ぎてこれが本番になる事も充分あり得るのだが。その時はその時、もうこれが最終決戦でもいいんじゃないかとメレアグロスは思い始めていた。

「さあ我自らの手で幕を上げよう。死に物狂いで踊るがいい、事と次第によっては報償を賜す事も吝かではないぞ?」
「ではそのご尊顔に拳を叩き込む栄誉を頂く。なぁに血反吐を垂れるは男の証という奴だ、今少し男前にしてやるゆえ遠慮はするな……!」























 さながら太陽が堕ちたかの如き光景だった。

 爆発的極光。恒星も斯くやと思わせる金色の閃光。
 辛うじて形を残していた館も、既に跡形もない。人智の及ばぬ滅亡の風、吹き荒ぶ刃の嵐は竜巻と成りて、局地的な大地震を引き起こす程である。
 遠坂の地の霊脈が軋んでいた。明滅する爆光の乱舞の度に大気に魔力がばら蒔かれ、爆発的に向上する魔力濃度は現代の人間にとって毒となるほどに至っている。
 あたかもこの地だけが神代に逆行しているかのようで。視覚、触覚、聴覚を通して脳に入力される膨大な神秘の情報量を、至近距離で直視する羽目となった時臣の意識は混濁していた。
 離れた位置から、使い魔という劣悪な視覚を通して視ているだけの敵マスターすら神秘に酔いかけているのである。強靭な克己心を持つ綺礼すら意識を保つのに苦心している。実力は現代基準で一流とはいえ、素質は凡骨である時臣の負担は非常に重い。意識を保っているだけでよくやっていると言えた。

 恐るべき事だ。
 戦慄すべきである。
 怯えに余り首を差し出すしかない。

 黄金の原初王の繰り出した剣槍の砲弾は既に千を超えている(・・・・・・・)
 三百が五回。六百が三回。千が――これで二回目。都合五千三百(・・・・)弾。並みの英霊の七騎や十四騎、纏めて相手にしても殲滅してのける蹂躙の花火だ。
 単騎で時代の流れを覆す規格外の英雄王。だが、あらゆる英霊の頂点に君臨する英雄王と対するは武神の顕現である。
 凡百とは一線を画し、超級の英霊の中でも選りすぐりであろう戦闘巧者。知る者は知る。彼こそは"戦闘"の概念の化身。空間を圧する夥しい剣群の壁、宝槍の弾幕に正面から突貫し、突破すること七度。被弾は零、疲労も零、呼吸と同じように拳を撃ち、肘で打ち、膝で砕いて踵で粉砕して四百の宝具を破壊してのけていた。

 更地となった霊地が陥没していく。地層が崩れ地盤沈下が発生し、瞬く間に万物が崩壊していく。まさに魔境、黄金の饗宴。綺礼はとっくの昔に時臣を連れて戦場より遠ざかっている。そうでなければ巻き添えで死んでいた。
 底無しの財。無限の叡知の宝。それらを当たり前の如く潜り抜け英雄王に拳撃を浴びせんと接敵すること幾十回。聖剣の直撃にも耐える黄金の鎧は拳を受けて数ヵ所に亘り見事に陥没している。額に汗を散らしながらも巧みに財宝をばら蒔いて拳士を突き放しながら、自身もまた機敏に機動戦を行う英雄王は哄笑した。

「ハッ! 流石と言っておくぞ、だがまだだ、まだまだアゲていく! これほどの血の昂りはいつぶりだ!? えぇいもどかしい、もはやこれこそが祭りの最高潮、出し惜しまぬと言ったのだ、ならば貴様には死してのみ拝する事を赦す、不敬!!」

 減衰する魔力は最早マスターからの供給では全く足りない。自身の保持する神々の加護である"王律権ダムキナ"を用い、サーヴァントの括りを無視して魔力を無理矢理に捻出。
 謳いながらも間断なく宝具を雨霰の如く射出し続け、上半身を覆う鎧をパージ。感情の昂りと共に真紅の紋様を浮き上がらせ、英雄王ギルガメッシュはその手に黄金鍵を取り出した。
 躊躇いなく鍵を回す。抜き放たれるは三柱連なる臼のような剣。ギルガメッシュの誇る究極の一。乖離剣エア。
 ゆっくりと回転を始める三柱は、その一つすらもが地殻変動にも比する運動量を産み出している。桁の異なる最大出力、今か今かと解放の時を待つ世界を切り裂いた開闢の理。黄金の狼はぞわりと背筋を震わせ、最大級の危機を感じて踏み込んだ。
 これまで丁寧に弾き落としていた剣弾を悉く無視し、肌を浅く抉るのを看過してでも突進する。英雄王は接近させじと"王の財宝"を全力稼働させた。黄金の狼の頭上に特大の波紋が現れる。ハッとして見上げた先から、

 ()が射出されてきた。

「ぐぅぅうう……!」

 押し潰される。だが支える。次の瞬間には右腕に渦巻いた極大の螺旋の雷光が束ねられ、拳撃と共に放たれるや城塞を粉砕していた。
 しかし一瞬とはいえ確実に足が止まった。これまで片時も止まることのなかった足が。
 英雄王はその隙を逃さなかった。見逃すはずがなかった。千載一遇の好機、確実性を求めた王の眼力が見開かれる。

「天の鎖よ!」

 四方より放たれたる数条の鎖。咄嗟に拳闘の獣は穿ち割り、殴り壊す。そして身を翻して自身を捕らえんとするものから逃れ――英雄王の手から伸びた鎖に、その左腕を巻き取られた。

「ッ……!?」
「捕らえたぞッ!」
「オレがなぁ……!!」

 動きが止まった刹那、殺到する六条の鎖。それに全身を縛り上げられる前に、最優の大王は渾身の気合いを込めて腕を引いた。

「ぬぁっ……!」

 果たして獣を自らの腕で鎖に繋いだ英雄王の体は、予想を遥かに越える膂力に引かれ宙を舞う。天の鎖に両足を絡め取られ、腰が捕まり、首に巻き付かれ、されど拘束が間に合わず唯一自由であった右の拳が唸りを上げ――英雄王の顔面に叩きつけられた。
 全身を囚われ、威力のほとんどが死んでいる拳撃。されど半神でなくば耐えられぬほどの衝撃。ギルガメッシュは呻く事もままならぬ。反対の腕を縛る鎖が、英雄王の力が抜けるのと同時に緩まった。
 トドメの一閃を放たんと、左拳を握る。
 だが、ギルガメッシュは真紅の双眸を限界まで見開いた。
 乖離剣が唸る。真名解放を待たずして解放される。深紅の風圧が三柱の隙間より漏出し、それが最優王の肉体を強かに打った。

 直撃。乖離剣の風圧を至近距離でまともに受けた肉体が裂かれる。鮮やかな鮮血を噴き、天の鎖の拘束すら吹き飛ばして最優王をギルガメッシュの間合いから追放した。
 メレアグロスは、腹から胸にかけての傷を撫で、無言で周囲を見渡した。

「……これまでだな」
「――痛み分けか。このまま終わればこの我の腹の虫が治まらん。逃がすと思うか?」
「思うさ。何せ、ここから先は泥沼だ。派手にいくとはいったが、とことんやり合うにはまだ早い。貴様はそうは思わないのか?」

 ギルガメッシュは舌打ちした。
 しかし、確かにその通り。絶妙に間が空いたのも、見方を変えれば仕切り直しに持ってこいと言える。
 であれば是非もない。武装を解き、英雄王は踵を返した。

「……撤退を許す。またいつなりとも挑むがいい。この我は逃げも隠れもせん」
「そうか。ではまたいつか。その時は、貴様と雌雄を決するとしよう」

 晴れやかに言い捨て、最優王は霊体化して撤退していく。

 黄金魔境、神話の戦いは鮮烈に聖杯戦争の歴史を塗り替えて、全てのマスターらに戦慄と畏怖を刻み付けた。

 後の戦いがどのように推移するのか。それは、やはり最優王の動向のみが左右するのだろう。


 















風邪が治るまでまったりいきますね……。


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武威波及、偶発遭遇

先に言っておくことが。アポはアニメのクオリティ次第でやります。……願掛けです。高クオリティで頼む……!

今回は短め。今日二回目だからね、仕方ないね。













 血の気が引いた。

 比喩ではない。顔面から一気に血が引いて、顔が真っ青になった。

 一部始終を、という訳にはいかなかった。だが、それでも第四次聖杯戦争の初戦を目撃した陣営は、凝り固まっていた固定観念を完全に破壊され、英霊の戦いに魔術師が関与するなど無謀を通り越して自殺であると魂で理解した。
 中でもホテルの最上階フロアを貸し切って工房を築いていたケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、瞬時にして己の拠点が持つ立地的な拙さを理解した。
 他の誰よりも早く魔術財産を纏め、迅速に何処かへと避難した間桐の翁や、特定の地に留まる選択肢をかなぐり捨てた魔術師殺しの陣営と同じく、ケイネスもまた拠点を引き払い所在の割れぬ地を求め街をさ迷う事を選んだ。

 ケイネスは理解したのだ。

 ――あんな出鱈目な輩に攻め込まれてみろ、如何に私の工房が優れていようと全く用を成さん……!

 無駄に礼装を破壊され、蹂躙され、桁外れの暴力に曝されるだけだ。
 己のサーヴァントもあんな真似が出来るのか問おうにも、不可能なのは自明。あんなのと戦えば敗北は確実! 勝てるわけがない、あの黄金の化け物どもには!
 片割れは宝具を雨霰と撒き散らし。
 もう片割れは、恐るべき事に宝具を一度しか(・・・・)使っていないのだ。
 宝具の使用は、城塞を一撃で破壊した時だ。ほぼ一瞬で発動出来る対城宝具とはどんな冗談だ? 笑えない、全く笑えない。ケイネスほどの魔術師故に見抜けた。

 ――あれほどの性能で、あれほどの戦闘をこなしていながら、ほぼ消耗なし(・・・・)など規格外にも程があろう……!?

 徒手空拳なのだ。拳で殴り、体で戦い、魔力や宝具を使ったと思わしき場面は城を破壊した時だけである。あれならば二流のマスターでもある程度は耐えられる。ケイネスなら自身も敵マスターと交戦しながらでも魔力供給を行えるだろう。
 真に恐ろしいのはそこだ。あんなに化け物なのに、燃費までいいなんてインチキにも限度がある! ふざけるなという話だ、子供の喧嘩に軍人がフル武装で割り込んで来たのと同じだ。
 幸い、あの化け物どもは手傷を負った。少なくとも今宵は動く事はない、ならばすぐにでも隠れ潜むに適当な拠点を求めねばならない。
 万が一にもまともに戦っては駄目だ。戦ったら負ける、あれは災害だ、人がどうこうしようとするのが間違いだと言い切れるほどの。

「――ケイネス殿」
「……なんだねランサー、今は貴様に構っている暇はないとさっき言ったばかり――」

 ケイネスは自身を呼び止める槍兵のサーヴァントに苛立たしげな目を向けた。

 ランサー、ディルムッド・オディナである。

 フィオナ騎士団の一番槍にして、当時最強の戦士として名声を欲しいままにした、伝承で言えば彼の"湖の騎士"の原型。知名度がアイルランド並みに高く、且つクラスがセイバーだったなら、伝説のアーサー王には及ばぬも、それに匹敵するだけの実力が発揮出来るポテンシャルの持ち主だ。
 ランサーは白兵戦能力はピカ一ではあるものの、あくまでサーヴァントだ。あんな化け物ではない。敵戦力評価を行う際、参考までにランサーにも意見を求めてはみたが、こともあろうにこの愚か者は、機会があれば是非槍を交えたい等とほざいた。
 イカれている。バカげている。そんな阿呆の言葉にちょっとでも耳を傾けようとした自分が馬鹿だった。
 自身の婚約者であるソラウを、こんな危険な戦いに連れ込んでしまった事を猛烈に後悔しながら、沸き起こる癇癪を全神経を傾けてなんとか抑えた。そして冷徹にランサーを一瞥する。くだらない事を言おうものなら、すぐさま叱責を飛ばしてやるつもりだった。

 ランサーは己のマスターの厳しい眼差しに目を伏せながらも、彼に警告する事をやめなかった。

「あちらを。あれ(・・)はサーヴァントです。如何すべきか指示を頂きたい」
「なに……?」

 ランサーの言葉に、思わずギョッとしかけるケイネスだった。
 サーヴァントと聞くや、あの黄金の怪物共が脳裏を過ったのだ。そんなはずはないと頭では考えるも、戦慄は抑えられない。
 咄嗟にランサーの指し示した方へ急いで目を向ける。すると、そこにいたのは、黄金ではなかった。
 内心安堵しつつも、表には何も出さず、ケイネスはその正体を見極めようと目を細める。

 ――ローブ姿の、巨漢。

 好青年と共に幾人かの子供達を連れている。ステータスを透視すると、見事なまでに低ランクのもので並んでいた。宝具が強力な典型的なタイプかもしれない。格好からしてキャスターか?
 連れている青年からは令呪の気配が隠す気配もなく垂れ流しにされていた。あれがマスターか。では、あの子供達は? 虚ろな目をしている。……ああ、なんて稚拙な暗示の魔術なのだ。低俗過ぎて失望と失笑が漏れた。

「……」
「ケイネス殿?」

 ケイネスが不意に能面のような無表情になったのを、ランサーは怪訝に思いつつ見咎めた。
 どう対処するのか。幸い相手はまだこちらに気づいていない。先手はいくらでもとれる。ランサーの声に、ケイネスは淡々と応じた。

「……ランサー。あの者らを追跡する。見るからに魔道を辱しめる下衆のようだからな」
「は。確かに奴等は不穏。捨て置くのは危険でしょう」
「フン。いいかね、あれは十中八九キャスターだ。ランサー、工房らしきものに入られる寸前で仕掛けるぞ。一瞬で、一撃で仕留めよ。よいな」
「御意の通りに」

 従順に頷くサーヴァントを歯牙にもかけず、ケイネスは密かにキャスターらを追い始めた。
 魔術師のサーヴァントなら、隠れ潜むのに最適の地を抑えてあるはずだという打算もあった。――その打算が冬木の連続殺人事件に歯止めをかける事になるのを、彼はまだ知らなかった。



 ――キャスター、ジル・ド・レェこと青髭もまた、あの黄金の王らの戦闘を目撃していた。
 水晶を用いた遠見の魔術で、である。
 狂しているとはいえ、元は救国の大元帥だった男。青髭はあんな怪物などに勝てるはずがないと、一瞬にして魂で理解した。あらゆる手練手管を用いようと、絶対に、確実に勝てない。宝具の制御を度外視して、大海魔を呼び出しても、無数の剣や槍を射出していた王には歯が立たず、大海魔なくして徒手空拳の黄金に太刀打ち出来ない。
 派手に、考えなしに動いて見つかったら終わりだ。だが今宵だけは安心だろう、双方ともに手傷を負っている、すぐには動かないはずだ。
 そう判断し、青髭は最後の芸術活動の材料集めに励んでいた。あの黄金のどちらかが消えない限り、絶対に動き出せないと青髭は確信していたから。ぐずるマスターにも有無を言わさず言い聞かせ、材料集めを進めた。

 だが、失敗だった。黄金の王は手傷を負っていた、故に少なくとも今宵は動くわけがないと考えていた。しかし――

 動いていた(・・・・・)

 普通に、黄金の狼が。
 平然と、街中をうろついていた。

 キャスターにとって幸運だったのは、黄金の狼はやや疲弊しており、キャスターには気づいていなかった事。
 彼は一瞬で材料(こども)集めを中断し、脇目もふらずに逃げの一手を打った。さすがは元英雄と言えるほどの判断の早さである。
 だが、狼の目から逃れようとする余り。彼は自身を発見したランサーに、ついぞ気づく事はなく。

 ――自身の工房に逃げ込む寸前に襲いかかってきた真紅の魔槍に、その首を刎ねられてしまうのだった。

 斯くて、初日でキャスター陣営は消滅した。ひっそりと、ちんけな小物として。

































小林ぃい!(挨拶)

自衛隊と貴重な人命は守られたのだった。




それはそうと風邪辛すぎ……なんでこんな咳止まらんの?
咳止まらんので書きづらいんじゃが(^ω^#)ビキビキ

まったり更新いくよー。


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狼の縄張り





 眼前を通り過ぎて行く名も知らぬ翁と、その孫らしき少年を見る。
 なんの変哲もない平凡なふたり。道を定められぬ未熟な少年が、翁の在り方に漠然とした憧憬を抱いていて。翁は深い慈しみの目と心で、少年の未来(これから)を祝福していた。
 ――何時か視た光景だと感じるのは、やはり気の迷いなのだろう。目を逸らした次の瞬間には、メレアグロスはその翁と少年を忘却の淵に追いやっていた。

 "夜"は"昼"の明かりに覆い隠されていたものを暴き出す。薄皮一枚の裏にあるものを、或いは鮮明に描き出す。

 故にその国、その都市、地域の顔を視ようと思うのなら、まずは夜の街を歩けばよい。
 メレアグロスは現代の街並みを識る。現界より幾度も目にする機会はあった。
 振り返れば、現代を知る為の時間だったのだと思う。時代の変遷を知る為の漫遊だったのかもしれない。
 現代の人々と触れ合い、その在り方を人の目線で視る旅路は、メレアグロスに不思議な郷愁の念を齎したものだ。

 だが、どうしようもなく醜いとも感じる。

 無駄なものに溢れ、無為な虚飾に溺れ、膨張した文明は飽食に明け暮れている。
 様々な物に触れ、現代をそのように断じた。自然の美しさを壊し、緑の恵みを貪り、刻一刻と迫る破綻の時より目を背け続ける人類は、下手に知恵を着けたために、その愚かさに更なる拍車を掛けているようだ。
 救いがない。蒙昧なる人々の目は閉ざされ、賢人の鳴らす警鐘は虚しく響くだけ。科学の利便性に万能を気取り、常識の裏側にあるものを忘却して、家畜のように現実へ飼われてすらいる。
 嗚呼、救う必要のない愚昧さよ。人類はいずれ試練の時に立ち向かわされる。
 これまで培ったものの真価はその時に問われるだろう。鋼の大地に至り、滅ぶのならそれまで。繁栄の皮を被った虚栄の平和を、それまでは享受するがいい。いずれ全ての報いを受ける時がくるのだ。
 メレアグロスは裁かない。人類へ裁定を下す傲慢さを彼は備えない。
 何故なら彼は人である。(マルス)ではない。エゴにより人が人を裁くなど、愚かを通り越して滑稽ですらある。
 人を滅ぼしていいのは、人の産み出した悪だけであり。人は善を自称してそれに抗う能を持つ。人もまた自然の一部なれば、人が自然の調和を崩すのならそれでいいと彼は定めた。
 人と共に歩み、人と共に滅ぶ。それが人と神の両面(メレアグロスとマルス)の運命だ。

 祭典の昂りも、夜気の冷たさに鎮まった。メレアグロスは漫然と新都を闊歩する。
 生前の習性として、彼は自身の領地(なわばり)見回り(パトロール)する事が非常に多かった。娘エフティリアと、息子ルーファスを連れての散策が、彼の趣味に散歩を追加していたのだ。
 結果的にそれは娘のやんちゃを助長し、息子の冒険好きを育んだ訳であるから、人間何があるか分からないものである。

「……ん?」

 ふと、ダークスーツ姿のメレアグロスは、掛けていたサングラスのレンズ越しに、一人の少女を発見した。
 なんと、まだ齢一桁と思わしき幼い身が、いそいそと夜の街を歩いているではないか。
 メレアグロスは無言で彼女に歩み寄り、柔らかい声音で声をかけた。

「止まれ、少女」
「……?」

 言われた通り、素直に立ち止まってこちらを向いた少女は、内向的な性格なのかやや下を向きつつ首を傾げる。

「こんな時間に何をしている? 子供の出歩いていい時間ではないぞ」

 言いつつ、彼は少女の事情を察していた。
 手に提げている鞄には筆記用具と資料集が収められていたのだ。
 黄金の髪を無造作に束ねた、二メートル近い長身の男に対し、少女は身長差に圧倒されているのか、たどたどしい語調で応じた。

「ぁ、その、いま塾からの、帰りで……」
「そうか。しかし帰るのなら親御さんに迎えに来て貰えば良いだろう。なぜ一人なんだ?」
「……ぇっと、その……おとうさん、お仕事で、夜もいないし、おかあさんも、朝早いから……」

 眉を顰め、メレアグロスは腰を落とし少女と目線を合わせた。

「少女、名は?」
「……ことね、です」
「コトネ。一人は危ない。近頃は物騒だから、余り夜遅くになるのなら塾は休め。何ならオレから貴様の父と母に話をつけてやろう。嫌でないなら、今回は家の近くまで送ってやらんでもないが、どうする?」
「えっ!? ……い、いいんですか、麻宮マルス(・・・・・)さん!」
「むっ」

 名乗っていない名を呼ばれ、メレアグロスは少し驚いた。
 まじまじとコトネを見る。
 きらきらと期待に輝く目。なんたる事か、サングラスを掛けて髪型を変え、帽子も被っているのに一目で看破してくるとは……近頃の子供の観察力もあながちバカにできたものではないのかもしれない。
 その慧眼に敬意を表しつつ、メレアグロスは肯定した。

「ああ、オレに二言はない。ところでコトネ、なぜオレの正体に気づいた? これでも変装には自信があるのだが」
「え?」
「……ん?」
「……あの、変装してたんですか?」
「……」

 純粋な眼差しに返す言葉がなく、メレアグロスは『麻宮マルス』と帰宅できた事に喜ぶ少女を家まで送り、なんとも微妙な気分で新都の街に戻った。

 ――妙だな。

 メレアグロスは唸る。生前、一度も変装を見破られた事のないこの身が、あんないたいけな小娘に正体を看破されたのだ。或いはあの少女が特別なのかもしれないが……少し気を引き締める必要があるかもしれない。
 まあいい。麻宮マルスは休業中だ。聖杯祭典が終わった後もこの身が長らえていたなら、まだ活動してもいいが、まあそんな上手く事が収まる訳もなし。成り行き任せでまったりやるとしよう。

 そんなふうに考え、メレアグロスは今夜の宿をどこにするかを考えた。
 綺礼と合流する予定はない。向こうから接触してくるまでは気儘にやるつもりだ。故に、普通にホテルにでも泊まるかな、と算段を練る。そこでふと、メレアグロスはサーヴァントの気配を探知した。
 戦う気分ではなかったが、どんなサーヴァントかは気になって、そちらに足を向ける。
 すると、丁度市民図書館のシャッターを蹴り破って、一人の大男がマスターらしき少年の元に向かうのを見つけた。

「おい」
「……んぅぅ?」
「うぇぁっ!?」

 征服王の略奪であるとかなんとかと御高説を垂れている大馬鹿者に向けて、メレアグロスは少年の隣に並んで声をかけた。
 少年は、突如己の真横に黄金の男が現れたのに驚愕し間の抜けた声をあげ。次いで、その正体が遠坂邸を更地に変えた化け物の片割れと気づき声も出ないほど震え上がる。
 赤毛の大男は、本を片手に怪訝そうにメレアグロスを見る。同じサーヴァント、マスターの側まで来られたマズさは無論理解している。しかし――征服王イスカンダルは、メレアグロスから脅威を感じなかった。
 敵意も、殺気もない。たまたま街中で出会った普通の人間同士の一期一会といった風情だったのだ。イスカンダルは、メレアグロスに向けて語りかける。

「あー……その、なんだ。その方、余のマスターから離れてはくれんか? 坊主が怯えて情けない面をしておる」

 むざむざサーヴァントの急所であるマスターから、敵サーヴァントが離れる訳がない。
 だがメレアグロスは、よかろう、と頷いた。おっ、とイスカンダルが目を丸くする。まさかそんな簡単に話がつくとは思わなかったのだ。

「よかろう。――だがタダでとは言わん。オレの命に従うなら小僧を返してやる」
「ふむ。まあそうなるわな。で、何が望みだ」

 断固として居住まいを正し、伝説の征服王の威風を纏うイスカンダル。そんな彼に、メレアグロスは端的に告げた。

「その本を、返してこい」

 狼の縄張りで、略奪も征服もご法度である。


















風邪治りました(о´∀`о)

薪メレZero編から終わらせます。


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演者の信条

やばいぐらいの難産回。やばい、征服王ムズい!














 ――イスカンダル・ズルカルナイン。

 世に知れ渡る名は、言わずと知れたアレクサンドロス大王。
 アルゲアス朝マケドニア王国の王者(バシレウス)であり、紀元前四世紀を代表する世界的偉人であった。

 トランプのクラブ、そのキングのモデルともされた彼の大王には様々な伝承が存在する。
 だが彼の伝説を物語るに当たり、無視できないのはその比類なき"血筋"であろう。
 アレクサンドロスはギリシャ二大英雄のヘラクレスとメレアグロス、双方の血を引く最高の家系的栄誉と共に生誕した。哲学者アリストテレスを始めとする賢者らに見い出され、哲学や政治学を学び、胸躍る神話を読み耽り、兵士としての鍛錬を積んだアレクサンドロスにはあらゆる可能性が許されていた。
 或いは必然なのだろう。彼は偉大な祖先を崇拝した。特に熱中して読み耽った神話の影響だろう。アレクサンドロスのメレアグロス大王への畏敬の念は凄まじく、伝説の大王の遺した青銅板の収集に大いに情熱を燃やしたという。
 アレクサンドロスが各地への征服へ乗り出した最初の切っ掛けは、散逸していた青銅板を収集する為とすら語られるほどであり、事実アレクサンドロスは現在に受け継がれる青銅板の殆どを集めきり、そしてそれをアテーナイへ厳重に保管した功績を持っている。

 アレクサンドロスはメレアグロスの墓に自ら花冠を捧げ、アテーナイの女神アテナの神殿に己の全ての武具を奉納し、代わりにメレアグロスの弟子として知られる"貴き者"テセウスの鎧を受け取ったという。
 東方遠征の際に小アジアに辿り着いた際、アイトリアとヒッタイトの戦いの舞台となったトロイアにて、夢の中で戦神マルスに会い彼から聖なる盾を授かったという逸話は有名だ。事の真偽は兎も角、アレクサンドロス大王は興奮の余りそれを自慢して回り、聖盾を常に持ち歩いて片時も離さなかった。
 アレクサンドロス大王は聖地巡礼を行う程の二大英雄の信奉者であり、聖地にて部下と拳闘を行って交遊し、メレアゲルの泉に槍を投げ込むほどに憧れていたのだ。



「……ふむ。うぅむ。うーん……」



 筋骨隆々とした赤毛の巨漢。威風猛々しき史上最大規模の大英雄は、その来歴に相応しい威厳備える風貌にやや戸惑いを滲ませ、相対するサーヴァントをじろりじろりと上から下まで見渡していた。
 メレアグロスは苦笑してグラスを傾け、優雅に麦酒を呷る。征服王の横には小柄な少年がいて、あからさまに怯えていたから、こういった所作一つで敵意のなさをアピールする他ない。

 彼らは今、新都に数ある居酒屋の一つで、隅の方を貸し切ってささやかながら酒宴と洒落込んでいた。

 ――市民図書館での一件。征服王は思いの外あっさりと要求に従った。マスターの命欲しさという訳ではなく、なにやらメレアグロスに対して感じるものがあったらしい。
 そのまま何もなく別れるのも手ではあるが、それは些か味気ない。だが、かといってメレアグロスは今宵の戦はもう充分だと思っていた。
 これは聖杯祭典である。自分ばかりが目立っても仕方がない。他のサーヴァント同士の戦いを冷やかすぐらいはしたかったのだ。幸いライダーのサーヴァントも戦闘に移る気配もなかった。ならばとメレアグロスは彼らを食事の席に誘ったのである。
 何も矛を交えるばかりが戦いではない。異なる時代の英雄豪傑、言葉も交わさず別れるのは勿体ないというもの。会話の成立する相手とは可能な限り交わろうとメレアグロスは目論んでいた。

 居酒屋に入る前、イスカンダルの格好は"コスプレ"の一言でごり押した。
 居酒屋の店員は何故かメレアグロスを見て酷く納得していたが……それは今はどうでもよい。王者とは酒の席に誘われては否とは言えぬ悲しき生き物。神霊ではないが、ギリシャ・ローマの戦神と極めて密接な関係を持つメレアグロスである。生前のライダーを自らの実感としては知らないが、知識としては備えている故に彼の真名も性格もお見通しで、こうしてアレクサンドロスが"イスカンダル"として現界しているのにある種の面白味を感じていた。

「なあ。その方、余と何処かで会った事はないか? どうにもなぁ、お主とは初見の気がせんのだ」

 邂逅からこっち、ずっと眉根を寄せて難しそうに唸っていたライダーが、遂に思い出せぬと観念したのか、率直にメレアグロスへ訊ねた。
 思い出せずとも無理はない。夢の中で会ったきりの、こちらが一方的に知っているだけの間柄だ。寧ろ雰囲気だけで既知感を抱けるだけ、イスカンダルは充分以上に記憶力が高い。
 メレアグロスは鳥串を喰らい、ゆっくり咀嚼しながら飲み込んであっさりと肯定した。

「"この"オレではないが、オレでない"オレ"となら知らぬ仲でもないな。悪童」
「――む、」

 悪童。征服王を知る者としては、およそ相応しからぬ評に、しかしイスカンダルは面食らったように目を見開くだけで目立ったリアクションは取らなかった。
 否、取れなかったのだ。ぽかん、と呆気に取られたように、イスカンダルはメレアグロスの顔を見るしかなかったのだから。

 "――ほぉ。あの悪童が、よくもまあここまでやれたものだ。オレの遺した史料を集めきった事は素直に誉めおこう。
 これは手向けだ、これより更に東方へ向けて遠征するというなら、精々後悔せぬよう駆けるがいい"

 何時か聞いた、戦神の声。
 それと、目の前の英霊の輪郭が、かちりと嵌まったのをイスカンダルは確かに感じた。

「まあ喰え。安酒、平凡な飯しかないが、それこそが人の世の醍醐味である。絢爛なるものばかりが尊い訳ではないと、貴様は知っているだろう?」
「う、うむ……」

 おっかなびっくり、といった様子のライダーに、彼のマスターである少年こそが、この場で誰よりも"らしくなさ"を強烈に感じていた。
 なんだ、このしおらしさは! 少年――ウェイバー・ベルベットが目の前の化け物を向こうに回して頼りになるのはライダーだけなのに、その肝心のライダーがこんな調子では自分はどうなるというのか!
 ああ……、とウェイバーは悲嘆に暮れる。
 なんだってこんな事になっているのか。市民図書館でこの黄金の怪物と遭遇してしまったばかりに、こんな低俗な食事処で卓を囲う羽目になった。やはり何がなんでもライダーに好き勝手させなければよかったのだ。ライダーは直接見てないから正気を保っていられるが、ウェイバーなんていつこの怪物が暴れ出すか気が気でない。
 こんな街中でメレアグロスが暴れるなど有り得ないのだが、ウェイバーは動転している為にそんな判断すらつかなくなっている。ライダーの巨体にしきりに隠れようとする小柄な少年には、さしものメレアグロスも苦笑は隠せなかった。

「……参ったなぁ。味が解らん! 余ともあろう者が、どうやら緊張しておるらしい!」

 だっはっは! と豪快に自らの緊張を笑い飛ばし、イスカンダルは麦酒と鶏串を一気に平らげた。
 その様はまるで、野球少年が憧れのメジャーリーガーと不意打ちぎみに対面してしまったかのようだ。
 ようやく現実感が追い付いてきたのだろう。次第に興奮の赤が満面に滲み、イスカンダルは身を乗り出して訊ねてきた。

「なあ! お主、あの"薪のメレアグロス"なのであろう!?」
「ああ」
「――えぇっ!?」

 明け透けに問われ、あっさりと肯定したメレアグロスに、ウェイバーはひっくりかえるほど驚愕して。次いでそのビッグネームに目玉が飛び出そうになるほど仰天した。
 ――メレアグロス! あの(・・)メレアグロスだって!? そんな、そんなのってありなのかよぉ!?
 ぱくぱくと口を開閉する事しか出来ない己のマスターの様子も眼中になく、イスカンダルは「おっほぉ!」と奇声を発して喝采をあげた。

「なんたる僥倖、なんたる幸運! よもやこの聖杯戦争で、あのメレアグロスと出会えようとは! 英霊なんぞになってもイイ事などないと思っておったが大間違いであったな! 余はいま、猛烈に感動しておる!!」
「……は、そうまで喜ばれては悪い気もしないものだ」

 呆れた風に嘆息しつつも、メレアグロスも満更ではない。
 現代には絶えて久しい己の子孫である。イスカンダルも死人であるが、こういった"有り得ぬはずの出会い"もまた、聖杯祭典の醍醐味であろう。なんであれ、自らの子孫に敬われているのも中々に気分がいいものである。
 イスカンダルは両拳を胸に当て、ふるふると満身を震えさせる。そして辛抱堪らんとばかりに両手で卓を叩き、勢いよく立ち上がってメレアグロスに向けて拳を突き出した。
 なんでもないように、座ったまま拳を出してこつんと合わせる。すると、イスカンダルは己の拳に返ってきた衝撃に、くぅうッ! と嬉しげに呻いて歓声を上げた。

「見たか坊主! 今、余はあのメレアグロスと拳を合わせたのだ! ハッハァ! プトレマイオスめが知れば歯軋りして羨むに違いない!」
「メ、メメ、メレアグロスって、らいだぁ! 今、こいつメレアグロスって……!」
「ワァッハッハ! 流石我がマスター! そのメレアグロスを目前に"こいつ"呼ばわりとは、余にも真似できぬ豪胆ぶりよのぉ!」
「うぇっ!?」

 慌てて自分の口を抑える少年に思わず笑い、メレアグロスはふざけ半分で凄んで見せた。

「貴様如き小僧がよくも身の程を弁えずにほざいたな、不敬ッ!」
「うわぁあああ!? ラララライダァ! 薪、薪探せ薪ぃっ!!」

 いたいけな少年をからかい爆笑するおっさん二人がそこにいた。
 顔を真っ赤にして固まるウェイバー少年に、眦に涙すら浮かべて笑い転げていたライダーとメレアグロスであったが、メレアグロスは笑いを治めるとやや真面目ぶって少年に諭した。

「童よ、悪いことは言わん。貴様が薪を探すのはやめておけ」
「……な、なんでですか……。いやなんでだよ!」
「オレのマスターは魔術師狩りの達人故な。半端な腕前のマスターが近づこうものなら、赤子の手を捻るが如く処理されるのが関の山だ。そこな悪童を連れていけば、奴もオレを令呪を使って呼び出すであろうし、余り良い手とは言えん」
「そうだぞ坊主。それになぁ、かの最優王と覇を競い、鎬を削れるまたとない好機を逃してなるものかッ! 余は何があろうと最優王メレアグロスとの決戦から逃れるつもりはないぞ!」
「そういう事だ、腹を括っておけよ、童。まあオレは、生きている人間は、余程の外道でもない限り殺めるつもりはない故、そこは安心して良いがな」

 さらりとマスター狙いを放棄する発言を捨て置き、メレアグロスはイスカンダルと酒を酌み交わした。
 上機嫌に麦酒を呷り、完全に出来上がった様子で語り合うおっさん二人に、ウェイバーは猛烈に叫び出したくなる衝動に頭を抱えた。
 自身のサーヴァント、ライダーでもまともに戦っては勝機は薄い。宝具の戦車でなら倒せるかもしれないが、あんなビルを投げるような怪力を相手に有効な手か解らない。
 メレアグロスは雷神系の半神だ。戦車の雷撃は効果が薄いだろう。クラスが何かは知らないが、もしランサーだったら最悪すぎる。戦車の突撃も正面から受け止められかねない。どうしたらいいのか。もうあの黄金の化け物の片割れに期待するしかないのか。相討ちになってくれと願うしかない?

 メレアグロスはそんなウェイバーを横に、イスカンダルと何やら互いの来歴について語り合い、歴史家が涎を垂らして聞き入るだろう秘話を明かして笑い合っている。
 征服王の覇道に感心したり、メレアグロスとヘラクレスの決闘の真相を知って大の男が感涙していた。

 そして、不意にメレアグロスがウェイバーに言った。

「安心しろ。オレの怪力には種も仕掛けもある。英霊相手にあそこまでの膂力は発揮出来んよ」
「……へ?」
「オレのスキルだ。山投げの逸話でな、山以下の重量をゼロに等しくするが、神秘の籠るものには適用されん。故に宝具での突撃(チャージ)を正面から受け止められはせんよ」
「そ、そうなんだ。なら安心……ってなんでボク、いやワタシの考えてたことがっ」
「顔に書いてある。童の心も読めずして何が王か」

 ぐび、と再び麦酒を呷る最優王。
 生前は下戸だったが、こうして英霊となった今、酔うという事もなくなった故に平然とアルコールを摂取できるようになった。
 まあ酔えない酒に価値はないらしいが、そこはそれ、気分の問題である。メレアグロスはふと、良いことを思い付いたと言わんばかりに手を叩いた。

「ああ、そういえばアレクサンドロス。貴様、この祭典をどう戦うつもりだった?」
「む? ……うむ、実はな、余は他の英霊どもを根こそぎ相手してやろうと思っておった。せっかく古今東西の英雄豪傑が集うのだ、一人でも逃しては勿体ないと思ってな」
「――はぁ!? バカバカバカこんのバカぐぇっ」

 騒ぎだしたウェイバーをデコピンで黙らせ、イスカンダルにメレアグロスは我が意を得たりと鷹楊に頷いた。
 流石に解っている、祭りとはそのような心意気で臨んでこそだ。勝利を横から盗もうとする輩に栄光は舞い降りない。漁夫の利を狙うような不届き者がいれば、真っ先に叩いて退場願う。
 メレアグロスはイスカンダルに誘いをかけた。
 やはり一人で動き回るより、志を同じくする者と行動した方が都合がいい。

「なあ、アレクサンドロス。折角だ、他の英霊どもをかき集め、一度に覇を競う大戦を起こしてみないか?」
「おぉう!? それは面白そうだ、乗ったぞ最優王!」
えっ。……じょ、冗談……?」

 赤くなった額を押さえながら、ウェイバーは盛大に顔を引き攣らせた。
 そして悟る。

 嗚呼。この二人は、決して出会わせてはならなかったのだ。

 奇しくもウェイバーの予感は的中する。
 この第四次聖杯戦争は、この時を以て、過去に例を見ない様相を呈していくことになるのだ。

















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狼の狩り術

潜む者、狙う者、武威にあてられ怯みし気勢。次手を読む事のなんと容易き事か。
狩りとは武によりて成すのみに非ず。故に示さん。汝ら、既に我が掌中に在りや。













 ――執る策術のなんと見え透いた事か。

 思った通りの諸勢の動きを影に目し、金色の大狼は小心なる者らをせせら笑う。
 狼の瞳に過大も過小もありはしない。ありのままに事象を見定める眼力は、遠坂邸での初戦が祭典に連なる者らの心胆を寒からしめた事を察知していた。
 故に策動に逃れる邪道の徒らの、その駒の打ち筋をなぞるのは至極容易い。
 念のため英雄王との初戦を終えてよりきっかり一日、サーヴァントの気配を垂れ流しにして街中を練り歩いたというのに、応じて姿を現す者は皆無だった事も彼の予見を確かなものとして証明していた。
 暗殺者や魔術師の英霊ならいざ知らず、剣士や槍兵までも姿を現さぬのは妙なのだ。英雄とは大なり小なり自らの腕には自信があるもの。戦いもせぬ内から怯濡に染まり逃げの一手を打つとも思えない。となると、やはり隠れ潜むのはマスター側の方針と見て間違いないだろう。
 ビルの質量攻撃は見せた。拠点型の宝具があるならいざ知らず、一定の箇所に留まり防御を固めるような愚を犯しはしまい。影から影へ移り、こちらに捕捉される前にマスターを討つ最良の結果を求めているに相違ないだろう。
 であれば、警戒すべきは綺礼の暗殺。下手に正面から向かえば令呪を使われてしまうのは自明、こうまで逃げ回るなら奇襲で一気に片を着けようとするだろう。
 だが生憎と、明確にメレアグロスのマスターは判明していない。そんな中で、メレアグロスのマスターを特定し、その上で本気で隠れている綺礼を見つけ、狙い打てるのはとびきりに優れた暗殺者の英霊か、それに匹敵する調査能力を持つ者だけだ。どんなに少なく見積もっても三日は安全だろう。

 となると、やりようは幾らでもある。

 逃げ惑い、隠れ潜む者を炙り出し、誘導するのはお手のもの。一人では少々の不確定要素があったが、ライダーの協力を得られたのだから楽が出来る。
 楽しむのは大切だが、やはり、やるからには勝ちたいと思うのが人情だ。勝利への布石は打てる時に打つ、こういうのは勢いが大事だ。後手に回れば反撃も難しいと教えてやらねばなるまい。

「所詮は根も張れぬ日陰者。陽が動けば隅に追いやられるが関の山だ」

 聖杯祭典が本格的に開催される前。綺礼を通じて教会に手配させ、参加が確定されている外来のマスター及びアインツベルンとその勢力下にある者の顔写真は入手してある。
 というより、聖堂教会が手に入れていた物を流用しただけだが、それらをコピーして私兵集団(ファンクラブ)の方に回してあった。後はこちらから合図を送り『ゲームスタート』と告げてやるだけでいい。

 愉快げに微笑む。確か、こういう時はなんと言うのだったか。

「細工は流々、後は仕上げを御覧じろ――と、言えばいいのかな?」

"麻宮マルス"は、そっと微笑して其処(・・)で待つ。























「……?」

 昨今の技術革新は目覚ましいものがある。
 現在1994年11月。民間に携帯電話が普及し始めた年代だ。
 日本では国民一人一人が携帯電話を所持するのに、まだ幾らかの時が掛かるのは事実であるが、それでも昔の世代からすれば考えられない事だろう。
 それは日本での活動を主としていない衛宮切嗣にとっても同じ事だ。
 存在は知っていても実感が薄い――人の心理の陥穽である。一部の人間が所持していても、大多数がまだ未所持ならば、どうしてもそれに対する意識は薄くなってしまうものなのだ。

 ――人混みに紛れているとはいえ、油断はしていなかったのが功を奏した。

 切嗣は道行くある一人の女性が箱形の物体を耳に当て、こちらを見ながら何やら熱心に喋っているのを見かけた。
 そしてその女性を皮切りに、周囲の人々が切嗣に目を向け、指を向け、興奮ぎみに叫んだのだ。

見つけた(・・・・)ッ! エミヤキリツグだ(・・・・・・・・)!』

「……ッ?!」

 まだ日中である。街に人気は多く、活気は充分だった。叫ぶなり群衆は、目を血走らせて切嗣に殺到してきた。
 咄嗟に人混みを掻き分け、眼前に立ち塞がった青年を突き飛ばし、無事に逃げ出せたのは奇跡に近い。
 いきなりの事だった。予想外の事だった。完全に虚を突かれた。
 訳も分からず逃げるだけではない。切嗣は瞬時に状況を分析した。
 あの女性、耳に箱形の物体を当てていた。アンテナがついていた事から無線機の亜種――いや、あれは確か"携帯電話"だったか? 近年に民間に普及し始めた無線電話があんな形をしていた。では何故自分を探しているふうだった? あれらは聖杯戦争の関係者なのか?
 ……それはないだろう。明らかに一般人だ。しかし一般人がなぜ自分を追う? ……魔術で操られているのか? ……彼らは正気だった。とてもじゃないが、何者かに操られているようには見えない。

 切嗣は裏道に逃げ込み、自身を追う者を一人捕らえて事情を聞く事にした。

「……誰の手の者だ?」

 一人で突出し、考えなしに走り回っていた若者に狙いを定めて腕を掴み、背後に回ってビルに押し付け、関節を極めて拘束し耳元で冷酷に囁く。
 切嗣の佇まいの不気味さに、その青年は震え上がって、愛想笑いを浮かべながら益体もない事をぺらぺらと囀ずった。イベントがどう、とか。遊びに本気になってんなよ、とか。――埒が明かぬと判断して、切嗣は青年に暗示を掛けて訊ねた。
 知りたい事は一つ。誰が切嗣を探しているのかだ。

「なに?」

 飛び出てきた名前に困惑する。
 "麻宮マルス"。生きる伝説。青年はそのファンで、麻宮マルスがテレビ番組の収録として、何人かの"イベント関係者"を探し出して連絡を取るようにと指示してきたのだという。
 ファンはそれに嬉々として従った。彼の指示はファンの者にとって王の勅命に等しい。切嗣をはじめとした"イベント関係者"を捕まえた場合はその者に"麻宮マルス"が直々に豪華報酬を与えると言っていた、と。 
 ただそれだけで、切嗣だけでなく、アイリスフィール・フォン・アインツベルンや、ケイネス・エルメロイ・アーチボルト、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ等が探されているらしい。
 その中には間桐雁夜、遠坂時臣、言峰綺礼も含まれている。ご丁寧に顔写真つきで出回り、冬木全体が"イベント関係者"を血眼になって探しているという。

 思い出されるのは、テレビに映っていた男。昨今、社会現象となりつつあるという"麻宮マルス"というサーヴァント。

 閃光が脳裏を奔った。

 遠坂邸での戦い。麻宮マルスという名前。更に、一般人の"数"を利用した、聖杯戦争関係者という"日陰者"の追い込みの手法。――切嗣は"麻宮マルス"の思惑を悟った。
 悟ったが、返し手がない。焦燥に駆られる。
 自分はどうにでもなる、だがアイリスフィールはそうもいかない。神秘の秘匿の関係上、大人数の人間相手に魔術を使うわけにもいかないとなれば、ただの成人女性ほどの体力しかないアイリスフィールが逃げ切れるか? 切嗣は青年を解放し、自分に会った事を暗示で忘れさせて、人気のない道に逸れていきながら久宇舞弥に無線で連絡を取りアイリスフィールを逃がすよう指示を――

「――」

 飛び退くようにして反射的に物陰に隠れる。
 切嗣の行き先にサーヴァントとそのマスターがいたのだ。

 赤毛の巨漢と、小柄な少年。人気のない道を中心に練り歩いている。

 どう見ても、誰かを探しているふうだった。"イベント関係者"の中にはあの小柄な少年は含まれていたという話はなかった。なら、あの少年は"麻宮マルス"と結託している可能性があるが……。
 仕掛けるのは無謀。エネルギー摂取の為に、昼食を買い求めるついでに情報を集めようとしていた所だったため、今は銃もコンテンダーしか持っていない。装備不十分だ。令呪で騎士王を呼び出し敵サーヴァントを抑えさせ、自分が少年を仕留める手もあるが、その場合アイリスフィールからセイバーの守りを外す事になる。今はそれは避けねばならない。

 奥歯を噛み締め、切嗣は身を翻して駆け去りながら脳裏に周囲の地図を描く。
 まずは装備を回収に向かわねばならない。然る後に"麻宮マルス"の意表を突くために動く必要がある。この嫌な流れは何処かで断ち切らねば非常に不味い。
 仮の拠点としていたホテルの一室で、装備を固めながら地形データを参照。
 人気の固まる都市部は離れないといけない。都市部の構造的な死角は恐らくあの赤毛のサーヴァントとそのマスターが張っているとなれば行ける場所も限られてくる。
 郊外のアインツベルンの城は論外として、廃工場か倉庫街の辺りにしか向かえる所はなく、後は下水路かはたまた冬木の外か。どうあれ、動きを制限されるのは確実で、日中はどう足掻いても一般の目から逃れる事に専念せねばならなくなる。それが嫌なら……。

「……舞弥、聞こえるか?」

 己の道具(・・)に連絡を取り、切嗣は言う。

「"麻宮マルス"はバカのふりをした最優王だ。僕は奴の思惑に乗る。舞弥は薪を探してくれ」



















 ――そうして人の手を逃れるため、遁走する恥辱を味わい、ケイネスはソラウとランサーを伴い廃工場まで逃れた。
 己が誘導されている事を知らず。

「貴様は……その清烈な剣気、セイバーとお見受けするが、如何に?」

 ――"動かされている"事を悟りつつも、無辜の民に手を出す訳にいかず。かといって守護する冬の姫を放り出す訳にもいかず。
 逃れた先にて遭遇した二槍使いの美貌の槍兵に、まんまと誘導された事実に騎士王は歯噛みする。

「ランサーの、サーヴァント……!」

 ――そして。両者をただ相討たせるだけの面白味もない策など練るはずもなく。
 黄金の狼は、遮断していた気配を現し、片膝を立てて腰かけていた廃工場の屋上より、悠々と彼らに声を掛けた。



「ようこそ。此度は聖杯祭典の総当たり戦だ。勇無き者、武の足りぬ者はここで倒れて貰う」

 突如出現した気配に驚愕し、マスターであるケイネスは黄金のサーヴァントの出現に顔色を変える。
 構わず、警戒するランサーと、どこか呆気にとられたセイバーに向けて、拳闘の英霊はにっこりと爽やかに語りかた。

「さあ、戦おうか」
















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六つ巴の戦華 (上)





 星の燐光を纏う、金色の毛並みの大狼。

 赫々と、爛々と。背負う月光を弾く紅い星。
 まるで死を唄う火の星のようだ、と黄金の獣を見上げ――ぶわ、と総身から汗が吹き出た。
 緋色の神性の、なんと濃密なことか。夥しい闘争の質量に神を視る。
 黄金の魂は灼熱の恒星となりて、月下の地を莫大な意思力で照り輝かせていた。

 竜の因子が哭いている。
 英雄の本能が戦慄を訴えている。
 遥か天上に顕現している存在の重さに空間が(ひしゃ)げ、眼下を見下ろす黄金の瞳が蠱惑的な破滅(ひかり)を放っていた。
 聖剣が軋む。
 天に座する膨大な神威に呼応して、あたかも幼子が無条件に親を慕うように震えている。
 鋭敏な勘が、刀身の震えからブリテンの赤い竜へ確信を懐かせた。

 嗚呼――彼が、そう(・・)なんだ。

 騎士を志した者に知らぬ者無く。英雄として身を立てた者の標となる薪の王。
 原初の騎士、十三席筆頭。無垢な白百合が憧れ、現実を知った小娘が思い出の中に遠ざけ、あの丘で本当の騎士王(・・・・・・)ならこんな滅びは迎えなかっただろうと諦めた。
 チカチカと目の奥で光が明滅した。
 眩暈が、酷い。ふらついた足が、辛うじて地面を踏み掴む。曲がりなりにもブリテンを背負いし王なのだ、無様は晒せない。特にあの真の騎士王を前にしては。

「薪の――メレアグロス」

 溢れ落ちた名に、昔日の憧憬と、積年の慚愧が混ざる。彼には届かなかっただろう、しかし魔貌の槍兵は、竜の吐息にも似た囁きを確かに聞いた。
 見開かれた眼が、驚愕と疑心を宿す。
 本当に? 彼があの……? 双槍の騎士の疑問に答える義理などあろう筈もなく、ブリテンの赤い竜のみが騎士王としての金狼を見上げた。

「ようこそ。此度は聖杯祭典の総当たり戦だ。勇無き者、武の足りぬ者はここで倒れて貰う」

 煩悶とした熱を秘めし乙女の視線に気づいていように、まるで気にも留めずに言い投げるや否や、廃工場の屋上より飛び降りた黄金の狼。魔貌と赤竜の間に降り立った彼は、典雅に両手を広げて彼らへ楽しげに告げる。

「さあ、戦おうか」

 戦意。
 暴力的なまでに澄んだ、純粋な闘技の競り合いへの誘い。
 言葉は無粋。望むのは一心に闘争、只管に抗争、華やかなまでに血塗れの競争だ。原始の闘争本能のみで晴れやかに告げる人理闘争の化身は、あくまでにこやかに剣と槍の英霊を見据える。
 万の想い、億の問い、全てを押し退け叩きつけられる戦いへの誘いに、本能的に戦闘体勢を強いられる。偉大な先達への敬意も、示すべき義も、何もかもが無用。ただ戦うのみ、これはそれだけの場であると心身を以て示している。
 それは真理だ。究極、サーヴァントは戦うために存在している。
 故に彼の目に映っているのは英霊だけ。アイリスフィールも、ケイネス・エルメロイも、まるで眼中にない。脅威足り得ないと捨て置いているのではなく、純粋に興味がなく、またそもそも彼にマスターを狙うという発想自体が思考に介していないのだ。

 ケイネスが青ざめた貌で、表情を強張らせランサーに命じた。

「ランサー! 私はソラウと共に撤退する!」
「ッ、我が主よ、それはいったい……!?」
「奴は貴様の敵う相手ではない! 勝算のない敵と策も無しに戦うのは愚の骨頂、迅速に退くのが上策であろう! ランサー、貴様は奴の足止めに徹しろ、宝具の開帳も赦す! 是が非でも私とソラウへの追撃を許すな!」
「ちょっと、ケイネス?!」

 問答する時すら惜しいとばかりに身を翻し、ケイネスは抵抗しようとするソラウを無理矢理に連れて一目散に退いていく。
 ロードとしての誇りも、魔術師としての矜持も、貴族としての高慢さもかなぐり捨て、ケイネスは即断した。ここには自分だけではない、最愛のソラウもいるのである。勝算の見えない敵――ビルを投げるような桁外れの暴力装置にランサー如きのパラメーターで勝てるわけがないと彼は判断したのだ。
 ましてやここには他の敵サーヴァントや、そのマスターらしき魔術の名門アインツベルンの女もいる。乱戦は必至。如何なケイネスといえど、ソラウを守りながら切り抜けられるほどに易い状況ではない。
 唖然とするアイリスフィールとアルトリア。ランサー・ディルムッドは自身の力を主君からまるで信用されていない事を衆目に晒され、屈辱の余り血が出るほど唇を噛んだ。

「ふん……」

 だが、最優王は逃げる敵マスターを追おうともしなかった。
 戦いを避ける判断が、己の身可愛さであったなら逃がさなかったろう。しかしあの神経質そうな男は、明らかに連れ添いの身を案じて遁走したのである。
 自らのプライドを捨てての、連れ添いを慮っての瞬時の逃走。これは嗤うべきでない見事な判断だ。故に逃走を許した。だが……。

「どうするランサー。貴様は今、主からの信頼は無いに等しいと示された訳だが。今ここでオレに武と勇を示し、醜態を払拭する事こそが騎士の道に通じるのではないか?」

 口惜しげに槍を握り締める美丈夫に、拳闘の英霊はやや揶揄する響きの言葉を向けた。
 それは彼らしくない皮肉めいた物言い。しかし根底にあるのは陰った士気を晴らさんとする発破である。
 果たして魔貌の槍兵は刮目し、双槍に巻き付けてあった呪符を剥がして、真紅の魔槍の切っ先を最優王へと突きつけた。主君への忠を全うする事へ執念を燃やす騎士にとって、彼の挑発めいた言葉は効果覿面であった。

「――言われるまでもない。胸を借りるぞ最優王、せめて一矢報いねば、俺は主に会わせる顔がない……!」

 発奮して闘志を漲らせ、輝く貌の騎士は戦意を発露させる。最優王と呼んだのは、セイバーの呟きが真実か否か確かめる為のカマ掛けか。火星の権を司る神格の人間面、薪のメレアグロスは否定する事なく嘯いた。

「ほぉ、一矢報いるだけで満足なのか? 謙虚なのだな、貴様は」

 不敵に微笑み、ギリシャ最大の人傑は拳を構える。
 苦り切っていた貌に、確かな笑みが浮かぶ。ディルムッドは目の前の英霊の威風に、名にし負う伝説の騎士であると確信を得た。
 羽を広げる鳥の如く双槍を構え、非業の騎士は、騎士の源流足る男へ問いかけた。

「――言葉の綾だ、首級を頂く事に一片の躊躇いもない」

 そう、一矢報いる……それだけで満足できるものか。
 この磨き上げた槍の技で、始まりの騎士と雌雄を決する。これほどの栄誉に与れるのなら、騎士として本望というものだ。そして勝利を主に捧げられれば、どれほどの充足だろう。
 故に槍兵は望む。伝説の騎士との決闘を。万全の王者との戦いを。

「最優王よ、武具は構えないのか? 名高き宝剣か、貴き地獄槍か。どちらであっても打ち合えるとなれば騎士の誉れ。いずれのクラスを以て現界したのか敢えて問わないが、得物を構えるまでは待ってもいいぞ」
「ああ、案ずるなランサー。オレはもう、あらゆる武具に勝る無双のケンを構えている」
「……?」

 その言葉に、ディルムッドだけでなく、アルトリアもまた首を傾げた。
 肘を胸の前で閉じるようにして両拳を構え、腰を落とし、両足を肩幅ほど開いている。
 どう見ても、剣や槍を構えているようには見えない。いったいどこに()を構えている姿があるというのか。

「無双の剣というのは不可視のものなのか?」

 戸惑い気味に問うディルムッドに、メレアグロスは明朗に告げた。

「いいや? この(ケン)は見えざる物に非ず。拳闘士のサーヴァントとして、一切の武具は用いんさ」
「……拳闘士だと? ではその拳が……徒手空拳こそがそちらの得物と宣うのか……?」

 それは、なんて傲慢。

 知らず険悪となるランサーの美貌。舐めるなと睨み付け、正に気炎を吐かんとしたその時。拳闘の獣はにやりと笑んで、槍兵の不覚を指摘する。

「どうした、戦いはもう始まっているぞ」
「な――、」
「まずは挨拶(カイレ)だ。これで死んでくれるな?」

 軽やかに、舞うように。地を滑るような一歩が、彼我の間合いを零とする。
 槍を振るうに能わぬ距離。拳打の間合い。百の歩を一とする純粋な体技は、槍兵の虚を完全に突いた。繰り出された砲弾の如き拳が懐に食らいつき、吐瀉を撒き散らして顎を下げた槍兵の顔面を強かに螺旋の拳撃が抉り抜く。
 ピンボールのように派手に吹き飛んだ槍兵は廃工場の壁を貫通し、瓦礫の山に埋もれる。まさに一瞬の出来事、唖然とするアルトリアと、アイリスフィールを尻目に拳闘王は嘯いた。

「武具の担い手、主足らんとする者は、まずは己が肉体の主とならねばならん。即ち得物の有無に武勇の如何を左右されるようでは未熟。このオレの強さは、剣槍の強弱に埋もれるほどに安くはない」

 堂々と告げ、拳の手応えを判じつつ、「まあ死んではないか」と呟いた。

「さて」
「ッ……!」
「貴様は同じ轍は踏んでくれるなよ、剣使い」

 黄金の双眸に捉えられ、瞬時に剣を晴眼に構えたアルトリアに、メレアグロスは優しく語りかける。

「――まずは小手調べだ。後世の騎士の力、このオレに示すがいい」


















アルトリア「(あれは伝説の挨拶……ッ! 私も負けてはいられません!)」


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六つ巴の戦華 (中)

本日二度目の更新です。















 星の内海、涅槃の先に揺蕩う虚ろな水底。薄くも重い膜に総体を包まれ、覆い隠されるようにして捕らわれた錯覚に息が詰まる。
 なんとした事か。未来予知の域にある勘の目が、総軍を率いる大なる狼を幻視した。
 百万を超える意思の集合体。押し潰される事なく燦然と煌めく超越者(黄金)の魂。内包する存在の密度に吐き気を催し、呼応するようにして裡なる赤竜が鎌首をもたげる。
 研ぎ澄まされていく。
 最古の騎士が悠然と歩み寄る毎に、裡なる幻想が凄絶に脈打った。
 視界が細まり、それでいて何処までも拡大し(ひろがり)、視点が宙に浮遊して俯瞰を得、眼に映る不要な色彩が欠落する。
 魔竜ヴォーティガーンと相対した時を超える意識の集束を実感した。今ならば彼の湖の騎士の剣撃も難なく捌き得る――その確信に、知らず頬が緩んだ。
 戦おうとしている。そう、闘わんとしているのだ。あの、最優の誉れ高き古代の王と。
 伝承に曰く。比肩する者、ヘラの栄光のみ。列する十二の騎士悉く後塵を拝し、並び立つは生涯に於いて唯一人であったという。そんな、人理最大級の傑物との叶うはずのなかった対峙は、まさしく望外の幸運と言える。
 充溢する覇気のなんと厳かな事か。踏みつけられる毎に罅割れるアスファルトの小気味良さと来たら、激烈な歓喜と嫉妬と激怒と悲哀、極大の敬意と憧憬に思わず総毛立つ程だ。
 同じ轍を踏むなと言ったか。槍兵の如く無手である事を侮るなと諭すか。無論だ、我が身を振り返り傲れるものではない。自らの足跡と、偉大なる先達の遺した業績を比較すれば優劣は明らか。どうして侮れる、どうしたら気が抜ける。この身に赦されるのは全身全霊のみであるというのに。

「アイリスフィール、下がって」

 もはや守護すべき姫の声すら耳は拾わない。彼女を気遣いながら戦える相手ではなかった。密かに風の鞘を(ほつ)れさせ、渦巻く魔力を隠蔽する。戦いは始まっているのだと彼は告げた。ならば卑怯とは言わせない。
 女魔術師の庇護者足る彼は、決してアイリスフィールを傷つけないだろう。気遣うのは巻き込まないという一点のみ。ゆったりと間合いを詰めてくる拳闘の雄に合わせ、半円を描くようにして移動し立ち位置を調整する。

 聖剣を両の手で確りと構える。

 不可視の剣、刃渡りを見て取れぬ不利を毛先ほども気にする素振りなく、黄金の双瞳は混沌とした静かなる乙女の激情を正面から受け止める。
 あたかも健気な娘に語り掛ける父のように、黄金瞳が柔和に告げていた。――行くぞ、と。爽やかに戯れる童の如く。

 ゆらゆらと持ち上げられた掌が、界を握り潰すようにして握り込まれ、みちみちと拳が固められていく。拳大の城壁のようだ、とアルトリアが感じるのと同時に、

 警鐘。

 直感の導くままに首を横に傾ける。瞬間だった。ボッ、と大気に風穴を空ける弾丸が、直前までアルトリアの顔があった位置を貫通した。――左拳か、と勘が囁く。
 止まらない。躱し様に一歩退き(・・)、滑らかに詰め寄る黄金大狼(リコセンス)の通路に刃先を置くようにして剣を振るう。獣の一瞬の静止を逃さず更に左足を軸に退き、腰を落としながら上体を倒し独楽のように回転して狼の腹を捌く一閃を見舞う。
 落ちてきたのは落石に等しい肘撃。不可視のはずの刀身を確実に捉えてアルトリアの手に痺れが伝う。――引き戻された左腕。左肘。
 まるで氷上を滑るかのような足捌き。軽妙に過ぎる歩法は当たり前の体重移動。魔法よりも摩訶不思議、肉眼で捉えられぬ拳撃を、聖剣の柄を離した左手の籠手で捌く。――手応えで判別、これも左拳。

 拍子を見計らい更に後退。半身を閉じ、体を丸めるようにしながら、一気に横に跳ぶ。
 瞬間、放たれた右の拳が空間を引き裂いて飛来。衝撃破(ソニックブーム)が軌道線上の地面を抉り、建造物の残骸を破砕した。

風王(ストライク)――」

 密かに練っていた魔力を解放する。城壁をも打ち砕く暴風を解き放つ。
 狙うは大砲を放ち瞬きほどの隙を晒した狼。けたましく鳴り響く脳内の警鐘に歯噛みする。

「――鉄槌(エア)ァッ!」

霆の権(フォトン・レイ)

 魔力を練っていたのはアルトリアだけではなかった。牽制の左拳が帯電していたのに気づけなかった赤竜の不覚。
 魔力放出を厭っているのか、完全に風王鉄槌の威力と同等に調節された神鳴りの砲。相殺された風と雷の衝撃に爆風が起こる。脳裏で回る赤ランプ。警告する第六感に体が追い付かぬ。ここで一撃を打つと欲を張ったツケだろう。あくまで相殺にのみ重きを置いた狼の挙動の方が一拍速い。

 槍兵に見せた疾風の歩み。メレアグロスが、視界の中で一気に巨大化した。

 間合いを詰めてきたのだと理解するより先に魔力で構築していた小手で防御を固めていた。
 突き刺さる右の大砲(こぶし)。防御は間に合った。しかし小手が砕かれ、腕が壊され、一撃で鎧が損壊し、内臓にまで衝撃が届いた。
 こふ、と口の端から血を吹きながらも、アルトリアは魔力をジェット噴射して強引に後退する。零距離は相手の間合い、万が一にも勝ち目はない。(おのれ)の距離で戦わねば敗北は必至。
 決死の覚悟で追撃を振り払わんとする。だが黄金の狼は露になった聖剣を目視するや、やや戸惑ったように攻勢を鈍らせた。

 ――それを狙った訳ではないだろう。

 音もなく戦線に復帰した双槍の騎士が、凄まじい形相でメレアグロスを強襲した。
 難なく奇襲を迎え撃ち、変幻自在の槍捌きに対応する。右の長槍、左の短槍、歴戦を経た技巧の妙を躱し、柄を拳で打ち、悉く直撃を防いで見極めんとする。
 その間にアルトリアの腕をアイリスフィールが治癒の魔術で癒した。即座に二騎の剣戟に参じ、アルトリアは横から魔貌の槍兵に斬りかかる。

「クッ……!」

 剣士からして槍兵もまた敵である。拳士を討たんと専念する余りディルムッドは不覚を喫したのだ。隙だらけの腹を斬られ、辛うじて浅く済ませたものの、ディルムッドはアルトリアに意識が寄り、その意識の動きを見逃さずメレアグロスが拳を振るわんとした瞬間。アルトリアは渾身の力でメレアグロスに突進し体当たりをぶちかました。
 たたらを踏んだメレアグロスの貌に笑みが広がる。彼らの頭には共闘の文字はない。敵だ、ならば討つという結論のみが存在している。槍兵もまたこの理を飲み下し、瞬時に混戦より離脱。持ち前の敏捷性を最大限に活かし一撃離脱戦法を展開。
 呪符の剥がれた赤い魔槍が赤竜を襲う。甘い一撃だった。鎧で受け返す一撃で斬り伏せんと構えるも、魔槍の穂先は魔力で編まれた鎧を難なく貫く。意趣返しか、ディルムッドの負った腹の傷と全く同程度の負傷。

 ――魔を断つ赤槍か。

 傷を負い足の鈍ったアルトリアはメレアグロスから足払いを受け転倒した。咄嗟に転がって踏みつけを躱すも、立ち上がり様にディルムッドの短槍で打たれ、体勢を崩した瞬間に左肩を狼の右拳で殴られ屑のように吹き飛び廃工場の残骸に埋もれてしまう。
 離脱して飛び退くディルムッド。
 短槍の呪符を石突きに繋いだまま跳躍して投擲。意図も容易く躱したメレアグロスが宙にいる槍兵を討たんと駆けるのと同時、ディルムッドは手に巻き付けていた呪符を引き寄せ短槍を手元に還す。その延長線上にいたメレアグロスの二の腕を浅く撫でる黄色の呪槍。
 無傷である。しかし刃による直撃だ。メレアグロスは声を出して笑った。そして吼える。

「いいぞ、愉しくなってきた! 不死身は詰まらん故、並みの英霊が致命傷となる攻撃を受けたら自害してやろう。それで条件は対等だ!」
 
「吐いた唾は飲めんぞ、最優王……!!」

 裂帛の気合いと共に槍兵は馳せる。
 彼の心眼は見抜いていた。素の敏捷性では己が上をいく。ならばこの優位を活かすしか勝機はない。徹底して一撃離脱、混戦に付き合う義理はない!

 赤竜が莫大な魔力放出で瓦礫を吹き飛ばし、勇ましく咆哮する。まだだ、まだ戦いは始まったばかりだ! 双槍の騎士――真名は読めた。フィオナ騎士団の一番槍がどうした、私は原初の騎士王に示さねばならないものがある、問うべきものがある、貴様は邪魔だ、我らの語らいに割って入るのは赦さない、纏めて打ち倒す!

 赤竜と魔貌、闘争の化身の闘気が際限なく高ぶっていく。

 そして、再び激戦が展開される直前。三雄の誰もが明確に感じ取った。



「a……aaa……、……aaaaaaa――ッッッ!!」



 漆黒の魔力が実体化する。
 突如として参戦し、我こそがと名乗りを上げるかのような凄まじい戦意が爆発する。

 戦いは、佳境に差し掛かろうとしていた。




















おじさんの指示なく乱入してきた狂スロット。
今、おじさんはどうしているのか。

ヒント:ファンクラブ


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六つ巴の戦華 (下)






「a……aaa……、……aaaaaaa――ッッッ!!」

 狂おしい怨念に塗れた叫びが反響する。
 永劫に尽きぬ慚愧が噴出したかの如き実像、新たな敵影の出現を歓迎するのは無尽の火炎。根まで濁り、混沌の種火に燻ろうと、騎士の矜持は今尚その胸に燃え盛る。
 姿を晦ます黒い霧を纏い、輪郭すらも定かならぬものとしていようとも、迸る暴圧的な闘志には些かの陰りもない。剣呑な眼差しで新手を睨む槍騎士と、油断なく力量を見定めんとする剣騎士の眼光にもまるで怯まず、我も宴に参じんと歩み寄る様には確かな闘争本能が満ち満ちていた。

 信じ難い事に、幽世より迷い出た怨霊の如き暗黒の形でありながら、獣のように唸り続ける狂戦士は徒手空拳であった。
 あたかも此の場に在りては武具など無粋と言わんばかりであり、その動静に気を配る三者を向こうに回して尚も堂々たる気風を漂わせてすらいる。
 槍兵が眉を顰める。彼にはもはや、敵手が武装を備えずとも油断する気はなかった。騎士として武器も持たない者に矛を向けるのは誇りに反すると思っていたが、それは思い違いであったと身を以て思い知っていた。
 戦う場に自らの意思で来たる者を、侮る事こそ騎士の恥。一分の油断なく屠るべし。ディルムッドはそのように心得、隙なく心眼を見開いたまま得体の知れぬ黒騎士へ誰何した。

「――名のある戦士と見受けるが、貴様、如何なる思惑を持って横槍を入れる? 狂戦士と云えど、示すべき義があるのではないか?」

 彼からは理性の気配がない。狂いたる獣であると見抜いていた。故に狂戦士と断じたのだ。
 だが、如何に狂っていようと、その魂が高潔ならば応える気概はあろうと期待しての問い。それに黒騎士は答えず。しかし三者の間合いの半歩手前で停止するや、無言で臨戦態勢を取る事で言語を超えた答えとした。

「なるほど、」

「では、私は貴方を敵と認識する」

「オレと同じスタイルか。ハ、更に面白くなってきた、やはり祭りとはこうでなくてはな!」

 含み笑う槍兵。彼は黒き獣が騎士であると判じられるや嬉しげに受け入れる。相手が騎士ならば、例え狂戦士であっても騎士として討つに足る好敵手だ。相手にとって不足はない。
 冷たい一瞥のみで騎士王は敵が一つ増えたと認めるに留め、最優王は素直に悦んだだけ。三者三様の視線を受け、奇しくも四騎目の黒騎士の動きが今後の戦況を決めると全員が情勢を見定める。

 狂戦士に様子見はない。自身を抑える箍がない故に。

A()、――」

 堂に入った拳術の構え。黒騎士がにじり寄るのは――最優王。黄金の瞳を喜悦に細め、王者は挑戦者の意気を受け止める。肌がヒリつく感覚は、彼の武威が一時代に於ける無双の域にある事を感じさせる。
 辛抱ならぬ、辛抱ならぬ、と狂犬の如く吼えながら黒騎士が馳せる。最優王は応戦の構えを見せた。互いが白打の距離に踏み込む刹那、黒騎士はピタリと静止し。む、と最優王は意図を見抜いて狙いを絞る。
 ――剣騎士は最優王に挑む黒騎士を、戦況から危険視した。動きの読めぬ狂戦士と、長々と戦線を交えるのは愚行。戦術的に放置するのは余りに無益。故に最優王に向かった瞬間、剣騎士は狂戦士の背後を襲った。
 獣を斬るのに騎士道も何もあったものではない。理に適った判断だ。だが――

 ――此の一手、釣り師は狂騎士。

Arrrthurrrrrr(アァァサァァァ)ッ!」

 まるで未来が見えていたかのように静止した黒騎士は、流れるように反転して正面に騎士王を迎え入れた。巧妙に間を外し、最優王からの打撃に一拍の間を作ってからの転身。騎士王は虚を突かれ、左足を軸に華麗に回転した黒騎士は、鞭のようにしなる脚撃を剣騎士の側頭部へ叩き込んだ。
 知悉せし者の気性、読むに容易し。たたらを踏んでぐらついた騎士王に踏み込み、黒騎士は聖剣を奪わんと腕を伸ばした。
 咄嗟にアルトリアは得物を奪われまいと防御を固め――黒騎士は聖剣を握るアルトリアの手を取って、あたかも倒れそうな王を助け起こすようにして手を引いた。

「あッ……!」

 身長差を活かした真上からの頭突き。手を引かれ、良いように体軸を崩されてからの強力な一撃だった。
 頭部を激しく蹴り抜かれてからの頭突きだ。重なる頭部への打撃に視界が白熱し、意識が揺らぐ。苦鳴を漏らしたアルトリアは無防備を晒した。
 トドメを放てる絶好の好機、しかし狂戦士は欲を掻かず即座に追撃を中止し、胴を守るように腕を立てた。瞬間、黒騎士の盾として構えられた腕に大槌の重撃の如き拳が突き刺さる。
 横っ飛びに自ら跳躍し威力を殺しながら、しかし確かな衝撃に黒騎士は呻く。吹き飛びそうな体を地面に縫い止めるようにして、両足でアスファルトを削って堪えた。
 顔を上げて見詰めるは最優王。何かを思い、しかし思いは意識の中ですら言語として形とならず、狂気の渦の中で咆哮を上げようとし……不意に、視界に槍兵の姿がない事を察して素早く身を伏せる。

 首を薙ぐ強芯の一閃。

 遠心力を最大限に乗せた赤い魔槍が狂戦士の首を払わんとしたのだ。
 空振るや呪いの黄槍で突いてくる槍兵より巧みに距離を取りつつ、跳ね起きた騎士王との位置を槍兵が気にするように位置を調整。その立ち回りの巧みさに槍兵は舌を巻いて追撃を断念した。
 獣のように四肢を伸ばし、ゆったりと起き上がる黒騎士の武勇を、全員が認める。
 とても、狂っているようには思えない。身に付いた武技は例え如何なる精神状態であろうと曇る事はないというのか。――この一瞬の立ち回りにどこか既視感を懐きつつも、アルトリアは戦慄を禁じ得ない。
 否、騎士王だけではない。ディルムッドもまた、黒騎士に対して多大な脅威を覚えた。それは、ただ己の視界に居ないからと、槍兵の奇襲を見抜いてのけた狂気とは程遠い武技に対する警戒だ。やはり只者ではなかったのだ。

「宴もたけなわ……しかして閉幕にはまだ遠い、か」

 最優王は不意に夜空を見上げた。何事かと釣られて視線を上げるや、天地をどよもす雄叫びが轟く。

「――AAAALaLaLaLaLaie!」

 雷を迸らせる神牛二頭立ての戦車。
 手綱を執るは遠征の大英雄。黒く塗装された貴き者の鎧を纏い、虚弱なる者では手にする事すら能わぬ赤銅の大丸盾を背負い、深紅のマントを夜風に靡かせた大なる雄は四つ巴の混戦に参戦し高らかに唱えた。

「――ライダーのクラスにて現界せし、征服王イスカンダル推ッ参ッッッ!! 益荒男達よ、いざ此処に覇を競おうぞ!」
「なッ……!?」

 破天荒な名乗り上げに驚愕する、槍兵と騎士王。戦車の中の少年が何やら喚くのにデコピン一発で応え、獰猛に歯を剥く征服王は此の場に集いたる英雄全てを平らげんと豪快に笑った。 場の空気を丸ごと持っていく強欲なる人の臨界点。メレアグロスは苦笑し、アルトリアは絶句する。ディルムッドは呆れ、言った。

「見事な名乗り上げ、まずは称賛しよう。征服王」
「応、貴様はランサーか。ふはは、遠目からでも見事なる武者ぶりであったが、こうして間近にすると尚のこと素晴らしい勇者であるな」
「賛辞は受けとるがな。だがこの闘争の覇者たる事は譲れん。矛を交えんとする以上は首を貰うぞ、ライダー」
「快なりッ! もとより余は貴様らを討ち果たす為に来たのだ。纏めて相手になろうぞ、なあ最優王!」

 大胆不敵。豪快無比。壮語する人傑の覇気のなんと涼やかなる事か。
 メレアグロスは莞爾とした笑みを浮かべ、中々に爽快なる事を言ってくれると喜んだ。

「それでこそだ。嗚呼、それでこそだ。見込んだ通りだぞアレクサンドロス。纏めて平らげる(・・・・・・・)、それでこその覇者だ。祭典に掛ける情熱の熱量、それこそが勝利に求められる最大の資質。――勝利を盗み取ろう等という興醒めな采配には覇者たる資格はない」

 虚空に向けて鮮やかに皮肉を投げ、意味深に笑む黄金の大狼に、他の三騎は訝しげだった。唯一、バーサーカーだけが隙有りと見たようだが、突如として響いた声に反応し、ぴたりと静止する。

「――それは時臣めを皮肉っての言葉か? それとも見物に回っていた(オレ)への不敬か?」

 光のない電灯の上に黄金の粒子が降り注ぐ。
 果たしてそれは人の像を結び、魔の太陽とも言える黄金の王を象った。
 英雄王ギルガメッシュ。
 この場でその威光を直接知る唯一のマスターである少年、ウェイバーは怯む。だがそれを気に留める者など在ろうはずもない。メレアグロスは明け透けに肩を竦め言い放った。

「両方だ英雄王。そら、一つの戦場に六騎ものサーヴァントが揃ったのだ、見物にだけ徹する等という詰まらん事はしてくれるな」
「ほざいたな。ならばお望み通り、この場で貴様らの命脈を絶やしてやろう。ばか騒ぎもこれまでだ、せめてその散り様で我を興じさせよ、雑種ども!!」

 金色の波紋が開かれる。
 眼に見えるだけで三百。その余りの光景に絶句する槍兵と剣士を横に、征服王と最優王、狂騎士は一寸の躊躇いもなく四方に散った。
 撃ち放たれる王の財宝。
 混沌とする戦場は、聖杯戦争史上類を見ない大合戦となる。

 生き残るのは誰か。

 勝利せしは何者か。

 ――影に潜む者が、何者かを追ってその場を離れたのを、誰も知覚出来てはいなかった。


















本当は誰かさんを今話で自害させて、

アルトリア「あれはヘラクレス・リスペクト……! しかしなぜいきなり……?」

とか言わせようと思ってましたが流石に無理があるのでやめました。残念です(失望)


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戦華散る

誤解される前に言っておくと、私はアルトリアは好ましい人だと思ってます。ほんとに。














 ――絶好の好機到来。これを敢えて無視する選択肢もあるにはあった。

 予期せぬ流れで巡ってきた機を拾うか捨てるか、或いは異なる形でアプローチを掛けるか。息を潜めて追跡する傍らで、一応は検討した。

 この好機を捨て置いた場合。当たり前だが状況は変わらない。槍の英霊は健在であり、英霊らの人智を超えた戦闘を遠目に観察した結果、正攻法で脱落させるのは非常に困難だと思われた。
 誰が誰と相性が良いかは、観察していた限りではまだ不透明。判断はまだ早い。ただ確かだと言えるのは、自らのサーヴァントが思ったよりも不甲斐なく、敵に一蹴される程ではないが長引けば倒される可能性が充分に高い事だ。
 槍兵の機動力は脅威。一撃離脱に専念されれば、アイリスフィールを傍に置く上に速度で劣る騎士王では手に負えない。加え、自身に有利な戦闘の状況展開能力は高く、生存力や燃費も高そうだ。槍兵のステータスも充分高く、あの最優王よりも敏捷性は高い。
 恐らく最優王のマスターは魔術師としては二流も良いところなのだろう。ステータスはその知名度と実力からすれば低いものだった。宝具を使われればどうなるか分からないが、このままで戦闘を続けるなら最優王ほどの大英雄すら槍兵を仕留めるのは困難だろう。
 即ち放置すれば、最後まで生き残る可能性は高いと言わざるを得ない。薪さえ無事なら不死身であるという逸話から、最優王との決戦、或いはあの遠坂陣営の黄金のサーヴァントとの共倒れを狙えるまでに勝ち抜く事も可能だ。
 しかしそれは、サーヴァントだけを見た場合に限る。そのマスターはどうか。
 ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。時計塔のロードの一人にして、聖杯戦争に臨むマスターの中では間違いなく最強の存在。
 だがケイネスはあくまで"魔術師"。それも生粋の。教会の元代行者である言峰綺礼すら手に余る相手だろうが、自分なら相性の関係上、格好のカモでしかない。
 いつでも殺せる、というのが自らの見立て。サーヴァントとマスター、双方の能力を鑑みれば、ケイネス陣営とは手を結び、利用できるだけ利用して最後にご退場願うというのが最もスマートな戦術だ。

 では眼前の機を回収すればどうか。あの混戦だ、マスターを突然失ったランサーはまず生き残れまい。
 厄介な機動戦術を執られる恐れはなくなるが同時に利用価値の高い陣営を潰す事になる。今後一層慎重に立ち回る必要が出てくるだろう。
 ランサーがいなくなった場合の戦況の推移はどうなるか、こちらは予想するのは然程難しくはない。元よりアイリスフィールがマスターであると詐称している以上、自分がセイバーの真のマスターであると目される恐れはないのだ。
 最優王は民間人を使った人海戦術を以て一ヶ所にサーヴァントの過半を集めて見せたが、同じ真似はもうしないと見ていい。逸話からしてこういった無駄な犠牲を生みかねない戦術は好んでおらず、警告の意を込めて民間人を巻き込む素振りを見せれば確実に同様の戦略パターンは控えるだろう。
 警戒すべきはライダー陣営との同盟だが、もともとが単騎で勝ち残りうる強力なサーヴァントだ。同盟に固執するとは思えず、そもそも本当に同盟しているかは定かでなかった。最優王のマスター候補は間桐か遠坂、或いは言峰かはぐれの魔術師か。
 間桐はまずない。あんな急造のマスターが最優王ほどの大英雄の魔力供給を支えられるはずもなく。遠坂はあの黄金の英霊のマスターの線が濃厚。言峰も魔術師としては論ずるに及ばないが、最優王自身のクラスとスキル構成によっては現界を維持するぐらいは出来る可能性はある。数合わせのはぐれ魔術師がマスターという線は、最優王の霊基規模からして考え辛い。可能性が高いのは消去法で言峰綺礼だが……。

「……」

 ターゲットは女を連れているからか、はたまた運動不足故か追い付くのは酷く容易だった。近隣の地形を頭に叩き込んでいる為、また魔術師の思考をトレースするのも慣れている為、どの道を辿りどこを目指すかも想定しやすく、先回りして待ち伏せするのも容易いと思われた。

 思考と戦略を煮詰める。

 ケイネスを脱落させた場合、聖杯戦争の行方はどうなるのか。アインツベルン陣営に降り掛かる災禍は如何程か。また、勝ち筋はどれほどになるか。
 幸い、最優王は無敵ではない。
 正攻法での打倒は困難だろうが、急所である薪さえ見つけられたら自分でも簡単に倒せる。というより、サーヴァント自体がマスターの生存を前提に存在しているに過ぎない。いわば亡霊の類いだ。遠坂のサーヴァントとて、遠坂時臣を始末すればいずれは消える。消えずとも弱体化は著しく、ともすればセイバーでも打倒は可能だろう。
 ケイネス陣営と手を結ぶのは堅実で確実性を目指した戦略となる。
 逆にどことも手を結ばず、マスター殺しを中心戦略に据えて動くならあくまでセイバーは囮でしかなくなる。……これまで通りという事だ。舞弥という、まだ誰にも知られていない手札もある。自分共々上手く立ち回れば……。

「――」

 先回りし、待ち伏せている場所へ、ケイネスらが現れた。
 人気がなく、周囲に障害物が多い倉庫街。これから拠点を探すのか。自動小銃のキャリコM100を構え、男――衛宮切嗣は思案する。

 さて……どうしたものかな?















 ――豪雨のように降り注ぐ宝具など、一体誰が予期し得るというのか。

 一度に三百もの剣槍が、絨毯のように夜空に敷き詰められた。
 一夜どころか一瞬にして街を焦土に変える超火力の持ち主が、たった五騎のサーヴァントを葬り去らんと牙を剥いたのである。
 交戦を経る中、誰しもが『マスター狙い』など眼中にもない者らであったが、英雄王はそもそも誰かを巻き込まぬように、等という繊細な気遣いをする輩ではない。
 必然、サーヴァント同士の戦いに圧倒されていたアイリスフィールにも英雄王の爆撃の余波は襲いかかり、その余波だけでひ弱な姫は瞬く間に挽き潰される危険に晒された。

「――ッ!? アイリスフィール!!」

 アルトリアが守護対象の危機に気づくも、目の前の圧政の究極とも云える『王の財宝』に気を取られたのが不味かった。反応が遅れ、彼女の盾となるべく駆けるも間に合うことはなく。
 英雄王が蔵を開くと同時に駆け出していた金狼に、横抱きに抱えられて危険域より救出された。

「え――」

 突如として変異した状況に戸惑い、自身の危機すら認識の外であった冬の聖女の末裔は、自身が敵対するサーヴァントに抱き上げられ、さしたる負荷もなく戦闘区域外にまで運ばれた事に気づいて呆気に取られた。
 丁寧に地面に下ろされ、呆然とメレアグロスを見上げる。メレアグロスは柔和に微笑んだ。無理して笑っているとなんとなく察せられる、なんとも微妙そうな表情だった。

「……あ、あの……」
「そう怯えるな。生前の契約でな、オレは『女魔術師の庇護者』とされている。英霊となった今、その契約を果たす意味はないが……『契約を結んだ』という事実をオレが覚えている以上、流石に目の前で死なせる訳にはいかんだろう。貴様は助けて貰えて運が良かった、とでも思っておけ」
「そ、そう……? あ、ありがとう……」

 飄々と肩を竦め、メレアグロスはさっさと戦場へ引き返していく。
 アイリスフィールはただ、それを見送る事しか出来なかった。

「その、最優王……」

 アルトリアはなんとか剣群の第一波を凌ぎきるや、急いでメレアグロスに駆け寄り胸当てに手を当て、なんとも複雑そうに謝意を示した。
 騎士の礼だ。彼女としては自らの守護対象の恩人だ。何か礼を言っておくべきだと思ったのだろう。筋を通せる言葉を探すようにして剣を下ろし――情け容赦なく、その無防備な腹部に鉄拳を叩き込まれた。

 メレアグロスは、「ぐッ!?」と呻き蹲りかけた騎士王の首を掴み軽々と持ち上げるや、そのまま迫り来る黒騎士に鈍器として叩きつけ、縺れ合って諸共に吹き飛んだ彼らに呆れた風に嘆息する。
 敵を前に武器を下げるバカがあるか、と。
 別にアルトリアのためにホムンクルスの女を助けたのではない。己の信条に肩入れしただけだ。そこを間違えた戯けには良い薬になっただろう。

「ふ――ははははは! なんだ今のは!? 雑種、貴様この(オレ)を笑い死にさせるつもりか!? 後で時臣めに話してやろう、王、腹筋大激痛とな――!!」

 英雄王が騎士王のザマに腹を抱えて爆笑しつつ、適当に片手を振って王の蔵を追加で解放。狂戦士とアルトリアへ褒美でも取らせるかの如く二百挺の剣群を撃ち放った。
 廃工場を跡形もなく粉砕していく英雄王ギルガメッシュの遊興。機敏に空に地上にと立ち回る征服王の戦車に、ギルガメッシュは何気なく三百挺もの宝槍を射出。機を見計らい使い捨ての金剛杵(ヴァジュラ)を三個擲つや、巻き起こった大規模爆発をイスカンダルは躱し切れず戦車の車輪が破損した。

 えぇい坊主、捕まれぃ! ――悲鳴を上げる少年の首根っこを掴み上げ、イスカンダルは戦車を退去させ宝具を失う愚を避けるや、機動力では戦車を上回る愛馬ブケファラスを瞬時に召喚。
 巨体に見合わぬ軽妙な体捌きで空中でありながら見事に乗り換え、後ろ手に赤銅の大盾を取り出し魔力防御(シールドエフェクト)を展開。自身だけでなくブケファラスまでも包み込む情熱の赤が、正面から襲い来る財宝を全て遮断してのけた。

「ほぉ……」

 迫る千の剣弾を、自身に直撃する軌道のものだけを選んで丁寧に殴り砕きながら、メレアグロスはその盾に関心を寄せた。
 あれは戦神に捧げられた、数多の信仰を吸った紋章盾だ。それを見事に使いこなしている辺り、アレクサンドロスは伝承通り戦士としても優秀なようだ。

 ディルムッドは只管に自らの健脚を活かし爆撃範囲から離脱する事へ専念している。なんとか死角から英雄王へ接近を試みているが、意外な事に英雄王からのマークが最も厚いのがディルムッドであった。
 この混戦で何に気を配るべきか。それは一方へ注意を払った瞬間に、後ろから刺せるだけの速さを持つ者だ。フィオナ騎士団一番槍の騎士は、その時代に於ける一等の勇者である。慢心はすれども油断はない英雄王は、戦略的な観点から槍兵の排除を狙っているのだ。
 単に『辺りを飛び回る小うるさい蝿を叩き落としておこう』というだけの殺意で集中砲火を受けているのである。如何なディルムッドといえど、防戦どころか逃げの一手を打つしかなく、完全に封じ込まれていた。

 追尾能力の高い財宝を槍兵の封殺に宛て、守護すべきマスターを抱えた騎兵には広範囲を巻き込む金剛杵のような爆撃兵器、及び対騎兵兵装を宛がう。そしてメレアグロスには徹底的に手数だ。質で凌駕するのは困難であると知る故に、天の鎖を絡めた『対メレアグロス』戦法とでも言うべき攻略法に打って出てきたのである。
 量で足を止めさせ、天の鎖で捕まえる。そこを乖離剣の一撃で仕留める黄金パターン。嫌らしい戦い方をしてくれる、とメレアグロスは嬉しくなってきた。
 しかし、

「やりすぎだな、英雄王」

 周囲の被害状況はもはや壊滅的である。
 人的被害は、あらかじめ聖堂教会の者らを使って人払いをしていた故に皆無だが、このまま続ければいずれ新都まで破壊の爪痕が伸びる恐れがある。
 その暴れぶりに敬意を表し、一丁集中攻撃を浴びせてやろう。見れば槍兵は最初から英雄王のみを狙い、征服王は英雄王へターゲットを切り替え、砂塵から飛び出た騎士王は一直線に英雄王へ突進していく。
 誰を除くべきか、論ずるまでもないと共通認識を抱いたのである。斯くて他の英霊からの視線を独占した英雄王は得意気に高笑いした。

「フハハハハ! 我の威光に集る羽虫ども、矮小なる身でよくも赦しもなしに我が面貌を直視出来たものだな? 不敬である、疾く自害せよと普段なら言っていた所だが、今の我は些か機嫌が良い。――光栄に思え、真なる英雄のみ生存を赦す! さあ、どこまで凌ぎきれるか、この我に魅せてみよ!」

 傲慢に謳い上げ、両手を広げた半神半人の英雄王ギルガメッシュ。その全能を振り絞っての『王の財宝』の最大展開。夜空を押し退け真昼の如くに照り輝き、煌めく黄金の波紋は二千(・・)を数えた。
 自身の背面に塔の如くに列を成さしめた財宝の数に、底無しかあの王は、と幾人かが戦慄する中で。一斉に面制圧の要領で放たれた剣弾に、幾度も強烈な打撃を喰らい弱っていた騎士王は己の最期を予感した。

 嗚呼――ここまでか。

 とても、凌ぎきれない。聖剣の解放も間に合わない。躱しきるには体が重く、さりとて防ぎきろうにもそんな技量は持ち合わせがなかった。
 せめて最後まで足掻こうと風王結界を解いた聖剣で、なんとか十の剣弾を凌いだ。しかし、更に十の剣弾に打ち据えられ、襤褸のように転がった先で、眼前に迫った槍の穂先を目視する。

 無念、と口の中で呟き。だが顔を伏せるほど潔く在れなかったアルトリアは、綺羅びやかな宝槍を毅然と睨む。
 しかし、アルトリアの武運は尽きていなかった。
 突如目の前に、黒い影が立ち塞がったのだ。

「え……?」

 狂戦士。黒き騎士が、狂い足る者とはとても思えぬ精妙な武技を以て宝槍を掴み取り、迫る剣林弾雨を引き受けたのだ。
 ――その背中を、どこかで見た。
 呆然とするアルトリアを、しかし庇いきれぬと判断したのか、黒騎士は情け容赦なく振り向き様に蹴り抜いて吹き飛ばした。
 これはなんとか防いだアルトリアだが、先程から続く妙な扱いの悪さに憤慨を隠せない。庇われた事に礼を言うべきか、それとも怒るべきか咄嗟に判断がつかず、アルトリアは頭に血が昇って、纏めて全てを薙ぎ払わんと聖剣に魔力を注ぎ込んだ。
 


「ぁぁぁああああ!?」



 ――だが、それよりも先に、何者かの断末魔が響いた。

「おのれ、おのれェッ……!! 誰が……?! 誰が俺の主を……!? 無念だ、無念だ……! よもやこんな、こんな所で、本懐も果たせずに終わるとは……!」

 ほんの一瞬、何かに気を取られて足を止めた槍兵の右膝に、英雄王の剣矢が突き刺さった。
 脚を貫かれた事で、彼の生命線とも云える機動力を失った瞬間、槍兵の命運は尽きた。宝具の嵐が止む頃には、遂に槍兵はその原型も留めず蹂躙されてしまう。
 最期の言葉は、アルトリアにだけ届いた。

「ケイネス殿……申し訳……ありません……」


















ケイネス&アインツベルン同盟ルート
ケイネス脱落ルート

確実性を尊ぶ王道的正攻法か、或いは原作通りの暗躍路線か。答えは切嗣の引き金だけか知っている(パーン)


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運命の分かれ道

山のジッジ来たで(宣戦布告)

いやぁ、素材集め大変だなー。大変すぎて更新滞ってしまったぜい()













 初弾をどう撃ち込むかは予め決めてあった。

「――ケイネス!」
「ッ?」

 物陰に隠れていた切嗣に気づく事なく通りすぎた一組の男女。
 ケイネス・エルメロイ・アーチボルト、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。彼らに脅しつけるようにして背後から呼び掛ける。
 咄嗟に足を止め、振り向いたケイネスとソラウ。魔術師は目で見えない所でなんらかの防護措置を取っている事が多い。聖杯戦争の最中、サーヴァントも連れずに逃走しているのであれば、殊更に守りは固めておきたいと思うのが人情だ。
 故に不意打ちの一撃で仕留めよう、等と欲張るのは下策。ケイネスは時計塔でも有数の魔術師なのだ、仮に守りを固めているのなら通常の銃撃は無意味だろう。故にキャリコM100を構え――

「キャアア!?」
「ソラウ!? おのれ、奇襲とは小癪な真似をしてくれる! この溝鼠めが……!」

 ――まずはケイネスの傍らにいる婚約者に向けて銃弾をばら撒く。
 すると魔術礼装の起動は済ませ、待機状態にでもしていたのか、ケイネスの懐にあったらしい試験管から水銀が突如として現れ、二人を覆い尽くす膜を形成。銃弾を悉く遮断した。
 やはり通常弾は効果なしか、と確認。銃の発砲の後に発動したのに、それに先んじる展開速度は脅威的だ。
 忌々しげに反撃に出ようとするケイネス。しかし、その前に構えていたコンテンダーで通常弾を射出。水銀の膜を貫通しソラウの左肩に直撃させる。狙いは胴の真ん中だったのだが、水銀の膜を貫通した際に軌道が逸れたらしい。精密な射撃は困難と判断。
 しかし当初の狙いである、不意打ちによりコンテンダーの威力を知らしめるのと、守護対象らしき女の負傷でケイネスの"防御意識"を高めさせる事には成功した。ケイネスが肩を抑えて倒れたソラウの悲鳴に気を取られた瞬間に固有時制御を発動。
 加速した時間の中でキャリコM100を捨てコンテンダーを素早く再装填。ケイネスがそれに気づき、咄嗟に水銀の壁に最大の魔力を込めた所へ"起源弾"を撃ち込む。

「――け、ケイネス?」

 目から、鼻から、耳から、口から、血を噴きながらもがき苦しみ、その場に倒れ伏したケイネスに、肩を押さえて呻いていたソラウは数瞬後に気づいた。
 静かに靴音を鳴らし、近づいてきた黒衣の男には、最期の瞬間まで気づく事なく。
 ソラウは、ケイネスに恐る恐る手を伸ばし、何をしようとしたのか。何も出来ずにコンテンダーの銃把で頭部を殴られ昏倒し、キャリコを回収した切嗣に淡々と頭部と心臓に弾を二発ずつ撃ち込まれ、ケイネスもソラウと同様の末路を辿った。ただケイネスの手の甲の令呪は原型も留めぬようにキャリコを連射し、確実に始末を終えるのは忘れない。

「……」

 いつも通りの仕事、魔術師殺しとしてのやり方。なんらかの情動が深層意識から湧いて来そうになるのを、切嗣は意識的に封じ込めた。
 くだらない。一瞬無惨な死体を晒す男と女の姿が、自分とアイリスフィールと重なって見えた気がしたなんて……。
 頭を振って、迅速に移動を開始する。アイリスフィールは既に一騎の脱落を認識していた。槍兵、剣士、弓兵、騎兵、狂戦士は姿を確認済み。最優王の風体と戦闘スタイルから暗殺者とも魔術師とも思えない事からエクストラクラスで現界したものと推測できる。故に、最初に脱落したのは暗殺者か魔術師のサーヴァントだ。
 そして、新たに槍兵も脱落するだろう。これで後は五騎。最優王の攻略は薪の捜索、破壊のみに終始し、弓兵は遠坂時臣を殺し、騎兵は後回しだ。狂戦士は消去法的に間桐だろうから、放っておいたら勝手に自滅しそうだ。
 問題はやはり、最優王のマスターと思われる言峰綺礼と、ライダーと片時も離れない少年だろう。後者の攻略は、純粋なサーヴァント同士の決着に委ねるしかないかもしれない。
 その場合はセイバーではなく、黄金の古代王の二騎にぶつけ、討たせた方が確実だろう。

「……なんであれ、暫くは身を隠した方がいいかもしれないな」

 暗躍とは、動き回ることばかりでは成り立たない。
 寧ろ息を殺して隠れ潜む事の方が多い。今は動きすぎて余計な痕跡を残さず、必要最低限の行動で目的を達する方がいい。
 冷徹に計算する魔術師殺しは、ぽつりと溢した。

「さよならだ、アイリ」

 離別の言葉。
 もう二度と、生きて会う事はないという確信が、軋む心に悲鳴を上げる彼にはあった。

「僕は、世界を救う。この冬木の闘争を、人類最後の流血にして見せる。だから――」

 だから、どうしたというのか。
 誓いの言葉に接ぎ穂はない。切嗣には、どうしようもなく、その後に繋げるべき言葉を見つける事はできなかった。
 暗闇の中に消える暗殺者。淡々と、機械のような正確さで、彼は手を下す。
 以降。衛宮切嗣の動向は終局に至るまで途絶える事になる。聖杯を手にする事。願いを叶える為に命を燃やす彼の熱量は、第四次聖杯戦争に列する全てのマスターの中で最たるものだ。
 そういう意味では、やはり彼こそが勝者に相応しいのかもしれない。




 


















 魔の太陽とも云える英雄王の神性薫る美貌。国家の至宝にも勝るそれに亀裂が奔る。
 凄惨な、笑み。口元に刷いた禍々しき凶相。無念の内に消え去った槍兵を見据え、煉獄の土卒の責め苦に悶え、喘ぐ罪人の様を見下ろし、その言語を絶する苦痛に咽ぶ様に喜悦を顕すかの如き悪鬼の面貌。
 凄まじい、怒気。地が震え、周囲に陽炎が立ち上る程の殺気。半神半人の英雄王ギルガメッシュは、此の時、赫怒の炎を真紅の瞳に宿していた。
 震え上がるライダーのマスター。眩暈を起こす白の女。最古の王の憤怒を前に、狂戦士すらもが足を止めた。

「……興が冷めた。最優王よ、後は精々雑種どもを間引いておけ。この我と相見えるのは、真の英雄のみでいい」

 手を翳した途端、英雄王が散々にばら撒いた宝具が悉く消え去っていく。
 彼の王の蔵に回収されたのだ。
 黄金の粒子となって消え去った英雄王は、此の場から速やかに退場して。――史上稀に見る激闘は、信じがたいほどあっさりと終結した。

「……」

 メレアグロスもまた、無言で実体化を解く。
 彼もまた、一瞬にして白けたのだ。
 絶妙のタイミングで水を差された。気分を害された。赦し難い、しかしランサーの名誉に掛けて悪罵を口にするわけにはいかない。
 彼は充分に戦った。彼のマスターへの罵倒はランサーにとっても屈辱となろう。故になにも言えないし、言ってはならない。

 狂戦士もまた、何かをするでもなく、ただ自らの手を見下ろし、虚空を掴んで消え去る。その一瞥は騎士王に向いた。その眼差しは妄執に染まったもの。しかし、大切な何かを思い出したかのように、狂戦士には有り得ぬ理性を以て狂気を律し退去していく。

「あー……」

 ぼりぼりと頭を掻き、ライダーはぼやいた。

「いかんなぁ。こりゃいかん」
「何が?」

 ライダーのマスターである少年、ウェイバーは呆けたような面持ちで問う。彼の許容範囲を超えた怒濤の展開に、ウェイバーは白い顔をしたままでいるしかなかったのである。

「決まっていよう。最優王と、あの金ぴかめがヘソを曲げおったのだ。もし"祭り"ではなく、"戦争"をするように舵を切られでもしたら、この地は瞬く間に焦土と化すぞ」
「……え?」

 アルトリアはライダーの推測に声にはしないが同意していた。
 素手であそこまで戦える最優王。宝具を湯水の如くばら撒く英雄王。双方ともに、愉快犯的な性格の強いサーヴァントとして現界しているのは全員が了解していた。
 故に。
 もし英雄王が怒りのままに力を振るえば。
 もし最優王が"祭典"ではなく"戦争"に意識を切り替えたなら。
 冬木は終わる。文字通りの意味で冬木は火の海に沈むだろう。
 サァ、と音を立ててウェイバーの顔から血の気が引いた。その光景がリアルに想像できるからだ。

「余もそうなれば周りに気を遣いながら戦う訳にはいかなくなるし、そこな騎士王めも聖剣を街中で解放する羽目にもなるやもしれん。被害は留まることなく、国が潰える事も有り得るかもな」
「……」

 風の鞘を解いて『王の財宝』を防いでいた際に聖剣を見られていたか、とアルトリアは心の隅で思う。面白そうににやける征服王にアルトリアは不愉快そうに眉を顰め、赤毛の巨漢の間違いを正した。

「英雄王はともかく、最優王がそのような暴挙に手を染める筈がない。貴方の見立ては見当外れだ、征服王」
「ほぉ。ではどうなると?」
「どうもこうもない。あの口ぶりからして、英雄王は最後まで出てこないだろう。最優王は私や貴方を各個に撃破して回るだけだ。私はそれを迎え撃ち、必ず勝利し聖杯を手にする。やるべき事は何も変わらない」
「ふむ。……しかしなぁ、そうなるとしたらつまらんではないか」

 つまらん、と征服王は不満げで。
 騎士王も内心では燻るものはあるが、己の願いを叶えるためにも、それを律するのに否はない。

 だが、征服王は不意に、何かを思い付いたようだった。
 愛馬に跨がったままアルトリアに向けて賛辞を投げ、そのまま一気に駆け出していく。

「余もここらで帰るとする。ではな騎士王! 貴様の戦ぶり、正に地上の星であったぞ! 次は我ら四騎にて、王の器を戦わせる酒宴を開こうと思う故、貴様もその時は参じるがいい!」
「――なに?」

 アルトリアが思わず聞き返すも、イスカンダルの駆る名馬ブケファラスは既に空を蹴り飛翔していた。

 王の器を戦わせる、酒宴だと?

 馬鹿馬鹿しい、と思う反面。王足る者は、杯による戦いも避けられはしないと弁える。
 挑まれたら、逃げる訳にはいかない。
 面倒な事になりそうだが、その時は仕方ないから挑戦を受けてやろうとアルトリアは思う。アルトリアの口許は、無意識の内に緩み――






「なに? 間桐雁夜を捕まえた?」

 ――騎士王に想われる最優王は、私兵集団からの連絡に虚を突かれ、思わず聞き返していた。

「具合が悪そうだったから病院に連れていった……? どうしたらいいか、と言われてもな……」

 暫し沈思し、メレアグロスは答える。

「ゲーム終了だ。緊急事態ゆえ、一旦解散しろ。後日連絡するゆえ、それまで待て」

 オレはどうするかな……と、少しだけ悩み。

 メレアグロスは、とりあえず病院に、間桐雁夜を回収しに向かうのだった。




 












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湖の濁り




 ――()って後、一月といった所か。

 半身が壊死し、貌の半分が蜘蛛の巣に覆われたかのように歪んでいる。
 心労故か、肉体的な負荷の過剰さ故か。或いはその両方か。色素の抜けきった白い髪は生命力の欠乏を示し、魂の持つ運命力が強引に引き千切られ、ほんの少しの無茶をするだけで残り僅かな寿命が尽きてしまう事だろう。
 最智なりし我が師、ケイローンより基礎を。我が騎士メディアより魔道の深度を。そして我が契約者ヘカテーより多種多様な知識を得た。故に魔術への造詣はそれなりのものだと自負している。医術への知識も、保有するスキルにより最新のものを取得出来る。体内に巣食う寄生虫も、まあその気になれば取り出す事も、取り出す事なく体内で溶かす事も可能と言えば可能だ。
 しかし本人の意思も聞かずに勝手に処すのは善意の押し付け、ただの独善であろう。故に一般の病院では手に余る状態の間桐雁夜を引き取り、自身の宿泊するホテルに連れて行ったのだが。

「……」

 中々目覚めない半死人。一応、応急的な魔術医療により、貧相で貧弱な上に襤褸同然の虫食い状態な魔術回路を補修してやり、体内の寄生虫を眠らせ小康状態にはしてやったが……この有り様では死は避けられまい。アスクレピオスならここからでも蘇生出来る上に、寿命を伸ばす運命力の付与という離れ業を魅せてくれるだろうが、生憎とメレアグロスはおろかマルスにもそれは不可能だ。
 徹底的に苛め抜かれ、過酷なまでに手足の先から殺されている。己の命を賭してでも成すべきものがあるのか、他者に欺かれ良いように踊らされているのか。どちらであっても、死の運命に捕まった男へ、メレアグロスから言う事はない。

 問題は。

 テーブルでカップ麺を啜るメレアグロスの前に、廃工場で共演した黒騎士がいる事である。

「……」
「……U……uuuu……」

 霊体のまま、呻いている。
 生身の人間には聞こえもしないだろう。しかし同じ霊体であるメレアグロスにはその姿が見えるし、声も聞こえる。
 何やら申し訳なさそうな、恥ずかしそうな、後ろ暗い事情により沈んでいるような雰囲気で体を小さくし、消え入りそうなまま項垂れていた。

 メレアグロスはずるずるとカップ麺『ビーフヌードル』を啜り、もぐもぐと咀嚼した。

「意外とイケるな。……そら、貴様にも半分ほど分けてやろう」
「……!!」

 実体化するなり兜を取り、恭しく差し出されたカップ麺を受け取って、黒騎士は一気に呷いで麺とスープを丸ごと飲み干した。
 そして噎せる。
 慌て過ぎだ。メレアグロスは呆れ、バーサーカーが実体化しただけで苦しみだした雁夜を横目に見る。嘆息すると、狂戦士は何やら慌てて霊体化した。

「……で、戦う意思がないのは解ったが。貴様、どこの騎士だ? あれほどの武練、さぞ名のある騎士と見受けたが」
「u……a……aaa……」

 兜を外したまま獣の相となった美貌を伏せ、黒騎士は霊体のまま呻くのみ。
 武練への賛辞は誇らしく、しかし名のある騎士という額面には頷けない、といった所か。
 面倒臭くなってきたが、特にする事もない。間桐雁夜をどう処すか、今後はどうするかを考える片手間にでも話を聞いてやるか……と、動物と会話する要領で黒騎士に訊ねた。

「名乗る事も出来んか。それは己の名を恥じる故か、それとも仕えた主に対する恨み故か。どちらであっても、仕えた主に捧げた忠誠が紛い物であったという事になるな」
『! Arrrthurrrrrr(アァサァァ)!』

 なんとなく言わんとしている事が解る辺り、サーヴァントのスキルは便利なものだ。
 目の前の騎士から漂う、なんとも言い難い駄目な感じ。どことなくカストルに似ている気がしない事もない。いや、流石にカストルに失礼か……。

「アーサーね……ブリテンの騎士王の周りに狂戦士になるような輩がいたのか」
「……」
「では貴様は円卓の者か? 武量からして名は――ガウェイン辺りかな」
「Aaaaaaaaa!」

 悔恨に似た否定。

「ではモードレッドか」
「Gaaaaaaaaaaa!!」

 怒りそのものの否定。

「ではランスロット?」
「……uuuu」

 肯定。

 ……面倒臭い。その思いを隠す気もなく、メレアグロスは髪を掻きあげた。
 湖の騎士ランスロット。名高き彼の者が、こうして狂戦士に堕ちている。英霊の座を通して知る事の出来る伝承からして、狂うに至る理由はないように思うが。

「で?」
「……?」
「貴様、湖の騎士なのだろう。それがどうして狂戦士等になっている」
「u……a……」
「円卓崩壊の元凶となった事への慚愧。王妃を救えなかった悔やみ。敬愛する王を裏切る事になった悔悟」
「a……guuu……!」
「……アーサーは罪人である己を罰してくれなかった。自らの後悔と、自らへの憎悪に耐えられず、聖杯戦争には"発狂できるから"参加した……騎士王は己の不貞を赦した。裁いて貰うのが願い……」
「Arrrthurrrrrr――!」

 髪の先を指先でくるくると弄り、くだらない懺悔を聞いてしまった、とメレアグロスは内心一刀両断していた。
 特に気を遣ってやる相手でもない。いっその事言ってやるかな、と思う。席を立って冷蔵庫から缶ビールを取り出し、飲み口を開けクイっと呷る。

「たわけか、貴様」
「……?」
「アーサーに裁いて貰いたい? 発狂できるから此度の闘争に参加した? 心得違いも甚だしいな。貴様を指してアーサーはなんと言った」

 黒騎士は呻く事も出来ず絶句して。思い当たる事があるのか、微かによろめいた。
 だが、指摘するのをやめるにも中途半端だ。止めずに言う。

「完璧な騎士、理想の騎士と言ったのだろう。狂気に堕ちる事は、アーサーの称えた名誉に泥を塗るに等しい」
「……Ga……aaaaaaaa」
「アーサーに罰して貰いたいだと。貴様は円卓を崩壊させたという自覚がありながら、更に罰まで求めるのか。厚かましいにも程がある。貴様はな、サー・ランスロット。『罰を与えられぬ罰』を与えられている。その苦しみ、良心の呵責こそがアーサーの与えたものだ。それから逃げ出した貴様に、アーサーに何かを求めるに足る資格はない」
「A……Arthur……」
「詰まる所、貴様はアーサーや他の騎士らの称えた栄光を裏切り、自らの名をも裏切り、今またアーサーの信頼を裏切っている。まだ思い留まれる気概があるなら狂気は捨てろ。情けなくて見てられん」
「……」

 がっくりと肩を落として沈黙した黒騎士から視線を切る。呻き、目を覚ます気配を見せた雁夜に視線を向けて、これ見よがしに嘆息した。
 びくりと肩を揺らす湖の騎士。テセウスに比する実力がありながら、どうして叱責する羽目になるのか。昔から駄目な奴ばかりと縁があるが、死後にまで付いて回らなくてもいい因果だろう。

 ――裏でこそこそと蠢く戯けは放置だな。

 相手してほしそうなランスロットを言葉責めしながら、きっちりと今後の方針を固める。

 今回は流石に暴れ過ぎ、言峰綺礼に負担を掛けすぎた。今頃苦しんでいるだろうから、少しは休ませてやらねばならない。まともに戦えるのは、言峰の魔力量と、自らが保有する魔力と照らし合わせるに、三回か四回といった所。
 それで決着を着けるにせよ、水を差されるのは堪ったものではない。鼠は駆除するに限るがこの鼠は慎重だ。暫くは大人しくしているだろうし、最後には必ず向こうから出てくる。
 こちらは鼠が顔を出す場所を予測し、顔を出せる状況を制限、限定して、のこのこ顔を出した所を狙い打てばいいだろう。この手の輩は注意を向けるだけ無駄故に、制裁を加えるのは後回しだ。

 こちらの要訣は明らか。マスターと、薪。それさえ忘れなければ、鼠が手出しする事はできない。

「ぅ……ここ、は……?」

 とりあえず、今は半死人から話でも聞いてやろう。聞いて愉快になれる事情などありはしないだろうが、世界(ローマ)に寄生する害虫の話は聞けるだろう。
 メレアグロスは、目を覚ました間桐雁夜に、和やかに声をかけた。

「おはよう、間桐雁夜。ビールでも飲むか?」















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愉悦の在処、天啓を得たり





 思った通り、聞いて面白い話でもなかった。

 眼が覚めれば目の前に敵サーヴァントがいる事に驚愕し。咄嗟にバーサーカーへ攻撃指示を出すも従う様子が全くないのに愕然とし。寧ろ敵サーヴァントに対する方が格段に従順な様に呆然とした間桐雁夜。
 彼は一頻り慌てた後、どうやら敵サーヴァントは戦闘の意思がなく、単純に聖杯に掛ける願いを聞いてきただけだと理解した。
 と言っても、敵対する陣営のサーヴァントである。聞かれた事を素直に答えるはずが――と思っていたら、気づけばすらすらと問われた事に答えてしまっていた。
 暗示を掛けられたのだ、と悟った時には、自身の事情は全て黄金の大王に語り尽くされた次第である。プライベートも糞もない有り様に雁夜は慄然とする他なかった。

「好いた女の娘を、間桐の腐りきった魔道から救う為に、ね」

 メレアグロスは無粋な遣り方で雁夜の背景を聞き出した事に、一寸の後ろめたさも懐いていなかった。というのも今の雁夜は、言ってはなんだが単なる捕虜であり、今は戦中である。雁夜の生殺与奪権は自身にあるのだから、苛烈な尋問をするのでもなし、多少の無体は赦されると彼は思う。
 いやまあ、それは中身が最も奔放だった時期のメレアグロスだからの判断基準であるが。

 端的に言って、雁夜の背景は悲劇である。

 間桐の魔術特性、間桐の祖の性質、悲願、洗いざらい吐き出させて聞いた限り、雁夜は祖父に玩弄されているに過ぎない。そも、急造のマスターなどに狂戦士を呼ばせてある時点で、間桐臓硯とやらには勝つ気がないのは明白だ。
 聖杯の獲得が悲願であるのに、何故に本気で勝とうとしていないのか。裏に何かあるのかと勘繰るも、今は然して問題とならぬと判じる。一番の問題は……。

「相分かった。それは貴様の道だ、如何なる結末を迎えようとも、間桐雁夜の因果に帰結する運命と心得ろ」

 言って、少し考え。

「間桐雁夜。この部屋はあと半月ほどの期間、オレの名義で貸しきってある。行く宛がないのなら此処にいていい」

 またぞろ巻き込まれるよりは、此処にいた方がまだしも安全である。
 メレアグロスはそう思うから、雁夜に対して忠告するのだ。

「貴様がサーヴァントの戦闘を支えられるのは後一回か二回だ。それも、そこな粗忽者が本気で暴れようものなら一度も耐えられん」

 言いつつ、雁夜の首に手を伸ばす。
 身を捻って逃れようとするも、半身が不自由な男が逃げられるはずもなく、あっさりと首を掴まれる。
 雁夜の肉体を魔術でざっと精査しつつ、言葉を投げ掛ける。狼の眼力は、魔術によらずとも雁夜の状態を見抜いているが、解析しているのは彼の中の蟲に報せてやる為だ。

「故に全力戦闘に移るのなら、令呪によるバックアップを基本とし、貴様が直接戦場に赴く事は決して、してはならん。下手に消耗すれば貴様は野垂れ死ぬ。分かったな」
「あ、ああ……」

 雁夜は漠然と返事をして、どうしてこの敵のサーヴァントはここまでしてくれるのか、と思う。
 治療し、命を助け、雁夜の様態から限界戦闘回数を割り出し忠告してくれた。利用するためか、と邪推するのは当然だが、どうにもそんな感じではない。まさか本当にただの親切、という訳はないはずだろう、と思った時。
 メレアグロスは、不意に間桐雁夜を通して、蟲翁へ(・・・)警告した。

「――という訳だ、間桐臓硯。貴様の悲願など心底どうでもいいが、自らの子孫に寄生する貴様の在り方は醜く過ぎてとても見ておられん。故に間桐雁夜の肉体から速やかに出て行くがいい。さもなくば、貴様の大事な大事な円蔵山の大聖杯(・・・・・・・)丸っと根こそぎ(・・・・・・・)破壊してやる」
「……え?」

 にこりと快活に語りかけられ、雁夜は困惑して。一拍の間を空けてそれが間桐の黒幕、臓硯に向けた勧告だと悟る。しかしその意味を雁夜が悟るより先に、雁夜の体に異変があった。
 唐突に喉元にナニかが競り上がる。強烈な吐き気と共に、思わず吐き出すと、それは一匹の()であった。
 あ、と思った時には、その蟲はメレアグロスの指先より発された雷電に焼き尽くされ、暫し黄金の眼力が雁夜の体を切り刻む。
 そして、異常はないと判断し、メレアグロスは面倒そうに嘆息した。

「あ……今、何をしたんだ?」

 雁夜が問うと、メレアグロスはやはり、億劫そうに応じる。

「貴様の体内に寄生していた、間桐臓硯の眼となる蟲を排除してやっただけだ。ま、長く生きた害虫ほど臆病で狡猾になる故に、却ってやること成すこと読むのは至極容易くなる」

 サーヴァントを従える、反逆の恐れのある者に、監視の目といざという時に乗っ取る手段を用意していない訳がないな――と。あっさりと言ってのける黄金の狼に、雁夜は戦慄した。
 体を乗っ取られる。その言葉に根源的な恐怖を感じたのである。

「万能の願望器たる聖杯、それを駆動させる燃料はどこから来るのか。聖杯は如何なる仕組みで勝者の願いを叶えるのか。――まあ、調べん訳がないという話で、聖杯を獲得する悲願の持ち主たる御三家とやらなら、オレの知り得た事など既知のものとしていて当然という訳だ」

 つまり彼らの急所となる円蔵山という名と、大聖杯という単語を出され、明確にそれを破壊するぞと不意打ち気味に脅されれば、過剰に反応してしまうのも道理である。
 事実、下手に誤魔化そうとしたり無視しようものなら、メレアグロスは本気で大聖杯を破壊するつもりだった。その本気を間桐臓硯は感じ取った故にメレアグロスの勧告に応じたのだ。
 メレアグロスの見た所、雁夜の中に臓硯の眼はこれでなくなった。耳も、無論ない。下手に残してメレアグロスに見つかるリスクを臓硯は犯さなかった。
 ただまあ、これで蟲はなんらかの動きを取るだろうが、それも見え透いている。
 しかしそうした手合いの執着の因を知れたのなら、如何様にも手は打てる。もはや蟲の翁とやらの手の打ち筋も、生への執着を断つ手段も見えた。それさえ成せば、後は勝手に自滅するだろう。

「庭師の仕事も、なかなか面倒なものだ」

 嘆きも含めて嘯くや、メレアグロスは席を立つ。雁夜はまあ、感性は普通だが些か歪んでいる。話して面白味もない。無辜の民とは言えないが、その命を削ってまでの意気は買ってやろう。
 メレアグロスは雁夜を横目に見遣り、最後の施しを賜した。

「間桐雁夜。貴様の表面の(・・・)願いは叶えよう」
「え……?」
「遠坂桜だったか。その娘をオレが保護してやろうというのだ。不服か?」
「なっ!? お前が?!」

 思わずといった体で、ふらつきながらもベッドから立ち上がった雁夜に、メレアグロスは言う。

「オレがだ。流石に幼子が悲惨な目に遭っていると知って捨て置くほど冷血ではない。ああ、貴様の意思は聞いていない。オレが勝手に間桐の塒を襲い、連れ去るだけだ。精々、普通の娘として生きられるようにはしてやるさ」
「……」

 呆気に取られる雁夜が理解する間も与えず、メレアグロスは親切に言う。彼としても、根が一般人らしい雁夜を邪険には出来なかったというのもあるが、間桐臓硯の如き害虫の思惑を悉く破壊する楽しみもあった。
 綺礼に教えてやろう、とふと思う。長らく生きた外道の悲願を踏み潰し、目の前で台無しにしてやる愉悦というものを。世の中にはどうしようもない外道がいて、そういった輩ほど、溜め込んだものを蹂躙した時の感情量は膨大で、得られる愉悦もまた巨大なのだと。
 綺礼は破綻者であるが、その愉悦の向きは他者の悲嘆にある。ならば、悪逆の者の嘆きを吸わせたなら、彼は善なる者として、彼の信仰の道に在りながらにして愉悦を得られる。

 良いことを思い付いたな、とメレアグロスは微笑み。雁夜を置いてホテルを後にする。

「――間桐雁夜。後は本気で勝ちに行け。それだけで、貴様の願いは叶うだろうよ」

 言い置いたのは気紛れ。

 その夜の内に、間桐の館は襲撃された。
 間桐桜は、黄金の狼に拐われたのだ。

 子連れ狼の聖杯祭典は始まり、すぐ終わるだろう。

















十話で終わる予定が、三十把ぐらいになりそうな悪寒。
予定は予定だからね、未定だからね、仕方ないね(震え声)


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言峰の娘

本日二度目の投稿。お気をつけください。















 きちんと整髪されていた髪に艶はなく、前時代的な威厳を醸していた顎髭も気品を失い、余裕に満ちていた面貌は窶れ、今や見る影もなく遠坂時臣の気力は粉砕されていた。
 言峰教会の地下に押し込められ、外に出る事すら自重し、ジッと耐え忍んでいたのだろう。英雄王の自重なき暴れぶりを、この男がよくも掣肘しなかったもので、そこは褒めてもよいと思えた。

 まあ単に、水を差すなと予め釘を差されていたのだろうが。

 英雄王への魔力供給は酷い負担だ。生気は欠け、今もほぼ意識がなく、茫洋とした眼差しは虚空を漂うばかり。綺礼が甲斐甲斐しく時臣を世話する様を見て、噴き出さなかったのは奇跡だった。
 いやいや、笑うのは不謹慎だ。曲がりなりにも英雄王の戦いを支えてのけた男、そろそろ虐めるのはやめてやってもいいかもしれない。
 家を失い、工房に蓄えていた魔術的財産の大半を喪失し、ここまでで散々に魔力を搾り取られて来たのだ。心優しい事に定評のあるメレアグロスとしては、そろそろ慈悲の心でも見せてやってもいいかもしれなかった。
 うむ、とメレアグロスはそれらしく頷き、間桐桜を肩車したまま教会の地下室を訪れる。本格的に限界らしい時臣はこちらに気づきもしなかったが、綺礼はすぐに気づいて訝しげにメレアグロスと桜を見遣った。

「ぁ――」

 間桐邸襲撃の折より、メレアグロスに拐われてもぴくりとも動かなかった桜が、ここに来てはじめて光の宿らない瞳に実父を映した。
 しかし、殆ど廃人に近しい有り様の時臣は、帰還したメレアグロスはもとより、桜の存在にすら意識が向いていないようだった。成熟した魔術師として、人並み外れた克己心を持つ時臣をして呆然自失とするほど、彼の心的負担は大きかったのだ。
 サーヴァントの戦闘による破壊の隠蔽工作、後日必ずあるだろう魔術協会からの突き上げ、喪失した魔術財産の復刻作業、破綻した聖杯戦争の戦略の見直し、制御不能のサーヴァントの律し方。考えるべき事、やるべき事は山積みである。なのに疲労は積み重なるばかりで、仕事も増える一方と来た。
 時臣が頭を抱えて動けなくなるのも無理はない。時臣の共犯者、言峰璃正が諸々の問題解決に奔走し、仕事に忙殺されるのもまた無理からぬ話である。

 必死に考えを纏める事に没頭している時臣に代わり、綺礼がこちらへ歩み寄ってきた。

「メレアグロスか。よくも好き勝手やってくれた、と本来は責めるべきなのかもしれんが……」

 曖昧に言葉を切った綺礼も疲弊しているが、どこか機嫌が良さげである。ちらりと桜に視線をやった途端に元の仏頂面になるも、その瞳は新たな悦しみの種を見つけた期待に光っている気がした。

「その娘はどうした。時臣師が間桐へと養子に出したはずだが」
「綺礼。貴様は確か治癒魔術を使えたな? 手伝え、悦びへ通じるものに関わらせてやる」
「……」

 まともに答えず誘いだけ掛けると、メレアグロスは時臣を見詰める桜を肩車したまま、さっさともと来た道を辿り始める。ややあって綺礼は、時臣を一瞥して少しなら離れてもいいと判断したのか唇を引き結びついて来た。
 分かりやすい奴である。徐々に慣らしてきた成果か、メレアグロスの提示した"愉悦"に対し素直に食いつくようになって来ていた。これならば、悪を食らう悪として、綺礼を善の道に立たせる事は可能だろう。
 桜は時臣に何か訴えたい事でもあるのかもしれないが、それはまだ後回しである。大人の事情に付き合わせるのは可哀想だが、生きている人間には避けられないもの故、ここは我慢して貰うしかない。

 今の教会は伽藍として、人気は全くない。いるのは教会関係者及び遠坂時臣、それと、彼のサーヴァントである英雄王ぐらいなものだ。
 しかしその英雄王には間桐邸襲撃前に街中で遭遇した際に、後で教会に来るように誘いを掛けておいたから、まあ気が向けば来るだろう。メレアグロスは教会の奥にまで向かい、そこで桜を下ろして台に座らせた。そして綺礼に告げる。

「はじめよう。オレは摘出、貴様が縫合だ」
「何を――?」

 一、二節の詠唱と共に掌を桜の額に当てる。すると桜は苦しげに呻き、口から指先ほどの小さな蟲を数匹吐き出した。綺礼は咄嗟にそれを踏み潰す。そしてメレアグロスのやっている事を悟り、この部屋にある治療具を素早く集め始める。
 それを横に、額から喉に手を滑らせる。今度は左右の耳から一匹ずつ蟲が出た。細い左腕を取り、指先でメレアグロスが摩ると、真っ白な肌から薄い斑点が浮かび上がり、やがてそれが表面まで上がってくると、毛穴から針のような蟲が無数に這い出てくる。
 栗の棘を力一杯に握る程度の痛みはあるだろうに、桜は顔色一つ変えない。ただ、少し驚いているだけだ。綺礼は迅速に縫合するための糸と針、鋏と治癒魔術を駆使して桜の腕に出来た傷を塞いでいく。

「良い腕だ。しかし、どちらかと言うと切って開く方が得意そうだな?」
「……」

 からかうも、無視される。性根は最悪だが、聖職者としては誠実な綺礼である。治療すべき幼子を前に無駄口は叩かないつもりのようだ。メレアグロスはそれに倣う。
 反対の腕や両脚にも同様の処置を行い、腹、背中、子宮や胎盤に巣食い勝手の良いように改造を施していた蟲を摘出していく。綺礼は邪悪な蟲を念入りに潰しつつ、間桐桜の全身から蟲を除去し終わると自らのサーヴァントに問いを投げた。

「……これは、どういう事だ?」
「見ての通りだ。桜は間桐により次代の魔道を担う胎盤として調整されている最中だった。憐れ故こうして助け出し綺麗な体にしてやったのさ。綺礼の手でな」
「……」

 脈絡なく発された名前ネタを完全に黙殺し、綺礼は具体的に問い質す。

「間桐と遠坂の協定に、私は首を突っ込むつもりはない。今度はどんな面倒事を起こすつもりだ?」
「面倒事とは心外な。聖職者足る我がマスターの道に則り、無辜の民草を正道に立ち返らせる手伝いをしようというのだぞ。間桐、この祭典で滅ぶしな」
「――なに?」

 さらりと告げられた言葉に、一瞬、綺礼は耳を疑った。
 間桐が滅びるだと? それは、どういう――
 懐疑する綺礼に、あくまでメレアグロスは気軽に言うのみだ。

貴様が(・・・)間桐を滅ぼすのさ。ま、詳細はおいおい話そう。今はとりあえず、家なき子になるのが確実な桜をどうするかだ」
「……どうするつもりだ」
「うむ。遠坂に戻すのは芸がない故な、綺礼、貴様が桜を養女とせよ」

 あっけらかんと告げられた事に、綺礼は目を見開いた。
 なんと戯けた事を、と思う。師の娘を、養女に? そんな大それた真似が、どうして出来ようか。咄嗟に馬鹿を言うなと切って捨てようとするも、得体の知れない感覚に気概は萎む。

「な――にを、馬鹿な――」
「うん? 養子に出した間桐が滅べば、困るのは時臣だろう。まさか同じ家に戻る事など出来るはずもなし」

 そう言うと桜は俯いた。その頭に手を置き、メレアグロスはその底抜けに奔放だった目に、おおらかな父性を滲ませ、優しく言った。

「だからな、綺礼。貴様は桜を娘として、傍に置いてやれ。この地に根を張れば、桜はいつでも実母と実姉に会う事が出来る」
「――」

 桜がのろのろと顔を上げた。優しく微笑みかけながらメレアグロスは綺礼に目を向け、目元に意地悪な表情を表した。

「時臣の娘を養女として手元に置く。ここから考えられる今後の展望を相起してみろ」
「それは……」

 考え込む綺礼の脳裏に、様々な情景が過っては消え、過っては消える。
 深く考え込んでいる時点で、性根の曲がった想像の翼が羽ばたいているのは自明であるが、それは言わぬが華というものだろう。特に、桜を気にかけていた桜の実姉は綺礼のお気に入りでもあったはずだ。わざとらしく咳払いすると綺礼はハッとして顔を上げた。

「語るに落ちたな、綺礼。いい加減己の性を認めたらどうだ?」
「……」
「貴様は他者の不幸に愉悦を感じる破綻者だ。しかしな、それが必ずしも悪となるとは限らない。道を外れた外道の溜め込んだ業を切開し、存分になぶり、踏み潰す事でも貴様は喜びを得られる。それは悪か? 否、善き生活を営む者らの害悪を駆除しているのだから、その行いは善だと言えよう。違うか?」
「それは……」

 詭弁である。が、綺礼は気づかない。
 メレアグロスは畳み掛けるように言った。

「故に言ったのさ。貴様が(・・・)間桐を滅ぼすと」
「……!」
「思い出したか? 間桐の翁も、肥え太った悪だ。その願望を破綻させた時に爆発する感情の量は並大抵ではないだろう。試しに手を下してみればどうだ? どのみち、人を食い物に生き永らえる害虫など、貴様の順守する教えからして捨て置けんはずだ」
「……それは、そうだが」
「だろう。まあ、まだ決めかねるようなら好きに悩むがいい。ただ気が向けば一人で――に行け。そして、もし会えたならオレが聖杯に掛ける願いを教えてやるといい」
「お前が、聖杯に掛ける願いだと?」
「ああ」

 意外そうな綺礼に、メレアグロスはにこやかに、爽やかに告げた。オレの願いは――

「――、だ」
「……!」

 ニィ、と唇の端が歪んだのに、綺礼は気づいているだろうか。メレアグロスは鼻を鳴らし、桜の両脇に手をやって抱き上げると、桜の暗い瞳を覗き込みながら言った。

「桜。よく聞け」
「……」
「貴様はもう、恐い目にも、痛い目にも遭わない。言峰綺礼が、貴様を護るからだ」
「……まも……る……?」
「ああ。虫ケラの爺も、簡単に手出し出来ないほどに強い言峰綺礼だ。虫ケラの天敵である言峰綺礼が貴様を護る。だからな、今度からは、綺礼の事を父と呼んでやれ」
「お、とう……さん……?」
「ああ」

 反芻するように呟く桜にメレアグロスは力強く頷き、桜を綺礼に押し付けた。咄嗟に桜を抱き止めた綺礼は、複雑そうにするも拒まない。

「メレアグロス、お前は――」
「後は親子水入らずでな。精々佳き女に育てるがいい。貴様は性根はアレだが、教育者としては中々まともになれそうだ」
「待て、話は終わっては――」

 聞かず、メレアグロスはそこを後にする。
 呼び掛けていた英雄王の気配が近づいて来たからだ。

 教会の外に出て、まだ陽の高い空を見上げる。すると、黄金に煌めく舟が遥か上空から舞い降りてきた。
 空からやって来るとは、なかなかに剛毅だなと苦笑するメレアグロスである。
 英雄王ギルガメッシュは、舟の玉座よりメレアグロスを見下ろしながら、何やら機嫌良さげに声を掛けてくる。おや、先程はかなり立腹していたはずが、どうした事かとメレアグロスは怪訝に思った。
 桜と引き合わせてやろうと思っていた所だが、どうやら何かありそうである。

「最優王よ、特別に乗船を赦す。疾く乗り込むがいい」
「それはいいが、どうした? 貴様がそうまで愉しげなのを見ると、何があったか気になってしょうがない」
「ふん。愉しげだと? 何を思い違いをしている。先の宴にいた雑種めが、不遜にもこの我に杯を以て王の格を競おう等と嘯いたのだ」
「ほう?」

 それは、きっとアレクサンドロスだな、とメレアグロスは頬を緩めた。
 また面白そうな事である。
 であれば、必ずあのブリテンの騎士王もいるだろう。
 これは、逃す手はない。是非参加せねば。
 そう思うのに、ギルガメッシュは殺意も露に笑う。

「王の中の王であるこの我が、雑種の挑戦に背を向ける訳にもいくまい。貴様はまだこの挑戦を知らなかっただろうが、我より後に来る事など赦されん」
「それで迎えに来てくれたのか。優しいな、英雄王」
「……死ぬか?」
「殺し合いはまた今度だ。それより何処で打ち上げをする気だ? オレとしても貴様の出す酒には興味がある。早く行こう」
「ふん……」

 軽く跳躍し、乗り込んだ途端、荒々しく航空を始める黄金の舟に、メレアグロスはこれ欲しいとか言ってみる。
 街の真ん中で振り落とされたメレアグロスは、人混みに着地し、ぎょっとしてメレアグロスを見る人々を無視して舟の飛び去った方角を確認する。
 からかい過ぎたか……と少し反省しつつ、一般人の目には見えないらしい舟を追ってメレアグロスは駆け出した。

 遅れればどんな難癖をつけられるか分かったものではない。なるべく急ごう、と思いつつ。

 ふと思い出して、缶ビールでも持参しようとスーパーに向かうのだった。


















綺礼+桜というパワーワード。つよい(白目)


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聖杯祭典打ち上げ会



 ビニール袋片手にダークスーツ姿の麻宮は、周囲の過敏な視線を意にも介さず、のんべんだらりとした足取りでゆったりと歩む。
 遅刻は確定的に明らかで、今更急いでも間に合うまい。道すがら興奮気味に挨拶を寄越してきた少年少女らに鷹楊に応じ、黄色い歓声を背中に受けるのにもすっかり慣れた。
 そういえば今日は日曜日だったか。元気なのは良い事だ。健康は何にも勝る財産である。肌寒い季節に似合わぬ麗らかな日差しを頭上に頂き、気持ち良くなるついでに眠くなって来た。
 いっそのこと酒宴をサボタージュし、そこらの公園で昼寝でもするかな、とマイペースな事を思い付くも、そうすると後でギルガメッシュを宥めるのが大変面倒臭そうだ。
 麻宮としては王の格付けなど勝手にやってろというのが本音であるが、その面子自体は面白そうなので、サボタージュはやめとくかとのんびり脚を運ぶ。

 やがてギルガメッシュが舟で向かった方角を辿っていくと、数騎のサーヴァントの気配を感じ取る。
 其処は旅館と言っても通じる武家屋敷だ。立派な門構えのその屋敷は、到底イスカンダルやそのマスターに用意出来る代物ではなく、ギルガメッシュや時臣には武家屋敷を買い取るだけの時間もない。となれば、ここは騎士王の陣営が密かに確保していた基地なのだろうが……どうやら運の悪い事にイスカンダルに見つかり、そのまま酒宴の場として指定されてしまったらしい。
 憐れだ。傍若無人なイスカンダルの振る舞いに、優等生なアーサーは成す術もない。落ち込んでいるようなら元気づけてやろうかと思いつつ、お行儀よくインターホンを押した。現代のマナーを知る身として、他の暴君どもとは一線を画する礼儀正しさを示すのが大王の大王足る所以だ。

 しかし待てど暮らせど戸が開かれぬ。
 はて、と首を捻りつつ待つこと十秒。仕方ないので一息に門を飛び越え、その上に立ち中の様子を窺う。
 すると、中庭の方にどっかと座り込んだ三人が、非常に固い空気の中で沈黙していた。
 言うまでもなくアーサー、イスカンダル、ギルガメッシュである。ウェイバーとホムンクルスの女もいるが、それぞれのサーヴァントに隠れるか寄り添うかしている為、面子の内に数えるほどではないだろう。
 重苦しい表情でアーサーは目を閉じており、イスカンダルは呑気に欠伸をしている。ギルガメッシュは麻宮の来訪に気づいたのか苛立たしげにこちらを睨み付けた。
 常識人であるところの麻宮としては、不法侵入はするべきではないとは思う。
 しかしインターホンを鳴らしても無視されたとなれば、これ以上待たせるのも悪いので已む無く武家屋敷の敷地に足を踏み入れた。

「待たせたな」
「遅いッ!」

 よ、と気軽に手を上げると、ギルガメッシュが怒号一閃、『王の財宝』より宝剣を一挺撃ち放ってきた。
 それを何気なく掴み取り、黄金の波紋に投げ返し蔵に戻してやってから、麻宮はとりあえずアーサーとイスカンダルの間に座り込んだ。

「仕方ないだろう。こっちは徒歩で来たんだ。これでも早いぐらいだと思うぞ?」
「我に振り落とされたとはいえ、一分として遅れずに来るのが王足る我に対する礼儀であろうが!」
「なんという(オレ)様。そんな貴様にはおビール様はやれん。枝豆も」
「!!!」

 驚き余って凝固するギルガメッシュと、訝しげなアーサー、興味津々なイスカンダルを横に置き、ビニール袋からギンギンに冷えた缶ビールを八個と、茹でた枝豆を大皿と一緒に取り出した。
 アーサーとイスカンダルにほいっと軽く放って渡しつつ、麻宮は幹事役のイスカンダルに声をかけた。アーサーはその白皙の美貌に戸惑いを滲ませ、缶ビールの缶を上下にひっくり返したりしながら検分していた。

「で、アレクサンドロス。これはなんの集まりだ? 先の闘争の打ち上げにしては物々しい雰囲気だが」
「む? そこな金ぴかに聞かなんだか」
「聞いたが、王の格付けがどうとか要領を得んでな。これがどういう趣旨の集まりかも知らんよ」
「英雄王……貴方は……」

 アーサーは微妙なものを見る目でギルガメッシュを見遣る。その目は録に説明もしてなかったのかと呆れていた。
 ギルガメッシュはふん、と鼻を鳴らして悪態を吐く。

「なぜこの我が一から十まで面倒を見ねばならん。そんなものは必要なかろう、特にそこな獣にはな」
「確かに見れば分からんでもないが……」

 言って、麻宮はぐるりと面々の顔を見渡し、ふぅむと唸った。

「……もしや真面目な集まりか?」
「……」
「……まあ、真面目と言えば真面目と言えん事もないなぁ」

 今更な事を訊ねられ、アーサーはそっと目を逸らし。イスカンダルは苦笑しながら相槌を打つ。麻宮はそうか、と呟いて缶ビールのプルタブを開け、口をつける。
 こくり、と一口。麻宮は唖然とするアーサーを尻目に、訝しげに征服王へ促した。

「どうした、始めないのか?」

 始めようにも空気が微妙な事になっているのに、麻宮はあくまで自分のペースを乱さない。流石と言っていいのか悪いのか。イスカンダルはごほんと咳払いし改めてこの集いの趣旨を皆に説く。

 曰く、聖杯を巡る戦いで、王足る者は何も必ず矛を以て決着をつけねばならぬ訳ではない。各々の聖杯に託す願いをぶつけ、王者の器の優劣を明らかにすれば、誰が聖杯に相応しいか自然とつまびらかとなる。
 故に王として杯を持ち、こうして器を比べ合うのだと言う。麻宮は口の中で呟いた。要は、皆でお酒飲んでわいわいやろうという事だな、と。その認識でいいのではないか、と投げ槍に思った。自らの意思で王になった訳ではないので、麻宮はメレアグロス的に割と興味なかったのである。
 ならば気負う事もない。ここは一つ、遅刻した己から口火を切ろうと麻宮は思う。

「ではオレからいこう」
「むぉっ、いきなりか最優王。其の方にはトリを飾って貰いたかったんだがなぁ……」
「誰が最初でも変わらんだろう。で、聖杯に託す願いだったな」

 大皿に枝豆を出しつつ、麻宮は気を張るでもなく自然体のまま深い考えもなく言った。

「オレの場合は息子のロムルス、ロムスらに会う事だ。マルスとしてはその最期まで見守ってやれたようだが、メレアグロスとしてのオレは人間の親として何もしてやれなかった。故に、息子らと会い見え、アタランテとも話ぐらいさせてやりたい――という願望を今考えた」
「今!?」

 アーサーが思わず反駁する。麻宮は鷹楊に頷いた。

「ぶっちゃけ聖杯とか要らん。優勝したらでいいだろう、そういう事を考えるのは。まあ、あれだよ。この冬木の聖杯の使い道は他に定めた故に、今のはあくまで"願望"でしかない」
「他の使い道……。それはお聞かせくださらないのですか?」
「まあな。ここで口にするのは些か無粋故、これで赦せ。端的に言えばこの祭り、オレはあくまで勝ちに来たに過ぎんからな、そんな大それた願いなど持ち合わせてはいない」
「……」

 正直、未練はあっても後悔はない生だったからな――そう呟いた麻宮に、アーサーは何故か気圧されたようだった。
 ん? 別に威圧的な言動はなかった筈だが、と麻宮は怪訝に思いつつ。枝豆に手を伸ばしてきた英雄王の手を叩き牽制して、ぱくりと口に運んでビールをごくりと一口飲む。
 凄まじい形相で睨み付けてくる英雄王ギルガメッシュに嘆息して、仕方ないなぁ、と缶ビールを投げて渡し、ふとアーサーに水を向けた。

「そういえばアーサー。貴様、真名はなんという?」
「それを聞いてどうするのです」
「"アーサー"は男としての名だろう。本来の貴様の名だ、騎士王の号は知られているのだから隠す事でもあるまい?」
「……アルトリアです。幼名ですが、かつてはそう呼ばれていました」
「ではアルトリア。次は貴様の番でいい。アルトリアの聖杯に託す願いをこの場で示せ」

 枝豆をぱくり、ビールをぐびり。アルトリアも真似してみて目を見開き、微かに調子を乱しそうになるのを堪えながら毅然と背筋を伸ばした。
 世界に武勇轟きしイスカンダルや、世界最古の英雄王ギルガメッシュに己の在り方を示すように。そして原初の騎士、最初の騎士王たる薪の王へ想いを込めて、アルトリア・ペンドラゴンは厳かに告げた。

「――私の願いは、ブリテンの救済。故国の滅びを回避するために聖杯を求めています」

















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王の器、王者四君

十日頃投稿しますと言ったが、あれは嘘だ(デデドン!)
俺は投稿するぞ、ジ○ジ○ーッ!
あ、まったりペースです。











「――私の願いは、ブリテンの救済。故国の滅びを回避するために聖杯を求めています」

 英雄王、最優王、征服王――人類史に赫々と名を輝かせる伝説の王者ら。
 時空を超えて彼らと相見え、自身の王道を示すことに高揚がないと言えば嘘になるだろう。
 それぞれがそれぞれの道を踏破した君臨者。ならば己もまた道に殉ずる者であると示さずして『騎士の王』は名乗れまい。故にこそ彼ら古代の王の気をも呑んでみせんと、アルトリア・ペンドラゴンは渾身の気炎を吐いたのだ。

 己の願いの正しさを信ずるが故に。彼らの秘める願望に勝ると確信するが故に。

 この時アルトリアは、彼らの反応を想定していた。否定するか、肯定するか、はたまた一笑に付すか。いずれであってもアルトリアの心は微塵も揺れなかったに違いない。
 だが三人の王は、誰もがアルトリアの予想だにしない反応を示した。

 イスカンダルは最初、困惑したようだ。アルトリアの願いが理解出来なかったのだ。
 しかし、次第に鼻に皺を寄せて渋面を作り、露骨に不快感を示した。
 ギルガメッシュなどはアルトリアの聖杯に託す悲願を鼻で笑った。同時に愉快なものを玩弄する笑みを浮かべ、あたかも道化でも見る魔的な真紅の視線が、ねっとりとアルトリアの肢体を舐める。不快さに、アルトリアの形の整った細い眉が顰められた。

「おい、そりゃあつまりなんだ。貴様は――」

 征服王が、険しい声でアルトリアに問わんとする。何やら不穏な流れ。
 しかし、その流れを切るようにして、無反応だったメレアグロスが手を打ち鳴らした。

「じゃあ次はアレクサンドロスだ。そら、貴様の願いを言え」
「――んぁ?」

 出鼻を挫かれ、鼻白んだイスカンダルは、当惑してメレアグロスに視線を転じた。
 アルトリアも肩を透かされた気分だった。これから四人の王による論戦が始まるものと腹を据えていたのに、あてが外れて目を白黒させてしまう。
 二人に構わず、メレアグロスは急かした。缶ビール片手に野次を飛ばすように。

「聖杯に託す願いだ。さっさと言え。もったいぶるな。それとも願いはないのか? オレと同じで? オレとアルトリアはもう言ったぞ。次は貴様で、トリは英雄王だ。さあ言えすぐ言え早く言え」
「ぬ、ぬぅ……最優王よ、なんぼなんでもせっかち過ぎやせんか? もうちょいと、そら、あれだ。騎士王の誤りを糺そうとは思ったりせんのか?」
「誤りだと?」

 征服王の放言に、騎士王は心外な指摘を受けた心地で不愉快そうに反駁する。征服王は真面目な目と顔で、大仰に肯定した。

「そうとも。貴様の願いは貴様と共に時代を駆けた全ての者への冒涜! 侮辱! 裏切りである! 王足る者の願いが聞いて呆れるわい!」
「では王足る者の願いとやらを言うが良い、悪童」

 気の抜けた声で、アルトリアの反論を制したのはメレアグロスであった。
 あくまで打ち上げの進行を優先する最優王である。それらしい言い分で混ぜ返された征服王はまたもや勢いを殺され、やりづらそうに頭を掻いた。

「アルトリア、覚えておけ。こういう手合いはな、とことんまでペースを乱す論法に弱い。まともに相手をするだけバカらしいぞ」
「は、はあ……」

 片目を閉じ、小声で助言されたアルトリアは目をぱちくりとさせた。
 何故こうも親身なのか。アルトリアは戸惑ってしまう。ギルガメッシュが愉快げにビールを呷りつつ、枝豆を口に運びながら言った。

「なんだ、最優王。やけにその小娘の肩を持つではないか。気に入りでもしたか?」
「ん……まあな。アルトリアはかわいい上に尊い故、どうにも贔屓してしまう」

 衒いなく直截的に肯定したメレアグロスに、アルトリアは「な、」と喉を詰まらせる。
 にやにやとした視線で真意を問うギルガメッシュに、メレアグロスは嘆息する。

「生まれからして王であった貴様らと、王となる他に道のなかったオレとは異なり、アルトリアは自らの意思で王となって、人々を導いた。これもまた、一個の王として充分な器だろう。ならばアルトリアの至った願いを否定できるのは、ブリテンの騎士王が生きた時代の者だけ。そこに要らん茶々を入れてどうする。それこそ無粋だ。そうではないか? 悪童」
「……む、」
「そも、我らは生きた時代、治めた国、従えた臣下、導いた民、全てが異なる。ならば思想や欲望の向き先すら異なるのが道理。であればやはり、アルトリアを否定することも、肯定することも傲慢極まろう。真の王は己のみと規定する暴君よ、貴様とてこれの聖剣の光は無視出来まい」
「ふむ」

 一分の理あり、一考の余地ありと、イスカンダルは弾劾を取り止め、ギルガメッシュは嘲笑を消し去った。
 中立、中庸、この場ではその姿勢こそが相応しい。激論を戦わせるのも楽しくはあるが、メレアグロスとしてはこの場で最も王の器ではないと感じるのが我が身である。
 他の王を否定出来るとも、肯定出来るとも考えてはいなかった。流石に目に余る輩ではない限り、王足るを否定も肯定もしないのがメレアグロスである。

「――それに誰が真の王だろうが、聖杯戦争には関係ないしな」

 何やら感動したような面持ちだったアルトリアと、また悪童呼ばわりされてしまったわい、と苦笑しているイスカンダル。そして『王の財宝』から新たな酒の肴を取り出していたギルガメッシュがメレアグロスを見た。
 それぞれ時代を代表する三人の王の視線をものともせず、絶対の自負を纏い、揺るぎない武威と黄金の王気を発しながらに断言した。

勝つのはオレだ。最も強き者が聖杯を掴むというのが本来の趣旨。であれば最強たるこのオレこそが聖杯に相応しい。下らぬ論戦はそれで決着……であろう?」
「……」
「ふはっ」
「ほざいたな、獣畜生が」

 騎士王の目に闘志が灯る。英雄王が愉快そうに口許へ亀裂を生じさせた。
 勢いよく立ち上がり、征服王が高らかに唱える。彼の聖杯に託す願いとは別の、生前に希った悲願を胸に。

「ハハハハハ! 痛快なり! 流石は薪のメレアグロス! 余だけでなく、武勲煌めく騎士王に天下無双の英雄王を前にして、それほどの壮語を吐けるとは!」
「この身に勝る者はただ一人だと信じているだけだ。何も特別なことはない。――オレに勝てるのは"ヘラの栄光"アルケイデスのみ。であれば何を怖れることがある?」
「うむ! その絶対の自負に敬意を懐き、余は其の方に決戦を挑むことを此処に宣言する! 余の聖杯に託す願いはなにかと問うたな最優王よ! それは"受肉"だ! 一個の生命としてこの世に再び生を得て、征服王の征服を今また始めんと志した! だがッ!!」

 丸太のように太い両腕を広げ、その両腕に彼の世界を抱き締めるようにして、イスカンダルはグググッ、と拳を胸の前で握りしめた。

「最優王よ、其の方から勝利を得るためとあらば、余の全てを賭けて挑む覚悟がある! 余の挑戦を受けるか否か、答えるが良い偉大なる我が亜父よ!」

 メレアグロスは無言でイスカンダルに剣を抜くように促した。
 示し合わせたように鞘走るキュプリオトの剣。その剣先をメレアグロスに向け、黄金の狼王は切っ先に指を這わせた。
 ツ、と赤い滴が指先より流れる。
 爽やかに笑みながら、しかして荘厳なる様を露にしてメレアグロスは応じた。

「良いだろう。この流血を以て、貴様の挑戦を受けよう。いつなりとも挑め、アレクサンドロス」

『―――応ッッッ!!』

 一瞬、万の咆哮が辺りに轟いた。
 凄まじき征服王の王道。その気迫の質量に誰しもが圧を感じた。
 イスカンダルは戦車を召喚する。

「坊主! この場はこれまで! 余は一旦退き鋭気を養い、万全にして十全、全力を以て我が生涯最大の大敵に挑む!」

 慌てて戦車に乗り込むウェイバー。イスカンダルは手綱を握って気合い一閃、そのまま天高く飛翔していく。
 それを横目に見送り、ギルガメッシュは呆れたふうに蔵から出した神酒を呷った。

「フン。勝手に盛り上がり、勝手に席を立つ無礼、万死に値する賊だ。我が手ずから討つには及ばんな」

 ――最古の王は、史実最高峰の大王を認めはしなかった。

「金色の獣よ、くどいようだが雑種どもを間引いておけよ。この戦い、締め括りは我らの闘争を以て成すのが相応だ」
「果たしてそうかな?」

 ギルガメッシュの神酒を回し飲み、不敵に笑んでメレアグロスは騎士王を見た。
 その意を察し、ギルガメッシュは盛大に笑い声を上げる。

「フハハハ! まさか貴様、我をあの小娘の当て馬にする気か? 度し難い、相手にもならぬわ!」
「――その壮語、高くつくぞ英雄王」

 炯々とした眼光が英雄王を射抜く。聖剣の王アーサーの威。しかし、歯牙にもかけず。ギルガメッシュは傲慢にも言い切る。言い切れてしまう。その力と格が、彼にはあるのだ。

「ハ。先の宴で無様を晒すに終始した貴様は、我の玩具としての価値しかない。剣を捨てろ、小娘。今ならばこの世のあらゆる悦楽をその身に刻んでやっても良いぞ?」
「ッ! ならばその小娘の剣を受けるが良い、貴様のような下郎には決して遅れは取らない」

 口だけでないなら良いがな。
 ギルガメッシュはそう言い捨て、ゆっくりと立ち上がって武家屋敷を去った。さりげなく缶ビールを徴収していく抜け目なさに、メレアグロスは苦笑する。代わりに置いていくのが神酒とは、神酒も安く扱われるものだ。
 まあいいかと神酒の入った黄金の器を拾い。メレアグロスは立ち上がり、こちらを見詰める聖剣の騎士王の頭に手を置いた。

「な、なんです?」
「いや。娘に貴様は良く似ていてな。……顔だけだが。それで少し、甘くしてしまう」
「……はあ。その、手を退けてくれませんか。どう反応して良いか、困ってしまいます」

 ちらりと胸に目を向けて「顔だけ」と言われ、怒るべきか否か戸惑い、アルトリアは微妙な気分になってしまう。
 女としての自分は捨てて久しい故、怒りはないのだが。……なんとも表現出来ない。

 メレアグロスは言った。その黄金の瞳が、後世の騎士王の行く末を見守るように、慈愛を込めて。

「――いつか、貴様を救う(正す)者が現れる。それまで壮健であれ。そして努々忘れるな。貴様の軌跡は、決して誤りではないのだと」
「……何を、」
「それと」

 反駁を遮り、霊体化して消えていくメレアグロスは、少しの茶目っ気を覗かせてアルトリアに告げた。

「英雄王に一泡吹かせたいのなら、剣だけでは足らんだろうよ。奴との差を埋められるものを探しておけ」
「……?」

 愉快げなそれは、暖かな父性にも似て。
 終ぞ"父親"というものを実感したことのないアルトリアは、数瞬、その光に魅せられた。

 背中越しにひらひらと手を振って、最優王は完全に霊体となって去っていく。

 ――第四次聖杯戦争終結まで、あと三日。


















和装ヒロインが好きな方は、なろうの「混線界域-地球-」を見たら幸せになれるかも()


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心の廃棄、終局への転換

【速報?】ケリィが本気を出すようです【悲報?】













 現時点での情勢を分析し、戦略を進めるに当たって今後高確率で予想される展開は一つ。

 黄金のサーヴァント同士による初戦の焼き増しだ。

 厄介なことに今次聖杯戦争に於ける最大の障害は、極めて強力な性能と戦略性、知能の高さを備えていた。如何にふざけていようと最智、最速、最強に並ぶ最優の名は伊達ではないらしい。
 始まりから終わりに至るまで流れを握るのが明らかな彼の英霊は、最早小細工を弄するまでもなく既に勝ち筋を見いだして、戦争の終結までの絵図を描き切ったと推測できる。
 故の道楽。あれは如何なる妨害が入っても、恙無く締めに移れる段取りが成されてあると見てもいい。最優王の逸話を見るに、相当に計算高く周到な人物だ。下手な手は打たないと信じてもいい(・・・・・・)
 ならば並大抵の策では最優王の陣営は小揺るぎもしない。あの言動からして正攻法を好むようであるし、流れを読むに正面から全員を倒すつもりでいるようだ。舐めているようだが、あれにはそれが充分可能だろう。

 当初は強力な持ち駒としての活躍に期待を寄せていたブリテンの騎士王だが、今となっては確実な勝機がないのは確定していた。
 相手は史実上最高峰の大英霊である征服王。彼を上回る最優王。神秘の世界の法則的に最優王をすら上回る可能性のある英雄王。この三人を相手にあのかわいい騎士王さんが勝利できる光景を想像できない。場合によっては狂戦士にも敗北しそうだ。はっきり言って生き残った英霊の中では最弱と言える。
 擁護するつもりはないが、セイバーが弱いのではない。他が強すぎるのだ。今回の聖杯戦争はパワーバランスが完全に狂っている。大物が多すぎて、たまたま騎士王よりも格上が揃ってしまったのである。

 ではどうするか。答えは決まっていた。

 ――聖杯戦争は、サーヴァントだけで勝敗が決まるものではない。

 であればやるべきことは決まっていた。やらねばならぬことが決まってしまっていた。そして其処に、人間としての道徳とか倫理などは邪魔でしかない。
 瞑目する。
 心を殺す。
 機械に徹する。
 再び目を開いた時、衛宮切嗣は、あらゆる感情を抹殺した。




















 セイバーのサーヴァントは、ふと自らの警護対象たるアイリスフィールの帰りが遅いことに気づいた。
 お手洗いに行かせてと請うてきた彼女から、一時とはいえ目を離していた時である。流石に戻るのが遅くなると、セイバーは不慮の事態を予想せざるを得なくなった。

「アイリスフィール!」

 所在地が割れている以上、あの武家屋敷に長居する意味もない。早急に場所を移すのが賢明であり、彼女らはいっそのことと割り切るやアインツベルンの城に帰還していた。
 あの最優王は、もう超質量による爆撃をおこなわないという確信が持てたからである。あの常識外れの攻撃がおこなわれないのなら守りに適した陣地に戻った方がいいと判断したまで。
 その陣地はアイリスフィールの領域である。彼女に悟られずして侵入することは難しいだろう。だが異変があってからでは遅いと、アルトリアは念のためアイリスフィールの様子を窺いに向かった。

 するとどうだ。帽子を目深に被った黒衣の人影が、アイリスフィールを組み敷いてそのこめかみに銃を押し当てているではないか。
 瞬時に武装したアルトリアが救出せんとするも、黒衣の男はこれみよがしに銃の撃鉄を起こして動きを牽制される。歯噛みして卑劣なる輩に誰何しようとするも、黒衣はアルトリアの反応を端的に評価してアイリスフィールを解放した。

「……まあ、普通だな」
「――マスター!? いったい何を!?」

 帽子を投げ捨て顔を露にしたのは、アルトリアの本当のマスターである衛宮切嗣であった。
 アルトリアは自身が試されたことを悟り、憤激しながらもその目的を問うた。酔狂でしてもよいことではない。下手をすればアルトリアの剣がマスターを斬っていた所である。
 しかし、そんなアルトリアの反応に、切嗣はなんの感情も滲ませずに応じた。何気なくアイリスフィールを助け起こしながら。

「何を? 器の護衛につけた駒の性能実験に決まっている。僕から見て、評価は普通だな」
「っ!」
「まあ本来騎士王は護衛"される"側の存在だ。護衛能力が高くないのも不思議じゃない。妥当な結果だ」
「ねえ切嗣。なんでいきなりこんなことを?」

 これまで頑迷に無視してきた相手に、普通に問答する切嗣に違和感を感じながら、アイリスフィールはその思惑を訊ねた。
 それに、切嗣は冷徹な視線を向ける。
 びくりとアイリスフィールの肩が揺れた。それは、アイリスフィールの知らない愛する夫の顔。一瞬、切嗣の瞳が揺らぎかけるも、しかしそれは錯覚のように収まった。

「ここからの戦いで、セイバーが"器"の護衛を継続できるか試したかった。そして評価が普通となれば、相手が相手だ。護衛は不可能と判断する」
「マスター、それは!」
「黙れ。結果が伴うなら意見も聞くが、この件に関してセイバーの意見は無駄だ。無駄は捨てろ」
「……!」

 取りつく島もない。切嗣は淡々と告げた。

「今後の戦略を簡単に説明する。"器"のアイリは聖杯降臨の地として使える冬木の市民会館に移動。人払いの算段は立てている。以降は其処で使命を果たせ。セイバーは市民会館の防御に当たるんだ。アイリを守る必要はない、市民会館に接近した敵の迎撃に終始するだけでいい」
「待ってください、アイリスフィールを守る必要がない? 器? なんの話を――」
「後でアイリに聞け。ともかく、僕の見立てでは後二日か三日で戦争は終わる。セイバーは今の指示を厳守するだけでいい。何か変更があれば令呪を通じて命じる」
「……」

 完全に聞く耳を持たない。会話が成立しないのではなく、本当に無駄なものを排除したような印象を受けた。
 アルトリアは、アイリスフィールを見る。彼女は悲しげに微笑んだ。後で話すわ、と、彼女は言った。

 是非もなし。マスターがそういう態度なら、セイバーのサーヴァントであるアルトリアもそれに応じるしかないだろう。

「セイバー。質問がある」
「……なんでしょう」
「征服王イスカンダル。最優王メレアグロス。英雄王ギルガメッシュ。奴らに対するセイバーの勝機はどれ程と見ている? 意気込みではなく冷徹に戦力比を分析して答えろ」
「……それぞれの宝具次第としか。確実なのは征服王と最優王が戦うことです」
「ではひとまず英雄王にのみ対象を絞ろう。セイバーは奴に勝てるか?」
「英雄王を相手にした場合、私の距離に飛び込めれば勝てます。しかし……それはとても難しいでしょう。私に鞘があれば難なく白兵戦にまで持ち込めるでしょうが……」
「鞘?」

 アルトリアの言葉に、切嗣は一瞬何事かを思案した。
 そして、頷く。

「鞘があれば勝ち目が見えるんだな?」
「は、はい。私の鞘は結界宝具です。担い手である私に不老不死と無限の治癒力を与えてくれます。また真名解放をおこなえば、あらゆる干渉を遮断する最強の守りともなる。それさえあれば私は誰にも負けないと言えます。しかし、鞘はもう失って――」
「鞘はある。アイリ、鞘をセイバーへ」
「……え?」
「……ええ、分かったわ」

 呆気に取られるアルトリアに、アイリスフィールは自身の体から聖剣の鞘を取り出して渡した。途端、鞘を受け取ったアルトリアの目の前でアイリスフィールが頽れる。慌てて抱き止めたセイバーに、アイリスフィールから目を逸らした切嗣が告げた。

「セイバー。大事なのはアイリが市民会館にいることだけだ。英雄王を倒せとは言わない。だが最後まで生き残れ。サーヴァントの代わりを探すのも手間だ」

 言い捨て、切嗣は踵を返した。
 妻を捨て置くその態度に、アルトリアはカッとして糺す。

「マスター! アイリスフィールの様子がおかしいのに、どこへ行こうというのです!」
「い、いいのよ……セイバー」
「アイリスフィール?!」
「いいの……こうなるのが、本当だったんだから」

 力なくセイバーにすがりつく冬の女は、うわ言のように繰り返した。切嗣は正しい、と。

 以降切嗣が二人の前に姿を表すことはない。しかし彼の足跡は確かにあった。

 翌日。日の高い内に聖堂教会へ爆薬が大量に積み込まれたタンクローリーが突っ込み。
 同時刻に市民会館へセスナ機が墜落して大規模な爆発を巻き起こした。

 次いで街中で爆破予告が相次ぎ、冬木の街は混乱に包まれることとなる。

 その混乱の中、衛宮切嗣は標的を絞っていた。

 狙うは黄金のサーヴァントのマスター。
 意に沿わずとも、混沌に誘い出されるであろう男。



 彼は、魔術師殺しである。
 




















プロの冬木民はテロには屈しないのだ。


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喜悦の発芽






 サーヴァントは言った。言峰綺礼は生まれながらの破綻者である、と。
 人が美しいと感じるものを美しいと思えず。善ではなく悪にこそ愛を懐き、他者の身体的・精神的な苦痛に愉悦を感じる。人の心の形としては酷く歪で、およそ一般的な感性とは掛け離れていよう。
 ――故に一時は己が生きていてはならぬ人間だと煩悶し、自殺も考えるほどに思い悩んだのだ。
 言峰綺礼は破綻者である。人として壊れている。それは疑いようのない事実であり、倫理的に言峰綺礼は生まれてくるべき人間ではなかった。生きていてもいい人間ではなかった。と、綺礼は思った。
 では、それは事実であるか。答えは――(ノン)

 生まれてきてはならぬ者は無い。
 ただし生きていてはならぬ者は有る。
 視点を変えればよいのだ。言峰綺礼の望みとはなんぞや? 問題を明確にし、一つずつクリアすればよい。
 ――神の教えを守る。父の期待に応える。人並みの幸福を得る。万人の喜びに悦ぶ。
 なるほど、簡単なこと。サーヴァントはそう言った。探せども、求めども、決して見つけられなかった難題への答えを、サーヴァントは呆気なく明示してのけた。

 サーヴァントは、綺礼に問いかけた。それこそが答えだと。



 サーヴァントの問一。この世に生まれてはならぬ人間がいるか、いないか。
 綺礼の答え。(ノン)。生まれ来る命は祝福せねばならない。
 正解。

 問二。ではこの世に生きていてはならぬ人間がいるか、いないか。
 答え。是。更正の余地なしの罪人は生きていてはならぬ。
 正解。

 問三。この世に虐げられてもよい者、踏みにじられてもよい者、排除されてもよい者はいるか、いないか。
 答え。(ノン)。そんなもの、あるわけがない。
 ――不正解。



 吐き気を催す邪悪はある(・・)。それを綺礼は知っているはずなのだ。
 死徒。魔術師。人を食い物に、自らの欲望の糧とする下劣な輩。それらが排斥されてはならぬと綺礼は思うのか。共に生きて、そして食われるのをよしとするのか。
 普通に考えて、答えは否。人々はそんな害悪を隣人として迎えられない。排除すべきだ。

 綺礼の信仰の心は歪んではいる。が、本物ではある。綺礼は悪党ではないが悪人であり、非道ではないが外道であった。
 翻るに彼の感性は人の不幸、不幸の絶望、絶望の過程を()むモノ。問う、綺礼のその愉悦は善良な者にだけ向くのか、否か。
 答えは、これも否。綺礼は食わず嫌いはしない。お行儀がよいのだ。感性はズレていても、正常な倫理観と道徳観念を備えているから。善も悪も分け隔てなく、平等に不幸に陥れたいという願望が彼にはある。

 しかし、彼は善なるものを不幸に叩き落とす悪徳をよしとはしない。それがよくないことだと知っているから。
 そこで最初の目的に戻ればよい。
 神の教えを守る、父の期待に応える、人並みの幸福を得る、万人の喜びに悦ぶ――これらを全て満たす手段はなんであるか。

 神の教えを守りつつ、隣人足り得ない悪を排斥せよ。
 父の期待に応えつつ、清く正しくないものを正せ。
 人並みの幸福を得るために、幸福を不当に甘受する悪党を蹂躙せよ。
 そして害悪が成し、成さんとした願望の成就を破壊し、万人が益とするものによって喜ばれる様に悦べ。

 綺礼の感性は、歪んでいる。
 しかしその歪みは、決して人の世から排除されるモノではない。

 獲物を選べばよいのだ。
 その上で盛大に楽しめばよいのだ。
 そうすれば、綺礼はその命と意思と感性を、何者にも恥じずに存在できる――


「……」


 ――賭けをしよう、言峰綺礼。

 サーヴァントの、提案。ビルの屋上で夜風に吹かれつつ、綺礼は無言で眼下を見下ろす。

 ――貴様はどうせ、ここまで言われても納得しないだろう。故に、貴様は確かめろ。オレの見立てが誤りであるか否かを。そのための餌は撒かれてある。

「……フ、」

 眼下で、混沌とした様を晒す人々。
 市民会館に爆弾を大量に搭載されたセスナ機が突っ込み。他方に爆破予告が出され、冬木は今、混乱の極みにある。市民会館付近から人気は失せ、自衛隊が出動して警察機構が周囲を固める手筈だったのを、妨害しているのは聖堂教会か、それとも魔術協会か。
 どちらでもいいが、結果として市民会館周辺の雑音は全て途絶え、後幾らかの日数は英霊同士の戦闘に支障を来すことはなくなる。

 己のサーヴァントの、予言通りだった。

 このテロは、未然に予測され、対応され、人的被害はなんとゼロである。その眼力は、なるほど人の域を越えている。

 ――貴様はオレの言う通りに、事が起これば見晴らしのいいビルの屋上に向かえ。そして現れた者に伝えるがいい――

「そして、然る後に自らの悪を認めよ、か」

 ――認められぬのなら賭けはオレの敗けだ。薪を砕き、オレを舞台から下ろす許しを与えよう。

 苦笑する。元代行者故の、超人的なまでに鋭敏な感覚で、背後へ迫った気配を捉えたのだ。
 ここまで予言通りだと、いっそ笑い出したくもなる。その羽音(・・)に、綺礼は異常なまでに朗らかな声を掛けた。

「始めましてだな、間桐臓硯(・・・・)

 チチチチチ、と無数の蟲を従えた一人の翁。枯れ木のような、しかし目だけは爛々と輝く、数百年の時を永らえてきた妖怪。
 予感があったのだ。此処で、積年の問いに、答えが出ると。

 否、既に出ているのだ、と。

 間桐の黒幕は、醜悪な笑みを。腐臭の漂う嘲笑を浮かべた。

「カカッ、不用心じゃのう言峰綺礼。いいや、最優王のマスターと呼ぶべきか?」
「……ふむ。私が最優王のマスター、か」
「貴様があれのマスターであることには既に確信が持てておる。惚けても無駄じゃ」
「伊達に長生きはしていないな。その通り、私が奴のマスターだ」

 素直に認める。流石に妖怪、その情報力は並みではないようだ。

「それで? 私に何の用だ、間桐の翁よ。よもや世間話に興じに来たわけではあるまい」
「無論。――貴様のその令呪を譲って貰いに来たのよ。この戦争、勝者を出さぬように立ち回ろうと思っておったが、出足を挫かれてしまってのぉ。勝ちの目の濃い最優王の令呪でも頂こうと考え付いたわけじゃ」
「ほお。……間桐雁夜のような急造のマスターを出したのは何故だ? 勝つ気がなかったのなら大人しくしていれば良かったろうに」
「――ふん。前回の戦いで負った傷を癒すのに手間取っておったからな。前回のアインツベルンが呼び出した裁定者(ルーラー)めは儂の天敵じゃった。奴から受けた傷は治りが遅い、不便な体になってしまったもんじゃわい」

 前回の戦いから何十年と経っているのに、未だに完治していなかった、と。それは肉体ではなく魂を攻撃されたからだろう。
 故に今回は見過ごし、次回に改めて勝ちにいく算段だったのだろう。今回の儀式を掻き回しご破算にさせようとしていたのはそのためだ。
 しかし、蟲の翁の動きは、陰謀は、悉く踏み潰された。誰に? ――言うまでもない。
 結果として、正常に儀式が終わるのを忌避して、翁はなりふり構わず打って出るしかなく。そこにふらりと単身でうろついていた綺礼を見つけたのだ。――見つけられてやったのだ。

 間桐の事情は分かった。

 綺礼は問う。

「翁よ、目的は?」
「くどい。その令呪じゃ。大人しく差し出すならば、」
「楽に殺してやる、と」
「クカッ、その通り。――令呪を作り出したのは儂じゃ。令呪を起動する間も与えん。サーヴァントを呼び出せるとは思わんことじゃな」
「……」

 黒鍵を取り出しつつ、周囲四方八方に蟲が敷き詰められているのを知覚した。なるほど、確かに令呪を発動する隙はない。不意打ちされることはなかったが、まあ、それはいい。
 頬を緩める。口の端を持ち上げる。綺礼は臓硯に、渾身の笑顔(・・)を向けた。

 む、と臓硯は警戒する。嫌な予感がした。

「間桐の翁。貴様に言っておかねばならんことがある」
「……なんじゃ?」
「貴様が私をこの場所で襲うことは見抜かれていたぞ」
「……、」

 ひくり、と口元がひくついた。両者の。
 片や戦慄で。片や、愉悦で。

「私のサーヴァントからの伝言だ。心して聞きたまえ」

 予測。予想。それらの域を容易く凌駕する神域の知恵者。全知全能を欺いた戦神の一面。
 その知恵の片鱗を、翁はまざまざと感じた。

「丁度今から五分後かな?」

 言いながら、懐中時計を臓硯と綺礼の間に放る。時計の針の指し示す時間を確認して、綺礼は楽しげに告げた。

「ああ、五分後だ。間違いない。最優王は私が貴様を倒すか、貴様が私から令呪を奪うかをしない限り――円蔵山に隠された物を破壊するそうだ」
「――な、に……?」
「急げ。時間がないぞ。早くしなければ――貴様の悲願は、無惨に破壊されてしまう」

 愕然とする臓硯に、綺礼は。

 とてもとても、素敵な笑顔を。

 亀裂の走ったような笑みを。

 巨悪の、巨大な焦りに、

 向ける。

「は――謀ったな……? おのれぇぇえ!!」
「謀った? 人を食い物にする戦争なぞ……なくなってしまえばいい。違うかな?」

 襲いかかってくる無数の蟲。
 血が沸き立つ。肉が踊る。心が沸騰した。かつてないベストコンディションだ。
 黒鍵を手に、綺礼は満面の笑みと共に進撃する。己の双肩に、名高い英霊らの悲願と、目の前の邪悪の願望が掛かっているのだ。
 勝たねばならない。――勝って、悲嘆の内に滅び、果てる翁の姿をこの目に焼き付けたい。

 ああ、認めざるを得なかった。

 強大にして巨大。その悪の溜め込んだ感情の破裂。それに愉悦する己の本性を。サーヴァントの言った通りだ。


 悪を討つ快楽。悪の悲願を潰す愉悦。

 異端を討滅する代行者(エクスキューター)こそが、

 言峰綺礼の天職なのだ。


















きれいきれい、しましょ!


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輪廻奇縁

短め。
















 詳細は不明だがもし本当に事故ではなく、政治的思想によるテロリズムであった場合――或いは無差別なテロリズムであった場合――セスナ機墜落の現場は極めて危険な場と言える。

 本来なら決して不用意に近づくべきではないし、野次馬根性丸出しの阿呆に付き合って其処に赴く必要はなかった。
 しかし遺憾ながら高校時代からの友人が、混乱した場の空気を肌で感じたい等と言い出したのだから始末に負えない。ソイツは小説家志望のフリーターで、無駄に好奇心が強く行動力の高い性質で、一度思い立ったら聞く耳を持たない傍迷惑な奴だった。
 なんだってこんな奴の友人やってんだろう、と思うが。まあなんやかんやで憎めない奴だ。多少は大目に見てやろうとおおらかに構える。

 爆心地である市民会館は跡形もない。爆発に巻き込まれた周辺の区域も中東の戦場跡地のように荒れ果てていた。
 友人は最初、興奮ぎみに何事かを早口に捲し立てていたが、すぐに辺りの異様な静けさに気づいて口を閉じた。野次馬の人々、当事者らの喧騒を求めて来たのに、それらが一切感じられないとなれば怪訝にも思う。やがて不気味さを感じたのか、友人はもう帰ろう、なんて興奮の冷めた声で促してきた。
 嘆息する。こちとら減量のためのロードワークがあるのだ。減量苦を紛らわせるためにこうして付き合ったが、気が済んだなら走っていた方がいい。やれやれと首を振り友人と連れだって帰路についた。

 ――ん?

 ボクシングの試合相手のこと、小説のネタが枯渇して困っていること、益体もないことを互いに言い合う。
 そんな中で何気なく視線を流すと、カソックを纏い、十字架のネックレスを首に掛けた男性を見掛けた。
 若い神父は道端で腰を落とし、片膝を立ててビルの残骸に背を預けている。分厚い掌で顔を覆い、無言で佇む彼が不思議と気になって声を掛けた。

「どうかしましたか? 具合が悪いなら救急車でも呼びますが」
「――いや、結構だ。しかしその親切には感謝する」

 滲むのは、愉悦の残照。若い神父は彼らの接近に気づきもしなかった迂闊さを自覚し、何事もなかったように立ち上がった。
 長身だった。蒙の拓けた瞳と、口許に刻み付けられた"笑み"の形が印象的だ。
 しかしそれよりも気になったのは、その明らかに鍛え込まれた分厚い手と筋骨逞しい体躯であり。カソックを襤褸同然に切り刻まれ、総身を舐めるように点在する無数の傷だった。
 顔にも浅い傷が目立つ。全身傷だらけで、左手首に至っては強く捻挫しているようだ。今すぐ治療が必要なように見えるのに、神父は確りとした足取りで歩き去っていく。
 小さな親切大きなお世話という。しかし見てみぬ振りも寝覚めが悪い。ポケットから包帯を取り出して神父に声を掛けた。

「気休めですが、これでもどうぞ」

 放って渡すのは失礼だが、彼に近づくのは何故だか躊躇われて、ゆっくりと下投げした。
 包帯の束を受け取った神父は、小さく会釈する。

「早めに治療に懸かることを勧めますよ」
「ご厚意痛み入るが……見ず知らずの者に施されるのも悪い気がするな」
「流石に怪我人へ何もしない訳にはいきませんからね。じゃあ、お大事に」
「ありがとう。ではまた、機会があればお返しさせてほしい」
「お構い無く」

 善き因には善き果があると言うが――なるほど、なかなか気分がいいものだ。
 神父の呟きは届かず、彼らはそれっきり別れた。一期一会とはそういうものだとでも言うように。




















「首尾は――と、わざわざ問うまでもないようだな」

 綺礼が帰還したのは、爆薬満載のタンクローリーによって爆散した言峰教会跡地である。
 彼にはもう、遠坂時臣の世話をしてやろうという気は失せていた。故にこの地に身を潜めるのは綺礼のみ。時臣は気を取り直し、仮住まいとして双子館に移動していた。
 奇しくも教会が爆破されたのは綺礼が己の性を直視せんがため、サーヴァントの導きに沿い聖杯戦争の黒幕と対峙しに向かっていた所だ。某かのテロリズムをも読み、采配していたのだとしたら、なるほど流石と評する他ない。
 綺礼には自身がマスターであるという認識はなかった。また、サーヴァントが己の駒であるとも考えていなかった。謂わば綺礼にとり、このサーヴァントは本当の意味での導きの師だったのだ。それを、今素直に認められている。

 黄金の獣は帰還した綺礼の面構えに満足したのか、一足先に祝杯を上げていた。綺礼の酒蔵からワインを抜き取って。地下にあるとはいえよくもまあ酒蔵が無事だったものである。或いは大規模な爆発から、サーヴァントが直接守っていたのかもしれない。
 ふ、と苦笑する。この古代王は本当になんでもお見通しなのだな、と。
 勧められるがままワインの注がれたグラスを呷ると、その甘美にして芳醇な味わいを感じられて、感嘆混じりに嘆息する。
 なんと味わい深いものなのか。酒精の類いを美味と感じたことなどかつてなく、だからこそ悟らずにおれない。感慨を込めて呟いた。

「これが、本物の美酒というものか」
「勝利のか、はたまた善を成した喜びのか?」
「どちらでもあり、どちらでもない。強いて言うならば真の愉しみを覚え、比類なき悦楽に酔いしれられる美酒だ」
「ほぉ。また味わいたいと思えるほどにか」
「――ああ、そうだ」

 衒いなく肯定し、たった数分の死闘を思い返す。
 全身全霊で、それこそ死に物狂いで綺礼から令呪を奪わんとする蟲の翁。焦燥に駆られるが故、ほつれて見えた心の内。腐敗した魂を舌先の言霊で掻き分けて、傷を抉ると吹き出た翁の本当の悲願。
 それを思い出させられ、変わり果てた己の在り方と醜悪にして外道な所業に絶望する様。
 嗚呼、嗚呼、そのままに踏み潰し、大聖杯を滅ぼすと告げた時の哀願と来たら――絶頂ものの愉悦。圧倒的心の震え。乾き切っていた綺礼の心を潤し、魂の芯から昂った感覚は筆舌に尽くしがたい。

 まだ世界には、蟲の翁の如き"悪"とその破綻があるだろう。見つけねばならない、そしてその全てを玩弄してやりたい。そうすればまた、この堪らなく芳醇な酒を味わえる。
 そのために、こんな詰まらない戦いは終わらせるに限る。王と王の誇り高い戦いなど――見ても面白くもなんともないのだから。

「メレアグロス。私はもうお前を掣肘する気はない。全て好きにしろ。私の聖杯戦争は終わったのだ」
「それは重畳。では令呪を一画貰い受ける。オレからの要請があり次第、宝具の支援のために使え」
「いいだろう。残り二画は?」
「好きに使い捨てろ。貴様の楽しみはまだ残っているはずだ」
「なに……? なんのことを言っている?」

 まるで心当たりのない様子の綺礼に、今度はメレアグロスが苦笑した。

「おいおい、冗談だろう。この街の騒ぎの元凶だ。これほどのことを仕出かすからには、さぞかしご立派な願い(歪み)を抱えているとは思わないか?」
「……? ……ああ、なるほど」

 聖杯戦争から完全に思考が外れ、代行者に復帰して世界を巡る算段を立て始めていた綺礼は、そこまで言われてようやく思い当たった。

 完全に忘れていた。蟲の翁の齎してくれた感情の炸裂は、綺礼に忘却を及ぼしていたのである。
 割と軽い気分で、言峰綺礼はその名を思い出す。

「――衛宮切嗣か」

















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ひとつの終わり





 ひとは、劇的には死ねない。

 歌劇のように華々しく、悲劇のように女々しく、喜劇のように易々と世を去れる者はほんの一握りだ。それだって大衆に知られる訳ではなく、ドラマチックに人生を終えたからとなにか特典があるわけでもない。
 命とは終わるもの。生命には必ず死と断絶の終着点が訪れる。
 そして死とは、本人の予期せぬ所から襲い掛かってくるからこその断絶なのだ。抗うことは酷く難しく、故にこそ彼が死んだことで世界の何が変わるでもない。

 ――遠坂時臣。英雄王ギルガメッシュのマスター。

 遠坂邸を失った彼が、どこに隠れ潜んでいたのかを割り出すのは簡単だった。
 双子館。曰く付きだが、魔術師の拠点としては調べる候補の一つに数えられて然るべき館。端的に言って容易に割り出されそうな拠点は避けるべきなのだが、どうやら遠坂時臣は軍事的な道理には疎いと見える。
 いや、正確には魔術師的な思考から、頑迷な視野しか持ち得ていないのかもしれない。衛宮切嗣の悪辣さを侮っているとも取れる。
 それこそどうでもいいが。なんであれ居場所さえ知れたら事は単純だ。切嗣は使い魔を使って時臣に"手紙"を送った。

 『遠坂葵、遠坂凛の両名を預かった。返して欲しければ明朝、冬木市民会館に単身で来られよ。そこで正々堂々、魔術師として決着を着けん』

 舞弥を使い、遠坂葵とその娘の身柄は確保してある。
 正々堂々が聞いて呆れるだろう。外道が、と激しい怒りに駆られているだろう。
 それでいい。遠坂葵だけなら見捨てるだろうが、次代を次ぐ予定の長女は見捨てられまい。それが"魔術師という生き物"だからだ。
 これが生粋の外道なら娘も捨てるだろうが、時臣は典型的な魔術師。遠坂凛も餌に含めれば確実に誘いに乗る。念のため葵と凛の両名は分けて拘束し、サーヴァントを連れているのを見れば、娘と妻の命はないとまで脅しておいた。
 これでいい。遠坂葵は市民会館で拘束してある。遠坂凛は舞弥に預け、切嗣も知らない場所に潜伏させてあった。そして切嗣の連絡次第で解放か射殺を実行させる手はずである。連絡が長期間途絶えた場合は、舞弥の独自の裁量に任せてあった。

 まあ古典的な手だな、と思った。

 翌日。遠坂時臣は、ご丁寧に魔術で人払いをして、冬木市民会館に一人で現れた。
 いざとなれば令呪で英雄王を呼び出すのだろうが、まあそれはいい。時臣は朗々と、しかし怒りを隠しきれないふうに名乗りをあげ、切嗣に姿を見せるように促してきた。
 切嗣はそれに応える。――無論、ばか正直に出ていく訳がなかった。時臣は正当な魔術師で切嗣にとってはカモでしかないが、英雄王を呼ばれるリスクを思えば断じて出ていってやる訳にはいかない。
 それに、どうせ冬木市民会館は聖杯を降ろす場として利用するために、暫くは人払いをしておきたいところでもある。行動回数は絞るべきで、であればこの一回で二つの問題を片付けるのが合理的であった。

 時臣がやって来るだろう表通りに、無線機とそれの前に置いてあった拡声器を介して声を届ける。
 魔術を使って指示を出せば、もしかすると位置を逆探知されかねず、故にそのリスクを回避するには文明の利器を介する他ない。

『遠坂時臣。そのまま市民会館に入れ。僕はそこで待っている』

 時臣はそれが、魔術による声ではないと看破し、魔術師の面汚しが、と吐き捨て"無人の"市民会館に入っていった。
 切嗣は"遠くのホテルの一室から"双眼鏡でそれを見届ける。

 市民会館に来るまでに、時臣の身長と歩幅は充分に確かめてあった。故に間違わない。
 遠隔操作の爆弾はもうすぐ届く頃合いだ。空を見ると一機のセスナ機が爆弾を満載に向かってきている。タイミングを合わせるのは中々難しかったが問題はない。
 今頃市民会館の内側では、あらかじめ仕掛けてあったクレイモアによる爆発と爆音と物量の歓迎が行われているだろう。ついでに閃光手榴弾も張り切ってくれている。
 仮にそれを凌ぎ切れたとして、セスナ機が至近距離に接近してくるのに気づくことはない。

 何事もなくセスナ機は市民会館に墜落して、その爆発と大量の爆弾の炸裂が直撃した。

 一切の魔術を用いぬ個人的なテロ。これは謂わば私闘の類いである。魔術協会・聖堂教会に責められる謂れはない攻撃だ。遠坂時臣も本望だろう。神秘の秘匿は守られたのだから。
 跡形もなくなった市民会館。そこから時臣が出てこないのを確認する。
 時臣を襲った手順は以下の通り。
 最初に市民会館の一番奥に、本物の遠坂葵を拘束してあるのを発見させる。
 時臣がそれを解放しに向かい、猿轡をされてある葵の手を縛る手錠を解いたところを、手錠に引っ掛けておいたブービートラップのクレイモアで襲撃。
 まあ普通はここで死ぬが。時臣の防御が間に合い、クレイモアを防ぎ切れた場合に備えて大量のクレイモアと閃光手榴弾の洗礼で足止めをする。本命はその直後にやって来るセスナ機である。

 ――やはり、時臣の姿はない。

 九分九厘の確率で仕留め切れたと見ていいだろう。携帯電話を使い、舞弥に遠坂凛を解放させる。
 目を覚ませば遠坂凛は家に戻るだろう。そこで両親の安否を確かめるよう誘導させてある。遠坂凛を監視する舞弥が時臣らの死を凛を伝って知ることが出来る可能性はあった。
 切嗣は辺りで騒ぎが起こっているのを無視してホテルを引き払う。この騒ぎを収拾するのは教会の仕事だ。彼らの仕事の邪魔は出来ない。静かになるのを待ち、アイリスフィールとセイバーを市民会館跡地に向かわせればよかった。

 遠坂時臣が死に、その魔術刻印が失われれば遠坂は没落するだろう。
 娘には時臣の残す資産がある。暮らしに困ることはあるまい。――雑念だ、これは。
 切嗣は遠坂凛に関するあらゆる思念を切り捨てる。……イリヤスフィールと被って見えた、なんて。笑える話だ。

 闇に消える切嗣は次なる標的を探し求める。大事なのはタイミングだ。セイバーを生き残らせるために、手は打たねばならない。サーヴァントの代わりを探すのは手間だから。
 ともあれ、これで英雄王のマスターは死亡。ステータスの低下は免れない。弓兵故に暫くは消滅しないだろうが、セイバーの勝率は高まった。
 英雄王が新たなマスターを探すとして。候補になり得る者は冬木にはいない。
 時臣の娘の凛は舞弥が監視してある。そこに英雄王が現れたなら令呪でセイバーを移動させて英雄王を攻撃させる。舞弥は凛を撃つ。
 間桐桜は行方知れず。仮に桜を英雄王が見つけて契約しようにも、そもそも幼い身で英霊の戦闘をカバーできる道理もない。仮に契約しても時臣がマスターだった頃より弱体化するのは確実だ。
 ケイネスらは既に死んでいて、間桐の血族は魔術師として枯れているためマスターとして論外。間桐の翁は英雄王の気質的に契約はあり得ず、冬木にもぐりの魔術師が都合よくいる可能性は低い。ついでに言えば、一般人が魔術回路を持っている確率なんて数%未満。適正のある者が冬木にいる可能性はもぐりの魔術師がいる場合よりも更に低い。
 英雄王はマスターを見つけられず脱落する可能性は六割だ。残り四割で代わりのマスターを見つけるだろうが弱体化は確実。問題はない。

 ――それで、この一日は終わった。

 次の日には、勤勉にして有能なる聖堂教会の者の手で、可及的速やかに市民会館の周囲は静寂に包まれた。
 切嗣がアインツベルンの名義で『市民会館を聖杯降臨の場とする』と報せたからそれはもう必死に各方面に働きかけてくれたようである。持つべきは優秀なる監督役だな、と切嗣は思った。

 決めていた通りに、アイリスフィールとセイバーを市民会館跡地に移動させる。
 切嗣は一旦休止に入り、様子見に回った。
 自分の流れは作った。後は必要に応じて動くだけでいい。――それに、運が回ってきたことを、切嗣は感じていた。

 その日の夜、間桐雁夜が黒騎士を伴い、アイリスフィールとセイバーに接触して提案してきたのだ。


 間桐雁夜に曰く。


「遠坂時臣とそのサーヴァントを倒すまで、同盟を組めないか?」


 答えは是。

 既に死んでいるだろう時臣打倒を掲げるのも可笑しな話だが、英雄王は何を仕出かすか計算出来ない。戦力は多いに越したことはない。
 斯くてアインツベルンは間桐と手を結んだ。

 ――そして。

 黒騎士は、マスターの指示もなく、静かにその正体を露にする。
 正体を隠蔽する宝具をカットし、兜をはずしたのだ。

 そこから一悶着が起こるのだが――生憎と、切嗣はそんなものに興味はなく。バーガーに食らいつきながら銃器の整備を行うのだった。
















速報。遠坂家は(魔術師として)終了したらしい。


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終戦前夜 (上)




 ――切嗣の指示が出た。城を捨て、アイリスフィールと共に冬木市民会館に移動せよと。

 都市部に赴けば、本当なら他者からの注目があって然るべき見目麗しい騎士と姫だ。
 しかし現在の冬木の人々は、彼女らにかかずらっていられるほど安易な精神状態ではなく、一瞥だけ向けてそそくさと忙しなく遠ざかる有り様である。
 首を傾げるのは、彼ら彼女らの様子。特段、アイリスフィールらを避けているのではなく、戦場となる地から離れようと急ぐ避難民にも似た空気を感じたのだ。
 この時の彼女らは、冬木で何があったのかを知らされておらず。冬木市民会館周辺の無惨な有り様に絶句し、都市部を戦場に選んだ切嗣の『人払い』の手段が如何に苛烈であったかが窺えた。

 ――あの男はいったい、聖杯に何を願うつもりだ?

 この時である。セイバーのサーヴァントは、こうまでして聖杯を手に入れんとする自らのマスターに疑念を懐くようになった。
 城を離れる前に、アイリスフィールからアインツベルンの聖杯については聞かされた。何故アイリスフィールを守る必要がないのか、セイバーは知らねばならなかったから。

 そして知る。

 アイリスフィールそのものが『聖杯』だった――驚きはあった。しかし魔道とはそのように非情なものであるとの理解はあった。
 アイリスフィールを生け贄に、完成するアインツベルンの魔術儀式。苦悩は無論ある。自身の願望に彼女を捧げることへ。しかしセイバーが幾ら思い悩もうと、アイリスフィールの運命は決まっているのだ。ならば、せめて自分が聖杯を掴むという覚悟は出来た。
 だが自身の本当のマスターは妻を犠牲にし、何を願う。こんな破壊と混乱を撒き散らすような男の願いが、果たして世に災禍を齎すものではないという保証がどこにある?
 問わねばならない。その真意、秘めたる願いを。もしも彼が妻をも欺く邪悪であれば、その時は――

 聖剣の柄を固く握り、暗い決意をセイバーは固める。

 後一騎か二騎のサーヴァントが脱落すると、アイリスフィールという人格(ラベル)は小聖杯から剥がれ落ち、人としての死を迎えるという。残された時間は僅か、看取る者すらいないのは余りに惨い。せめて少しでも長く傍にいてやりたいとセイバーは思う。
 しかしそんなセイバーの想いを、他者が斟酌することはない。一部の瓦礫の山が積み重なった場に隠れ、風雨を凌ぐことすら困難な様に、切嗣が完全にアイリスフィールを『物』として扱い始めたことを痛感していた時だ。
 セイバーは、サーヴァントの気配が近づいてくるのを察知する。辺りに人の気配はない。即座に武装を纏い、剥き出しの聖剣を構えた。

「待った、こちらに戦闘の意思はない」

 近づいてきたのは、冴えない風貌の――否、半身が既に壊死し、半分死んでいるような男であった。
 異形となった顔の半分。引き摺る足。満足に動かない腕。枯れた白髪。間桐雁夜、とアイリスフィールが小さく呟いた。
 その声を聞き拾ったのか、苦笑して彼、雁夜は言う。傍らに漆黒の霧(ノイズ)を纏った黒騎士を従えて。
 眼前の男は脅威足り得ない。しかしこの黒騎士は別だ。最大限警戒するセイバーの脳裏に、死守せよというマスターの言葉が過ぎる。

「ああ、確かに俺は間桐だ。はじめましてついでに確認するけど、アンタらはアインツベルンとセイバーだろ?」
「如何にも。貴様が如何なる用向きで出向いて来たのであれ、我らは共に聖杯を欲する者。ならば語ることは何もあるまい。剣を交える覚悟があるのなら、さあ構えるがいい」
「だから待てって。俺は別に、もう聖杯なんて要らないんだから」
「……なんだと?」

 喋ることすら億劫そうなアイリスフィールに代わり、堂々と応じるのは騎士王である。
 いざ尋常に戦わんとするのに、戦意を感じられない間桐とそのサーヴァント。予期せぬ言葉に虚を突かれ、セイバーはアイリスフィールと目を見合わせた。

「信じられないかもしれないが、本当だ。俺が聖杯を求める理由はもうない。だから狂戦士(コイツ)だって要らない。自害させたって良かったんだ」
「……些か信じがたい。ならば問うが、貴方が聖杯に託すつもりだった願いはなんだ?」

 簡単に願いを諦められるなんて信じられず、セイバーは試すように問いを投げた。
 間桐雁夜はばつが悪そうに鼻の頭を掻いた。彼としては、自身の力の及ばぬ所で救われたのである。それも、雁夜の意思など関係なく。
 あの、黄金の王。押し付けがましいのに、その威光に照らされた栄誉が芽生えるほどの魔的なカリスマ性。
 騎士王の問いに答える。憑き物が落ちたように。

「端から願いなんてない。ただ俺は助けたい女の子がいただけで、その子はもう救われた。なら、俺にはもう戦う理由がないってことだよ」
「……聖杯で願いを叶えるのではなく、聖杯を手に入れることが願いを叶えることに繋がっていたということか」
「ああ。――でもまあ、俺の願いは叶ったからお前は死んでいいよ、なんて言えないしなぁ」

 ちら、と苦笑ぎみに雁夜は黒騎士を見た。
 自分本位に振る舞うには、雁夜に残された時間は少なすぎる。最期は自分勝手な奴じゃなくて、それなりに懐の深い男として死ぬのもアリなんじゃないか――雁夜はそんなふうに思ったのだ。

「見たら分かるだろうけど、俺の寿命も永くはない」
「……」
「残り僅かな命、何に使うか考えた。そしたらさ、うん、最後の最後に、アイツに対して嫌がらせしてやろうと思ってな」
「アイツ……?」
「遠坂時臣、英雄王のマスターって言えば分かるか?」
「……!」

 英雄王。ともすれば、最優王を上回る脅威。明日とは言わず、今夜にも戦うことに成りかねない強敵である。
 そのマスターへの嫌がらせ? 彼は何をしようというのか。

「俺の因縁なんか、語って聞かせる気なんてない。アンタらには余所事だろうし。ただ俺がしたいことを言う。その上で、アンタらに協力して貰いたいんだ」
「……聞こう」
「遠坂時臣の目的は見当がついてる。今時珍しいぐらい昔気質な魔術師だからな。根源にでも至りたいんだろう。けど俺はそんなくだらない魔術師の都合で娘を捨てたアイツが許せない。だから邪魔をしてやるのさ。――アイツのサーヴァントを殺せば、アイツは目的を達せられない。いけすかない遠坂時臣の鼻っ柱をへし折るにはそれがいいんだ」
「……」

 しゅう、と蒸気を立てるようにして、黒騎士を包んでいた黒霧が収まっていく。
 見覚えのある輪郭。既知の騎士甲冑。セイバーの目が驚愕に見開かれた。

「コイツの真名はサー・ランスロット。なあ、良ければ俺を利用して(つかって)くれ。死にかけでも、命を掛ければ届くはずなんだ」

 兜を外し、黒騎士は狂戦士に似つかわしくない凪いだ眼差しで騎士王を見る。
 禁忌の秘め事を知られたかのように、騎士王の肩は震え。――しかし、黒騎士は彼女が弾劾されることを恐れているのも構わず、その傍に跪いた。
 臣下のように、生前に騎士として仕えていた頃のように。彼は、騎士としての本懐を遂げることを、望むようになっていたのだ。

 その心意気を察した。唯一無二の親友である完璧な騎士の意思を。

 アルトリア・ペンドラゴンは、心が奮い立つのを感じながら、静かに訊ねた。

「――私と、また、肩を並べてくれるというのか」
「……」

 愚問とでも言うように、彼は漆黒に染まった魔剣を、鞘ごと両手で捧げた。
 自らの最強宝具を差し出す姿に偽りはない。
 滂沱の如く流れる滴に、アルトリアは頬を濡らした。

 嗚呼、例え行いが誤りであっても、自らの願いと道は、やはり間違いではなかったのだ。


 此処に、ブリテンに於ける無双の騎士と、赤き竜と称されし騎士王が再び手を取り合った。

 立ち向かう大敵は――黄金双璧の一角。英雄王ギルガメッシュであるのは言うまでもないだろう。


















残すところ、あと五話!(予定)
……五話!(過去の実績から目を逸らしつつ)

ほんとだよ!(もともと十話以内で終わるはずだったZERO編)


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終戦前夜 (下)

蝶☆短めです。二千字ほど。














 一人で来いと言われた。
 故に一人で出向いた。

 ――が、別に宝具を(・・・)持ってくるなとは言われていない。

「無様よな、時臣」

 ぐ、と力なく呻くのは、魔術の一切が介在せぬ大質量の爆撃に、妻もろともに飲み込まれ、死んだものと思われていた遠坂時臣であった。
 所は双子館。英雄王は露骨に嘲笑を湛えて、跪いたまま項垂れる己がマスターを見下していた。

 外面こそ取り繕っているものの、衝撃波により内臓はぐちゃぐちゃ。手足は砕け、普通の人間なら即死している重篤な状態。有り体に言って半死半生だ。それでもなお生きていられるのは、彼の持つ魔術刻印の生命維持が働いているが故。
 なぜ彼は市民会館で死ななかったのか。愚問である。
 英雄王が、自動防御(・・・・)の宝具を貸し与えたからだ。
 だが、人間一人程度なら問題なく守りきれたであろうに、時臣は死にかけている。冷然と、ギルガメッシュは告げた。

「我は言ったな? 貴様は我を現世に繋ぎ止める依り代。勝手に死ぬことは許さぬと。故に、わざわざ死地に出向こうとした貴様に我が財を賜してやった。――それがどうしたことか。貴様、己の妻を守る(・・・・・・)ために身を呈したな?」
「……っ」

 時臣の一歩後ろに、夫同様に跪いているのは無傷(・・)の遠坂葵であった。
 神性と王威漲る真紅の眼光を受け、葵は萎縮して縮こまるばかり。

 片や、常人であれば既に死体となっているであろう状態の遠坂時臣。
 片や、傷一つない遠坂葵。
 ギルガメッシュは酷薄な笑みを浮かべる。あわや命を落とす寸前のマスターへ、彼はなんら温情を与えるつもりはなかった。
 己が自ら裁定を下すと決定した英雄、メレアグロスとの決着まで、ギルガメッシュには現世から退去するつもりはない。故に時臣を今すぐには殺すつもりはなかった。それは、自らの財宝を賜ってやったにも関わらず、死に体である時臣への罰である。

「――貴様より宝を取り上げる。以て我が財への補填とし、この場で死することは免れることを許す」
「……は」

 臣下の礼を取る時臣は、肯んじるしかない。英雄王の宝具がなければ死んでいたのは確実なのだ。屈辱だが認めざるを得ない。
 故に、時臣は自らの手から令呪が剥がれ、ギルガメッシュの手に令呪が移ったのを見ても、歯噛みすることも出来なかった。
 令呪が取られた。
 それはつまり、もう彼を掣肘することも、自害させることも出来なくなったということ。
 目の前が真っ暗になる。もはや最優王に勝たせ、然る後にその薪を破壊するしかないのかもしれない。

 ふと、ギルガメッシュは愉快げに相好を崩した。それは、宴を汚した鼠を見つけた顔だ。

「お父様ー! お母様ー!」

 その時である。双子館に急ぎ駆け込んできたのは、安否が分からなかった時臣の娘、遠坂凛であった。
 思わず立ち上がり、時臣は凛を抱き止める。凛! 無事だったか! 喜びのあまり、夫妻は歓声をあげ、ギルガメッシュが哄笑した。

「フハハハハ! 時臣、してやられたな!
 貴様、まんまと生きている(・・・・・)ことを知られたぞ!」
「――それは、どういう……?」
「戯け。こういうことだ!」

 ギルガメッシュは無造作に凛を掴みあげ、悲鳴にも似た抗議の声をあげる凛を無視し、その懐から小さな機械を抜き取った。
 時臣も、葵も、凛もそれが何か分からなかった。しかし、ギルガメッシュには分かる。物は分からぬとも、この状況でそれを持つ故に、推測は容易かった。

「こちら側の音声を拾い、盗み聞く鼠の耳だ、これは」
「なんと……それはつまり!」
「貴様ら親子を謀殺せんとした鼠は、またしても貴様らを狙うだろうな」

 ひ、と喉をひりつかせて恐怖したのは、幼さに特有の繊細な感性を持つ凛だった。
 ギルガメッシュは盗聴機を握り潰す。
 凛を抱く時臣の手が、微かに強張った。しかしそれを凛に悟られる前に葵へ娘を預け、時臣は言った。

「――阻止するには、私がその賊を討たねばならない、ということですか」

 今から葵らを逃がすことは難しい。下手に目を離せば先刻の二の舞になるのは明らか故に。

「その通りだ。我の見たところ、聖杯戦争は明日明後日には終わる。それまでに片付けねば、そこな小娘と女の命はないだろうよ」
「……」

 く、とギルガメッシュは嗤った。
 はじめて戦う者の目をした己のマスターに、ようやく見所を見いだしたのだ。
 だがまあ、あまりに小粒。明日まで死なねばそれでいいか、とギルガメッシュは思い。時臣は冷徹な魔術師として、戦場に赴くことを決意した。

「英雄王よ。御身が戦いに赴く際は、是非私を傍に置いていただきたく」
「よかろう。貴様が我の傍にいれば、鼠も姿を表さざるを得まい。そこを討て。最悪死んでも我は構わんがな」

 言うだけ言って、英雄王は霊体化して消えていく。令呪のないマスター、時臣は、自らの勝敗が娘と妻の安否に繋がることを自覚して、必勝の決意を強く抱く。
 人質を取り、あのような手段で襲ってきた卑劣なる輩。断じて負けるわけにはいかなかった。

 時臣は、この時だけ傷の治療に専念する。
 常に余裕を持って優雅たれ……。魔術礼装の杖と――遠坂の先祖以来、鍛え上げてきた"拳"を時臣は握り締めた。

 ――野蛮なる輩にわが魔術は高尚に過ぎる。その性根、私が手ずから叩き直してくれよう。

 彼は、初代の遠坂と同じく、武を修める達人であった。

 面白い余興(茶番)にはなりそうだ、とギルガメッシュは霊体のまま時臣に不吉な笑みを向け。

 翌日。決戦は始まろうとしていた。
















ちょっとどこ目指してるのか分からなくなってきた(困惑)


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双角の潮騒




 王の戦意は見えざる波動のように肌を打つ。

 黒ずんだ"貴き者の鎧"――長く過酷な戦歴の中で刻まれた武勲の証。
 王でありながら戦士としても天才的であったその王は、盾と剣を操り常に先陣を切ったという。
 臣下は彼の雄大な背を追い、彼と共に偉大な伝説を成し遂げていった。
 彼こそは史実に名高き征服王。知らぬ者なき武勲の大王。
 二頭の雷牛の牽く戦車が駆ける。キュプリオトの剣を持った王は、頻りに自らの剣の状態を確かめていた。
 英霊は全盛期の姿で呼び出されるもの。戦いの中で損なわぬ限り、わざわざ確かめずとも武具は劣化するものではない。にも拘わらず何を確かめているのか。鎧の傷を撫でては物思いに耽り、盾を幾度も持ち直して握りを確かめる。
 丸太の如く逞しい腕をぐるりと回し、何も異常はないことを確りと検分し終えたライダーのサーヴァントは、己を見詰めるマスターの視線に気づいてニカリと破顔した。

「なんだ坊主。不景気な顔をしおって」
「……うるさいバカ。明らかに格上の奴に、真っ正面から挑むオマエに呆れてるんだよ」

 減らず口。この期に及べばウェイバー・ベルベットに出来ることなど他にない。
 令呪は道具。戦いの。そんなものマスターの仕事ではない。戦いのプレイヤーであるべきマスターは、本来なら持ち駒であるサーヴァントを如何に有利に立ち回らせるか、戦略と戦術を練るもの。仕事とはそういうものをいうのだ。

 だが、何もできなかった。

 この聖杯戦争、ウェイバーはただ震えてライダーの影に隠れ、並みいる強敵に怯えて。采配を振るい、自らの意思で戦うということを一度もしなかったし、出来なかったのだ。
 惨めだった。偉大な王の器に触れる度、豪快にして豪放なサーヴァントの在り方を知る度に己の矮小さを思い知らされた。
 スケールが違う、人間としての格が違う。そう思わされた。ライダーにだけではない。最優王、英雄王、騎士王。彼らもまた、王の名を冠する器の大英雄だった。

 勝てるのか、と思ってしまった。

 勝たせるべき、勝つべき、主役であるべき自分が。勝利を信じられず、戦いに赴くのではなく見守る立場で、脇役となって小さくなっているだけ。
 眼前には冬木大橋。進む先には上半身を剥き出しにした原初の騎士と、そのマスターらしい長身の男が立っていた。

 まだ引き返せる。戦うとしても、本当ならここから奇襲すべきで、断じてサーヴァント同士で正々堂々正面から戦うべきではないのだ。
 そんなウェイバーの胸の内を察することなど赤子の手を捻るよりも容易いのだろう。イスカンダルは苦笑しウェイバーの肩に手を置いた。
 大きく、分厚く、熱い、男の手だ。

「ウェイバーよ。履き違えてはならんぞ」
「履き違える? 何をだよ」
「『勝てるから戦う』のではない。『戦いたいから戦う』のだ。闘争の中に求めるものは千差万別、中には『勝つのが好きだから戦う』戦狂いもいるだろう。名を成し栄光を掴む者はすべからく戦いに意味を持っておるものだ」
「……」
「小難しく考えることじゃないぞ。戦うものはなんらかの意義を見いださねばならんというだけだ。さもなければ、得られるものなど軽薄な栄光のみ。そこに人としての成長はない」
「戦いの意義……」
「ウェイバー、貴様は確かにこの戦いで成せたものはないかもしれん。だが間違いなくこの征服王イスカンダルと肩を並べて駆けたのだ。そこに何を見いだせる。それに価値はあるのか。決めるのは貴様だ。そして、余は貴様と共に駆けられたことは真に痛快であったぞ」
「……!」

 髭の生え揃った厳つい顔に、童のような笑みを浮かべてイスカンダルはそう言った。
 ウェイバーは、喉が詰まったように何も言えない。何か言うべきだと思うのに、何も。

 やがて冬木大橋に到達し、待ち受ける黄金の王と対峙する。戦車を降り、剣と盾を持ったまま、イスカンダルは単身で最優王に歩み寄る。
 応じて進み出てきたメレアグロスに、イスカンダルは厳かに宣言した。

「父なるそなたと邂逅し積年の悲願は叶った。残る願いは闘争のみ。故に勝ちに来た。余の挑戦を受けるや否や」
「愚問だ征服王。オレは何者の挑戦にも背は向けない。そして――貴様には相応のもてなしを用意してある。存分に挑め、オレも全力で応じよう」
「うむ。もはや如何なる問答も無用。ただ剣を交えるのみであるな」
「ああ。――勝利の栄光を、勝者に」
「勝者に」

 両雄は拳を同時に出し、重ね合わせた。
 無言で視線を交え、通じ合う姿にウェイバーは羨望の念を抱く。
 拳を引き、踵を返して戦車に戻ったイスカンダルは、その顔に極大の闘志を充溢させる。
 ウェイバーを見た。イスカンダルは骨太に、戦の鬼の笑みを向けた。

 怖い。怯む。――何も関わり合いのないウェイバーなら気圧されていた。
 しかし今のウェイバーは怖いとは思わなかった。寧ろ腹の底から熱が噴出するような心地である。
 ウェイバーはライダーに令呪を向けた。使うべきはここしかない。せめてマスターらしいことの一つでもしたいと、切に思った。

 ウェイバーの令呪に、イスカンダルは心地よしと莞爾とした笑みを浮かべた。
 迸る魔力の波動。未熟なマスターによって低下していたステータスが、三画の令呪により一時的に最高値に至る。数値的には最優王をも上回っていた。
 戦車の手綱を握り、イスカンダルが吠える。天地を揺るがす覇王の雄叫び。高らかに謳うは勝利への渇望。

「――最優王メレアグロスに令呪を供する」
「赦す。献じるがいい」

 迎え撃つは神代最高峰。あらゆる神話に於いて比肩せしは僅かに数騎という、空前の英雄。死後は神へと至った世界史の戦神。
 言峰綺礼は約定に沿い、一画の令呪を切る。

「この令呪の魔力の及ぶ限り、全力(・・)で戦うがいい」

 魔力の節約を常に心がけ。現界のために賄っていたのは最低限の魔力と、単独行動のスキル頼りであった最優王。
 その鎖を、縛りを断つ令呪。
 メレアグロスは、一時に限り、クラスによる縛りを除いたあらゆる制約を取り除かれた。
 檻から解放された黄金の狼が、闘争の獣と化して牙を剥く――




















「――やはり貴方か」

 市民会館跡地を守る、セイバーのサーヴァント、アルトリア・ペンドラゴンの許へ、アルトリアに数倍する巨大な霊基が接近してきた。
 何者であるか。論じるに値せず。
 静かに瞑目していたブリテンの赤き竜は聖剣を手に迎え入れる。

「英雄王ギルガメッシュ」

 黄金の鎧。下ろされた黄金の髪。暴力的なまでに雄壮な、単独の軍勢。
 杖を手に、仕立てのいいスーツを纏った男を従え、黄金の王者は財宝の射程圏内に騎士王を捉えて立ち止まる。

「ふむ。足りぬもの(・・・・・)は揃えたようだな」

 騎士王の背に負われた聖剣の鞘。そして、彼女の傍らに侍る黒き騎士。それらを真紅の視線で一瞥し、ギルガメッシュは嗜虐的な笑みを口許に浮かべる。
 相性の良くないはずの黒騎士と、決して侮れぬ騎士王。その組み合わせにしかしギルガメッシュはまるで小揺るぎもしない。ただ時臣が、黒騎士の後ろにいる男――間桐雁夜を凝視している。

「間桐雁夜。――なるほど、卑賤なる者同士、手を組んだ訳か」
「なに?」

 剣呑な時臣は、しかし常の優雅な物腰だ。
 だがそこに籠る決意の重さは、雁夜も知らない類いのもの。――家を負って立つ、親としての、当主としての姿。
 戦いに赴く人間としての厚みで、今の時臣と雁夜は比べ物にならぬ。
 重荷から解放され軽い身となった雁夜に、人間の厚みなど期待できるものではない。

 鼻白んだ雁夜の反駁に、時臣は答えず。ただ彼は告げる。

「聞いているのだろう、アインツベルンの狗。私がそこの落伍者を討てば、この場のマスターは私のみとなる。そして、そこの二騎を英雄王が討てば、仮初めの形とはいえ聖杯は降りる。私が聖杯を確保することになるぞ。――出てくるがいい。私は逃げも隠れもしない」

 アルトリアはそれに、やや意外そうに眉を動かした。

 ――数瞬の間を空けて、彼女の本当のマスターが姿を表したのだ。

 この手の挑発に乗るような男ではないはず。
 なのに、衛宮切嗣は素直に出てきた。短機関銃を片手に。

 勝機は固い、容易い敵と侮っているのか。
 アルトリアは思う。――今のあの男は、侮れない。直感が、そう告げている。
 時臣は不敵に笑みを湛えた。彼は分かっていたのだ。聖杯を求めるなら、衛宮切嗣はここに出てこねばならぬ、と。この戦いは避けては通れぬ、と。

 煙草をくわえ、切嗣は騎士王の傍に寄る。彼は機械的に告げた。

「僕が奴を始末するまで耐えろ。マスターを失いアーチャーが弱体化したら仕掛けるといい。間桐雁夜も、いいな?」
「あ、ああ。……あんたは、いったい……?」
「僕が何者かなんてどうでもいい。英雄王は強敵だ。気を抜くな」
「――切嗣、勝てるのですね?」
「ああ」

 アルトリアの問いに、切嗣は端的に応じる。
 それで悟った。
 衛宮切嗣は、遠坂時臣を侮っていない。冷徹に戦力を計っているだけ。
 切嗣は勝つだろう。ならば、彼と共に戦うのもいいのかもしれない。
 アルトリアは言った。

「分かりました。ですが――別に、先に倒してしまっても構わないのでしょう?」

 ちら、とその不敵な台詞を吐いたサーヴァントを一瞥し、切嗣は短く言い捨てた。

「好きにしろ。死ななければそれでいい」

 ギルガメッシュが噴き出す。大声で嗤った。

「時臣、どうやら我らは舐められているようだぞ」
「赦しがたい侮辱。その命で償って貰う他ないでしょう」
「そうだ。――ああ、今夜はいい夜だ。特別に全力(・・)でやってやろう」

 後が控えているのでな、と。

 ギルガメッシュは、冬木大橋の方に目をやって、不意に表情を消す。
 王の蔵から引き抜かれたのは乖離剣。
 油断も、慢心もない。前座を相手に出し惜しまぬのは些か浪費が過ぎるが、

「なに。祭りの続きと思えば、それはそれで愉しみようはある」

 切嗣と、時臣。どちらが勝っても、ギルガメッシュは構わなかった。なぜなら――

「せいぜい足掻くがいい。その散り様が我を興じさせる」

 ――誰が勝つのかなんて、分かりきっているのだから。














 



人外和装ヒロインっていいよね(唐突)


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最たる者、最果てを望む者





 良い夜だ。

 黒天に座す真円の満ち月。夜の匂いを薫らせる無人の大橋。
 何をするでもなく、ただ其処で待つ。
 来るだろう、と金色の狼は確信していた。
 示し合わせたでもない、しかし待ち人は必ずここへ来る。

 ――狩りを思い出す。

 財宝集めし迷宮の邪悪なる竜。英雄殺しの猪狩り。人食い巨人の討伐。どれも傍らに深緑の狩人がいたものだ。
 後悔はあっても、未練はない。しかしこうして思考すると、どうにも寂寥を覚えてしまう。
 友も、伴侶も、臣もいない。一匹の獣として現世に身を置くことへの感慨のみがある。
 所詮は幻想の一時。楽しむことが肝要だ。そしてその楽しみのお裾分けを現世に贈る。
 世界の裏側に流れた戦神、星の守護者と化した神の己とは別物だが。それでもまあ、戦神よりも今の己の方が楽しんでいることへの優越感は何物にも変えがたいものがあった。

「……しかし、貴様がいないのは物足りんな、アタランテ」

 半生を共にした狩人はいない。
 独語するも反応は怪訝な顔をする綺礼のみ。
 思い悩む求道のマスターだ。道を指し示し、導くこともまた愉悦である。人が悪であっても善で在れる証明がこの男。
 人生の旅路を歩む要訣は、道を誤らぬことであり、身の丈を見誤らぬことであり、そして決して心の欲望を誤らぬことだ。
 人は己の主観に依って生きるモノ。即ち、自身に定義された幸福を、如何に己が認められるかだ。

 己は幸福で在れているか。

 自問するも答えは出ている。決して幸多からぬ生であっても、子宝に恵まれ、友に恵まれ、女に恵まれ、親に恵まれた。
 であれば己は幸福であった、と称するに足るであろう。満足のいく、幸福な生命であった。

 回顧する意識の間隙――ふと、己の領域に、紛れ込んだモノの気配を感知した。

 何者であるか、見て取る。魔術師ではない。サーヴァントでもない。一般人が紛れ込んだのだ。
 人払いの結界が効きにくい人間なのか。稀にいる性質の持ち主。やれやれ手間のかかる、と嘆息してその人間を遠ざけに向かった。
 遠からずここは戦場となる。自衛できぬ人間がいてもいい場所ではない。折角一般の人間が傷つかぬように配慮して、犠牲を零に抑えてきたのだ。己の沽券に掛けて、一般人の死者は出さぬと彼は決めている。

 そして、彼はその男と出会った。





















「この令呪の魔力の及ぶ限り、全力(・・)で戦うがいい」

 瞬間。――古の時代、あらゆる難業を制した伝説の騎士王が甦る。
 英雄王との初戦、廃工場での戦いで枯渇寸前だった器に、魔力という水が満たされたのだ。爆発的に解き放たれた縛鎖は半神の神威。真のトップサーヴァントの本領に、サーヴァントの能力値を透視する権限を持つマスターの少年が戦慄して喘いだ。

「こ、幸運以外のステータスが――Aランクだ……!」

 耐久は槍兵時はBランクであるが、今のメレアグロスは徒手空拳での拳闘を本分とする戦士である。純粋な身体能力なら本来のクラスのものよりも高くなっているのだ。
 征服王はそれを聞いて笑みを深める。獰猛なる笑み。
 敵が強ければ強いほど、征するのに喜びが増す。叶わぬから挑む願いではない。挑みたいから挑む闘争の喜び。本能に根付いた原始の渇望だ。
 闘志がいや増すのは征服王が征服王たる由縁であり、彼が怯まぬ以上はマスターである少年もまた腹を決める。

 その勇壮なる者らを一瞥し、代行者は微かに相好を崩した。

 なんたること、まるで心踊らぬ茶番である。所詮は場違いなる我が身なれば、部外者も同然であるからして、せめて餞別を手向けん。

「――第二令呪、解放。最優王メレアグロスよ単独行動スキルを強化せよ」

「ぬ、」

「重ねて第三令呪解放、その霊基へ魔力を充填する。常に万全なる様にて戦いへ臨むがいい」

 瞠目するメレアグロスに、言峰綺礼は投げ遣りに言った。
 もはやお前は無用の長物、もとより握れぬ手綱なら、さっさと捨てるに限るだろう、と。

「私はもう、聖杯を巡る戦いを終えた。残すは我が愉悦を貪ることのみ。であればメレアグロス、私は私の道を行く。これは礼だ、お前が心行くまで戦い、終えられるようにという」
「……ふん。確かにオレは言ったな。残る二画は好きに使えと。なるほど、そう来たか」

 三画の令呪。その用途からして、全力戦闘を後二回は行える、潤沢なる魔力量だ。
 力が漲る。久しく感じなかった欠けざる姿。これだ、と拳を握れば、力そのものが掌握される。
 男は踵を返し、離別する。メレアグロスはその後ろ姿に返礼した。一方的に与え、与えられるような関係ではないのだから。

「綺礼。貴様を祝福しよう」
「……なに?」

 繋がる経路を通し、メレアグロスは"アレスの祝福"のスキルにより、彼へ"武の祝福"なるスキルを付与した。
 その命尽きるまで、武の才の上限を取り払う祝福――即効性はない、しかし鍛えれば鍛えるだけ上達する武練は、今後の彼の戦いを助けるだろう。

「我が権限が及ぶ、僅かながらの餞だ。幸多かれよ言峰綺礼、我がマスター。貴様との契約は快いものだったぞ」
「ふ、心外だなメレアグロス。私はお前に振り回されていただけだ。しかし、そうだな……ただ我が蒙を啓いてくれたことは感謝する」

 綺礼はそうして立ち去った。
 今生の別れも晴れやかに。後腐れない莞爾なる様。ここに彼らの契約は満了したのである。
 メレアグロスは朗らかに前を向く。大人物に成り上がったかつての悪童、今や一世の傑物と称すに足る偉大なる王へ彼は言う。

「待たせたな征服王。決闘に水を差す非礼、平に詫びる」
「なぁに、余としては一つの爽やかな終わりを見届けられ、まっこと快なる心地になれた。その鮮やかなる終着、肖りたいものだわい」

 イスカンダルは豪放に言い放つ。その凄烈な戦意、まさに侵略の火。紅蓮の覇気は世界へ唱えられし覇道の灯火である。
 敵として迎えるに両者不足なし。世に冠たるイスカンダルは今、一つの神話に挑まんとしていた。

 そして、神話は告げる。

 大胆不敵な大壮語。自らの誇りに掛けた後手の誘い。

「――先手は譲ろう。貴様の猛り、我が腕で抱擁するに足る」
「応ッ! 余の方こそ抱き締めたいなッ! いざ征かん、『遥かなる蹂躙制覇(ヴィア・エクスプグナティオ)』ォォオ――!!」

 黄金の王が(いざな)えば、赤銅の王は全力で応じる。

 二頭の飛蹄雷牛(ゴッド・ブル)が牽く神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)の真名解放。
 出し惜しみなしの蹂躙走法だ。雷神ゼウスの顕現である雷撃が迸り、百は離れていた彼我の距離を瞬きの間もなく零とする。
 併せ、戦神の円盾によるシールドエフェクトを展開。突撃時の防御力も飛躍的に高めた。
 そう、イスカンダルはこの一撃で勝負を掛けるつもりはない。次に繋がる楔を打ち込む、ただそれだけの犠牲戦法(サクリファイス)。神威の車輪を自身の二の矢とする布石。

 彼は知る。王は知る。信奉した偉大なる戦神は、断じて一筋縄ではいかない難敵、強敵である、と。

 ――その信頼に応えずして何が王か。

 眼前に迫った雷牛。忌々しいゼウスの雷気を受け止め、涼しげに嘯くは黄金の大王。数多の名、姿で信仰されし世界の軍神。

「神性、仮想顕現」

 第二宝具、開帳。華々しく鮮烈に、此度の決闘を彩らん。

 其れはかつて、衛星軌道上に仮想顕現せし光の柱。
 メレアグロスがメレアグロスである以上、如何なるクラスであっても保有する宝具。
 出し惜しまぬ、手を抜かぬ、全力で来るのなら全力で応じる。それでこその王、それでこその先達。

 黄金卿に激突した飛蹄雷牛が停止した。
 否、止められたのだ。戦略爆撃機に匹敵する大火力の対軍宝具が。
 征服王は武者震いする。雷牛を塞き止める光の剣を至近距離で目撃した。飛ぶぞ、坊主!
 吠えた巨漢が戦車を捨て、愛馬たるブケファラスを召喚。虚空でそれに跨がった瞬間、彼ら主従はその真名を聞いた。

「『火の星、霆の権(グラディウス・フォトン・レイ)』」

 光に包まれる。凄まじい魔力の猛り。

 空を駆けるブケファラスの嘶きが、彼らへ視界を取り戻させる。



 ウェイバーは凍りついて眼下を見下ろした。



 ――冬木大橋が、跡形もなく消し飛んでいたのである。


















冬木大橋「この人でなし!」



何日も悩んだ結果。

(五話とか無理やん)

という結論に至りました()


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遠き日、賛美の詩




「あれが、か――」

 『火の星、霆の権(グラディウス・フォトン・レイ)

 光の柱、神鳴りの稲妻と語られし旭光の対城宝具。冬木大橋を跡形もなく消し飛ばしたそれは、かのファラオ・オジマンディアスに致命的な傷を与え、その死因となったとされる稲光の剣である。
 後のローマにて、進撃する者(グラディウス)と崇められた戦神の代名詞。それを間近で眼にした征服王を畏怖と高揚が包み込んだ。
 だが、それも一瞬。巨黒の愛馬ブケファラスの嘶きが耳朶を打ち、我に返ったイスカンダルは雄叫びを上げた。
 そうだ、戦車を捨ててまで奪わんとしたのはこの一瞬。対城宝具の起動を誘い、斬りかかる間合いを欲してのこと。
 ブケファラスの疾走は音を置き去りにする。凄まじい気迫を以て空気の壁を切り裂き、光の巨剣を振るった黄金卿へ突貫した。

 生前より大幅に劣化した神威なれど、その身は最難の功業踏破を成した超越者。無手であっても対城宝具を仮想顕現させる者を、どうして侮ることが出来る。
 冬木大橋が消し飛び、水面を蹴って陸地に上がった直後にブケファラスの突撃をまともに受け、弾け飛んだメレアグロスを追撃する。ブケファラスの蹄が黄金の獣を踏み砕かんと迫るもメレアグロスは何事もなかったように跳ね起きて身を躱した。

「はぁぁあ!!」

 渾身の力で馬上よりキュプリオトの剣を一閃する。ブケファラスの突撃を受け吹き飛び、追撃された際に両手を地について腕の力だけで跳躍、華麗に着地した彼は背中を向けていた。
 その背中越しに首を狙う。左足を軸にメレアグロスが半回転した。ぬ、とイスカンダルは呻く。鉄槌の如き拳がキュプリオトの剣を迎撃したのだ。
 激突の瞬間、剣と拳を中心に衝撃波が散る。地面が陥没し、火花すら散った。
 剣と拳(・・・)で、だ。苦笑めいてイスカンダルは揶揄する。

「えぇいその手は鋼鉄で出来ておるのか?!」
「侮るな、鋼鉄などと比されるほど脆弱ではない。鍛え方が違うのさ」
「ぬぁッ!」

 拮抗は刹那。振り抜かれた鉄拳が、馬上よりイスカンダルを吹き飛ばす。
 主を馬上より失ったブケファラスが怒りの嘶きを上げた。かの駿馬の英霊は、生前主を一度も落馬させたことがない。傷つけられた駿馬の誇りが彼女に激怒を抱かせる。
 単身で蹴りかかるブケファラスの後ろ足を、メレアグロスは両手で掴んだ。微かに地面を削り後ろに後ずさり、にやりと獰猛に笑い駿馬の英霊を称えた。

「なかなかやる、オリュンポスに供されし牡牛を思い出したぞ」
「させぬわ――!」

 ブケファラスはイスカンダルの相棒である。そして今、ブケファラスは彼のマスターを乗せていた。やらせてたまるかとイスカンダルはすぐさま斬りかかるも、メレアグロスはブケファラスの後ろ足二本を掴んで振り上げ、地面に叩きつけた。
 悲鳴をあげてウェイバーが落馬し、気を失った。だが、すぐにイスカンダルの咆哮で目を覚ます。彼は見た、イスカンダルがメレアグロスの手刀と鍔競り合うのを。

 その背後を健在だったブケファラスが襲う。巧みに身を躱したメレアグロスが虚空に舞い、その隙にイスカンダルは即座に馬上に戻り――虚空に在るメレアグロスが出現させた七つの雷球を見て瞬時に駆け出した。

「掴まれ坊主!」
「あ、ああ……!」

 霆の権(フォトン・レイ)の七連打。一切の呵責なき猛攻は紙一重でイスカンダルを掠める。しかし、ウェイバーを拾った隙が不味かった。最後の雷球を躱し切れぬと見たイスカンダルは盾を構え、魔力障壁(シールド・エフェクト)を展開させる。
 魔力ダメージ、物理ダメージの大部分をカットする盾はメレアグロスの魔力弾を見事に防ぎきる。しかし手に伝う衝撃の強さは誤魔化せない。苦り走った顔を隠し、再度突撃するもいなされる。

 駆けるイスカンダルは猛々しくも苦笑した。

「――やはり一騎討ちで勝とう、などというのは虫が良すぎたな」

 分が悪い、天才的な戦士であるイスカンダルをして、そう思わしめる武勇である。
 このままで続ければ三手で詰むと確信した。せめて槍があればと思うが、残念ながら得物は剣。これがイスカンダルとしてではなく、アレクサンドロスとしての現界ならば槍もあっただろうが――召喚者が未熟であった弊害だろう。
 ないものねだりほど情けないものもない。イスカンダルは戦士としての未練を絶ち、犬歯を剥き出しにして笑んだ。

「最優王よ、その武勇まずは見事!」

 称賛する。百の距離を開けたままに。

「正直な、このまま続けるのも悪くはないと余は思う。ブケファラスと共に駆ける『始まりの蹂躙制覇』を魅せるのも悪くない。が、それよりもその身には是非とも味わってもらいたいものがあるのだ!」
「――ふん? 貴様の武練も悪くはないが、そうまで言える奥の手がある、と。であれば受けて立とう。元よりオレは貴様の全てを許している」
「フハハハハ!! だからこそだ、だからこそ見せ付けたいのだ我が至宝を! 我が王道を! 我らが築き上げた無双の絆を! 刮目せよ、いざ参るぞ我が野望を支えし遠征の同胞(はらから)と共に!」

 征服王を中心に風が吹く。熱砂を纏う砂漠の風。平野の恒星。
 両の腕を広げ、征服王は高らかに謳う。
 全開なり王気。無窮なり覇道。其は征服王の誇る最強宝具――

「さあ余の声を聞け! 我らは今、神話の頂きにして我らの父へ挑むのだ!」

 英霊の座に呼び掛けられる王の声。その名の下へ、続々と集うは無双の軍。
 おお、聞け。彼方より届く勇ましき勇者らの声を。光が走る。熱砂が渦巻く。光差す砂漠の平野に万の軍勢が集結する。
 新たな王朝の創始者が。名だたる参謀、英雄豪傑が征服王の背後を固める。その絢爛なる軍勢のなんたる魂の輝きか。イスカンダルは無限の誇りと共に唱えた。その絆を戦神に示した。

「そうだ、これこそが我が至宝、我が王道! イスカンダルたる余が誇る最強宝具、『王の軍勢(アイオニオン・ヘタイロイ)』なり!!」

 イスカンダルを讃える軍勢の雄叫び。重なり合う万の気迫。その質量、その重量、凄まじきかな偉大な王。
 瞠目して、メレアグロスは彼らを見た。全てが英霊、全てが臣。嘘偽りなき真の王道。彼の歩みを知っていても、彼の足跡を知ろうとも、決して軽く流せはしない究極の宝。
 素直な称賛の念が沸き起こる。驚嘆して、感嘆した。言葉もない、あらゆる美辞麗句もこれを前にすれば軽薄な文言としかなりえない。

 だが――

「ク、」

 沸き起こるのは、称賛のみではない。

「ククク、」

 肩を震わせ、額を押さえた黄金の狼は大笑した。
 嘲笑っているのでは断じてない。それは猛りだ、堪えきれない喜びだ。

「クハッ! クハハハハハハ!!」

 メレアグロスの総身より、軍神の剣を解き放った以上の魔力が迸る。

「――よりにもよって、絆だと? よもや貴様、このオレにそれ(・・)で挑もうというのか!? クハハ、愉快だ、堪らなく! 貴様が斯くの如くに謳うなら! オレも応えねば名折れ!」

 雷光が散る。そして万象へ示す。
 我こそがと。我らこそがと。これこそがと。
 何一つ恥じず、何一つ怖じず、何一つ悔やまず!

「今再び我が朋友(とも)を讃えよう。不朽なる栄光の勲を知らしめよう。喝采せよ! 其の名は『拳闘聖地(グラディウス)』――!
 肉体は滅び、時が無限の果てまで至ろうと、我らの友誼は永遠不滅。開演の時――いざ謳おう! 『最たる者の饗宴(アルケイデス)』よ!」

 砂漠の平野の直中に、屹立せしは原初の拳闘聖地。始まりの舞台。
 息を呑む軍勢、比例して高まる戦意。
 理解した、魂で察した。これは――そう、これが『拳闘聖地最たる者の饗宴(グラディウス・アルケイデス)』。
 メレアグロスとヘラクレスの拳闘に触発された人々が創り上げた拳闘場。黄金の獣と最強の英雄が興じているとの噂を耳にした各地の戦士や英雄、果ては神までもが参戦したと言われているボクシングの聖地であり、様々な者と切磋琢磨したメレアグロスの思い出の地。
 この宝具を使用すると強制的に一騎討ちに持ち込む事が出来、武器又は魔術の使用が禁止され徒手空拳での戦闘を強いられる。
 幾千もの勇者が敗れ去ったその闘技場は、真の強者のみが君臨出来るという。

「――なんったることかぁ……!」

 瞬間。一騎討ちを強制されるがゆえに軍は意味をなくす。
 しかし、イスカンダルはただ震えたように呟くのが精一杯だった。

 武者震い。

 手にしていた剣と盾、鎧が消えた。しかし、イスカンダルは笑う。笑う。笑う。
 やがて軍の中より呆然とする王より先んじて勇者が名乗り出た。

 一番槍は我が頂くぞぉ!

「ぬぁっ!?」

 征服王は頓狂な声を上げた。闘技場にいの一番に駆け上がったのは熱烈なる戦神の信仰者。後のローマを輝かせし者。イスカンダルは出遅れたことを理解するも、まだ遅い。
 次々と破れ、消え去り、殴り倒される英霊軍は、イスカンダルよりも先に拳闘を挑んだ。

「待てぇぇぇいい! 余が行くぞ、余に出番を譲らんかあああ!!」

 王よ、あなたは最後ですぞ! 臣下の声に後ろに追いやられる王。イスカンダルは悔しがって地団駄を踏んだ。
 快活に笑う臣下ら。メレアグロスは舞台の上でまた別の者を打ち倒し、指を指して少年へ語りかけた。

「――ウェイバー・ベルベット! さあ、上がってこい! 男を魅せよ!」
「うぇぇぇ!?」
「うむ! 行けマスター!」
「はああ!?」

 イスカンダルに軽く放り投げられ、王の軍勢の手を経由して舞台に上げられたウェイバーは大いにうろたえ、そしてしばき倒された。

 笑い声。

 そう、拳闘は、長く長く、大切に遊ぶように本気でおこなわれ続けた。

 最後の決着を今語るのは、無粋というものだろう。

















クマ吉さん案の宝具ようやく出現なりけり。

ここまで長かったー!


こっちは爽やかに。
向こうは……。


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戦火掻き分け望む理想 (上)





 サーヴァント同士の戦いで優勢なのは騎士王と湖の騎士――ではなく。数の差、個の力量差を嘲笑う圧政の究極体。英雄王ギルガメッシュである。

 まさに独壇場であった。

 英雄王の蔵にはあらゆる物の原典が納められる。即ち、人の手で造り上げられ、人の手で受け継がれた最優王の『拳闘聖地』もまた、彼の蔵には納められているのだ。
 無論、それそのものは使わない。あんな際物を使えばギルガメッシュ自身の首を絞めてしまう。彼が蔵より解き放ったのは、後のローマにて建造された『闘技場(コロッセウム)』である。擬似的な固有結界とも言える闘技場の原典を展開し、自らと敵サーヴァント二騎を現実空間より隔離。なんとかして近づかんとする二騎を、圧倒的な物量で押し流していた。
 寄せる攻め手を悉く遮断され、セイバーとバーサーカーは攻めあぐねる。英雄王の魔力は底無しなのか、一度に千、二千と宝具を射出し続けているのにも関わらず、その顔に疲弊はない。涼しげな顔で、いっそ清々しいまでに円卓の騎士を嘲笑していた。

「……ふん。音に聞こえし円卓の騎士、その主と最強の看板を背負った者。力を束ねればどれほどのものかと期待はしてみたが。所詮は雑種、こんなものか」

 心底失望した、とこれ見よがしに嘆息して見せる余裕が彼にはある。
 正真正銘、掛け値なしの本気――とはいかずとも、油断も慢心もない英雄王に、騎士らは近づくことはおろか宝具を解放する暇すらない。
 絢爛なる宝具の雨霰。なるほど見応えはあるだろう。しかしワンパターン、繰り返すのは最強のワンパターンのみである。
 そこに武はない。あるのは只管に暴虐。積み上げた研鑽、重ねた絆、信念、覚悟――それらを蹂躙する質量の暴力。
 我らはこのまま屈するのか、とアルトリアは歯噛みした。屈してなるものか、と奮起した。
 傍らに在る黒騎士。無双の騎士。その男をして、防戦一方。飛来する武具を掴み取り、打ち落とし、堪え忍ぶ。なれども進撃はならず、武勲の証である甲冑は削られるばかり。
 彼はアルトリアを守っているのだ。アルトリアは無限にも迫る『王の財宝』を凌ぎきれぬ。捌ききる技量がない。勘だけで凌げるほど易くない。着弾する、腕が飛ぶ、足が飛ぶ。それを鞘が、アヴァロンが修復しているのだ。
 鞘のある騎士王は不死身だ。だが不滅ではない。ギルガメッシュはアルトリアの不死性を見て取るや、即座に"封印"しに掛かっていた。
 不死殺しの原典宝具を基本に、城や縄、鎖、瓶、鐘――東西南北の古今を問わず、あらゆる宝具によって騎士王を封殺しようとしているのである。そのために手足を、頭を消さんとしているのだ。

 幾ら不死でも、身動きを封じられ、封殺されてしまえば終わりだ。

 それを知るから湖の騎士ランスロットは死戦に臨む。生前は成し得なかった騎士道を、今度こそ果たして魅せんと。王に勝利を献上しようと言語を捨てて雄叫びをあげている。
 彼がいなければ、アルトリアは既に封殺されていただろう。近寄ることすら儘ならぬまま、一方的に蹂躙されていた。
 このままでいいのか、このまま耐えられるのか。まだか、まだなのか、切嗣は。

「――貴様らに良いことを教えてやろう」

 不意に、ギルガメッシュが笑みを浮かべた。

「征服王が、最優王に敗れた。この戦いの勝者が奴と雌雄を決する権利を持つのだ」
「……ッ!」
「そして朗報だ。我に魔力切れはない。そこな狂犬めは飼い主から令呪の後押しを受けて戦っているようだが……我も同じことが出来るぞ?」

 何故ならこの手には令呪がある。

 ギルガメッシュが見せた手の甲の令呪に、騎士王らは驚愕する。そして、一気に費やされる三画の令呪。膨大な魔力がギルガメッシュに注ぎ込まれ、彼の魔力は無尽蔵に等しくなる。
 これで彼は全開で戦おうと、数日は保つだろう。つまり、この場で彼の魔力切れは期待できないということ。アルトリアは歯を食い縛る。

「貴様らの顔ももう見飽きた。そろそろ消えておけ」

 雑種如きに時間を掛けすぎるのは我の沽券に関わる。故、疾く失せるのだ――と。
 ギルガメッシュは財宝を放ちながら乖離剣を抜き放った。
 そして、冷酷に告げる。
 ここまで『王の財宝』の掃射を凌いだせめてもの褒美として、彼の光に照らされて消える栄誉を賜さんとしたのだ。

「戯れだ。貴様も王を名乗るなら、せめて相殺ぐらいはして魅せよ。
 ――『天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)』」

 平坦な声音。財宝を吹き飛ばしながら、世界を切り裂いた赤い断層が吹き抜ける。
 アルトリアは、耐えきれなかった。自分だけではない、最も信頼した騎士で、親友でもあるランスロットごと消えるのをよしとはどうしても出来なかった。
 故に、彼女は追い詰められていたから。
 他に手が無かったから。

 使わされた。

 使ってしまった。

「……『全て遠い理想郷(アヴァロン)』!」

 全開ではない、聖剣程度の破壊力しか発揮しなかった乖離剣エアは、聖剣の鞘の真名解放により遮断された。
 その鞘の真価を目視し、英雄王の目に喜悦が迸る。大したものを持っているな、と。
 流石にあれは乖離剣でも切り裂けない。さてどう対処したものか、と彼は鞘を展開しながら全速力で接近してくる円卓の者らを見下ろしつつ思案する。

 擬似的な固有結界である闘技場は、乖離剣の軽い一撃で崩壊した。折角の舞台が台無しである。これはなんとしても補填する必要があるだろう。
 ならば、

「その聖剣の鞘、この我に献上することを許すぞ」

 彼は決定する。英雄王の足元に展開されるは空を舞う舟。

 王は、()んだ。翼持たぬ騎士らを見下す天空へと。文字通り手も足も出ずにアルトリアらは呆気に取られた。
 あんなもの、どうしようもないではないか。飛ばれては、どうしようも――

 空に在りながら、ギルガメッシュは『王の財宝』を展開する。更なる絨毯爆撃で、あと五分で終わらせることを彼は決めたのだ。

 その時である。サーヴァントである彼の本能が、己のマスターの危機を察知した。

「時臣め、不甲斐ない奴よ。……まあよい、貴様の生死など、もはや我の与り知らぬことだ」
















 銜えていた煙草を捨て、火種を踏みにじる。

 眼前に在るは遠坂時臣。西洋の貴族が持つようなステッキを持っている。
 ステッキの頭にある大きな宝石からして、あれが遠坂時臣の魔術礼装なのだろう。

 剣士と狂戦士、弓兵のサーヴァントはそれぞれの戦場に移っていった。本当なら相性のいい狂戦士で弓兵を足止めし、剣士で遠坂を討つのが手っ取り早いのだが、それは確実ではない。
 前回の戦いの時、狂戦士が相性がいいように見えていたのは、あくまで弓兵――英雄王が全力ではなかったからだ。
 万事には"もしも"というものがある。足止めは二騎のサーヴァントが揃ってはじめて成立すると考え、用心して掛かった方がいい。

 間桐雁夜ははっきり言って足手まといだ。遠坂に狙われ、早くに脱落すれば狂戦士が使い物にならなくなる。それは不味い故、彼には狂戦士の後を追わせた。
 彼も自身の力量を弁えているのだろう。何やら物言いたげではあったが、素直に切嗣の指示に従い狂戦士のサポートに向かった。彼には令呪が三画とも残っていたのだ、幾ら脆弱な急造の魔術師でもやりようはあるだろう。

「――ふむ。こうして顔を合わせるのははじめてだな、衛宮切嗣」
「……」

 優雅に語り掛けてくる彼に、切嗣は沈黙を選ぶ。これから殺す相手と、何を語ろうというのか。その手の酔狂を持ち合わせぬ合理主義者が切嗣である。
 彼の総身をそれとなく見渡して戦力を分析しつつ、時臣が囀ずるのを聞き流す。

「だんまりか。アインツベルンの飼い犬が、どのような者かと思っていたが……やはり人品卑しい不逞の輩だったか。失望したよ、アインツベルンには」
「……」
「私としても、妻子を狙われてしまえば慈悲など与えようとも思えん。覚悟することだ、これはもはや決闘ではない。本物の魔術師による誅伐――」

 タタン、と腰のホルスターに提げていた拳銃で二発速射。
 ガンマンの真似事だ。銃使いとしても異端の切嗣であるが、射撃の名手ともなればこんなことも出来る。
 胸の真ん中に風穴を二つ空けて、どぅ、と倒れ伏した遠坂時臣に切嗣は呟いた。

「悪いが、隙だらけだったもんでね。つい手が出てしまった」

 敵を前に悠長に語るような阿呆には相応しい末路。コートの裾に隠れていた腰のホルスターに拳銃を戻した。

「……そうか。では私も、今回ばかりはそちらの流儀に合わせるとしよう」

 背後。

 倒れ伏していた遠坂時臣が、陽炎に揺られて掻き消える。そして、切嗣の背後にゆらりと出現したのは、死んだはずの遠坂時臣。
 魔術を使った幻覚。振り返りもせず、切嗣は機械的に嘯いた。

「――ああ、そこは僕の間合いだな」
「ぬッ……!?」

 いずこより飛来した狙撃弾。それは過たず時臣の脇腹に食らいつき貫通した。
 本来なら即死してもおかしくはない。しかし時臣は自身に強化の魔術でもかけていたのか、痛みを精神力で、ダメージを魔道と肉体に積み上げた筋骨により耐えきる。短機関銃を振り返り様に構えた切嗣を見て取るや、時臣は袖から宝石を三つ滑り出させて切嗣に投擲した。
 爆炎が巻き起こる。それを煙幕にして瞬時に距離を空け、開けた空間で対峙する危険性を悟るや即座にこの場から離脱していく。倍速の固有時制御により咄嗟に爆発圏内から逃れていた切嗣は、時臣が消えていった方角を見て無線を入れた。

「舞弥、ポイントB-4へ移動しろ」

 コンテンダーに装填してあった通常弾を取り出し、代わりに装填するは衛宮切嗣の切り札。起源弾である。
 切嗣はさしたる感慨もなく、淡々と自らの補助器具に告げた。

「作戦に変更はない。これまで通りだ、『魔術師狩り(マン・ハント)』に取り掛かるぞ」

 ――開戦した衛宮切嗣と遠坂時臣。上手は、前者である。















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戦火掻き分け望む理想 (中)

本日二話目。


切嗣VS時臣












 じくじくと脇腹が痛む。歴々と受け継がれてきた遠坂の魔術刻印が、宿主を死なせぬために傷を修復しているのだ。
 その痛みは常軌を逸する。痛みに耐性のない者ではショック死し、例え耐性があろうとも意識を正常に保てはしまい。
 されど、遠坂時臣は決して明晰な意識を曇らせない。動作する肉体に澱みはなく、最大限に駆動する魔術回路の回転数はかつてない。死地に在りて通常を超える能力が発揮されているのか、遠坂時臣の集中力は人の限界にまで近づいていた。
 彼方より放たれてくる狙撃弾。時臣の懐に隠し持たれている宝石が音速を越えて迫るそれに反応し、常時発生させておいた感知結界と連鎖して魔術礼装のステッキが自動的に火炎の防御膜を展開。銃弾を一瞬にして熔解させるそれに生身が触れれば骨も残さず消え去るだろう。
 宝石魔術の粋である。その利点は、何よりも――時臣自身は預かり知らぬものの、切嗣の切り札である起源弾を無効化していることだ。
 宝石魔術はその特性上、一度発動された魔術は術者の魔術回路から独立している故に、例え起源弾を受けても何も効果を及ばさない。無論切嗣はそんなことは百も承知している。時臣の使う魔術もおおよそのリサーチは済んでおり、宝石魔術の特性など完全に把握していた。

 故に、だ。



 ――「標的を狙撃。効果は認められず。
    しかし意図した通り遠坂時臣はポイントA-2へ移動を開始。
    こちらはポイントA-4へ移動します」

 ――「了解。先回りは可能だ。ポイントB-1へ追い込む。抜かるな」

 ――「了解」



 狩りは上々。獲物は網にかかり、後は仕上げに入るだけ。獲物は着々と追い込まれ、詰め将棋の様相を呈している。
 宝石に込められた魔力は有限。下手に狙撃を受け続ければ持続は困難となり、時臣は守りを無くして無惨な最後を遂げるだろう。それを知るから強力な狙撃を受け続ける愚を避けるべく時臣は狭所へ駆け込むのだが。
 そこには罠が仕掛けられている。爆破物が大量に敷き詰められ、魔術属性が「火」である時臣にすれば火薬庫も同然。瞬時に離脱するしかなく、理想的な場へ辿り着いたと思えば衛宮切嗣による伏撃が待っている。
 戦わんとするのに、しかし狙撃の援護が必ず入り時臣は戦闘に集中できない。衛宮切嗣は固有時制御を使っていると看破するも、彼の身動きを封じるほどの大魔術は発動する暇もない。



 ――「再度標的を狙撃。効果なし。
    標的の反応は鈍く、自動防御と感知の魔術の使用が予想されます。
    熱源は遠坂時臣の懐に手榴弾ほどのサイズのものが。
    魔術礼装と連動し狙撃を迎撃している可能性を具申します。
    標的、ポイントB-1へ移動を開始」

 ――「こちらでも確認した。
    アンチマテリアルライフルによる狙撃を試せ。
    僕はポイントC-1で待ち伏せる。
    牽制でもいい、追い込むんだ」

 ――「了解。狙撃体勢は既に取れています」



 狙撃、離脱、伏撃。狙撃、離脱、伏撃。

 この繰り返しに、時臣の理性は焦燥に焼き切れようとしていた。
 追い込まれている。その自覚がある。焦りとは別に、時臣の思考は冷たく冴えていた。
 苦境。死地。何をしても追い込まれる。彼は理解した。これが実戦経験の差、殺し合いの場数の差。時臣は下手に意表を突こうと試みることの危険性を理解している。故に時臣は為されるがまま追い込まれていた。
 このまま弱りきるまで延々と同じことを繰り返しはしまい。必ずどこかで仕掛けてくる。それまで堪え忍ぶのだ、必ず好機は来る、必ずその好機を掴む――!

「ぐぁッ……!?」

 火炎の防御膜を突破し、銃弾が時臣の左肩を穿った。ほぼ溶解しきり、内包するエネルギーの殆どを殺されたものとはいえ、人体には多大な負荷が入る。
 バカな! 灼熱の痛みと共に悲鳴を漏らしかける。ここまで無効化してきた銃撃によってダメージを負ってしまったのだ。時臣の心が揺れる。よもや、敵はこのままの戦術を繰り返すつもりなのか? 有効な攻撃力を発揮出来る以上は下手に戦う必要はない。
 唇を噛み締める。時臣は己の弱気を圧し殺した。だが、己を律するのに注力する余り足が止まった。止まってしまった。狙撃がまた来る、防御を超えてくる恐るべき威力のそれが!

「……!?」

 足元に大火力の狙撃が着弾。路面が弾け飛ぶも破片は全て火炎の防御膜が遮断した。
 反射的に駆け出す。時臣の心は千々に乱れ、平常心を――



 ――「着弾を確認。アンチマテリアルライフルによる狙撃は有効。
    しかし威力は通常の拳銃程度にまで遮断されています。
    防御膜は極めて強力と評価すべきかと」

 ――「了解。しかし命中はした。それでいいんだ。それだけで。
    遠坂時臣は冷静さを欠いただろう。
    後は僕がやる。舞弥はバックアップに入れ。仕掛けるぞ」



「ス――フゥ……!」

 走りながら。時臣は息を整える。
 平常心。時臣は平凡な魔術師だ。普通なら、この局面で慌てふためくだろう。
 しかし彼は祖に、武による根源への到達を目指した者を持つ。その身に積んだ武練は並大抵ではない。
 彼は冷静だった。冷静に自らの置かれた状況を把握していた。時臣は独語する。

 詰まされてしまった、か。

 役者が違う。魔術の研鑽、武術の鍛練、並ではないが所詮はお座敷のそれ。実戦を知らぬ時臣が、恐らくは多くの戦場を超えてきたらしき飼い犬に手玉に取られるのもおかしな話ではない。
 時臣は凡人だ。故に認めるべきは認める。頑なにはならない。なってはならない。そんな様は『優雅ではない』のだから。

「遠坂は――常に余裕を持って、優雅たれ」

 呟く。そして肚を据える。
 時臣がダメでも、娘がいる。凛が。
 ならば遠坂は安泰だ。綺礼もいる。その父である盟友も、暫くは健在だろう。
 恐れることは何もない。この卑怯卑劣な輩に聖杯は掴ませない。時臣は命の使い道を決め、そして優雅に、不敵に微笑みを浮かべた。

 駆け抜ける。

 眼前に、今度は正面に、衛宮切嗣が待ち構えていた。手には短機関銃と、見慣れぬ大口径の拳銃。
 仕掛けてきた、と時臣は察する。切嗣は時臣の表情を見て判断の誤りを悟る。
 しかし、時は巻き戻らぬ。決着はそこに。
 だが、切嗣は怯まない。淡々と機械的にコンテンダーを構え、口を動かしてそれらしく呪文を唱える。
 あくまで"フリ"でしかないが、時臣はそれを魔術行使と見た。それは誤りではない。コンテンダーは切嗣にとって魔術礼装なのだ。

 防ぐ、という明確な意識を持って、時臣は魔術を使う。ステッキを振るい、火炎のカーテンを発生させて身を守る。近づき、一撃だ。一撃で敵を仕留める。
 時臣はそう決めた。
 切嗣は、起源弾を放つ。

 宝石魔術の特性に、起源弾は無力。

 しかし唯一、有効に出来るのは、術者が宝石にその場で魔力を注ぎながら渾身の魔術を振るった場合だ。
 条件はクリアされた。作り出した状況と、時臣の心理状態、文句なしに完璧に。

 時臣最大の防御。それに起源弾は吸い込まれて、過たず効果を発揮する。
 魔術が解れる。魔術回路が焼ききれる。時臣は吐血し、全身から血を吹き出した。神経が焼かれる。身体に異常を来す。命が燃え尽きる。

 仕留めた、との確信。切嗣は確実に時臣を、魔術師として殺した。

 だが。

 魔術回路とは、"疑似"神経ではある。しかし実物の、生身の神経ではない。
 生身の、強靭な、刷り込まれた神経はまだ生きていた。時臣の脳が命じたまま、長く積み重ねられた反復運動は時臣の意識が断絶しても続いていた。

 異変に気づく。時臣は止まらない。倒れない。意識がないのに――

 油断した。反応が遅れる。機械であるはずの切嗣が。否、死人が動くものかと誤認していたのだ。この世には、死んでも動く者がいることを忘れていたのである。
 しかし、こういった時に備えての舞弥だ。彼女からのバックアップがある。時臣は銃撃に倒れるだろう。

 そう予測したその時だ。切嗣の手に焼けるような痛みが走る。何、と驚愕が弾ける。
 舞弥が、死んだ――

「時臣師。間に合わず申し訳ない。しかしその武練、確かに見届けました。見事です」

 移動しようとする舞弥を後ろから、黒鍵で串刺しにした言峰綺礼が呟く。

 最後の一歩を踏み込んだ時臣の鉄拳が振るわれた。切嗣は咄嗟に防ぐ。
 部品の砕け散る音が響いた。
 時臣の拳は、切嗣の右手と、その手にあったコンテンダーを、確実に破壊したのだ。

 その場に倒れた時臣を、苦悶の表情で切嗣は見下ろす。短機関銃で一発、時臣の後頭部を撃ち抜き始末して、切嗣は直感的に新手の存在を察した。

「――言峰綺礼か」










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戦火掻き分け望む理想 (下)




「『心正しく信仰深き者の歩む道は、心悪しき者の利己と暴虐によって行く手を阻まれる』」

 ――朗々と響き渡るその声に。
 衛宮切嗣は瞬間的に駆け出していた。

 戦術的に考えれば、一時撤退こそが最も望ましい選択だ。しかし切嗣は即座に撤退は困難と考える。それは当然の判断だ。暗殺者が先に捕捉された――その時点で、彼に逃げ場はない。
 まして相手が相手だ。生き残りのマスターは自身を入れて四人。内三人の顔は割れている。切嗣、間桐雁夜、ウェイバー・ベルベット、そして言峰綺礼。前者三名の居場所が自明な以上は、新手の正体は消去法的に、切嗣がこの聖杯戦争中で最も危険視している男であろう。
 その能力、経歴からして、切嗣にとって一番危険な相手。その男に居場所を先に知られ、恐らくはいつでも仕掛けられる位置をとられた。およそ考えうる限り最悪の展開だ。
 こちらの状態は、コンテンダー損失、右手は粉砕され、自己を癒す宝具『全て遠き理想郷』もない。コンテンダーが使用不能になったことで起源弾も一時使用不能。時間があれば通常弾に変換出来るが、今はないものとして扱うしかない。
 装備は短機関銃と拳銃が一挺ずつ、手榴弾が一個、ナイフが一本。歴戦の元代行者を相手にするには決め手に欠け、火力も体力も心もとない。何より右手が使い物にならないのが痛かった。

 撤退は難しい。されど、言峰綺礼は最優王のマスター。危険は大きいが、ここで元代行者を始末できれば流れは完全に切嗣に傾くのではないか。

 ――馬鹿な。リスクを肯定していい場面じゃない。

 一か八かの賭けをしてはならない。万が一を認めてはならない。ましてや敗色濃厚ともなれば、断じて正面戦闘を是としてはならない。
 撤退は難しい、しかし撤退するしかない。尋常の暗殺者なら撤退を諦め、襲撃者を待ち伏せする体勢に入るだろう。それが定石だ。だが、切嗣は危険は承知の上で撤退を選ぶ。
 生身で死徒と渡り合う修羅と、正面切って戦うにはこちらの状態は劣悪極まる。せめて起源弾か、コンテンダーのどちらかは使用可能状態にしなければ話にもならない。右手の応急処置も必要だ。

 ではどこに退く? 言峰綺礼は手強い。駆けながら思考する。今から逃げても追い付かれるだろう。では――どこへ向かうのが正解か。
 切嗣は総合的に戦況を見て、判断する。

「『愛と善意をもって、暗黒の谷で弱き者を導く者は幸いなるかな。なぜなら彼こそ真に兄弟を守り、迷い子たちを救う者であるからだ』」

 訥々と語る声は微かに遠退いた。バカが、と切嗣は吐き捨てる。わざわざ声を出すせいで、居場所を相手に知らせるなど愚の骨頂。こちらを追い詰めたつもりになって油断しているのなら、言峰綺礼は切嗣の見立てほど容易な敵ということになる。
 切嗣は退いた。ただし、サーヴァント同士が鎬を削る戦場の方へ。
 まさか更なる死地に逃れるなどと、言峰も思うまい。しかしそれが最善。言峰のサーヴァントがいない以上、奴を守る者もなくサーヴァントの戦いの場に出向ける道理はない。
 切嗣は言峰からの襲撃を躱しつつ、当初の予定通りにセイバーらを援護に向かう。それがこの場で最も最良な判断だ。

 だが。

「『そして私は私の兄弟を迷わせ、破滅に導く者に怒りに満ちた懲罰をもって大いなる復讐をなす。私が復讐する時、彼らは私が主であることを知るであろう』」

 ――声は、一気に切嗣を追い抜いて、切嗣の前方に在った。

「ッ!?」

 瞬間移動、空間転移をしたとしか思えない、唐突なまでの距離移動。切嗣は瞠目し、先程時臣を追いたてる際に生じさせた瓦礫の山の陰から、長身の神父が進み出てくるのを目撃した。

 言峰綺礼。

 回り込まれた!? 先程は背後から声がしていたというのにか!
 綺礼は立ち止まった切嗣に微笑みかけながら手にしていた物を放り投げる。それを見て、思わず唇を噛む。

「はじめましてだな、衛宮切嗣」

 携帯電話である。綺礼はそれを地面に転がしたのだ。
 単純な仕掛けだ。切嗣が時臣を市民会館で爆撃した時、時臣を誘導するのに用いた手段である。携帯電話を二台用い、通話状態にして、拡声器で声を別の場所から届かせる――切嗣は最善と思える道へ誘導されてしまったのだ。
 完全に切嗣の思考がトレースされた。暗殺者にとって致命的な失態。

 黒鍵を実体化させた言峰は、口許に刻まれた微笑みを絶やさず、切嗣に語り掛ける。

「お前の手口を模倣させて貰ったが、思いの外容易に釣れたものだ」
「……」
「お前が暗殺者ではなく、マスターであったからこそ思考を辿るのは簡単だった。最後の最後で暗殺者に徹しきれなかったとは、よほど聖杯に入れ込んでいるようだな」

 何も答えない。

 切嗣は今、自らの裡で戦闘論理を組み上げている。接敵した以上は撤退は不可能となった。
 ここで戦うしかない。戦い、殺すための思考と意識を、思想・実力ともに全盛期に戻りつつある切嗣は編んでいたのだ。
 肩を竦め、綺礼は嗤う。

「一応警告はしておこう。令呪を使いセイバーを呼ぶのはお勧めしない。そうなれば私もメレアグロスに縋る他なくなる。ああ、お前のセイバーが、メレアグロスに勝ると考えているなら止めはしないが」
「……」

 言われるまでもなく、それは最悪の悪手。
 セイバーが欠ければ間桐雁夜はバーサーカー共々英雄王に屠られ、セイバーは最優王、英雄王の両方、或いは片方を相手にしなければならなくなるのだ。
 故に切嗣は独力で綺礼と戦うしかない。そんなことは分かっていた。

「――余裕のない張り詰めた顔だ。衛宮切嗣、一つ訊ねよう。場合によっては見逃してもいいぞ」
「……、……何?」

 見逃してもいい。その慮外の言葉に、切嗣は無言の重石を弾かれる。
 思わず反駁するや綺礼は笑みを一層深めた。

「そうだ。お前は時臣師の仇ではある。しかしこれは聖杯戦争、恨むのは筋違いというもの。私がお前の前に現れたのは、一つの問いを投げ掛けるためだ」
「……言ってみろ。答えるかは兎も角、聞くだけは聞いてもいい」

 それで本当に退いてくれるなら儲け物、例え偽りでも戦術を考案する時間稼ぎぐらいにはなる。
 そう踏んで切嗣が応じると、綺礼は何気なく――自らの道を見いだすまでは執着し、疑問に感じていた懐疑を端的に投げた。

「衛宮切嗣。お前の聖杯に託す願いはなんだ」
「――」
「少年の時分より戦場を渡り歩き、フリーランスの魔術使いとして魔術師を狩り続けた訳は。アインツベルンに取り入り、冬木の街を混乱の渦に叩き落とし、敵対するものを殺し。英霊を聖杯に焚べ、聖杯を欲するのは何故だ。純粋にそれが知りたい。答えはなんだ?」
「僕は……」

 まったく頭になかった、想定していなかった問いかけ。
 答えていいのか、と思う。
 答えても差し支えはない、と判じる。
 冷徹な眼差しと声のまま。しかし裡に秘める溶岩の如く煮えた渇望を、呟くように答えた。

「……僕は、世界の恒久的な平和を望む」
「……」

 間が空く。
 呆れているのでも、失笑したのでもない。
 ただ先を促している。綺礼は、切嗣の願望を幼稚だと切って捨てはしなかった。
 ただ、突拍子もない願望ゆえに、多少訝しげではあったが。

「石器時代から一歩も前に進歩しない人間の本質を、聖杯の力で改変する。世界から戦争をなくし血が無駄に流れる悲劇を撲滅する。僕は、世界を救う」
「ふむ。しかしどうやってだ」

 要求にきちんと応じたのは、言葉数を増やして思考を纏めるためだ。次の瞬間には引き金を引けるように。
 言葉の裏で、仕掛けるタイミングを伺っていた。故に、綺礼の反駁に反応するのが遅れたのだ。
 どうやってだと? 人の話を聞いていなかったのか。切嗣は一瞬、そう思うも、綺礼は再度繰り返した。

「衛宮切嗣。お前は世界を平和にしたい。戦争を撲滅したいと言った。しかし、どうやって戦争を無くす? 争い、奪い、犯すのは人の本能だ。決して無くなることのない魂の形だ。これでどうやって戦争をなくし、世界を平和にするという」
「聖杯を使ってだ。聖杯は万能だ、僕の願いはそれで叶う。叶えて見せる」
どうやって(・・・・・)?」

 舌打ちした。綺礼の言わんとすることが分からない。奴はおちょくっているのか。
 切嗣は問答を打ち切ることを決める。無駄な問答、有用な時間稼ぎ。五分五分で立ち回れる戦術は練れた、もはや無駄話に付き合う必要はない。
 だが、綺礼は切嗣が動き出す前に言った。

「お前の理想、願いは理解した。しかし自覚しているか? お前は願いを叶えることばかりを答え、どう叶える(・・・・・)かを幾ら問い掛けてもまったく答えていない」
「――なんだと?」
「聖杯は確かに万能だ。およそ俗世の事象で叶えられぬ願いはないだろう」

 そうだ。そのはずだ。切嗣がそう思うのに、綺礼は切嗣の失陥を指摘した。

「だが知らないはずはあるまい。聖杯は万能だが、無色の願望器に過ぎん。聖杯が神ではない以上、願う者の足跡から汲み取り、願いを叶えることしか出来ないのだぞ」
「――」

 びしり、と何かがひび割れる。
 切嗣は練り上げた戦術を忘れる。意識に空白が打ち込まれた。
 それは、傷となる。そして、言峰綺礼は傷を拓くモノ。その傷を、付け込む隙を、彼は見いだしたのだ。
 綺礼は、優しげに微笑む。

「――聖杯は世界平和をどう成す。お前の足跡から察するに、ろくなことには、」
「黙れ!」

 激昂する。
 それ以上先を言わせてはならない。
 切嗣はそう感じた。短機関銃を構えて銃口を突きつける。

「黙れ。口を開くな」
「らしくないな、衛宮切嗣。常のお前なら、ここで引き金を引いたはずだ。そうしないということは、動揺しているという証左となる」
「煩い、黙れ」
「衛宮切嗣。お前は人間に、人類に絶望している」
「黙れ」
「故にこう考えている。人間は救えない。だから自分の周りを救いたい」
「煩い」
「聖杯は正しくお前の願いを叶えるだろう。お前の大切な者を除き、人間を皆殺しにする。そして聖杯はこう言うだろう。『これでお前の世界は平和になった』とな」
「黙れ――ッッッ!!」

 短機関銃の引き金を引いた。だが、綺礼はその場から一歩も動かずに、黒鍵で全ての弾丸を切り落とす。
 人間離れした、怪物の所業。正面からは勝ち目がない。切嗣は距離を取るべく動き出そうとして。

「――喜べ衛宮切嗣。お前の願いはようやく叶う」

 その笑みに、全身から力が抜けた。
 あたかも、切嗣の願いが身近な者の幸福で。
 これまで犠牲にしてきた者など、無価値であると考えているかのようで。
 そしてそれを、どうしようもなく否定出来ず。
 ぐらりと傾いだ体を、支えたものはなんだ。

「衛宮切嗣。私の聖杯戦争は既に終わっている。時臣師がいない以上、危険を犯して戦う義理もない。であれば、私の手は今、理想に邁進するお前を助けるためにあるのだろう」
「……」
「私は聖杯は要らない。衛宮切嗣に聖杯を譲ろう。ああ、邪魔な英雄王を打倒する手伝いもするとも。お前が聖杯を前に、何をどうするのか。それを見届けるのも悪くない」
「……」
「……ふむ。茫然自失としているか」

 綺礼は、ツカツカと靴を鳴らし、反応のない切嗣に歩み寄る。
 そして無造作に彼を組伏せ、彼に告げた。

「世界を救うというお前は、まるで正義を標榜しているようだ。だがそのおこないを思い返すと、どうだ? 世界の紛争の数々を終息に導いたのは功績として認められるものだ。だがこの冬木でお前がしたことは、無関係の人間を多く巻き込み、いらぬ混乱と涙を振り撒いて、挙げ句世界を滅ぼしかねない悪を成さんとしている。――ふむ。困ったな。人を滅ぼさんとする()を、主の代行足らんとする私は、正義(・・)の徒として討たねばならぬのではないか」
「――悪。僕が」
「ああ。お前が、悪だ」

 切嗣の目から光が消えた。綺礼はその顔を間近で、なぶるように眺め、網膜に焼き付ける。そして恍惚に浸ってぶるりと背筋を震わせた。
 根は善、行いは悪。歪んだ人格と、その足跡。そして理想に掛ける熱量。まあ、蟲の翁には一枚落ちるが、中々に堪能できた。

 間桐の妄執と比べれば格は下だ。しかし味わいの趣は異なる故、満足いくものではある。
 このまま放置するのも良いが、衛宮切嗣は利用価値がある。彼を捕虜として、綺礼は切嗣を気絶させた後、回収し教会跡地の地下へ運んでいった。令呪を自身に移植し、万が一がないようにするのも忘れない。

 以降、衛宮切嗣は聖杯戦争に関わることはなかった。

 脱落した彼の消息は一旦途切れ。聖杯戦争終結後、冬の城から娘を奪還しに現れた彼は、言峰綺礼と共にアインツベルンを壊滅させたという。

 ――後に埋葬機関の四位となり、数多の異端と吸血種、死徒二十七祖を二体討滅した男には、ひとりの魔術使いの相棒がいたというが。その正体はついぞ暴かれることはなかった。

















綺礼&切嗣とかいう悪夢のコンビ結成の瞬間である。
なお正義の味方をする綺礼に苦悩する切嗣、そんな切嗣に愉悦し定期的に愉悦成分を補給する綺礼という構図。

本作品の綺礼は、最終的に並みの英霊とならガチで殴りあえるぐらいになる模様。埋葬機関の弓より強くなるとかなんとか。



彼らのZERO編での出番はこれで終了である。


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メレアグロスの因果

大方の予想を裏切る超展開。















 伝承に曰く。

 薪の英雄メレアグロスは、戦士としても王者としても稀代の傑物である。
 特に王としての彼の功績は大きい。神話の住人でありながら、史上に数多くの功績を残し、後のローマに繋がる土壌を育んだ。
 王として建国し、されど混乱なく後世へ財産を移行させた手腕。外敵と戦い多くの利潤を齎し、自国を大いに栄えさせた治世。批判的な見方をする学者ですら、道筋に沿った批難は難しいとして論点をズラした。
 誰が言ったか、史上稀に見る傑物。王という括りの中でも最も優れた王。即ち最優王。
 およそ、彼に王者としての失政はなく、失策もない。ラムセス二世を討ち、ヒッタイト滅亡の原因として語られるに軍を率いての戦争でも多大な功績を残していた。

 王であるメレアグロスは言うならば完璧だったのだ。

 しかし、彼個人に焦点をあてると、どうか。
 彼はあらゆる事象へ成功している。七つの難行もそうだ。
 だが、それら悉くには、必ずといって良いほどケチがついている。
 最初の難行。父である神との決闘で、彼は冷静に話し合うことを選ばなかった。ために、後の禍根を作り出してしまっている。
 巨人の双子との戦いの時、父との蟠りを解く機会があったのに気づかなかった。
 それ以降も、事あるごとに彼は小さなミスを犯していた。しかし、どれもが不可抗力であったり、本当に小さなミスでしかなかったのだ。
 だが、それが全て致命的だった。
 落ち度がないとは言えない、しかし彼でなければ乗り越えられない難行であった。彼でなければ、そもそも小さなミスを犯した時点で死んでいただろう。

 その伝承故に、英霊となった彼には因果がついて回る。

 王ではなく、個人として動いた時。
 或いは王となる以前のメレアグロスとして召喚されていた場合。
 彼は、どうしてか、小さなミスを犯してしまうのだ。

 だがやはり、彼に落ち度はない。

 巡り合わせが悪かった。単に、それだけのことだった。

 衛宮切嗣が、遠坂時臣を仕留めるために罠を大量に仕掛けた。
 一度は闘技場で二騎のサーヴァントを閉じ込めておきながら、乖離剣で吹き飛ばし、人気がないとはいえ冬木の街中で戦う英雄王。
 その、余波。
 征服王と決戦を始める前、彼は一般人が人払いの結界をすり抜けて、冬木大橋にやって来たのを引き返らせている。戦いに巻き込まぬように、と。彼を死なせぬように、と。
 聖杯戦争関係者以外で人死にが出ないよう注意を払っていたから。

 それが。

 その一般人が――言峰綺礼と遭遇していた青年が、衛宮切嗣の罠の余波で瀕死に陥り、英雄王の爆撃の余波でショック死するなど、メレアグロスをして予知できなかったのだ。

 青年は死んだ。そしてそれを、決戦を終えて市民会館跡地に移動してきたメレアグロスは発見する。

 ――メレアグロスは、気づかなかった。

 否、第三魔法の使い手しか気づかなかったろう。

 その青年の魂は、メレアグロスの魂に酷似していた。





















 それは、当然の帰結であった。

 円卓の騎士らは、遂に英雄王を打倒することは敵わなかった。
 天舟で空に在る英雄王へ攻撃を届かせる手段は、聖剣による一撃しかない。
 しかし天舟は素早く、そしてそもそも聖剣を撃たせるような隙を英雄王は与えず、空から一方的に『王の財宝』による掃射を繰り返したのだ。

 必然、円卓の騎士に打つ手はなかった。

 防戦一方。間桐雁夜は誰にも知られることなく余波で消し飛び、騎士王は契約のパスが切れて切嗣の敗北を知って動揺し、湖の騎士は騎士王を庇って貫かれた。
 湖の騎士は狂っていた。故に、彼は冷徹に合理性をのみ追求し、自らが死することを悟った瞬間、自らの愛剣を抜き放ち――投擲した。
 それは天舟に届く。そして、ギルガメッシュを驚かせた。狂戦士とはいえ、騎士が剣を捨て『壊れた幻想』を使用したのである。
 騎士の誇りとは剣に非ず。果たして湖の騎士の本意はそれであり、騎士は英雄王を騎士王と同じ地平に立たせることになる。
 騎士王は、切嗣が敗退しても、魔力がパスを通じて誰かから流れてくるのを感じ、駆ける。一瞬の隙をついて聖剣の真名を解放し、『王の財宝』を斬り飛ばして。自らの騎士の生み出した千載一遇の好機を逃してなるものか、と。

 だが敵は英雄王である。

 彼は、鞘の能力(・・・・)を見ている。
 乖離剣をも遮断してのける鞘を見て、どうして油断するというのか。
 事ここに至り、英雄王に抜かりはなかった。全方位から宝具を放って鞘の真名解放を強制して、ギルガメッシュは自身の周囲に城壁を顕現させる。
 それはウルクの城壁、彼が建設した軍事要塞だ。これを破るために騎士王は鞘を解除せねばならず、執拗なまでにギルガメッシュはアルトリアに宝具の連発を強要した。
 消耗著しいアルトリアから、ひたすらに距離を置きながらギルガメッシュはアルトリアを罠にかける。彼女は不死となったが、所詮はサーヴァント。魔力を無くしてしまえば現界を維持できず、弱りきったアルトリアをギルガメッシュは乖離剣によって吹き飛ばしたのだった。

 磐石な、完全な攻略である。

 キャスター、ランサー、ライダー、バーサーカーが散った。しかし騎士王はその性質上、まだ死者ではない故に、聖杯に焚べられることはない。世界との契約通り、次の聖杯戦争に送り込まれるまでカムランの丘に送り返されてしまうのだ。
 言うなればそんな特性を持つアルトリアが召喚された時点で、七騎全てを聖杯に焚べることは出来ないということなのだが、それを知る者はいない。
 ギルガメッシュは円卓の騎士らを討ち、市民会館に向かう。そこで、此度の道楽で最も意義のある戦の決着を着けるべく。

 既に未完成ながら聖杯は降臨していた。

 それを手にしているのは、メレアグロスである。やって来た英雄王を一瞥し、彼は言った。

「どうだった、ブリテンの騎士は」
「ふむ。まあ、悪くはなかったな」

 少なくとも、湖の騎士が剣を擲つのは完全に予想外であったし、騎士王にしてもその鞘を回収する余裕はなかった。
 ギルガメッシュは本気で戦い、しかしそれでも手を抜くことも、余力を残すことも考えていなかったのだ。
 そこまでしたのだ、ギルガメッシュが彼らをただの雑種だと侮蔑することはない。その答えにメレアグロスは一定の満足を得るも、自らの腕の中にある青年の亡骸に視線を落として、沈鬱に溜め息を吐いた。
 ギルガメッシュの眼が訝しげに細められる。戦いの空気ではない。しかしそれよりも気になったのはその青年だ。

 彼の眼は、真実を見通す。

 魔法使いでなくとも、彼は、彼だけは悟る。その青年の正体を。そしてそんなメレアグロスの手に、未完成とはいえ聖杯がある因果を。

「ク――」

 笑みを溢す。嗤う。愉快なものを見た。
 ギルガメッシュは、なるほどと全てを理解して、メレアグロスに背を向けた。

「――槍と鎧を持たぬ貴様を討っても詮無き事という訳か」
「なに?」
「その聖杯、どうやら我の蔵から流れたものではないらしい。であれば我の蔵に納めるに能わぬ。好きに使え、貴様との決着はまた次の機会に回してやる」

 英雄王はそうして戦争を終えた。

 彼には奇妙な納得があり。その運命の結実を見届けることを選んだのだ。
 メレアグロスはそれに頷き、感謝を示す。よもや自らの不始末が、このような死を生むとは不覚であったのだ。

「……了解した。貴様との決着は、万全の武装を整えた上でのものとする。だがそんな機会が今後あるとも思えんがな」
「いいや、ある。我が言うのだ、これ以上ない大舞台で実現するだろう」
「であれば僥倖だがな」

 苦笑し、メレアグロスは――サーヴァント三騎分の魂を持つ最優王は、自らの魔力をすべて体外に放出する。薪あるかぎり不死である彼は自決するのに魔力を空にするという手段しかないのだ。
 聖杯が七騎分の魂で満ちる。その機能を解放する。メレアグロスは願いを告げた。本来なら聖杯の自壊を望む所だが、それよりも自身の失態によって死した命に償わなければならぬ。

「聖杯よ。我が願いを聞け。

 ――この者へ、幸多き巡り合わせを。失われた魂が、幸福であると信じられる路を歩ませ給え」

 青年を蘇らせることを、最初は考えた。しかし聖杯は、彼が蘇りを否定していることを報せる。メレアグロスは彼の信条を尊重して、その命を別の輪廻に巡らせたのだ。
 ギルガメッシュが、意味深に言う。

「難儀な男だ。雑種のために、骨を折るか」
「ふん。オレの眼の届かぬ所で死ぬ分には構わんがな、流石に目の前で死んでいるのを見てしまえば、この祭典を操った身として責を負わねばなるまいよ」
「いやはや勝手なことだ。我に比する暴君のようですらある。人間の命が失われるのは赦せずとも、それの築いた街は崩れても構わぬとは」
「そこまでは面倒見切れんな――っと、そろそろオレも消えるようだ」

 自決して、聖杯に魂が移ってなお、自我を保ち話すメレアグロスの異様さを、言及する者は皆無である。

 ギルガメッシュは鼻を鳴らす。

 メレアグロスが最後に消える瞬間、押し付けてきたものに面倒臭さを感じたのだ。

「――聖杯をやろう。どうするかは貴様が決めろ」
「ふん」

 メレアグロスは消えた。残されたのは、完成した聖杯。
 不純物のない、無色の聖杯である。
 比類無き魔術礼装を手に、ギルガメッシュは興味なさげに検分して、彼はそれを宙に投げ放った。

 乖離剣の風圧が、聖杯を消し飛ばす。

 余波すら生じぬ破壊。ギルガメッシュは口許を緩め、言祝いだ。

「――英雄の誕生を導いた。それでこの器の役割は終わったと言える。であれば現世に残すのも、我が使うのも無粋であろうよ」

 魔術師の悲願足る、完成した聖杯が砕ける。
 一人の青年を因果の輪廻に回しただけで。他の何にもならず、無用のガラクタとして。
 ギルガメッシュはそれを由として、現世から立ち去った。


















輪廻は巡り、ZEROへ至る。

次回、最終回。




なお、本作にプロットがあったことは一瞬もない模様。
そのせいか、読み返すと粗が目立ちます。
それでも許してくださいなんでもしまむら!


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終幕「運命」

エピローグなので短め。次はエミヤさんの方でお会いしましょう。













 うー遅刻遅刻。

 今、学園へ向かって一直線に走ってるわたしは、親元を離れて高校に通うちょっと一般的な身の上から外れた女の子☆
 特に意味はないけど、敢えて皆と違う所を挙げるとすれば、そこらの女の子よりもバストが大きいことカナ。
 急いで走ってたせいか、わたしってば道角から飛び出しちゃって男の先輩とぶつかっちゃったの! もぉ、わたしのバカバカバカ! この薄ノロ! こんなだから合法ロリ確定の幼馴染みと血の繋がってない妹にきょぬーだけが取り柄とか言われちゃうんだぞー!

「だっ、大丈夫か!?」
「(きゅん)」

 尻餅をついちゃったわたしに、慌てて先輩は手を差し伸べてくれて、わたしその先輩の優しさに胸がきゅんきゅんしちゃったの☆
 これってきっと運命(Fate)だよね! わたし言峰桜と、千子士郎(センジ・シロウ)センパイのLOVEなストーリーが始まる予感がするの……! ああ、早く明日にならないかな。センパイと早く会いたい、会って色んなお話をしたいなぁ。
 センパイは弓道部みたいだし、わたしも弓道部に入ろっと!




















「ダメだ、腐ってやがる。早すぎたんだ……」
porca miseria(ポルカミゼーリア)――なんてこと。自分の姉の醜態にもう言葉もありません」

 うきうきしながら二人分の弁当の用意をする言峰桜に、衛宮イリヤスフィールはやれやれと首を振って白旗を上げ、言峰花蓮はさらりと毒吐き神に祈る仕草をしてみせた。
 穂群原学園に帰国子女として通う、三年のイリヤスフィール、一年の桜、そしてまだ中学生の花蓮。花蓮も来年は穂群原学園に進学する予定で、彼女らは花蓮が高校を卒業するまでは日本に滞在する予定となっている。

 それぞれがそれぞれに特異な存在だ。

 イリヤスフィールは聖杯であり。桜は架空元素・虚数という稀な魔術属性の持ち主で、花蓮は被虐霊媒体質であった。
 本来ならば平凡な学生生活など送れるはずもなく、花蓮に至っては父の庇護を得られなければ代行者として能力を活用され、まともな身体機能を喪失していただろう。
 魔術師が見れば涎が出る三人の少女が、陰ならぬ世界で普通の生活が送れているのは、もちろん相応の警護がついているからだ。

 埋葬機関第四位、人型の修羅と名高き言峰綺礼と。その存在そのものが魔術使いの中で伝説として語られる衛宮切嗣が、彼女らの青春時代を陰日向に保護しているのである。
 それは切嗣たっての願い。せめて娘には、日の当たる世界の暖かさを知って貰いたい――世界中を駆け回り、短命のホムンクルスの器から人の体に入れ替わった少女。そしてそんな彼女と近しい、忌々しい言峰綺礼の娘たち。
 ……頭が白一色に満ち、赤いフードで顔を隠す色黒の男は、少女たちには年相応の人生を歩んで欲しかったのだ。せめて、少女でいられる時間だけでも。

 ――でも、それに甘えてばかりもいられないのよね。

 最年長のイリヤスフィールは、妹分の少女らと違って現実を見据えている。
 桜は敢えて目を逸らしているが。いずれは醒める夢だから、今だけは少女らしく生きたいと大人に甘えている。
 花蓮は態とらしいほど温室で大事に大事に甘やかされたせいか、そもそも陰の世界のことを実感として理解していない。
 それでも、聡明な彼女達は、大人達の与えてくれるものの意味を察していて。

 そもそも、よりにもよってこの冬木に、彼ら彼女らが滞在しているのには訳があった。

「――」

 頭お花畑と化した桜と、それをおちょくる花蓮を尻目に、イリヤスフィールは沈鬱とした溜め息を吐いた。
 手の甲には、赤い刻印がある。――令呪だ。
 一時の娘らの自由を獲得するために、綺礼と切嗣はそれぞれ聖堂教会と魔術協会と取引をしていた。
 それぞれの聖杯戦争解体派と手を結び、冬木の聖杯を何者にも奪わせず、そして完全に解体する。そのために桜は自らの魔術属性の制御を訓練し、イリヤスフィールもまたマスターとしての訓練を積んでいたのだ。
 そして、綺礼と切嗣はそれだけを目的とはしていない。
 今後とも、ずっと自分達が娘に張り付き護衛している訳にはいかない。故にこの聖杯戦争で彼女ら専属の、信頼できる護衛を作ろうとしているのである。すなわち――彼ら大人達の真の目的は、聖杯の解体と合わせ、サーヴァントの受肉を目論んでいるのだ。

 それも、生半可な英霊ではない。

 イリヤスフィールは最強を。
 桜は、どうしてもと最優を。

 理想としてはギリシャ神話二大英雄を弓兵と槍兵として召喚し、聖杯を解体ついでに受肉させる。
 それが目的。不安な魔力貯蔵は、綺礼と切嗣がこの十年、数多の魔術師などから奪い取った魔術礼装や、魔術協会から取引して手に入れた礼装で賄うことが出来るほど集めていた。
 途方もない労力だっただろう。しかし、そのある種の偉業を魔術世界の死神らは成し遂げたのだ。

 イリヤスフィールは、無垢ではない。桜も、花蓮も。それでも彼女達は正義の味方(・・・・・)である父達を信頼し、敬っていた。

 彼女達の聖杯戦争はもうじき始まる。
 彼女達の運命は、もうすぐ回り始める。

 彼女達の運命は、すぐそこで。

 ――近しくなる少年の手に、令呪が現れたことを彼女達はまだ知らない。








「それにしても姉さんが熱を上げてるヒト、千子士郎でしたか。ちょっと興味ありますね」
「!? か、花蓮……!? ちょっとやめてよそれ絶対わたしに嫌がらせしたいからそんなこと言ってるでしょ!」
「ええ、そうです。場合によってはシーフして姉さんに仲睦まじい関係を見せるのも楽しそうですね。ああ、血の繋がった遠坂の姉もいるのでしたか。ふふふ、とっても楽しそう」
「か、花蓮――! こ、こうなったら王様呼んで味方して貰うしか……!」
「……それ、反則では? 年長者とはとても思えない発想にドン引きです」
「ぐぅ……!? ここで今さら妹面をするなんてますますセンパイに会わせられない! 覚悟することね花蓮、姉は本気を出します――!」

「……朝っぱらから元気ね。私には無理よ、そのテンション」

 はあ、と嘆息するイリヤスフィールは知らない。その千子士郎と出会い、三人娘揃って入れ込むことになろうとは。
 そして。
 その千子士郎が、遠坂の跡継ぎと懇ろな関係になってしまい、三姉妹同盟を組むことになることを、まだイリヤスフィールは知らなかったのである。

 そしてその影で、父が千子士郎暗殺計画を練ることも、当然知らないのであった。

 運命の夜まで、後――



















くぅ~疲れましたwこれにて完結(ry


千子士郎。衛宮ではない士郎。
千子の苗字は、fgoで出てくるだろう千子村正が士郎のデミ鯖であることの願掛けなり。


聖杯が現れる周期が早かったのは、前回使った聖杯の魔力が少なかったからです。
それを聖杯を解体する前の調査で知った、みたいな。
そんな余分な設定があったりなかったり……。


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聖杯大戦 薪の王の贈り物

予告編を試しに投稿。





「馬鹿な……」

 喘ぐように絶句し、二の句を継ぐことも叶わずに沈黙したのは、時計塔にその名も高きロード・エルメロイ二世――かつての亜種聖杯戦争を生き残ったウェイバー・ベルベットである。
 対し、彼に相談を持ち掛けた召喚科学部長を務める老魔術師、ロッコ・ベルフェバンは眉を顰めた。常の理知的な瞳を限界まで見開き、唖然とするエルメロイ二世の様子にただならぬ事態を察したためである。

 紅茶を嘗める程度に口に含んだベルフェバンは、確認するように彼に訊ねた。

「ふむ。ロード・エルメロイ二世をして驚愕を隠せないか。――それほどのものなのかね、ユグドミレニアの召喚したサーヴァントとは」
「――お言葉ですがベルフェバン殿。此度の案件、私では力不足かと」

 極めて厳しい声音で応じるエルメロイ二世にベルフェバンは無言を示した。その訳を話せと言っているのだ。
 無論、だんまりを通せる事情でもない。エルメロイ二世は慎重に語った。

「無論ですが、協力はしましょう。対策を練り有力なフリーランスのマスターを呼び寄せ、強力なサーヴァントを召喚しうる触媒の手配も行います。私の知りうる聖杯戦争における心得もお伝えしよう。しかし、はっきり言わせて頂くが、全て徒労となるでしょう」
「――なぜ、と問わせて貰おうか」
「ユグドミレニアの召喚したサーヴァント、それ一騎でこちらの陣営は崩壊しうるからです」

 ユグドミレニア――それは八枚舌のダーニックを長とする一族であり、その卓絶した政治手腕によって時計塔内でも隔絶した存在感を持っていた男である。
 彼は七十年前、ナチスドイツの力をも利用して冬木の大聖杯を盗み出し、それを持ったままどこかへと姿を消していた。それが二十年越しに表舞台に現れ、時計塔からの独立と新たな組織の立ち上げを宣言したのだ。
 これを捨て置く時計塔ではない。即座にダーニック討伐を掲げ、ユグドミレニアの地であるルーマニアに攻め込んだ。

 だが。

 討伐隊は、たった一騎のサーヴァントによって一瞬にして全滅した。

 一瞬(・・)である。比喩ではない。生き証人として生かされたただ一人を除いて、瞬きせぬ間に討伐隊は跡形も残さず消滅(・・)したのである。
 生き証人に曰く。光が瞬いたと思ったら、全てが消え去っていたという。そんな人智を越えた現象を引き起こせるのはサーヴァント以外にあり得ない。

 そうして時計塔は対策としてサーヴァントを召喚し、これを当てることを計画。ベルフェバンとエルメロイ二世に話が回ってきたのだ。

 しかし、聖杯戦争の経験者であるエルメロイ二世は、早くもお手上げだと示した。なぜか。――それは生き証人が敵サーヴァントの姿を詳細に語った故である。

 夜の闇の中でありながら、淡い光を放つ黄金の長髪と瞳。常軌を逸した威厳を湛え、敵対者でありながらかしずきたい衝動に支配された。黄金の鎧を纏い、その下に群青のヒマティオンを身に付けた最高位の神性の持ち主だった。自身も微かに帯電し、身の丈を遥かに超す大槍を引っ提げていた――

 それを伝え聞いたエルメロイ二世の顔面は蒼白だった。

 かつて、亜種聖杯戦争にて対峙した金色の大王。原初の騎士にしてギリシャ神話二大英雄の一角である大英雄を目にしたことがある。
 王としての功績、戦士としての偉業、共に比類なく、並び立つ者は唯一義弟のみ。武器を持たぬクラスで、素手(・・)でありながらエルメロイ二世のサーヴァントを圧倒し、遂には「聖杯祭典」に覇を唱えた最優の王者。その姿を思い出しながら、エルメロイ二世は重々しく言った。

「――最優王メレアグロス。単独戦闘能力は並みの(・・・)大英雄を素手で(・・・)蹴散らし、その知略は全マスターと全サーヴァントを翻弄する。私は以前の亜種聖杯戦争で彼の大王と対峙したことがある。故に断言しましょう。

 恐らくは戦士として、王としての全盛期として召喚された最優王メレアグロスならば、宝具の真名解放の一撃を以てして決着をつけられるでしょう。宝具を使わぬとしても、あの大王を凌駕する策謀の持ち主がこの世に存在するとも思えない。

 詰みです。我らの勝利条件は、如何にして最優王と戦わぬか、交渉して有利な条件を引き出すかに終始すると言っていい」

「ふむ」

 ベルフェバンは、エルメロイ二世の能力を高く評価していた。故に彼の断言を、荒唐無稽とは切って捨てない。
 七騎対七騎でありながら、一騎対七騎を想定して、なおもこうまで言わせる実力が「黒のランサー」にはあるのだろう。しかしベルフェバンの顔に焦りはない。彼は机の引き出しからあるものを取り出して、エルメロイ二世に言う。

「決めつけるのは早計だと思うね、私は」
「ッ――ベルフェバン殿、それは?」

 ベルフェバンの見せた聖遺物に、エルメロイ二世は動揺を抑えて訊ねた。
 にやりと笑みを浮かべ、しかしどことなく呆れを滲ませながら彼は言った。

「神話最高峰の英雄には、神話最高峰を。
 ――我々「赤の陣営」は「赤のアーチャー」としてヘラクレス(・・・・・)を召喚する準備があるのだ」

 なんと、と再び声を失いかけるエルメロイ二世だったが、すぐにハッとして問いを投げた。

「――お待ちください。そんな都合よくヘラクレスの触媒が見つかるのですか」

 ヘラクレスはもとより、メレアグロスの触媒も、亜種聖杯戦争では非常に人気だ。それこそ触媒争奪戦が本戦となり、それが終われば残るのは一組のみで、聖杯戦争が始まりさえしないという事例も枚挙に暇がないほどである。

 そんな中でメレアグロスを召喚せしめたユグドミレニアには戦慄を禁じ得ないが、それに合わせて都合よくヘラクレスの触媒が手に入るものなのか?

 嫌な予感を強烈に感じながらエルメロイ二世が問うと。

 ベルフェバンは、今度こそ呆れの色を前面に出して苦笑した。

「――きみの疑問は分かる。ずばりその通り。

 これは「黒のランサー」からの贈り物なのだよ」

 あの王ならやりかねん……エルメロイ二世は、どさりとソファーに座り込んだ。



















 ――オレからの贈り物、気に入って貰えたかな?

 自らのマスター"ダーニック・プレストーン・ユグドミレニア"に秘し、密かに生き証人へ握らせた聖遺物を想い薄く笑みを湛えたのは黒のランサーである。
 ユグドミレニアの城、その玉座に腰掛けたまま、黄金の騎士王は遠くを見た。

「もし奴がおらんのなら、オレは一夜でこのばか騒ぎを仕舞いとするが……さて。奴らはどう出るか」

 贈り物は、かつて義弟により贈られた「ブレスレット」である。投げ槍の威力を高め、投じた槍を手元に戻すそれはDランクとはいえ歴とした宝具である。それを使えば、召喚されるのは別のメレアグロスかヘラクレスしかおらず。メレアグロスは己と戦う趣味はない故に、別の自分がいるとなれば召喚はされまい。

 必然、現れるのはあの最強しか有り得ず。

 故にこそ昂るのだ。――今度は勝ち逃げは赦さぬぞ、と。

 仮に。

 そう、もし仮に、義弟が召喚されぬなら。

 黒のランサーはなんの策もなしに黒の陣営による総攻撃を仕掛け、十三騎(・・・)を一夜で滅ぼすつもりでいた。無論、災禍の元である大聖杯も残すつもりはない。人の手に余る万能の杯など、百害あって一利なし。なんなら亜種聖杯戦争が起こらぬように利用した後に消し去るのもありだ。

 ――最優王は、マスターであるダーニックを立てるつもりはない。あの邪心にまみれた者をどうして信頼出来るという。

 故あれば粛清する。その程度の存在。仮初めの臣下の礼など、メレアグロスに通じるはずもなかったのだ。
 令呪は利かず、形だけとはいえ臣下の礼を取ったのだから顔を立てる必要もない。たかが八枚しか舌を持たぬ小者を、どうして重宝する意義を見いだせよう。

 密やかにメレアグロスは望んでいた。

 ――あの時のやり直しを。

 目の前で自刃した義弟に、なんの衒いなし決着を叩きつける。望みはそれのみであるが故にメレアグロスに迷いはなかった。




















なおガチでヘラクレスいなければ一夜で終わらせる模様。
令呪で黒の六騎を本拠(特定済み)に突っ込ませ、赤に七騎で迎撃せざるをえなくし、上から槍真名投げて殲滅する算段。
アキレウスの盾、カルナの槍などで防がれた場合、槍真名を連発する模様。

周辺への被害? 抑える手段なら実はあったり。

なお、アタランテにも出番はある模様。

あくまで予告編のお試しなので、次の投稿予定は未定。


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赤の弓、黒の弓

予告編その2













 時計塔の切り札とも称される英霊召喚の触媒が渡ったのは、ロットウェル・ペルジンスキーという男だった。

 『銀蜥蜴』と呼ばれるフリーランスの魔術師である。丸いサングラスを掛け、顔以外の人体の急所に銀の鱗を持つ残虐な蜥蜴。
 過去、亜種聖杯戦争に参加し、一時の感情で依頼人を含めた聖杯戦争参加者全てを殺害した彼のような者が、何故時計塔の切り札となる触媒を渡されるに至ったのか。

 なんてことはない。彼はロッコ・ベルフェバンの用意した魔術使いだ。人柄や経歴を度外視に、ただ純粋な能力と、召喚するサーヴァントの魔力消費に耐えうる魔力量、それだけを見られたのだ。
 この場合、ベルフェバンの判断は部分的には正しかった。下手な魔術師を使おうものなら、彼の大英雄の召喚にすら耐えられなかっただろう。サーヴァントが現界を果たした瞬間に、召喚者は反動に耐えられずショック死していたであろうから。

 問題は。

「――赤のアーチャー、召喚に応じ参上した。お前が私のマスター……。……む」

 座より降り立った最強の大英雄は、そんな人間の計算を超越し、予想を遥かに超える桁外れの魔力量を要求したことだろう。

 そのサーヴァントは真紅の戦化粧により肌を染め上げ、人理を弾く神獣の皮を加工して造られた嚢を、頭から体を縦に分断する形で被り素顔を隠していた。
 二メートルと半ばの巨体に、尋常でなく鍛え上げられた主柱のような筋骨。数多の偉業を打ち立てた、三騎士クラス故に叙事詩的な高潔さを強調されたギリシャ最大の豪傑は、迸る神性を発しながら名乗りを上げ、自らの召喚者に誰何の文言を告げた。

 しかし、ロットウェル・ペルジンスキーに応える余裕など有りはしなかった。
 彼の持つ魔力は召喚の儀式だけで余さず絞り尽くされ、魔術回路は焼かれ、魔力は枯渇して死に瀕していたのだ。赤のアーチャーはそれを見て片手に宝具を露にする。黄金の林檎――赤のアーチャーの最期、その決闘にて用いられた物だ。
 本来は食べた者を不老不死とする破格の代物だが、サーヴァントでしかない赤のアーチャーの宝具となったことで、口にした者を死から救い、莫大な魔力を与える代物となっている。

 これをアーチャーは惜しむことなく己のマスターに与えた。そうすることで、ようやっと命を長らえたロットウェルは、その身に余る膨大な神秘に精神を塗り潰され、精神的圧死を遂げてしまう。

 それは、ロットウェルの魔術特性にも起因した。

 彼は体が半ば人間のそれを逸脱しており、それが故に正常な肉体に戻そうとする宝具の影響を諸に受けてしまったのである。たかが人間の肉体改造の魔術など、神々すら欲した黄金の果実の含有する神秘を前にすれば塵芥に等しい。
 斯くして己のマスターの命は救ったものの、その精神を破壊してしまったアーチャーは途方にくれた。
 魔術師ではないアーチャーに、マスターの精神を再構築する手段はない。これではただの魔力供給と現代へ在るための依り代でしかなかった。どうするか思案したアーチャーは、順序がおかしいが一つの決意を抱く。聖杯を掴み、その奇跡でマスターの精神を再構築しようと。

「――む、これは」

 そうしてアーチャーはマスターを安全な場所に移そうと動き始めたが、その際に英霊召喚の触媒を目にして動きを止めた。

 嘗て己が義兄に贈ったブレスレット。Dランク宝具に該当するものだ。それは紛れもなく、大王の気配を薫らせている。

 瞬間的にアーチャーは、ある事実に思い至った。

 弾かれたように神経を鋭敏に尖らせた彼は、ルーマニア全土に行き届く凄烈な王気を正確に感じ取って微笑した。

「私を呼び寄せたのはお前の計らいか、メレアグロス――」

 血が沸き肉が踊る。この瞬間にアーチャー、ヘラクレスは確信したのだ。己が聖杯を掴むためには、この偉大なる好敵手を打倒せねばならぬのだと。

 それは大いに望むところだった。

 嘗てのように精神を蝕まれた黄金の狼を討つのではない。今度こそ、互いに一切の枷のない状態で決戦に臨めるのである。
 およそ聖杯に託す願いなどないヘラクレスにとって、それは酷く甘美なる闘争への誘いだった。





















「――どうかなさったのですか、王よ」

 知らず、頬が緩んでいたのだろう。ダーニックが訝しげに呼び掛けてきていた。
 上機嫌に応じた。奸臣、奸物の類いと交わす言葉は本来ならないが、仮にも己のマスターである。それに何より機嫌がいい。黒のランサーは言祝ぐように玉座に在るまま嘯いた。

「貴様は感じないか。この天地を覆わんばかりの武威を」
「は……?」
「遠き地に、このオレに比肩する者が降り立ったと言っている。残念だったな、ダーニック。この戦い、容易に決着がつくものではなくなってしまったぞ」

 極上の獲物を前にした獣の如く、猛々しく強烈な覇気を発する大王にダーニックは息を呑んだ。

 この史上有数の王者にして、絶対的な知名度を誇る神話最高峰の英雄に並ぶサーヴァントだと? そんなものが敵の陣営に現れた?

 看過できることではない。顔を険しくさせるダーニックに、黄金の視線が向けられた。
 それだけで、沈黙を課される。舌が凝固して固まった。

「ダーニック。貴様は私に仕えると言ったな」
「は、は……ッ。我が一族の悲願を果たすため、御身に臣従することを私は確かに誓いました」
「であれば、貴様の一族も、私に忠義するものと捉えるが――否とは言うまい?」
「無論です。我が身命は既に捧げております。ユグドミレニアの血族は大王の采配に服するでしょう」

 それが聞けたらいい。

 いざ、英霊を召喚せんとするユグドミレニアの血族を高みより見下ろしながら、その面々を吟味する。

 小太りの無能の男、ゴルド。
 可憐な車椅子の少女、フィオレ。
 魂の鬱屈した小者、セレニケ。
 凡にして善なる少年、カウレス。
 無垢な積み木遊びの少年、ロシェ。

 これにダーニックを入れての六名が黒の陣営だ。不確定の一名については戦力としては数えられない。

「それにしても」

 黄金の大王は隠す気もなく慨嘆した。幸い声高に言い募るでもなく、ダーニックの耳にしかその嘆きは届かなかったが。

「なんという陣容の薄さだ。ゴルドは魔術師としても主人としても見る所がなく、セレニケには私欲に溺れる相がある。ロシェはそもそも戦いへの気概がセレニケ以上に薄く、まともなのは凡庸なカウレスのみ。問題なく運用が叶うのはフィオレだけときた。――未だ嘗てこのように貧弱な陣営を率いたことはない。それだけが不安材料だな」
「……」
「ダーニック。小言を言うがな、貴様も一族の当主なのであれば、今少し奴らをまともに仕上げられなかったのか?」

 ダーニックは何も言えない。

 嘆息して黒のランサーは玉座より立ち上がった。ユグドミレニアの一門が、英霊召喚のための準備を整えたのだ。
 万民を導き、人類の繁栄を加速させた王者の威厳を発して号を発する。

「――各位、サーヴァントを召喚せよ。その儀を以て、聖杯戦争の開幕とする。奮え、貴様らの願望は我が手により成就する機会が与えられるだろう」

 詠唱が始まる。
 五騎のサーヴァントを同時に召喚する様はなかなかに壮観だった。
 これで召喚されるサーヴァントが、全て馴染み深い面子なら笑い話だが――それぞれが触媒を使う。残念ながら同窓会とはいかない。

 魔術師の程度も地に落ちたものだ、と神代の女魔術師メディアを思い出しながら囁く。
 斯くて、黒の陣営はアサシンを除きこの場に集結した。

 次々と現界する英霊達の気配に目を眇め、メレアグロスはやおら驚嘆して瞠目する。

「アタランテ……」

 ――フィオレの召喚したサーヴァントは、緑衣に獅子の尾と耳を持った、メレアグロスが最も愛した狩人だったのである。

 この瞬間、メレアグロスの中から黒の陣営を捨て駒にする選択肢が消えた。













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薪の王の弁解




 幼子のささやかな仕掛けを目撃した心地で、メレアグロスは淡い笑みを湛えた。

 ――ダーニックも(・・・・・・)少しは気の利いたことをしてくれるものだ。

 フィオレ・フォルヴェッジ・ユグドミレニアの召喚したサーヴァントを目にした瞬間に、彼は自身のマスターが何を狙っているのかを看破していた。
 メレアグロス単体を、令呪や策略によって縛ることをダーニックは最初から不可能であると見切り、であれば伝承にも残るほどに愛されていた妻をサーヴァントとして召喚して、これを介してメレアグロスを制御しようとしていたのだろう。
 何せメレアグロスには令呪が効かない。宝具である「雷霆の鎧」によるものもあるが、それを抜きにしてもメレアグロスは類い稀な意思の強さ、そして純粋な対魔力により三画の令呪を費やされても反抗してのける。故にこそ、メレアグロスの妃は高位に位置する英霊であるが、そちらは普通に令呪が有効なのを利し、メレアグロスへの楔としたのだ。

 メレアグロスはダーニックの狙いを不敬であるとも、不遜であるとも、ましてや不忠であるなどとも考えなかった。
 自身のマスターであるダーニックを「そういう生き物なのだ」と理解していたし、寧ろ如何なる思惑の下であろうとも、こうして妃に再会する機会を設けたことを評価すらしていた。

「ダーニック。貴様も粋なことをする」
「最優王は、このような小細工はお気に召しませんか?」

 挑むような仮初めの臣の姿勢に、メレアグロスは肩を竦めつつ彼への評価を上方修正した。
 自身の基準は神代の魔術師である。そういう視点で見れば、ダーニックは現代では卓越した魔術師であろうと小者だ。だがその謀の才覚は認めるに足りる、と評価する。こともあろうにメレアグロスの妃を謀の軸に据えるなど――罷り間違うと不興を買う恐れがある策を、なんであれ実行に移したのだから。

「告白するとな。オレは貴様を取るに足らぬと見下していた」
「当然です。貴殿方英霊は、我々人間よりも遥か高位の存在。私が王を敬いこそすれ、王が私を尊重する必要はありますまい」
「ああ。故にオレは貴様に詫びん。なに、貴様もオレを――因果線がなくば生き足掻けもせん(・・・・・・・・・・・・・・・)と見下しているだろう? それで対等だ」
「っ……ご冗談を」

 黄金の魔眼に見据えられたダーニックの背中に、嫌な汗が流れていく。
 だがあくまで顔色は涼しげである。その内面を見透かして視線を外し、メレアグロスはサーヴァント達を見渡した。

 セイバー、竜の因子の濃い大剣の戦士。
 アーチャー、ローマの神祖の母とも同一視されるギリシャ随一の狩人。
 ライダー、中性的な少年騎士。
 キャスター、金色の仮面と青の外套を身に付けた魔術師。
 バーサーカー、機械仕掛けの花嫁。
 
 彼らは一様に玉座にある黄金の王を見上げ、ある者は驚嘆を。ある者は睨み殺さんばかりの凝視を。ある者は輝き溢れる好奇心の瞳を向けた。睨み付けてくる者にメレアグロスは眉を顰めるも、ダーニックは高々と聖杯戦争開幕を宣言した。

 そして、ユグドミレニア大聖杯を所有する有利を説き。メレアグロスは立ち上がる。

「我が名はリコセンス・メレアグロス。貴様らを束ね、この聖杯を巡る争乱を制する者。聖杯に託す願いを叶えんと欲し現界した英雄達よ。貴様らの奮闘に期待する」





















「ね、ね、ね! 貴方は本当にメレアグロスなの!? 『なんですか』!?」

 召喚の間として用いられた城塞の地下より出るなり、桃色の髪の少年騎士が顔と目を一杯まで輝かせてにじり寄ってきた。
 その様にメレアグロスは微笑する。彼の目は生前、多くの民草が――英雄達が向けてきたものに類似していたのだ。懐かしさすら懐きながら応じてやる。

「ああ、そういう貴様は?」
「ボク? ボクはアストルフォ! クラスはライダー! シャルルマーニュ十二勇士の一人! 昔から憧れてましたサイン下さい!」

 気持ちいいぐらい無思慮に踏み込んでくるライダー、アストルフォにさしものメレアグロスも苦笑は隠せなかった。
 こうまで純粋に、真っ直ぐに憧れられて悪い気はしない。しかしサインなどやって何になるというのか。数瞬思案したメレアグロスは、無造作に黄金の鎧の飾りを引きちぎり、その小さな手に握らせてやる。それから彼の白鋼の鎧、その肩当てに魔力を指先に込めて文字を刻む。

 ――peripateoo(ペリパテオー)

 「歩き回る・生きる・歩む」という意味の言葉だ。そう在るのだろうと、一寸の衒いもない瞳に思い浮かんだのである。

「これで勘弁しろ」
「うわぁ~、いいの!? 大切な鎧なんじゃないの、じゃなくて『じゃないんですか』! これ!」
「オレの鎧は飾りだ。貴様の知るローランと同じでな。本来のものは不可視のものだ」
「へぇ、ありがと~! 『ございます』! いやぁ、感激だなぁ~! もしローランと同じ場所に召喚されたら自慢してやろっと!」

 騒がしい奴だ。座に持ち帰ることが出来るかどうかはともかく、再召喚された時はこの戦いも「記録」でしかなくなるだろうに。
 まあ本人が喜んでいるのだからそれでよしとしよう。くるくると回りながら与えられた鎧の飾りを掲げ、上機嫌にしているアストルフォに微笑ましくなる。

 しかし、アストルフォははたと思い至ったように動きを止めた。その忙しなさは、さすが理性が蒸発していると伝承に語られた者だと思わされる。

「――そうだ! みんな~! 注目(ちゅーもーく)! 折角こうして集まったんだしさ、自己紹介しようよ!」

 勝手に仕切りだし、勝手に名乗り始めたライダーに呆れの視線が集まった。が、その天衣無縫の振る舞いには概ね好意的な者もいる。
 キャスターについては既に工房に籠り、ゴーレムなどの製作に移っているようでこの場にはいない。

 いの一番にアストルフォが声を掛けたのは、深緑の衣を纏った女狩人である。

「ね、ね、君はどこの英霊なの!? 教えて教えて!」
「……」

 意味もなくアーチャーはメレアグロスを睨んだ。流石に困惑してくる夫から視線を外してマスターの少女、フィオレを見た。フィオレは頷き、名乗ることを許可した。
 元より真名の公開は味方内では行われることになっていたのだ。別段隠し立てすることでもない。黒のアーチャーは豊かな胸に手を当てて堂々と名乗りをあげる。

「私はアタランテ。クラスはアーチャーだ。そこの浮気者の伴侶でもある」
「!?」
「えっ!? 浮気!? 最優王がぁ!? え、ほんとなの!?」
「待て。待て」

 矢鱈と睨まれていたのはそれか。メレアグロスは得心がいくも納得はいかない。 
 大袈裟に騒ぎ立てるライダーに頭を痛め、冷徹な目を向けてくる伴侶に冷や汗を浮かべる。世界広しといえどメレアグロスをこうまで動揺させうる英霊は数少ない。

「なんの話だ。オレはいつも貴様と共にいた。不義を働く時も動機もない。オレは貴様一人で満たされていた」
「ほぉ、よくも言った。その胸に手を当てて考えてみろ、汝の言葉は真実か?」
「考えるまでもない。真実だ」
「ではアテナ神、メディア、デメテル神、ヘスティア神、その他十名近くの伴侶はなんだ?」

 その言葉にメレアグロスは喉を詰まらせた。
 視線を頻りに左右に動かし、知恵を絞りながら呻くように言う。

「メディアにヘスティア神、デメテル神を娶った事実はない。後世の創作だ。他は自称してるだけだろう」
「ではアテナ神は?」
「……」
「……その間はなんだ」
「……待て、落ち着け。あれはオレじゃない。マルスだ。マルスだからオレには関係ない」

 マルス=メレアグロスだが、ここにいるのは人間の王として死んだメレアグロスである。故に無罪を主張するメレアグロスに、アタランテはあくまで冷ややかな眼差しを向けていた。

「汝らしくもない、切れ味の悪い言い訳だな。下戸なのに意地を張って酒を飲み、ヒッポリュテに寝込みを襲われ掛けた時より酷いぞ」
「さらりと歴史秘話を暴露するな! あれはオレの落ち度ではない!」
「エフティリアが弓をねだった時にアポロン神の弓を奪って戦争になりかけた時よりも情けない」
「やめろ。奴には後できちんと返しただろう。ラムセスの弓で妥協したのを忘れたか!」
「ヘラクレスがヒッポリュテの戦帯を頭に被って踊っていると吹聴し、くだらない諍いを起こして二軒目の宮殿を崩壊させた時よりみっともない」
「あれはアルケイデスが! オレの馬が不死なのを良いことに刺身にして食ったからだ!」

 脱線していくにつれ歴史の裏側が暴かれていく。

 空気は読めずとも修羅場を肌で感じたアストルフォは、乾いた笑みを浮かべて見なかったことにし、さっさと次に移った。
 花嫁の姿をしたバーサーカーに。真名をマスターのカウレスから聞き出してバーサーカーの不興を買い、苦笑いでさらりと流しつつセイバーに話を振った。

「それで、君はどこのサーヴァントなの?」
「ネーデルラントのジークフリートだろう」

 アストルフォの問いにさらりと告げたのは、誰あろうメレアグロスである。アタランテとの言い合いに旗色の悪さを見たメレアグロスは戦略的撤退をし、彼女のマスターであるフィオレと親睦を深めたらどうだとお茶を濁したのだ。
 果たしてアタランテは目を細めて伴侶を睨み、この決着は必ずつけるからなと視線だけで告げていた。

 メレアグロスの断定に、ギョッとしたようにゴルド・ムジーク・ユグドミレニアが――セイバーのマスターが反応した。名乗りもせぬ内に真名を言い当てられた剣士のサーヴァントは瞠目しつつ、黄金の王に向けて問いを投げる。

「アイトリアの騎士王よ、なぜ俺の真名を言い当てられた」

 黒のセイバーの静かな問いは詰問の色を帯びる。が、本人としてはただ疑問を口にしただけでしかない。人から誤解されやすそうな奴だ、とメレアグロスは思う。十三席の面子の中ではテセウスに似ているだろうか。

「知れたこと。その体が全てを物語っていよう。色濃い竜の因子、膨大な魔力、格高き見事な聖剣――ついでに言えば先程、貴様の背中に菩提樹の葉の痕があるのが見えた。これだけ揃って分からぬようでは間抜けだろう」
「なるほど、道理だ」

 ゴルドはパクパクと口を開閉させ声もないようだった。
 彼はジークフリートが口を開くことすら禁じるつもりでいたのに、それに先回りしてすんなり真名を言い当てられたことに驚愕を隠せないでいる。
 そんなゴルドの姿には頓着せず、メレアグロスは各マスターらを見渡して言った。

「今夜はサーヴァントを召喚し、些か疲労していよう。下がれ、明日から各々の働きを決定する」

 王の決定に異を唱える者などいない。早々に下がっていく彼らを横に、アストルフォがメレアグロスにまとわりついた。

「ね、ね、王さま王さま! さっきの浮気ってなに? アテナ神って女魔術師のミネルヴァと同位存在って言われてるけどどうなの? ヘラクレスって実際どれぐらい強いの? 冒険王ルーファスは結局どこまで冒険したのか知ってる? 『ます』?」
「……」

 メレアグロスは閉口した。













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