球場で中古車セール、マイケル・ジャクソン公演 なんでもありの大阪スタヂアム

大阪球場では昭和53年からシーズンオフには中古車セールが行われた(南海電鉄提供)
大阪球場では昭和53年からシーズンオフには中古車セールが行われた(南海電鉄提供)

「大阪スタヂアム」はまさに〝娯楽の殿堂〟。昭和26年1月には「女子プロ野球」を開催。神戸、京都、大阪、東京など各都市の代表チームが出場。吉本興業の〝お笑い〟チームも参加したという。ほかにも「映画人オールスター野球」や「関西交響楽団・藤原歌劇団合同オペラ」「東西対抗花火と歌と笑いの泉」「バッカス・ショー・ビール早飲みコンクール」など、なんでもあり。だが、その一方でパ・リーグの不人気、ホークスの低迷-と暗い影も忍び寄っていたのです。

娯楽の殿堂

驚くべきイベントがある。南海ホークスが球場を使わない12~1月になんと、球場内に「動物園」を造ったのだ。

昭和28年のこと。当時はまだ戦災で多くの動物園が休業中だったため、「子供たちを喜ばせたい」とライオンやトラ、白クマ、ゾウなどを集めた「世界動物博覧会」を大阪スタヂアムで開催した。

大阪スタヂアムで開かれた世界動物博覧会(南海電鉄提供)
大阪スタヂアムで開かれた世界動物博覧会(南海電鉄提供)

予想通り、会場はたくさんの親子連れでにぎわったが、そのあとのグラウンドコンディションは最悪。グラウンドを使ったイベント開催での〝教訓〟を得たという。

30年6月にはプロボクシング「東洋フライ級タイトルマッチ」も行われ、王者・三迫仁志とダニー・キッドが対戦。熱狂の渦につつまれた。変わったところでいえば、53年には中古車セールも行われた。

東洋フライ級タイトルマッチ。左が王者・三迫。右はダニー・キッド=昭和30年
東洋フライ級タイトルマッチ。左が王者・三迫。右はダニー・キッド=昭和30年

一番の人気は野外コンサート。49年から10年間、西城秀樹の『真夏の夜のコンサート』が開催された。

49年8月3日、ソロ歌手として日本で初めて行われた西城のスタジアムコンサートには、1万7千人のファンが詰めかけ、野球の歓声とは違う「嬌声(きょうせい)」が球場に響き渡った。

大阪球場で恒例となったコンサート西城秀樹の「真夏の夜のコンサート」=昭和54年
大阪球場で恒例となったコンサート西城秀樹の「真夏の夜のコンサート」=昭和54年

ライブの前日、西城は出演したラジオ番組でファンに「明日はみんなのことがわかるように懐中電灯を持ってきて」と呼びかけた。これが後のペンライトに発展した-といわれている。

平成30年5月16日、西城は急性心不全のため63歳で急逝した。葬儀では大阪球場のスタンドを模した急勾配の祭壇がつくられた。

海外アーティストも大阪スタヂアムにやってきた。57年5月にはサイモンとガーファンクル。62年6月にはマドンナが来日初公演。球場には2万5千人が詰めかけ、チケットが手に入らなかった約3千人のファンが球場近くのビルの屋上に上がり、警察が出動する大騒動となった。

約1時間半のコンサートで16曲を熱唱。9つのスクリーンに映し出される妖艶なマドンナの姿に人々は酔いしれた。

同年10月にはマイケル・ジャクソンの公演も行われ、野外コンサートはますます大型化。最新の音響機器やレーザー光線などの舞台装置、野外ならではの解放感。球場コンサートは軌道に乗るかと思われた。ところが…。

大阪スタジアム編第1回に登場した南海電鉄の〝生き字引〟広報部課長補佐の園口勇一さんによると「思わぬ問題が起きた」という。

騒音と振動の大きさに、付近の住民から苦情が持ち込まれるようになったのだ。これはコンサート収入を期待していた南海にとって頭の痛い現実だった。

ホークス 長い低迷期へ

イベントでは超満員となる大阪球場のスタンドも、昭和40年代後半から南海ホークスの試合になると〝閑古鳥〟が鳴き始めた。

大きな要因はパ・リーグ人気の低迷。昭和35年にテレビやラジオ媒体を有する毎日新聞が球団経営から撤退し、プロ野球人気が巨人中心のセ・リーグへ傾いたため-といわれた。

そして44年秋には西鉄などの一部選手の八百長疑惑が発覚。球界を揺るがす「黒い霧事件」もファンのパ・リーグ離れに拍車をかけた。

ホークスも大低迷期に入った。パ・リーグが前後期制を導入した48年に野村監督のもとで「前期優勝」。プレーオフで阪急を下してリーグ優勝したのが最後の「優勝」となった。

昭和48年、阪急とのプレーオフに勝ち、胴上げされる野村捕手兼任監督 =阪急西宮球場
昭和48年、阪急とのプレーオフに勝ち、胴上げされる野村捕手兼任監督 =阪急西宮球場

53年以降、広瀬叔功-ブレイザー-穴吹義雄-杉浦忠と監督が交代したが、63年まで11年連続Bクラス。最下位5回、5位5回、4位1回という惨憺(さんたん)たる成績。

毎年のようにささやかれる「ホークス身売り説」に、当時の川勝傳オーナーは「わたしが生きている間は絶対にホークスは売らん!」と言い続けたが、その川勝氏も63年2月に病気療養のため南海電鉄会長職と南海ホークスのオーナーを辞任。そして2カ月後の4月23日、86年の生涯の幕を閉じた。

南海電鉄は時代の激しい流れの中で〝大きな決断〟を下すときを迎えたのである。

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大阪スタヂアムではコンサートやショーも行われ、昭和26年5月に開催された歌謡ショー『ヒットソングシリーズ 歌のホームラン』には灰田勝彦、田端義夫、岡晴夫ら、当時のスターたちがズラリ。

昭和26年に大阪スタヂアムで開催された歌謡ショーで熱唱する13歳の美空ひばり(南海電鉄提供)
昭和26年に大阪スタヂアムで開催された歌謡ショーで熱唱する13歳の美空ひばり(南海電鉄提供)

そんな中で堂々と歌う少女が一人。そう、美空ひばり、当時13歳。貴重な写真です。(田所龍一)

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