「人の命は地球の未来」が空虚に響く理由──『救急戦隊ゴーゴーファイブ』が抱えた芯の弱さと欺瞞
「ゴーゴーファイブ」のレビューは書かないと宣言したが、流石にそれだけで終わるのも何だなと思ったので、今度は「ゴーゴーファイブ」単品についてもう少し語ってみようか。
今改めて見直すと、「人の命は地球の未来」というキャッチコピーは、確かに耳に残るのだが、俺にとってはずっとこの言葉が薄っぺらく、白々しく、心に響かなかった。
また、「信じ合うのが家族です」という家族観や兄弟愛の表現も正直な話、あまりにもステロタイプかつ、その悪い部分を美談にすり替えるようなドラマの持って行き方、流れが正直今見直すと寒い。
そして何より、戦隊シリーズの中で作品の顔である戦隊レッドを最も重要視する俺は当時からそうだったのだが、西岡竜一朗演じるマトイ兄の横暴というか傍若無人キャラがいけ好かなかったのだ。
以下、3話までを振り返っての本作の辛口レビューを端的に書こう。
惹句に成り下がった「人の命は地球の未来」
毎回「人の命は地球の未来」と叫ぶのがゴーゴーファイブだが、このフレーズ自体は名言のはずなのに、なぜだか毎回叫んでいるせいでもはや会社の訓示や東京消防庁が公式のホームページに記載してある「救急標語」と同レベルのものにしか聞こえない。
ゴーゴーファイブの平成11年の東京消防庁の救急標語は「さしのべる 勇気が救う 尊い命」で、まさに「人の命は地球の未来」「燃えるレスキュー魂」に繋がるのだが、こういうのはあまり言葉として語らずに行動で示すからかっこいいのではないか?
スローガン・標語とはあくまでも「ここぞ」って時にだけ大事な一言として使うから効果がある、たとえば小林靖子が書いた三魔闘士に惨敗する19・20話とかは正にゴーゴーファイブの戦う理由の「核」が示される重要な回だ。
ああいう「自分たちの想像を遥かに超える大敗」を経験した時に、たとえば普段暑苦しいマトイ兄さんが渋く「へこたれるな。「人の命は地球の未来」だろ?俺たちが希望を失ったら、終わりだぜ何もかも」と言うのならば効果的だろう。
しかし「ゴーゴーファイブ」ってそこを毎週会社の訓示のようにして叫ぶものだから、それが戦隊の名乗り=様式美と一体化することで、若干宗教じみていて気色悪い。
呼吸をするように「人の命は地球の未来」を惹句として叫ぶってことは、それって相対的に人の命の価値が安っぽくなってるってことだと思うし、実際そう厳しく指摘する声もある。
「人の命は地球の未来」などと毎週ヒーローが声をそろえて叫ぶなど、かつては考えられないことであった。そんなことはわざわざ口にする必要のない、自明のことだったからである。シリーズの、命の尊さはもはや絶対の価値を持つものではないという流れは、この作品の登場をもって決定的なものになる。逆説的な話ではあるが。
正にその通りで、毎週の名乗り、決まり文句、ルーティンとして乱用されたわけであり、『天装戦隊ゴセイジャー』の「星を守るは天使の使命!」と大差ないレベルだと感じてしまう。
まるで「歳末バーゲンセール!」と同じテンションで叫ばれた結果、命というものの価値そのものがかえって安っぽくなってしまったのではないかと思うし、実際ゴーゴーファイブでは「救えた命」の話はしても「救えなかった命」の話はほとんどない。
そういうネガの面に突っ込んで書いていたのは小林靖子だったが、逆に言えば彼女がそういう話を描いていなかったら、それこそ「ゴーゴーファイブ」は単なる「救急」という職業ならびに人の命を救うドラマをただ賛美するだけの上っ面な作品で終わっただろう。
標語とは、心に刻み込んで胸の内に秘めてそれを実際の行動・アウトプットとして示して実感させるから意味があるのであって、それをただの「パフォーマンス」「見せびらかし」にしてしまったのがゴーゴーファイブ最大の過ちだ。
スローガンの限界を悟り、「兄妹愛」に逃げた作品構造
とはいえ、ただ「人命」の尊さを前面に押し出すだけではいかにも道徳じみて説教くさい話になってしまうというのは作り手も内心で気付いていたのだろう。
「人命救助」というテーマだけでは、ドラマが持たないと……だからか、本作は割と序盤から「兄妹の絆」「家族の愛」という名の「感動装置」を持ち出して、わざとらしい兄弟愛・家族愛を見せつける。
もちろんそれは別に悪いことじゃないし子供向けとしては健全な態度だから私も一定の好感度は持っているが、兄妹の信頼や再生の物語を描くなら、もっと繊細にキャラクター描写や設定を積み重ねる必要がある。
それを、「信じ合うのが家族です!」という言葉で雑にまとめようとした時点で私は気に食わなかったし、当時からして私は「現実の家族がこんなに仲良いわけないだろ」という思いもあった。
1999年は私に言わせれば「3年B組金八先生」の第5シリーズ然り『デジモンアドベンチャー』然り、やたらと「兄妹の絆・家族愛」の押し売りが異常に多かった年だ。
奇しくも、ゴーゴーファイブと同時期に放送されていた『デジモンアドベンチャー』でも、八神兄妹・高石兄弟という「兄妹の絆」が重要視されていたが、その描写がはっきり言って異常だった。
特に八神ヒカリが兄・太一に向ける感情は兄妹の愛情というよりも、依存や恋愛感情に近い不自然さがあったし、一番気持ち悪かったのはそれを公式がまるで美談・美徳かの如く前面に押し出していたことである。
一歩間違えば、近親相姦を連想させるレベルの描写すらもあったほどだったし、それこそ「金八」の第5シリーズは兼末健次郎の兄が狂ったが、問題は毒親である母のせいだった。
なぜ1999年の作品群はここまで兄妹・家族愛を美化し、押し売りしたのか?というと、それは当時の社会全体が「つながり」に飢えていた時代だったからだと思う。
バブル崩壊、阪神淡路大震災、少年犯罪の激化……そんな“壊れた社会”に、テレビは「家族」という幻想を差し出すしかなかったのではなかろうか。
似たような現象が2011年の3.11(東日本大震災)の「絆」の連呼でもあったが、何でもそうだが言葉にして前面に押し出した途端に価値が安っぽくなるものがある。
「人の命は地球の未来」のみならず「兄弟愛」「家族愛」とやらも今見直すとやはりどこか「感動ポルノ」じみて見えてしまうのだ。
「熱血リーダー」とは名ばかりのパワハラ兄貴・巽マトイ
先日の記事でコメントしてくださったbambooさんが指摘されていたように、本作のゴーレッド/巽マトイは「熱血」と「横暴」を完全に履き違えていた。
その証拠に第3話、危険な行動をしたダイモンを止められなかったナガレに対して「ナガレ!お前がついていながら!」と怒鳴り散らす。
完全な責任転嫁でしかない、しかもその後のフォローもものすごく雑で「言いすぎたよ」で済ませ、極めつけは「マツリ、お茶」と偉そうに妹に命令しているのだ。
こんな人間が“家族の絆”の象徴とか、冗談も大概にしろと言いたくもなるし、私は兄と弟がいた真ん中っ子だったから、もし自分がショウの立場だったら、年齢とか立場とか関係なくこう言ってる。
「部下の失態が上司の責任なら、まずマトイ兄がケツ拭けよ。起きたことを責めるより、再発防止を考えるのがリーダーってもんだろ?」
あとは「マツリ、お茶」なんて言ってるところも私ならショウにこう突っ込ませる・
「自分で淹れろよ、お茶くらい。何でもかんでも家事や雑務を妹に押し付けてんじゃねーよ」
マトイのキャラは私に言わせれば“頼れる兄貴”というより、封建的で思考の古いパワハラ体質の象徴であり、いかにも絵に描いたような頑固親父の悪いところばかりが前面に出たようだ。
それを作中が“頼れる兄”として持ち上げ続けたことが、家族戦隊としての説得力を崩壊させたし、実際小林靖子はそこを逃さず13話で「マトイ兄ってよくよく考えなくても横暴の極みだよねコイツ」って感じで描いてた。
俺に言わせれば、あれはどこか小林靖子が当時の武上純希=ゴーレッド/巽マトイを俯瞰して徹底的にいじって遊んでるようにしか見えなかったのだが、逆に言うとよく描いてくれたものだと思う。
もちろん、毎回毎回重苦しい話を描けなんて言わないし、家族という存在をポジティブに描くことも悪いことではないが、それにしてはもっとやりようがあったのではないかというのが今見直しての率直な評価だ。
まとめ
「人の命は地球の未来」は、叫ぶものではなく、行動して滲ませ実感させるものだったわけだが、ゴーゴーファイブは“命の尊さ”という重すぎるテーマを背負いながらその重みに耐えきれず、兄妹愛・家族の絆というスローガンの別種に逃げた作品だった。
その結果、「スローガンの空疎化」「パワハラ長男の美化」「感動の強要」という三重苦が生まれたように思われるし、作り手の見せたいものと私が受け取る印象とに大きなズレがあった。
まあ引き算思考ではなく足し算思考で作られたからこうなったんかもしれないが、「人の命は地球の未来」なんて言葉は本来口上として叫ぶものじゃない。
「本気で命を救うとはどういうことか?」という問いに、最後まで正面から向き合い切れなかった──それが、この作品に漂う“芯の弱さ”だったのではないかと思う。



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