友人におすすめの日本映画を聞いたときに、返ってきたのがミンボーの女だった。
伊丹十三監督の映画は、恥ずかしながらこれまで一度も観たことがなかった。
しかし友人曰く「めっちゃくちゃ面白いし、伊丹十三の作品の中でも特に良いから観た方がいい」とのこと。
このホテルがヤクザからのたかり被害を受けていて、ホテル側は波風立てたくないの一心でヤクザの要求をずるずると受け入れてしまう。
一言でいえばビビって何も言えない。そんな様子がもどかしく、どうにかできないものかと観ていてモヤモヤしてしまう。
この人がとにかくカッコいい。ホテルから依頼されてヤクザへの対応を引き受けることになるんだけど、最初から一切ひるまない。
徹頭徹尾ヤクザは悪だという明快な立場を崩さず、法律的な方法でヤクザを的確に対処していく。
これが序盤のモヤモヤを吹き飛ばすほど痛快。
ヤクザを相手に毅然とした態度を取り、一歩も引かずに正論で戦うまひるの姿は今でも時代を超えてすごく魅力的に映る。
そしてこの映画、凄いのはヤクザを徹底的に「悪」として描いてる点。
日本映画って、ヤクザが題材になると何処かヤクザの美学のようなものを描いて一辺倒的な悪の存在としては描かない。
まひるの活躍によってヤクザ側もだんだん追い詰められていき、次第に暴力的な手段に訴えようとしたり裏から揺さぶりをかけようとするんだけど、そこでもまひるは一切怯まない。
それでも終盤、まひるが組の鉄砲玉に刃物で刺されるシーンがある。
このシーンの意図はとても分かり易い。
しかしヤクザは法のみでは縛り付けられない存在だってことを示しているわけだ。
この映画の最大のポイントはここのシークエンスにあると思っている。
そこでまひると彼女の部下(ヤクザ対策に任命されたホテルの従業員)がブランコに並んで座っていて、従業員の男がまひるに尋ねる。
「どうしてそんなにヤクザが怖くないのか?」と。そこでまひるは自分の過去を明かす。
彼女の父親は町医者をやっていて怪我したヤクザをよく受け入れていた。
重要なのはその話の続きで、ヤクザの親分の治療をしているところで別の組のヤクザが乗り込んできて、その親分を出せと脅してきた。
そのときまひるの父親は、医者として怪我人を差し出すことは出来ないと断り、ヤクザの親分を守ろうとして殺された。
この話のあと、鉄砲玉のヤクザにまひるが刺される。鉄砲玉はすぐに逮捕されるもののまひるは重傷となる。
映画の流れとしては、法によってヤクザを退ける → しかし法の力でも防げない事態が発生する
これが現代の作品であれば十中八九、この後の展開として「昔助けたヤクザの親分が間に入って助けてくれる」となるはずなんだよ。
つまりこれまではヤクザを絶対的な悪として描きつつも、最終的にはそのヤクザにも義理や人情があるってことを示すことでヤクザを一辺倒な悪として描かずに済むってこと。
このあとまひるが居なくなったホテルへと敵対したヤクザたちが攻め込んで来る。
しかし過去に助けたヤクザの親分は出てこない。良いヤクザは出てこないんだよ。
最終的にはまひる抜きで、ホテルの従業員たちが一致団結して自主的にヤクザを追い払う。
ホテルには以前のようにヤクザの姿が見えなくなり、無事ハッピーエンド。
すげぇなって思ったよ。
まるで迎合しない。
ここまで一貫してヤクザを悪として描くスタンスって、そうそうあるものじゃない。
それも架空の存在じゃない、ヤクザという実在する存在をこうも徹底して悪として描くことには正直だいぶ驚いた。
だからこそ、これまでの日本映画にはなかったようなカタルシスがあった。
そらカントクもビルの屋上から落とされて殺されるはずやでぇ😰 (ワイは『スーパーの女』が好きやね😃)
ヤクザ酷いな
90年代やからしゃーない…😢
何度も書かんでいいぞ
(あ、ヤクザや…!🤭)