08:恋に落ちる瞬間と、二年後の今
保健室のベッドに横になっていたのは、当時二年生の桐生先輩。
既に大人びた雰囲気で学年問わず男達を魅了していた彼女の名を木戸は既に知っており、「これが噂の」と冷静に心の中で呟いたという。
ほんのりと赤くなった頬と苦しそうな呼吸、僅かに汗ばんだ額。見るからに分かる熱っぽさを纏った彼女は、コップを拾う木戸に対して優雅に微笑んで『ありがとう』と告げたらしい。
『ごめんなさいね。貴方も具合が悪いのに』
『いえ、俺は手首を捻っただけですから。それより、水、飲みます?』
『いれてくれるの? ありがとう』
寒気がするのか布団にくるまりながら桐生先輩が感謝と共に微笑む。辛そうでありつつも、その微笑みは妖艶さを漂わせていた。
そんな桐生先輩に対して、当時の木戸はときめくことも見惚れることもなかったという。
それどころか当時を語り「苦手なタイプだったから早く保健医に来てほしかった」とまで言ってのけるのだから驚きである。冷静どころではない。
出来れば当時の木戸と知り合いたかった……なんて思ってしまうほどだ。
「それで水を入れて渡したら、桐生先輩が『お礼をしたいから考えておいて』ってさ」
「お礼か……。容易に想像できるな」
『お礼』とは、桐生先輩が誰かに頼みごとをする時によく使う、男心を擽る手段の一つだ。
小悪魔的な魅力を持つ彼女の口から出る『お礼』という単語に、男子高校生の期待は止まるところを知らず、どれだけの男がこの単語につられて彼女の頼みごとを聞いただろうか。感謝を示しつつも上から目線なところも堪らないらしい。以前にとあるストーカーが語ってくれた。
なるほど、つまりこれがストーカーの誕生秘話か……と、そう俺が結論づけるも、木戸が違うと首を横に振った。
次いで改めて「誰にも言うなよ」と念を押したあと、
「むしろその時は『なに言ってるんだ、この人』って思った」
と話すのだから、これには俺も目を丸くさせた。
だって木戸が、ほかの誰でもなく木戸が、桐生先輩の親衛隊でありながらもそれすらも出し抜くストーカーが、よりにもよって初対面の桐生先輩に対してこの評価なのだ。
そんな俺の驚きを当人は予測していたようで、気まずそうに頭を掻きつつも「だってさ」と話し出した。
「俺はコップ拾って水いれただけだぞ。それなのに『お礼』なんて言われても……。保健室で寝てるくせに余裕ぶってるし」
「桐生先輩のことだから、弱ってるところを見せたくなかったんだろ」
「だろうな。で、あぁこの人そういう人なんだな……って思って、思った瞬間に惚れた」
「……は?」
突然の展開に思わず間の抜けた声を返してしまう。
当時の木戸の好みは、柔らかく守ってあげたくなるタイプの女の子。そんな中で真逆の存在である桐生先輩に偶然会って、コップを拾って水を注いでやって、お礼をと言われて……、
……それで惚れた?
どういうことだ? と目を丸くさせていると、俺の混乱が分からなくもないと言いたげに木戸が小さく溜息を吐いた。
「つまりだな、桐生先輩は他人に弱みを見せたくない人で、ちょっとの貸しでも作るまいと『お礼』なんて言い出す人で、だから……」
「だから?」
「そういう人が、見返りとか考えずに俺を頼ってくれたらなぁって……」
どうやら自分で言うには恥ずかしかったらしく、木戸がそっぽを向く。
若干頬が赤くなっているが、聞き出した俺でさえも恥ずかしくなってしまう話なのだから仕方ないだろう。少なくとも、こんな普段と遠く離れた土地の喫茶店で話すべきことではない。
だからこそなんと言って良いのか分からずに俺も思わず視線をそらせば、机の上に置いていた携帯電話が振動音をあげてメッセージの受信を知らせてきた。
見れば、受信者の欄には月見の名前。手早くメッセージを開けば、着付けが終わったから今から店に向かうという。
内容だけを綴ったシンプルな連絡ではあるが、このこっぱずかしい空気をぶち破ってくれたのだから感謝だ。さすがは月見、こんなところでまで空気を読んでくれる。
「えーっと、たぶん、そろそろ来るんじゃないか」
妙に気恥ずかしい余韻を感じながらも強引に話題を変えれば、木戸もどこか落ち着かないながらも「そ、そうだな」と上着を羽織ったりと出発の準備に取りかかった。
二人が着付けをしている店から現在地の喫茶店までそう遠くない。連絡を入れてきたのが店を出る直前だったなら、もう間もなく着くはずである。
「桐生先輩どんな感じだろうな。しまった! 俺なんて誉めるか考えてない!」
「はいはいそうだな。お、もう着いたみたいだ」
再び携帯電話が振動し、月見達が店に着いたことを知らせてきた。
だが店内は混雑しており、とりわけ俺達は奥まった場所に座っている。月見達が店に来ても直ぐには見つけられないだろう。
ちょうど支度も終えたことだし俺達から探しに行こうと立ち上がった瞬間、店内が一瞬にしてざわつきだした。
各々過ごしていた客達が同じ方へと顔を向ける。揃えたような動きは、まるで強い風が吹き抜けて煽られたかのようだ。
「綺麗」だの「可愛い」だのと囁く声が店内に満ちる。中にはモデルや芸能人ではないかと話す声まで聞こえてくる。
男は誰もが見惚れるように熱っぽい視線を向け、連れの女ですらも嫉妬するのを忘れて呆然としている。
それほどまでの人物が店を訪れたのだ。そしてそんな店内の視線が向かう先は……言わずもがな、月見と桐生先輩である。
俺達を探しているのだろう、店先でキョロキョロと店内を見回すのは、ピンクを地に鮮やかな小花が散りばめられた着物の月見。朱色の帯にはピンクの帯紐が花の形を作っており、明るく華やかな色合いがなんとも彼女らしい。
普段は柔らかく揺れる髪も今は着物に合わせてまとめられており、押さえるように大きめの花が飾られている。キラキラと髪が輝いて見えるのはラメの入ったスプレーをつけたのか。それとも可愛さから月見自身が輝いて見えるのか。今の姿からはどちらも考えられる。それほどまでだ。
そんな月見の隣に並び携帯電話に視線を落としているのは、黒地に大振りの花柄をあしらった着物の桐生先輩。重めの色合いの着物に反し、帯は薄水色と明るく、銀と金の帯紐を石造りの帯留めで絞めている。
落ち着きを見せた色合いや着こなしは彼女の大人びた雰囲気をより高めており、佇むだけで凛とした美しさを感じさせた。
長く艶のある髪は一つにまとめ、そこに飾られたかんざしがいかにもといった雰囲気を出している。
そんな二人は店中の視線を浴びながら、それでも俺達に気付くとこちらに手を振ってきた。
次の瞬間、店中の客が揃えたように彼女達の視線を追ったのは言うまでもない。
あれほどの美少女二人を連れているのは誰だ、どんな男だ、と老若男女問わず店内を探る。嫉妬やら羨望やら期待やらを綯い交ぜにした視線に、思わず頬がひきつってしまった。
……だがそれ程までに二人とも似合っているのだ。普段からアイドル顔負けの魅力だが、普段と違う着物姿はその魅力を更に引き立たせている。
俺だって、何も知らずに彼女達を見れば、どんな連れだと羨ましがりつつも興味を抱いただろう。
そんな痛みすら感じかねない視線を感じながら、俺はひきつった笑みのまま片手をあげて彼女達に答えた。
周囲から注がれる嫉妬と値踏みの視線から逃れるのは、早々に合流して店を出るに限る。そう考えて彼女達の元へと歩き出したのだが、どういうわけか木戸が着いてこない。
見れば木戸は呆然としたまま桐生先輩を見つめている。そうしてはたと我に返るや、さんざん考えたであろう賛辞を述べ……はせず、
「ありがとうございます!」
という、心からの言葉を発した。
その抑えきれない感情やら、まさに心の底から出たと言わんばかりの発言に、俺は割と本気で引いた。