【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

2002年W杯開催辞退とサンフレッチェ広島の紆余曲折 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(05)

宇都宮徹壱

蹉跌と挫折に満ちた2002年と風向きが変わった2003年

2023年までサンフレッチェ広島のホームスタジアムだった広島ビッグアーチ。もしも屋根がかけられていたら、街なかスタジアムは実現しただろうか? 【宇都宮徹壱】

 まず2002年W杯での広島の開催辞退。平和都市・ヒロシマでのW杯開催は、もともと「既定路線」と思われていた。当時のFIFA会長ジョアン・アヴェランジェの推薦もあったし、当時のJFA(日本サッカー協会)会長の長沼健も広島出身。しかも、自身も被爆体験があった。

 問題は、開催規格を満たすためには、屋根付きのスタジアムが必須だったこと。

 既存のビッグアーチに、バックスタンドへの屋根の架設と座席改修工事を行った場合、およそ140億円もの費用が見込まれた。しかも韓国との共催が決まったことで、割り当てられる試合数は3試合。財政難の市としてはのめない条件だった。かくして1996年12月20日、当時の市長が改修を断念。W杯開催都市の立候補も辞退する。

 そして迎えた2002年、華々しくW杯日韓大会が開催されるも「サッカー御三家」だった広島は蚊帳の外。そしてこのシーズンのサンフレッチェは、ファーストステージ15位、セカンドステージ14位、総合15位で初めてのJ2降格の憂き目に遭うこととなる(当時のJ1は16チーム制)。引責という形で今西はGM職を辞した。

 かくして2002年は、広島のサッカーファンにとり、蹉跌と挫折に満ちた年となってしまった。しかし翌2003年、停滞気味だった広島サッカー界の風向きが変わり始める。

 この年の広島市長選挙で2期目を目指した、現職の秋葉忠利が公約のひとつに「サッカースタジアム建設」を掲げて見事当選したのである。これを受けて立ち上がったのが「スタジアム推進プロジェクト」。2003年4月1日の中国新聞から引用しよう。

《広島県サッカー協会、サッカーJリーグ2部(J2)のサンフレッチェ広島、サンフレッチェ広島後援会は一日、サッカー専用スタジアム建設に向けた基本構想を策定する「スタジアム推進プロジェクト」を立ち上げる。サッカー王国広島のスポーツ文化を育成する拠点づくりへ、官民一体で取り組む。/県と広島市、広島商工会議所、市青年会議所からもメンバーを募り、計七団体でのスタートを予定。デオデオが所有する広島市中区大手町一丁目のビル内に事務所を置き、スタッフ三人が常駐する。事務局長はサンフレッチェ広島前総監督の今西和男専務が内定している。》

<翌日につづく>

※文中敬称略

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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