【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

2002年W杯開催辞退とサンフレッチェ広島の紆余曲折 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(05)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

広島県サッカー協会名誉会長の野村尊敬。今年84歳と高齢ながら、マツダSCのJリーグ参入の経緯を昨日のことのように語ってくれた 【宇都宮徹壱】

県協会名誉会長が語る「プロ化に消極的だったマツダ」

「マツダはアマチュアで行くんだと。ホンダのようにプロにはならんと。それをJリーグの準備室に、今西(和男)が断りに来たんじゃ。会社に命じられてのことだったんじゃろうね。それで次の日、たまたま協会の理事会があって、わしも東京に来ていたんじゃ。プロ化を断りに来た話を知って、わしは『1カ月待ってくれ』と。ほいで広島に戻って、あちこちに働きかけたんじゃ」

 Jリーグ開幕前夜の1990年、のちにサンフレッチェ広島となるマツダSCの状況について語ってくれたのは、今年で84歳となる広島県サッカー協会名誉会長の野村尊敬。広島サッカー界の重鎮中の重鎮であり、当時はJFA(日本サッカー協会)理事であった。

 今となっては信じがたい話だが、当時のマツダは自社サッカー部のプロ化とJリーグ入りに極めて消極的であった。結果として、当時監督だった今西が広島から上京し、川淵三郎を委員長とする、日本プロサッカー・リーグ設立準備室委員会に参入を断念する旨を伝えることとなった。

 マツダが不参加となれば、大阪以西のJクラブは存在しないことになり、全国リーグとしては非常にバランスが悪くなってしまう。Jリーグはもちろん、埼玉や静岡とならぶ「サッカー御三家」を自認する広島のサッカー界にとっても、非常に受け入れがたい話。ゆえに、野村が「あちこちに働きかけ」ることとなった。

 そして年が明けた1991年1月のある日、元マツダ監督でメキシコ五輪銅メダルメンバーでもある松本育夫から、川淵に「もう一度、プロ化を検討させてもらえないでしょうか」との電話が入る。この時のやりとりについて、川淵は『「Jリーグ」のマネジメント』(広瀬一郎著)にて、このように回想している。

《これには内心喜びながら、「大会社が1回決定したことをくつがえすとは何事だ。社長の覚書か念書を持ってこい」と言った。簡単に何度も方針変更させるわけには行かないから、かなり強硬に言った。結果的には1月23日に会社トップから再度参加意思表明があった。マツダの変心は本当にありがたかった。》

 かくしてマツダはサンフレッチェ広島となり、1993年に開幕するJリーグに「オリジナル10」の一角として参加することとなる。しかし、開幕前夜で明らかとなった親会社の消極的な態度は、その後の重要な局面でも時おり顔を覗かせることとなった。

古参スタッフが語る2002年W杯開催辞退とJ2降格

サンフレッチェ広島運営部の白石聡。Jリーグ開幕当時を知る最古参で、2002年はW杯よりも初めてのJ2降格のほうが記憶に残っていると語る 【宇都宮徹壱】

「初めてビッグアーチを訪れたのは、1992年のアジアカップでした。Jリーグ開幕を控えて、審判員を確保しようという動きがあって、そこで設けられた審判員養成コースに僕も参加していたんです。その研修会が大会期間中にあって、日本代表の試合をスタンドで観戦しました」

 白石聡は1965年生まれで、サンフレッチェ広島の運営部所属。現在50人ほどいる社員の中では、Jリーグ開幕時を知る最古参である。

 大分の出身で、県立中津工業高校卒業後、東洋工業から社名変更したマツダに1984年に入社。監督の今西からは「サッカーでは厳しい」と言われ、2年目から地域リーグに所属していたマツダSC東洋で、8シーズンにわたりプレーしている。

 そして1993年にJリーグが開幕。それまで社業に専念していたが、今西に声をかけられ、シーズン途中でサンフレッチェに移動となった。

「最初はグラウンドベースでのマネージャーとして、練習や試合の準備や遠征の手配なんかもしていましたね。ホームはもちろん、アウェイのすべての試合にも帯同しました。1994年の『チェアマン杯破損事件』、それと95年の『ユニフォーム忘れ事件』。いずれも僕は現場にいた人間であり、当事者だったんです」

 最後の「チェアマン杯破損事件」と「ユニフォーム忘れ事件」については、当時を知らない世代に向けて補足が必要だろう。

 前者は、ファーストステージに優勝した際、当時はクリスタル製だったチェアマン杯を落として粉々にしてしまった事件。後者は、横浜フリューゲルスとのアウェイ戦で、誤ってセカンドの白いユニフォームを持ってきてしまったため(相手は白)、サポーターから紫のユニフォームを借り、テーピングの背番号で何とか間に合わせた事件である。いずれもJリーグ黎明期を象徴するようなドタバタ劇であった。

 そんな白石にとり、5万人収容の広島ビッグアーチは、さまざまな思い出が詰まった思い入れのあるスタジアム。2002年の日韓ワールドカップ(W杯)に向けて、各地に巨大なスタジアム群が作られる以前、ビッグアーチは国立競技場や神戸総合運動公園ユニバー競技場に次ぐ規模を誇っていた。

「ビッグアーチといえば、アジアカップだけでなく2年後(1994年)もアジア大会が開催されているじゃないですか。当然、2002年のW杯の会場にも選ばれると思っていたんですよ。ですから、立候補を辞退と聞いた時は『ええっ!』と思いましたね。ただ、2002年で印象に残っているのはW杯よりも、初めてのウチのJ2降格が決まったことです。まさか自分たちが落ちるとは、思ってもみなかったので」

 クラブ古参の白石に、ビッグアーチのこと、そして2002年の降格のことを語ってもらったのは、もちろん理由がある。それは今の読者に、当時のサンフレッチェと広島サッカー界の状況を知ってもらいたかったからだ。

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著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

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