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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

核廃絶決議の採択(2)

2009-12-09 | Weblog
米国が「核廃絶」に賛同するなんて、そんなことがあるわけはない。まして、自らの核兵器もふくめ、廃絶を率先して進めていくなんてことは、ありえない、という安全保障についての「常識」を持っていた人なら、今年の4月5日に、オバマ大統領がプラハで行った演説にびっくりしたことであろう。

「核兵器のない世界の平和と安全保障を追求するという米国の約束を、私は明確にそして確信をもって表明する。」
「米国は、核兵器のない世界にむけての、具体的な手順を取る。」
オバマ大統領は、そう述べた。ブッシュ前大統領の政権が、核実験さえ再開しかねないくらい、核軍縮に冷淡だったことを思えば、確かに大きな変化である。これで、世界の核軍縮の動きにも大きな弾みがつくであろう。

オバマ大統領の英断は、素晴らしいものである。でも、オバマ大統領は、世界平和と人類愛の理念にしっかり立って、日本国民の核廃絶への願いにも答えてくれたのだ、という見方は、ちょっと買いかぶり過ぎである。米国は、世界中の平和主義者、博愛主義者を喜ばせるために、そういう政策を打ち出したのではない。自分の安全保障のために、核廃絶が正しい選択だからなのだ。簡単に説明してみよう。

そもそも、核兵器がなぜ、戦略上の根幹をなす兵器と見なされてきたのか。もちろん、一瞬にして都市を根こそぎ破壊し、何十万人、何百万人を死に至らせることができる兵器が、恐ろしくないわけはない。しかし、爆撃機による都市の爆撃は、第二次大戦の時代においてさえ、それに匹敵する破壊と殺戮をもたらした。これだって、十分に恐ろしい。核兵器は、本質的にどこが違うのか。

それはミサイル、つまり大陸間弾道弾を抜きにしては理解できない。一言で言えば、ミサイルと核兵器の登場で、戦争における「前線」が無くなったということなのだ。昔、戦争といえば兵隊や戦車を進め、敵国の領土に侵攻するというものであった。相手を降伏させるため、前線を首都近くまで前進させなければならなかった。そのうちに、航空機が現れた。前線が遠くても、首都を爆撃できるようになった。それでも、宣戦布告から敵の指導者を追いつめるまで、時間と手間がかかった。爆撃といっても、相当徹底して広い範囲の破壊を進めないと、敵の指導者を参らせるところまでいかない。

ところが、ミサイルが登場して、様相が一変した。前線という概念も、時間という概念も、無くなった。そして一瞬にして都市を丸ごと灰燼に帰する核兵器が開発され、破壊の概念さえ変えた。核兵器をミサイルに搭載して撃ち込めば、戦争を開始して数十分後には、相手国の首都を確実に壊滅することができる。いや、戦争を始めるまでもなく、平時から相手国の首都を人質にとっているようなものである。逆に、相手に核兵器を持たれると、こちらは言いなりになるしかない。それを防ぐには、自分も核兵器を持つことだ。そうすれば、こちらも相手の首都を人質に取ることになる。

それで、冷戦時代には米国とソ連が、ミサイルと核兵器を蓄積して、対抗しあった。お互いに首都を人質にとって、脂汗を流す平和を維持してきた。その時代は過ぎたけれど、米国もロシアも、いったん保有した核兵器を手放すことはしなかった。相手がどこの誰かはともかく、核兵器さえあれば、他の国の首都を人質に取ることができるのだ。安全保障というのは、他国からこちらの意思にそまない行動を強要されることを、いかに防止するかという問題である。常に相手の頭に銃口を突きつけるような、核兵器とミサイルの存在は、安全保障確保のうえで決定的な優位をもたらす。だから常に、安全保障問題の根幹となってきたのだ。

冷戦時代に、米国とソ連が、あれほどしのぎを削り合いながらも、並行して完全に一致団結して行っていたことがある。それは、他国に核兵器を持たせないことだ。すでに、英、仏、中国が核兵器の保有に至っていた。インドが間もなく核保有に至ると思われていた1970年に、「核不拡散条約(NPT)」を作り上げ、核兵器国を5ヶ国に制限した。これ以上核兵器を持つ国を乱立させない、という条約の趣旨は世界に受け入れられ、NPTは190ヶ国に及ぶ、加盟国数が世界一多い条約になった。

それでも、最近になり、核兵器を保有する国が次々に現れてきた。1998年に核実験を行ったインド、パキスタン。イスラエルは核兵器を隠し持っていると思われている。そして、2006年に核実験を行った北朝鮮である。イランは、核開発の意図を公式には否定しているけれど、ウラン濃縮施設をどんどん拡大しているので、やろうと思えば出来る国になりつつある。イランが核保有すれば、うちも対抗するという国も出てくるだろう。

これは、なにより米国にとって厄介な話である。どんな小さな国でも、核兵器と米国に届くミサイルさえ持てば、米国の頭に銃口を突きつけられるわけだから。米国が、自国の核兵器をどれだけ持とうが、相手に核兵器がある限り、安全保障の脅威となる可能性がある。そんな状態に陥らないために、とにかく相手に核兵器を持たせてはいけない。だから、米国は他の国と連携して、核兵器やミサイルの「不拡散」といわれる一連の取り組みを、強力に進めてきた。その延長線上で、核兵器を相手のも自分のも一切合切、世界全体で廃絶するという選択肢をとることも、米国としてありうるはずなのだ。

それだけではない。ここで、核兵器が無くなった世界を考えてみよう。米国もロシアも中国も、誰も核兵器を持たない。だから、誰も相手国の頭に、銃口を突きつけることができない。そういう核兵器登場以前の世界に戻るか、というとそうではない。ボタン一つで、相手国の首都に真っ直ぐ巡航ミサイルを向かわせ、都市全体は破壊しないけれども、相手国指導者のいる地点を、正確に狙い撃ちし破壊する。そうした軍事技術を持っている国だけは、引き続き相手国の頭に銃口を突きつけ続けることができる。他の国には、それが出来ない。つまり、核兵器が全廃されるほうが、安全保障のうえでの米国の優位はむしろ高まるのだ。

だから、米国が「核廃絶」を率先して進めるということは、不思議なことではない。オバマ大統領の演説も、不思議はないし、日本の「核廃絶決議案」に賛成票を投じてくれたことも、不思議ではない。オバマ演説も、「核廃絶決議案」への賛成投票も、米国が核軍縮のほんとうの意義を、いよいよ正面から認めたということを意味しているのではないか。これは時代の大きな転換点を暗示するとともに、これは困ったと考える国々も出てくるだろう。核兵器をめぐる、これからの各国の動きが、大変注目されるところだ。

私は執務室の机で、昔取った杵柄、軍縮課長としての知識を呼び戻しながら、このように、少なからず感慨と、昔の思い出にふけりながら、国連代表部からの公電を読んでいたのである。電報は、国連総会での採択の結果を報告していた。その最後の方まで読み進んで、私はおもわず叫んでしまった。
「何ということだ、これは。」

(続く)

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