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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

日本の楽器

2009-12-02 | Weblog
およそ半年前の話である。私は、ドイツ大使の公邸に招かれ、庭でおおぜいのお客さんといっしょに、「音楽の夕べ」に出席していた。アビジャン在住の、いくつかの演奏家や楽団が、次々に登場して演奏を披露していた。バイオリンの独奏もあったし、太鼓や木琴による民族音楽もあった。そして、ブラスバンドが、けっこう上手に、デュークエリントンやグレンミラーのジャズなどを演奏した。

さて、演目が終わってカクテルに移り、他の国の大使たちをはじめ、来ているお客さんたちと歓談していると、中年の女性が私のところにやってきた。日本の大使閣下ですね、と聞くので、はいそうですよ、と答えた。その女性は、音楽学校の教授だと自己紹介したうえで私に言う。
「日本の大使には、感謝を伝えなければならないです。」

藪から棒に、また感謝である。私は、苦笑しながら、申し訳ないがいきなり感謝と言われても戸惑う、と答えた。
「大使、こっちに来てください。」
女性に誘われて、さきほどブラスバンドが演奏をしていた場所に行った。そこには、楽器を収めた黒いケースが、一ヶ所に纏めて置いてあった。ご覧ください、と言われて、その黒いケースを見た。一つ一つに、小さな日の丸が付いていた。

音楽学校というのは、アビジャンにある「国立芸術文化院(INSAAC)」のことである。私は女性の音楽教授から、これらの楽器は、日本が過去に供与したものだ、と教えられた。日本からの文化無償協力で、1992年に届いた一揃えの楽器のおかげで、「国立芸術文化院」の学生たちは、ブラスバンドをずっと続けることが出来た。長い年月が経ち、日本の側の大使が何代も交代し、協力案件は記録のなかに埋没しても、音楽学校の先生や生徒たちは感謝を忘れていなかった。

楽器というものは、日ごろから大事に手入れをすれば、いつまでも使えるものである。日本がかつて一揃えの楽器を贈与したことにより、この音楽院で学ぶ音楽家たちが、日本に感謝しながら、17年に及んで連綿と演奏を続けてきた。何と有意義な支援だったのだろうか。日本側でこの案件を作った人々の知恵にも感心したけれど、それ以上に、その日本の楽器を大切に磨いてきたコートジボワールの学生たちに、私は感銘を受けた。

「音楽の夕べ」での出会いをきっかけに、私の「国立芸術文化院」との付き合いが始まった。8月には、院生たちの演奏会に招かれた。コートジボワールの危機以前は、毎年開かれていた演奏会が、もう10年近く中断したままになっていた。それを今年から復活したのだ、という。ブラスバンドはもちろん、西洋古典音楽、民族音楽なども、この音楽学校で研究し、教えている。さまざまの音楽が、生徒たちや、先生から披露された。歌曲「カルメン」のハバネラを熱唱した生徒もいた。

別の日には、「国立芸術文化院」の活動を見学させてもらった。この「文化院」では、音楽だけでなく、絵画・造形、陶芸なども教えている。そうした部門も同様に、予算が殆ど来ない苦境にもかかわわらず、危機の時代を通じてしっかり生き延び、生徒たちが芸術活動を追い求めていた。私は、楽器の保管室を見に行った。あの日の丸の付いた黒い楽器ケースが、他の楽器とともに、棚に整然と並んでいた。「YAMAHA」の金文字が光るグランドピアノも2台あった。少し弾かせてもらったら、ちゃんと調律された、しっかりした音が出た。そして、楽器の保管室だけが、冷房をつけていた。生徒たちの部屋は、冷房がなく蒸し暑いというのに。

音楽のみならず、芸術活動というのは、紛争などによる政治と社会の混乱のなかで、真っ先に犠牲になる。人々が生きていくことだけに必死になり、芸術への余裕を失う。芸術家は、それでも芸術への熱意を失わず、苦しい中でも自分の芸術を捨てることなく頑張る。コートジボワールの文化院でも、芸術活動の息が絶えることはなかった。ふたたび芸術が生き返るときをじっと待ちながら、先生や生徒たちは、楽器の維持管理を怠りなく続けてきた。

平和がようやく回復し、音楽家たちが再び本格的に活動できるようになる日は近い。そして彼らの手には、ともに苦難の日々を過ごした日本の楽器がある。私は、そうした音楽家たちに、あるお願いをした。先生も生徒たちも、私の提案を快く引き受けてくれた。

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