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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

アラーの神に義務はない(7)

2009-11-09 | Weblog
サミュエル・ドー(Samuel Doe, 1951-1990)は、リベリア軍の軍曹だった。ドーや彼の仲間たちは、「コンゴ(Congo)」と呼ばれるあの傲慢なアメリカ帰りの黒人たちに、ほとほと愛想をつかしていた。ドーは、土着の黒人であり、アメリカ奴隷の子孫たちから、差別されていた。「コンゴ」たちは、リベリアで宗主国の植民のように振舞っていた。

ドーとキヨンパ(Thomas Quiwonkpa)の、2人のリベリア土着部族民が、アメリカ帰りの連中が牛耳る政権の転覆を謀った。ドーはクラン族、キヨンパはギオ族であり、この2つの部族が主要なリベリア土着民族だったから、彼らの政府転覆計画は、リベリア国民の、アメリカ帰りの植民からの独立だ、と位置付けられた。

2人の陰謀は、思いのほかうまく進んだ。ある日の早朝、手下たちを使って、政府の要人、議会の議員たち、皆を寝床から連れ出した。浜辺に連れて行って、そこに立てた杭に、皆縛り付けた。日が昇ると、報道陣がカメラを向ける前で、機銃掃射して連中を皆殺しにした。そして、町に入ると、女子供を虐殺して、お祭りを始めた。(1980年4月)

2人の英雄は、互いに口に接吻し、お祝いをした。ドーはキヨンパ軍曹を将軍に任じ、キヨンパもドー軍曹を将軍に任命した。ドーは大統領になった。そして、折から西アフリカ共同体首脳会議がトーゴの首都ロメで開催されることになっていたので、パラシュート部隊の軍曹の格好のまま、ピストルを腰につけて、ロメに乗り込んだ。首脳会議は、彼を恐れて、ホテルに閉じ込めて出席させなかった。

それからしばらく、ドー大統領はパラシュート部隊の格好で、ピストルを腰に下げ、真の革命家のように振舞っていた。そのうち、キヨンパ将軍が目障りになってきた。どうするか。ドー大統領が思いついたのは、民主主義である。

ある土曜日の朝、ドー大統領は皆に招集をかけた。全ての軍の将校、省庁の局長以上、国中の知事たち、宗教家たち。そして皆を前に、彼は宣言した。(1984年)
「私はやむを得ず、武力で政権を取った。それは、当時あまりに不正義が多かったからである。今や国に正義は戻り、国民は平等だ。軍は、権力を文民に返すべきである。その手始めとして、私は軍服を脱ぐ。」

そして彼は、ピストルを横に置き、ベレー帽を取り、本当に軍服を脱ぎ始めた。トランクスだけになったところで、背広を持ってこさせ、上着を着てネクタイを締め、皆の喝采を浴びた。それから話は早かった。3ヶ月のうちに、憲法を自分の好きなように書き換えた。国民投票にかけて、99.99%の賛成を得た。なぜ100%でないかって、それは100%だと不真面目と言われかねないからだ。

6週間のうちに、大統領選挙が実施された。国際選挙監視団が見守る中で、ドーは99.99%の得票で、大統領に再選された。なぜ100%でないかって、それは100%だと不真面目と言われかねないからだ。

文民の大統領になって、さっそく行ったことは、キヨンパ将軍を参謀総長の座から引きずり下ろすことである。ところがこれは、簡単には行かなかった。キヨンパはドー大統領の抹殺を企て、ドー大統領はすんでのところで暗殺から逃れた。キヨンパは逮捕され、ひどく拷問されたあと、銃殺された。(1985年11月)

ここでドー大統領は、やり方を間違った。彼は、キヨンパの係累、ギオ族の幹部を皆殺しにした。妻も子供も含めて。ドー大統領は勝ち誇って、政府要人を皆、自分の出身部族であるクラン族で独占した。完全にクラン族のリベリアが出来た。そんなものは長続きしない。ギオ族で殺戮の難を逃れた人々は、コートジボワールに逃げた。ウフエボワニ大統領に、窮状を訴えた。ウフエボワニ大統領は、彼らをカダフィ大佐のもとに送って、訓練した。

1989年のクリスマスの日、コートジボワールとの国境沿いのブトロ(Boutoro)の国境の衛兵たちは、皆殺しになった。そのあと、国境の電話から、参謀本部に緊急電話が入った。「攻撃された、援軍を送ってくれ。」参謀本部から急遽送られた軍は、途中で待ち伏せに遭って全滅した。すべての兵器が、反乱軍の手に渡った。この日から、リベリア内戦が始まったとされる。隣の国、コートジボワールでクーデタが起こる、ちょうど10年前の出来事である。

(続く)

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