【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話

「育将」今西和男へのインタビューで知りたかったこと 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(04)

宇都宮徹壱
日本初の「街なかサッカースタジアム」はなぜ、広島に誕生したのか? そしてなぜ、20年以上の歳月を要することとなったのか? 終戦と原爆投下から80年となる2025年8月、平和都市・ヒロシマにおける、知られざるスタジアム建設までのストーリーを連日公開(全30回)

ひろしまゲートパークに隣接する、おりづるタワーの屋上展望台から見た、原爆ドームと平和記念公園。広島の中心街は川が多いことがわかる 【宇都宮徹壱】

今西和男が日本サッカー界に果たした役割とは?

 フリーランスの「写真家・ノンフィクションライター」を名乗るようになって、早いもので28年。その間、国内外で数多くのインタビュー取材を手掛けてきた。

 しっかり下準備さえしていれば、どんな相手でも自信を持って向き合うことができる。そんな自負と自信が持てるようになって久しい。それでも年に数回、気持ちの張るインタビューの現場というものがある。2025年1月24日、その日は広島市にて、今西和男と対峙することになっていた。

 東京から新幹線で4時間かけて広島駅に到着。大寒を過ぎたばかりの広島は、りんとした冷たい空気が張り詰めていた。ホテルに荷物を預けてから、今回の取材のアテンドをしてくれた、杉岡英明の車に乗せてもらう。

 杉岡は今年65歳。地元で歯科医を開業しているが、日本発達支援サッカー協会の代表理事も務めており、最近はそちらのほうが忙しいらしい。今西への取材も、この人の協力がなければ実現は難しかっただろう。

「昨年末、Eピース(エディオンピースウイング広島)でレジェンドマッチがあって、今西さんもいらしていました。教え子たちに囲まれて、お元気そうでしたよ」

 ハンドルを握る杉岡の言葉に頷きながら、今年で84歳となる「育将」の来し方を思う。

 1941年生まれの今西は、現役時代に東洋工業のDFとして鳴らし、ささやかではあるが元日本代表のキャップも有している。そんな彼のキャリアの真骨頂は、サンフレッチェ広島のGM時代であろう。選手のスカウティングや育成、チーム強化のための親会社との折衝など、わが国におけるGMの仕事のベースを作ったのが、今西であった。

 また「育将」の通り名が示すとおり、今西は教育者としても優れた素養を有していた。教え子の名を挙げれば、森保一、高木琢也、風間八宏、小林伸二、片野坂知宏、上野展裕、森山佳郎などなど。さらに指導者の抜擢についても、この人が日本サッカー界に果たした役割は計り知れない。

 有名な例を挙げると、マツダSC監督時代にオランダからコーチとして招いたハンス・オフトは、のちに日本代表初の外国籍監督となった。そして1997年のワールドカップ(W杯)アジア最終予選で、当時監督だった加茂周の更迭と岡田武史のコーチからの昇格を主張したのも、当時JFAの強化副委員長だった今西である。

「育将」の原点となったマツダでの寮管理責任者時代

今西和男とは半世紀以上の付き合い。現在は福島県いわき市に暮らす高田豊治は、東日本国際大学サッカー部の総監督を務めている 【宇都宮徹壱】

 日本サッカーに、さまざまな功績と人材を残した今西。「育将」としての原点を探ると、それは意外にもマツダ(当時は東洋工業)の独身寮の寮長時代にあった。現役引退から間もない1969年、28歳の時である。

「今西さんに誘われて東洋工業に就職した時、すでにあの方はサッカーの現場から離れて寮長をされていました。私が配属されたのは、福利厚生部住宅係の寮管理グループ。今西さんは同郷で、東京教育大(現・筑波大)の大先輩でした。サッカーの指導でも大変お世話になりましたが、実は職場でも直属の上司だったんです」

 そう語る高田豊治は、1948年生まれで今西より7歳下。1971年に東洋工業に入社し、現役時代はMF兼DFとして活躍した。引退後は指導者に転じ、サンフレッチェ広島の育成部長として、今西と共にアカデミー組織を整備。その後はJFA(日本サッカー協会)理事に転じるも、2003年には今西に代わってサンフレッチェのGMに就任している。

 サンフレッチェを離れてからは、JFA理事時代に立ち上げに関わったJヴィレッジの取締役副社長となり、そのまま福島に移住。77歳となった今も、東日本国際大学サッカー部の総監督を務めている。

「今西さんからは多くのものを学びました」と語る高田だが、半世紀を超える付き合いの中で、特に記憶に残っているのがマツダの寮長時代だった。もっとも独身寮といっても、現代の感覚とは規模感が違う。

「何しろ高度成長期の時代で、会社としてもどんどん若者を採用していました。最盛期には、全部で9つの寮があって7000人を超えていました。しかも、高卒や中途採用の若者ばかり。喧嘩とか脱走とか、自殺した寮生もいましたね。毎日のように問題が発生して、管理する側としては本当に大変だったんですよ。そうした中、今西さんが重視したのが、寮生による自治意識萌芽のための教育でした」

 それまでのトップダウンによる管理を改め、今西は「寮兄制度」による自主管理を導入。寮生の協調性やコミュニケーションを醸成させるために、休日にはスポーツ大会や野外キャンプを企画した。何とも牧歌的な、昭和の職場風景のように感じられるかもしれない。が、7000人規模の社員寮の自治を確立するために、今西は必死であった。

 一方、寮生への教育としてよく知られるのが「話し方教室」と呼ばれる、リーダーシップ研修。その目的について、今西和男著『聞く、伝える、考える。私がサッカーから学び人を育てる上で貫いたこと』から引用しよう。

《この研修で大切にしたのは「寮生たちの話を聞く」ということだった。(中略)一方的に若い社員に対してこちらの意見を押し付けるのではなく、「彼らに発言する機会を与え、それをしっかり聞くことだ」と。》

 高田自身も「話し方教室」を担当。相手に伝わる話の組み立て方や、聞き手の反応を考慮したコミュニケーション方法は「その後の指導現場でも大いに役立ちましたね」と振り返る。こうした「サッカー選手である前に、ひとりの社会人であれ」という今西の哲学によって、彼の門下からは多くの優秀な指導者が輩出されることとなった。

1/2ページ

著者プロフィール

1966年生まれ。東京出身。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て、97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」をカメラで切り取る活動を展開中。著書に『ディナモ・フットボール』(みすず書房)、『股旅フットボール』(東邦出版)など。『フットボールの犬 欧羅巴1999−2009』(同)は第20回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。近著に『異端のチェアマン 村井満、Jリーグ再建の真実』(集英社インターナショナル)。宇都宮徹壱ブックライター塾(徹壱塾)塾長。

新着記事

編集部ピックアップ

コラムランキング

おすすめ記事(Doスポーツ)

記事一覧

新着公式情報

公式情報一覧

日本オリンピック委員会公式サイト

JOC公式アカウント