「育将」今西和男へのインタビューで知りたかったこと 【8月集中連載】広島“街なかスタジアム”誕生秘話(04)
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ひろしまゲートパークに隣接する、おりづるタワーの屋上展望台から見た、原爆ドームと平和記念公園。広島の中心街は川が多いことがわかる
【宇都宮徹壱】
今西和男が日本サッカー界に果たした役割とは?
しっかり下準備さえしていれば、どんな相手でも自信を持って向き合うことができる。そんな自負と自信が持てるようになって久しい。それでも年に数回、気持ちの張るインタビューの現場というものがある。2025年1月24日、その日は広島市にて、今西和男と対峙することになっていた。
東京から新幹線で4時間かけて広島駅に到着。大寒を過ぎたばかりの広島は、りんとした冷たい空気が張り詰めていた。ホテルに荷物を預けてから、今回の取材のアテンドをしてくれた、杉岡英明の車に乗せてもらう。
杉岡は今年65歳。地元で歯科医を開業しているが、日本発達支援サッカー協会の代表理事も務めており、最近はそちらのほうが忙しいらしい。今西への取材も、この人の協力がなければ実現は難しかっただろう。
「昨年末、Eピース(エディオンピースウイング広島)でレジェンドマッチがあって、今西さんもいらしていました。教え子たちに囲まれて、お元気そうでしたよ」
ハンドルを握る杉岡の言葉に頷きながら、今年で84歳となる「育将」の来し方を思う。
1941年生まれの今西は、現役時代に東洋工業のDFとして鳴らし、ささやかではあるが元日本代表のキャップも有している。そんな彼のキャリアの真骨頂は、サンフレッチェ広島のGM時代であろう。選手のスカウティングや育成、チーム強化のための親会社との折衝など、わが国におけるGMの仕事のベースを作ったのが、今西であった。
また「育将」の通り名が示すとおり、今西は教育者としても優れた素養を有していた。教え子の名を挙げれば、森保一、高木琢也、風間八宏、小林伸二、片野坂知宏、上野展裕、森山佳郎などなど。さらに指導者の抜擢についても、この人が日本サッカー界に果たした役割は計り知れない。
有名な例を挙げると、マツダSC監督時代にオランダからコーチとして招いたハンス・オフトは、のちに日本代表初の外国籍監督となった。そして1997年のワールドカップ(W杯)アジア最終予選で、当時監督だった加茂周の更迭と岡田武史のコーチからの昇格を主張したのも、当時JFAの強化副委員長だった今西である。
「育将」の原点となったマツダでの寮管理責任者時代
今西和男とは半世紀以上の付き合い。現在は福島県いわき市に暮らす高田豊治は、東日本国際大学サッカー部の総監督を務めている
【宇都宮徹壱】
「今西さんに誘われて東洋工業に就職した時、すでにあの方はサッカーの現場から離れて寮長をされていました。私が配属されたのは、福利厚生部住宅係の寮管理グループ。今西さんは同郷で、東京教育大(現・筑波大)の大先輩でした。サッカーの指導でも大変お世話になりましたが、実は職場でも直属の上司だったんです」
そう語る高田豊治は、1948年生まれで今西より7歳下。1971年に東洋工業に入社し、現役時代はMF兼DFとして活躍した。引退後は指導者に転じ、サンフレッチェ広島の育成部長として、今西と共にアカデミー組織を整備。その後はJFA(日本サッカー協会)理事に転じるも、2003年には今西に代わってサンフレッチェのGMに就任している。
サンフレッチェを離れてからは、JFA理事時代に立ち上げに関わったJヴィレッジの取締役副社長となり、そのまま福島に移住。77歳となった今も、東日本国際大学サッカー部の総監督を務めている。
「今西さんからは多くのものを学びました」と語る高田だが、半世紀を超える付き合いの中で、特に記憶に残っているのがマツダの寮長時代だった。もっとも独身寮といっても、現代の感覚とは規模感が違う。
「何しろ高度成長期の時代で、会社としてもどんどん若者を採用していました。最盛期には、全部で9つの寮があって7000人を超えていました。しかも、高卒や中途採用の若者ばかり。喧嘩とか脱走とか、自殺した寮生もいましたね。毎日のように問題が発生して、管理する側としては本当に大変だったんですよ。そうした中、今西さんが重視したのが、寮生による自治意識萌芽のための教育でした」
それまでのトップダウンによる管理を改め、今西は「寮兄制度」による自主管理を導入。寮生の協調性やコミュニケーションを醸成させるために、休日にはスポーツ大会や野外キャンプを企画した。何とも牧歌的な、昭和の職場風景のように感じられるかもしれない。が、7000人規模の社員寮の自治を確立するために、今西は必死であった。
一方、寮生への教育としてよく知られるのが「話し方教室」と呼ばれる、リーダーシップ研修。その目的について、今西和男著『聞く、伝える、考える。私がサッカーから学び人を育てる上で貫いたこと』から引用しよう。
《この研修で大切にしたのは「寮生たちの話を聞く」ということだった。(中略)一方的に若い社員に対してこちらの意見を押し付けるのではなく、「彼らに発言する機会を与え、それをしっかり聞くことだ」と。》
高田自身も「話し方教室」を担当。相手に伝わる話の組み立て方や、聞き手の反応を考慮したコミュニケーション方法は「その後の指導現場でも大いに役立ちましたね」と振り返る。こうした「サッカー選手である前に、ひとりの社会人であれ」という今西の哲学によって、彼の門下からは多くの優秀な指導者が輩出されることとなった。