京伝と蔦重の筆禍(一)

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 寛政2年(1790)、出版物取り締まり令が発せられて、遊里の趣きを描写した洒落本(しゃれぼん)を禁じたが、蔦屋重三郎は、利益を思う故に、京伝をそそのかして、またもや二種の洒落本を綴らせて、その上袋に「教訓読本(よみほん)」と記して、3年の正月に印行した。それは、『錦の裏』(吉原の洒落本)と『仕懸(しかけ)文庫』(深川の洒落本)という二種の中本(ちゅうほん。大半紙2つ裁ちの大きさ)である。この洒落本は、京伝が特に良く遊里の趣を描写したので、甚しく行われて、板元蔦重の儲けは大きかった。

 このことが官府に聞こえたのであろう、この年の夏5、6月の頃、北町奉行初鹿野(はじかの)河内守殿の御番所へ、この洒落本に関わって出版を許した地本問屋行事の2人(伊勢屋某と近江屋某)、並びに『錦の裏』と『仕懸文庫』の版元の蔦屋重三郎、作者の京伝事、京橋銀座町一町目家主(いえぬし)伝左衛門の倅の伝蔵を召し出され、

 「去年、制止した趣旨に従い申さず、遊里の事を綴り、あまつさえ「教訓読本」と記して印行した事は、不埒である」

と、たびたびお調べがあったので、版元および作者たちは、

 「全く販売の儲けに迷い、御禁制を忘却いたしました事は、不調法至極で、今さらに後悔し、恐れ入り奉ります」

と、等しく陳謝したので、その罪をお定めになり、行司の二人は軽追放(江戸の十里四方以内に居ること禁止)、版元重三郎は身上(しんしょう)半減の闕所(けっしょ。財産の半分を官に没収され、家屋敷をも没収されること)、作者伝蔵は、手鎖(てじょう。手錠)五十日にして、許された。

(馬琴『近世物之本江戸作者部類』。岩波文庫版116、7頁)

 

 

 『錦の裏』、花魁(おいらん)夕霧と、その隠し男伊左衛門の挿絵。

 夕霧の身請け談には、遊女と結婚した京伝自身の思いが託されている。

 

 

 蔦重「晒落本類目録」。

 こんなに洒落本を刊行していたら、潔癖家の松平定信に睨まれる筈だよ。

 京伝のみならず、唐来参和や朋誠堂喜三二の作品もあるね。「洒落」とあるべき所を「晒落」と表記しているのは、筆禍を警戒しての事でしょうが・・・。

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