『錦の裏』と『仕懸文庫』、及び以前に刊行された洒落本(前回の写真に掲げた、蔦重の洒落本刊行書目に見える物)も、すべて絶版を仰せつけられた。地本問屋行事の二人(伊勢屋某と近江屋某)には、蔦屋から密かに合力金(お見舞金)を贈った。版元の蔦屋は、元来、大腹中(豪胆)な男であるから、さほど恐れ入った様子は見えなかったが、京伝は深く恐れて、それより謹慎第一の人となった。
寛政三年(1791、京伝31歳、馬琴25歳)の初冬10月の頃、手鎖が免除されて後、例の版元の蔦屋や鶴屋喜右衛門などが明春正月開版の黄表紙の原稿を求めて已まないが、京伝も年来の義理もあるので、辞退することができない。けれども、時節は遅れているし、また、謹慎の影響があるため筆硯に親しめない。このため、馬琴が密かに代作し、あるいは京伝が立てた趣向によって、専ら著述を助けたので、4点の黄表紙が1か月余りにして稿し終わり、翌4年に開版することができた。版元は、この事を知らない。その冬に、京伝が著述した黄表紙は、『実語経幼稚講釈(じつごきょうおさなこうしゃく)』、『竜宮羶鉢木(たつのみやこなまぐさはちのき)』など、あるいは教訓物(『実語経』)、あるいは昔話(謡曲「鉢の木」)を題材として作ったものであった。
『竜宮羶鉢木』(全3冊)の第1冊の最初は、次の如くである。
「話説す、竜王 都を青海に建つ。竜宮(たつのみやこ)と名づく。繁華富貴、那(か)の二丁町(吉原)に減(おと)らぬ。浦島は生(たちやく)、乙姫は旦(おやま)、鰒(ふぐ)は丑(かたきやく)、亀は末(じつあく)、原(も)とこれ戯子的脚色(わざおぎのしくみ)に似たり。天地人外に一戯場を観了(みる)。詩有り道(いわく)、
青海染藍引幕連 青海 藍(あい)を染むる 引幕連(ひきまくれん)
龍宮城下戯場羶 龍宮 城下 戯場(けじゃう)羶(なまぐさ)し
渹渹波鼓有蘆笛 渹渹(ぐわうぐわう)たる波の鼓 蘆笛(あしのふえ)有り
蜃気楼台大仕懸 蜃気楼台 大仕懸(おほじかけ)」
「生(たちやく)」、「旦(おやま)」、「丑(かたきやく)」、「末(じつあく)」は、中国の戯曲用語であり、畠中観斎の中国戯曲の案内書『唐土奇談』(寛政2年刊)に説明される。勉強家の馬琴がそれを利用し、清の戯曲作者李漁(笠翁)の『玉掻頭伝奇』を翻案して、『曲亭伝奇花釵児(はなかんざし)』(文化元年、1804年刊)を著したことは、拙著『日本近世小説と中国小説』を参照されたい。そのように、この時期、馬琴が中国戯曲を勉強していたことをも考慮すると、この作品は、馬琴の言う通り、京伝の作品と言うよりも、馬琴の代作であったろう。少なくとも、上の第1冊第1丁表の序と詩とは、京伝のなしえないものといえよう。
『竜宮羶鉢木』第三冊の、刊記に相当する部分は、以下の如くだ。
京傳作
雪の日や 鰒に價(あたへ)の銀世界
寛政五癸丑春
ここには版元名が見えないが、各冊の題簽には「通油町 板元 つるや」と明記されている。句意は、雪の日には、鰒酒で暖まろうと値段の高い銀を張り込む銀世界だ、というものだろう。ここでも京伝は、「京伝鼻」で描かれている。