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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神に属する者ー異端(グノーシス)との戦い」 ヨハネの手紙一5章10~21節

2020-09-11 23:08:21 | キリスト教

            「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(ヨハネ第一の手紙5章19節)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

                日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第十五主日  2020年9月13日(日)     午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

                              礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 214(わが魂(たま)のひかり)

交読詩編    65(沈黙してあなたに向かい、賛美をささげます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネの手紙一5章10~21節(新p.446)

説  教  「神に属する者異端(グノーシス)との戦い」   辺見宗邦牧師 

祈 祷                               

讃美歌(21) 521(とらえたまえ、われらを)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

                  次週礼拝 9月20日(日)午後5時~5時50分  

                  聖 書  ペトロの第一の手紙2章11~25節

                  説教題   「上に立つ人々」

                  讃美歌(21) 476 459 27 交読詩篇 23

     本日の聖書 ヨハネの手紙一5章11~20節

 10神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。11その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。12御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。13神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。14何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。15わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。16死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。17不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。18わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。19わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。20わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。21子たちよ、偶像を避けなさい。

   本日の説教

    ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、用いられている用語や表現などが極めて似ているところから、同じ教会(仮に「ヨハネの教会」と呼んでいる)の中で成立したと考えられています。ヨハネによる福音書は、イエスの十二弟子の一人のヨハネの権威の下に、ユダヤ教の会堂の人達に対してキリスト教の信じる神の独り子イエス・キリストを明らかにするために、紀元80年から後半から90年頃にかけて書かれました。一方、ヨハネの手紙(一、二、三)は、この教会で福音書の読み方について福音理解の誤りが生じ、異端の問題が危機として襲いました。これに対応するために書かれたのがヨハネの手紙です。この手紙は、この教会の指導的位置にあったユダヤ人キリスト者の長老が、真の信仰を土台に教会を再建するため、紀元100年前後に書いた勧告や手紙です。

ヨハネの手紙一は手紙というより勧告であり説教のようなものとして書かれています。ヨハネの手紙二、三は、長老が個人に宛てて書いた短い手紙です。書かれた順序としては、ヨハネの手紙三が最初で、つぎに手紙二、最後に手紙一が、手紙というよりは神学的主張と勧告として書かれたと見られています。手紙三と二は、個人に宛てられた短いものです。

ヨハネの手紙一は、霊的熱狂主義的な異端の輩が教会から出て行った後に書かれています(2・19)。しかし、まだ異端に惑わされ魅かれている者たちもあり、動揺は沈静化していなかったので、その読者たちに、彼らの経験した分裂の神学的な意味を明らかにし、教会に踏みとどまり、正しい福音理解に基づいて教会を再建するよう呼びかけています。

ヨハネの手紙で問題とされている異端とは、グノ―シス派のキリスト者です。グノーシスとはギリシア語で「知識」を意味しますが、グノーシス派は「霊知」という意味で用い、その霊知を持つことによって救われるとする思想・宗教運動が当時ギリシア・ローマの世界に広く広がっていました。その「霊知」をもたらすのが「霊のキリスト」であるとするグノーシス派の影響がキリスト教会の中にも深く浸透していました。

グノ―シス派は次にのような主張をしていました。「真の至高神」から神々が生じたが、その中の一人の神が堕落し、悪神となり、私たちの住む宇宙を創造した。そのため宇宙に存在するものはすべて罪悪性を持っている。人間の肉体の中にある魂には、「神的霊」が宿っており、真の至高神とつながっている。しかし「神的霊」は肉体と魂の中に閉じ込められている。この「神的霊」を救い出すために至高神は神の子「霊なるキリスト」をこの世に遣わした。「霊なるキリスト」が与える「霊知(グノーシス)」を得ることで、「神的霊」は眠りから目覚め、人間の肉体や魂から解放されて宇宙の中を上昇し、真の至高神のいる光の領域に復帰する。

人間イエスがバプテスマのヨハネによる洗礼を受けたとき、霊なるキリストが彼の上に下り、霊なるキリストが人間イエスを通してさまざまな働きをし、人に霊知を授け、霊なるキリストは、イエスが十字架にかけられて死ぬ直前にイエスを離れ天に帰られた。このキリストを信じ、その教えられた霊知を受ける者は救われる。

このように人間イエスと霊なるキリスト、肉と霊を分離して考える霊肉二元論がグノ―シスの思想です。グノーシス派のキリスト者は霊を重んじ肉を軽んじたが故に、ある場合には極めて禁欲的―肉を殺して霊に生きるーであり、また他の場合は無倫理的放縦―救われるのは霊であって肉はどうでもよいと考えられたが故にーであったといわれます。

 この異端は神についての知識(グノーシス)を誇り、特殊な霊的体験を通して神的なものとの交わりに達することを宗教体験とし、しかも二元論的な傾向から肉的地上的なものについては軽視し、隣人との愛やキリスト者としての生活は乱れ、福音理解についても、天地の創造者なる真の神を否定し、人となって誕生した救い主キリストとその人間の罪を贖う十字架の死を否定するものでした。

この異端は神の叡知(グノーシス)をもっていると自称しながら実は知りません(2・4)。それは愛を知らないことによって明かです(4・8)。彼らは兄弟を愛さない(4・20)。また神との交わりを誇り(1・6)、彼におる」と唱え(2・6)、「光の中にいる」と自負しているが、兄弟を憎み、実生活の様相は闇の中にいます(2・9)。特殊な霊的な体験をしているというが、その霊が神から出ているかどうか疑わしい(4・1以下)。彼らは自分たちには罪がないといい(1・8)、イエスがキリストであることを否定し(2・22以下)、神の子であることを否定します(4・15、5・5)。またキリストの受肉を否定し(4・2)、イエスが受洗から十字架までの生涯を歩まれたことを否定します(4・15、5・5)。

ヨハネの手紙一は、5章から成る、親しみのある手紙です。信徒の「交わり」を教え、その基礎は「父と御子イエス・キリストとのまじわり」(1・3)です。この交わりにある者は、<光の中を歩く者>、キリストの戒めである「愛」の実行者です。この手紙は愛について単純に強く教えています(3・16-18)。4・7-21は、キリスト教の愛の本質を示した有名な部分です。愛は神から出て、キリストの十字架において具体化されています。このキリストの愛にならって兄弟を愛する者が、神を愛し神を信じる者です。この手紙も、当時の教会を悩ましていたグノ―シス的異端と戦い、イエスの受肉と地上の生活を強調し、放縦な自由主義を戒めています。

5・5では、<だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか>と力強い問いかけがなされています。<イエスが神の子であると信じる者>と言うのは、おそらく2・22-23に見られるイエスのメシア性を否定する者たち、御父と御子を認めないという異端の立場に対立して語っている言葉と推定されます。

5・6以下には、イエス・キリストは、<水と血>とをとおってこられた方です、とあります。<水と血>をとおってこられた方とは、バプテスマと十字架の死を受けられ方である、ということです。つまり、イエス・キリストが完全に人間として生まれ、人間として死んだ、まことの人となられた方(受肉者)であるということです。イエス・キリストの十字架の死によるわたしたちの罪の赦し(罪をあがなう死)の事実を表すと同時に、この手紙の読者である信徒たちにとっても、現在、彼らがあずかるバプテスマと聖餐において生けるイエス・キリストとして、その人々の許に来ることが起こることを指し示していると考えられます。偽預言者たちのさまざまな異端の考え方を否定しています。

その証し(確かであるという証明)をするのは、真理の御霊です。イエス・キリストという歴史的人物・その生涯を通しての示される聖霊の証しです。また。洗礼や聖餐という聖礼典において現在も確かめることができる、御子について立てられた証しです。<水>と<血>と<御霊>の三つが一致して御子について立てられた証しです。

これは地上の証言ですが、神の証しはさらにまさっています(9節)。その内容については語っていませんが、福音書から類推すると、その証しの内容は十字架と復活であり、それを通して神とイエス・キリストと教会(弟子たち)とが一つであると考えられます。

そして、今日の聖書の箇所に入ります。

神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。」(10節)

神の子を信じる人と神を信じない人とが対比されています。当然、イエスを神の子と信じる人は神を信じることになり、その人の内には水と血と霊との三つが働いていることを指しています。神が御子イエス・キリストを十字架につけてまで人々の罪を赦し、救おうとされたのに、その証しを信ぜず、神の愛を受け入れない人は、神を信じられず、その頑なさによって、神の証しを偽りだとし、神御自身を偽り者としていることになるのだと警告しています。これは直接にはグノーシス的キリスト者に対する厳しい批判なのです。彼らはイエス・キリストが血を通って来られたこと、つまり十字架における神の厳しい裁きと無条件の愛を受け入れないからです。

その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」(11節)

<その証し>の内容とは、イエスの十字架のあがないの死による罪の赦しと死者からの復活において、神が人間に与えてくださったのは<永遠の命>を生き始めるという恵みです。そして、<この命が御子の内にあるということです>。

御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。」(12節)

イエス・キリストの十字架を通して私たちの罪と虚無を、神との断絶を、生の無意味さを徹底的にあばき示されました。これが神の裁きである。しかし、この私たちの現実を認めることが出来るのは、私たちがイエス・キリストの復活を通して、この罪と虚無と生の無意味さから解放され、私たちの生が神によって認められていることを知る時のみです。私たちはこれをただイエス・キリストを通してのみ知るのです。

神と人との交わりが和解を得て回復されたのは御子イエス・キリストの贖罪(罪を赦すイエスのあがないの死)によるのだから、イエスぬきには永遠の命をもつことは出来ません。キリストと結ばれていない者には永遠の命はありません。

神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」(13節)

13節はこの手紙の「結語」と言われます。全体が回顧されつつ、執筆の目的が改めて語られます。この手紙の読者たちは、惑わす者や偽預言者たちの活動によっても、ある者たちのように教会から出てゆくことをせず踏みとどまった人々です。そのあなたがたにとっては<永遠の命>を得ていることを悟らせ、その恵みの事実について気付かせることが手紙を送った動機であり目的だと述べています。

永遠の命は終末において、将来与えられるものというのではなく、イエス・キリストがこの世に来たことによって始まった終末の時の中で、主イエスによって与えられる永遠の命に生かされるということであって、罪の結果としての死、滅びを経験しないということです。生きるにも、死ぬにも、イエス・キリストと共にあり、その命に与って生きるということです。

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」(14節)

<神の御心(みこころ)>に適う願いであるなら、どんな願いでも神は、その願い、その祈りを聞き入れてくださる、というのが神に対するわたしたちの確信です、と述べています。<神の御心に適う>とは、「わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを、行っているから」(3・22)です。「その掟とは、キリストを信じ、互いに愛し合うことです」とあります。神に対するこの確信と信頼をもって祈ることができることはなんと力強い励ましでしょうか。このことを信じて忍耐深く祈り続けましょう。人間の自然的欲求の赴くままに何を祈ってもよいという事を意味してはいません。人間の欲望に奉仕する神は偶像です。

わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(15節)

人間にとって根源的な必要は神との交わりの回復でした。それを人間の罪が妨げていました。その罪を御子は取り除いてくださったのです。その根源的な必要、祈りを神は聞き届け、その願いをかなえてくださっておられます。そのことが基盤にあるので、他のすべてのことにおいても、<神に願ったことは既にかなえられていることも分かる>、というのです。

死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。これは、死に至らない罪を犯している人々の場合です。死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません。」(16節)

<死に至らない罪>と<死に至る罪>とが対比されています。<死に至る罪>とは、おそらくキリストを否定する罪を言うようです。具体的には、反キリスト、惑わす者、偽預言者らとその輩を指しているようです。

<死にいたらない罪>を犯している兄弟たちへの執り成しの祈りが勧められています。弱さや無知や過失によって犯された罪に苦しむ人を見たら<願い求めなさい>と勧めています。キリスト者の交わりとは、このようなとりなし、またとりなされる祈りの交わりに他なりません。こうしてこそ罪人は<命>へと回復されるのです。

不義はすべて罪です。しかし、死に至らない罪もあります。」(17節)

 1章9節では、「自分の罪を公に言い表すなら、神は…罪を赦し、あらゆる<不義>から清めてくださいます」とあります。また、3章4節で言われているように、<不義>とは、法に背くことです。御子は罪を除くために現れたのです。

次に、「わたしたちは知っています」と、三つの確信が語られます。

わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」(18節)

第一の確信は、<神から生まれた者>は罪を犯さないということです。その根拠は、キリストが神と共にその人たちの中に住み一体となってくださるのだから、その保護により、悪魔も手をふれることができない、と言っています。

わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」(19節)

第二の確信は、わたしたちは<神に属する者>ですが、この世は悪魔と罪と死が支配している闇の世界です。しかし、この闇に打ち勝つ勝利がすでにイエス・キリストの十字架と復活によって確定されていることを信じ、そこに希望をおいて証し続けるのが神に属するわたしたちです。

神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(20節)

第三の確信は、神の子イエスがこの世に来てくださって、<真実な方>である神を示し、神を知る力、すなわち御霊を与えてくださいました。そして信じる者は、この<真実な方>なる神の内におり、また、<その御子イエス・キリスト>の内におると言うのです。神とキリストと教会との一体性がここでも明言されています。この方は、<真実の神であり、永遠の命>です、イエスを神とする告白があります。キリストもその本質においては、父なる神と区別はないことを表しています。

子たちよ、偶像を避けなさい。」(21節)

最後に、<偶像を避けなさい>との勧めがなされます。<偶像>とは、神ならぬものを神として拝することです。旧約聖書の歴史は偶像崇拝との戦いでした。今ヨハネの教会において戦われているのも、神ならぬものを神とする異端との戦いなのです。そして、わたしたちの戦いもまた<偶像>との戦いです。この日本にはまことの神でない偶像が祭られ、偶像を拝する人が満ちています。神仏の偶像だけではなく、「貪欲(むさぼり)」もまた、偶像(コロサイ3・5)です。わたしたたちはこれらの偶像を避けなければなりません。

信仰者の世に生きる現実は、罪の世のただ中で、自分の弱さのために罪を犯す事態に引きずり込まれて悩み、失望することがあるかもしれません。しかし、信仰者は聖霊によって、「イエスは主である」と告白し、その罪を赦された者であり、洗礼において古い自分はすでに十字架につけられ、主イエスとともに死んで葬られ、主イエスの復活にあずかって新しい命に生きている者です。キリストと一体にされているゆえに、悪魔も手を出すことはできないことを覚えつつ、神に属する者(5:19として神の栄光を現す生涯を送りましょう。

 

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