「顛末のようなもの」
映画「レイニーブルー」で、ぼく自身に起こったこと、いち録音ミキサーの身に起きたごく私的なことがらと、その疑問点を「公開質問」というかたちで、noteという場を使ってたずねてみました。
直接の連絡を一方的に遮断されたので、こうした手段を取らざるを得なかったことは、さきの投稿で書きました。
書きっぱなしで、たずねっぱなしで、その後の顛末がどうなったかと案じているひともいるかもしれません。あらためて記しておかなければと思い、ペンをとりました。
とはいえ報告できるような、すとんと落ちる「顛末」というのはいまだにありません。8月初旬の現在でも、製作委員会側は代理人をたてておらず、話し合いは行われていません。
その間も粛々と「レイニーブルー」の上映は続き、すでに東京など、興行を終えている地域もあります。スタッフサイドが求めている話し合いと交渉を意図的に無視、拒絶することで、時の経過とともに、なし崩しに権利やお金のことが有耶無耶になってしまうのではないかとさえ危惧します。
そうしたなかで個人的なレベルでの進展がありました。
2回のnoteの投稿のあと、プロデューサーの濱島さんと柳監督から、それぞれLINEが届いたのです。
なんか連絡がきただけで、うれしくなるというか、書いてよかったと、まずは思いました。監督の柳さんとは実に10ヶ月ぶりのコミュニケーションになります。
最初に連絡をくれた濱島さんとはLINEを通じてのやりとりをしました。
濱島さんからは、弁護士に宛てた文書の内容と重複するものや、これまでなんども聞かされてきた渡辺紘文さんへの恨み言と、この事態を招いた言い訳のたぐいが連綿と並べられているばかりでした。
返信する際に、そのひとつひとつに反論したり、意見を述べたりするのではなく、ぼくがnoteを通して問いかけたいくつかのシンプルな質問への答えのみを求めました。
北原慶昭はこの仕事のなかでパワハラ、セクハラ行為をしましたか?
録音部が仕上げ作業の途中で降ろされた理由はなんですか?
「レイニーブルー」は、だれが、どこのスタジオでダビングされましたか?
製作委員会はどういった団体やひとで構成され、管理されているのですか?
それでもなお、いかに自分たちが正当であるかとか、どんな被害をこうむったか、ひどいめにあってきたかという、極めて感情的な主張が返されてきます。それをいったんわきに置いてもらって、ぼくがたずねていることだけを答えてほしいと冷静にお願いしました。
それに対して、論点をずらしたり、はぐらかしたりしては、なかなか答えてもらえません。
わたしたちが北原さんをおろしたことはなく、北原さんが自分からおりたのだという認識だと言われました。
このことにだけは少し反論させてください。9月にはいってセクハラ、パワハラ行為があり、それが原因で、これ以上仕上げチームとは一緒にできないので、作業を終了するという一方的な通達がひとづてにありました。
12月には電話で濱島さんに、「解雇」であるなら、これまでの整音作業の分と約束していた追加撮影のギャラを合算した請求書を出すので、その精算をもって、終了としたいと伝えました。
そう話したことが、ぼくが自分からおりたということの根拠になっているかと思いますが、当の請求書が今日に至るまで無視され、1円の振込もないのですから、おりるにもおりられないというのが実情です。
もしもの話ではなく、確実な話として、ちゃんと請求した金額が振り込まれていれば、ぼくは納得して「レイニーブルー」からおりることができたのです。もし振込があれば、このようなnoteを書くことも、弁護士の先生にお願いすることも、共同声明に署名することもなかったです。
なんらの説明もしない、ギャラは払わない、映画制作、映画興行のルールを逸脱した横暴な行為を繰り返しておきながら、スタッフが自分からおりたと思っていたという。
説明もなにもしないのは、あたかもすでにおりて、いないスタッフという扱いだったからのようです。だからこのnoteを書くまで、連絡する必要を感じていなかったということなのでしょう。
なんどかのやりとりのなかで、最後に以下の二つのことを、製作委員会の公式な見解として認めました。
1、 北原慶昭のパワハラ、セクハラ行為の事実はない。
2、 「レイニーブルー」は、最終のダビング作業をしていない。
公の場でたずねたので、公の場、たとえば公式ホームページなどで回答してほしいとお願いしましたが、それはできないということで、ぼくのnoteに記載することになりました。
柳監督からのLINEでは、端的で理路整然とした説明がされました。そのなかでなぜぼくが仕上げ作業からはずれたかに言及した箇所がありました。柳監督はこの映画の制作過程で、ずっとパワハラ、セクハラに悩まされてきたそうです。そういった行為を見て見ぬふりをして、まったく注意しない北原は仲間なのだと思ったと書いてありました。
ぼくは、言い訳ではなく、ほんとにそのようなパワハラ、セクハラ行為が監督に対してあったとは、まったく思っていませんでした。柳監督と渡辺さんは仲が良く、ときにぶつかることはあっても、ふたりで力を合わせてこの映画を作っているのだと、そう思っていたからです。
セクハラ、パワハラという突拍子もないことばをきいたのは、9月のことで、いったいどういうことで、なにがあったのかと驚いたくらいです。
しかしそれは突発的なものではなく、監督のなかではずっとあったことだったというのです。それを見ぬふりで加担したという認識をぼくやほかのスタッフに対しても持っていたようです。だからこそこのチームではやれないと思い、遮断しパージしたと、そういう主張でした。
しかし監督はLINEのなかで、それは自分の間違いであったと、申し訳なかったと、あらためてぼくに対して謝罪をしました。
こうしてはじめて状況や起こったことの説明が、監督からあったことで、やっと少し正常になったように感じました。
監督は、その権力を排除に使うのではなく、説明をいくども繰り返しながら、みなを取りまとめ、動かしていく制作の中心軸だと思うからです。
映画はいろんなひとの力で作るものだと、古いのかもしれませんが、ぼくはそう信じています。制作にはコミュニケーションがなによりも大切なのです。それを監督自身が放棄してしまっては、ものを作る土台が失われてしまいます。
今回、ぼくがnoteに公開質問を書いたことで、やっと説明とコミュニケーションが実現しました。
それは大きな成果です。しかし、しかしです。残念なことに、その説明のタイミングが遅すぎたこともまた事実なのです。
監督への返信にも書いたのですが、もし9月の時点で、このような説明が監督からあれば、話し合いがあれば、事態はまったくちがっていたと思うのです。もっと監督の力になれたはずです。そしてそれはぼくだけではありません。みながこの映画のために、なんとかしようと力を合わせたでしょう。監督の豊かな言葉をもって、スタッフの力をまとめあげる努力をしてもらいたかったです。
ところがそうはならず、真逆の方向へと突き進んでしまいました。それは監督の責任であり、過ちだと思います。
この10ヶ月はなんだったのかと思う。ずっと説明と話し合いを求めてきたのは、共同声明を出さざるを得なかったぼくたちのほうでした。
ある日を境に、監督は、すべてを排除して、映像と音を抱きかかえ、自分の思う通りの作品を、自分ひとりの力で作りあげたと、noteや公式ページで宣言しました。
著作者と著作権者である監督と製作委員会は、制作や興行において、極端なことを言えば、なにをやってもかまわないと、リーガルチームからのお墨付きを得ていることも声高に喧伝しています。
そして最初にも述べたように、映画「レイニーブルー」は、映画祭や全国の劇場で公開され、いまも上映が続いています。
権利に関すること、お金のことなど、問題は放置されたまま、なんら解決の方向にも向かっていません。
今の段階では「顛末」と言えるものは、なにもありません。
けれども「顛末のようなもの」はうっすらとですが、見えてくるように思います。
興行の失敗から、濱島さんと株式会社桃は、多額の負債を抱えることになるでしょう。
そして、よしんば裁判となって、スタッフサイドが勝ったとしても、払うお金がないことを理由に支払いは履行されず、上映が終わった映画の権利がその後、いかほどの価値を持ちうるのかはきわめて不透明です。
つまりこの映画で、だれも幸せにならないし、だれの利益にも、だれの悦びにもならないのです。約一年間、ひたすら消耗と疲弊と心労と無為に押しつぶされてきました。これこそがハラスメントではないかとさえ思うのです。
そんななか、ただひとり、映画「レイニーブルー」で、幸せと利益と悦びを得たひとがいます。柳明日菜監督です。
強靭な精神、言葉の力、発信力、実行力、そしてしたたかさは、たしかに「才能」なのだろうと思います。横たわる屍を踏み越えて進むくらいの度量がなくて映画なんぞはできないと、そう言われているようです。
でもそんな映画に、ぼくはまったく興味がありません。まわりを不幸にする映画が楽しいはずもありません。
映画「レイニーブルー」についての「顛末」を語ることはもうないでしょう。うっすらと見えている「顛末のようなもの」を見渡すことで、ぼく自身のひとくぎり、いや、決別としたいと思います。
ここまで、ぼくの長き駄文におつきあいいただき、心から御礼を申し上げます。
ありがとうございました。
録音 北原慶昭


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