ヒミツの胞衣塚

こんばんは、江戸すずめです。

 


今日はこどもの日でしたね~カブトキラキラ

いいお天気で洗濯三昧でした!




さてさて先日、

山の師匠と一緒に南高尾を歩きました富士山キラキラ

 

 

 

そのときに見かけた木柱・石柱について

少し調べてみたので

記録しておこうと思います。

 


学術的な調査ではありませんし、

皇室皇族について批判等するものでもありません。

自分のための覚書です。

 

また、詳しい位置については、

ワタシにはよくわからないので

ご容赦くださいませ。

 

 

長文ですので興味のある方だけどうぞピンクハート

 

 

 

  胞衣塚(えなづか)とは?

 

タイトルに胞衣塚(えなづか)と

書いてしまいましたが、

胞衣(えな)というのは

出産のときに出る胎盤のことで、

胞衣塚というのは

それを埋めたところをいいます。

 

 

胞衣はとても神聖なもので

子供の成長や運命に

深くかかわるものとされていて、

 

縄文時代ごろから、

生まれた赤ちゃんが丈夫に育つようにと

願いをこめて胞衣を埋める風習がありました。

 

 

発掘調査などの際にも

胞衣をいれる容器である「胞衣壺」や

「かわらけ」が出てくるようで

それぞれの時代ごとに

広く庶民の間でも

行われていたことがわかっています。

 

【参考】

姚明希、我部山キヨ子「日本の胎盤(胞衣)処理の歴史」、京都大学大学院医学研究科人間健康科学系専攻紀要 健康科学 第10巻、2014

 

 

 

上流階級の例では、

光格天皇(こうきゃくてんのう、1771-1840)の胞衣塚が京都にあるようですし、

 

都内だと、

6代将軍徳川家宣(とくがわ いえのぶ、1662-1712)のものが

根津神社の境内にあって、

近くで見ることができます。

 

 

 

で、

ワタシがこの胞衣塚に興味をもったのは

いなかたさんのこのブログがきっかけです。

 

 

 

 

こちらの記事も山の師匠に聞きましたニコニコ

 

ほかのアウトドアの記事も

面白いのでぜひ読んでみてくださいね~!

 

 

 

 

  「謎の碑」の正体

 

さて、結論からいいますと

ワタシたちが南高尾で見かけた

「謎の碑」の正体は、

 

秋篠宮、賀陽宮、久邇宮といった

明治~平成生まれの皇族方の胞衣塚でした。

 

 

 

メモ替わりに撮った写真なので

わかりにくいかもしれませんが…汗

 



木柱は右から順に

① 表「第一親王御胞衣」

  裏「平成十八年九月六日御誕生」

だいぶ消えかかっていますが、

その場ではまだどうにか読めました。

誕生日から、秋篠宮家の第一親王悠仁さまのものと思われます。

 

 

② ③

どちらも文字は消えていて読めません。

上記のいなかた氏のブログ画像によれば

②が第二内親王佳子さま、

③が第一内親王眞子さまのもののようです。

 



④ 表「第一王子御胞衣」

  裏「明治三十三年一月二十七日御誕生」

賀陽宮恒憲王(かやのみや つねのりおう、1900 - 1978)のものかと思います。

戦後、皇籍離脱し、賀陽姓を名乗りました。

 




⑤ 表「第一王女御胞衣」

  裏「明治二十八年十一月二十三日御誕生」

こちらは賀陽宮邦憲王第一王女、由紀子女王のもの。

降嫁して町尻由紀子(1895 - 1946)となりました。

 



⑥ 表「第二王女胞衣」

石碑に誕生日の記載がないので、

どなたのものかわかりませんでした。

 

 




小さい石柱は左側から順に。

⑦ 表「琴印」

  裏「大正十五年十二月八日」

誕生日から久邇宮朝融王の第一王女子、正子女王のもの。

皇籍離脱後は、久邇 正子(くに まさこ、1926 - )。

お印の確認はできていませんので推測ですが。

 


⑧ 表「鼓印」

  裏「昭和二年十月」

埋もれていて日付は読めませんでしたが、

10月23日生まれの久邇宮朝融王第二王女子、朝子女王のものかと。

結婚後、島津 朝子(しまづ あさこ、1927- 1964)となりました。

 


⑨ 表「笙印」

  左側面「昭和四年三月二十五日」

倒れてしまっています。

おそらく東久邇宮稔彦王の第四王子、俊彦王(としひこおう)。

のちにブラジルに渡り、多羅間(たらま)姓を名乗ったようです。

 




⑩ 表「賀陽宮」

ほかの碑よりも大きめで立派でした。

誕生日などの記載はなく、

賀陽宮家のどなたのものかはわかりません。

 



 

平成時代は木柱なのに、

戦前のものは石柱なんだなぁと思って

ちょっと時代性を感じましたね。

 

あ、皇族方の誕生日などは宮内庁HPや

新聞検索等でわりとすぐにわかりますよ。

 

 

 

  皇室の儀式?!

 

この胞衣を埋めるという行為ですが…

ちゃんと皇室の儀式として

存在しているようなんですね。

 

 

『皇室制度資料』儀制 誕生

(宮内庁書陵部編纂、2009)によると

 


蔵胞衣の儀とは、吉日・吉方を選んで胞衣を蔵収する儀式である。(中略)

儀式としての蔵胞衣の儀が確認できるようになるのは平安時代以降のことである。

(119ページ)

 


とあります。

 

 

でも、

「皇子ノ胞衣ヲ収ムルノ儀」などの儀式は、

明治43年制定の皇室親族令附式では省かれて、「公的な儀式としては位置づけられなくなった」ともあるので、

今では私的な行事としてひっそり行われているのかもしれません。

 

 

 

それならと思って…


昭和天皇の生涯をまとめた

『昭和天皇実録』(宮内庁、2015)にも

載ってるかな~とパラパラめくってみたらありました!!

 

 

昭和天皇は

明治43(1901)年4月29日生まれですが、

5月5日の命名式に関する記述の最後に

この日の早朝に、

 

 

親王(←昭和天皇のこと)の御胞衣が

青山東宮御所の御茶屋西後の丘に埋葬され、丘上に松三本が植えられる

(『昭和天皇実録』第1巻、12ページ)

 

 

と書かれています。

 

 

また、

今の天皇陛下が生まれたときのことについても、昭和35(1960)年2月23日の記事のなかで

 

 

翌24日、青山御所寒香亭側において

皇孫(←今上天皇のこと)の御胞衣埋納の儀が行われる

(『昭和天皇実録』第13巻、20ページ)

 

 

とありまして、

現代まで脈々と受け継がれている

儀式であることがわかります。

 

 

 

  雑感いろいろ

 

というわけで感想ですが…

 

現代でもこういった

行事や文化をきちんと守っているって

さすが2000年続く

「日本一の旧家」なだけあって

なかなかすごいことだなと思います。

 

 

ネット検索していると

何やら都市伝説のように思われたりも

しているようですし、

 

 

ワタシの師匠も

 

なんかちょっと怖いよ~

 

と笑っていましたけど、

 

 

吉方・吉日を選んで埋めるものですし

子どもの健やかな成長を願うものなので

むしろパワースポットなのでは?

と私は思っています。

 

 

何故、こちらの方々の胞衣が

南高尾の一角に埋められたのか

その理由まではわかりませんけれど、

 

高尾エリアには陵墓もありますし、

ゆかりの深い土地なんだろうなぁと思いました。

 

近代以前のものは、

京都のお山にたくさん埋まっているのかもしれません~

 

 

 

将来、悠仁さまが即位されて

『〇〇天皇実録』が編まれる頃には、

このヒミツの場所も

天皇の胞衣塚として

明らかにされたりするのかな?

 


まぁ、その頃には

今ある木柱も土に還っているでしょうし、

ワタシもこの世にいないと思うので

見届けることはできませんが。

 

 

個人的には、久しぶりに

フィールドワークっぽいことができて

めちゃくちゃ楽しかったです口笛

 

 

 

以上、胞衣塚についての覚書でした。

長文を読んでいただきありがとうございました。

 


信じるか信じないかは、アナタ次第ですよ~(笑)



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  • 胞衣?

    アメブロにもいらっしゃいました!勉強になりました。同時に今上陛下のも存在とあるならば敬宮愛子内親王殿下のも…そしてそして例の如く出自疑惑の……🍂のはどちらに?昭和天皇は第十三の中で今上陛下の胞衣について記載されている駄菓子菓子……🍂については……ハテ?調べれば……JKGが出産したなら書物に記されてある…はず…と…この方のブログではそこまで追及されておらずでも…後に昭和天皇より第十三を頂かれたJKJKGが所々訂正箇所指定…その数結構あるで修正す…まさか🍂の胞衣、勝手に追加してはなかろうか?イヤイヤそれはないだって昭和天皇まだお元気でいらしたしもしそんな指摘しようものなら……だ昭和天皇が御存命のうちはまだ宮内庁は正常運転だっただろうちなみに昭和天皇今上陛下の胞衣は高野山ではない皇位継承者以外は高野山?🍂の子どもたち…3人は高野山…アレレ?

    みかんぽん💜

    2025-07-26 00:53:39

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