2015年 6月10日

古田史学会報

128号

1、網野銚子山古墳の復権
 森 茂夫

2、「短里」の成立と漢字の起源
 正木 裕

3、妙心寺の鐘と筑紫尼寺
 阿部周一

4、長者考
 服部静尚

5、九州王朝の丙子椒林剣
 古賀達也

6,「漢音」と「呉音」
皇帝の国の発音
 阿部周一

7,メルマガ「洛洛メール便」
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古田史学会報一覧

九州王朝説と瓦の考古学 古賀達也(会報125号)
「権力」地名と諡号成立の考察 古賀達也(会報130号)

四天王寺と天王寺 服部静尚(会報126号)


九州王朝の丙子椒林剣

京都市 古賀達也

日本刀と九州年号

 出張で岐阜県関市によく行きます。関市といえば「関の孫六」で有名な日本刀の産地で、今でも日本刀が関市で造られているようですが、日本刀と九州年号に関係があることをご存じでしょうか。
 『刀剣美術』三八四号(昭和六四年、新年号)に掲載された間宮光治さんの「刀剣古伝書と九州年号」によれば、『銘尽正安本写』(刀剣博物館蔵)などに九州年号が散見されることが報告されています。たとえば『佐々木氏延暦寺本銘尽』によれば、「海中 継体天皇御宇、善記年中、二尺三寸剣竜王作」「宗※○1 法清年中、走雲鬼作、号野干剣焼無之夜暗ヲハラス」「長光 師安年中 鬼作、忠崎(ナカゴサキ)三ニ破タリ 長二尺」
「天雲 継体天皇御宇 教到年中、天※○2切作之」といった記事があり、九州年号の「善記(五二二~五二五)」「法清(五五四~五五七)」「師安(五六四)」「教到(五三一~五三五)」「朱鳥(六八六)」が記されています。
 刀剣の作成時期が九州年号で記されており、興味深い史料です。刀剣博物館でそれら刀剣古伝書を実見したいものです。
 この他にも、刀剣古伝書には九州年号に関して面白い史料があり、いつかご紹介できればと思っています。関市への出張のおかげで、間宮さんの論稿を思い出しましたので、ご紹介しました。ちなみに、間宮稿には製鉄加工技術の伝来は北部九州にもあったのではないかとされておられます。
      ※○1は「方」偏に「ム」
      ※○2は「火」偏に「兼」

四天王寺の丙子椒林剣

 古代における「日本刀」で最も著名なものの一つが、四天王寺に伝来した聖徳太子のものとされる「丙子椒林剣」(へいししょうりんけん・国宝)です。この丙子椒林剣は以前から気になっていたのですが、前期難波宮九州王朝副都説や難波天王寺九州王朝建造説の提起により、丙子椒林剣も九州王朝のものではなかったのかという疑いを、近年強く感じています。
 丙子椒林剣に刻まれた「丙子椒林」という文字については、「丙子」の年に「椒林」という人物により作刀されたとする説が有力なようですが、わたしもその理解が最も穏当なものと思っています。
 聖徳太子の時代よりも後代のものですが、『養老律令』の「営繕令」には、「凡そ軍器を営造せば、皆様(ためし)に依るべし。年月及び工匠の姓名鐫(ゑ)り題(しる)さしめよ。」とする記述があり、刀などの「軍器」に製造年月と作者名を記すことが決められています。この律令がそれまでの倭国・九州王朝の伝統の影響を受けていると考えれば、丙子椒林剣の「丙子」と「椒林」を製造年干支と作刀者と見る説は有力だと思われるのです。
 聖徳太子の頃の丙子の年は六一六年ですが、倭国・九州王朝の天子多利思北弧の時代です。「丙子椒林」の文字は金象眼とのことですので、いわゆる一般兵士の実戦用武器というよりは、権力者に捧げられた宝刀ともいうべきものでしょう。とすれば、多利思北弧か太子の利歌彌多弗利に捧げられた可能性もありそうです。そうであれば、「聖徳太子の刀」として四天王寺に伝来所蔵されたのもうなずけます。
 もちろん、これらのことを証明するためには、鉄や金の科学分析などが必要ですが、大和の聖徳太子のもとのされて伝わっている物や伝承は、本来は九州王朝の多利思北弧・利歌彌多弗利のものではなかったかと、まず疑ってかかることから始める必要があると思います。そこから、真実の「聖徳太子」とその歴史が明らかになるはずです。古田史学・多元的歴史観はすでにその研究段階に進んでいるのですから。

 

「丙子椒林剣」国産説

 四天王寺の丙子椒林剣について「日本刀」と「」付きで表記しました。その理由は、丙子椒林剣が国産かどうか判断できなかったことによります。国産でなければ日本刀と言えないからです。厳密な表記としては、製造地を特定しない上古刀と表記するべきという見解もあります。もっともな意見だと思います。
 大阪西区にある市立中央図書館に寄る機会があったので、古代史コーナーを見ていたら、石井昌國・佐々木稔著『古代刀と鉄の科学』という本が目に留まり閲覧しました。

 同書に紹介されていた「兵庫県養父郡八鹿町箕谷2号墳の銅象嵌戊辰年銘大刀」が丙子椒林剣と同形で、「戊辰年五月□」という銘文から六〇八年の作刀とされています。切っ先が「カマス」と称される直線的な形状をしており、丙子椒林剣と一致しています。丙子椒林剣の丙子が六一六年と見られますから、戊辰年銘大刀の様式が進化して丙子椒林剣になったとされています。
 この他にも同様式の大刀が七世紀初頭の古墳から出土していることも紹介されており、こうした史料状況(出土状況)から見て、四天王寺の丙子椒林剣は国産と考えて問題ないようです。正倉院にも同類の大刀があるようですので、これらも九州王朝との関係を含めて見直す必要を感じています。
 なお、水野さん(古田史学の会・代表)から、丙子椒林剣は四天王寺にあった四天王像が持っていたのではないかとする説の存在を教えていただきました。面白い視点だと思いました。
(注)本稿は「古田史学の会」ホームページ連載の「洛中洛外日記」(二〇一二年)より、加筆修正して転載したものです。(古賀達也)


 これは会報の公開です。

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