物音一つしないエントランスを、フェイドは一人歩く。眠りこけるフィルヴィスを背負いながら。
豊饒の女主人での一幕から数十分後。フェイドはディオニュソス・ファミリアのホームへと帰って来ていた。
あの店での酒盛りは数時間に及んだ。既に日付は変わっており、他の団員達は寝静まっている。
この痴態を目撃する者が誰一人として居ないのは、フィルヴィスにとっては不幸中の幸いだろう。
「………………」
などと、思っていると。
「おかえり、二人とも」
待ち構えていたのかと言いたくなるタイミングで、ディオニュソスが出迎えてきた。
ゆったりとした歩調で螺旋階段を降り、フェイドの前まで歩み寄ってくる。
「無事に帰ってきてくれて、本当に良かった」
ディオニュソスの相貌に浮かんでいるのは安堵の表情。至って普遍的な、眷属の帰還を喜ぶ神の反応だ。
フェイドの背中で酔い潰れているフィルヴィスに気付くと、彼は苦笑をこぼす。
「それで、どうだったんだい? 初めての遠征は」
その様子だと、問題なさそうだが。ディオニュソスはそう言い、今回の遠征の結果について尋ねてきた。
「………………」
未確認のモンスターと赤髪の怪人による強襲。理性を持った異端のモンスターとの遭遇。ギルドの手先と思しき人物からの追跡。
フェイドの脳裏をよぎったのは、それらの出来事。後半の二つはともかく、最初の件については確認を取らなければならない。
「誰かに俺の素性を話したか」
返答次第では殺す。という思考を内に秘めながら、フェイドは質問に質問で返す。
27階層にて襲撃してきた赤髪は、明らかにこちらの素性を把握していた。
情報の出所が有るとするならば、真っ先に挙げられるのはディオニュソスだったのだ。
「──────」
淡々とした声音を皮切りに沈黙が訪れる。冷ややかな夜の風によって、エントランスの窓が音を立てながら揺れる。
やがて、淡々とした言葉に対して向けられるのは、硝子のように透き通った瞳。
胸の内を見透かすかの如く、ディオニュソスはフェイドを見据えてきた。
「……君も、初めて会った時から少し変わったな。そんなに怖い目で睨むようになるとは」
心臓、喉笛、眉間。【黒き刃】をディオニュソスの該当部位へ抜き放てるよう、フェイドは照準を合わせる。
「まあ待て。その質問に答える前に、君には幾つか聞いておきたい事がある」
「………………」
フェイドの殺意を悟ったのか、ディオニュソスは一定の距離を保ちながら手で制止する。
「君は、このオラリオ……延いてはこの世界について、どう思っている?」
そして、数ヶ月の間過ごしてきた、この世界の印象について尋ねてきた。
「平和だ」
人のような感情を有する神々が、下界に降り立ち人と同じ様に生活をする世界。特段、
人のごとき、心持つ神を【完全律】によって取り除こうとした金仮面卿がこの世界を見たならば、卒倒するかもしれないが。
「もしも、その平和を脅かす者が現れたとしたら?」
「勝手にすればいい」
フィルヴィスとの冒険は、たとえこの世界が滅んだとしても問題なく行える。
寧ろ、冒険という単語を広義的に解釈するならば、そちらの方が丁度良いとすら言える。
「では……この世界の行く末には、相変わらず興味も無いという事か」
「ああ」
正義も悪も、秩序も混沌も、人も怪物も、思う存分好き勝手に殺し合えばいい。
相手が如何なる者であろうとも、こちらの邪魔をするならば殺すだけだ。
「………………」
お前もそうするならば、同じように殺す。そういった意味合いの視線を、目の前に立つ
「だったら、丁度良い機会かもしれないな……」
何度かの質問を終えて、ディオニュソスはそう呟く。普段の微笑みは鳴りを潜めているものの、彼の面持ちは何処か飄々としていた。
そのまま、緩慢とした動作でフェイドに歩み寄って来る。断頭台に自ら首を差し出すような行為を、彼は平然とやってのける。
「私はね、この下界は───」
そして、ディオニュソスが口を開いた瞬間。
フィルヴィスの拳がフェイドの真横を通過。
「───是正されるべぎらっ!?」
そのまま、彼女の妖精的殴打が、ディオニュソスの顔面に炸裂した。
間抜けな悲鳴と共に、彼はエントランスの床に沈む。鈍い音がエントランスに響く。
「………………」
仰向けに倒れたディオニュソスを見下ろすと、鼻血を垂らして失神していた。
このような状態では、先程の言葉の続きは聞き出せないだろう。
つま先で小突いて反応を窺うが、復活する兆しは見えない。
背負っているフィルヴィスを見やると、腕を伸ばしたまま脱力している。
まいなですぱんち。などという不可解な単語からして、彼女の寝相の一つなのだろう。
軽く揺さぶって反応を窺うが、目を覚ます気配は感じられない。
「………………」
このエントランスにおいて、意識を保っている唯一の者として取り残されてしまった。
そんなフェイドは、ディオニュソスにとどめを刺すべきか否かについて思案する。
まず、この一件で最も大きな損害を被ったのは、赤髪に殺されたフィルヴィスである。
彼女は死という事象に対して抵抗を覚えており、心身共に深い傷を負ったと思われる。
もしもフェイドが共同墓地に来なければ、今もあそこで立ち尽くしていただろう。
「………………」
そんなフィルヴィスが、黒幕と思しきディオニュソスへの制裁として、一発の拳だけで済ませたのだとしたら。
この場でこの神に【黒き刃】を突き立てる行為は、彼女の意に反するかもしれない。
フェイド自身は然程の被害を受けておらず、ディオニュソス自体が襲撃の実行犯ではない事。
フィルヴィスはディオニュソスの信奉者であり、他ならぬ彼女が握り拳で制裁を加えた事。
以上の点を考慮したうえで、フェイドは今回に限って見逃すと決めた。
もう一度似たような襲撃に見舞われた際に、問答無用で殺せば良いと判断した。
そのまま、フェイドはフィルヴィスを背負い直して再び歩き出す。床に転がるディオニュソスを跨いで素通りしながら。
翌朝、起きてきた団員がこの光景を目撃して大騒ぎとなったのは、また別の話。
そうこうしている内に、フェイドは廊下の突き当たりにある部屋の前に辿り着く。
此処は、フィルヴィス・シャリアという名の荷物の配達地点である。
扉を開けば、フェイドを迎えたのは如何にもエルフが好みそうな室内だった。
棚やテーブル、寝具を含めた家具は全て木造。部屋の各所には、木の実や花を模った魔石灯。
部屋の中に居るというのに、森の中に居るかのような錯覚に陥りそうになる。
「………………」
このような室内を形成したのは、郷愁の念によるものか。はたまた、彼女の趣味によるものか。
どちらにせよ、フェイドが持ち合わせていないものなので、要らぬ勘繰りは程々にしておく。
そのまま、フェイドはベッドに腰掛けてフィルヴィスを降ろした。
これにて配達完了。荷物は無事に目的地へと送り届けられた。
「………………?」
かと、思われたが。フェイドは背中に違和感を覚え、後ろを向く。
そこに居るのは、安らかな寝息を立てながら眠っているフィルヴィス。
何故かは知らないが、ベッドに横たわらずにしがみついたままだった。
「………………」
フェイドは手首を掴んで引っ張る。だが、フィルヴィスの手は離れない。
「………………」
フェイドは隙間に指を通して抉じ開けようとする。しかし、フィルヴィスの腕は剥がれない。
「フィルヴィス」
フェイドは身体を揺すり声を掛ける。されど、フィルヴィスの意識は目覚めない。
「んううぅぅ…………」
それどころか、腕を深く交差させて密着してきた。フェイドの首が絞まる事などお構いなしに。
「──────」
【拒絶】。衝撃波を発する祈祷によって、フィルヴィスを吹き飛ばす。
という選択肢もあるのだが、彼女と一緒に部屋の家具を吹き飛ばしかねないので控えておく。
「………………」
やがて、小一時間程度の悪戦苦闘の末。
フェイドは考える事を放棄した。
ベッドから腰を上げたのちに扉へと向かい、部屋を後にする。背中にしがみつくフィルヴィスは放ったらかしにしたまま。
何よりも、決められた時間に寝て起きるという言いつけを、このままでは破ってしまう。
それはフェイドの望むところではない。故に、拘束の解除よりも睡眠を優先した。
「………………」
そうして、フェイドは寝る為に自室へ向かった。ずるずると、フィルヴィスという名の拘束具を引き摺りながら。
窓から差し込んだ光に刺激を受け、フィルヴィスは目を覚ます。瞼を擦りながら、徐に体を起こす。
「………………?」
少しずつ像を結んでゆく視界。しかし、周囲に広がる光景は、自分の部屋とは異なっていた。
見慣れぬ空間、という訳ではない。最低限の家具が設置された、この生活感皆無な室内はフェイドの部屋である。
何故、どうして。という疑問の前に、フィルヴィスは自身が寝そべっていた場所に違和感を覚える。
見下ろすと、そこに居たのは、フェイドだった。
フィルヴィスが跨っていたのは、フェイドだった。
「──────っ!?」
咄嗟に口を押さえて、フィルヴィスは悲鳴を封じ込める。そのまま、機敏な動作で彼から離れた。
「はっ……は、はっは……は、はっ……!?」
飛び跳ねる心臓と荒れ狂う呼吸、その他諸々を落ち着けようとする。
だが、それらはフィルヴィスの意思に反して盛大に暴れ散らかしていた。
「ふ、ふー……ふー……ふっ……ふー……」
この動悸を鎮める為にも、何としても突き止めなければならない。昨晩、この部屋で何があったのか。
気を抜けば溢れ出しそうになる絶叫を、辛うじて喉の奥に留めながら、フィルヴィスは身の回りを検めた。
先ずは、自分の状態から。昨晩と同じ状態の白装束。着ている衣服が乱された痕跡は無い。
不自然な発汗は動揺によるもの。若干頭痛がするが、それ以外は平常そのものである。
次に、ベッドの上の毛布は敷かれたままの状態。汚れは一切見受けられず、清潔を保っている。
ある程度掃除の行き届いた部屋からして、フィルヴィスの言い付けを律儀に守っているらしい。
そして、最後。この部屋の持ち主であるフェイドの様子はというと。
「………………」
微動だにせず、ベッドに突っ伏していた。さながら、そういった形の置物のように。
彼の格好は普段の黒装束ではなく、寝巻きと思しき粗末な布の服。
倒れ込むようにして寝たのか、顔が枕に埋まっており呼吸が出来ているかも定かではない。
結論。フィルヴィスが想像する、そういった行為の痕跡は全く見受けられなかった。
フェイドは彼女に指一本手出しせず、見向きもせずに眠りについたのだ。
更に付け加えると、おそらくこの状況を生み出したのは、昨晩酒に溺れた
「………………」
時間の経過に伴い、昨晩の記憶を思い出したフィルヴィスは、両手で顔を覆った。
勝手に酔っ払って、勝手に勘違いをした。そんな自分に身悶えした。
「………………いや」
悪いのは自分だけではないだろう。一頻り悶絶したのち、フィルヴィスはそんな言葉を呟く。
自力で帰れなくなる程に酔ったこちらにも非はあるが、部屋に連れ込むような横着をした彼も同罪なのだと。
だというのに。何故、自分だけがこうも心を掻き乱されているのか。何故、彼だけは呑気に眠りこけているのか。
覚醒、混乱、煩悶という過程を経て、フィルヴィスの胸中に憤りという名の火が灯る。
そこからの行動は迅速だった。フェイドへと手を伸ばし、フィルヴィスは肩を掴んでひっくり返す。
彼が枕によって窒息死していないか心配だったので、気道の確保も兼ねて。
だが、それなりの勢いで裏返ったにも関わらず、フェイドは目覚めなかった。
壁際に置かれた振り子時計と同じように、規則的な寝息を立てている。
「………………」
そちらがその態度ならば、こちらも然るべき対応を取るまで。フィルヴィスは眦を吊り上げ、追撃を開始する。
頬をつつき、脇腹をくすぐり、耳たぶを引っ張り、鼻をつまむ。
しかし、思い付く限りの悪戯をするが、フェイドは身動き一つしない。
鈍感、此処に極まれり。夢の世界に旅立った彼を叩き起こすには、この程度では不足らしい。
「はぁ…………──あ」
深海めいた眠りの深さに呆れ果てるが、それと同時にフィルヴィスは気付いた。
ここまでの暴挙を受けて尚起きないのならば、もう何をしても良いのではないかと。
続けて、ベッドの上に投げ出されたフェイドの手と、自身の手を交互に見やる。
そうして、数秒間の逡巡の末。
フィルヴィスは、彼の手を取った。先程までとは打って変わり、恐る恐る、遠慮がちな挙動で。
自分のものとは違う、節くれ立った手。一見すると華奢だが、確かな力強さがその手には有る。
彼はこの手で武器を握り、この手で立ちはだかる敵を殺し、この手で道を切り開いてきたのだ。
昨日語られた狭間の地の冒険に、何の嘘偽りも無い事が彼の手からは読み取れた。
まだ足りない、もっと知りたい。更なる欲求が、フィルヴィスの中で顔を覗かせる。
しかし、その欲求を満たすには、邪魔な物が一つだけあった。
それは、フィルヴィスが今の今まで肌身離さず付けていた手袋。ずっと拒み続けた他者との接触から、フィルヴィスを守ってきた最後の結界。
それを、フィルヴィスは躊躇いながらも外す。そうして、布一枚分の隔たりを取り除いて、深呼吸したのち。
もう一度彼の手に触れた。
「──────」
思いのほか暖かい。直接彼の手に触れた感想は、彼の淡白な印象に反したものだった。
血の通っていない、陶器めいた手触りを想像していたが故に、フィルヴィスは少し狼狽える。
それでも、フィルヴィスの手は止まらなかった。肌をなぞり、手を握り、指を絡める。
手袋越しでは到底味わえない感触を、拒絶してきた他者との触れ合いを、フィルヴィスは堪能する。
「………………ふふ」
可笑しかった。今まで睡眠はおろか食事すらも要さなかった彼が、こうも無防備な寝顔を晒している事が。
嬉しかった。死んでいるように生きているとさえ思った彼が、確かな熱を持つ存在であると知れた事が。
「…………お前は、気付いていないんだろうな」
───理由など無い。俺は最初からこうだった。
無理矢理与えられた役割と漂白された記憶。壮絶な旅路と酷烈な死闘。数え切れぬ敗北と極僅かな勝利。
その果てに待ち受けていたのは、縁もゆかりも無い土地への追放。
そんな、自身の置かれている境遇が、どれ程までに悲惨なのかを。
───これからも、フィルヴィス・シャリアと冒険する為だ。
雨に濡れそぼった、死者の眠る墓地。小高い丘に生えた大樹の木陰。
失意の底に沈む死に損ないに、何も言わずに寄り添い続けて、淡々と発した意思表示。
擦り鳴らすような抑揚の失せた言葉が、どれ程までにこちらの心を揺さぶったのかを。
───俺の使命は、まだ続いているのか。俺は、まだ必要とされているのか
たとえ、与えられた使命が終わったのだとしても。
お前を必要とする者が、此処に生まれた事を。
「………………」
浅ましいと思う。神への盲信に亀裂が入った途端、こうして彼に縋り付いてしまうのは。
卑怯だと思う。未だに自身の全てを語っていないというのに、彼の全てを知りたいと思うのは。
それでも、フェイドは穢れたこの身を異物として拒絶しなかった。
ましてや、穢れたこの身を憐れんだりするような真似もしなかった。
ありのままを、在るがままを。当然のものとして受容してくれた。
最早、彼だけなのだ。何の屈託も無く、胸を張って仲間と呼べる存在は。
最早、不可能なのだ。今この手で触れている奇跡を、みすみす手放すなど。
「フェイド…………」
囁くような声音で彼の名前を呼びながら、彼の手を両手で包み込む。そのまま、自らの頬に添えた。
少し硬い、戦ってきた者の手のひら。自分のものよりも大きなそれに、フィルヴィスは心地良さを覚える。
「………………」
いっそ、隣で二度寝してしまおうか。そんな誘惑がフィルヴィスの脳裏をよぎった。
昨晩泥酔したまま眠ったのだから、寝相によるものとでも言い訳すれば良い。
あの酒場で無様な姿を晒した以上、上塗りする恥が無いというのも後押しをしていた。
しかし、頭を振ってフィルヴィスはその誘惑を払い除ける。名残惜しさを覚えつつも、フェイドの手を置いて立ち上がる。
昨晩は酒に逃げてしまったが、今後の身の振り方について考えなければならない。彼と一緒に惰眠を貪る余裕は無かった。
「──────」
扉に手を伸ばしドアノブに触れたところで、フィルヴィスは違和感を覚える。
その手は、素肌を晒したままだった。
「───ああ、大事な物を忘れていた」
自らの手を見つめたのち、ベッドの上に放り捨てた手袋を拾う。
身に纏った白装束に相反するかのような黒。その色は、彼女にとっての戒めである。
そうして、それを両手に付け直し、フィルヴィスは今度こそ部屋を立ち去った。
欲しいものは、たった一つだけ。それは、フェイド・ストレンジアと共に歩む未来だ。
その為ならば、どれだけこの手を黒く汚したとしても構わなかった。
それこそが、フィルヴィス・シャリアの。
壊れかけの少女の、切実な願いだった。