フェイドとフィルヴィスは、初めて出会った日以来足を運んでいなかったダンジョンへと来ていた。
二人が現在居る場所は、ダンジョン5階層の西端の開けた空間。
正規のルートから外れたそこは、主に魔導士の訓練に用いられる場所だ。
外で無闇に魔法を放てば、周囲の建物に被害を及ぼすだけではなく、他の派閥に情報が漏洩する危険性がある。
そのため、訓練を行う魔導士達は情報の秘匿も兼ねてこの場所を使うのである。
【炎術のロングソード】から繰り出された剣閃がゴブリンの肉を断ち、炎を迸らせる。
雷鳴と共に現れた【雷の槍】がコボルトの頭蓋を穿ち、轟音を響き渡らせる。
腰の付け根に生じた【坩堝の諸相・尾】が地面を抉り、フロッグシューターを纏めて粉砕する。
「………………」
そんなフェイドの戦いぶりを、フィルヴィスは離れた場所から眺めていた。
その目的は、彼が有する異能が如何なるものか見極める事にある。
フェイドの異能は、不死性の他にも多岐に渡る。その悉くが、情報共有を受けたフィルヴィスからすれば常識外れの能力だった。
先ず、フェイドは自らが手に入れた物を何処かに仕舞い込んだり、取り出す事ができる。
戦利品を際限なく拾えるのみならず、武器を瞬時に持ち替えながら攻撃を繰り出したり、身に付けている防具を一瞬で着替えて変装したりなど。その応用方法は枚挙に暇が無い。
次に、杖とは異なる小さな触媒から放たれ、モンスター達を消し炭にしている
魔法とは、詠唱と共に己の内にある魔力を制御して放つ力だ。そして、使用者に発現する魔法は多くても三種類まで。
しかし、フィルヴィスらが行使する魔法とは違い、あれは詠唱を介さずに超常現象を引き起こす。
尚且つ、行使できるものは三種類に留まらない。周囲を巻き込む範囲攻撃、傷や毒を癒す回復、様々な能力を向上させる戦闘補助などがある。
他にも、彼が所持する得物に内蔵された戦技や、武器に様々な属性を付与する派生。
数を挙げればきりがないので省略するが、結論を言ってしまえばダンジョン探索に必要なものは全てフェイド一人で賄える。
「………………」
彼の異能が知れ渡れば、均衡を保っていたオラリオの情勢が大きく変わってしまう。
彼の獲得に動いたファミリア間で戦争が勃発する恐れすらある。
もしくは、戦争の火種の排除に踏み切った派閥と、彼自身が争う事になるか。どちらにせよ、結果は然程変わらないだろう。
己の希少価値、もとい危険性に無自覚で無関心なフェイドでは、それを未然に防ぐなど不可能。
つまるところ、迷宮都市オラリオの安寧は、フィルヴィスの双肩に託されたのだ。皮肉な事に。
不用意な死は正体を暴かれる切っ掛けとなる。そう思ったフィルヴィスは、死因となる要素を減らそうと試みた。
その第一段階が勉強であり、今はその次の段階。学んだ知識を実践するためにダンジョンに赴いているのである。
何はともあれ、ダンジョンの攻略に必要な知識は、ある程度頭に叩き込んだ。モンスターの大まかな特徴も学んだ。
そもそも、この階層に出現するモンスターはいずれもLv.1相当なので、前述の異能を有している彼が遅れを取る訳がない。
筈だったのだが。
フェイドは上層のモンスター達に苦戦していた。
無傷での快勝を想定していたフィルヴィスとしては、頭を悩ませる結果である。
一対一ならば行動させる間も無く瞬殺出来るものの、敵の数が増えた途端に彼の動きは精彩を欠いてしまう。
あの時、アンフィス・バエナを単身で撃破した者とは到底思えないぐらいには。
だが、フェイドという存在を見てきたフィルヴィスには、彼が苦戦する原因について思い当たるものがあった。
先ず、彼は痛みや死に対する危機感、忌避感といったものが極めて薄い。これは、件の不死性が原因だろう。
次に、対峙している敵以外の存在を、殆ど意識していない。これは、彼の深く長過ぎる集中力が原因だろう。
これらの要因が合わさった結果、視界の外からの攻撃に滅法弱くなり、あの程度のモンスター達に手こずっているのだ。
「…………はぁ」
これまでの状況の整理を終え、思わずフィルヴィスは溜め息を吐く。
フェイドという曲者を一端の冒険者に仕立て上げるまでの、その道のりの険しさを想像してしまったからだ。
「………………」
こちらの苦心など露知らず、周囲のモンスターを倒し終えたのち。フェイドは緋色と青色の瓶を呷り始める。
曰く、緋色の瓶は
その即効性は、如何なるポーションをも凌いでいるように見えた。
あれも、攻撃を受けても問題無いと思わせている要素なのかもしれない。
そんな事を思いながら、フィルヴィスは眉間に皺を寄せて木製の短杖を引き抜く。
「【一掃せよ、破邪の聖杖───】」
そのまま、フェイドに向けて呪文を唱えた。
「【───ディオ・テュルソス】」
そして、フィルヴィスが魔法の名を発した瞬間。杖の先から一条の雷が放たれ、呑気に魔石を拾おうとしているフェイドに直撃する。
と、いった事は無く。
魔法はフェイドの真横を通過し、背後から襲い掛かろうとしていたモンスターへと叩き込まれた。
ディオ・テュルソス。超短文の詠唱によって発動するフィルヴィスの魔法。
それは、瞬発力に優れており、不意打ちや牽制などにも行使可能な切り札の一つだ。
注意を促す代わりに呪文を唱えた理由は、その方が手っ取り早くフェイドに魔法を見せられると考えたからである。
そうして、初めて魔法という現象を目撃したフェイドの様子を窺ってみたところ。
「………………」
徐に後ろを振り返り、黒焦げになったモンスターを視認したものの、何事もなかったかのように魔石集めを開始した。
全くもって予想通りの反応ではあるが、どこか釈然としないのでフィルヴィスは小言を挟もうとする。
だが、フィルヴィスが口を開く前に、フェイドはこちらへ向き直ってきた。
そして、何を言うかと思えば。
「手間が掛かるな」
魔法というのは。
唐突に魔法が放たれた事による驚き。窮地を助けられた事に対しての感謝。警戒を怠った事への反省。
それら全てを差し置いた、呑気な感想が、数十秒遅れで呟かれた。
「──────」
魔法というのは、手間が掛かる。確かに、彼の言う通りである。
行使するには魔力を練り上げて詠唱する必要があり、扱いを誤れば
それに比べて、フェイドの祈祷は聖印に念じるだけ。リスクは何一つとして存在しない。
発動までの速度を含め、魔法の扱いに苦心する魔導士全員を嘲笑うかのような利便性を有していた。
しかし、それはそれとして。
フェイドのあっけらかんとした発言は、フィルヴィスの堪忍袋の緒を静かに断ち切った。
「───フェイド。それよりも先に気にすべき事が有るだろう」
「なんだ」
「まず、碌に周りの確認もせずにそんな物を取り出すんじゃない。回復するのは周囲の安全を確保してからだろうが」
「そうか」
「大体、お前は敵の攻撃に対して鈍感過ぎる。この階層のモンスターは瞬殺して然るべきだ。攻撃など食らうまでも無くな」
「そうか」
「今のもそうだ。目の前に魔法が迫って来ているんだから躱す素振りぐらい見せろ。当たったら痛いじゃ済まないぞ」
内なる激情を抑え込むように、理路整然とした口調で先程の立ち回りのダメ出しをする。
「当てるつもりは無いと思った」
「っ………………!」
しかし、予想外の切り返しにフィルヴィスは言葉を詰まらせた。彼はこちらの意図を見抜いていたらしい。
「〜〜〜〜〜〜っっ!!」
普段は何に対しても無関心な癖に。フィルヴィスは言葉にならない唸り声を上げる。
どこまでも都合の悪いフェイドの慧眼は、辛うじて保っていた彼女のポーカーフェイスを粉砕した。
「鈍いのか聡いのか、どちらかはっきりしろ! 分かりにくいんだお前は!」
「………………?」
片や、荒れ狂う激流。片や、静まり返った止水。対極的な者同士による応酬が、魔導士達の訓練場にて繰り広げられる。
掴みどころの無い仏頂面。あまりにも端的な言い回し。敬愛するディオニュソスへの不遜な態度。その他諸々。
フィルヴィスはこれでもかと言わんばかりに、フェイドへとぶつけた。溜まりに溜まった日頃の鬱憤を。
「すううううぅぅぅぅ……はあああぁぁぁぁ……」
やがて、一頻り言いたい事を言い終え、フィルヴィスは高ぶった感情を鎮めようと深呼吸する。
傍若無人な立ち振る舞いに心を乱されたが、此処はダンジョンの中。常在戦場の心構えを忘れてはならない。
そもそも、いくら罵声怒号を浴びせたとて、彼が態度を改める可能性は皆無。全くもって無意味な行為だ。
「……その魔石を回収し終えたら、下の階層に行くぞ」
「もういいのか」
「ああ、ここで無理に手を加えたところで、付け焼き刃以上のものにはなり得ないだろう」
そしてそれは、現在行っている訓練も同様である。小一時間程度フェイドの戦いぶりを眺めていたものの、改善の余地が見受けられなかった。
というよりも、既に彼の戦運びは確立されている。単独の敵を殺す事に特化した歪な形に。元より、手の施しようは無かったのだ。
そうして、魔石を回収し終えたのち、二人は5階層の広間を後にしてダンジョンを下へ下へと降りてゆく。
極力、他の冒険者と遭遇しないよう、正規のルートから外れた道順で。
そのまま、ダンジョンの10階層の片隅まで進んだところで、フィルヴィスは立ち止まった。
「ここから先は連携の訓練だ。私もお前と一緒に戦う」
フィルヴィスは顔だけ後ろに向け、黙って付いて来ていたフェイドに対してこれからの訓練について話す。
現状、一対一に特化したフェイドと、多対一を強いてくるダンジョンとの相性は、劣悪の一言に尽きる。
だが、フィルヴィスはフェイドの観察を経て思い至った。彼の弱みを、強みへと昇華させる方法について。
一対一を可能な限り連続させる。もしくは、敵を一箇所に纏め、祈祷で一網打尽にさせる。
そういった展開になるよう連携して立ち回る事こそが、フェイドの最も効率的な運用方法なのだと、フィルヴィスは考えたのだ。
奇しくも、近距離と遠距離を瞬時に切り替える戦いが可能という点において、フィルヴィスとフェイドの戦闘スタイルは似通っている。この目論見は、十分に実現可能な範囲内だろう。
「あそこから移動した理由は何だ」
「理由? そんなもの、これに決まっているだろう」
フェイドの質問に対して、フィルヴィスは周囲に目配せをしながら答える。
フィルヴィスが指している物とは、辺り一帯を覆い隠すように漂う霧だった。
この10階層には絶えず白い霧が立ち込めており、遠くを見通すのは困難を極める。
先程までは目撃者が出ないように警戒していたが、戦いに並行してそれをすると見落としてしまうかもしれない。
その点、この階層ならば何をしようとも視認される可能性だけは排除できるため、フィルヴィスはこの場所を選んだ。
そうして、モンスターの出現を待っていると。その予兆である罅割れの音が鳴り響いた。
しかし、その発生源は一つや二つではない。音の方向が判別出来ない程の数だ。
続々と発せられる亀裂音に対し、フィルヴィスは口角を上げる。わざわざ10階層を訪れた最大の理由が、これだった。
「早速来たな。運が良いのか悪いのか」
ちなみに、現時点でのダンジョンにおけるフェイドの死因。そのぶっちぎり第一位である。
「ふむ、丁度いい」
フィルヴィスは前方を見やり、呟く。
すると、霧の向こう側から姿を現したのは、インプというモンスターの群れだった。
この小悪魔達は、個の力ではなく連携を武器にして襲い掛かって来る。今回の訓練には打って付けの相手だ。
「フェイド。今回は私がお前に合わせるから好きに戦え」
「分かった」
淡々とした返事と共にフェイドは駆け抜けてゆき、先頭のインプに斬りかかる。
彼の死角、意識の空白を補うにはどの立ち位置が最適か。それを模索しながら、フィルヴィスもその後に続いた。
しかし、これ幸いとばかりに、連携の訓練に舵を切った途端。
フェイドが放った
茜色に染まる空の下。一日の終わりに伴って、バベルから出てきた冒険者達がそれぞれの帰路を歩いている。
連綿と続く人混みの中には、フェイドとフィルヴィスも居た。
「………………」
彼女が前を歩き、フェイドがそれに追従するというのが普段の流れであるが、今回に限ってその位置関係は逆転していた。
それとなく、フィルヴィスの方に視線を向ける。はぐれていないか確認の意味を込めて。
「…………なんだ。何かあったか?」
「いいや」
「何も無いならわざわざ振り返るな。歩け」
「分かった」
目と目が合うや否や、フィルヴィスから刺々しい反応が返ってくる。
しかし、その口調とは裏腹に、彼女の相貌はすっかり煤けてしまっていた。物理的な意味ではなく、精神的な意味でだが。
連携を試みた結果は散々。というわけではなく、寧ろ5階層で多対一の訓練を続けるよりも得るものがあった。
だが、モンスター達の包囲網を崩そうと放ったフェイドの祈祷が、傍に居たフィルヴィスを何度も掠めたため、あのような有り様となっているのである。
当然の帰結として、フィルヴィスには攻撃系の祈祷と、ついでに戦技の使用禁止を言い渡された。
明日以降も、二人の連携が盤石なものとなるまでは、危険物として封印される事になるのだろう。
やがて、大通りに設置された街灯が次々と明かりを灯し、夜の到来を示す。
一日の終わりを締め括らんと、労働者や冒険者たちが酒場へと繰り出してゆく。
早朝の閑静な街並みから一転して、オラリオのメインストリートは賑やかな様相を呈し始めた。
喧騒によってフィルヴィスの機嫌が悪化する事を予期したフェイドは、人気の少ない道に逸れようとする。
「──────」
その直前。
何処からか視線を感じた。
それも、単なる注目の類ではなく、何もかもを見透かすような、絶対的上位者の眼差しを。
フェイドは立ち止まって再び背後を見やるものの、相変わらずそこに居るのはフィルヴィスだけ。
「はぁ……ちゃんとついて来ているから何度も振り返るな」
「………………」
「……フェイド?」
彼女を意識の外に追いやって視線の主を探すが、少なくとも雑踏の中には見当たらない。軒を連ねる建物の中でもない。
残る選択肢は、この辺りを一望する事が可能で、尚且つ視線が通る場所。
フェイドの意識は、悠然と佇む白亜の塔に向く。そして、下から上へと視線を移してゆけば、自ずと答えは見つかった。
視線の主はバベルの最上階に居る。十中八九、その正体は神なのだとフェイドは推察した。
「………………」
だが、それにしても腑に落ちなかった。地上に出てからホームへと歩いていただけだというのに、何故こうも目を付けられているのかが。
ダンジョンやギルドを行き来した際、フェイドは神と思しき存在とは何度かすれ違っている。
その時にはこの粘着質な、舐め回すかのような視線は浴びなかった。
疑問の解消と敵意の有無の確認も兼ねて、フェイドは対象へと照準を合わせる。褪せた瞳を微かに見開きながら。
敵となる場合、先手を取られる前に仕掛けなければならない。
素通りが可能な手合いならばそうするが、おそらくは難しいだろう。
この世界の神は娯楽と未知に飢えており、それを解消する為ならば如何なる手段であろうと厭わない。
と、ディオニュソスが我が事のように言っていた。
「………………」
地上からの見上げる眼差しと、天上からの見下ろす眼差しが交錯する。
だが、幾ら焦点を当てようと、あちらがこちらに向ける視線は依然として変わりない。
一旦、どのような姿形をしているのかを捉えるか。そんな考えと同時に、フェイドは【遠眼鏡】を取り出そうとしたが。
「───あれだけの事をしでかしておいて、無視を決め込むとは良い度胸だな。フェイド」
フィルヴィスにそれを阻まれた。意識の外側から、彼女は無理矢理割り込んできた。
「………………」
そうして、いつものように腕を掴まれながら、フェイドは思い出す。
居ない者として扱う事が難しい手合いは、すぐ傍にも居た事を。
「余所見をしている暇があるなら丁度いい。早く帰って今日の反省会をしようか」
どうやら、無視された怒りが疲れを上回ったらしい。少し前までの萎れた様子から一転、覇気のようなものを伴わせながら、フェイドをホームへと引っ張ってゆく。
彼女の確固とした足取りには、問答無用の意が込められている。これでは、あの視線の真意を確かめられない。
「………………」
しかし、数秒間の思案の末、フェイドは決めた。あれが目の前に立ちはだかって来たその時に対処しようと。
話し合いの末に此処から立ち去る事になろうが、殺し合いの末に都市諸共破壊し尽くす事になろうが、どうでも良いのだから。
今も尚注がれ続けているバベルからの視線を、フェイドは取るに足らぬ些事として処理する。
そのまま、怒り心頭のフィルヴィスに引き摺られながら、ホームへと帰っていった。
摩天楼、バベルの最上階。その階層の高さに比例するかのような豪華絢爛な室内に、一柱の女神は佇んでいた。
壁の一面を占める程の大きな窓ガラス越しに、彼女は迷宮都市オラリオを、そこに住まう人々を展望する。
女神には、神がそれぞれ有する権能によるものではない、先天的な洞察眼が備わっていた。それも、魂の本質を見透かす程のものを。
この双眸を用いて人々の魂を観察する事が、彼女が下界に降臨して以来幾度と無く続けている習慣だった。
そうして、今日も今日とてオラリオの街並みを視線で巡っていると、とある白装束のエルフの少女が女神の目に留まった。
その身が、穢れなき純潔である事を示す白。
その身が、汚濁に満ちた醜怪である事を示す黒。
あれ程までに矛盾した色が絡み合う魂も珍しい。少なくとも、清廉潔白に重きを置くエルフには全く見受けられないものだった。
あのエルフの少女は、淡麗な容姿からは想像もつかぬ二面性を持った人物なのだろう。
しかし、興味深いと思いながらも、女神の食指は動かなかった。何故ならば、あれは彼女好みの魂ではなかったから。
やがて、女神の意識は少女の前を歩く男へと移る。そして、彼の本質がどのようなものか見定めようとした瞬間。
「──────」
女神の視線は、彼の魂に釘付けにされた。
それは、透明とは似て非なる、色を喪くした魂だった。
きっと、あれはこの下界に住まう人類ではない。あのような者を、神々が望む筈がない。
きっと、あれは生粋の殺戮者だ。神ならざる上位者に、そう在れと望まれた存在だ。
やがて、彼はこちらからの視線を察知したのか、振り返って見つめ返してくる。
その魂と全く同質の色褪せた双眸は、女神に危機感という久しい感覚を覚えさせた。
「…………あら」
しかし、両者が視線を交えていたところで、唐突にあちら側の視線を遮る者が現れた。
それは、女神が先程見定めたエルフの少女。何故かは知らないが、彼女は苛立った様子で彼の腕を掴んでいる。
そのまま、バベルから遠ざかるようにして彼を引きずって行ってしまった。
「………………」
彼も彼で抵抗する様子を見せず、大人しく連れ去られてゆく。そこには、既にこちらに対する頓着が一切無くなっていた。
どうやら、刺客の類の者ではなかったらしい。ただ、見つめられたから見つめ返しただけのようだ。
肩透かしを食らった女神は、しかしながら目線は逸らさずに去りゆく背中を見送る。
透明と見誤ってしまう程の喪色の魂、そして一連の挙動から女神は推察した。あれは、極めて受動的な性質の存在なのだと。
あちらからは、積極的に仕掛けては来ない。だが、何かの拍子に切っ掛けが与えられた瞬間、あれは一切の躊躇もせずに遂行するのだろう。
たとえ、それが
「……一体、何処から迷い込んで来たのかしら」
おそらく、あれの標的はこの迷宮都市には存在しない。そうでなければ、今頃オラリオは阿鼻叫喚の渦に巻き込まれている筈だ。
「………………」
あの黒装束の男と直接接触するべきか否か。女神は一瞬だけ逡巡し、その考えを愚案として却下した。
何故ならば、あれに命を懸ける理由が女神には無い。彼女の伴侶とするには、あれは血腥過ぎるのだから。
そうして、女神は物騒な異邦人に対し、傍観という選択を取った。
あれとの接触は、手の届かぬ範囲からの視線のみで留めておくと決めた。
それとなく、これまでの身辺調査と今後の動向だけは、眷属を差し向けて追うつもりだが。
「それにしても……」
今も尚、彼を力任せに引き摺っているエルフの少女を、そんな彼女にされるがままの男を見送りながら、女神は思う。
「……どういう出会い方をしたのかは知らないけれど、偶然というのは残酷ね」
相反する二つの本質を有した、美醜の少女。
そして、魂の本質を喪くした、空虚な男。
持て余した者と、持たざる者。
きっと、彼らの魂が互いに影響し合う機会は訪れない。あるとするならば、齟齬の末の破綻だろう。
喪色とは。何に染まる事もない、何を染める事も無い。それ故に喪色なのだから。