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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

西の最果ての地(2)

2009-11-03 | Weblog

一連の開所式の手始めとして、ダナネの町の中央広場で、私は演説をしている。
「私は、着任以来、この西部地域を何度も訪れました。皆さんが戦争の時期を通じて、どれだけ辛酸を経験してきたかを、私は知っています。戦争は、何も責任のない人々を巻き込んで、家庭を壊し、社会を壊し、人々の人生に取り返しの付かない損傷を与えました。」

私は5月に、職業訓練学校の視察のため、マンとトゥバを訪れた。また、7月には、マンを再び訪れて、ティケン・ジャーの小型武器追放のコンサートに参加した。そのたびに、戦争がこの地域に与えた傷跡を見てきた。ただ、私がこの地域の人々にふれて感じ、伝えたいと思ったのは、戦争被害を受けたことへの同情だけではない。

「皆さんは、日本というと、とても豊かな国だと思っているでしょう。」
このコートジボワールで日本というと、まず「トヨタ」、「ニッサン」の国であり、そしてハイテク技術の国である。欧米諸国以外のなかで先進国と位置づけられる国。世界第二の経済大国。それはそれで正しい認識なのであるけれど、私は人々に、ちょっと異なる視点を提供する。つまり日本は、今は豊かな国であるかもしれないけれど、はじめはそうではなかった、と説く。

「日本は、世界を相手に戦争をして、国中を焼かれました。60年前、日本は焼け野原から出発したのです。多くの人々が、家や財産を失っただけでなく、家族を失い、何もかもゼロから出発したのです。」
そして、日本に何があったか、というと何もなかった。石油も資源もなかった。土地だって、国土面積こそコートジボワールより少し広い程度あるが、平たくて豊かな土地が広がるコートジボワールと違って、日本には可耕地面積は15%くらいしかないのだ。あとは山である。

何もない。唯一あったのは、戦後復興への強い意欲であった。
「私たちの両親の世代は、過去を横に置いて、未来を作ることに気持ちを切り替えました。何もないから、もう働くしかなかったのです。朝晩、一生懸命働きました。そして働くことを喜びと感じるようにしました、いいものを作ることに専念しました。」
そう私は強調する。

コートジボワールの人々も、戦争で苦しんだことに変りはない。しかし、破壊の程度については、日本が被ったあの戦後の焼け跡ほどの壊滅はない。戦後の復興は、コートジボワールのほうが、たやすいはずだ。ところが、ここのような荒れた村々に来ても思うのは、何となく意欲がない。戦争や危機を克服して、新しい社会や経済を築こうという、前向きの姿勢が見えない。大統領選挙の準備にしても、同じことを感じる。今の困難を、乗り越えてやろうという、熱い心がない。多くの人が、何かが良くなることを、ただ待っている。

「過去に失った物にこだわることも必要でしょう。でも、未来を作ることこそ、今一番大切なのです。60年前、敗戦後の日本が、まさにそうだった。戦後の復興に力を合わせて努力したので、今の繁栄の日本が築かれたのです。過去ではなく、未来を見よう。私が皆さんに言いたいのは、そのことです。」

拍手をたくさん貰ったけれども、ここの人々に伝わったのかどうか、分からない。平和であろうと、戦争であろうと、起こることをあるがままに受け入れてきた人たち。だから、戦後復興というような言葉が、この人たちにとっての標語として適当なのだろうか。それでも、私はおそらく日本人として、この地域の人々に、貧しいとか艱難辛苦とかから抜け出すぞという闘志、なにくそという根性のようなものを持って欲しいという気がしている。

 ダナネの式典会場

 ダナネ市長の挨拶

 背高のっぽの魔物は、必ず出てくる。

 ダナネ病院の産科病棟を修復

 供与記念の表示板の前で

 ダナネの社会センターもきれいに修復

 トゥバの社会センター前で式典
トゥバ市長のあいさつ

 婦人たちの踊り

 トゥバ母子病院の開所

 トゥバ母子病院の分娩室

 トゥバ母子病院の助産婦たち


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