祝福擬きで行く先を決めたのは、間違いだっただろうか。
雲一つない快晴の空、青々しい草花が繁茂する大地。長閑という単語が最も相応しい平原を見渡しながら、密使めいた黒装束の男はそう思う。
平穏の代償であると言わんばかりに、そこには見事に何も無かった。
目に映るのは、小鳥が木の上で囀り野ウサギが呑気に草を食んでいる光景だけ。
「………………」
もっと早く走れ。手持ち無沙汰となった男は、トレントという名の芦毛の馬に視線で急かす。
かれこれ一週間の間、彼らは似たような景色を眺めながら走り続けていた。
「ボフ」
すると、トレントは鼻を鳴らして返事をした。ようやく与えられた暇なのだから、もう少し満喫してはどうかと。
事実、男は使命を全うする為だけに連日連夜奔走してきた。今後、一生分の惰眠を貪る事が許される程度には。
しかし、それも使命を全う出来ていればの話。成し遂げられなかった以上は、立ち止まる資格など有りはしない。
何よりも。大いなる意志が与え賜うた祝福は、未だこの身に宿っているのだから。
「………………」
男は手綱を強く握り締めて、トレントの脇を軽く蹴った。一刻も早く、行く先に何が有るのか確かめる為に。
男からの催促を受けたトレントは、仕方がないと言わんばかりに鼻で溜め息を吐いたのち、加速する。
そして、一際強く地を蹴った瞬間。トレントは一陣の風となった。
その速度は他の追随を許さず、瞬く間に辺り一帯を駆け抜けて行く。
平原を越え、森林、湿地、山脈、砂漠、荒野。ありとあらゆる環境を己が身一つで走破し、大地に蹄跡を刻んでゆく。
「──────」
そして、休む間もなく走り続けた末。
地表を抉り取ったかのような峡谷に突然差し掛かり。
最高速を維持していたが故に停止も出来ず。
彼らは奈落の底へと滑落して行った。
祝福擬きで行く先を決めたのは、間違いだっただろうか。
暗雲漂う空の下、大地を震撼させる程の雄叫びを真正面から受けながら、男はそう思う。
彼の視界に蠢くのは、巨大な竜の群れ。縄張りを冒した外敵を食い殺さんと、目を血走らせている。
「………………」
迂回しようにも、現在居る場所は深い谷底。左右を塞ぐようにして岩壁が聳えている。
この数を一斉に相手取るのは不可能。尚且つ、直進以外に進む方法は無い。
そう判断したのち、男は頼れる相棒であるトレントに視線で問う。
目の前の怪物達の爪牙を掻い潜り、先へと向かえる俊足をお前は持っているのかと。
「ヒヒン!」
トレントは嘶き、肯定の意を示した。誰に物を言っているのかと、蹄を威勢良く打ち鳴らす。
必ずや、この領域を踏破して見せる。互いに意志を統一させ、彼らは疾風の如く駆け出す。
けたたましい咆哮、岩肌を容易く切り裂く鉤爪、大樹のような尾、顎門から放たれるブレス。
そんな、ありとあらゆる危険を、男とトレントは人馬一体となって潜り抜けて行く。
もう間も無くして、この谷底を越えられる。そんな予感が脳裏をよぎった瞬間。
「──────」
進行方向から放たれた謎の破壊光線によって、周囲に群がる竜諸共、彼らは消し飛ばされた。
祝福擬きで行く先を決めたのは、間違いだっただろうか。
目の前に広がる光景をぼんやりと眺めながら、男はそう思う。
視線の先にあるのは、視界の端から端まで続く大海原。自然という名の障害が、彼の行く手を遮っていた。
「………………」
暫しの間呆けたのち、男は苦楽を共にした仲間であるトレントに視線で問う。
実は泳げたりしないかと。自分を乗せたまま、この海を横断出来ないかと。
「……ボフッ」
だが、無情にもトレントは首を横に振った。蹄で水は掻けないのだから、残念ながら当然である。
行き止まりだ。観念して引き返せと言わんばかりに、男へと鼻を鳴らす。
「………………」
そんな提言を無視し、男は【祝福擬き】を取り出して地面に放り投げた。
すると、硝子の割れるような音と共に光が生じ、周囲を照らす。
不定形に揺らめく光は、男を横切るようにして軌跡を伸ばした。
海の彼方へと。
何故、このような事態に見舞われているのか。今、自分が為すべき事があるとするならば、棒倒しではなく神殺しだというのに。
「………………」
問いかけるように空を見上げる。しかし、色褪せた瞳に映るのは、真っ暗で漠然とした夜空だけだった。
かつて、名も無き褪せ人が居た。
死したのち、授けられし祝福に誘われ。霧の彼方にある故郷、狭間の地に至った存在。その内の一人である。
陰謀の夜、デミゴッド最初の死。女王マリカの乱心、砕かれたエルデンリング。破片の君主達による破砕戦争。
そして、勝者なき緩やかな滅びの時代。そこに、褪せ人は馳せ参じる事となったのだ。
褪せ人には使命があった。
狭間の地を律する絶対的規範。エルデンリングを修復し、エルデの王になるという使命が。
それは、並大抵の者では成し得ぬ遥かなる旅路。数多の者が挑み、半ばで散って逝った屍の道。
先人達に倣い、褪せ人も呆気なく死んだ。だが、彼は他の者とは異なる決定的な違いを有していた。
【祝福の記憶】。大いなる意志の寵愛と加護とでも呼ぶべき、回生の力。
それは、死せる褪せ人を幾度と無く蘇らせ、幾度と無く彼に呼び掛けるのだ。
王となれ、と。
そうして、褪せ人は祝福の導きに従い進む。狭間の地という壊れかけた箱庭を。
そうして、褪せ人は祝福の導きに従い斃す。戦士、英雄、怪物、行く手を阻むありとあらゆる怨敵を。
そうして、燃え盛る黄金樹の、焼き焦がされた拒絶の荊を越えた先。そこで、褪せ人は遂に対面した。
囚われた女王マリカに。
或いは、彼女の王配ラダゴンに。
遥かなる旅路の終着点、黄金樹の舞台の上で繰り広げられる戦いは、熾烈且つ凄惨であった。
半ば破損した石槌を以って褪せ人を叩き潰し、黄金の光槍を以って褪せ人を貫き、光を伴う震脚を以って褪せ人を吹き飛ばす。
黄金律の権化、エルデの王ラダゴン。
かの者の威容はまさしく万夫不当、一騎当千。
しかし、褪せ人にとってのラダゴンは、これまでに幾度と無く経験した苦難の一つに過ぎなかった。
交錯を繰り返す度に、褪せ人の立ち回りは洗練されてゆく。敵を殺せる鋭さまで、精神が研ぎ澄まされてゆく。
幾度となく展開される攻防の折、ラダゴンが地を蹴った。
瞬く間に縮まる彼我の距離。褪せ人の顳顬を砕かんと、唸りを上げて迫り来る槌。
直後、甲高い金属音が響き渡る。飛び散ったのは、褪せ人の頭蓋ではなく火花。
パリィ。横薙ぎに振われたラダゴンの英雄的殴打を、褪せ人は完璧なタイミングで弾き返したのだ。
そのまま流れるようにして、大きく姿勢を崩したラダゴンの鳩尾に致命の一撃を見舞う。
それで決着だった。彼が掲げし黄金は、褪せ人に宿る不滅の前には無力だったのだ。
やがて、横たわる亡骸の周囲に黒い靄が濛々と湧き上がる。ラダゴンの内に宿るエルデンリングが消えてゆく。
直後、黒い靄から巨大な右腕が這い出てきた。
その腕はラダゴンを掴み、靄の中へと深く沈めてしまう。やがて、入れ替わるようにして握られた黄金の剣と共に、それは顕現した。
律たる概念の具現、大いなる意思の眷獣。
ラダゴンは最後の敵にあらず。
最後の敵は器ではなく、その中身であった。
尋常ならざる神威を前に、褪せ人は再び臨戦態勢に移る。そして、己が得物を携えながら疾駆した。
褪せ人がやるべき事は変わらない。前に立ちはだかるのなら、排除するだけなのだから。
それが、どれだけ強い英雄であっても。それが、どれだけ恐ろしい怪物であっても。たとえ、神であっても。
そして、数え切れぬほどの死と再生を繰り返した果て。褪せ人はエルデの王となる。
筈だった。
視界の端まで続く水面、柱のように屹立する無数の黄金樹の幹。空を照らす、朝焼けめいた陽光。
そんな、世界と世界を隔てる戦場にて、矮小な一人と強大な一柱が互いに向かい合う。
片や、半ばまで砕けた鎧を身に纏い、得物を構え。片や、半ばまで砕けた身体を引き摺り、水面に手をつく。
両者共に満身創痍。されど、形勢は褪せ人の方へと傾いていた。敵の命は残り僅か。あと一太刀浴びせれば全てが終わる。
過ぎ去った栄華諸共、壊れゆくか。新たなる時代を求め、革新するか。もう間も無く、選定の時が来る。
しかし、最後の攻防が始まる瀬戸際。エルデの獣は、唐突に動きを止めた。
そのまま、小刻みに震え始めたかと思えば。弾かれるように身を起こし、号哭を上げた。
声無き叫びに呼応するかの如く、無数に乱立する黄金樹の幹が更なる光を放つ。
高周波と共に生じる振動に、水面が止め処なく揺らぐ。
看過すれば、敗ける。これまでに一度も見た事の無い挙動を受け、褪せ人は決着を急いだ。
走る、走る、ひた走る。褪せ人は一際強く水面を蹴って躍り掛かる。神殺しを成すために、今も尚叫び続けるエルデの獣へ迫る。
そして、エルデの獣へ得物を突き出した刹那。視界と世界が、白く眩い光に包まれた。
かつて、王となるべき運命があった。エルデンリングが砕けたとき、それは遥かな使命となった。
しかし、エルデの玉座は未だ空席のまま。その刃は、神には届かなかった。その使命は、果たされる事は無かった。
落ちた葉は、何かを伝える前に何処かへ飛んでゆく。
そうして、褪せ人は狭間の地を追放された。
壊れた神。エルデの獣の権能によって。
各地で灯してきた祝福の繋がりも途絶しており、転送もままならず。自ら命を絶っても、何故かその場で蘇ってしまう。
すっかり手持ち無沙汰となり、今まで手に入れてきた戦利品を眺めていたところで見つけたのが、この【祝福擬き】。
各地に点在する祝福と同じように、行くべき道を光跡で示す代物だ。指し示す方角は、無作為かつ無秩序なのだが。
そんな【祝福擬き】の導きに従った結果。褪せ人は、この大海原を臨む断崖絶壁に辿り着いた。
「………………」
此処まで至った経緯を振り返り終えたところで、褪せ人は沿岸をなぞるように歩き出す。
現在、褪せ人が思い浮かべている選択肢は二つ。
一つ目は、トレントの言う通りに大人しく元来た道を戻る事。
見知らぬ土地の内陸部を探索するというのは、極めて無難な判断だ。
二つ目は、未だに水平線の彼方を指す【祝福擬き】の導きに従い、海へ飛び込む事。
狭間の地は海に囲まれている。分の悪い賭けだが、上手い具合に目的地へ流れ着くかもしれない。
「………………」
沖から吹いた潮風に外套が揺れる。荒波と岩肌がぶつかり合い、水飛沫を散らす。
断崖から海までの高低差は、アルター高原からリエーニエといった所。落ちれば間違いなく即死だろう。
しかし、初めて戦った敵である接ぎ木の貴公子に敗れ、海に放り込まれた時もどうにかなった。寧ろ、あそこも断崖絶壁だった。
【この先、ジャンプが有効だ】
褪せ人は幻視する。飛び込むには最適な断崖の先端に、狭間の地で世話になったメッセージを。
「………………」
海の向こうを目指して直進するか、陸を探索する為に後退するか。
やがて、幾許かの思案の末、褪せ人の足は緩慢と動き出す。
褪せ人は選んだ。如何に愚かしい選択であったとしても、一縷の望みに賭ける事を。
褪せ人は飛んだ。足が着かなくなった瞬間水没する程のカナヅチだというのに、荒れ狂う海へと。
そして、褪せ人は海の藻屑となった。
微睡むような静謐に浸る街の一角。漠然と広がる暗闇を、一定の間隔で設置された街灯が仄かに照らしている。
石のブロックで舗装された道を踏み鳴らす跫音が、唯一発せられる音。誰も彼もが寝静まった夜更けに、一人家路を辿る少女が居た。
腰まで伸びた濡れ羽色の髪。ほっそりと尖った耳。過度なまでに肌の露出を抑えた白装束。前を見据える赤緋の双眸は、微かな憂いを湛えている。
少女が身に纏う、どこか浮世離れした雰囲気は、時間帯も相まって物の怪の類か何かと見紛えるかもしれない。
そんな、伴う者も居ない道中。道も半ばに差し掛かった頃合いで、向かい風が吹いた。
少女の黒髪が流れるように靡く。冷ややかな風の音が、周囲に鳴り響く。
やがて、徐々に勢いが弱まり、完全に吹き止む間際。
少女を目掛けて上空から何かが飛来してきた。
「………………?」
反射的に受け止めて、少女は手のひらの中に視線を合わせる。
そこに収まっていたのは、色褪せた落ち葉。それだけならば、少女は大して気にも留めずに放り捨てていただろう。
しかし、その落ち葉が持つ特徴は、この都市近辺の植生には見られない。それどころか、初めて目にする珍しい物だった。
「………………」
色褪せた落ち葉が有しているのは、微かな黄金の名残。この葉が枝から落ちる前は、さぞかし燦然とした色合いだった事だろう。
少女は予感を覚えた。この落ち葉が、この瞬間、この場所へ舞い降りてきた偶然に。
もしかしたら、これは何かが起こる前触れなのかもしれない。鬱屈とした現状を大きく変える何かが。
だが、そうやって眺めている途中。再び吹いた風が少女の手の中にある落ち葉を攫って行った。
後を追うようにして振り返るものの、既に夜の闇へと消え去ってしまっている。
「……何を考えているんだ、馬鹿馬鹿しい」
胸中に浮かぶ喪失感を、少女は一笑に付す。そして、止まっていた足を再び動かす。
これから訪れる未来に何が待ち受けていようとも、為すべき事は変わらない。
この身体は、この意志は、この魂は。唯一手を差し伸べてくれた神にのみ捧げると、少女は誓ったのだから。
心の内を反映するかのように、夜は段々と更けてゆく。朝日は未だ程遠く、少女を照らす事は無い。
あるいは無秩序な導きの先にこそ。
本当の出会いがあるのかもしれない。
そんな言葉を、落ちた葉は人知れず伝えていた。