ゴマの町に、そして難民キャンプに、平和は来なかった。それどころか、ルワンダで百万人以上を殺害したツチ族とフツ族の民族対立は、そのまま国境を越えて、隣のザイールに波及してきた。
ルワンダ虐殺(1994年4月-7月)からほぼ2年たった1996年4月、ザイールの東部、つまり難民キャンプのあったゴマを含む地域から、ロラン・カビラが率いる反乱軍が武装蜂起した。この反乱軍は、翌年までにザイールを東から西に攻めのぼった。1997年5月には、首都キンシャサを制圧し、ロラン・カビラは大統領に就任、国名もザイールからコンゴ民主共和国に変更した。
ところが、このカビラ大統領の政権は、政府や軍部のなかでツチ族系の追放を始めた。そのために、1998年8月、ツチ族が主流の東部地域で、ふたたび反政府の軍事蜂起が起こった。この反乱には、ツチ族が主体のルワンダ、ウガンダなどの周辺国が後押しした。一方で政府側には、アンゴラ、ナミビア、ジンバブエなどの周辺国が後押しした。つまり、代理戦争である。コンゴ民主共和国には、銅、ダイヤモンド、タンタル、コバルトといった貴重な鉱物資源が豊富にあった。戦争は、利権確保のために戦われた。
混乱した内戦により、住民が巻き添えになる。戦闘だけでなく、村落の疲弊、食糧難、疾病などが原因で、数百万人の人々が命を失った。度重なる和平交渉と合意にもかかわらず、この地域の内戦は、現在もまだ完全には収まっていない。
自衛隊はルワンダ難民支援の任務を終え、私はそれに先立ってゴマを引き上げていた。全く違う場所で、全く違う仕事をしながらも、あのゴマを含む、ザイール(現コンゴ民主共和国)東部地域が、再び混乱と無慈悲な戦争に巻き込まれているという報道が伝わってくるたびに、私は心を痛めずにはおれなかった。
あのニイラゴンゴ火山の溶岩台地にテント生活を送っていた、何十万と言う難民たちは、どうなったのだろうか。国に帰る見通しもないまま、避難先で再び戦乱に巻き込まれたのであろうか。そして、物理の先生や、ゴマ市長をはじめ、私の出会った人々。平和への希望を持って生きていた人たち。彼らも、巻き添えになって命を落としたのだろうか。
それから15年の月日が過ぎた。
私は大使となって、コートジボワールに赴任して、アビジャンで外交団とのおつきあいを重ねている。あるとき、コンゴ民主共和国の大使(女性)と、四方山話をしている。彼女に私は言う。ゴマには2ヶ月ほど住んだことがありましてね。火山は見事だし、湖は綺麗で静かで、森は深くてゴリラなどがいて、素晴らしいところでしたよ。
そして、私はコンゴ大使に言った。ゴマ市の市民が、難民流入という、降って湧いた災難なのに、文句も言わずに粛々と難民を受け入れて、ともに苦境を乗り越えようとしていた姿に感銘を受けました。とくに、一緒に仕事をしたマシャコさんという市長がいて、彼の的確な仕事ぶりに感心しました。ほんとうに能力のある人だったのですけれど、今頃どうしているのか。あれから東部地域におこった動乱のことを考えると、無事に生き延びているのかさえも心配です。
「マシャコなら、知っているわよ。」
とコンゴ大使が言いだす。
「ゴマ市長だった、マシャコ・マンバでしょう。知っているわよ。あれから、中央に出て来て、保健大臣になったわ。今は大臣を辞めたけれど、国会議員としてキンシャサで活発に活動しているわ。」
なんと、マシャコ市長は生きているどころか、大臣になっていた。有能だったから、きっと目を付けられて抜擢されたのだろう。平和の困難なときにも、厳しい動乱の中でも、志の高い人は生き抜いて、自分の使命を追い続けるのだ。マシャコ市長は健在である。私は自分のことのように嬉しく思った。
ルワンダ虐殺(1994年4月-7月)からほぼ2年たった1996年4月、ザイールの東部、つまり難民キャンプのあったゴマを含む地域から、ロラン・カビラが率いる反乱軍が武装蜂起した。この反乱軍は、翌年までにザイールを東から西に攻めのぼった。1997年5月には、首都キンシャサを制圧し、ロラン・カビラは大統領に就任、国名もザイールからコンゴ民主共和国に変更した。
ところが、このカビラ大統領の政権は、政府や軍部のなかでツチ族系の追放を始めた。そのために、1998年8月、ツチ族が主流の東部地域で、ふたたび反政府の軍事蜂起が起こった。この反乱には、ツチ族が主体のルワンダ、ウガンダなどの周辺国が後押しした。一方で政府側には、アンゴラ、ナミビア、ジンバブエなどの周辺国が後押しした。つまり、代理戦争である。コンゴ民主共和国には、銅、ダイヤモンド、タンタル、コバルトといった貴重な鉱物資源が豊富にあった。戦争は、利権確保のために戦われた。
混乱した内戦により、住民が巻き添えになる。戦闘だけでなく、村落の疲弊、食糧難、疾病などが原因で、数百万人の人々が命を失った。度重なる和平交渉と合意にもかかわらず、この地域の内戦は、現在もまだ完全には収まっていない。
自衛隊はルワンダ難民支援の任務を終え、私はそれに先立ってゴマを引き上げていた。全く違う場所で、全く違う仕事をしながらも、あのゴマを含む、ザイール(現コンゴ民主共和国)東部地域が、再び混乱と無慈悲な戦争に巻き込まれているという報道が伝わってくるたびに、私は心を痛めずにはおれなかった。
あのニイラゴンゴ火山の溶岩台地にテント生活を送っていた、何十万と言う難民たちは、どうなったのだろうか。国に帰る見通しもないまま、避難先で再び戦乱に巻き込まれたのであろうか。そして、物理の先生や、ゴマ市長をはじめ、私の出会った人々。平和への希望を持って生きていた人たち。彼らも、巻き添えになって命を落としたのだろうか。
それから15年の月日が過ぎた。
私は大使となって、コートジボワールに赴任して、アビジャンで外交団とのおつきあいを重ねている。あるとき、コンゴ民主共和国の大使(女性)と、四方山話をしている。彼女に私は言う。ゴマには2ヶ月ほど住んだことがありましてね。火山は見事だし、湖は綺麗で静かで、森は深くてゴリラなどがいて、素晴らしいところでしたよ。
そして、私はコンゴ大使に言った。ゴマ市の市民が、難民流入という、降って湧いた災難なのに、文句も言わずに粛々と難民を受け入れて、ともに苦境を乗り越えようとしていた姿に感銘を受けました。とくに、一緒に仕事をしたマシャコさんという市長がいて、彼の的確な仕事ぶりに感心しました。ほんとうに能力のある人だったのですけれど、今頃どうしているのか。あれから東部地域におこった動乱のことを考えると、無事に生き延びているのかさえも心配です。
「マシャコなら、知っているわよ。」
とコンゴ大使が言いだす。
「ゴマ市長だった、マシャコ・マンバでしょう。知っているわよ。あれから、中央に出て来て、保健大臣になったわ。今は大臣を辞めたけれど、国会議員としてキンシャサで活発に活動しているわ。」
なんと、マシャコ市長は生きているどころか、大臣になっていた。有能だったから、きっと目を付けられて抜擢されたのだろう。平和の困難なときにも、厳しい動乱の中でも、志の高い人は生き抜いて、自分の使命を追い続けるのだ。マシャコ市長は健在である。私は自分のことのように嬉しく思った。
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