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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

平和は必ず来る

2009-10-27 | Weblog
アフリカの奥地に住む人たちというと、これはもう随分私たちとは違った人たちなのだろう、と考えていた。現代生活からはいろいろな意味で取り残されて、文化程度も考え方もおおよそ異なっていることだろう。民族が違うというだけで、恐ろしい虐殺を平気で行ってしまう人々である。アフリカの深い森林の中では、きっと生死の価値も私たちとはかなり違うのだ。私はルワンダ難民の支援に出向く前に、蔑視というのではないにしても、そういう風に思っていた。

現地(ザイールのゴマ)で自衛隊と一緒に活動を始めてから、こういう見方は大きな誤りであると分った。アフリカの人々も、私たちと全く同じ人々である。この遠く離れた地にあっても、全く異なった自然条件や社会背景を抱えていても、一人ひとりは私と何ら変わることのない、常識や情愛や判断を持った人間である。それはゴマの人々だけでなく、あの悲惨な経験を経たのちも、さらに過酷な生活環境を余儀なくされているルワンダ難民の人々でさえ、そうであった。

ゴマ市のマシャコ市長の話は、先に書いた。難民の大量流入という一大事を前にして、市民の生活を護り、難民たちを救済するために、骨身を惜しんで働いていた。政府調整員として、私は平屋の市庁舎に出かけ、マシャコ市長と頻繁に打ち合わせをした。マシャコ市長には、部下と言えるような人は殆どいないようであったけれど、それにもかかわらず、てきぱきと案件を処理した。そういう姿に、私たち日本人とまったく同じ、仕事への情熱と使命感を感じたものである。

ルワンダから逃げてきた難民の人々は、それは酷い生活をしていた。何百キロという距離を、民兵の影におびえながら、またコレラや赤痢などの疫病に苦しみながら、歩いてやっと辿り着いた難民キャンプ。しかし、そこでも生活は尋常ではなかった。地面に布を敷き、ビニールシートを被せただけの寝床に起居し、将来の見通しもなく、ただ配給の食糧を頼りながら、日々を過ごしていた。

私はしばしば難民キャンプを訪れ、難民の人々と話をする機会を持った。彼らは格好こそ着替えもない一張羅で、まるで浮浪者のようであったけれど、中身は普通の人々であった。日本が支援に来ていることで、皆喜んでいた。私は、多くの人々から手招きを受けた。日本は、ルワンダが平和だったころに、ずいぶん支援をしていたという。日の丸バスの話を、多くの人が私にしてくれた。バス路線が日本の支援で整備されたのだという。

意外に思ったことに、彼らの多くが首都キガリから逃れてきていて、以前は私たちと何ら変わりない都市生活を送っていた人々であった。家にはテレビがあり、冷房があり、車があった。ある人は私に言った。自分は、タクシー会社を経営していた。車両は皆置いてきた。もう盗られて無くなっているだろう。しかし、こうして家族が皆助かっただけ、自分は幸福だ。ある人は、自分はビジネスマンだった、という。キガリでは、背広を着てネクタイを締め、毎日アタッシュケースを持って、商談に歩いていた。ある人は病院の先生だった。会社の事務所でタイピストとして働いている女性もいた。要するに、私たち自身と何ら変わりなく、私たちの日常生活でも出会うような人々である。

忘れることのできない難民の人がいる。彼は、私にぜひ自分のテントに来てほしいといった。求めに応じて赴くと、むき出しの地面に一人が寝る場所があるだけの、小さなテントである。彼はその地面に、木の板を渡して、何やら袋に入れて大事に置いていた。その中身を取り出して見せてくれた。十冊ばかりの本であった。

「私は高校の教師で、物理を教えています。平和が戻ったら、私は生徒たちを教えなければ。だから、この本を担いできました。」
物理学の本を見せながら、髭の伸びきった、痩せた男はそう私に言った。少し誇らしげであった。どんな逆境にあっても、彼は自分が教師であることを忘れなかった。彼は逃げるにあたり、数百キロの道のりを覚悟しつつ、持てるわずかな荷物に物理の本を選んだのである。私はこの難民の先生に、平和は必ず来る、と精一杯の言葉をかけた。

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