一口に難民キャンプといっても、どういうものか簡単には想像がつかないだろう。1994年4月から8月までの間に、殺戮を逃れてルワンダから流出した難民の数は、ゴマ周辺の国境地帯だけで、約90万人に上った。ゴマの近くには、ニイラゴンゴ山という、後に噴火して溶岩を流す活火山が、美しいコニーデ型の威容を誇っていた。難民たちは、その火山の山麓に、3ヶ所に分れてテント生活を送っていた。
まさに見渡す限りのテント村である。難民には国際援助機関から、おそらく1家族ごとに1枚のビニールシートが提供され、簡単に木を組んだだけの雨避けを作って、そこで生活していた。そういった難民のテントが、何千何万と、なだらかな溶岩台地に、無秩序なモザイク模様を描いていた。
その難民キャンプに、食料、医療、給水その他の人道支援のための、たくさんの国際機関やNGOが、華やかに活動を繰り広げていた。そうした人道支援団体は、モザイク模様の難民キャンプの中に、活動の旗を立てていた。「国境なき医師団」、「CARE」、「カリタス」、「OXFAM」。そうした国際大手のNGOの旗が、見渡す限りの難民キャンプに、無数に掲げられているさまは、まるで戦陣に武将の旗印が居並ぶかのようであった。
私はさすがに国際大手NGOだ、その資金力と人的動員力で、これだけの存在感が示せるものだ、と感心した。白地にロゴを染め抜いた旗は、悲惨と混沌が重なりあう情景のなかに、まさに救世主の希望を象徴していた。そして、医療関係の活動で著名なあるNGOの、大きな旗が掲げられているところの一つに行ってみた。そこには、小さなテントが設置されていて、一人の男が座っていた。
聞くと、彼自身も難民で、そのNGOに雇われたのだという。そこにただ座っていればいいという仕事である。彼が足元に置いていたのは、一箱の救急箱であった。それ以外に診察台も医療器具もない。旗は、そこに救急箱が置いてあるという以上のことを、意味していなかった。
そのNGOにとっては、実際の医療活動はともかくも、旗を高らかに掲げて存在を主張することが重要であるかのようだった。どこを向くか分からない報道カメラの絵に、しっかりと捉えられる必要もあろう。また、その場所一帯は自分たちの「陣地」であると主張する必要もあろう。いずれにしても、たくさん掲げられた旗印は、NGOの広告塔以上のものではなかった。
一面に翻る欧米各国のNGOの旗の中に、残念ながら、日本のNGOの旗は全く見つからない。いや、まったく無いわけではなかった。難民キャンプの奥に訪ねていくと、日本のNGOが医療支援をしていた。「AMDA」という、岡山県の医師たちが創設したNGOであった(正式名:「アジア医師連絡協議会」)。「AMDA」は、比較的大きめのテントを張って、机を並べ、ベッドを置いて、診療活動をしていた。ほんもののお医者さんが2人と、何人かの医療補助員が働いていた。そして、やってくる難民の一人一人を診察して、なんとカルテを書いていた。
こういうことだから、日本は存在感の面で負けるのだ、と私はつぶやいた。こう言っては身も蓋もないけれど、大きな人道の悲劇の前では、どんなに熱心な支援活動も、所詮は砂漠に水を撒くようなものである。何十人、いやたとえ何百人に医療サービスを提供できたとしても、90万人の難民が直面する疾病や衛生の危機には、そもそも殆ど無力である。むしろ、ここは人道支援のオリンピック競技場なのだと、割り切って考えるべきなのだ。欧米のNGOのように、活動を展開している様子を世界に訴える、もっと粗雑にいえば、目立つことを主眼にするべきではないか。
それを、日本のNGOは、難民キャンプの目立たない奥のほうに、まことに慎ましやかにテントを立て、ほんとうにお医者さんまで送り込んで活動している。まして、一人一人にカルテとは。真面目に取り組む姿勢は分かるけれど、ここまで来れば馬鹿正直というものだ。むしろ、人件費を減らし、一般薬の大量購入にまわして、難民キャンプのあちこちで、旗を立てて配ったほうが、余程大勢の人に存在を訴えることが出来るのに。私は、忙しく立ち働く「AMDA」のスタッフに労いの声をかけながらも、日本の人道支援活動はまだまだ素人芸だと、ため息をついていた。
3週間ほどして、また用事があったので、「AMDA」の診療所を訪れた。なんと驚いた。黒山の人だかりなのだ。たくさんの人々が、病気で疲れた体を横たえながら、テントの前で診察の順番を待っている。「AMDA」の医師と看護師は、さらに忙しく立ち働いていた。ぐったりした娘を抱えた母親がいた。私は尋ねた。どこから来たの。
「ムグンガ」
と、その母親は答えた。私はさらに驚いた。ムグンガ・キャンプといえば、この「AMDA」の診療所から20キロも離れた場所である。
難民たちは、日本のNGOのお医者さんに診察してもらおうと、あちこちから集まってきていた。日本のお医者さんならきちんと診てくれる、病気を治してくれると、評判は20キロ先のキャンプまで伝わっていた。娘の容体を案ずる一心で、日本の診療所目指して、娘を抱えてその距離を歩いてきた母親の気持ちが、とても痛かった。
日本のNGOは、立派な旗を立てていた。難民キャンプの全景にではない。難民の人々の心に、しっかりと旗を立てていた。
まさに見渡す限りのテント村である。難民には国際援助機関から、おそらく1家族ごとに1枚のビニールシートが提供され、簡単に木を組んだだけの雨避けを作って、そこで生活していた。そういった難民のテントが、何千何万と、なだらかな溶岩台地に、無秩序なモザイク模様を描いていた。
その難民キャンプに、食料、医療、給水その他の人道支援のための、たくさんの国際機関やNGOが、華やかに活動を繰り広げていた。そうした人道支援団体は、モザイク模様の難民キャンプの中に、活動の旗を立てていた。「国境なき医師団」、「CARE」、「カリタス」、「OXFAM」。そうした国際大手のNGOの旗が、見渡す限りの難民キャンプに、無数に掲げられているさまは、まるで戦陣に武将の旗印が居並ぶかのようであった。
私はさすがに国際大手NGOだ、その資金力と人的動員力で、これだけの存在感が示せるものだ、と感心した。白地にロゴを染め抜いた旗は、悲惨と混沌が重なりあう情景のなかに、まさに救世主の希望を象徴していた。そして、医療関係の活動で著名なあるNGOの、大きな旗が掲げられているところの一つに行ってみた。そこには、小さなテントが設置されていて、一人の男が座っていた。
聞くと、彼自身も難民で、そのNGOに雇われたのだという。そこにただ座っていればいいという仕事である。彼が足元に置いていたのは、一箱の救急箱であった。それ以外に診察台も医療器具もない。旗は、そこに救急箱が置いてあるという以上のことを、意味していなかった。
そのNGOにとっては、実際の医療活動はともかくも、旗を高らかに掲げて存在を主張することが重要であるかのようだった。どこを向くか分からない報道カメラの絵に、しっかりと捉えられる必要もあろう。また、その場所一帯は自分たちの「陣地」であると主張する必要もあろう。いずれにしても、たくさん掲げられた旗印は、NGOの広告塔以上のものではなかった。
一面に翻る欧米各国のNGOの旗の中に、残念ながら、日本のNGOの旗は全く見つからない。いや、まったく無いわけではなかった。難民キャンプの奥に訪ねていくと、日本のNGOが医療支援をしていた。「AMDA」という、岡山県の医師たちが創設したNGOであった(正式名:「アジア医師連絡協議会」)。「AMDA」は、比較的大きめのテントを張って、机を並べ、ベッドを置いて、診療活動をしていた。ほんもののお医者さんが2人と、何人かの医療補助員が働いていた。そして、やってくる難民の一人一人を診察して、なんとカルテを書いていた。
こういうことだから、日本は存在感の面で負けるのだ、と私はつぶやいた。こう言っては身も蓋もないけれど、大きな人道の悲劇の前では、どんなに熱心な支援活動も、所詮は砂漠に水を撒くようなものである。何十人、いやたとえ何百人に医療サービスを提供できたとしても、90万人の難民が直面する疾病や衛生の危機には、そもそも殆ど無力である。むしろ、ここは人道支援のオリンピック競技場なのだと、割り切って考えるべきなのだ。欧米のNGOのように、活動を展開している様子を世界に訴える、もっと粗雑にいえば、目立つことを主眼にするべきではないか。
それを、日本のNGOは、難民キャンプの目立たない奥のほうに、まことに慎ましやかにテントを立て、ほんとうにお医者さんまで送り込んで活動している。まして、一人一人にカルテとは。真面目に取り組む姿勢は分かるけれど、ここまで来れば馬鹿正直というものだ。むしろ、人件費を減らし、一般薬の大量購入にまわして、難民キャンプのあちこちで、旗を立てて配ったほうが、余程大勢の人に存在を訴えることが出来るのに。私は、忙しく立ち働く「AMDA」のスタッフに労いの声をかけながらも、日本の人道支援活動はまだまだ素人芸だと、ため息をついていた。
3週間ほどして、また用事があったので、「AMDA」の診療所を訪れた。なんと驚いた。黒山の人だかりなのだ。たくさんの人々が、病気で疲れた体を横たえながら、テントの前で診察の順番を待っている。「AMDA」の医師と看護師は、さらに忙しく立ち働いていた。ぐったりした娘を抱えた母親がいた。私は尋ねた。どこから来たの。
「ムグンガ」
と、その母親は答えた。私はさらに驚いた。ムグンガ・キャンプといえば、この「AMDA」の診療所から20キロも離れた場所である。
難民たちは、日本のNGOのお医者さんに診察してもらおうと、あちこちから集まってきていた。日本のお医者さんならきちんと診てくれる、病気を治してくれると、評判は20キロ先のキャンプまで伝わっていた。娘の容体を案ずる一心で、日本の診療所目指して、娘を抱えてその距離を歩いてきた母親の気持ちが、とても痛かった。
日本のNGOは、立派な旗を立てていた。難民キャンプの全景にではない。難民の人々の心に、しっかりと旗を立てていた。
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