コンパオレ大統領を迎えての、バグボ大統領主催の晩餐会である。午前中の国会演説に引き続き、また外交団が呼ばれているので、私も出席している。歌や漫談などの余興が一段落したあと、挨拶に立ったバグボ大統領が、突拍子もない話を始めた。
「90年代初めの、ウフエボワニ大統領の頃ですがね。まだ合法化されて間もない人民党(FPI)、つまり私の党の幹部が、アビジャン空港で警察に捕まった事件がありましたね。この幹部は、2千万フラン(5百万円)を携行しておったわけです。」
当時有名だった事件のようである。
「このお金、実はコンパオレ大統領が、私たちの活動経費として提供してくれた資金だったのです。」
今だから話す、という風である。
「そう、コンパオレ大統領は、私の党が野党なので、助けてくれていたのです。」
それは、政治工作というものではないか。いくら昔のこととはいえ、隣国の政権にとっての政敵に資金を送っていたというようなことを暴露されて、コンパオレ大統領は苦々しく思っているのではないか。でも、バグボ大統領の真意は、私の心配とは全く別のところにある。
「このように、私とコンパオレ大統領は、古くから助け合ってきた、友人なのであります。」
これが言いたかった。
実際のところ、過去の経緯からは、バグボ大統領とコンパオレ大統領は、仇敵どうしと考えられていた。2002年9月19日に始まり、以後コートジボワールの国を南北に分断した、北からの反乱軍の攻勢。その背後にコンパオレ大統領がいると非難したのは、バグボ大統領の党、人民党である(同年9月24日)。ブルキナファソ側は怒って、それ以降、両国間国境を封鎖し、電話回線も切断してしまった。
そして、コンパオレ大統領も負けていない。翌2003年1月21日には、フランスの通信社の取材に応えて、次のように言い放った。
「バグボ大統領は、ミロシェビッチ元大統領(セルビア)のように国際刑事裁判所送りだ。バグボ大統領は、自分の信奉者を使って、ブルキナファソ移民に対して、度重なる殺戮を行っているからだ。」
そうした両者の緊張関係が続いたあと、両大統領が顔を合わせて話をするようになったのは、ずっと後、2007年2月になってから、という経緯である。私などは、ワガドゥグ合意(2007年3月)のもとで、コンパオレ大統領が「周旋者」として活躍しているところしか見ていない。つまり、コンパオレ大統領が苦労して、バグボ大統領他のコートジボワール側の当事者たちの仲介に入り、一緒に写真に写っている姿しか見ていない。だから、以前にそのような冷戦時代があったなどとは思いもよらない。
かつて両国間に緊張関係があったからこそ、コンパオレ大統領を賓客として迎えるにあたって、バグボ大統領はことさらに、過去の遺恨を打ち消してみなければならないのであろう。
「それは、私たちは喧嘩をしましたよ。でも、それは友人どうしだからです。コンパオレ大統領自身の表現を借りれば、私たちは二人とも、豪胆な性格です。だから、何かあったら、それは行くところまで行く。」
よく分らない説明ではあるが、昔殴り合ったことがあるにしても、二人は恩讐を越えた友人で、敵ではないということを言いたいようである。
政治工作や、あからさまな非難合戦などに慣れていない私などは、殴りあったり抱き合ったりの外交関係を見て、素直に驚いている。バグボ大統領の暴露話を聞きながら思う。コンパオレ大統領が、かつて相手の政敵に堂々と資金支援をしていた、ということは、後に反乱軍を支援したとしても変ではない、ということになるのではないかな。そう思いながらも、まあここは西アフリカであるから、こういう二国間関係もあるのだろう、と深入りしないようにしよう。
ともかくも、バグボ大統領はコンパオレ大統領を賓客に招き、コートジボワールとブルキナファソとの緊密な関係を誇示している。そういえば、バグボ大統領は、独立記念日には、ブルキナファソ人の農夫を褒めた演説を行った。ことさらにブルキナファソの友人を謳って見せることには、何か裏の意味があるのではないか。この世界を観察しているうちに、そのように思うようになってしまっている。
「90年代初めの、ウフエボワニ大統領の頃ですがね。まだ合法化されて間もない人民党(FPI)、つまり私の党の幹部が、アビジャン空港で警察に捕まった事件がありましたね。この幹部は、2千万フラン(5百万円)を携行しておったわけです。」
当時有名だった事件のようである。
「このお金、実はコンパオレ大統領が、私たちの活動経費として提供してくれた資金だったのです。」
今だから話す、という風である。
「そう、コンパオレ大統領は、私の党が野党なので、助けてくれていたのです。」
それは、政治工作というものではないか。いくら昔のこととはいえ、隣国の政権にとっての政敵に資金を送っていたというようなことを暴露されて、コンパオレ大統領は苦々しく思っているのではないか。でも、バグボ大統領の真意は、私の心配とは全く別のところにある。
「このように、私とコンパオレ大統領は、古くから助け合ってきた、友人なのであります。」
これが言いたかった。
実際のところ、過去の経緯からは、バグボ大統領とコンパオレ大統領は、仇敵どうしと考えられていた。2002年9月19日に始まり、以後コートジボワールの国を南北に分断した、北からの反乱軍の攻勢。その背後にコンパオレ大統領がいると非難したのは、バグボ大統領の党、人民党である(同年9月24日)。ブルキナファソ側は怒って、それ以降、両国間国境を封鎖し、電話回線も切断してしまった。
そして、コンパオレ大統領も負けていない。翌2003年1月21日には、フランスの通信社の取材に応えて、次のように言い放った。
「バグボ大統領は、ミロシェビッチ元大統領(セルビア)のように国際刑事裁判所送りだ。バグボ大統領は、自分の信奉者を使って、ブルキナファソ移民に対して、度重なる殺戮を行っているからだ。」
そうした両者の緊張関係が続いたあと、両大統領が顔を合わせて話をするようになったのは、ずっと後、2007年2月になってから、という経緯である。私などは、ワガドゥグ合意(2007年3月)のもとで、コンパオレ大統領が「周旋者」として活躍しているところしか見ていない。つまり、コンパオレ大統領が苦労して、バグボ大統領他のコートジボワール側の当事者たちの仲介に入り、一緒に写真に写っている姿しか見ていない。だから、以前にそのような冷戦時代があったなどとは思いもよらない。
かつて両国間に緊張関係があったからこそ、コンパオレ大統領を賓客として迎えるにあたって、バグボ大統領はことさらに、過去の遺恨を打ち消してみなければならないのであろう。
「それは、私たちは喧嘩をしましたよ。でも、それは友人どうしだからです。コンパオレ大統領自身の表現を借りれば、私たちは二人とも、豪胆な性格です。だから、何かあったら、それは行くところまで行く。」
よく分らない説明ではあるが、昔殴り合ったことがあるにしても、二人は恩讐を越えた友人で、敵ではないということを言いたいようである。
政治工作や、あからさまな非難合戦などに慣れていない私などは、殴りあったり抱き合ったりの外交関係を見て、素直に驚いている。バグボ大統領の暴露話を聞きながら思う。コンパオレ大統領が、かつて相手の政敵に堂々と資金支援をしていた、ということは、後に反乱軍を支援したとしても変ではない、ということになるのではないかな。そう思いながらも、まあここは西アフリカであるから、こういう二国間関係もあるのだろう、と深入りしないようにしよう。
ともかくも、バグボ大統領はコンパオレ大統領を賓客に招き、コートジボワールとブルキナファソとの緊密な関係を誇示している。そういえば、バグボ大統領は、独立記念日には、ブルキナファソ人の農夫を褒めた演説を行った。ことさらにブルキナファソの友人を謳って見せることには、何か裏の意味があるのではないか。この世界を観察しているうちに、そのように思うようになってしまっている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます