貧困といっても、必ずしも悲惨とはいえないのではないか。そう問いかける私に、アントニオ神父は答える。
「それはもちろん、たとえ質素な生活であっても、家族で助け合って、日々順調に過ごしていければ、明るくて楽しい生活ですよ。しかし、いったん問題が起これば、たちまち悲惨が始まります。」
現代社会では、解決にどうしても現金が必要という問題がある。病気や事故はその一つだ。現金がなければ、解決を諦めるしかない、つまり病気や怪我を、治癒できないまま諦める。現金を何とか手に入れようとするなら、重労働や暴力や犯罪の悲惨が待っている。女性なら春をひさぐ。
そういう貧しい人々の弱みに、少し権力があり、少し豊かな人々が乗じる。他に頼るすべを持たない人々から、さらに巻き上げる。貧しい人々ほど、気持ちは純朴である。その純朴さにつけ込んで、貧しい人々の無知と無力をいいことに、更に私腹を肥やす人々がいる。だから、こうした貧民街区には、マフィアがはびこる。一見明るくみえるこの地区も、見えない影が覆うという。
行政だって頼りにならない。それどころか、貧しい人々は、行政からもいいようにされる、と言う。
「この地区の公立病院にみられる事例です。医者が診察をしたあと、患者にこれこれの薬を買ってきなさいと処方します。貧しい生活から工面して、その薬を買って持っていくと、医者は、その患者に薬の一部だけ使って、あとは自分のものにしてしまうのです。」
そういう例が、次々に起こる。
「見て下さい。この下水路を。」
神父が指さす先の溝には、汚水が淀んで溜まっている。
「行政当局が下水路を作るといって、家を何軒も潰して工事を始めました。ところが、途中まで作ってそれきり沙汰止みです。工事の資金が、途中でどこかに消えてしまったようなのです。」
途中まで掘られた溝に下水が流れ込んで溜まり、かえって衛生環境は悪化した。そのような行政の不作為も、貧しい人々の話だから見過される。普通の住宅街で同じ事が起これば、たちまち訴訟になるだろう。報道に取り上げられるかもしれない。溜まった下水の横で、女性たちが、野菜を調理している。これでは病気もすぐ広がる、と神父は嘆く。無知も貧困の一つの要素だ。
信者のおばさんの一人が、働いていた店から使い込みを訴えられて、拘置所に収監された。たとえ有罪であったとしても2年くらいの刑期のところを、裁判が行われないで、すでに5年も拘置所に留置されたままになっている。アントニオ神父は、彼女を救おうと活動を始めた。ところが書類を揃えても、裁判所が受け付けてくれない。何度も陳情に行くのだが、相手にされない。
「結局、袖の下が出せないから、物事が動かない。裁判官は社会正義の守り手であるなんて、ここでは大嘘です。あの建物は、不正義の館だ。」
アントニオ神父が裁判所を指さして怒る。フランス語で裁判所を「正義の館(palais de justice)」という。ここでは、「不正義の館(palais de unjustice)」になってしまっている、というのである。
貧困を、ただ単に衣食住に困窮していること、と捉えると間違う。食糧や医薬品などを提供するだけでは、ほんとうの貧困対策にはならない。貧しい質素な生活を送る人々は、理不尽な権力や、犯罪や暴力にさらされやすい。そしてそれを正すべき正義がなければ、貧困の悲惨から逃れる道は閉ざされる。政治制度や社会組織が乱れてしまったときに、真っ先に救済から疎外されてしまうのが、こうした貧しい人々である。貧困というのは、単に生活物資の不足という問題ではなく、社会正義の問題なのだ。
「それはもちろん、たとえ質素な生活であっても、家族で助け合って、日々順調に過ごしていければ、明るくて楽しい生活ですよ。しかし、いったん問題が起これば、たちまち悲惨が始まります。」
現代社会では、解決にどうしても現金が必要という問題がある。病気や事故はその一つだ。現金がなければ、解決を諦めるしかない、つまり病気や怪我を、治癒できないまま諦める。現金を何とか手に入れようとするなら、重労働や暴力や犯罪の悲惨が待っている。女性なら春をひさぐ。
そういう貧しい人々の弱みに、少し権力があり、少し豊かな人々が乗じる。他に頼るすべを持たない人々から、さらに巻き上げる。貧しい人々ほど、気持ちは純朴である。その純朴さにつけ込んで、貧しい人々の無知と無力をいいことに、更に私腹を肥やす人々がいる。だから、こうした貧民街区には、マフィアがはびこる。一見明るくみえるこの地区も、見えない影が覆うという。
行政だって頼りにならない。それどころか、貧しい人々は、行政からもいいようにされる、と言う。
「この地区の公立病院にみられる事例です。医者が診察をしたあと、患者にこれこれの薬を買ってきなさいと処方します。貧しい生活から工面して、その薬を買って持っていくと、医者は、その患者に薬の一部だけ使って、あとは自分のものにしてしまうのです。」
そういう例が、次々に起こる。
「見て下さい。この下水路を。」
神父が指さす先の溝には、汚水が淀んで溜まっている。
「行政当局が下水路を作るといって、家を何軒も潰して工事を始めました。ところが、途中まで作ってそれきり沙汰止みです。工事の資金が、途中でどこかに消えてしまったようなのです。」
途中まで掘られた溝に下水が流れ込んで溜まり、かえって衛生環境は悪化した。そのような行政の不作為も、貧しい人々の話だから見過される。普通の住宅街で同じ事が起これば、たちまち訴訟になるだろう。報道に取り上げられるかもしれない。溜まった下水の横で、女性たちが、野菜を調理している。これでは病気もすぐ広がる、と神父は嘆く。無知も貧困の一つの要素だ。
信者のおばさんの一人が、働いていた店から使い込みを訴えられて、拘置所に収監された。たとえ有罪であったとしても2年くらいの刑期のところを、裁判が行われないで、すでに5年も拘置所に留置されたままになっている。アントニオ神父は、彼女を救おうと活動を始めた。ところが書類を揃えても、裁判所が受け付けてくれない。何度も陳情に行くのだが、相手にされない。
「結局、袖の下が出せないから、物事が動かない。裁判官は社会正義の守り手であるなんて、ここでは大嘘です。あの建物は、不正義の館だ。」
アントニオ神父が裁判所を指さして怒る。フランス語で裁判所を「正義の館(palais de justice)」という。ここでは、「不正義の館(palais de unjustice)」になってしまっている、というのである。
貧困を、ただ単に衣食住に困窮していること、と捉えると間違う。食糧や医薬品などを提供するだけでは、ほんとうの貧困対策にはならない。貧しい質素な生活を送る人々は、理不尽な権力や、犯罪や暴力にさらされやすい。そしてそれを正すべき正義がなければ、貧困の悲惨から逃れる道は閉ざされる。政治制度や社会組織が乱れてしまったときに、真っ先に救済から疎外されてしまうのが、こうした貧しい人々である。貧困というのは、単に生活物資の不足という問題ではなく、社会正義の問題なのだ。
ウガンダでも、優秀な大学を卒業した学生に職が無く、政府関連の組織に親戚など知人がいるかどうかが、職を得るのに重要な要素となっていました。私の友人はキリスト教のペンテコステ派ですが、エイズなどの病気も神を信じれば治ると信じていて、神頼みしか救いの手が無いのかという事を感じて胸の痛む思いをしました。無知なのか、それしか出来ないのか、どちらの人もいるかと思いますが、それが無知だとすれば、恐ろしい現実です。また、他の友人は、現政権と反対の政権を支援した為に、暗殺されそうになり、保険会社のエリートで裕福な生活から一転して、南アフリカに亡命して公園の巡回員として暮らしています。アフリカを旅したことで、色々なことを考えさせられ、何か支援したいという単なる善意ではない気持ちが芽生えましたが、食料や医療の支援をする寄付には、ギリギリの底辺を救うことはできても、根本的な解決にはならないと感じ、政治システムや、企業のリクルートシステムなど、ギリギリの底辺を支えるのではなく、何かを変えて引っ張っていく支援が必要だと感じました。”貧困”は”貧しくて””困る”、貧しいことが原因となって、困難に直面した時に為すすべが無く”困る”ということなのでしょうね。支えるだけの寄付ではないような事に何か貢献できればと思っているのですが、何か参考になる支援団体など何か情報ございましたら教えていただけたら幸甚です。