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コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

無関心との戦争

2009-08-22 | Weblog
「無関心との僕の戦争」という本がある。私の書棚の、大切な一冊である。著者のジャンセリム・カナンは、この本を出した時(2002年)に、まだ30歳すぎ。それでも、他の誰より、現場で経験と業績を積み重ねてきた。常に問題解決の最前線に出ようとした国連職員であった。そして目の前の問題を処理する知恵と力には、並はずれたものがあった。私たちは彼のことを、コソボで「ブルドーザー」と呼んでいた。

私が彼のことを書き綴るのは、ちょうど10年前に彼とはじめて会ったとき(1999年8月)のことを思い出すからだ。そう、私は、コソボのUNMIKに着任したのに、ポストも仕事も、机さえもなく、街に放り出されていた。コソボに日本政府から派遣する政務官として、東京から勇ましく送り出された手前、現場で用無しでは、格好悪いこと甚だしい。それどころか、いったいどうやってこれからの日々を過ごせというのだろう。私は途方に暮れていた。

私はあてもなく、UNMIKの仮事務所ビルの中を放浪した。そして、ジャンセリムに会った。彼は、UNMIKのトップであるクシュネール特別代表が、パリから腹心として連れてきた男であった。もちろん彼には自分の机があって、体中に携帯電話やら、NATOの無線機やらぶら下げていた。電話や無線で誰かと話しているか、あるいは机のコンピューターで、何やら猛然と打ち込んでいた。私はジャンセリムに相談をした。「局長待遇」で来たのに、机すら与えられないのだ、どうしたものだろう。

ジャンセリムは大笑いをして、この「局長待遇の失業者」に同情してくれた。さっそくクシュネールに会えといって、多忙を極めていた特別代表との時間を作ってくれた。私はクシュネール特別代表に初めて会い、日本政府から来たのにポストがない、と窮状を訴えた。彼も私の事情に大笑いをした。一人でも手伝ってほしい状況なのに、君を遊ばせておくような無駄はありえない。そして仕事を考えると言ってくれた。

答えは1週間ほどして来た。家々を修復してほしい、という。ミロシェビッチの治安部隊は、コソボ各地の村々、とりわけ民族運動のゲリラ活動が盛んであった中部地方の村々において、民家を徹底的に破壊していた。内乱において、相手は軍ではなく民兵であった。つまり一般市民が敵だった。市民は家を焼かれ、難民となって流出した。

紛争が終わって、戻ってきたコソボの人々は、破壊された家の前でテント暮らしをしていた。今は夏だからテントでもいいけれど、やがて冬が来れば、気温は零下30度、雪も1メートルあまり積もる。早急に家屋を修復しなければ、住民に凍死者が続出し、あるいは避寒のために再び難民が流出する事態にならないとも限らない。まだ8月なのに、すでに住民たちの間で危機感が募っていて、UNMIKに陳情が相次いでいた。

「日本の資金で、家屋修復計画を実施してほしい。一つの村に数軒、皆で集まって寒さをしのげる場所を作れればいいのだ。住民たちは、お金さえくれれば、自分で資材を買って、屋根を作り直すと言っている。お金を持って行って配るだけの計画だ。日本政府に説明して、ぜひ資金を引っ張ってきてほしい。」
クシュネール特別代表は私に言った。

私は怖気づいた。そんな無茶な。自分の家さえ建てたことがないのに、何千軒も家を建てろだと。しかも、お金を住民に配るなんて。日本政府がそのような計画に、了承を下すわけはない。私は難題の前に、再び頭を抱えた。

その時に、もう一人の仕事師が現れた。井上健である。日本人の国連職員として、前任地のボンから到着したばかりであった。彼は、まさに家屋修復計画の対象となるコソボ中部の、シケンデライという町に、「市長」として赴任する段取りになっていた。

「それは、こうすればいいのです。僕にひとつ知恵がある。」
井上健はそう言って、私が不法占拠している机を引き取って、コンピューターで書類を作り始めた。彼が半日で書き上げた「計画書」は、その後日本政府から了承を得た計画の骨格となった。「お金を配る」のではなく「資材を調達してそれを配る」。そして、家が着実に修復されていくかどうか、日本人のボランティアでチームを作って指導し監視する。全体の実施管理を、日本のNGOに指揮してもらう。

一方で、ジャンセリムはフランス政府からの資金を引っ張ってきた。私は、日本政府から資金700万ドルを得た。ジャンセリムと井上健が合同で責任者となり、日仏共同の家屋修復計画が始動した。この計画の紆余曲折、計画を指揮した日本のNGO「ADRAジャパン」と、そのもとでの17人の日本人ボランティアの活躍、資材調達と輸送の困難、事故や失敗、そして次々に修復されていく家屋、喜ぶ住民の顔。そうした話を連ねると、一つの絵巻物になる。また後日、お伝えする機会があるかもしれない。

半年に及んだ計画実施の期間を通じて、ジャンセリムはいつも最前線に立って懸案の処理にあたった。私が顔をひきつらせて、発生した事故や難題を相談すると、彼は直ちに解決に向けて動いた。二人で四駆に乗って、現場を訪問したことは数限りない。そうして、2千軒以上の家屋を修復した。零下30度の冬が到来したけれど、凍死者はもちろん、危惧された越冬難民は、一人も出なかった。

ジャンセリムは、何物をも恐れなかった。国連が実施する計画として、きちんとした入札手続きを経ていない、といって、国連本部から訴追されそうになった。馬鹿な、とジャンセリムは言った。国連の手続きを真面目に守って、入札審査などしていたら、2年はかかるよ。その間に、人々は凍えて死ぬ。私は、彼の剛気に拍手をした。計画が大きな成果を上げたあと、私はクシュネール特別代表を日本に招待した。その出張に、ジャンセリムにも同行してもらった。京都の料理屋で、クシュネールもジャンセリムも私も、コソボの戦友どうし、賑やかに酒を酌み交わした。

ジャンセリムの人生は、彼の本の表題通り、世の中の人々が無関心であること、あるいは面倒を避けるために無関心を装っていることに、敢然と抵抗する人生であった。問題からうまく逃げる連中を軽蔑し、難題が降りかかれば待ってましたとばかり喜んで取り組んだ。彼はそのままいけば、おそらく極めて優秀な国連職員として経歴を重ね、国連を指導する人材になっていたに違いない。

コソボの仕事を終えた後、ジャンセリムはニューヨークのUNDP本部に移った。私はといえば、軍縮課長に戻り、ニューヨークへの出張が度々あったので、よく彼と会ったものである。そのうち、2003年になり、ジャンセリムは、勇猛果敢な仕事ぶりや、問題処理の能力をかわれて、デ・メロ特別代表に呼ばれた。君こそ一緒に来て、ここで力を発揮してくれないか、と。

それは国連としても、およそ難題中の難題であった。イラクである。米国がサダム・フセインを打ち負かした後、イラクの戦後復興の仕事が、国連に委託された。デ・メロ特別代表をトップに、バグダッドに国連の現地機関が設置された。ジャンセリムは、難題であるがゆえに、イラクに行くことを決めた。

今から6年前の8月19日。ジャンセリムは、デ・メロ特別代表との朝の定例打ち合わせに出席していた。会議には、私たちのコソボ時代の同僚でもある、ナディアとフィオナの2人を含め、20人ばかりの国連職員が出ていた。その時、国連の建物の横に、自爆テロのトラックが静かに停車した。爆破は誰彼の区別無く、これら国連の最精鋭たちを一瞬にして葬り去った。ジャンセリムは、33歳の人生を終えた。

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