「川の神は、子供を生贄にしろと、お命じになるか。それでは子供を探せ。」
アブラ・ポク女王は、長老に命じる。長老は、一族の家々を回るが、子供は見つからない。どの母親も皆、子供を着物の中に隠し、表に出さない。
「この一族全員を救うため、誰か息子を犠牲にしてくれる者は、いないのか。」
女王は大岩に上り、皆に呼び掛ける。人々は顔をひきつらせたまま、無言である。
そこで、アブラ・ポク女王は悟る。
付き添いの女官が背中に大事にくくりつけている布を、女王自らが解く。そこには、まだ年端もいかない王子がいた。
「クアクよ、わが一人息子よ。母としてお前を思う情けは深けれど、母は女王として民を救わねばならぬ。わが民は、わが王家の不首尾にかかわらず、落ち行く王家に従ってきてくれたのだ。わが民を救わねばならぬ。」
そして王子を抱え上げ、女王は天に叫ぶ。
「われは女王なり。ああ、されど母にあらず、女にあらず。」
王子に装束を整え、最後の抱擁をする女王。その苦衷の深さ如何ばかりか。まだ幼き体躯を、やさしく撫で、手に宝石を握らせる。母子の永遠の別れに、女官たちは顔を伏せて泣き、呪術師も長老も邪魔せず見守る。と、屹と顔を上げたアブラ・ポク女王は、王子を呪術師に渡し、もはや後を振り向かない。
先祖への讃歌と祈りの中に、王子を乗せた小舟は、岸を離れるや怒涛に巻き込まれて、姿を消す。と、その時から驚くなかれ、あれほど荒れ狂っていた流れは、轟音を静め水位を低めた。そして川の神の思し召しか、突如地響きがして、向かいの川岸に立っていたフロマジェの巨木が、こちらに向かって倒れ来た。そして橋となり、人々は女王を先頭に、コモエ川の向こう岸に渡ることができたのである。
この部分は、伝説によっては、数百のカバが背中を並べ、橋を作ったという筋書きになっている。こちらの方が、よりアフリカ的であろうか。ともかく民族は救われた。アブラ・ポク女王が率いた一群の人々は、コモエ川の反対側(つまりコートジボワール側)に落ち着いた。
安堵の中に、長老たちは女王に言った。この新天地にわれわれが入植するにあたり、わが民族に新しい名を冠したい。女王の尊き犠牲を永遠に銘記するため、われわれ皆が川を渡る時につぶやいたあの言葉を、これから民族の名としたい。
「子供は死んだ。」
バ・ウ・リ(Ba ou li)というアカン語は、そのままバウレ族という部族の名前になった。
・・・という風に、民族大移動の英雄譚は終わる。アブラ・ポク女王は、1760年頃にこの世を去った。その後を継いだ女王アクワ・ボニ(Akwa Boni)が、これまた男勝りの大女王で、先住者のグロ、セヌフォ、ゴリ、マレンケといった民族を、北に西に追いやって、コートジボワール中部から南東部にかけての、バウレ族の覇権を築き上げる。
アブラ・ポク女王が、一人息子を犠牲にせざるをえない悲劇は、まるで歌舞伎の一場を見るようだ。そう、歌舞伎にも、止むにやまれぬ大義のために、わが子を犠牲にする話がある。「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」とか、「熊谷陣屋」、「伽羅先代萩」など。そこに、親としての情と、忠義の心との葛藤が描かれ、涙を誘うのだ。ところが、何かちょっと違う。
日本の歌舞伎では、主君を助けるために、臣下がわが子を犠牲にする。それは忠君の鑑とされる。ところが、アブラ・ポク女王の話は、臣下を助けるために主君が犠牲になるという筋である。逆じゃないか。部族の人々は、女王の求めに対しても、誰も自分の子供を差し出そうとしない。そして一粒胤の王子が生贄になるという事態を、人々は見過ごす。何という不忠義者ばかりなのか。
いやいや、それは儒教文化圏にいる私の解釈だ。アブラ・ポク女王は、女王であればこそ、自分の子どもを差し出す。そして、王子は王位継承者ゆえに、むしろ犠牲となる運命にある。それは民を救うためなのである。王であり貴種であるがゆえに、民を率いる責任と、窮地において自ら進んで犠牲を払う覚悟が要求される。やはり、指導者というのはそういう厳しいものである、という教訓のほうに、より普遍性がありそうだ。
アブラ・ポク女王は、長老に命じる。長老は、一族の家々を回るが、子供は見つからない。どの母親も皆、子供を着物の中に隠し、表に出さない。
「この一族全員を救うため、誰か息子を犠牲にしてくれる者は、いないのか。」
女王は大岩に上り、皆に呼び掛ける。人々は顔をひきつらせたまま、無言である。
そこで、アブラ・ポク女王は悟る。
付き添いの女官が背中に大事にくくりつけている布を、女王自らが解く。そこには、まだ年端もいかない王子がいた。
「クアクよ、わが一人息子よ。母としてお前を思う情けは深けれど、母は女王として民を救わねばならぬ。わが民は、わが王家の不首尾にかかわらず、落ち行く王家に従ってきてくれたのだ。わが民を救わねばならぬ。」
そして王子を抱え上げ、女王は天に叫ぶ。
「われは女王なり。ああ、されど母にあらず、女にあらず。」
王子に装束を整え、最後の抱擁をする女王。その苦衷の深さ如何ばかりか。まだ幼き体躯を、やさしく撫で、手に宝石を握らせる。母子の永遠の別れに、女官たちは顔を伏せて泣き、呪術師も長老も邪魔せず見守る。と、屹と顔を上げたアブラ・ポク女王は、王子を呪術師に渡し、もはや後を振り向かない。
先祖への讃歌と祈りの中に、王子を乗せた小舟は、岸を離れるや怒涛に巻き込まれて、姿を消す。と、その時から驚くなかれ、あれほど荒れ狂っていた流れは、轟音を静め水位を低めた。そして川の神の思し召しか、突如地響きがして、向かいの川岸に立っていたフロマジェの巨木が、こちらに向かって倒れ来た。そして橋となり、人々は女王を先頭に、コモエ川の向こう岸に渡ることができたのである。
この部分は、伝説によっては、数百のカバが背中を並べ、橋を作ったという筋書きになっている。こちらの方が、よりアフリカ的であろうか。ともかく民族は救われた。アブラ・ポク女王が率いた一群の人々は、コモエ川の反対側(つまりコートジボワール側)に落ち着いた。
安堵の中に、長老たちは女王に言った。この新天地にわれわれが入植するにあたり、わが民族に新しい名を冠したい。女王の尊き犠牲を永遠に銘記するため、われわれ皆が川を渡る時につぶやいたあの言葉を、これから民族の名としたい。
「子供は死んだ。」
バ・ウ・リ(Ba ou li)というアカン語は、そのままバウレ族という部族の名前になった。
・・・という風に、民族大移動の英雄譚は終わる。アブラ・ポク女王は、1760年頃にこの世を去った。その後を継いだ女王アクワ・ボニ(Akwa Boni)が、これまた男勝りの大女王で、先住者のグロ、セヌフォ、ゴリ、マレンケといった民族を、北に西に追いやって、コートジボワール中部から南東部にかけての、バウレ族の覇権を築き上げる。
アブラ・ポク女王が、一人息子を犠牲にせざるをえない悲劇は、まるで歌舞伎の一場を見るようだ。そう、歌舞伎にも、止むにやまれぬ大義のために、わが子を犠牲にする話がある。「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」とか、「熊谷陣屋」、「伽羅先代萩」など。そこに、親としての情と、忠義の心との葛藤が描かれ、涙を誘うのだ。ところが、何かちょっと違う。
日本の歌舞伎では、主君を助けるために、臣下がわが子を犠牲にする。それは忠君の鑑とされる。ところが、アブラ・ポク女王の話は、臣下を助けるために主君が犠牲になるという筋である。逆じゃないか。部族の人々は、女王の求めに対しても、誰も自分の子供を差し出そうとしない。そして一粒胤の王子が生贄になるという事態を、人々は見過ごす。何という不忠義者ばかりなのか。
いやいや、それは儒教文化圏にいる私の解釈だ。アブラ・ポク女王は、女王であればこそ、自分の子どもを差し出す。そして、王子は王位継承者ゆえに、むしろ犠牲となる運命にある。それは民を救うためなのである。王であり貴種であるがゆえに、民を率いる責任と、窮地において自ら進んで犠牲を払う覚悟が要求される。やはり、指導者というのはそういう厳しいものである、という教訓のほうに、より普遍性がありそうだ。
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