25日(23.8)に銚子のH寺へ伺ったおり、住職から次のようなことをお聴きしました。市内にキリスト教の方が中心となって行っている勉強会があり、その勉強会で先般、自死問題に取り組んでいる本願寺派の僧侶をゲストに招いた。その講義の内容から、浄土真宗(仏教)は、自殺に対して「自殺はダメ」という強い考えがないように思ったが、浄土真宗の自殺に対する考え方を聴かせてくれとお願いされたとのことでした。
丁度、その日、福井県勝山の友人から、自死問題に取り組む勉強会を行ったと、その資料が届きました。
私も、ぼんやりと、浄土真宗では自殺を肯定もしないが否定もしないという理解がありました。それは阿弥陀如来の四十八願の中に、第15願に「眷属長寿の願」というものがあり、浄土の有情の寿命 には限りが無く、願に随って長短自在であることが説かれているからです。この願いは、阿弥陀如来の働きは、短いたとえば自死の姿の上にも味わうことができると、ぼんやりとですが、そう思っていました。たとえば、自死の子どもを通して、親が阿弥陀如来の信心を開発していく縁となるといった場合です。
それに反し、安楽死に対しての私の意見は、安楽死反対の立場です。反対の理由は、凡夫の知性は、死を選べるほど確かでない。それと安楽死には命は自分のものといった理解があることです。この理解は、明らかに長短自在の願いとは矛盾します。そして両者の矛盾を考えたこともありませんでした。
そして勉強会の資料(瀧川組仏教講習会資料)です。
その資料には、細かい説明は省きますが“律においては基本的に『自死既遂者』に罰則を適用しない。中国・日本仏教における律解釈(律宗)においても同様の見解。ただし、『自死の容認』ではないことに注意”という仏教学の戒律の上からの理解が示されていました。
そして 【病苦を理由に自殺を考える二人の比丘への対応】の仏説が示され、自ら命の終わりを願う仏弟子に対して、自死した個人を否定する要素はなく、自死しようとする者に対し、自死を否定するのではなく、教えを説くことが説かれていました。
①ヴァッカリ比丘への対応
仏弟子のヴァッカリは重い病に罹って苦しみ、自死を考えていた。お見舞いに訪れた釈尊
は、ヴァッカリに対し無常の教えを説き、いくつかの質問を通して、ヴァッカリの教えの
理解を確認した。その後ヴァッカリは自死したが、釈尊は周囲の弟子達に対して、ヴァッ
カリが般涅槃したことを伝えた。(『雑阿含経』)
資料から読み取れることは、仏教は命は大切といった命への執着ではなく、常に教えによって無明から解放されることに関心をもつということです。
その理解から、私の安楽死の意見を会通すると次のようになります。
安楽死でいえば、安楽死の否定・肯定よりも、知性へのおごりや、自分の命といった命への執着が明らかになる、それが仏教の関心事であるというものです。まだまだ未消化ですが、もう少し探って行きます。
丁度、その日、福井県勝山の友人から、自死問題に取り組む勉強会を行ったと、その資料が届きました。
私も、ぼんやりと、浄土真宗では自殺を肯定もしないが否定もしないという理解がありました。それは阿弥陀如来の四十八願の中に、第15願に「眷属長寿の願」というものがあり、浄土の有情の寿命 には限りが無く、願に随って長短自在であることが説かれているからです。この願いは、阿弥陀如来の働きは、短いたとえば自死の姿の上にも味わうことができると、ぼんやりとですが、そう思っていました。たとえば、自死の子どもを通して、親が阿弥陀如来の信心を開発していく縁となるといった場合です。
それに反し、安楽死に対しての私の意見は、安楽死反対の立場です。反対の理由は、凡夫の知性は、死を選べるほど確かでない。それと安楽死には命は自分のものといった理解があることです。この理解は、明らかに長短自在の願いとは矛盾します。そして両者の矛盾を考えたこともありませんでした。
そして勉強会の資料(瀧川組仏教講習会資料)です。
その資料には、細かい説明は省きますが“律においては基本的に『自死既遂者』に罰則を適用しない。中国・日本仏教における律解釈(律宗)においても同様の見解。ただし、『自死の容認』ではないことに注意”という仏教学の戒律の上からの理解が示されていました。
そして 【病苦を理由に自殺を考える二人の比丘への対応】の仏説が示され、自ら命の終わりを願う仏弟子に対して、自死した個人を否定する要素はなく、自死しようとする者に対し、自死を否定するのではなく、教えを説くことが説かれていました。
①ヴァッカリ比丘への対応
仏弟子のヴァッカリは重い病に罹って苦しみ、自死を考えていた。お見舞いに訪れた釈尊
は、ヴァッカリに対し無常の教えを説き、いくつかの質問を通して、ヴァッカリの教えの
理解を確認した。その後ヴァッカリは自死したが、釈尊は周囲の弟子達に対して、ヴァッ
カリが般涅槃したことを伝えた。(『雑阿含経』)
資料から読み取れることは、仏教は命は大切といった命への執着ではなく、常に教えによって無明から解放されることに関心をもつということです。
その理解から、私の安楽死の意見を会通すると次のようになります。
安楽死でいえば、安楽死の否定・肯定よりも、知性へのおごりや、自分の命といった命への執着が明らかになる、それが仏教の関心事であるというものです。まだまだ未消化ですが、もう少し探って行きます。
まず、自殺と安楽死の定義がよくわかっていないのですが・・
自殺には「凡夫の知性は、死を選べるほど確かでない」「命は自分のものといった理解があること」はあてはまらないのでしょうか。
また、安楽死をされた親族や友人、知人、関わった人にもその件を通して「阿弥陀如来の信心を開発していく縁」となり、阿弥陀如来の働きは、安楽死の姿の上にも味わうことができると思うのですが・・どう違うのかなあ・・
すみません。