なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
廊下に犇めく、大量の猟犬。
猟犬と名は付いているものの、およそ犬のようには見えない正体不明の「なにか」。
細やかな装飾の施された廊下は、床と壁と天井とが不規則に、直線と鋭角のみで交わる。
さながらネッカー錯視の立体化、或いはペンローズ図形の具現化だ。
壁の装飾を辿っていたはずが、いつの間にか天井の彫刻をなぞり、かと思えば壁を介さず床のカーペットを見ている。
空間把握能力に長けた魔術師ですら位置を見失う、歪んで捻じれた空間。
その中でもなお、ティンダロスの猟犬の威容ならぬ異様は浮いていた。おかげではっきりと数が分かる。
十体。
うち一体は明らかに身体が大きく、上位個体だと察せられた。
「絶体絶命だな」
外界の様子を薄く透かす、ルキアの空間隔離魔術『黒眩聖堂』。
その内で頭痛と吐き気を堪えながら、ステラは愉快そうに笑う。
虚勢ではない。だが余裕でもない。
敵の外観も、外で何が起こっているのかも分からない。だが背筋の凍るような殺意と異様な存在感を浴びて、彼女の身体は自動的に臨戦態勢を整えている。
アドレナリンとノルアドレナリンが、全身と脳を戦闘用にチューニングしているのだ。
彼女は紛れもなく興奮し、高揚している。
余裕でも虚勢でもない、本物の笑みが零れるほどに。
「……物語だと、英雄登場の場面ですね」
「
助けを求める泣き言に近いイライザの言に、ルキアは揶揄うような笑みをステラに向けた。
「なんだ? 私は間違いなく
それも
勿論、そんなことはルキアだって知っているし、イライザだって重々承知している。彼女が「お姫様」だという言葉に引っかかる者は、この場には一人もいない。
ただ──フィリップが居たら、見ている方が気の抜ける、間の抜けた顔をしてくれそうな期待があった。
「あ、そういえばそうでしたね」とか、「
「どうしますか? 正直に申し上げて、あれは聖剣でもどうにもならないと思います。衛士団長の『ヴォイドキャリア』のような、純火力ではない特殊性が必要かと」
イライザは吐き気を堪えるように顰めた顔を伏せ、二人と目を合わせないまま言う。
不敬ではという懸念はあったが、いま顔を上げたらもっと酷い粗相をする自信があったし、本来なら顔を合わせて直接言葉を交わす方が不敬な相手だからと、自分を納得させて。
「ふむ、悪くない考察だな。気分は?」
「そ、外を見なければ、なんとか……。申し訳ありません、すぐには戦えそうにありません」
本当に申し訳なさそうに、イライザは恥じ入るように深々と頭を下げる。
しかし彼女の対応は、ルキアやステラの怒りを買うものではない。
むしろ、二人は褒めてあげたいくらいだ。
「なら、外を見るな。理解できないものを、無理やりに理解しようとするな。戸惑って困惑して、何が何やら分からないままでいろ」
ステラは鷹揚に頷き、安心させるように言う。
それでいいと許すような、ゆったりとした深い声だった。
「国家機密然り、この世には知らなくていい──知らない方がいいことがある」
好奇心や探究心は重要だ。
人間にその機能が無ければ、人類は今でも森の中で木の実を食べて暮らしていただろう。
そんな古い話ではなくとも、フレデリカが「不可能らしいが本当だろうか」と魔力中和装置を作っていなければ、王国を含め大陸全土は多くの魔術師を──文明の基盤を失っていた。
しかし、全てを知っていればいいというものでもない。
知るだけで狂ってしまう智慧もあれば、狂えた方が良かったと思うほどのものもある。
そして今ルキアの守りの外で起こっている現象、捻じ曲がった空間からこちらを睨みつける正体不明の怪物は、「知らない方がいいこと」だ。
世の大部分の人間は知らないし、知らずとも生きていける。知らない方が平穏無事に生きていけるし、幸せな死を迎えられる。
そういうものは、隠されているべきだ。
知らない者は知らないままで、分からないのなら分からないままでいい。
「安心しろ。ルキフェリアの顔を見てみるんだ。あれは勝ち筋を見つけたときの顔で、あいつの戦術眼は常に正しい。まあ、その上で常に正しい戦術を取るとは限らないのが気に食わないところだが」
「勝ち筋……まあ、そうね」
断定的なステラの言葉に、ルキアは一応は頷いたが、微妙に歯切れが悪かった。
だって──あれらはシュブ=ニグラス神の末裔だ。
そう思えば、ルキアとしては喜んで我が身を差し出し、切り裂かれて死ぬべきなのかもしれないと思わなくもない。
死にたくはないし、死ぬにしても美しく死にたいが、あの神の強大さと美しさの前に跪く者としては、そう在るべきなのかと悩む。
まあ、信仰のために進んで死ぬのは些かカルト染みているし、フィリップに嫌われてしまいそうだ。そう思えば、ルキアの中から降参という選択肢は消える。
というか、そもそも
フィリップは「元は友人だから」なんて甘い理由でカルトを許すような、生温い憎悪は持っていない。彼に憎まれるなんて、たとえ自分が死んだ後だとしても、想像するだけで心臓が止まりそうだ。
それに、フィリップに敵対するということは、シュブ=ニグラス神に敵対すると同義。フィリップが向けてくれる親愛や尊敬を自ら捨てたとなれば、今は「フィリップくんが見ている子」程度の、オマケ程度の認識も終わりだ。
神の意識が向く──真体が世界に収まりきらないほどの神が、たった一人の人間に目を向ける。
それも、明確な敵意を持って。どうなるかは想像もつかないが、碌な結果にならない事だけは断言できる。
だから、戦わないという選択肢は無い。
ステラとイライザが後ろにいる以上、負けるという選択肢もまた、無い。
──
馬鹿馬鹿しい話だ。
狂っても、人間を辞めてでも、何としても、ステラとイライザだけはフィリップの元へ送り届ける。
死んでも、とは言わない。
正直な話、ルキアはステラやイライザの命に、自分の命を懸けるほどの重要性を感じていない。
だが──二人を守って戦うことこそ、この場に於いて最も美しい在り方。
そしてきっと、フィリップが望む在り方だ。
この状況で三人無事に帰ったら、褒めてくれるに違いない。
もしかしたら見直して、多少の常識外までなら信頼して任せてくれるようになるかもしれない。フィリップの力になれる場面が、もっと増えるかもしれない。
故に、ルキアに選択の余地はない。
『勝つ』一択だ。
「負けるかもしれないと思われていることも、些か癪だしね。汚れ一つなく勝ってあげる」
「あの魔術を、無力化できるんですか?」
「それは無理ね。人間の……いえ、きっとこの星の魔術ではないわ。重力どころか時間や空間の流れすら異なる場所で作られたものよ。魔術式を構成する理屈から、再現している現象まで、何もかもが違う」
余裕に水を差されたと感じることもなく、ルキアは淡々と答える。
無理なものは無理なのだから、悔しがっても仕方がない。まあ再現出来たら面白そうだし、解読は無理でも研究してみたいが、フィリップに確認してからにするべきだろう。
そのくらい、廊下を捻じ曲げる錯覚のような空間は異常だ。
三人を包む防壁は、天体級の質量を持つほど超高密度の重力子で出来ている。
途轍もない引力を持ち、通常空間で使う時は地球や月に影響を与えないよう、内外に重力影響を緩和する防壁をセットで展開するが、今は外側の防壁が無い。
普通なら外部の全てが凄まじい勢いで引き寄せられ、外壁部に叩き付けられて圧潰している。
だが実際にはそんなことになっていない。
つまり、あの空間歪曲は可視光だけでなく重力の影響まで捻じ曲げている。まさに“空間歪曲”の名に相応しい。
「余裕そうだな?」
「えぇ、勿論。だって──
ルキアは目線の高さに手を掲げる。
その指先から一条の光が迸り──ほぼ同時、少なくとも人間の知覚速度では全く同時としか思えない速度で着弾した。
幾重にも折れ曲がり、裏返り、捻じれ歪んだ空間。
その中を、ルキアの魔術は何度も折れ曲がり、裏返り、捻じれ歪みながら駆け抜けて、ティンダロスの猟犬の不明瞭な身体を貫く。
撃ち抜かれた怪物は凍り付いたように動きを止め、ガラスのようにバラバラに砕け散った。
「当たった……? 空間が、あんなにぐちゃぐちゃなのに?」
「人間は光を媒介に物を見る。つまり、姿が見えているのなら、物と目の間には光が通る“道”がある」
イライザが困惑の声を漏らすと、ステラが淡々と語る。
彼女にしてみれば、今の光景は何のトリックでもなく、何ら不思議ではないものだ。
具現化した錯視のような空間の向こう、或いはその中に、ティンダロスの猟犬の変動する姿は見えている。
ならばそこに至るまでの空間がどれほど狂っていようとも、たとえ一本ではなく無数に分化して再集合していようとも、光が通る道がある。
「そして光が通るのなら、光を使った攻撃は当たるのは自明。その防御、その魔術は奇妙で恐ろしく、到底理解も及ばないけれど──私とは、致命的に
ルキアにとって、視界が通ることと、射界が取れることは一致する。
標的までの道がどれほど歪んでいようとも、目で見えるのなら撃てるのだ。
「光の通る場所は射程の内。私の視線は、即ち死線。八つ当たりとは分かっているけれど──」
空間歪曲が有効な攻撃にも防御にもなり得ないと判じたか、猟犬の一匹が異常空間を泳ぐようにして通り抜け、漆黒の防壁に爪を立てる。
イライザは素早く聖剣を構えたが、本来は物理実体を持たない重力子が凝縮され、斥力を持つほどの密度で作り上げられた防壁だ。衝撃どころか、爪が外壁を擦る音さえも、内側には届かない。
無意味な攻撃をした愚者に、ルキアは苛烈な戦意を宿す鋭い眼差しを向けた。
「その命、フィリップの信用を買うくらいの価値はあるでしょう」
吐き捨てた直後、極太のレーザーが猟犬を呑み込む。
そのまま空間歪曲の中を通して一網打尽にしようという目論見だったが、直撃した一匹を除き、残る八匹は折れ曲がった空間の“角”に隠れてしまった。
ステラはルキアの言葉に「それはどうだろう」と疑問を感じたが、いい感じに気分が乗っているところに水を差すこともないだろうと、口にすることは無かった。
とはいえフィリップは、羽虫を叩き潰すのも、邪神を殺すのも、何ら変わりなく価値がないと笑いそうだ。
「光の進み方からして、あれは空間を、空気も温度も全部まとめて捻じ曲げている。空気も温度も、全てそこにあるままよ。ステラ、奴らが攻撃する瞬間を見逃さないで」
「了解だ」
口元を獰猛に歪め、ステラも魔術を展開する。
光の進み方からルキアが得た情報は、ステラも攻撃できることを意味するもの。
最悪、空気が無くても熱だけは伝播するが、空気があれば炎が使える。爆発が使える。圧力が伝わる。
どうすれば殺せるのか、ここで一つの知見を得ておくのも悪くない。
「まあ、信用はともかく、関心なら買える。茶話のタネくらいにはなるだろう」
防壁越しの攻撃能力を持つルキアとステラがアドレナリン全開で戦意を滾らせる間で、聖剣を握り締めたイライザが薄く目を閉じ、極限の集中へと意識を落とし始めていた。