なんか一人だけ世界観が違う   作:志生野柱

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 居室の並ぶ廊下に向けて一歩進むごとに、じわじわと忌避感が湧き上がる。

 

 ここに居てはいけない。

 早く離れなければならない。

 

 でなければ死ぬ、と、何かが訴えかけてくる。

 

 声の主は捕食者を恐れる本能(肉体)か、未知や異常を恐れる精神か。どちらでもいい、とにかく離れて逃げようと、深層意識が強く主張する。

 

 そしてそれを受け取った表層意識が、小さく笑う。

 

 ──逃げ道はその先だ、と。

 

 化け物にかち合うリスクを取り、十二分の一を引いた先にしか、この空間から脱出できる道はない。

 そして幸運にも十二分の一を引いたとて、十二匹の化け物を殺し尽くしておかなければ、逃げた先で更に襲われる。今度は十二匹などではなく、無限匹が、永遠に追いかけてくる。

 

 故に、進むしかない。

 戦い、突破し、殲滅するしかない。

 

 まあ最悪、取り敢えず脱出してフィリップに泣きつくという選択肢もないではないが──フィリップに対処できるのなら、彼は以前のような強い警戒心を見せないだろう。フィリップにもどうにもできない可能性があるのなら、ステラはそれを最適解とは見做さない。

 

 そしてルキアの美意識は、その選択肢を当然に除外する。

 適材適所は世の常。自分以上に優れた人間に頼ることを、美しくないとは言わない。

 

 しかし戦う前から不可能と断じて逃げ出し、フィリップに泣きつくのは許容できなかった。

 

 「……開けるわよ。準備は良い?」

 

 どの部屋から行く、なんて相談はしなかった。

 全ての扉を開け、全てのティンダロスの猟犬を殺すのだ。どの部屋からでも関係ない。選んだのは書庫から一番近い、左側廊下の一番手前の部屋だ。

 

 「はい」

 「いつでも」

 

 先頭でドアノブに手を掛けたルキアに、次鋒のイライザと殿のステラが端的に応じる。

 

 聖剣を強く握りしめたイライザは、目に見えて緊張している。

 彼女より智慧があり、それ故に恐怖も大きいはずのステラは平然として見えた。

 

 ルキアは扉へ視線を戻し、背後への注意を捨てる。

 イライザが馬鹿なことを考えて前に出ようとしても、ステラが止めるはず。集中すべきは前、動くものがあれば敵と判断し、最速で殺す。

 

 意識を切り替えて扉を開け──ドアノブが捻られた瞬間、魔術的な感覚が大きな揺らぎを感知した。

 物理的感覚は揺れを感じていない。なにか強い魔術が途切れたよう──十中八九、例の『空間の攪拌』だろう。

 

 直後、ドアと壁の隙間から、青白い何かが差し出された。

 

 「ッ!!」

 「下がれッ!!」

 

 二人の魔術が同時に放たれ、爆炎の中に四条の光線が突き刺さる。

 

 ルキアは真横に跳び、それによって射線を確保されたステラは、イライザを引っ張りながら真後ろに飛び退いた。

 そこそこ広い廊下とはいえ、全力で下がったステラの背中が壁に当たる。引っ張られて姿勢を崩したイライザが倒れ込みそうになったが、彼女はステラをクッションにすまいと、意地で踏ん張った。

 

 「ルキフェリア!」

 

 獲ったか、とステラは聞かなかった。

 殺した感触も逃がした確証もなかったが、それなら殺せていない前提で動くべきだ。

 

 「天井!」

 

 名を呼ぶだけの問いとも呼べない問いに、端的だが必要十分な答えが返る。

 

 ドアの隙間から出てきた、青白いもの。

 それは一掬いほどの、蒼褪めた脳漿のような液体だった。

 

 全くの無音で、重力に逆らった動きで壁面を這い、天井へ上っている。滴り落ちることも、沁み込むこともなく、動かない。三人を観察しているかのようだ。

 

 埃と黴と、低温保存された死体、病に侵された内臓の臭いが鼻につく。

 粘つくような異臭を、ステラは液体を視界から外さないよう右手を動かして視界に入れ、それきり無視する。毒ではない。ならば今は、そんなことを気にしている場合ではない。

 

 「角に潜む……この場合は彫刻の角か。どうする? 館の内装は壊せないぞ」

 

 空間隔離魔術で表面だけ塗り替えることも出来ない。

 小規模に展開すれば身を守ることは出来るが、攻撃手段にはならない。

 

 「疑似熾翼(イミテーション・セラフィム)、展開。我が光背は神の威光、全ての邪悪を討ち滅ぼす断罪の翼──!!」

 

 叫ぶように詠い、光輪と三対の翼がイライザの背に顕れる。

 勢いよく生え出でた翼にド突かれそうになったステラだったが、驚きと注意の声はぐっと飲み込んだ。

 

 当たったところで死にはしないだろうし、むしろ見た目にはフィリップの好きそうなモフモフ感満載だが、視界を遮るし場所を取るし、後ろに居るとかなり邪魔だった。

  

 「万軍の主の栄光の焔よ、定められし終わりを顕せ──聖剣プロヴィデンス、《攻撃変化・火(シェイプシフト・フレイム)》!!」

 

 炎の柱を握り締めたイライザは、人体を完全蒸発させる熱量で天井を刺す。

 爆炎が上がり、高い天井に炎が広がる。高温によって揺らいだ空気が光を歪め、彫刻や装飾が滲んで見えた。

 

 建物自体が壊れたり、炎上しないのは検証済みだ。

 崩落の危険もないし、常時展開ならともかく数発撃ったところで酸欠の心配はない。

 

 気にすべきは一点。

 炎によって遮られた視界の先、天井の彫刻の“角”にいるティンダロスの猟犬を、仕留められたかどうかだけだ。

 

 炎が晴れる。

 空気以外何一つとして燃やさなかったそれは、ほんの一握りの煙すら生まない。

 

 陽炎の先──蒼褪めた脳漿は、全く動くことなくそこにいた。

 無意味なことをしたイライザを、有効打を持たない人間を嘲笑うかのように。

 

 「角は、きっと単純な通路じゃない。目に見えた通りに考えては駄目ね」

 

 角を()()ではなく、角に()()

 物理的な潜伏ではなく、もっと魔術的な、或いは魔術でさえない不可思議なもの。

 

 「どういうことだ?」

 

 考えを纏めるように口走ったルキアに、ステラが思わずといった体で聞き返す。

 いつもなら思考の邪魔はしない彼女も、流石に平常心ではいられないらしい。

 

 ルキアは一瞬の黙考で考えを纏め、再び口を開いた。

 

 「あの能力は伝導ではなく顕出よ。あれは表面的な“角”にはいない。その内側にある場所から、“角”を水面として現れているに過ぎない。あの粘体は怪物そのものではなく、水面に浮かぶ泡のようなもの」

 「本の知識か?」

 「いいえ、私の推理。確度は五分くらいかしら」

 

 蒼褪めた粘液から視線を外さないまま、ルキアは苦笑気味に答える。

 五分か、とステラは更に苦みの強い表情を浮かべた。

 

 こと魔術や戦闘に関して、ルキアはいつだってシビアだ。

 彼女が五割というのなら、本当に五割なのだろう。見栄もなく、謙遜もなく、純然たる考察結果として。

 

 「何か、あれを攻撃する方法はありませんか?」

 

 聖剣の一撃が通じなかったというのに、イライザは大してショックを受けた様子もなく、変わらず真剣な表情で天井を睨んでいる。

 ここに来たばかりの時、玄関扉を破壊できなかったことで、心の準備が出来ていたらしい。

 

 「さあ……角を失くせば出入り口が無くなるけれど、館の扉を破壊したところで、中にいる人間が死ぬことはないでしょう。表層をいくら攻撃したところで、その奥や裏側、或いは繋がっているだけの別次元を傷つけることは出来ないんじゃないかしら」

 

 ルキアの語り口は、もはや愉快さすら感じさせた。

 

 無敵の防御などあり得ない。

 そのセオリーは、「無限のエネルギーを吸収するには、無限のエネルギーが必要である」という理論に基づくものだ。

 

 だが「手の届かない場所に逃げる」という防御──回避は、最も原始的でありながら、最も効果的な安全確保手段。

 斬鉄の魔剣とて刃に触れなければ切れ味を発揮することはなく、0.04秒のクイックドロウも射線上に居なければ大きな音がするだけの虚仮威し。

 

 『明けの明星』でさえ、4キロ以上離れれば、重力を振り切った光は空高くへ飛んでいくだけ。

 

 物理的にも魔術的にも手の届かない“角”へ潜伏されては、如何な聖痕者と勇者とて、有効打は持ち得なかった。

 

 「だが、それは相手も同じことだろう。あの状態から私たちを傷つけることは出来ない。姿を現す瞬間を逃すな」

 「はい」

 「えぇ」

 

 身構えた三人が天井を見上げ、ほんの僅かな時間が過ぎる。

 一秒を一分にも一時間にも感じさせる重圧のなか、蒼褪めた脳漿は重力に引かれたような自然さで滴り落ち、()()が、姿を現した。

 

 「ッ!」

 

 いや──現した、のだろうか。

 ルキアもステラもイライザも、誰もそれを断言できない。

 

 現れたモノは、依然としてその全容が定かではなかった。

 

 概ね犬や蜥蜴に類似した、横向きの身体を複数の脚で支える骨格。だが四足なのか六脚なのかが見て取れない。四本目を数えたときには余りがあるのに、数え直すと三から先が無く、なのにまた余る。

 

 鱗とも棘ともつかない鋭い角が、どの部位にも120度以上の鈍角を形成しないよう配列された、奇怪なオブジェ。立方体の全ての面を一枚の紙に圧縮して描いたような無理矢理さのある造形が、波打つ水面のように絶えず変移し、変化し続けている。

 

 頭部らしき場所には無数の牙が並ぶ口と、槍のように先鋭な舌が見受けられる。

 眼球と呼べる球状のパーツは、鋭角のみで構成された立体の何処にもない。

 

 犬とは似ても似つかない。

 この世のありとあらゆる全てに似ていない。

 

 存在を構成する立体の概念からして違う、異次元のモノ。

 

 ──それは既に全身を炎に包まれ、無数の穴を開けられていた。

 

 「……え?」

 「死んだか?」

 

 イライザの困惑は、ステラの硬い声に掻き消されて誰にも届かなかった。

 

 ティンダロスの猟犬は三人を見据えたまま、じっと動かない。

 吼えも唸りもせず、飛び掛かることもない。全身から迸るような殺気を滾らせ、全容の判然としない姿を晒した襲撃姿勢のまま、何もせず立っている。

 

 「脳幹を撃てたか、いえ、撃ったとして死ぬのか……そもそも脳があるのかしらね」

 「さぞかし角張った、トゲトゲの臓器なのだろうな。王冠要らずだ」

 

 警戒を解かないまま、しかし戦闘とは関係のない軽口を交わすルキアとステラ。

 イライザは自分を挟んで会話する二人に、尊敬と畏怖の視線を向けた。

 

 わー、とか。きゃーとか。なんだこいつ、とか。

 正体不明、視認できても理解できない摩訶不思議な存在を前に、二人は、そういう「普通の」反応をまるで見せなかった。

 

 瞠目、硬直、困惑さえも。

 

 いや、それらは考えてするものではない。

 不可思議なものに直面した人間の、正常な反応、反射だ。人間である以上、人体がその機能を当然に持っている。

 

 ルキアもステラも、全く以て理解の追い付かない、目に入っても脳が理解できない物体を前にして、当然に困惑した。

 驚き、慄き、恐怖した。

 

 ()()()()()()()()

 

 ──いや、()()()()()、二人は攻撃を終えていた。

 

 「姿を現す瞬間を逃すな」とステラは言った。

 そして二人は、その言葉を完璧に実行した。

 

 視覚が眼前の変化を捉えた時点で、攻撃は終わっている。

 新しく現れたものが何であれ、二人は撃っていた。たとえ邪神が降臨し、二人の精神が完膚なきまでに破壊されるとしても、その前に一撃入れている。

 

 もしもフィリップが何らかの方法で助けに来たとしても、この場この瞬間に現れては生還の余地はない。

 二人の反射(最速)は、自分自身にすら止められない。

 

 人間が現れようと、怪物が現れようと、邪神が降臨しようとも、攻撃は必ず為されていた。

 

 そしてステラの魔術は直接照準。

 つまり事実上の無限弾速、即着。尤も、炎が対象を致命的に害するまでは、相応の時間がかかるが。

 

 ルキアの魔術は、即着よりは少し遅い。

 掃射された十二の弾丸、その速度は秒速299792458メートル。対象までの3メートルを、おおよそ1億分の1秒で駆け抜ける。

 

 どんな生物も対応できない。

 意識の流れや照準を読む力を持つ特異生物(土星の猫)であろうと、存在しない照準を読むことは不可能だ。

 

 「殺したとは思うけれど──」

 

 ルキアは言葉を切るのとほぼ同時か、やや食い気味に再び魔術を放つ。

 十二の光弾、照準を付けない乱射は、眼前敵のなんとなく頭部に見える部分を中心に、更なる破壊を加えた。

 

 「不味いらしいから、末期の声も上げられないようにしておきましょうか」

 

 猟犬は完全に沈黙しており、鋭利な牙の並ぶ口は跡形もない。

 相変わらず、脳の処理の一フレームごとに全身が変移し変化してはいるが、それはティンダロスの猟犬の生理機能ではない。人間の脳が、その外観を理解できないことによるものだ。

 

 完全に殺した手応えが、ルキアにはあった。

 それが生物であれ、機械であれ、もっと別な何かであっても、全ての機能を奪い去るほど完全な破壊を押し付けた確信が。

 

 そして──猟犬の全身がガラスや水晶のように砕け散り、跡形もなく消え去った。

 

 「────!!!!」

 

 悲鳴とも怨嗟ともつかない、絶叫のような音を立てて。

 

 直後、漂っていた独特の臭気が、鼻の奥に突き刺さるほど濃密になった。

 まるで臭いの元が、数を十倍に増やしたかのように。

 

 「ッ!?」

 「まさか、これが“断末魔”か!?」

 

 イライザが身を竦め、ステラが苦々しく口走る。

 

 しまった、と、ルキアは思った。

 

 ()()()()()()

 

 全容の判然としない怪物であろうと、生物であるのなら──生きているのなら殺せる。

 肉体に命令を下す脳を破壊すれば動きは止まり、口から声帯と肺までを壊せば悲鳴も断末魔も上げようがない。

 

 そんな“常識”に囚われていた。

 

 「王女殿下! また天井に! か、壁にも!」

 

 イライザが悲鳴と警告の中間のような叫び声を上げる。

 視線は周囲に忙しなく動き、その先には、壁や天井に施された彫刻や、天井と壁の交点といった“角”に次から次へと現れる、蒼褪めた粘液があった。

 

 「ルキフェリア、全周防御!」

 「分かってる!!」

 

 ルキアらしからぬ焦燥に満ちた叫び声と同時に、三人はふわりと宙に浮き、足元も頭上も含め全周が光を通さない漆黒の壁で覆われる。極めて完璧に近い球形の、“角”を持たない隔離だ。

 重力の影響を軽減する防壁と、天体級の質量を持つ凝縮された重力子の防壁。

 

 甲高い金属擦過音のような遠吠えが響き渡ると、二重の防御の外は、ペンローズ図形の如く無限に反転した。

 

 

 

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