なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
十五秒。
三人は魔法陣を書き換えて廊下を封鎖する魔術を解除したあとも、客間から動かなかった。
全身を打つような威圧、同時に脊髄に氷柱を差し込むような悪寒、今すぐに逃げろと絶叫する本能を抑え込み、危機感を共有するのに五秒。
十秒、廊下を曲がった先にある客間から、心胆を寒からしめる「何か」がやって来ないことを確認して、一先ず安堵の息を吐いた。
「あの、これで客間の仕掛けは終わりなんですか? 魔法陣を解除するというのは、客人の動きとして普通ではないと思うのですが」
すべきことを間違えたのではないか──間違えたが故に、「何か」が動き始めたのではないか。イライザはそんな想像から、ステラに疑問を投げる。
ワンミスでこれほどの重圧、だが実際に脅威が姿を見せることはない。
ならばこれは警告で、次に、或いはもう何度かミスをすれば、この重圧の主が
そんなギミックなのでは、なんてことまで、イライザは逞しく想像していた。
実際、彼女の意見は即座かつ確実に否定できるものではない。ないが──可能性は低い。
「魔法陣を解除したことで次へ進めるようになり──恐らく、とても危険なモノが動き始めた。好奇心から屋敷のルールを破り、恐ろしい目に遭う……それは“客人”の役回りだろう?」
冗談めかして言ったステラに、ルキアが胡乱な目を向ける。
普通に「それ以外に誘導が無いし、そもそもやるべきでないことはやれないようになっている」と言えばいい。というか、そんな小説の“お約束”は、万人に通じるものではない。
案の定、イライザも「えぇと……?」と首を傾げていた。
教会に置かれていることの多い、子供向け冒険譚くらいしか読まない彼女からは、フィリップと同じような反応は期待できない。分かっていたことだ。
ステラは小さく肩を竦め、空気の弛緩は諦めた。
意図とは違うが、ルキアは苦笑という形で笑っていたし、それで善しとする。
「廊下の奥、居室から異質な魔力を感じる。今度は魔法陣の類ではない。何かが居ることは間違いないだろう」
「魔物ですか? でも、この重圧──師匠に対峙した時より、もっとずっと怖いです」
成龍相手に半裸で突っ込んで撃退した先代衛士団長。
それを上回る威圧感など、イライザは魔物相手に限らず感じたことが無かった。ルキアやステラの“本気”は、幸いにして感じたことがないし。
「分からん。生物的な感じはするが、植物のようにも思える。荒れた獣のようでもあり、整然とした人間のようでもある」
ステラは気色悪そうに口元を歪めて言った。
どれでもないのではない。全てを一度に感じる。
混ざり合って何でもなくなったのではなく、混ざり合いながらも原型を留めているような、不思議な感覚だ。
「感じたことのない魔力だ。複数の何かが混ざり合い、流動している。まるで坩堝のような……」
「視れば分かるかもしれないけれど、流石に危険よね」
「何が入っているかも分からん状態では、避けておくのが賢明だろうな」
設計者の目的は未だ判然としないが、一つ一つのギミックに対して「何をさせたいか」は示されている。「してほしくないこと」もまた、不可能という形で、強く。
三人はここまで、上手く誘導に沿って行動してきた。
ルキアが読んだ本を除き、「まあ安全だろう」と思えることしかしていない。結果として、致死性の高いトラップは踏まずに来ている。
変に安全という確証のないことをして、これまでの慎重さを無駄にすることも無いだろう。
「部屋は六つ……二階も同じ造りなら十二、或いは更にか」
ステラが一見して脈絡のないことを言い出し、意図を測りかねたイライザは黙って続きを待った。
「私たちが未だ触れていないそれらの場所が、恐らく、
ルキアとステラが頷きを交わす。
二人は何か共通の理解を持っているようだったが、イライザは完全に置いてけぼりだ。
「……ど、どういうことでしょう? 扉は十二個に分かれているのに、中には同じ一つの部屋しかない、という意味ですか?」
状況を理解しようと早口に問いかけたイライザ。
ステラは「ふむ」と顎に手を遣って言葉を選ぶような素振りを見せ、最終的に空の両手を広げるような仕草を見せた。
「分からん」
は? とイライザが呆けた声を上げるが、ステラも、同じくルキアも、確実性のあることは殆ど言えないのだ。
ただ一つ言えることがあるとすれば、何かしらの魔術が使われていること。
廊下の封鎖を魔術によるものと、ルキアにもステラにも感じさせない隠蔽能力を持ちながら、今は魔術の気配を明らかにしている。
分かるのはそれだけだ。
隠蔽出来ないのか、していないのかは分からない。
もしかしたら単純な、部屋の中を外部から観測されないようにするための、情報を混乱させるような魔術かもしれない。
感覚通りの、空間そのものを坩堝で溶かして混ぜ合わせるような魔術かもしれない。
「何が起こっているのか」が分からない。
そして、「何が起こるのか」もまた、分かっていない。
「十二個混ざり合ったぐちゃぐちゃの部屋に繋がるのか、扉を開けた瞬間に十二分の一のどれかに繋がるのか、もっと違う現象が起こるのか……」
「な、なるほど……」
何が起こっても不思議はない。
時間から切り離されたような謎の空間に、『明けの明星』や空間隔離魔術をも跳ねのける防壁の後では、もう何を見せられても「そんなことも出来るのか」と驚きと共に受け入れるしかないともいう。
「まあ、開けてみれば分かることだ。私たちに「進む」以外の選択肢は無いしな」
「……設計の傾向からすると、書庫に行けば何か分かりそうだけど」
情報を集めるべきではないかと、ルキアは言外に提案する。
自分が読むからとは言わない。言うまでもなくそのつもりで、それがステラも選ぶ最適な行動だという確信があるからだ。
「そうだが、藪蛇になる可能性があるからな。未知を踏み抜くリスクが、どのみちある」
「? 本を読んで部屋の状況や魔物の有無が分かるなら、その方がよくありませんか?」
イライザの疑問は真っ当だ。
そして真っ当な──常識的な判断で動けば、非常識の前に屈することになる。
必要なのは
常識も非常識も加味した上での、最もリスクを抑えた行動だ。
居室がどういう状態なのか、どんな魔術が使われているのか。そのヒントや解除方法について書かれた本があれば、無策で謎の魔術の影響下に踏み入るリスクを下げられる。
だが読むべきではない本を読み、ギミックの突破とは関係のない、知る必要のないことまで知ってしまうリスクが生じる。
「……どう思う、ルキフェリア?」
ステラは最終的に、判断を当人に任せることにした。
「……この館のギミックやデザインの傾向はなんとなく分かったわ。多分、私が読んだ本が一番触れて──
嫌なことを聞いた、とステラは内心舌打ちをしたい気分だった。イライザの手前、表情は涼し気に取り繕っているが。
ルキアが過去に遭遇した──「拝謁」したモノについて、ステラは詳しく聞いていない。聞こうと思わないし、聞きたくもない。
それでもフィリップやルキア本人の態度から、分かっていることが幾つかある。
隊列を決めるときの根拠だった、「知っているモノの数ではステラが勝るが、質ではルキアが上回る」というのも、その内の一つだ。
書庫にあった本の内容が、ルキアが知っているモノについてだったのは幸運だった。
しかしステラの知る
先んじて本物に遭ったルキアだから無事だが、他人が読めば精神にダメージを負い、運が悪ければ発狂してもおかしくない代物だ。
この空間は、単純に人を殺すようには設計されていない。ただ殺すための罠はない。
しかし、智慧を得た結果の発狂までケアされているかは微妙なところだ。書庫が開いたときのことを鑑みるに、されていない可能性の方が高い。
設計者の智慧に対する考え方や価値観がフィリップと似ているのなら、ケアしようとも思わないだろう。智慧を得ることは喜ばしく、言祝ぐべきことだとさえ思っているかもしれない。
無策のまま居室を開けても即死はない。
だが迂闊に書庫を探れば、知るべきでないことを知って精神が甚大なダメージを負う可能性がある。
リスクだけを考えるなら、情報収集は下策となる。
しかしそれでも、無知なまま居室へ行くことは躊躇われる。
躊躇させるだけの威圧感、存在感、違和感が、悪寒となって骨を蝕むようだった。
「……ここから先に何が起こるのか全く分からない状態だ。少しでも情報が欲しい。お前に自信が──ここにあるものなら大丈夫という確証があるのなら、任せたい」
「……未知を相手に確証なんてないでしょう。でも、怖くはない。……やれるわ」
ルキアは静かに、しかし確かな覚悟を感じさせる声音で言った。
……そして、イライザはまたしても置いてけぼりだった。
「あの……そんなに恐ろしいことが書かれているんですか? さっきも、何にも触れるなとお命じになられましたが」
「さて、な。ちなみに、王宮には読んだら死ぬと言われている書物が幾つもあるぞ」
「そ、そうなのですか?」
そんなものが、とイライザは驚きに声を震わせる。
しかし声や表情には、僅かに疑念も混じっていた。半信半疑よりは信じているものの、百パーセントとはいかない。
そもそも魔術でも呪詛でもない“呪い”自体、ドラゴンや悪魔といった上位の魔物のみが使える特殊技能だ。しかもドラゴンでさえ相手を直接殺す“呪い”は使えない。
たかが本が、呪いで人を殺せるとは思えなかった。
イライザは不満だった。
「理由は聞くな」と言われれば聞かないし、「やれ」と言われたことはやる。「やるな」と言われたことはやらない。ステラの命令に逆らうつもりなどないのだ。
なのに、無理やりな理由付けで従わせようとする。
それはイライザの忠誠心を──延いては師匠の教育を疑われているに等しい。……少なくともイライザはそう感じていた。
そしてそんな内心を、ステラもルキアも察している。
二人とも色々と──主にフィリップ絡みで──思うところはあったが、今この状況ではどうでもいいことだ。
「うち数冊は“本物”だぞ。本を開いた瞬間、仕込まれた刻印術式が顔目掛けて大爆発を起こすものとか、発動できるはずもない超高コストの刻印魔術が、本を手にした者の魔力を吸い尽くして殺すとか」
そう言われると、イライザは不満を引っ込めざるを得ない。元より口にする気もないが。
魔術トラップに対処できるのは魔術師だけだし、よしんば火薬や機械系の物理罠だったとしても、対処能力が高いのはルキアとステラだ。
弱い奴は変に動かず、強い奴の後ろで震えているべきだ。その“分”を弁えていなければ、いつか強くなることも出来ず、「いつか」が無くなる。
それは分かる。
だが、相手は聖痕者様、そして次世代の王国を支える公爵令嬢と、次世代の王国そのものたる次期女王。
そうしろと言われた以上は従うほかにないが、イライザこそが背に庇うべき相手なのに。
その葛藤も読み取って、ルキアとステラは僅かに口元を緩めた。
だが何も言わない。言及する必要がない。
忠誠心も、そこから生まれる態度や行動も、人それぞれだ。
よほど目に余るものでなければ、受け入れるのが主人の器量というもの。ルキアもステラもそういう教育を受けているし、その考えが染みついている。
二人にとってイライザの心情と態度は、十分に許容できる、叱責や指導の必要もないものだった。
「面白いわよね。見た内容を口外したら、見た者も聞いた者も数日以内に病死する本とか」
「えぇ!? そんなの、それこそ御伽噺に出てくるような呪いじゃないですか!? 王宮に置いても大丈夫なんですか!?」
龍の断末魔とはまた違う、しかし「それっぽい」効果に、イライザは慄いた様子だ。
不満も吹き飛んだようで、声色や表情には恐怖と心配の色が濃く滲んでいる。
「Bクラス機密文書のことだな。正規の職務権限を持った人間なら殺されはしない」
「殺され……え?」
ベクトルの違う怖い話に、イライザはちょっと引いた。