なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
警戒しつつ扉を開けるのにも慣れてきて、ステラは聞き耳を立てて中に動くものがないことを確認すると、躊躇なく客間を開けた。
中には誰も、何もいない。
しかし『客間』と書かれた扉のプレートから想像されるものとは、随分違った光景が広がっていた。
家具や調度品の類は一切無く、絨毯も板張りも剥ぎ取られた石の建材が露になっているほどだ。
床には、人間一人が寝転がっても余るほど大きな魔法陣が彫られている。
「魔法陣だ。それも起動した……これはこれは」
ステラの声が愉快そうに跳ねる。
どんなものかと覗き込もうとしたイライザを、ルキアは自分も見ないように目を伏せながら制した。
魔法陣に使われるのは通常の文字ではなく、一字で複雑な意味を持ったり、組み合わせで意味が変わる特殊な記号が多い。
だから一瞥しただけで全ての情報を読み解くのは極めて難しいが、読めてしまった場合、膨大な情報を一瞬で理解することになる。
別に、それがどういう魔術なのかが分かるだけなら、大した問題ではない。
だが例えば、それが神格の招来や、邪神の力を流用するようなものであった場合、フィリップが望まない結果となるだろう。
実例は彼女の前に立って、好奇心どころか探求心まで感じさせる弾んだ声を上げているが。
「人類が組んだものとは思えんな。いつぞやの転移魔術より馬鹿げている。見てみろ、ルキフェリア。お前の黒眩聖堂とて、ここまで複雑ではないだろう」
言われて、ルキアは小さく溜息を吐いて視線を部屋の中に向けた。
ステラが見ろと言うからには、見ても大丈夫なのだろう。イライザのような素人でなく、ルキアが見ても。
魔法陣の形に書き起こされた魔術式を見て、ルキアは暫し沈黙し、やがて感嘆の息を漏らした。
「これは……。魔力の要求量もだけど、前提を理解できない記述が多すぎる。貴女の言う通り、人間の魔術ではないのでしょうね」
「……どういう魔術が使われているのですか?」
ルキアの制止が無くなり、部屋を覗き込んだイライザが問いかける。
聖剣の形態変化や属性強化といった特殊な魔術を使うとはいえ、あれらは聖痕あってのもの。イライザ本人の魔術適性は二人に遠く及ばず、魔術知識は皆無と言っていい。
「例の、廊下や階段を封鎖して繋げる魔術よ。空間の歪曲……重力に頼らずどうやっているのか気になってはいたけれど、まさか、空間自体の抵抗係数がこんなに低いなんて」
しげしげと魔法陣を眺め眇め、ルキアの声にも感動が混じる。
空間の抵抗係数なんて、空間を捻じ曲げようとでもしなければ気にしないが、一度でも試みたことがあれば体感的に理解できる膨大な数値だ。
熱による空気の対流や強烈な重力で光が捻じ曲がることはあるが、それは空間が歪んでいるとは言えない。
ほぼ全ての環境に於いて一定とされ、例外は一つ。
ブラックホール──上級攻撃魔術『グラビディ・スフィア』で作られる、地表がちょっと抉れて吸い込まれる程度のものとは違う、太陽の数十倍の質量を持つ“本物”。
外界と絶対的かつ永続的に断絶した孤立系、事象の地平面を有するとされる異常な天体。
その内側だけは、空間に纏わる全ての数値が変動する……という仮説がある。観測も検証もしようがない、永遠の仮説だが。
ルキアも空間隔離やら何やらで手を出した分野だし、一時は真剣に研究していたが、空間どころか時間までぐちゃぐちゃになる上に、精密な操作が到底不可能と分かって検証には至っていない。
……まあ、それはともかく。
人類が観測可能な全ての場所と環境に於いて一定であるはずの係数が、ここでは別の数値で書き込まれている。
つまり──特異点レベルの異常空間だ。
ルキアもステラも薄々察してはいたが、こうして魔法陣という形に記述されると、その異常さが体感的に理解できる──というか、記述されてなお理解できない部分が大量にあって、文字が脳に入らず頭蓋を滑っていくような錯覚すらあった。
その上、こうして魔法陣を目にするまで、ルキアにもステラにも、勿論イライザにだって、廊下の封鎖が魔術であると感じさせなかった。
聖痕者の探知を掻い潜るほどの魔力隠蔽。魔術発動にピッタリ必要な分だけの魔力を、一切のブレなく流し込んだってそうはいかない。
有り得ない、と言っていい現象だ。
「空間の切り離しではなく新規作成。つくづく冗談じみた魔術だな」
「……私からすると、どちらも同じくらい凄いことのように思えます」
愉快そうなステラに、イライザはやや苦笑気味に言った。
だがルキアやステラからすると、比べ物にならない──そもそも比べるべきではないというのが正直なところだ。
「同じくらい凄いかもしれないが、何もかもが違う技術だ。以前、カーターが持ってきた模造人体のようなものだな。お前の腕を切り落とすのと、お前の腕と同じ形状の物体を作るのでは、意味が全く異なるだろう?」
剣技と錬金術を比べるようなもの。
アプローチから成果物まで、何もかもが違う。当然、ルキアにもステラにも再現できない──いや、知見が無さ過ぎて、再現性を検証することも出来ない魔術だった。
「干渉か破棄か……いやそもそも、解読出来るか?」
「え? もう読めたのでは?」
「数式を読めることと解けることは別でしょう? それと同じよ。書かれている数字や記号の一部は読めるけれど、一部は分からない。読めた一部から式の目的くらいは分かっても、それを為す過程が分からない」
楽しげに歪めた口元を癖で隠しながら、ルキアとステラの視線は没頭したように固定されている。
思考の大半は魔法陣の読解に費やされているが、イライザの疑問に答えるくらいの余裕は残していた。というか、流石に周囲への警戒を解くほどの油断はできない。
「でも、式を崩す方法は幾つかある。出鱈目に書き込んだり一部を消すのは簡単な方法だけど、全体図が見えていない状況ではリスクが大きいわ。魔術を壊したいのに強化されてしまったり、企図しない魔力の暴走が起こって大爆発したり、ね」
「ば、爆発するんですか」
イライザは慄き、声を震わせる。
聖剣や聖痕を介した魔術は彼女自身が訓練して身に付けた、使い方から仕組みまで詳らかに知っている技能ではない。
ある日いきなり使えるようになった、並の魔術を凌駕する力。
その、便利で強力な切り札だと思っていたものが、爆発する可能性を持っているとは知らなかった。
今のところ意図しない挙動や暴走といったアクシデントに見舞われてはいないが、もしも事故が発生した場合、イライザでは対処できないのは確実だ。
まあだからと言って、聖痕と聖剣のない勇者なんか軽装歩兵でしかないので、使わないわけにもいかないのだが。
「魔術といえど、現象を起こすにはエネルギーが不可欠。強力な魔術には魔力以外のエネルギー吸収機能や増幅機能が付いているから、必ずしも起こす現象に見合ったエネルギー源があるわけではないけれど」
イライザは相槌も最低限に、ルキアの言葉を必死で咀嚼する。
聖剣は暴走時の被害がとんでもないことになりそうだが、だからと言って使わないという選択肢は無いのだ。
ならばせめて、少しでも知識を持っておきたい。
対処するだけの技量が無いとしても。
「ええと、『
「あれは相当に特殊な魔術だし、増幅ではなく後付けだと思うけど……暴走すると危険なのは、そうね。これも同じ。術者なしに魔法陣の刻印だけで発動し続け、空間を捻じ曲げるほどの魔術──想定されるエネルギー量は、この館どころか、私たちが居たはずの森を丸ごと消し飛ばして余りあるほど」
ルキアは敢えて控えめな表現を選んだ。
もしもここが本当に事象の地平面であるのなら、崩壊時に発生するエネルギーは森一個どころではない。
というか、地球も太陽系も丸ごと消し飛んだとしても不思議はない。
なんせ本来はブラックホール──最低でも太陽の数十倍の質量を有する星の死骸内でのみ存在するはずの特異空間。
そしてそれは、イライザが知る必要のないことだ。
「僅かでもその可能性が──館の外に居るであろうフィリップを傷つける可能性があるのなら、その選択肢は選べない。もっと繊細に、きちんと解除する必要があるわ」
「解除……。魔術は、どうなると暴走するのですか?」
「普通は他人の魔術に外部から干渉したところで暴走なんかしないけれど、中途半端な理解度と技量で、身の丈に合わない魔術に手を出すと危ないわね」
今みたいに、とは言わない。
フィリップが居ればそんな弱音混じりの軽口も言えたかもしれないが、今はそこまでの余裕がない。
なんせ、やるしかないのだ。
難易度が高かろうと、暴走の危険があろうと。
「──っ! 駄目だ、私では理解しきれない。ルキフェリア、お前なら可能か?」
「可否の判別に一週間くらい欲しいわね。……魔力の動きを視れば、随分簡単になるけれど?」
ずっと魔法陣を観察していたステラが、苛立ちを滲ませて両手を揚げる。
そうなることを──自分の役目だということを分かっていたから、ルキアはもう覚悟を決めていた。
「……動きまでだ。魔力の情報までは読むな」
「難しいオーダーだわ。文字列の読む順番が分かれば、そこに書かれた情報も一緒に読んでしまうものだというのに」
二人とも覚悟を決める。
ルキアは理解しきれない情報量に、或いは理解してはならない情報に押し潰される、その寸前で自分を撃ってでも意識を遮断する覚悟を。
そしてステラは、ルキアが発狂した場合に撃ち合いになる覚悟を。
しかし、それは無駄に終わった。
文字列を追い、魔術式の処理順や構造を解し──なお理解できない部分が山のようにある。文字から文法まで全く異なる別言語を、母国語の語順に並べたところで理解できないようなもの。
幾つか単語の意味が分かったところで、全文を理解できるわけではない。
不明な百の項を含む数式のうち、項の一つ二つが分かったところで、計算できるわけがない。
「……なるほど、複雑になるわけね」
ルキアの声が再び愉快そうに弾む。
軽く手を振れば、背後で展開されていたステラの魔術と、背中に突き刺さっていた警戒心が消えた。
「この魔法陣は、誰かに解除されることを前提に組まれている。簡単な──数文字の改竄で全体が暴走することなく機能を停止するように、ね」
「……手を加えた瞬間に暴走する仕掛けの方が、まだ簡単だろうな」
魔術の発動に最適化し余分な機能を排した魔法陣は、干渉に対してとても弱い。
要求される
まあ、魔法陣とはそういうものだ。
魔力吸収や演算補助による効果強化や永続化といった拡張性を持たせたり、通常では使えないレベルの魔術を使えるようにしたりといった強みを持つ代わりに、外部からの干渉で容易く崩壊する。
対策としては、消えにくい特殊インクを使うとか、今回のように石に刻み込むことが多い。
だが術者に余力があれば、魔法陣自体に介入を防ぐ仕掛けを施すこともある。
一部を消そうが書き加えようが、最終結果が変わらないようにしたり。
或いは、抑止力として自爆機能を付けたり。干渉は出来るだろうが、改変すればお前は死ぬぞ、と。
今回の例はその逆。
敢えて介入しやすいように作ってある。介入を望み、前提として組んでいる。
「そういう箇所が四つ。三つはダミーね。一度間違えると、解除に必要な工数が倍になる。二度で更に倍、三度で更にその倍……要求される知識と計算の量は八倍では済まないでしょうけど」
「そ、それはまた……」
意地悪なことだと言いたげに苦笑するイライザ。
ルキアもステラも同感だし、それ以上に気色の悪さを感じる。
ここまでピンポイントに重要な部分を読み取れたということは、そこまでが術者の想定通りであることは間違いない。
……とんでもない技量だ。
魔法陣という形ではっきりと書いておきながら、読ませたい部分を読ませ、読むべきでない部分は読ませない。そんな記述、二人にだって再現は出来ない。
「……設計思想からすると、高度な知識や深い智慧を持っていなければここで詰み、なんて仕掛けではないはずだから、多分、書庫で調べればどうにかなるのでしょうね」
「途中で見てはいけないものを見て、頭がおかしくならなければ、な」
先刻、ルキアは書庫にあった本を読んだが、精神に悪影響があったようには見えない。
しかし彼女は内容について一切言及せず、ステラやイライザに見せるべきではないという判断をした。本を完膚なきまでに破壊するほど、徹底的に。
あの本が殊更に特別だった感じもするが、なら他の本は大丈夫、と判断するのは早計だし楽観だろう。
「自力で解けそうか?」
「もう解けたわ。解除するわよ」
ルキアが手を振ると、一条の光線が走り、一瞬で魔法陣に特殊文字を刻み込む。
魔力を纏って僅かに発光していた魔法陣は、静かに輝きを失った。
空間を捻じ曲げる大魔術の、何とも地味な終わり方──イライザはそう思った。
暴走はおろか、膨大な魔力の余波が嵐となって吹き荒れることもない。
それがどれほど緻密な魔術であり、起こしていた現象と通っていた魔力量からすると、どれほど異常なことなのかは、ルキアとステラにしか理解できない。
しかし、二人とも感嘆に浸ってはいられなかった。
「なんだ、この感覚……」
具体的にどこがどう、何がどうということはなく。
ただ、自分がこの場に居ることが、どうしようもなく愚かしい危険な行為であると、全身の細胞が叫んでいた。