なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
鍵が開いてしまった時は肝が冷えたが、外にいたモノは部屋に入ろうとはしてこなかった。
誰も手を付けていなかった水銀のようなものの入ったカップを給餌口から差し出してみると、また舐めるような音がして、再び絶叫が上がった。
次が来る前にそっと扉を開け、ステラが外の様子を窺う。
なにかが近づいてくる気配はない。
それはいいのだが、あるはずのものまで無いのは不気味だった。
部屋の前に二つ、あるはずのもの。断末魔の主、その死体が無くなっていた。ついでにカップも。
ただ扉の前辺りのカーペットに、どす黒い緑色の液体が染みている。死体が溶けてしまったようにも、或いは吐いた血だけ残して消え失せたようにも見える。
「……何だと思う?」
「魔物の血、でしょうか?」
「もう死んだ何かの何かだ。触るなよ」
ルキアの疑問にイライザが真面目に返し、ステラが考える必要はないと切り捨てる。
更に少し待ってみても、近付いてくるものはない。
どうやら第一段階、応接間のギミックはクリアしたようだ。
それを口にして確認せずとも、三人はそれぞれに理解し、揃って安堵の息を吐いた。
化け物と殺し合いをするよりは、頭を使って切り抜ける方がいい。肉体的にも精神的にも安全だ。
「次は……通されるなら執務室よね。普通は主人の方が応接間に出向くけれど」
「あぁ」
先刻と同じように予想を立て、同じようにステラを先頭に執務室に向かう。
今度は予想が合っていたようで、執務室の扉はすんなりと開いた。
中は応接間より落ち着いた雰囲気で、森がよく見える大きなガラス窓が印象的だ。
物はかなり少なく、家具は文机とセットの椅子の他は、小ぶりな箪笥一つだけしかない。
壁を飾る彫刻も主張しておらず、完全に書き仕事をするためだけの場といった感じだ。
せめてものインテリアなのか、部屋奥の角に、赤い植木鉢に植わった、見たことのない植物が飾られていた。
「待って」
罠の気配がないことを確認したステラが部屋に踏み入ろうとすると、最後尾のルキアが硬い声で制止する。
その視線は、謎の植物に向けられていた。
複数のツタが絡まり合ったような外観で、くすんだ青緑色の中に、血管のように曲がり分化する維管束が見える。
高さ170センチほどまで伸びており、時期なのか環境なのか、葉のようなものが見受けられない。絡んだツタのような幹と枝だけだ。
「知っているのか?」
「いえ、でも──」
問われて、ルキアは反射的に「否」と返す。
しかし、今初めて見たような気もしない。明確な既視感とまでは言わないが、全く新鮮な感覚もない。
なにか物凄く視線を引き付けるものと一緒に、視界の隅にひっそりと映り込んでいたとか、過去に見ていたとしてもその程度だろう。
「……?」
二人につられて植木鉢をぼーっと見ていたイライザは、ふと鼻を擽った鉄錆の臭いに首を傾げた。
目に付く範囲で、匂いを放つほど錆びた金属製品はない。
ルキアもステラも無反応だし気のせいかと思いつつ、もう一度部屋の中を見渡して、ようやく気付いた。
赤い植木鉢だと思った、植物が植わっているもの。
「え? あれ……血ではありませんか? それも、かなり新鮮な」
薄々そうではないかと思っていたルキアたちは、「やっぱりか」と溜息を吐いた。
植木鉢に見えたが、違う。
それは水槽だ。透明で、八分ほど血液で満ちている。
「血で育つ植物なんて聞いたことがありませんが……なんというか、それっぽい見た目ですね? 気持ち悪いです」
幹から伸びる枝は自重で垂れ下がっており、全容はどことなく人型に見える。
勿論、人間の脳は肩・脇・股間の5か所の窪みで人体を把握するから、なんとなくそういう形状であれば「人型だ」と思ってしまうものだ。
ただの勘違い。或いは偶然だろう。
少なくとも動き出す感じはないし、魔物特有の気配もないのだし。
そんなイライザの考えは、背後からのルキアの言葉で否定された。
「……植物と決めてかかるのは危険よ。迂闊に近づかないで」
警戒しつつも部屋に入ろうとしていたステラは、一歩踏み込んだ足を素早く戻す。
振り返った視線の先で、ルキアは涼やかな表情を仮面のように纏い、疑問と苦悩を覆い隠していた。並大抵の相手には悟られないだろうが、ステラには分かる。
直感か、無意識レベルに薄い記憶か。明確に根拠を持てない忌避感があるのだろう、と。
「分かった。ウィレットも、常に気を配れ」
「はっ」
それからステラとイライザは部屋の捜索を、ルキアはまた閉じ込められないようにドアを押さえつつ、廊下の監視だ。
謎の「毒見役」は応接間のギミックの一つだったのだろうが、クリアしたから現れないとも限らない。他の領域外存在や魔物が来ても困る。
万が一の場合は二人の視界を遮りつつ応戦し、敵を殺す。
殺せない相手なら少しでも情報を得る。最悪の場合でも「殺せない」という情報を遺す。
殿であるルキアはそういう役回りだ。
そして先陣を切るステラはというと、驚くべき手際で部屋の中を一通り調べ上げ、明らかに危険なものやトラップの類が無いことを確認し、細々とした調査をイライザに任せている。
「……っ」
ルキアは二人を見ながら険しい顔をする。一見しただけでは分からないくらい微細な変化だが、やはりステラにはお見通しだ。
そんなに恐ろしいものか、と訊こうとして、ステラは友人の意識が例の植物ではなく、自分の内側に向いていることに気付いた。
小さく苦笑したステラは友人の側へ向かい、壁に肩を預ける。
「その感情は、別に恥じるものではないさ。自力でどうにかしようという心持は美しいものだが、自分以上に長けた者を頼るのは当然のことだ」
全く本当に面倒な奴だと、ステラは揶揄うような笑みを浮かべる。
フィリップがこの場に居てくれたら、なんて他力本願な思考に自己嫌悪したのだと、彼女は親友の胸中を正確に見抜いていた。
「私だって事態を把握した瞬間、真っ先に思ったぞ? というか、迂闊に動かず助けを待つべきだとさえ思った」
廊下の隅で縮こまって、目と耳を塞いで震えていれば、フィリップが助けに来てくれるはず。
そんな期待、いや希望は、ステラも持っていた。というか、今でも少しだけ抱いている。
前例とは毛色が違うが、もしかしたら、ナイ神父を後ろに従えたフィリップが、ぷりぷり怒りながら助けに来てくれるのでは、とか。
或いは、あの黄色い外套を羽織ったような触手の塊が、ぶつぶつ文句を言いながら館を破壊して、フィリップがそれを揶揄いながら、のほほんとやって来るとか。
期待というには根拠の薄い、願望と言うべき妄想でしかないが。
「だが時間の流れすら定かではない以上、停滞は賢い選択ではない。制限時間の示唆はないが、応接間のギミックに全く説明が無かったからな。制限時間はないと決めてかかるのは危険だ」
或いは脱水や酸欠といった生理学的な時間制限を想定しているのかもしれないが、そのくらいは魔術でどうにかなる。
食べ物を作り出す魔術は存在しないとはいえ、水があれば一か月くらいは耐えられる。
まあ切り離された時間の中での体感一か月が、外では十秒くらいしか経っていなかった──なんて可能性も十分にあるので、耐えたところで何の意味もない可能性は十分にあるけれど。
だからこそ、「待ち」の選択肢は消えるわけだ。
「余計なことを考える余裕はないぞ。傷一つなく完璧に潜り抜けて、後であいつに自慢してやろう。お前も少し手を動かしてみるといい。監視を変わろう」
「……そうね」
ステラに扉番を任せ、ルキアは例の植物を常に視界に入れながら、家具や装飾の細部を観察し始める。
数学的・魔術的な意味のない幾何学模様の彫刻から、読み取れるものは何もない。
というか、この部屋で意味のありそうなものは、謎の植物くらいのものだ。
箪笥には未使用の高級紙やインク、便箋や替えのペン先などの備品が入っていたが、どれも普通だ。魔術的な加工や細工はないし、ヒントになりそうな記述もない。
「フィリップはこういう時、どうしていたの?」
「いま私がしているのと同じだ。設計者が存在することを念頭に置き、その思考や思想を読み、求められていることを考える」
ステラの言葉に、ルキアは意外感と納得を同時に抱く。
状況を把握した瞬間から前例に倣った最適な行動を取るのは、何とも彼女らしい。しかしフィリップはもっと大味な──「全員殺せばいいんだよ」的な、設計者も首謀者も引きずり出して殺しそうな危うさがあると思っていたのだが。
まだまだ理解者には遠いと、ルキアは一人自省する。
実際、フィリップが一人かつ事前説明無しで同じ状況に置かれたら大体そんな感じなので、間違いとも言い切れない。惜しいところだ。
「作られた舞台は“屋敷”。私たちの役柄は“客人”。邸宅へ招かれ、応接間で饗応を受け、こうして執務室を訪れた。さて、次は?」
「屋敷の主人に会う?」
「私もそう思っていた。だが不正解らしい」
扉が閉じる気配もないし、今度は閉じ込めて何かさせるギミックではないようだ。
まさか「押さえているから扉が閉じず、ギミックが作動しない」なんて理由ではないだろう。押さえているのは人間一人、たかだか50キロ程度なのだから。
どうしても何も見つからないとなったら、自発的に扉を閉めてみるのも一案か。
ステラがそんなことを考えていると、執務机の向こうでしゃがみ込んでいたイライザが、徐に立ち上がって手を挙げた。
「あの……王女殿下? お話し中のところ申し訳ありませんが、見て頂きたいものが」
「どうした?」
「この机、一方の引き出しは空なのですが、もう一方にはダイヤル式の鍵が掛かっているんです。なにか、思い当たる番号はありませんか?」
さっき見たときはダイヤルなんか無かったが、とステラが部屋を横切り、不審そうに確認する。
スライド式のカバーが付いており、元から存在を知っていなければ、かなり注意していないと見落としてしまうようになっていた。
「よくやった」と褒められたイライザは、恐縮しつつも嬉しそうだ。
「三桁か。私は特に思いつかないが、お前はどうだ?」
「いえ、私もないわね。……応接間の方にヒントがあるとか?」
扉番を交代したルキアは、エントランスホールを挟んで反対側の廊下を見遣る。
ただ言ってみただけで、応接間でもそれらしい数字を見た記憶はないが。
「かもな。もっと詳しく部屋を漁ってそれらしい数字を探すか……いや、千通り試すか? この部屋のギミックが何かも判然としていないが、中に手掛かりになるようなものが入っているかもしれん」
言いつつ、ステラは『000』に合わせられたダイヤルを弄り、『001』に変える。
さっきダイヤル仕掛けに気付く前に引いてみたとき、引き出しは開かなかった。つまり『000』でないことは確認済みだ。
そして──ステラが引き出しを引っ張った瞬間、爆音と共に眩いオレンジ色の炎が瞬き、机の側にいたステラとイライザは、左右の壁まで吹き飛ばされた。