なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
奇跡──と言うと、多くの人の努力や技術を軽視しているか。
現れた吸血鬼の初撃、鎖骨から入る袈裟切りに刃を合わせて受け流し、剣に込められた重さに押されるようにして大きく距離を取れたのは、奇跡的ではあった。
まともに打ち合っていないのに、込められた力の2割も感じていないはずなのに、腕がびりびりと痺れる威力。
一瞬のうちに血で編んだ長剣は龍貶しの硬度には敵わず、さりとて負けることもなく、澄んだ音を立てて刃を滑らせた。
相手の剣が赤く、視認しやすい色だった。流麗で見やすい手本のような太刀筋で、フェイントや小手先の技の絡まない単純な動きだった。
だから相手の動きが一瞬しか見えなくても、何処を狙ったどんな攻撃が来るのかが分かった。
それは単に幸運ばかりではなく、同じく人間の動体視力を振り切る速度で動けるミナやエレナ、同等以上の速度の魔術攻撃をするルキアやステラといった、優れた師匠たちに日夜鍛えられたお陰だ。
フィリップ自身の努力と、その周囲の環境によるものだ。
動きの一片、視界の中に赤色が一瞬閃いた程度の認識しか出来ない速度の攻撃に、完璧な対応が出来た。
回避だけなら間に合わず、受け流しだけでは押し切られていた。剣を合わせて攻撃の軌道を逸らしつつ、その場から退くことで漸く躱せる一撃を、模範解答の通りにして凌ぎ切った。
奇跡的ではあるが──奇跡ではない。
幸運が味方した結果ではあるが、それ一辺倒では有り得ない結果だ。
フィリップの幸運とは、言い換えれば相手の不運。
そして運なんかで攻撃を防がれるほど、生温い相手ではない。
「ッ──!」
初太刀を防いだ直後、フィリップは勢いのまま踵を返して逃げ出すべきかと考え、やめる。
相手は確実に上位吸血鬼だ。
ならば霧化に飛行に魔眼にと、逃げた相手を捕らえる手段は豊富にあるはず。目線を切る分だけ徒に不利を背負うことになる。
「……?」
対峙した吸血鬼は、剣を構え直したフィリップに怪訝そうな目を向けて首を傾げる。
直前まで「逃げるべきか」なんて考えていたフィリップは『「何故逃げないのか」とでも考えているのか』と推察するが、流石に相手も逃走可能性が著しく低いことは分かっている。
「どうして反撃しなかった? 後隙は大きめに見せてやったはずだが?」
「確かに額から肩まで見えてたけど、どうせ
フィリップは言葉を切り、だらりと下げた剣を手中で回して弄ぶ。
「──どうせ千とか一万みたいなオーダーでストック持ってるんでしょ? そんな奴と斬り合いたくないよ」
殺し合いが成立しない相手と戦いたくないし、そもそも戦う必要もない。
フィリップは離脱さえすれば、こいつも含め全ての吸血鬼は神罰の下に沈むのだから。
この状況では他の管理場に手を出せそうもないし、と、すっぱり諦めは付けたが──離脱はかなり難しい。
ただ一合、刃を合わせて分かったが、フィリップと眼前の吸血鬼では勝負にならない。
命の総数がどうこうではなく、純粋な技量と運動能力の差が大きすぎて。ミナやエレナに対峙した時と同じ感覚だった。
フィリップがまだ生きているのは、相手が全然本気ではないからだ。
殺す気で来られたら数秒で死ぬし、さっきの一合で死ななかったのは追撃が無かったからだ。口ぶりからして、相手の技量や動き方を観察したいタイプの剣士なのだろうが、フィリップは別に剣士として卓越しているわけではない。
つまり、早々に興味を失う可能性が──見切りを付けて殺しにかかる可能性が高い。
「ふむ? ではどうする? 別に見逃してやってもいいが──」
「──ミナを呼ぶ。っていうのはどう?」
牽制交じりの言葉に、赤い剣がぴくりと震える。
フィリップはいつでも拍奪の姿勢に移れるよう重心の位置を意識しながら、努めて無防備に見えるよう立ち方を変えた。
吸血鬼相手なら確実に効くと確信していた牽制だったが、彼はフィリップと同じく赤い剣を手中で弄ぶだけで、何もしなかった。
──ミナの名前を出した瞬間、首か心臓を狙った致命の一撃が飛んで来る覚悟をしていたのだが。
「あぁ……お前、オレがあいつにビビってたと──あいつがこの町から居なくなったタイミングで粋がり始めたと、そう思ってんのか。それはムカつく話だが……まあ、似たような間抜けではある。まさか城にも来ないまま帰るとは」
肩を竦め、頭を振りながら語る吸血鬼。
口ぶりや態度に嘘や誤魔化しの気配はなく、照れ交じりの自嘲は言葉ばかりではなさそうだった。
「どうして、オレがこんな大仰な真似をしたと思う? 魔王の方針を無視して開戦前に街一つ汚染し、しかし掌握せずに放置するなんて無意味な真似を」
剣を弄びながら語る吸血鬼。
フィリップが好きにさせているのは──剣を握ってもいない相手に斬りかからないのは、見え見えの隙が、その実、隙でも何でもないことを知っているからだ。
隙はある。
だが踏み込んで刃を差し込んだ瞬間には、逆にこちらの首が飛んでいる。圧倒的な速度差で、釣りでもなんでもない本物の隙を完璧にカバーされる。
だから斬りかかれない。
まあ構わないが。斬りかかって、切り裂いたところで、どうせストックがちょっと削れて終わりなのだろうし。
「強者を呼ぶためだよ。先代棟梁か今代……あ? いや先代が今代になったから……まあいい。ついでに、ここは王国と帝国の国境付近、かつ魔王領域にも近しい要所。人類側は無視できない位置だ、王国は特にな。だが王国には街を丸ごと処理できる化け物が居るだろう、それも複数」
吸血鬼は楽しそうに、自らの天敵を語る。
邪悪なるものを一撃で消し去る特殊攻撃に、街一つを滅ぼす単純火力さえ持ち合わせる最強の魔術師を。
「来てるんだろう? 誰が来た? 例のデュアルの奴か? それとも火か? 風か? 土は無いだろうが、大穴で水か?」
「……死にたかったんなら、ディアボリカの胸毛でも毟ってみれば手っ取り早かったと思うけど?」
ルキアか、ステラか、ヘレナか、ノアか──そう言うと差があるようにも聞こえるが、四人のうち誰が来ても、何も変わらない。
どうせ一撃で死ぬ。街の全てが一撃で死に沈む。差異は成れの果てが何か、塩の柱か灰の山か、塵混じりの風か潮溜まりか。それだけだ。
死にたいだけなら、聖痕者なんか使わず、適当にディアボリカに喧嘩でも売ればいい。
それか、ミナのスカートでもめくってみるとか。
まあ二人とも殺意ではなく「何だコイツ?」という疑問を持ちそうではあるが、二人とも殺意無しに殺せるタイプの戦士で、立場に応じた対応が出来る為政者だ。
行動の意味が分からなくても、不敬を理由に殺すだろう。
「違う、死にたいんじゃない。殺したいんだ。オレの新しい切り札の威力は、あいつらみたいな化け物相手でしか確かめられないからな」
やや自己陶酔気味な語り口調に、フィリップは胡乱な目を向ける。
新しい切り札を手に入れたのか何なのか知らないが、ミナや聖痕者に勝てるワケがない。そう思って。
だが。
「ところでお前、なんか妙な臭いがするな? なんだ? なんか持ってる──いや付いてるのか」
その言葉に、フィリップは特に何も感じなかった。
外神の気配の残滓に由来する“月と星々の香り”、或いは“夜の匂い”と呼ばれるものが、吸血鬼にとって好ましいものであることは知っている。
この町の劣等個体は、その感覚か嗅覚のどちらかが欠けていたらしいが。
まあ、それもどうでもいいことだ。
ミナなり邪神なりを使って、手っ取り早くこの場を離脱しよう。
そう思考を切り替えた直後だった。
「お前──
──思考が止まり、白紙化される。
寸前まで考えていた「離脱」の文字が完全に消えた。
「……なるほど」
なるほど、だった。まさに。
街に来る前から抱いていた疑問の全てが、いま氷解した。
ずっと考えていたのだ。
どうして街一つを汚染しておきながら、掌握もせず放置していたのか。魔王の方針に背き、ミナやディアボリカや聖痕者という化け物たちを呼び寄せるリスクを許容できるほどの目的とは何か。
リスク自体が目的だとは思わなかった。盲点だった。
無理もない。普通なら自殺行為だ。
まさか上位吸血鬼如きが、ミナや聖痕者を殺し得る力を持っているとは思わなかった。
フィリップたちが街に着いてから何のアクションもないから、てっきり震えて縮こまっているのかと思っていたが、それも勘違いだったらしい。
こいつは待っていたのだ。恐らくは、あの、これ見よがしに聳える街中央の城で。
ミナの城に居たときの経験に照らせば、恐らく玉座の間とかで、ミナが自分を殺しに来るその瞬間を待ち侘びていたのだろう。
まさか彼女が、ペットのおねだりに相好を崩し、人間を引き連れて──護衛して、ではない辺りに限界を感じるが──町を出ていくとは、まさか思わなかったに違いない。
「聖痕者やミナを殺す自信があるのはそういうわけか。なるほど、なるほど……」
強力な領域外魔術か、神話生物の召喚使役、或いは神格の招来すらも可能性として低くない。
だが、まあ、
「──まあ、あれだ。深みを知った気になっているらしいけど、滅茶苦茶浅いよ、お前。智慧も、考えもね」
フィリップは剣を納め、不愉快そうに吐き捨てる。
状況が変わった。
何もかもが覆ったと言っていい。
あと一時間で神罰術式が降り注ぐかもしれないとか、なるべく多くの人間を解放しようとか、そんなことは全部どうでもよくなった。
そんなことには、そんな些末事には、もはや思考を割くに値しない。
さっきの男──ヘンデルがまだ生きていたら話は違ったが、いまや何の枷もないのだから。
「っ! ほう、その気迫は悪くない……人間風情が、とは言わん。オレ自身、連中の教えの常識外ぶりは知っている。それは、吸血鬼が棟梁に反逆し聖痕者を呼び寄せようなどと画策するほどだ」
吸血鬼は上機嫌だ。
口ぶりだけでなく、魔術で作った剣は消し去り、回遊する魚か跳ねまわる仔犬のような動きでフィリップの周りを歩いている。
「だが、ふむ? オレは正直なところ、同門に会えて嬉しく思っている。渡された書物の解読は二割程度だし、協力を仰げたらとも思ったが……なぜそう怒る?」
不思議そうな声で問われて、フィリップは。
「同門? ……
哄笑した。
目を瞠り、口を開け、天を仰ぐほどに。
しばらく笑ったのち、フィリップは息を整えながら吸血鬼に向き直る。
「そうだね、ここで会ったのも何かの縁だ! 書物の解読だっけ? 手伝ってあげるよ! 邪悪言語なら普通に読めるし、精神を蝕む系の魔術には耐性があるからね!」
フィリップは朗らかに──それはもう、カノンが聞いたら震えあがるような明るい声で、目の前の劣等存在に笑いかけた。
ミナにもヘレナにも渡しはしないし邪魔もさせないと決めた、自分以上に凄惨に殺せる相手にしか委ねないと決めた、価値のない命に。
「きみ名前は? 僕はフィリップ・カーター。よろしくね!」
「あぁ? ……ハインリヒ・ヴァーニーだ。一先ず、我が居城へ案内しよう。ご同輩」
躁鬱じみてアップダウンの激しいフィリップの様子はさぞかし不審だっただろう。普通なら。
しかし「啓蒙を受けた」という前提があれば、まあそういうこともあるかと納得できる。少なくともハインリヒは、普通ではないとは思ったが、不思議には思わなかった。
智慧を持つ者は多少の振れ幅はあれど、どこかに歪みを抱えるものなのだから。