なんか一人だけ世界観が違う 作:志生野柱
「ち──ッ!」
経験に裏打ちされた短剣捌きと吸血鬼の身体能力、そして霧化による疑似的な無敵化と高速立体機動を用いて戦いながら、黒衣の吸血鬼は舌打ちを漏らした。
所詮は人間、などという侮りは、補助魔術の効果を目の当たりにした瞬間から捨てている。
なのに殺し切れない。
領主に仕える本職の殺し屋として十年、培ってきた技術が、殺した数だけの経験が、ただの子供に通用しない。
そればかりか、圧され始めている。
四メートルまで伸長する奇妙な剣は、吸血鬼の肌を、防刃繊維の衣服を、何ら区別せず水のように通す。先端速度は音速を超え、一歩間違えば自分が致命傷を負いかねない複雑な軌道を描く。奪ったところで扱えそうもない代物だ。
加えて間合いを誤魔化すような特殊な歩法。修得には努力以上に才能を要し、その流派の門扉は極めて狭いという、希少な技術──拍奪。
補助魔術無しでも相当な手練れと見えるが、基礎能力が底上げされて手が付けられなくなっている。
筋力、反射速度、動体視力、そして──外皮強度。
投擲したスローイングダガーは命中したが、肉には刺さらなかった。
そしてあの一度以来、投擲は当たらなくなった。
見えている場所に居ないせいだ。
「──ッ!!」
男は身体を霧に変え、7メートル上空に移動する。
その直後、心臓のあった位置を青白い残光が走った。
吸血鬼の視力でも追いきれない速度の一閃。僅かに遅れる破裂音は、音速突破の証。
「……まるで分身だな」
男は苦々しく呟き、また霧化してフィリップの後ろへ回り込む。
拍奪使いと対峙するのは初めてだが、技については聞き及んでいる。
独特な姿勢と急接近・急制動を組み合わせ、相対位置認識を誤認させる。精度はおよそ一歩か二歩分。
──人間だった当時も今も、たかが、とは思わなかった。
近接戦闘は間合いの取り合いだ。
切っ先が肌に触れようと、2.5センチ押し込まなければ心臓には届かない。
戦士たちは、そのたった2.5センチを稼ぐために、立ち方を誤魔化し、身体操作を弄し、武器を工夫する。
2.5センチの
ズルもズル、卑怯極まる。
その上、
挙句、底上げされた身体能力は拍奪の効果をも増大させている。
先の一撃、見えた位置から五歩は近かった。
「は──!」
フェイスマスクの隙間から、熱を帯びた息が漏れる。
男は殺し屋とはいえ、武芸を修めた者。卓越した技量の持ち主には嫉妬や賞賛や脅威だけでなく、興奮も覚える。
無論、バトルジャンキーではない彼は、次の瞬間には「ではどう殺すか」という冷静で合理的な思考に移るのだが。
男は実体化し、短剣を構える。
霧化状態は無限に続けられるものではないし、攻撃も出来ない。物理攻撃に対して無敵という大きなメリットはあるが、魔術は効く。
そして相手には補助魔術師がいる以上、こちらから攻撃できないデメリットの比重が大きくなるからだ。
だが──それは失策だった。
少なくともフィリップの真後ろという位置で、投擲の威力を確保するため、7メートル程度しか離れていない状況では。
どん、と胸元に殴られたような衝撃を感じる。
一瞬遅れて、甲高い破裂音が響いた。
100メートル先の針の穴を見分ける吸血鬼の視力は、ジャケットの背中に空いた穴と、僅かに立ち昇る白煙を知覚した。
そして身体の感覚で、見るまでもなく胸に空いた穴を自覚する。
「か、はっ──!?」
穴の開いた心臓を押さえ、男は膝を折る。
即死ではない。彼のストック量は心臓を破壊されても即死せず、ギリギリ再生可能な分があった。
「な、んだ、それは……!?」
「教えな──、いや、君の主人かこの町の汚染源の情報と交換なら、いいよ。情報料を取りたいところだけど、ほら、もう
振り向いたフィリップは勝ち誇りもせず、むしろ淡々としていた。
ペッパーボックス・ドロウレス。
銃をショルダーホルスターに収めたまま後ろ向きに撃つ、曲芸射撃。抜き放ち振り向く時間をカットした最速の射撃法だが、照準を空間把握力とカンに頼る博打になる。
咄嗟にやったところで上手くはいかないだろうが、フィリップはナイアーラトテップに通常射撃と同等の精度になるまで仕込まれている。
7メートル以内なら必中、という意味だ。
まあ吸血鬼の反射神経では銃口を向けた時点で身を躱され、クイックドロウでも当たるかどうかは疑問だった。ドロウレスすら効果への期待は薄かったのだが──ミナとは違い、音速を超える弾丸自体には対応できないらしい。
「──金に困っている風には見えないが、印象より俗だな」
男は立ち上がり、黒衣の下でスローイングダガーを構える。
ストックは先の一撃で完全に底を突いた。
これ以降、致命傷の範囲は人間と同等にまで拡張する。
指を斬られれば短剣を落とし、二度と拾い上げることは叶わない。
腕を落とされれば、余命は失血が閾値を超えるまでの数分となる。
全身の動脈、神経節、脊椎と頚椎、筋腱、人体における急所の全てが帰ってくる。
以て──
男とフィリップの身体性能は補助魔術込みで互角。技量はそれぞれ長短があれど、概ね互角。
互いが互いを殺し得るという平等。
一挙手一投足、なにか一手を損じれば死ぬ空間に於いて、二つの命は同じ天秤の上で均衡する。
「この町のルールを破り、秩序を壊すなら、客人でも殺す。殺して排斥する。飼い主の強さを笠に着たわけでは無いらしいが、どちらにせよ、お前が連中の弱点──お前が一番弱い」
男が
一投の内に複数、それも縦横だけでなく前後にもばらつきのある簡易弾幕。
フィリップの肌を貫けないことは承知のはずだが、それでも逃げもせず同じ攻撃をするということは、男の中には勝ち筋があるはずだ。
短剣に細工があるか、さっきより威力を増しているか、はたまた予想を超える何かがあるのか。
これ以上お高い服を破られては困るという理由だけでなく、防御した方が良さそうだ。
夜闇に紛れる色と思った淡い黒色は、正対した
直撃コースのものほど視認性が落ち、眼前に至ってなお距離感が掴めない。
──問題ない。
「は──ッ!」
伸長した蛇腹剣を一閃し、短剣を鞭の動きで払い落とす。
短剣の飛翔速度は時速約二百キロ。視認性の悪さ故に体感速度はもう少し上がる。
見えるか、見えないか。
見えたときには当たっている。
常人ならそのレベルの剛速球。
だが──ルキアやステラの魔術より遅く、ミナやエレナの攻撃より威圧感に欠ける。
故に、見える。
だが見えることと反応できること、反応できることと防げることは、また別の話だ。
アドレナリンで加速した意識は短剣の軌道を完全に読み取り──しかし、一秒を細分化する意識に、人間の身体能力は追い付けない。
被弾前提、ダメージコントロールの上手さで生死が分かれる。そんな攻撃。
だが今は、一秒を切り刻む
望んだとおりに身体が動き、意図した通りの斬線を大気に刻む。
その軌道に重なった短剣が切断され、風を切る形を失って狙いから逸れる。
意味を失った金属片の行方さえ、加速した意識は追いかけられた。
「は──!」
知らず、フィリップは口角を吊り上げる。
笑みには戦闘時の興奮ばかりではなく、自在に動く身体への歓喜も多分に含まれていた。
しかし直後、口元は笑いつつも眉根が寄る。
まるで嫌なことを思い出したかのように、不意に。
──やはり、これは不味い。
これを経験してしまっては、人体の不便さをより強く感じる。人間であることを嫌厭してしまう。一挙手一投足、ただの一瞥にさえ不満を抱くことになりかねない。
だから、この状態に慣れ切る前に、終わらせる必要がある。
「ふぅ……。確かに、君の言う通りだ。僕は弱い。下級吸血鬼程度の身体能力を手に入れただけで、こうも昂る。こんなの、ミナやアンテノーラからすれば子供みたいなもので、本職の戦闘魔術師相手なら、音速以上の速さか回避不能規模の攻撃で簡単に殺されるのに、すごく調子に乗ってしまう」
「……耳に痛いな」
殆ど独り言のつもりだった呟きに、黒衣の吸血鬼は律儀に相槌を打つ。
その返答からすると、フィリップの言葉を彼に対する皮肉と捉えたのかもしれない。
「たかが下級吸血鬼になった程度で、分不相応なほど調子に乗っている」という──たかが補助魔術程度で追い付けてしまう程度の強さに酔っている彼と、補助魔術など無くとも人間の手で殺せてしまう、この町の殊更に低劣な残飯モドキへの。
そんなつもりはなかったフィリップだが、否定する理由もない。
だらりと下げていた直剣形態の龍貶しを握り直し、姿勢を限界まで下げる。
「──、」
深呼吸を一つ。
身体能力が跳ね上がったとはいえ、酸素が不要になったわけではない。強化された分だけ多くの酸素を必要とする、なんてこともない辺り、補助魔術はつくづく便利なものだと思うが──さておき。
「ッ──!!」
補助魔術で強化された筋力を全開に、稲妻のように駆け抜ける。
速度の比喩ではなく、動きの比喩として。ジグザグに──相対位置認識を限界まで狂わせる。
普通の人体では不可能な急加速と急制動の連続。強化された速度は、通常時の一直線全力疾走より速く、彼我の距離を食い潰す。
人造の魔剣が軌道上に残光を曳く。
その上を、幾つかの短剣が無為に過ぎていった。
散らばる黒色の中に、幾つか淀んだ赤色のものがある。
恐らく血で編まれた魔術製武器──通常の金属武器を上回る強度と鋭利さを持つ、男の隠し持っていた“勝ち筋”だ。
だが当たらない。
拍奪対策か広く薄く展開された薄黒い短剣の弾幕、その中に潜む本命の赤色、その全てを掻い潜る。
拍奪
人外の速度帯でランダムな動きはむしろ危険だ。相手が拍奪を知っており、対策してくるなら尚更に。
故に、時速二百キロで飛来する短剣の全てを、フィリップは見てから回避している。
最短最速のルートを見極め、詳細不明の血色の死線には触れず、黒い弾幕を掻い潜り、切り払って突破する。
「く、ッ──!」
男が歯噛みする。
彼は自分の失策を悟った。
相手が防御を意識しているうちは無意味な攻撃を見せておき、攻撃に意識が向いた瞬間に“勝ち筋”をぶつける。
その作戦は悪くなかった。
だが、見せていたのは自分だけでなく、己もまた見せられ、思い込まされていた。
拍奪は脅威だ。
常時で一歩か二歩、人外の速度を以てすれば五歩分は相対位置を誤魔化され、場合によっては分身にも思えるほど。
だが全力疾走よりは明確に遅い。
その
拍奪は、最初と最後にしか使っていなかった。それ以外は普通に──全速力で近づいていたのだ。
気付いたときには、霧化が間に合わないほどに接近されていた。
一手打つ余裕もない一瞬、男は剣の煌めきに合わせて後ろに退く。
吸血鬼の脚力は刃の間合いを確かに外し──ぞぷ、と、横一文字に斬線が走った。
「が、はっ──!?」
心臓が切り裂かれ、
フィリップは彼の認識以上に踏み込んで、近い位置に居た。
吸血鬼の一歩に完全に追随し、致命の一撃を入れられるほどに。
攻撃直前で行使された拍奪の歩法は、相対位置認識を僅かに後ろに誤魔化していた。
「僕もフィジカルは後付けだからね。この手の駆け引きは叩き込まれてるんだ」
どこか同族意識を滲ませるフィリップに、男は血色の短剣を振りかぶる。
しかしそれを打ち放つ前に指先が黒い粒子へ変わり、魔術で編まれた武器も霧散する。
最後の最後まで戦う意思を捨てなかった吸血鬼は、やがて空気に溶けて完全に消え去った。