BS-TBS

木曜ドラマ23「御社の乱れ正します!2」 10月2日(木)よる11時放送スタート

あれから10年 これから10年

毎週土曜 よる8:54~9:00

東日本大震災から10年。当時10代だった若者の震災後10年とこれからの10年を取材、復興を考える。

202532

File.200 宮城県気仙沼市/熊谷樹さん

2025年7月26日(土)放送

震災発生時、熊谷樹さんは小学校2年生(8歳)。友人宅にいる時に、突然、激しい揺れに襲われた。沿岸部に位置する階上地区では、津波による被害が特に大きく、熊谷さんも自宅を流失。一時は家族が離れ離れになり、「当たり前だった日常が一瞬にして失われ、喪失感がとても大きかった」と当時を振り返る。現在、熊谷さんは自動車整備士として働きながら、休日を利用して語り部活動を行っている。活動の拠点は、津波により全壊した向洋高等学校の校舎。当時、生徒が全員無事に避難できたことから、震災遺構として保存されることになった。熊谷さんが語り部活動を始めたのは高校3年生のとき。津波の被害がなければ自らが通う予定だった校舎が震災遺構になることを受けて、防災担当の教員から誘いを受けたのがきっかけだった。現在は、修学旅行生や一般の来訪者を対象に語り部として案内を行うほか、震災の月命日に合わせて地元の中高生による語り部のボランティア活動を実施し、「語り部」の継承にも力を注いでいる。「震災を体験した一人の被災者として、「震災」を伝え続けていきたい。伝えていくことが、自分たちの使命だと思っている」と熊谷さんは語る。そんな熊谷さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.199 福島県南相馬市/渡邊春香さん 

2025年7月19日(土)放送

震災発生時、渡邊春香さんは大学4年生。仙台市内の大学に通っていた渡邊さん。すぐに実家に連絡、幸いすぐに無事は確認できたものの、その後は連絡がつかなくなってしまった。翌日、帰郷して避難所を何か所も捜し歩き、ようやく家族との再会を果たしたという。渡邊さんの地元・井田川地区は、津波の被害に加え、福島第一原発の事故の影響も受け、「もう戻ることはできないだろう」と当時は半ば諦めていたと振り返る。現在、渡邊さんは家族とともに農業と観光農園を営んでいる。実家は代々この地で農業を続けてきたが、原発事故の後に避難指示区域に指定され、渡邊さんも故郷を離れることとなった。さらに、津波の影響で災害危険区域にも指定され、家の再建も叶わなくなってしまった。それでも、「農業を通して人が楽しめる場所をつくりたい」という子どもの頃からの夢を抱き続けていた渡邊さん。避難指示が解除され、父の「この地域だからこそ、これまでとは違う新しい農業ができる」という言葉に背中を押されて地元に戻る決意を固めた。「農業と観光を通して、地元に貢献したい」と、復興への思いを胸に今も歩み続けている。そんな渡邊さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.198 岩手県大槌町/臺 隆裕(だい たかひろ)さん

2025年7月12日(土)放送

震災発生時、臺隆裕さんは高校1年生(17歳)。学校にいるとき、「街がなくなった」という級友の泣き叫ぶ声を聞き見に行くと、見慣れた街が一変していた。煙と炎が立ち上り、黒い水が街を覆い尽くしていた。臺さんの自宅も津波で流され、先行きの見えない不安と絶望に襲われたという。その後、学校は避難所として開放され、臺さんは他の生徒とともに、簡易ベッドの設置や被災者名簿の作成を行った。「たいへんな状況だったが、最善の行動が取れた。自分たちにできることを果たすことで、少しだけ気持ちが救われた」と当時を振り返る。現在、臺さんはプロのトランペット奏者として活躍する一方で、大槌町の地域おこし協力隊としても活動している。「音楽では空腹すら満たされない」。震災直後、音楽を続けることに希望が見えず、トランペットを置くことも考えたという。しかし、自分の演奏に涙を流しながら拍手を送ってくれる人々の姿に心を動かされ、「亡くなった方々の思いや失われた町の記憶を、演奏を通して伝えていこう」と決意した。現在は、地域おこし協力隊として町のイベント運営やPR活動にも携わっている。「町の復興の一環として、多くの人が訪れる“文化のまち”をつくっていきたい」と語る。そんな臺さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.197 宮城県仙台市/亀井新之介さん

2025年7月5日(土)放送

震災発生時、亀井新之介さんは中学2年生(14歳)。実家は仙台市の沿岸部だったが、幸い津波の被害は免れた。しかし、停電により暗転した夜、避難所から見た仙台港の石油コンビナートだけが火災で明るく浮かび上がるさまが何より恐怖だったと振り返る亀井さん。さらに、津波による被害者が次々と見つかるという現実を目の当たりにし、「先の見えない不安」が強く込み上げたという。現在、亀井さんは自衛隊のヘリコプター隊に所属、航空操縦士の任務に就いている。東日本大地震の際、避難所で活動する自衛官の姿や救援、救護のために飛び立ってゆく航空機を見て勇気付けられた経験が、自衛官を志すきっかけとなった。一方、整備担当として亀井さんの飛行任務を支える佐藤なつ未さんも、仙台で震災を経験した一人。中学生だった当時の、何もできなかった悔しさが心に残っていたという。姉が自衛官になったことをきっかけに「この仕事なら人の役に立てる」と、自らも自衛官の道を選んだ。「整備員との信頼関係を大切にし、多くの人の役に立てるような操縦士になりたい」と語る亀井さん。そんな亀井さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.196 福島県平田村/吉田凌さん

2025年6月28日(土)放送

震災発生時、吉田凌さんは小学2年生(7歳)。授業中、突然激しい揺れに襲われた。平田村は内陸部に位置するため、津波による被害は免れたが、福島第一原発事故の影響で、家族とともに避難生活を余儀なくされたという。学校でも屋外の活動が制限され、農家を営む実家は風評被害に苦しんだ。経験したことのない「恐怖」を感じるとともに、健康被害や将来への漠然とした不安を抱いたと吉田さんは当時を振り返る。現在、吉田さんはJR東日本八王子支社に勤務するとともに、JR東日本ランニングチームの一員としても活動している。ランニングを始めたのは小学生の頃。高校の部活動から本格的に競技に取り組み、創価大学に進学、4年次には箱根駅伝に出場し主将としてチームを牽引した。「地元の皆さんの応援が、いつも支えになってきた」と語る吉田さん。自身の走りを通して東北の人々に勇気や感動を届けたい、恩返しをしたいという思いから、地元福島を含む東日本の広い地域を管轄するJR東日本を就職先に選んだ。そんな吉田さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.195 岩手県山田町/鈴木寛太さん

2025年6月21日(土)放送

震災発生時、鈴木寛太さんは19歳。海辺にいるときのことだった。消防団員からの呼びかけで高台へ避難した直後に津波が到達した。高台からは、津波に飲み込まれる街や人の姿が見えたが、後に、そのうちの一人が自身の父親であったと知った。「何もかも失った。前を向いて進むしかないという気持ちだった」と鈴木さんは当時を振り返る。現在、鈴木さんは山田町で起業し、建築業をはじめ、牡蠣やホタテの卸業、さらにトラウトやサケの陸上養殖における中間育成事業など、幅広い分野で事業を展開している。若くして型枠大工として働き始めた鈴木さんは、「若いから」という理由で実力を正当に評価してもらえず、もどかしい思いをした経験があったことから、自ら若者が活躍できる場を提供したいと考え、起業を決意したという。震災から十数年が経った今、「町はある程度復興したが、元の姿には戻っていない」という鈴木さん。だからこそ、次世代のためにまちづくりに尽力し、産業を守ることで、地元の復興と社会貢献につなげていきたいと語る。そんな鈴木さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.194 宮城県石巻市/石渡賢大さん

2025年6月14日(土)放送

石渡賢大さんは千葉県出身。震災発生時は大学3年生で、東京の大学に通っていた。被災地の力になりたいという思いから直ぐに現地のボランティア活動に参加。しかし、そこには想像を遥かに超える惨状が広がっていた。「これが現実に起きた事なのか」「本当にここに町があったのか」。大きなショックを受けた石渡さんだったが、同時に、再び震災が起きたときに、この教訓を生かし、行動できる人でありたいという思いが強く芽生えたという。現在、石渡さんは石巻市にある一般社団法人、日本カーシェアリング協会に所属している。この団体は東日本大震災を機に設立され、全国から寄付された車を活用、災害で被災した人や地域活動に尽力する人へ車を無償で貸し出す活動を行っている。大学在学中に東日本大震災を経験した石渡さんは、災害時に被災者の力となる仕事をしたいと考え、卒業後は損害保険会社に就職。宮城県への配属を希望し、2012年に移住した。その4年後。宮城県大崎市で大規模な水害が発生した際、日本カーシェアリング協会の活動に協力したことをきっかけに、同団体の理念に深く共感し、転職を決意した。そんな石渡さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.193 福島県富岡町/渡邉優翔さん

2025年6月7日(土)放送

渡邉優翔さんは福島県須賀川市出身。震災発生時は小学4年生だった。須賀川市は内陸部にあるため、津波による大きな被害は免れたものの、福島第一原発の事故による「風評被害」に悩まされることとなった。実家が営む観光農園では、それまで毎日のように訪れていた観光バスが途絶え、来園者の中には、放射能を恐れて防護服を着てくる人もいたという。また学校でも校庭で遊べなくなるなど、これまで当たり前だった「日常」が制限されるようになり、不安と不満が募るばかりだったと渡邉さんは振り返る。現在、渡邉さんは富岡町で起業、お酒の製造・販売と造園業を手がけている。300年以上続く家業のつつじ園を継ぐため、東京の大学で造園を学んでいる時に新型コロナウイルスの感染が拡大し、園の経営が悪化。観光農園以外の新たな事業展開を模索する中で、花酵母を使ったお酒に着目した。そんな折、富岡町の夜ノ森駅舎に咲くおよそ6,000本のつつじが、除染のために伐採されるというニュースを目にした渡邉さん。町の花として親しまれてきたつつじを再生させることが、町の復興につながるのではないか。花に恵まれたこの地域を守ることが、つつじ園を継いだ自分の使命なのかもしれない。そんな思いから、富岡町での起業を決意した。そんな渡邉さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.192 岩手県宮古市/中沢翔馬さん

2025年5月31日(土)放送

中沢翔馬さんは岩手県宮古市出身。震災発生時は大学1年生で、青森市内の大学に通っていた。当時、中沢さんの父は宮古市の消防団に所属していたため、救助活動にあたっているはずの父の安否が気掛かりでならなかったという。震災から数日後、なんとか地元に戻り父との再会を果たすことができたが、見慣れた街並みは一変。津波の爪痕による悲惨な光景が広がっていた。しかし、宮古復興のために奮起する人々の姿に刺激を受け、「自分も地元のために貢献しよう」と決意したという。中沢さんは現在、宮古市で両親と共に農業を営みながら、地域の復興活動にも尽力している。大学卒業後に帰省すると同時に、中沢さんは消防団に加入した。震災時、それぞれ仕事を抱えながらも地域住民のために活動する姿を見て、自分も同じように活躍したいと思ったからだった。他にも、¬災害ボランティアや仮設住宅のサロン活動など、さまざまな地域活動に参加してきた中沢さん。そこには「宮古の人々に育ててもらった」という地元への感謝の気持ちとともに「今度は自分が地元のために恩返しをしたい」という強い思いがあった。そんな中沢さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.191 宮城県石巻市/苅谷智大さん

2025年5月24日(土)放送

苅谷智大さんは愛知県出身。震災発生時は大学院2年生で、仙台市内の大学に通っていた。「これからどうなってしまうのだろう」。将来に大きな不安を抱いたという苅谷さん。担当教授と共に石巻に足を運ぶと、そこには想像を遥かに超える悲惨な光景が広がっていた。「復興の手助けをしてほしい」「こんな街にしていきたい」という地元の人々の切実な声を聞き、自分に何ができるかを真剣に考え始めた。そして、復興に携わるうちに、石巻を自分の「故郷」のように感じるようになり、「故郷のために尽力したい」と思うようになったという。現在、苅谷さんは宮城に加え、福島のまちづくり事業にも取り組んでいる。大学で建築を学び、大学院では「まちづくり」について研究。さらなる進学を検討していた矢先に震災に遭った。そんな中、復興に向けて奮起する石巻の人々と出会い、「この人たちと共にまちづくりをする」という決意のもと移住。その根底には「東北全体を豊かにしたい」という、苅谷さんの強い思いがあった。そして、自分ができることに最大限取り組みたいと、福島の原発被災地の復興にも携わることにした。そんな苅谷さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.190 福島県南相馬市/奥村美羽さん

2025年5月17日(土)放送

震災発生時、奥村美羽さんは保育園の年長で5歳。お昼寝の時間に激しい揺れに襲われ園外へ避難。帰宅後も余震が続き、とにかく「怖かった」という記憶だけは鮮明に残っているという。その後、福島第一原発の事故の影響でおよそ1年、神奈川県で避難生活を送ることに。避難先で通った小学校では、友人と仲良く過ごしながらも「福島の友人を思い出して寂しさが募った」と当時を振り返る。現在、奥村さんは保育士として、かつて自身が通っていた南相馬市内の保育園に勤務している。幼い頃、優しく接してくれる先生の姿に憧れを抱いたことが、保育士を目指すきっかけだったという。就職の際には、当時お世話になった先生が現役で勤めており、奥村さんのことを覚えていて温かく迎え入れてくれたという。「多くの園児がいる中で、覚えてもらえていたことが何よりうれしかった」という奥村さん。震災で友人と意図せず離れなければならなかった経験があるからこそ、一人ひとりの園児としっかり向き合い、地元の復興に少しでも貢献できる保育士として活躍していきたいと語る。そんな奥村さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.189 岩手県大船渡市越喜来/坂本美岬さん

2025年5月10日(土)放送

震災発生時、坂本美岬さんは小学2年生(8歳)。学校の帰りの会の途中、「経験したことのない」激しい揺れに襲われた。すぐに高台へ避難。そこで津波に街が飲み込まれていくさまを目の当たりにした。いっしょに見ていた友人が「ぼくの家、流されちゃった」とうなだれる姿を、今でも印象深く覚えているという。また、どこかで避難誘導しているはずの、共に教師である両親のことが「ただただ心配でならなかった」と当時を振り返る。坂本さんは今年の4月からIBC・岩手放送の報道制作部に勤務している。小学5年生の頃、市が主催する「さんりく・おおふなとお話大賞」に応募した作品『震災をのりこえたヤドカリ達』が大賞を受賞、たくさんのテレビ取材を受けたことが報道の世界を志すきっかけとなった。入社直前の3月、地元・大船渡市で山林火災が発生。テレビニュースには知人の姿も映っていた。「もしかしたら自分が取材する側になっていたかもしれない」。記者としての姿勢や報道することの意味、意義を改めて考えるきっかけになったという。それは、大賞を受賞した時に自身が受けた取材でさまざまな思いを抱いた経験があったからだ。そうした経験を持つ自分だからこそ、「人に寄り添った報道を模索していきたい」と坂本さんは語る。そんな坂本さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.184 宮城県仙台市/石田亜佑美さん(再)

2025年5月8日(木)放送

※5/8(木)よる8:54より放送 東日本大震災から15年目。番組がリニューアルいたしました。昨年末に「モーニング娘。」を卒業、今年、未来へ向けた新たな1歩を踏み出し、モーニング娘。結成から現在に至るまで、唯一の東北出身者である石田亜佑美さんがMC及びナレーターを務めます。震災発生時、石田亜佑美さんは中学2年生(14歳)。通っていたダンススクールで震災に遭った。地下のスタジオだったにも関わらず、それまでに経験したことのない大きな揺れに恐怖を感じたという。「何が起きているのか全く分からなかった」という石田さん。津波や火災、地震で一変した街の様相をテレビで知り、「自分がいる宮城県で実際に起きていることとは思えなかった」と当時を振り返る。2024年12月にモーニング娘。を卒業し、現在はソロで活躍している石田さん。幼い頃から、いつかテレビに出てみたいという気持ちがあったという。震災の年の2011年9月、モーニング娘。のオーディションに合格。現在に至るまで唯一の東北出身メンバーとなった。石田さんのグループ加入後、宮城県や東北地方での公演が頻繁に開催されるようになり、多くの東北のファンから感謝の言葉をもらったという。自身でも宮城県出身であることを強く意識、宮城県や東北地方の魅力発信にも力を入れてきた。その結果、県外や海外からも足を運んでくれるファンが増えたという。「地元の良さを多くの人に伝えることができた」と石田さんは胸を張る。そんな石田さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.188 宮城県仙台市/浅野祥さん

2025年5月3日(土)放送

震災発生時、浅野祥さんは大学3年生(21歳)。学校の関係で地元を離れて神奈川県に住んでいたため、自身は被害を免れたが、宮城県の実家は全壊扱いとなった。その実家で5歳から津軽三味線を始めた浅野さん。中学生の時の全国大会では、歴代最年少で優勝するなどその才能を開花し、年間を通して世界各国で演奏活動を行っていた。しかし、震災以降その機会も途絶え、「自分ができることは何か」ということに強く思いを巡らせたという。浅野さんは現在も、津軽三味線奏者として世界を舞台に演奏活動を行っている。震災後は、避難所や仮設住宅を100か所近く訪問。曲のリクエストをくれる方、演奏に合わせて一緒に歌ってくれる方、「久しぶりに大きな声を出した!」と嬉しそうに語る女性など「これまでの公演では体験できないような光景が、被災地での演奏会では広がっていた」と浅野さんは振り返る。浅野さんの三味線の師である祖父は、震災で全壊した実家を建てた大工でもあった。公演を通して「震災」を伝えていきたいと考えた浅野さんは、全壊した家の床柱を使って二挺の三味線を製作。「この三味線に思いを乗せて、日本、そして世界各地で演奏を続けていきたい」と語る。そんな浅野さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.187 福島県富岡町/大瀧一紀さん

2025年4月26日(土)放送

震災発生時、大瀧一紀さんは18歳。高校を卒業して直ぐ、自動車教習所にいるときのことだった。立っていられないほどの激しい揺れ、桜並木が波打つような大きな揺れに「ただ事ではない」と感じたという。その後、福島第一原発の事故をテレビの報道で知り、隣接する川内村の避難所へ向かった。あまりにも非現実的な生活が続き、将来への不安を抱きながらも、「目の前のことで精いっぱいだった」と大瀧さんは当時を振り返る。大瀧さんは現在、ゴルフのティーチングプロとして活動している。ゴルフを始めたのは中学生の時。母からの勧めだった。一時はプロを目指したが、なかなか結果が出ず、ティーチングプロに転向。指導者としてスキルアップしながら、昨年、ティーチングプロの大会で全国優勝を果たし、日本プロゴルフ選手権の出場権を獲得した。「地元の方々の応援が励みになっている」と語る大瀧さん。次世代の育成が福島の復興にもつながると考え、将来的には、小中学校の授業でゴルフを教えるという希望を持っている。「ゴルフを通して地元を盛り上げる」という思いを胸に、日々練習に励んでいる。そんな大瀧さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.186 宮城県仙台市/杉本ゆりさん

2025年4月19日(土)放送

東日本大地震で被災した、元モーニング娘。の石田亜佑美さん。今回は、震災時、石田さんと同じダンススタジオで被災した、杉本ゆりさんに話を聞いた。震災発生時、杉本さんは高校1年生(16歳)。スタジオで打ち合わせをしているときのことだった。皆で近隣の公園に避難し、その後、近くの学校の体育館に移動した。余震が続き、電気が消えて真っ暗な中、音だけが響く環境に、「不安でいっぱいだった」と杉本さんは当時を振り返る。その後、無事家族とともに帰宅し、ようやく胸を撫で下ろすことができた。現在、杉本さんは、NHK仙台放送局の広報事業部に勤務、イベントや公開収録などの企画、運営を担当している。偶然にも職場が震災時に避難した公園の隣だったことから、「不思議な縁を感じた」と語る杉本さん。社屋内の震災伝承施設の案内を務めていた際には、震災を体験した者として子どもたちに使命感を持って教訓を伝えることができたという。施設には、当時の津波の高さを示す柱があり、それを見て「泳げるから大丈夫」と言う子どももいた。しかし、実際の津波の映像を見て、「ただの水ではない」と知り、言葉を失っていたという。「震災を正しく伝えることの重要性を実感した」と杉本さんは語る。そんな杉本さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.185 宮城県石巻市/石田亜佑美さん(再)

2025年4月17日(木)放送

※特別編成のため4月17日(木)よる8:54より放送致します。 東日本大地震で被災した、元モーニング娘。の石田亜佑美さん。今回は、石田さんが石巻市にある震災遺構、大川小学校を訪れ、語り部の三條すみゑさんから「震災時、何があったのか」を聞いた。東日本大地震による津波で、74名の児童と10名の教職員が犠牲となった、石巻市立大川小学校。学校は、北上川の河口からおよそ3.7キロ上流に位置し、海との間には二つの山を挟むため、この地域の人々は「津波」を全く想定していなかった。14時46分、地震が発生。児童たちは防災マニュアルに従って校庭に待機した。校庭の裏には、授業でも度々登っていたという、子どもでも5分かからずに登れる山があり、そこへ逃げようとした児童もいたが、防災マニュアルに従うよう校庭に呼び戻された。15時36分、津波の到達を想定し、北上川に架かる新北上大橋脇の堤防道路に向かって避難を開始。そのわずか1分後のことだった。北上川を遡上してきた津波が橋に堰き止められて一気に溢れ出し、避難途中だった児童たちを一気に飲み込んだのだ。「津波が来る」という「想定」と、「山に逃げる」という「備え」が事前にあれば、この犠牲は防げていた。地震発生から津波到達まで51分間。「校庭で待ち続けた子どもたちが、どれだけの恐怖を感じたのだろう」と思いを馳せた石田さん。実際に現地に足を運び、直接話を聞いたからこそ知ることがある。「東北出身者として、この教訓を語り継いでいきたい。そして大川小学校にも足を運んでみてほしい」と石田さんは語る。 »本編youtube動画はこちら

File.185 宮城県石巻市/石田亜佑美さん

2025年4月10日(木)放送

※特別編成のため4月10日(木)よる8:54より放送致します。 東日本大地震で被災した、元モーニング娘。の石田亜佑美さん。今回は、石田さんが石巻市にある震災遺構、大川小学校を訪れ、語り部の三條すみゑさんから「震災時、何があったのか」を聞いた。東日本大地震による津波で、74名の児童と10名の教職員が犠牲となった、石巻市立大川小学校。学校は、北上川の河口からおよそ3.7キロ上流に位置し、海との間には二つの山を挟むため、この地域の人々は「津波」を全く想定していなかった。14時46分、地震が発生。児童たちは防災マニュアルに従って校庭に待機した。校庭の裏には、授業でも度々登っていたという、子どもでも5分かからずに登れる山があり、そこへ逃げようとした児童もいたが、防災マニュアルに従うよう校庭に呼び戻された。15時36分、津波の到達を想定し、北上川に架かる新北上大橋脇の堤防道路に向かって避難を開始。そのわずか1分後のことだった。北上川を遡上してきた津波が橋に堰き止められて一気に溢れ出し、避難途中だった児童たちを一気に飲み込んだのだ。「津波が来る」という「想定」と、「山に逃げる」という「備え」が事前にあれば、この犠牲は防げていた。地震発生から津波到達まで51分間。「校庭で待ち続けた子どもたちが、どれだけの恐怖を感じたのだろう」と思いを馳せた石田さん。実際に現地に足を運び、直接話を聞いたからこそ知ることがある。「東北出身者として、この教訓を語り継いでいきたい。そして大川小学校にも足を運んでみてほしい」と石田さんは語る。 »本編youtube動画はこちら

File.184 宮城県仙台市/石田亜佑美さん

2025年4月5日(土)放送

東日本大震災から15年目。番組がリニューアルいたしました。昨年末に「モーニング娘。」を卒業、今年、未来へ向けた新たな1歩を踏み出し、モーニング娘。結成から現在に至るまで、唯一の東北出身者である石田亜佑美さんがMC及びナレーターを務めます。震災発生時、石田亜佑美さんは中学2年生(14歳)。通っていたダンススクールで震災に遭った。地下のスタジオだったにも関わらず、それまでに経験したことのない大きな揺れに恐怖を感じたという。「何が起きているのか全く分からなかった」という石田さん。津波や火災、地震で一変した街の様相をテレビで知り、「自分がいる宮城県で実際に起きていることとは思えなかった」と当時を振り返る。2024年12月にモーニング娘。を卒業し、現在はソロで活躍している石田さん。幼い頃から、いつかテレビに出てみたいという気持ちがあったという。震災の年の2011年9月、モーニング娘。のオーディションに合格。現在に至るまで唯一の東北出身メンバーとなった。石田さんのグループ加入後、宮城県や東北地方での公演が頻繁に開催されるようになり、多くの東北のファンから感謝の言葉をもらったという。自身でも宮城県出身であることを強く意識、宮城県や東北地方の魅力発信にも力を入れてきた。その結果、県外や海外からも足を運んでくれるファンが増えたという。「地元の良さを多くの人に伝えることができた」と石田さんは胸を張る。そんな石田さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.183 宮城県仙台市/YUNAさん

2025年3月29日(土)放送

震災発生時、YUNAさんは保育園の年長で6歳。卒園式の予行練習をしているときに震災に遭った。帰宅後テレビを観ると、そこには見たことのない、知識としても知らなかった「津波」の映像が映し出されていた。現実とは思えない惨状に両親は言葉を失い、YUNAさんはただひたすら「怖い」と繰り返していたという。幼かったため、何が起きているのか理解できないことも多かったが、成長した今では親の苦労が分かるようになったと当時を振り返る。YUNAさんは現在、仙台市に拠点を置く女子プロレスリング団体「センダイガールズプロレスリング」に所属している。中学生の頃に憧れたプロレスラーのようになりたいと、高校3年生のときにその道を歩むことを決意した。センダイガールズプロレスリングでは、震災後直ぐから被災地で復興イベントを開催、YUNAさんもその活動を通して震災への意識がより一層強くなったという。そして、震災を知らない世代が増えていく中で、自身の体験を伝え、プロレスを通して東北を盛り上げていきたいと語る。そんなYUNAさんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.182 福島県川俣町山木屋/高野樹さん

2025年3月22日(土)放送

震災発生時、高野樹さんは小学6年生(11歳)。卒業式の予行練習をしているときに震災に遭った。中学生活が始まって間もない頃、先生から突然「今日から学校の場所が変わります」と告げられた。原発事故を受けて住んでいた山木屋地区が避難対象となったためだった。町の中心部にある小学校の一部を間借りしての学校生活が始まり、高野さんは家族とともに地元を離れざるを得なくなった。原発から離れていたこともあり、「まさか自分たちも避難対象になるとは思いもしなかった」と高野さんは当時を振り返る。高野さんは現在、川俣町でカフェや音楽スタジオ、ワーキングスペースを備えた複合施設「Kawamata-BASE」を運営している。また、山木屋地区に伝わる「山木屋太鼓」の継承活動にも力を入れており、故郷の自然をテーマとした曲を創作し活動している。震災を経験し、周囲の人々に支えられて生きていることを実感するようになったという高野さん。「町に恩返しをしたい」「大好きな川俣町を盛り上げたい」という思いから「Kawamata-BASE」を立ち上げた。地域に根ざした空間の提供と伝統的な和太鼓のパフォーマンスを通じて、町の魅力を発信し続けている。そんな高野さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.181 岩手県田野畑村/吉塚雄志さん 

2025年3月15日(土)放送

震災発生時、吉塚雄志さんは高校1年生(16歳)。春休みに入り、自宅で勉強中に震災に遭った。吉塚さんの家族は、田野畑村で代々続く酪農一家。震災による停電で、自宅に併設する牛舎内の装置が停止したため、毎日家族総出で手で搾乳し、被災地に届けていたという。震災から数日後、ボランティア活動のために沿岸部に足を運ぶと、幼少期から慣れ親しんだ田野畑村の様相は一変していた。変わり果てた故郷の様子を目の当たりにし、胸を痛めたと吉塚さんは振り返る。現在、家族とともに酪農と乳製品の加工会社を営んでいる吉塚さん。「山地酪農」で生産した牛乳と加工品を全国へ発送している。山地酪農とは、山林で牛を完全放牧し、自生する野草を餌として飼育する持続可能な酪農法。酪農を営む父を、幼い頃から兄弟で手伝ってきたこともあり、二人で父の後を継いだ。そして吉塚さんは、「山地酪農を全国に広めたい」という父の夢を叶えるため、当時は牛乳のみだった製品ラインナップに乳製品を加えて付加価値をつけることで、全国に山地酪農を広めていこうと決意した。乳製品の加工実習で地元を離れた際、改めて田野畑村の良さに気付いたという吉塚さん。山地酪農を通して、田野畑村の魅力を広めていきたいという。そんな吉塚さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.180 宮城県南三陸町志津川/首藤大知さん

2025年3月8日(土)放送

震災発生時、首藤大知さんは高校1年生(16歳)。南三陸町は、以前から大きな津波が来ると言われ続けてきた地域だった。過去に類を見ない大きな地震を受け、首藤さんも地域の人々に避難を呼びかけたという。震災の翌日に帰宅すると、自宅は津波の被害を大きく受け、居住できる状況ではなくなっていた。未曾有の出来事に何をしたらよいか分からない日々だったが、自衛隊や全国から寄せられた多くの支援に助けられ、「なんとか生活できている」ことを実感したという。現在、首藤さんは石巻市立蛇田中学校の教員を務めている。震災を経て、支援してくれた人々へ恩返しがしたいと思うようになったという首藤さん。小学生の頃から教員への憧れを抱いていたこともあり、震災の経験や記憶を伝えようと教員の道を歩むことにした。震災時、首藤さんが通っていた志津川高校の下には老人ホームがあり、最初の津波の後、首藤さんは仲間と共に施設内に取り残された人々の救助にあたった。しかし、全員を助け出す前に第二波の警報があり、自身の避難を余儀なくされた。この時の行動を「後悔はないが、正解だとは思っていない」と振り返る首藤さん。幸い、首藤さんも級友も無事だったが、偶然生き残っただけかもしれない。生徒たちには、自分の命を最優先に、少しでも余裕があれば他人への思いやりを持ち、考え、行動して欲しいという。そんな首藤さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.179 福島県浪江町津島/末永利和さん

2025年3月1日(土)放送

震災発生時、末永利和さんは高校を卒業したばかりの18歳。同窓会に向かう車の中で震災に遭った。これまでに経験したことのない激しい揺れに「車が横転するのではないかと思った」という。その後の原発事故を受け、末永さんは避難住民の受け入れや炊き出しを手伝っていたが、自宅がある津島地区も避難対象となり、故郷を後にせざるを得ない状況となった。日々状況が変化し、「明日をどう生きるか」を考えることに精いっぱいで、将来について考える余裕はなかったと末永さんは当時を振り返る。現在、末永さんは津島復興組合という農地管理団体に所属、休日を利用して荒廃した農地の再生に向けた取り組みを行っている。原発事故の影響で帰還困難区域に指定された津島地区では、2023年に一部の区域で制限が解除されたものの、大部分がいまだ居住できない状況にある。末永さんの自宅もその区域に含まれ、震災以降は定期的に帰宅、草刈り作業や自宅の修繕作業を行ってきた。他にも、かつての住民を対象にした交流会を開催、「新たな津島」をつくるきっかけの場としていきたいと末永さんは語る。そんな末永さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.178 岩手県釜石市/猪又敬大さん

2025年2月22日(土)放送

震災発生時、猪又敬大さんは中学2年生(14歳)。中学校の校舎で震災に遭った。幸い、家族とは避難所となった中学校の体育館で合流することができた。しかし、震災から2日目。沿岸部にある自宅へ向かうと、見慣れたはずの場所は土砂やがれきで溢れかえり、跡形もなくなっていた。まったく実感が湧かず、「夢なんじゃないか」と思ったという。また、卒業した野球部の先輩からもらったばかりのグローブも流され、猪又さんは自宅も大切にしていたものも失った。猪又さんは現在、釜石市役所のオープンシティ・プロモーション室で、主に広報誌の作成とSNSアカウントの運用を行っている。高校進学を機に釜石市を離れていた猪又さんは、大学4年生の時に帰郷した際、地元に活気がないことに寂しさとともに危機感を覚えたという。「このまま地元が廃れていくのは見たくない、何とか力になりたい」と、就職先に釜石市役所を選んだ。猪又さんは、釜石市を離れているときも釜石の風景を携帯電話の待ち受け画面にするなど、地元への強い思いがあった。現在は、釜石市の人口減を食い止めるため「若者に魅力的な町にしていきたい」と、日々の活動に取り組んでいる。そんな猪又さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.177 宮城県塩竈市/鹿又陸さん 

2025年2月15日(土)放送

震災発生時、鹿又陸さんは高校2年生(17歳)。幸いなことに自身も家族も全員無事だったが、津波により自宅は全壊した。沿岸部の住宅地はがれきで溢れかえり、ライフラインもストップ、「一瞬にしてインフラが崩壊してしまった」。鹿又さんは自然災害の恐ろしさを感じたという。しかし、同時に「インフラの分野で復興に貢献したい」という思いも芽生えたと、当時を振り返る。鹿又さんは現在、宮城県女川町の出島でサウナ施設を経営している。震災をきっかけに、「インフラが一番人の役に立てる」と考えていた鹿又さんは、大学卒業後、横浜市役所で土木関係の仕事に就いた。そんな中、もともと興味のあったサウナを地元宮城県で始めようと、昨年、自然豊かな女川町の離島・出島に「JUURI SAUNA」をオープン。施設を島内の木材で建築するなど、鹿又さんのこだわりが詰まっている。さらに、放置されていた杉林を間伐し、サウナの薪として活用するなど、島の環境保護にも取り組んでいる。震災後、人口が減っていた出島だが、昨年12月、橋がかかり女川町中心部へのアクセスもよくなった。「サウナをきっかけに女川町の魅力をもっと知ってほしい」という。現在は、震災時に感じた「インフラが大事」という思いを忘れることなく、「サウナという新たな形で地元に貢献していきたい」と、鹿又さんは意気込んでいる。そんな鹿又さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.176 福島県川俣町/スタルジンスカヤ・ナスタッシャさん

2025年2月8日(土)放送

スタルジンスカヤ・ナスタッシャさんはベラルーシ出身。震災発生時に12歳だったナスタッシャさんは、テレビの報道で日本の震災のことを知った。家屋や車が津波に飲み込まれ、なすすべもなく流されていくさまは、今でも鮮明に記憶に残っているという。ベラルーシは1986年のチェルノブイリ原発事故で大きな被害を受けており、「福島第一原発の事故を人ごととは思えなかった」とナスタッシャさんは振り返る。現在、川俣町の地域おこし協力隊として活動しているナスタッシャさん。農家の暮らしを豊かにしたいという思いから、マルシェの運営や商品のパッケージデザインを手掛け、さらに、川俣町で40年以上続く、冬季の田んぼを利用したスケートリンクの管理を担当している。11歳の頃、日本の音楽に興味を持ったことをきっかけに、「いつか日本に行ってみたい」と思うようになったというナスタッシャさんは、大学2年の時に福島への留学プログラムに参加。フィールドワークを通して地域の農家と関わる中で、次第に「この人たちの役に立ちたい」「ここで一緒に働きたい」という思いが芽生えたという。また、ギリシャ語で「復活」を意味する「アナスタシア」という自身の名前にも、福島の「復興」との縁を感じ、日本に移住することを決意した。そんなナスタッシャさんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.175 岩手県陸前高田市/福田光輝さん 

2025年2月1日(土)放送

震災発生時、福田光輝さんは大学院1年生(23歳)。大学のある仙台市内にいるときに震災に遭った。幸い、陸前高田市の自宅は大きな被害を免れ、家族もみな無事だったという。震災から2日後、沿岸部に足を運んだ福田さん。打ち上げられた船が横転し、住宅の多くが流され瓦礫と化すなど、変わり果てた町の様子を目の当たりにし、津波の恐ろしさを改めて実感した。卒業後は地元での就職を検討していた福田さんは、「どのような仕事ができるのか」「そもそも仕事はあるのか」「何をすれば復興に貢献できるのか」など、さまざまな不安があったと振り返る。現在、福田さんは麹商品の製造販売会社に勤めている。原材料には陸前高田市のブランド米や、同市に位置する広田湾の海水から作られた塩を使用し、塩麹や麹コーヒー、グルテンフリーの菓子など、地元食材にこだわった商品を作っている。日々の「食」を通して豊かな人生を提供したい、と考えていた福田さん。それと同時に、震災当時、支援活動ができなかったことに心残りがあり、「地元に貢献したい」という強い思いもあった。そこで、大学院で学んだ発酵技術の知識を生かし、地元の食材を使った商品づくりをすることで、地元へ貢献しようと決意した。そんな福田さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.174 宮城県仙台市/白木星さん

2025年1月25日(土)放送

白木さんは北海道出身。震災発生時は中学2年生で、学校にいるときに震災に遭った。小学生の頃にサッカーを始め、高校は仙台市内の強豪校に進学。その後はプロクラブチームに所属し、世代別の日本代表としても活躍した。マイナビ仙台レディーズに所属していた際には、チャリティーマッチや被災地訪問など、復興支援活動にも積極的に取り組んだ。こうした活動を通して被災者と触れ合う中で、白木さんは「復興の一助になりたい」という思いが芽生えたという。現在、白木さんは人材派遣会社に勤務し、主に海外人材の派遣業務を担当している。選手時代、さまざまな復興支援活動をする中で「何か自分ができることはないか」と考えるようになったという白木さん。引退後、仙台での就職を検討する中で、現在の職場の事業内容に関心を持ち、就職を決意した。派遣事業に加え、海外の子どもたちに震災経験を伝える事業にも取り組み、今後は震災を「伝える」ことで復興に貢献していきたいという。そんな白木さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.173 福島県南相馬市小高/大和田洸翔さん

2025年1月18日(土)放送

震災発生時、大和田洸翔さんは小学1年生(7歳)。放課後、教室で過ごしている時に震災に遭った。天井から吊るされたテレビを必死で抑えながら「机の下に隠れろ!」と叫ぶ先生の姿が、強く記憶に残っているという大和田さん。福島第一原発の事故を受け、家族と共に静岡に住む親戚の元へ避難したが、「福島に帰れ」「こっちに来るな」といった心無い言葉を浴びせられることも多々あったという。しかし、避難先で新たに始めた野球を通して多くの友人ができ、「震災を機に出会った仲間と様々な経験をすることができた」と振り返る。大和田さんは現在、浪江町でチャレンジショップが集まる仮設商業施設「まち・なみ・まるしぇ」で飲食店を経営している。震災前、浪江町で鮮魚店を営んでいた祖母のもとに、震災後も店の再開を希望する声が多く届いていたという。そのことを知った大和田さんは「おばあちゃんの魚屋を復活させたい」という思いを抱き、2年前、兄と母方の祖母を加えた四人で今の店を開業した。現在は定食やお弁当を提供しているが、いずれは鮮魚店を併設した居酒屋も展開し、町の人々の交流の場にしたいという。そんな大和田さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.172 岩手県陸前高田市/高橋未宇さん

2025年1月11日(土)放送

震災発生時、高橋未宇さんは小学5年生(11歳)。学校で授業を受けている時のことだった。先天性の脳性麻痺により車椅子で生活している高橋さんは、先生に抱き抱えられて避難。これは、普段から訓練で何度も実践してきたからこそ実行できたことだった。しかし、避難所での生活は「想定外」の出来事の連続だった。段ボールを敷いて床の上で避難生活を送る人々の間を縫って通らなければならないなど、「特に移動で苦労した」と高橋さんは当時を振り返る。 高橋さんは現在、地元の福祉施設で補助員として働く傍ら、「福祉」と「防災」をテーマに、研究や講演活動を行っている。高橋さんの講演の特徴は、震災の経験を基にした防災への取り組みに、福祉の観点を取り入れていること。福祉とは、すべての人が幸せに生きるために必要なことと捉えたとき、自然災害が多い日本において、日常生活の中で福祉が整備されていることが、災害時の課題解決にも大きく寄与するという。「防災=福祉」という考えのもと、誰もが暮らしやすい社会を目指し、日々活動を続けている。そんな高橋さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら

File.171 宮城県石巻市蛇田/齋藤桃香さん

2025年1月4日(土)放送

震災発生時、齋藤桃香さんは中学1年生(13歳)。自宅にいるときに震災に遭った。齋藤さんの自宅は内陸に位置していたため津波の被害は免れたが、近隣の堀で海水が逆流し道路が冠水、床上浸水の被害を受ける家屋も多くあったという。齋藤さんが通う学校の体育館が避難所として使用され、授業再開の見通しが立たない中、友人の安否も分からず、不安な日々を過ごしたと齋藤さんは振り返る。齋藤さんは現在、自衛隊仙台病院で看護師として働いている。震災後、「石巻日日こども新聞」の執筆ボランティアに参加し、取材を通じて自衛隊の災害派遣活動に触れた。特に、普段は一般診療を行い、有事や災害時には全国へ駆けつける「日本全体を守る医療部隊」としての自衛隊の活動に、強く魅力を感じたという。もともと医療の道を志していたこと、そして、自分も同じように災害時に人々を助けたいという思いから、看護師の道へ進むことを決めた。「自衛官×看護師」としての誇りを胸に、有事や災害に備えて日々仕事に取り組んでいる。そんな齋藤さんの「今」と「10年後」の目標とは? »本編youtube動画はこちら