『星獣戦隊ギンガマン』第十三章『逆転の獣撃棒』
◾️第十三章『逆転の獣撃棒』
(脚本:小林靖子 演出:田崎竜太)
導入
冒頭、いきなり街中を徘徊する3人の虚無僧と魔獣ダイタニクスの頭の上でいきなり刀を振るうブドーというイスタブリッシングショットから始まる。
前回までとはテイストも作風も大きく変化した今回は今後2クール目〜3クール目の山場で「試練」という形で爆発する要素が布石・伏線として用意周到に貼られているのだ。
そのため、物語上は新機軸を様々に用意していながらも、本筋そのものはまだ大きく動き出さない回であり、当時の作り手が相当慎重に段取りを組んでいることがわかる。
このブドー軍団もそうなのだが、「ギンガマン」という作品はとにかく見た人からの印象では「段取り」が非常に丁寧であるという高評価をいただくことが多い。
もちろんそれは私自身もうかれこれ何百回・何千回と見ているのだから大前提に置いておくとして、ここで大事なのは視聴者に物語からも映像からも「変化」が出たことを示すことである。
1クール目のサンバッシュ編は西部劇のようなアメリカン映画のテイストを前面に押し出しつつ、「アースとは何か?」「ギンガマンとはどんなヒーローか?」という基礎土台構築に費やし、一定の成功を収めた。
その基礎土台は前回のサンバッシュとの決戦で1つの完成間違いなく見たわけだが、単なる完結ではなく今回からの新基軸となる「ギンガの光争奪戦」という要素を最後の最後で打ち出している。
それを継承して発展してく2クール目はこれまで以上に大河ドラマのような連続活劇の様相を呈するようになり、コミカルな回も適度に挟みつつボルテージが尻上がりに高まっていく。
2クール目の流れを前もって知らせておくと、おおよそ以下の構成になっている。
立ち上がり〜箸休め(第十三章〜十六章)
黒騎士登場によるテーマの深化(十七章〜二十章)
箸休め〜試練の終焉(二十一章〜二十四章)
ダイタニクス復活という大筋・大枠の縦軸は変化しないが、そのための目標・戦略・戦術という横軸が変化し、更には第三勢力の登場によってテーマが深化していく構造になっているわけだ。
ここから第十六章まではそのための磁場をじっくり形成しつつそれぞれのキャラメイン回を紡いでいく形で進行するので、1話完結あるいは前後編にしながらもシームレスに物語が連なる構造となっている。
今回はその中でブドー魔人衆の初顔合わせ・ギンガの光争奪戦・リョウマとモークの性格的欠点・新装備たる「獣撃棒」誕生といった要素がてんこ盛りの幕の内弁当のような構成というわけだ。
そして新機軸を立ち上げるのに相応しいのが先鋒・田崎監督という差配もしっかりしており、本作ほど脚本と演出の連携がきちんと統制を取れている作品もなかなかないのではないかと思う。
変身後のアクション面でもこれまで剣術・アース・アニマルアクションという三位一体型の複合的な戦い方をしてきたギンガマンが今回から更に棒術+大砲という大きな変化が見受けられる。
これに関しては詳細を掘り下げるとともに、「ギンガマン」で批判疑義の1つである「パワーバランス」というものについても折角なのでここで取り上げておく。
単なる新機軸というだけではなく、これまで引っ張ってきた要素も絡めつつ、どのように発展させていったかを批評してみよう。
ギンガの光は「イベントアイテム」と同時に「マクガフィン」でもある
2クール目の主軸は「ギンガの光争奪戦」ということで、前回のサンバッシュがラストで切り札と称していたものだが、結論から言えばこのギンガの光は「イベントアイテム」であると同時に「マクガフィン」でもある。
「マクガフィン」とはかの有名な映画監督・アフルレッド=ヒッチコックが示した「観客の興味を惹くために用いられる物語上の仕掛け」のことを指すのだが、小林靖子は本作や「シンケンジャー」でこのマクガフィンを用いていた。
具体的には本作のギンガの光と「シンケンジャー」に出てくる封印の文字なのだが、どちらも確かに物語上に置いて視聴者の興味を惹く仕掛けではあるものの、視聴者にとっては必ずしも重要なものというわけでもない。
それこそ『ドラゴンボール』という作品においてはまさに主人公たちが争奪戦を繰り返したドラゴンボールという七つの球もそうだが、大事なのは「ドラゴンボール」そのものではなく、それを巡る登場人物同士の戦いやドラマの方だろう。
4クール目まで全てを先に見ている人はお分かりだろうが、本作においてギンガの光はギンガマンにとってもバルバンにとっても目的達成の上で「必要条件」にはなったとしても「十分条件」にはならない。
なぜならば、ギンガの光がなかったらなかったでギンガマンたちが戦いに困るようなことはあまりないし、バルバンにとってもダイタニクスを復活できれば手段はギンガの光でなくてもいいわけなのだから。
ヒッチコックの提唱する「マクガフィン」というやつは「他のものでも代替可能」であることを重要視しており、その点においてギンガの光は結果的な意味では「イベントアイテム」ではあるが大枠で見ると「マクガフィン」程度でしかない。
大事なのは「ギンガの光」という要素をめぐってギンガマンとバルバンの争奪戦が勃発し新たなドラマが繰り広げられ活性化することであり、それ以上の役割は与えられていないといえるだろう。
そしてそのギンガの光争奪戦を巡ってリョウマたちが戦うことになるのがブドー魔人衆なのだが、なぜブドー魔人衆だったのかというと、理由は大きく分けていくつか考えられる。
1つは小林靖子という脚本家の「時代劇趣味」であり、後年の『侍戦隊シンケンジャー』や『刀剣乱舞』などでその真骨頂が散見されるが、いかにもな時代劇の台詞回しや作風が彼女の作風には一番合う。
2つ目は1クール目との大きな差別化であり、サンバッシュ魔人団はアメリカン映画というか西部劇をモデルに展開されていたために、ややゆとりを持って展開することができ、基礎構築に尺を割くことができた。
そこから作風を大きくガラッと変えるには日本人のDNAに一番馴染んだ和風のテイストを前面に押し出すことであり、あまり対比として使いたくはないが「陽」から「陰」に転向したといえる。
佐橋俊彦の音楽にも大きな変化が現れ、いきなりアメリカンなロック音楽から雅楽・能楽を彷彿させる音楽へと「転調」するのだが、この転調によって「ギンガマン」という作品の陰影が濃くなるのだ。
メインライターが小林靖子であることからどうしても本作は重厚かつシリアスな作風だと取られがちであるが、少なくとも同時配信の『特命戦隊ゴーバスターズ』ほど暗いわけではない。
故に作品全体としては一気に引き締まったように見えるが、根幹にあるギンガマン5人の前向きかつ爽やかなヒーロー性は大きく変化しておらず、視聴者は安心して見られるわけだ。
この「安心」が前回は一度大きく崩されたわけだが、今回はそこを巡ってギンガマン側のドラマにも陰影を増していくことになるであろう。
リョウマとモークの性格的欠点と仲間たちからの反目
バルバンにとっては新しい行動隊長と目的達成のための目標・戦略・戦術が大きく変化したのに対して、ヒーロー側たるギンガマンにとっては1つの大きなチームとしての課題が浮き彫りになった。
それがギンガレッド/リョウマと司令官モークの性格的欠点と仲間たちからの半目なわけだが、今までも何度かあったギンガマンとモークの対立・軋轢がいよいよここで本格化している。
「あの戦いであそこまで追い込まれたのは、君自身のせいだということはわかっているね。リョウマ、ヒュウガへの想いが君の弱点になっている。そんな弱点を持っていては戦士として失格だ!」
このセリフ、司令官であることを抜きにしてももはや「人格否定」や「誹謗中傷」の領域にまで片足突っ込んでいるわけだが、今だと「子供たちに悪影響」だとしてクレーム案件になるだろうか。
その後、ヒカルはモークに対して「モークのは冷静っていうより冷たいんだよ!少しは人の気持ち理解しろよな!」というセリフによってもモークの性格的欠点が示されている。
しかし、完全にモークが悪者なのかというとそうではなく、確かにリョウマのヒュウガへの屈折した思いが足を引っ張る致命的欠陥であることも事実なのだ。
前作「メガレンジャー」の16話を書いた時からそうだったが、小林靖子は「最大の長所は最大の短所」であることを良くも悪くも理解しており、前回に続き2人の性格的短所を浮き彫りにしている。
リョウマの場合、仲間を気遣う優しさは時に優柔不断な「甘さ」にもなり、また第一章から描かれていた「兄への憧れ」は「兄への依存」に繋がりかねないといた風になった。
実際、モークが言う通り、本来であればさほど苦戦することなく勝てたであろうサンバッシュとグリンジーの戦いに置いて無駄な苦戦を演じたのはリョウマの精神的弱点故である。
その上で小林靖子はそれを厳しく難じるモークも決して完璧な存在だとせず、ヒカルの指摘するように司令官としての厳しさが人の気持ちを考慮しない無神経さに繋がると指摘しているのだ。
仲間たち(特にヒカル)がリョウマを庇うのも、比較的モークに近い性格をしているハヤテだけが寄り添ってくれているのも決して悪印象にならないように配慮されているといえるだろう。
それこそ、前作「メガレンジャー」だったらば、その性格的欠点は決して「弱さ」とは解釈されず「学生特有の荒削りな未成熟さ」に収まるだろうが、本作ではそれは決して許されない。
なぜならばリョウマたちは幼少期からバルバンとの来るべき戦いに備えて幼少期から鍛錬を繰り返して戦闘技術も心構えも全てを研鑽してきた戦いのプロだからである。
だからヒカルがモークに対して批判したのもあくまでもモークの「言い方」を批判したのであって「内容」そのものまでを否定したわけではないのもよくできたところだ。
一歩間違えたら、モークのそれは「パワハラ」「モラハラ」といえるかもしれないが、これまでの積み重ねから決してモークも冷血なわけではないというところも垣間見える。
そこの「必要なことなら言いにくいことでもきちんと言う」ところも含めて、本作は「優しさ」を根底に登場人物も作品自体も持ち合わせた戦隊であるといえるだろう。
この後、リョウマにはモークやヒュウガ以上に厳しく自分を指摘してくれる壁が第十七章ラストから現れ、その人物との相剋を通して戦士としても人間的にも大きく成長していくわけだが。
本当、どこぞの指輪を巡って私利私欲の為の汚い争いをしているどこぞの戦隊にも彼らの爪の垢を煎じて飲んでほしいくらいである。
虚無八が星獣剣と自在剣機刃を無効化できた理由
さて、今回からブドー軍団に切り替わり、木をカビだらけにしてギンガの光を炙り出すという効率的なのか非効率なのかよくわからない作戦に出たが、それ以上に大事なのはギンガマンの技を全て破っていることだ。
星獣剣を用いた剣術で返り討ちにし、挙句に機刃の逆鱗までをも無効化してしまったわけだが、問題はなぜ無効化できたのかという理由であり、この件に関しては後述するパワーバランス疑義にも繋がってくる。
コメント欄を見ると「2クール目で最初に戦うレベルの敵ではない。強すぎる」という意見があったが、よくよく描写を見ると私はそういうわけでもないというか、むしろ出すならここしかないという絶好のタイミングだろう。
直接に明示されているわけではないので半分推測になるが、ブドー魔人衆はおそらく前回も含めてギンガマンとサンバッシュ魔人団の戦いを見てその戦闘パターンも研究したのではないだろうか。
冒頭で「ギンガの光については配下の者を使って調べ済み」と述べており、ギンガの光がどこに姿を潜ませているかを十二分に精査した上で出現場所を絞っているのだ。
ここまで徹底して情報の精査を行える軍団がギンガマン対策のことをやっていなかったとは考えづらく、ギンガマン5人の戦闘のパターンも研究・対策していたのだろう。
そのように考えると、自在剣機刃も含めてギンガマン側の剣術対策はしっかりやっていただろうから、同じ剣術だとギンガマンにとっては相性が悪いということだ。
言うなれば「ジョジョ」「HUNTER×HUNTER」などの「能力バトル」の概念に近く、スペックの上では大差なくとも相性の問題でギンガマン側が剣術で戦うには不利と見える。
実際、剣術並びに機刃の逆鱗以外の対策はあまりしていなかったと窺えるのが、後述する獣撃棒以外にも不意に食らったキバショットでダメージを受けている描写があるのだ。
細かい描写ではあるが、虚無八は剣術以外はあまり耐性がなく弱かったといえ、戦闘術の選択肢が幻術・剣術・大筒以外にはなかったといえるだろう。
その大筒も最終的にはギンガ銃撃弾によってあっさり逆転されたところを見るに、意外と隙だらけでコメントで言われるほど強くはなかったといえる。
新兵器登場によって覆される程度の敵なのだから、サンバッシュを差し置いて最初に戦ったとしても機刃の逆鱗すら破れたかどうかすら怪しい。
実際、等身大戦ではギンガマン5人を圧倒していたが、ギンガイオー登場後の巨大戦では普通に剣術で負けており、銀河獣王斬り→流星弾のコンボに負けている。
つまり、等身大戦の対策並びにギンガの光を探し出す作戦の研究まではしていたが、それ以上の対策をしておらず詰めが甘かったからこうなったのだろう。
以前にも述べたが、本作は決して「持っている力そのもの」で勝負の優勢が決まることは少なく「戦略」「戦術」といった高度なところでの戦いとなっている。
だから矢継ぎ早に出しているようでいて、実はきちんと相性やタイミングを考えた上で出すように決められているのだ。
獣撃棒によって示されたのはギンガマンの強さ以上にモークの有能さ
さて、今回の変身後の目玉は新兵器・獣撃棒なのだが、ここで大事なポイントはギンガマンのアクションの変化と同時にモークの有能さの両方が示されていることだ。
まずギンガマンのアクションが剣術・アース・アニマルアクションが中心だったのが棒術+銃撃という形に変化したことであり、ここはまず注目しておきたい。
本作の場合、どうしても物語やドラマの側面ばかりが語られがちだが、転生後のアクションも実は1クール毎に微細な変化を繰り返していることにも見逃せないのだ。
1クール目は銃を中心として戦う敵だったから剣術と体術を中心に近接武器で戦うことができたわけだが、2クール目は剣術と幻術などの奇術で戦う敵である。
ならば、ギンガマンとしては逆にダイレンロッドを彷彿させる棒術で真正面から突破してしまい、さらには猛火獣撃というアースを組み合わせた牙突で追い詰めていた。
ここからわかることはギンガマンは決してチャンバラだけではなく、気功術・体術・棒術・銃撃などあらゆる戦い方を想定した戦闘術を身につけていることである。
だから単純な剣術だけなら後輩のシンケンジャーには敵わないだろうし、気功術ならマスクマンやダイレンジャー、銃撃なら軍人戦隊である昭和戦隊の方が上だろう。
ギンガマンの賢いところは1つに特化した戦い方ではなく、複数の戦闘術をその場に応じて最適解を選べるようにして、戦術の幅をあえて持たせているところだ。
戦いでも勉強でもビジネスでもそうだが、選択肢は1つよりも2つ、2つよりも3つと多ければ多いほどよく、その「幅広さ」も含めての戦いのプロだと思う。
そしてそんなギンガマン5人の戦闘民族としての強さ以上に大事なのはモークの有能さというか開発能力の高さである点にも注目しておきたい。
今回でいえばカビに体を侵されながらもなお5人のために獣撃棒を開発し、さらにはギンガの光の偽物までも開発して敵の目を眩ませている。
このことからわかるが、第五章で作戦のためとはいえ突然に湧いて出てきたように見える星獣剣の精巧な偽物を開発したやつの正体は言うまでもないだろう。
そう、あの星獣剣の偽物は間違いなくモークが生み出していたわけであり、5人との関係性が深まったこと以上にモークという司令官の有能さが浮き彫りとなった。
5人との関係性が深まったことの象徴として獣撃棒があるというのは「戦隊」として考えれば当たり前のことであって、そこに大した驚きがあるわけではない。
カビに侵され動けないにも関わらず、新兵器と共に敵が欲しがっているマクガフィンの精巧な偽物まで作り出してしまうことに説得力があることの方が驚きなのだ。
「サンバルカン」の嵐山長官あたりと比べるとモークは戦闘能力はないが、それ以外の必要なサポートは全てこなせるという意味において非常に頼れる。
だからこそ、途中に諍いがありながらもギンガマン5人はその恩恵に感謝して戦えるわけだし、モークが「戦略」を担当するからこそ5人は戦術に専念できるのだ。
単なる新兵器登場というだけではなく、リョウマをはじめとする5人との軋轢・衝突の中で存在感をしっかり出してくるところが作り手の気遣い・気配り・気働きが届いている。
ブドー魔人衆を1クール目に出していたらギンガマンは果たして詰んでいたか?
さて、ここで改めて触れておきたいのは本作を議論する上で避けられない「パワーバランス問題」であり、4軍団に格差があることが構成上の瑕疵・失敗であると鷹羽をはじめ一部のノイジーマイノリティが突っ込んでいた。
これに関しては以前も語ったことがあるのだが、改めてここで引用させてもらおう。
ギンガマンが詰む要素があるとすれば四将軍のところでわずかにあるかないかくらいであり、逆に言えばそこ以外でギンガマンが負けそうな要素は特にありません、獣撃棒開発や強化ならあっさりモークの方でできるでしょうし。
星獣が銀星獣になれないことが引っ掛かり要素としてはありますが、第十七章を見るにギンガイオーにならなくても普通の星獣でギンガレオン抜きで倒していたので、巨大戦で詰む要素もあまりなさそうです。
ブドーの場合を想定してここで書いたわけだが、ファンが突っ込む「サンバッシュ以外が1クール目に戦っていたらギンガマンは詰んでいた」ために「ギンガマンは「強い」のではなく「運のいい戦隊」」というくだらない論調が罷り通っていた。
こういうのを「後見肯定の虚偽(PならばQを述べた後に「だからQならばPである」と逆を絶対的条件であるかのように肯定してしまうこと)」というのだが、自らがこの罠に陥ってしまっていることに気づかない愚者のいかに多きことか。
「後から来た軍団ではなく、最初から居た軍団に格差があるのだろうか?」という疑義自体は真っ当ではあるが、だからと言って「サンバッシュ以外が1クール目に当たっていたらギンガマンは詰んでいた」「運のいい戦隊」というのは明らかな誤謬だろう。
要するに小賢しい幼稚園児・小学生がやるレベルの「揚げ足取り」と大差はなく、こういう連中に限って仮にサンバッシュ以外の軍団が最初に担当してその話があったとしても同じようなことを言っていたに違いない。
そもそもそういう「たられば」話は「事実」ベースではなく「主観」「感情」ベースに基づく無根拠かつ非生産的な推論にしかなり得ないのだから、そんな実態のないものをいくら論じたところで無駄である。
大事なのはあくまでも作品という「具体」を見て「主観」を一切挟まず「事実」ベースで「客観的」に論じていくことであり、ここを履き違えてしまうと本質から遠ざかってしまうことを心がけておこう。
その上でブドー軍団が仮に1クール目で戦っていたとしてもサンバッシュほどの成果は残せなかっただろうし、何ならサンバッシュよりも早い段階で負けてしまっていた可能性が高い。
なぜならばブドー軍団があれだけ強いように見えるのはサンバッシュとギンガマンの戦い方を見てその戦闘パターンを研究し、さらには「ギンガの光探索」という縦軸の目標・戦略・戦術が明確だからだ。
何度もいうが、「ギンガマン」という作品において大事なのは「戦闘力」それ自体ではない、ギンガマンもバルバンも最初から戦闘力に関しては十二分に持った上でのスタートである。
そこの大前提というか強さの源を第七章までできちんとビジュアル面と物語の双方で構築した上で、上級ステージでは何が戦いに勝つ上で重要なのか?というところの話なのだ。
最終章まで一貫している本作がS(傑作)たる所以は「戦闘力」でも「持っている武器の数」でもなく、「戦い方=目的・目標・戦略・戦術」と「考え方=脳のOS」になる。
どれだけ優れた発想の武器を持っているか?というのは本作においては決して直接的な強さの根拠にはならないことを理解しておかないと、この作品の本質は見えてこない。
少なくとも「新兵器登場!これで勝つる!」なんて底の浅い幼稚な考えと安っぽい感性で理解できるほどの生半可な作品ではないことを改めてここで強調しておきたい。
今回はその一端を改めて見せてくれたわけであって、何年経とうが本作の魅力が薄れないのはこの根幹がしっかりしているからこそである。
総合評価は言うまでもなくS(傑作)、100点満点中105点で手を打とう。



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