「……また今回も、ダメだったのね……」
狭苦しい小さな部屋で、1人の少女が目覚めた。ぺったんこの敷布団の上。蹴り飛ばされた薄い掛け布団がその足に絡まっていた。
不快なのは、この夏の夜の寝苦しさか、あるいは自分の人生が袋小路にあるからか。どちらかはわからなかった。
少女は脱力した五体をその布団の上に投げ出し、深いため息をついた。そして、瞳からは一筋の涙が溢れた。
……ダメだった。一つ前の命も、その一つ前の命も、その前も、その前も、その前もその前もその前も……あいつは来ない。
自らに降りかかる運命から逃れることも出来ない。かつて一度だけ見た一筋の希望の光は、諦めの感情という暗い雲に覆い隠されてどこにも見えなくなった。
少し前までは、解答さえ分かれば答えられる迷路のようなものだと思っていた。そうではなかった……自分の身を取り巻くのは、推理小説の謎やミステリーではなく、絶対的な悪意だったのだ。
「ねぇ、羽入。いるんでしょう?今日は何年の何月何日!?」
その少女、古手梨花は泣きそうな顔で言った。
側に控えていた、常人の目には見えない何か、羽入がそれに応える。寂しそうな目で少女のことを見つめていた。
「……昭和、57年の8月なのです」
57年の、8月……北条悟史が失踪し、園崎詩音は必死に彼を探しているころ。
梨花が側を見ると、自分の親友が寝ていた。自らの親友の兄が行方不明になり、自分の家に身を寄せてきたのはほんの少し前の話に違いない。
ええと、ということはつまり、これまで4年間の祟りは全て実行されてしまっているわけだ。
あぁ、またか……諦めにも似た脱力感が梨花の全身に行き渡る。しかし、一応は聞いておこう、と口を開く。
「あいつは?あいつはいるの?」
「……」
質問には答えず、言いづらそうな顔をして押し黙るそれを、古手梨花は苛立った顔で睨みつけた。
「勿体ぶらないで。いるの?いないの!?」
「梨花……梨花はきっと、夢を見ていただけなのです。確かに、梨花のお友達に、同年代の男の子がいたらもっと楽しいはず。その子が、沙都子やレナ、詩音たちを取り巻く状況を全て解決してくれたなら……梨花はもっと幸せだったはず。でも……」
熱くなった梨花を宥めるように言う。
「そんな人間はいないって!?違う!いるの。あいつは、確かにそこにいた!確かに、そこにいて……私を、助けてくれたのよ……」
「でも!そんな人がいなくても、梨花には僕たちがついてるのです。僕や沙都子、圭一、レナや魅音がいれば……きっと梨花は悲しい運命から逃れられるのです。僕たちを信じて欲しいのです!」
「そんなこと言って……諦めてばっかりのあんたがどうして心変わりしたのかは知らないけど。じゃあどうすればいいって言うのよ。鷹野が犯人だとわかっても、誰も信じてくれない!みんな疑心暗鬼に駆られて事件を起こしてしまうし……それに!あいつがいないのよ!?そんな世界で生きていたって……」
言いながら、梨花は泣き崩れていた。側に控える何かは気の毒そうな顔になって少し遠くへ行った。
無二の親友に自分の苛立ちをぶつけてしまったことに少しの自己嫌悪を感じて、梨花はため息をついた。天井を見上げる彼女の、そのそばから声がかけられた。
「りかぁ……?誰とお喋りしていましてぇ……?」
寝ぼけた可愛らしい声だった。
自分が蹴飛ばした布団が、そばに眠る友人にぶつかって起こしてしまったらしい。梨花はいつものように可愛らしい笑顔を浮かべた。
「ただの寝言なのです。にぱー⭐︎」
その友人は何事もなかったように、もう一度眠りにつこうとした。しかし梨花は思い立って、その親友に声をかけた。
「沙都子。……牧野、雄星という人間を知っていますですか?」
金髪の少女……北条沙都子は声をかけられて、ゆっくりと体を起こした。
「まきの、ゆーせい?……むにゃ、だれですの?……あぁ、魅音さんのお友達にそんな人がいたような……」
「分からないならいいのです。ボクも、すぐ寝ますです……」
「夏休みだからって、夜更かししてはいけませんわよ。ふあぁ、おやすみなさいですわ……」
沙都子は大きな欠伸をしてから目を擦り、もう一度布団に横たわった。梨花はそんな親友の姿を見て、落胆を隠せなかった。
……どうしようもない。牧野雄星は、いない。赤坂も、牧野雄星も……2人ともいた、あの世界ですらダメだったのに。この世界で幸せになれるはずがない。
それに……あの世界では、みんなが幸せだった。
じゃあ、この世界は?既に、沙都子は病を患ったままで、不幸な事故を起こした後。彼女の兄である悟史はおらず、詩音はそんな行方不明の恋人のためにきっと暴走するに違いない。もしかすると、レナは自分の父とその再婚相手とのトラブルを解決するために凶行に及ぶかもしれない。
梨花は、かつて一度、希望に満ちた世界にいた。そこで少しの失敗をして、振り出しに戻った。
それでもルールは理解することができたのだから、という自信を胸に脅威に抗おうとした。しかし、どうやってもゴールには辿り着けない。すごろくは、ルールが分かっていても毎回勝てるわけではない。運が絡むのだ。そして今の所、梨花にとって理不尽な結果ばかりを出している。
「誰か、助けて……」
そんな言葉が梨花の口から漏れた。その声に答える者は誰もいなかった。
そして梨花は、脱力した瞳をゆっくりと閉じた。楽しかったあの時。もしかしたら自分の未来を切り開くことができるかもしれない、と希望を持てたあの頃を思い出しながら、そのまま眠りについた。
「りーかー!今日はお寝坊さんですのね。あんまりにもぐっすり寝ていましたから、起こすに起こせませんでしたわ。ほら、もう朝ごはんはできていましてよ!」
梨花は同居人の少女の声によって目覚めた。いつの間に眠っていたのかはわからないが……少なくとも、目覚めは悪くなかった。
2人は朝の支度をして、食卓につく。そこで梨花はふと思い立って、沙都子に声をかけた。
「沙都子。今日の朝食は久しぶりに紅茶でも淹れて飲みたい気分なのです」
「あら、紅茶だなんて珍しいですわね。いいですわよ?私が準備して差し上げますわ!」
「沙都子は朝ごはんを作ってくれましたですから、ボクが準備したいのです。ほら、座ってて大丈夫なのですよ」
梨花はそう言って沙都子を座らせ、立ち上がった。棚から急須を取り出し、お湯を注いだ。安物のティーバッグを浮かべて、くるくると回してかき混ぜた。
上品なティーセットはないけれど、家で飲むならこれで十分だ。
……きっと、あの時飲んだものよりは美味しくないだろうけど……でも、落ち着く香り。
梨花はキッチンに漂うアールグレイの香りを少し楽しんでから、急須に蓋をした。
「紅茶なんてよく家にありましたわね。一体、今日はどうしましたの?朝からなんだか様子が変でしてよ?」
沙都子はティーカップに入った琥珀色の水面を覗き込み、不思議そうな顔で梨花に尋ねた。梨花は、沙都子と同じように紅茶をぼーっと見つめて、言った。
「……ちょっとした気分転換なのです。それに、ボクたちのお友達が、紅茶が好きで……よくボクにも振る舞ってくれたのを、思い出したのです」
「私たちのお友達?……うーん、魅音さんは紅茶なんか飲みませんし、レナさんのおうちには行ったことありませんし……」
沙都子はうんうん唸って考えたが、結局答えは見つからず、諦めたらしかった。梨花はその様子を見て物悲しくなり、その顔を悟られまいとカップに口をつけた。
今日は、梨花の様子がおかしい。
沙都子は朝から、ずっとそれを考えていた。
夜には何やら寝言を言っていた……のはいつものことだとしても、知らない人の名前を聞いてきたし、朝は普段は飲まない紅茶なんかを飲むし、朝ごはんを食べた後は、ずっと悲しそうな顔で俯いている。
梨花に、何か悲しいことがあったに違いない。
沙都子はそう思った。今日は夏休みなのにも拘らず、ゆっくり家で過ごすと言う親友を置いて、沙都子はこのことを友人たちに相談しに行ったのだった。
「うーん、牧野雄星くん?レナはわかんないなあ……それって、沙都子ちゃんのお友達なのかな。かな?」
「違いますわ。昨日の夜、わたくしが寝ている時に梨花が、その人のことを知っているか、と聞いてきて……」
部活動に勤しむ友人グループに相談するも、結果は芳しくなかった。まず、友人の一人、竜宮レナは知らないと言った。
「うーん。おじさんもわかんないねぇ。牧野さんはわかるよ?でも、雄星って名前じゃなくて、牧野竹蔵さんだしね。牧野さんの子供さんは……生まれてくる前に亡くなっちゃったって聞いたよ」
部長を務める園崎魅音も答えた。
言いづらそうに小さく呟いた園崎魅音を見て、沙都子はその人物は、今の雛見沢村にいないことを理解した。
園崎魅音はこの村の近辺では並ぶものがいないほどの大地主の娘だ。本人は心優しいが、そのバックには暴力団のような組織がついていて、警察よりも広い情報網を持っていることは沙都子も知っていた。
そんな彼女が知らないと言うのだから、その人間は少なくともこの村にはいないのだ。
「何だろうね。梨花ちゃんはたまにちょっと変わったことを言うけど、存在しない人の名前なんて……」
「夢の中で出会ったんじゃないの?それで寝ぼけて、沙都子に聞いちゃったとかさ。梨花ちゃんって、意外と抜けてるところもあるしね!」
心底不思議そうな顔の竜宮レナと、能天気な感じの園崎魅音。
その様子を見て、二人はあんまり真剣に受け取ってくれていない、と沙都子は感じた。
「そうなのでございましょうか……でも、とにかく、今日の梨花は何だか元気がありませんの!」
沙都子はそう言って、二人から、無二の親友を元気付けるための意見を募った。しかしいい案は見つからず、結局少し遊んだ後に解散となった。
結局、牧野雄星とは誰なのか。実在するのか。なぜ自分の親友はその人間のことについて聞いてきたのか?沙都子は何もわからないまま、自分の遊び場である裏山に向かった。
沙都子の趣味はトラップ……罠ではなく、トラップ!を作ることだ。
それは単なる紐を使った仕掛けだったり、落とし穴だったり、あるいは画鋲や木の枝を使った殺傷能力すらあるようなものだったり様々だが、とにかく沙都子はトラップを仕掛けて、それに引っかかる誰かを見るのが好きだった。
その趣味の成り立ちには、幼少期から続く、彼女を取り巻く複雑な家庭環境が関係していた。母親が、兄が、父親が……自分に構ってくれないことが、幼少期の彼女にとっては何よりも悲しかった。だから、イタズラをした。
かけられる言葉が優しい言葉でなくとも、母が自分に構ってくれるのが嬉しかった。周囲に叱られる自分を、兄が庇ってくれるのが嬉しかったのだ。
物心ついた今では、見知らぬ他人にトラップを仕掛けたりはしない。滅多に人が通ることのない裏山に罠を仕掛け、いつかその罠を悪い人たちにお見舞いしてやるのだ、と神社の裏山には沙都子特製の必殺トラップが張り巡らされているのだ。
裏山には急な勾配や、生い茂る夏の草木によって歩きづらいところも少ない。しかし、沙都子にとって裏山は勝手知ったる自分の庭同然だった。てくてくと山道を駆け上っていった。
しばらく歩いたところで、沙都子は木の枝を踏んだ。自分がこんなところにトラップを仕掛けた覚えはないので、何の警戒もしていなかったが……その枝に括り付けられていた紐がしなり、木の上から枝が降ってきた。
まずい!確か、枝は先っぽが尖ったものを選んで、と言ったはず!
沙都子は瞬時にそう考えて、自らに襲いかかる痛みを覚悟した。……痛みはなかった。干からびたような枝が降り注ぐが、少し不快になっただけだ。
「……あれ?」
沙都子は自分の脳裏をよぎった考えに疑問を抱いた。自分は、一体誰にそんなこと頼んだのだろう。梨花は時折トラップを作るのを手伝ってくれるが、こんなところに罠を作ろうと言ったことはなかったはず。そもそも、梨花ならこんな生ぬるいトラップは作らない。
「……ゆう……?」
昨日の深夜、自分の親友が聞いてきた人の名前を思い出した。
ゆうせい、と言葉にしたことは数少ない気がしたが、誰かのことをユウ、と呼んだことはあった気がした。
沙都子はこのことを大変重大なことだと思い、登ってきた裏山を急いで下った。
ユウ……一体誰のことだろう。梨花に聞けば、何か知っているかもしれない。あるいは、梨花の悩み事を解決することができるかもしれない。
日頃お世話になってばかりの自分の親友の悩み事は、何があっても解決してあげたい。そう思って自宅に急いだ。
自宅のドアを急いで開け、居間に声をかけた。何やら妙な香りがして、沙都子は首を傾げた。
「梨花っ!梨花っ!雄星という名前には覚えがないですけれど、ユウという人の名前を呼んだことがある気がしますわ!」
居間に繋がる襖に手をかけ、勢い良く開いた。
親友はもうそこにはいなかった。