小型武器の話をすこし補足しよう。
紛争が武器を必要とし、武器を引き寄せると考えられている。現実を見ると逆で、武器が紛争を引き寄せている。銃などの小型武器が広がると、その社会では、銃を手にした荒くれ者の支配を許してしまうことになる。銃だけが物を言う、無法地帯となった地域では、普通の真面目な人々、とくに女性や子供といった弱者が、暴力の犠牲になる。そして、武器があるから、戦争にならないでよかったはずの対立まで、戦争にしてしまう。
その典型的な例が、1990年代のバルカン半島だった。南欧の国ユーゴスラビアは、多民族国家、多宗教国家で不安定要因を抱えていたにもかかわらず、1980年代までは、チトー大統領の治世の下で、民族共存を果たしてきた。1990年代になり、旧ソ連圏の国々が解体し、自由になった国々から、多くの武器が流出し、それがこの平和を蝕み始めた。チトー亡き後、すでに民族問題でがたがたしていたユーゴスラビアに、小型武器が流入した。セルビアの民族主義に脅威を感じる、クロアチアやボスニアなどの民族が、そうした小型武器でひそかに武装を始めた。そして、ミロシェビッチがあからさまなセルビア至上主義を唱え出したのを契機にして、順に紛争へと引火炎上していった。
最初は、セルビア(当時は旧ユーゴスラビア)とクロアチアとの間の、激しい戦争になった。クロアチアが独立すると、使われていた小型武器は、ボスニアへと流れ込んだ。そこでのクロアチア人、セルビア人、ボスニア人の三つ巴の紛争は、3年間に20万人以上の犠牲者を出す、悲惨なものとなった。1996年に和平合意が成立すると、その小型武器は隣のコソボに流れ込んだ。コソボは当時セルビア共和国の一地方で、アルバニア人が独立運動を展開していた。小型武器は、セルビア人とアルバニア人の、殺戮に発展した。1999年、旧ユーゴスラビア大統領であったミロシェビッチの、少数民族アルバニア人弾圧への国際的非難から、NATO軍がユーゴ軍を爆撃し、ミロシェビッチはコソボから撤退。コソボは国連暫定行政の下に置かれることになった。
私は、国連コソボ暫定行政機構(UNMIK)の設立とともに、その首席政務官として、日本政府から派遣された。15カ月の期間、コソボで国連職員の生活を送った。UNMIKの国連事務総長代表は、今フランスの外相をしているクシュネール氏であった。私は、クシュネール代表の隣の事務室で、彼のチームの一員として仕事をしながら、紛争直後のコソボの数えきれないほどの課題をつぶさに見てきた。そうした課題の最も重要なものの一つが、小型武器の回収であった。
コソボ紛争の解決とともに、不要となった小型武器を放置すれば、また雲霞のごとく、これらの武器が取り引きされて、周辺地域に流れ出す。それは、隣の地域に、紛争を輸出することと同じだ。だから、これ以上の紛争の連鎖を防ぐため、小型武器の回収と、国境からの流出を食い止めることが緊急かつ必須の課題であった。コソボに進出し駐留していたNATO軍による国連平和維持軍(KFOR軍という名称であった)が、その任務を実施した。コソボ領内で小型武器の摘発、回収を進めるとともに、国境から外への流出を出来る限り阻止した。そして、それは成功を収めたと思う。
なぜなら、隣国のマケドニアでの民族紛争を、未然に食い止めたからだ。マケドニアでは、セルビア系のマケドニア人と、コソボの人と同じ系統のアルバニア人が、言葉も違うし宗教も違って、しっくり行っていなかった。現実に、何度も両方の勢力の間で衝突が起こっていた。アルバニア人の民族解放団体も存在した。もしここに、小型武器が流れ込めば、民族紛争に発展していたかもしれない。でも、結局、本格的な紛争には発展せず、悲劇は食い止められた。これには、小型武器のコソボからの流出、マケドニアへの流入を、徹底的に取り締まったことが大きく寄与した。バルカン半島の他の地域での教訓は生かされた。
アフリカでも、不幸にして、ほうぼうに同じ現象がみられる。そうした紛争の例については、また詳述する機会があろう。コートジボワールの隣、リベリアやシエラレオネにおいて、1990年代を通じて激しい内戦が繰り広げられ、大量の小型武器が使われた。これらの国々で和平が成立するととともに、これらの小型武器が不要になり、それがコートジボワールに流れ込んできた。特に、ここマンを中心とする西部地域は、リベリアと国境を接している地域だ。小型武器が、国境を越えて、社会にたくさん入り込んでしまっている。
小型武器は、憎悪を増幅する道具である。社会を害してでも自分の欲望を満たそうという誘惑に、手を貸す道具である。部族対立や、宗教対立や、土地や水をめぐる対立が、簡単に血で血を洗う暴力闘争に発展してしまう。そういう道具が、ほうぼうに散乱しているだけで、その地域は紛争に脆弱になってしまう。だから今、紛争が終わった今こそ、小型武器を捨てよう、と人々に呼び掛けることが重要なのだ。
(続く)
紛争が武器を必要とし、武器を引き寄せると考えられている。現実を見ると逆で、武器が紛争を引き寄せている。銃などの小型武器が広がると、その社会では、銃を手にした荒くれ者の支配を許してしまうことになる。銃だけが物を言う、無法地帯となった地域では、普通の真面目な人々、とくに女性や子供といった弱者が、暴力の犠牲になる。そして、武器があるから、戦争にならないでよかったはずの対立まで、戦争にしてしまう。
その典型的な例が、1990年代のバルカン半島だった。南欧の国ユーゴスラビアは、多民族国家、多宗教国家で不安定要因を抱えていたにもかかわらず、1980年代までは、チトー大統領の治世の下で、民族共存を果たしてきた。1990年代になり、旧ソ連圏の国々が解体し、自由になった国々から、多くの武器が流出し、それがこの平和を蝕み始めた。チトー亡き後、すでに民族問題でがたがたしていたユーゴスラビアに、小型武器が流入した。セルビアの民族主義に脅威を感じる、クロアチアやボスニアなどの民族が、そうした小型武器でひそかに武装を始めた。そして、ミロシェビッチがあからさまなセルビア至上主義を唱え出したのを契機にして、順に紛争へと引火炎上していった。
最初は、セルビア(当時は旧ユーゴスラビア)とクロアチアとの間の、激しい戦争になった。クロアチアが独立すると、使われていた小型武器は、ボスニアへと流れ込んだ。そこでのクロアチア人、セルビア人、ボスニア人の三つ巴の紛争は、3年間に20万人以上の犠牲者を出す、悲惨なものとなった。1996年に和平合意が成立すると、その小型武器は隣のコソボに流れ込んだ。コソボは当時セルビア共和国の一地方で、アルバニア人が独立運動を展開していた。小型武器は、セルビア人とアルバニア人の、殺戮に発展した。1999年、旧ユーゴスラビア大統領であったミロシェビッチの、少数民族アルバニア人弾圧への国際的非難から、NATO軍がユーゴ軍を爆撃し、ミロシェビッチはコソボから撤退。コソボは国連暫定行政の下に置かれることになった。
私は、国連コソボ暫定行政機構(UNMIK)の設立とともに、その首席政務官として、日本政府から派遣された。15カ月の期間、コソボで国連職員の生活を送った。UNMIKの国連事務総長代表は、今フランスの外相をしているクシュネール氏であった。私は、クシュネール代表の隣の事務室で、彼のチームの一員として仕事をしながら、紛争直後のコソボの数えきれないほどの課題をつぶさに見てきた。そうした課題の最も重要なものの一つが、小型武器の回収であった。
コソボ紛争の解決とともに、不要となった小型武器を放置すれば、また雲霞のごとく、これらの武器が取り引きされて、周辺地域に流れ出す。それは、隣の地域に、紛争を輸出することと同じだ。だから、これ以上の紛争の連鎖を防ぐため、小型武器の回収と、国境からの流出を食い止めることが緊急かつ必須の課題であった。コソボに進出し駐留していたNATO軍による国連平和維持軍(KFOR軍という名称であった)が、その任務を実施した。コソボ領内で小型武器の摘発、回収を進めるとともに、国境から外への流出を出来る限り阻止した。そして、それは成功を収めたと思う。
なぜなら、隣国のマケドニアでの民族紛争を、未然に食い止めたからだ。マケドニアでは、セルビア系のマケドニア人と、コソボの人と同じ系統のアルバニア人が、言葉も違うし宗教も違って、しっくり行っていなかった。現実に、何度も両方の勢力の間で衝突が起こっていた。アルバニア人の民族解放団体も存在した。もしここに、小型武器が流れ込めば、民族紛争に発展していたかもしれない。でも、結局、本格的な紛争には発展せず、悲劇は食い止められた。これには、小型武器のコソボからの流出、マケドニアへの流入を、徹底的に取り締まったことが大きく寄与した。バルカン半島の他の地域での教訓は生かされた。
アフリカでも、不幸にして、ほうぼうに同じ現象がみられる。そうした紛争の例については、また詳述する機会があろう。コートジボワールの隣、リベリアやシエラレオネにおいて、1990年代を通じて激しい内戦が繰り広げられ、大量の小型武器が使われた。これらの国々で和平が成立するととともに、これらの小型武器が不要になり、それがコートジボワールに流れ込んできた。特に、ここマンを中心とする西部地域は、リベリアと国境を接している地域だ。小型武器が、国境を越えて、社会にたくさん入り込んでしまっている。
小型武器は、憎悪を増幅する道具である。社会を害してでも自分の欲望を満たそうという誘惑に、手を貸す道具である。部族対立や、宗教対立や、土地や水をめぐる対立が、簡単に血で血を洗う暴力闘争に発展してしまう。そういう道具が、ほうぼうに散乱しているだけで、その地域は紛争に脆弱になってしまう。だから今、紛争が終わった今こそ、小型武器を捨てよう、と人々に呼び掛けることが重要なのだ。
(続く)
国連軍縮部で小型武器関連のプロジェクトを担当している益子です。国連では不法取引規制などの供給側に立った取組みを進めており、2001年に採択された国連小型武器行動計画の履行の支援を行っています。これだけではなく、小型武器を必要としない社会を作ることはもっと重要です。殴り合いで済む諍いを互いに殺し合う紛争に昇華させてしまう、社会を破壊する道具なのです。紛争後地域で若者が再び銃を取ることがない様、粘り強く教育・啓蒙をしていく活動は大変に有意義です。