ボンゴ大統領が、6月8日に73歳で逝去した。このことに、どうして時代の転機を感じるのか。
ボンゴ大統領は、1935年に仏領赤道アフリカ、現在のガボンの片田舎に生まれた。7歳で父を亡くし、12歳で母を亡くしてから、叔父に連れられてブラザビルに出てきた。そこで郵便局に勤めるうち、政治活動に身を投じるようになる。ガボンが1960年に独立した後、初代レオン・ムバ大統領に見出され、ボンゴは彼の側近となる。
レオン・ムバ大統領は、1964年にクーデタが起こって、危うく権力を奪われそうになったが、ボンゴは彼とともにこの難局を乗り切った。1965年に、レオン・ムバ大統領はボンゴを閣僚に任じ、次いで1966年に副大統領に任命した。1967年、レオン・ムバ大統領が死去すると、憲法上の規定により、副大統領であったボンゴが第二代大統領に昇格した。このとき、ボンゴ、弱冠32歳。
それから先月まで、ボンゴ大統領はずっとガボン大統領の職を続けてきた。だから、41年に及ぶ、長い治世であった。非民主的な独裁を敷いてきたから、というわけではない。憲法に従って、ちゃんと大統領選挙を行っている。1993年の選挙では、51%の得票で、なんとか大統領を勝ち取ったほどである。もちろん、ガボンには石油が出たという利点があったということはいえよう。ふんだんな国庫収入を、国民に分配すれば、支持を維持することができた。しかし、ボンゴ大統領には、さらに強力な支持母体があったのである。それは、フランスである。
初代大統領のレオン・ムバは、ガボン独立にあたって、フランスのドゴール大統領が、ガボンの仏権益を維持するために指定した人物であった。だから、レオン・ムバ大統領に対するクーデタが起こったとき、フランスは直ちに在アフリカの軍隊を、ガボンの首都リーブルビルに送り込んで、反乱軍を鎮圧したのである。そのレオン・ムバ路線を、ボンゴが継承した。ボンゴも、フランスに選ばれた人間であった。ボンゴは、ガボン独立時には、フランス軍で兵役に就いており、フランスにいた。そこで、フリーメーソンに加入している。
ボンゴ大統領とフランスをつなぐ人物が、2人いた。一人はコートジボワールのウフエボワニ大統領である。ボンゴは大統領になるや否や、彼に教えを請うようになる。ウフエボワニ大統領は、フランスとの協力のもとで国を経営していくという強固な信念を持っていた人であり、ボンゴ大統領はこのウフエボワニ主義を、忠実に学んだ。1968年にナイジェリアでビアフラ紛争が発生したとき、ウフエボワニ大統領の指示に従って、ビアフラの分離独立派に軍事支援したことは有名である。
もう一人は、フォカール(Jacques Foccart)というフランス人である。フォカールは、ドゴール大統領のもとでアフリカ問題の大統領補佐官をして以来、歴代大統領、とくに右派ゴーリストの大統領に対して、フランスの対アフリカ政策のお膳立てをしてきた。ミッテラン社会党政権の間も、シラク・パリ市長(当時)を通じて、アフリカ諸国との関係を繋いだ。そしてそのシラク市長は、ミッテラン大統領の下で首相となり(1986年。左派大統領の下で右派首相という「コアビタシオン」)、さらに大統領となった(1995年~2007年)。フランス政府とアフリカとの仲介は、フォカールが1997年に死去するまで、フォカール自身の手に委ねられてきた。
フランスが、旧仏領アフリカの諸国との関係を維持してきたのには、こうした個人的な人脈の、強固な基礎を大事にしたからという背景もある。それは、両者の二人三脚の協力関係でもあり、片面、親分子分の依存と保護の関係でもあった。だから、功罪両方ある。こうしたフランスとアフリカとの関係を表す、「フランサフリック(Françafrique)」という言葉がある。これは、フランス(France)という単語と、アフリカ(Afrique)という単語を合成したものであるのは見てのとおりであるが、同時に「金まみれのフランス(France à fric)」という掛詞になっている(「fric」は俗語でお金の意)。両者の間に、資金のやり取りを通じた癒着がある、という揶揄がある。
この「フランサフリック」を批判する人々から見れば、コートジボワールのウフエボワニ大統領とフランスのフォカールは、永きにわたって「フランサフリック」」の首謀者であった。また、コートジボワールとフランスの二国間関係は、その屋台骨であった。ウフエボワニ大統領は、国を治める上で、フランスの力を大いに活用した。フランスもコートジボワールの力を必要とした。
フランスとの協力関係を重視する指導者に率いられたアフリカ諸国は、ウフエボワニ大統領のコートジボワールのほかにも、いくつもあった。しかし、そういう独立当時以来からの、フランスと緊密な関係にある大統領たちも、だんだん死去して消え、新しい世代の政治指導者に代わっていった。「フランサフリック」を体現する世代のアフリカの大統領として、最後まで残っていたのは、ガボンのボンゴ大統領であった。
そして、そのボンゴ大統領が逝去した。これは、「フランサフリック」の最後のページが閉じられたことを意味するのか。アフリカの今後を占う上で、興味ある視点である。
ボンゴ大統領は、1935年に仏領赤道アフリカ、現在のガボンの片田舎に生まれた。7歳で父を亡くし、12歳で母を亡くしてから、叔父に連れられてブラザビルに出てきた。そこで郵便局に勤めるうち、政治活動に身を投じるようになる。ガボンが1960年に独立した後、初代レオン・ムバ大統領に見出され、ボンゴは彼の側近となる。
レオン・ムバ大統領は、1964年にクーデタが起こって、危うく権力を奪われそうになったが、ボンゴは彼とともにこの難局を乗り切った。1965年に、レオン・ムバ大統領はボンゴを閣僚に任じ、次いで1966年に副大統領に任命した。1967年、レオン・ムバ大統領が死去すると、憲法上の規定により、副大統領であったボンゴが第二代大統領に昇格した。このとき、ボンゴ、弱冠32歳。
それから先月まで、ボンゴ大統領はずっとガボン大統領の職を続けてきた。だから、41年に及ぶ、長い治世であった。非民主的な独裁を敷いてきたから、というわけではない。憲法に従って、ちゃんと大統領選挙を行っている。1993年の選挙では、51%の得票で、なんとか大統領を勝ち取ったほどである。もちろん、ガボンには石油が出たという利点があったということはいえよう。ふんだんな国庫収入を、国民に分配すれば、支持を維持することができた。しかし、ボンゴ大統領には、さらに強力な支持母体があったのである。それは、フランスである。
初代大統領のレオン・ムバは、ガボン独立にあたって、フランスのドゴール大統領が、ガボンの仏権益を維持するために指定した人物であった。だから、レオン・ムバ大統領に対するクーデタが起こったとき、フランスは直ちに在アフリカの軍隊を、ガボンの首都リーブルビルに送り込んで、反乱軍を鎮圧したのである。そのレオン・ムバ路線を、ボンゴが継承した。ボンゴも、フランスに選ばれた人間であった。ボンゴは、ガボン独立時には、フランス軍で兵役に就いており、フランスにいた。そこで、フリーメーソンに加入している。
ボンゴ大統領とフランスをつなぐ人物が、2人いた。一人はコートジボワールのウフエボワニ大統領である。ボンゴは大統領になるや否や、彼に教えを請うようになる。ウフエボワニ大統領は、フランスとの協力のもとで国を経営していくという強固な信念を持っていた人であり、ボンゴ大統領はこのウフエボワニ主義を、忠実に学んだ。1968年にナイジェリアでビアフラ紛争が発生したとき、ウフエボワニ大統領の指示に従って、ビアフラの分離独立派に軍事支援したことは有名である。
もう一人は、フォカール(Jacques Foccart)というフランス人である。フォカールは、ドゴール大統領のもとでアフリカ問題の大統領補佐官をして以来、歴代大統領、とくに右派ゴーリストの大統領に対して、フランスの対アフリカ政策のお膳立てをしてきた。ミッテラン社会党政権の間も、シラク・パリ市長(当時)を通じて、アフリカ諸国との関係を繋いだ。そしてそのシラク市長は、ミッテラン大統領の下で首相となり(1986年。左派大統領の下で右派首相という「コアビタシオン」)、さらに大統領となった(1995年~2007年)。フランス政府とアフリカとの仲介は、フォカールが1997年に死去するまで、フォカール自身の手に委ねられてきた。
フランスが、旧仏領アフリカの諸国との関係を維持してきたのには、こうした個人的な人脈の、強固な基礎を大事にしたからという背景もある。それは、両者の二人三脚の協力関係でもあり、片面、親分子分の依存と保護の関係でもあった。だから、功罪両方ある。こうしたフランスとアフリカとの関係を表す、「フランサフリック(Françafrique)」という言葉がある。これは、フランス(France)という単語と、アフリカ(Afrique)という単語を合成したものであるのは見てのとおりであるが、同時に「金まみれのフランス(France à fric)」という掛詞になっている(「fric」は俗語でお金の意)。両者の間に、資金のやり取りを通じた癒着がある、という揶揄がある。
この「フランサフリック」を批判する人々から見れば、コートジボワールのウフエボワニ大統領とフランスのフォカールは、永きにわたって「フランサフリック」」の首謀者であった。また、コートジボワールとフランスの二国間関係は、その屋台骨であった。ウフエボワニ大統領は、国を治める上で、フランスの力を大いに活用した。フランスもコートジボワールの力を必要とした。
フランスとの協力関係を重視する指導者に率いられたアフリカ諸国は、ウフエボワニ大統領のコートジボワールのほかにも、いくつもあった。しかし、そういう独立当時以来からの、フランスと緊密な関係にある大統領たちも、だんだん死去して消え、新しい世代の政治指導者に代わっていった。「フランサフリック」を体現する世代のアフリカの大統領として、最後まで残っていたのは、ガボンのボンゴ大統領であった。
そして、そのボンゴ大統領が逝去した。これは、「フランサフリック」の最後のページが閉じられたことを意味するのか。アフリカの今後を占う上で、興味ある視点である。
「フランサフリック」という言葉が過去のものになるのかどうか、ご指摘のとおり、重要な視点ですね。